夕暮れ時の淡い琥珀色の光が、リビングのレースのカーテンを透かして、フローリングの床に細長い影を落としていた。
白雪家のリビングは、一般的な分譲マンションのそれでありながら、どこか洗練された空気を纏っている。
小綺麗に整えられた北欧風のローテーブル、壁に掛けられたモダンなファブリックパネル、そして何より、マガジンラックに整然と並べられた国内外の最新ファッション雑誌の数々。
それらすべてが、この家の主の一人である母親・恵の強烈な趣味とこだわりを無言の内に主張していた。
その静まり返った空間の真ん中、大きめの三人掛けソファの上で、まつりは小さく丸くなって身を横たえていた。
学校から帰宅し、自分の部屋へ行く気力すら湧かないまま、カバンを床に放り出してソファに倒れ込んだのが、およそ一時間前のことだ。
現実という名の荒波、あの重苦しい教室の空気の中で「透明人間」を演じ続けることは、まつりが思っている以上に、彼のひ弱な精神と肉体のリソースをゴリゴリと削り取っていく。
鞄の中に大切にしまい込まれた『AI-CONNECT』のパンフレットの存在が、彼の胸の奥で微かな熱を放ち続けていたが、それを開いてじっくりと読み込むだけの体力すら、今の彼には残されていなかった。長い前髪が顔にかかるのも構わず、白のカーディガンの袖に顎を埋めるようにして、まつりは深い泥のような眠りに落ちていた。
結婚前はアパレル関係の企画職として働き、現在も大手セレクトショップのパートとして現役でトレンドの最前線に立ち続ける彼女にとって、服を褒められることは、自らの生き様を肯定されることと同義だった。
そして、そのDNAを濃縮して受け継いだまつりもまた、彼女のコーディネートの凄さを、誰よりも正確な解像度で理解できる最高の「理解者」だったのだ。
まつりはソファの上で、しばらくの間、キッチンの母の後ろ姿を見つめていた。
彼女が楽しそうに夕食の準備を進める背中を見ている内に、鞄の中で眠っている「あの紙」の重みが、再び彼の脳裏にフラッシュバックした。
無駄にある行動力。一度決めたら、死ぬ気で突き進む真面目さ。
学校では『白雪姫』と嘲笑され、何もできない、何もないと諦めかけている少年が、今、人生で最も大きな一歩を踏み出すための勇気を、その細い胸の内で必死に燃やそうとしていた。
まつりはソファから立ち上がると、床に置いてあった自分のカバンへ手を伸ばした。
中から、慎重に、細心の注意を払って、駅前で貰ったばかりの『AI-CONNECT』の公式パンフレットを取り出す。コート紙の冷たい質感が、緊張で少し強張った彼の指先に心地よい緊張感を与えた。
パンフレットを両手でしっかりと握りしめ、まつりは一歩、また一歩と、キッチンカウンターで野菜を刻んでいる恵の元へと近づいていった。その歩調はオドオドとしていたが、芯にある意志だけは決してブレていない。
「ねぇ、お母さん。明日さ……」
まつりの小さな声に、トントントンとリズムよく包丁を動かしていた恵の手が止まった。彼女は不思議そうに首を傾げ、包丁を持ったまま息子の方を振り返る。
「明日、土曜日だし……もし、もしよかったら、なんだけど。隣町の、特設会場で行われる、先行販売に……一緒に、行ってくれない、かな?」
まつりは、一気にそこまで言い切ると、まるで免罪符を掲げるかのように、両手でパンフレットを恵の目の前に差し出した。
前髪の隙間から覗く彼の瞳は、ひどく真剣で、同時に、拒絶されることを恐れるウサギのように細かく震えている。
恵は、差し出されたパンフレットの表紙を上から下まで、じっと見つめた。
そこには、きらびやかな3Dグラフィックで描かれた美少女アバターたちと、サイバー感溢れるネオンカラーのロゴがデカデカと印刷されている。
「……んー? これって、最近ネットの広告でよく見るやつよね? あの、バーチャルの世界でアイドルになるとかいう、最新のゲームの……」
恵は包丁をまな板の上に置くと、エプロンで手を拭きながら、少しだけ困ったような、つまらなさそうな苦笑いを浮かべた。
「ごめんね、まつり。お母さん、こういうデジタルなゲームって、どうしても興味が持てないのよね。ボタンがいっぱいあって難しそうだし、ほら、画面をずっと見てると目がチカチカしちゃうじゃない? 明日はパートのシフトは入ってないけど、ちょっと家事も溜まってるし、お洋服のアイロンがけもしなきゃいけないし……」
つれない言葉。それは、まつりにとってある程度は予想できていた、極めて真っ当な「大人の反応」だった。
ゲームに疎い母親が、最先端のVRアイドルゲームの先行販売イベントに、わざわざ土曜日の朝から付き合ってくれるはずがない。
「そっか……。うん、ごめんね。無理に誘っちゃって……」
まつりは、いつものように肩をすぼめ、カメが甲羅に閉じこもるようにして身体を縮こまらせた。差し出していた両手をゆっくりと引き戻し、パンフレットを胸元で小さく畳もうとする。
やっぱり、自分みたいな何もない人間が、一歩を踏み出そうとするなんて間違っていたんだ。一人で行く勇気もないくせに、お母さんを巻き込もうとするなんて──。
ネガティブな思考の渦が、彼の脳内を急速に灰色に染め上げていく。
諦めて自分の部屋に戻ろうとしたその時、まつりは、パンフレットの裏表紙に記載されていた、先行販売の「特典データおよび参加企業一覧」のテキストが、何気なく目に留まった。
そこには、数多くの有名企業のロゴが並んでいた。
まつりは、本当に、何の意図もなく、ただの独り言として、その中の一つの名前をぽつりと口にした。
「え? ……『シャドー・ペトリ』も、このゲーム限定の、コーデカード出すんだ……」
その、消え入りそうな小さな呟きが、リビングの空気に放たれた、まさにその瞬間だった。
──シュパッ!!!
「ひゃうっ!?」
空気の破裂音かと思うほどの、凄まじい速度の風がまつりの目の前を駆け抜けた。
次の瞬間、まつりが両手で大切に持っていたはずのパンフレットが、彼の指先から完全に消失していた。
あまりの衝撃と、何が起こったのか理解できない恐怖に、まつりは短い悲鳴を上げてその場でのけぞった。
オドオドと視線を上げると、そこには、先ほどまでの「ゲームに興味のない優しいお母さん」の姿は微塵もなかった。
恵は、キッチンカウンターを回り込み、まつりの目の前、わずか数十センチメートルの距離にまで音もなく肉薄していた。
そして、まつりの手から鮮やかにかっ攫ったパンフレットを、プロのハンターのような鋭い眼光で、文字通り穴が開くほどに見つめていたのだ。
彼女の視線が固定されているのは、裏表紙の最下部、漆黒の背景にシルバーの箔押しで刻まれた、洗練された大文字のロゴ。
【SHADOW PETRI】。
それは、世界のモード系ファッションを牽引する、フランス発祥の歴史ある老舗最高級ブランドの名前だった。
「……お、お母さん……?」
まつりが怯えながら声をかけるが、恵からの返答はない。彼女の呼吸は明らかに速くなり、その綺麗な瞳には、まるで獲物を見つけた肉食獣のような、尋常ならざるパッションの炎がメラメラと燃え盛っていた。
『シャドー・ペトリ』。
それは、恵にとって単なる憧れのブランドという枠を超えた、半ば「信仰」に近い対象だった。
結婚前、アパレル会社でデザインの壁にぶち当たっていた若き日の彼女が、その革新的なシルエットと絶対的な美学に救われ、今でも彼女のクローゼットの一等地にそのコレクションが家宝のように眠っている、人生のバイブル。
彼女が今この瞬間も、ボロボロになるまで手入れをしながら十年間片時も離さずに愛用している長財布もまた、その『シャドー・ペトリ』のものだった。
「シャドー・ペトリが……あの、伝統と格式の絶対王者が、バーチャルの、ゲームの世界に、公式に参入するっていうの……っ!?」
恵の声は、小刻みに震えていた。しかしそれは恐怖ではなく、圧倒的な「武者震い」だった。
「限定の、コーデカード……? データとはいえ、あのペトリのデザイナー陣が、この、アイコネという空間のためだけに、専用の新作コレクションを書き下ろしたっていうことよね……!? これってつまり、バーチャルゲームというプラットフォームが、ただの子供の遊び場じゃなくて、世界のトップファッションの『最前線』になったっていう、明確な証明じゃないの……っ!!」
「え、あ、うん……多分、そういうコンセプトのイベント、なんだと、思う……けど……」
まつりは、母親のあまりの熱量と、一瞬にして豹変した空気に完全に圧倒され、コクコクと壊れた玩具のように首を振ることしかできなかった。
恵は、パンフレットをガシッと両手で掴み直すと、勢いよく顔を上げ、まつりの目を真っ直ぐに見据えた。その距離、わずか数センチメートル。彼女の鼻息が、まつりの長い前髪を揺らすほどの至近距離だ。
「何してるの? 明日行くわよ、まつり!!!」
リビングの天井が震えるほどの、圧倒的な大音量。
そこには、家事が溜まっているとか、アイロンがけがあるとか言っていた、先ほどまでのつれない主婦の姿は影も形もなかった。あるのは、トレンドの最先端を察知し、そこに命を懸けて突撃しようとする、一人の狂狂的なアパレル人間の顔だけだった。
あまりの変わり身の早さに、まつりの脳の処理スピードは完全に限界を迎えた。彼は口を大きく開けたまま、ひっくり返った声で叫んだ。
「変わり身!! はやっ!??!??」
「早いも遅いもないわよ! ペトリが動くのよ!? クラシカルエレクトリカルだって名前があるじゃない! これはアパレル業界のパラダイムシフトよ! 遊びじゃないの、これは最前線の『戦争』よ!! 朝の何時から並べばいい!? 先行販売の整理券は何時から配るの!? 調べるわよ、まつり! パソコン持ってきて!!」
「えっ、あ、う、うん! す、すぐ持ってくる……っ!」
恵の怒涛の指示に、まつりは持ち前の無駄な行動力を、今度は「母親の暴走に追いつくため」にフル稼働させ、自室へと脱兎のごとく駆け出した。
現実では不器用で、要領が悪くて、独りぼっちの『白雪姫』。
けれど、彼のすぐ隣には、彼の想像を遥かに超えた速度で、現実の枠組みをぶち壊していく最高の、そして最凶の相棒がいた。
リビングに残された恵は、パンフレットを愛おしそうに抱きしめながら、「バーチャルのドレス……一体、どんなカッティングなのかしら……!」と、すでにまだ見ぬ電子の海へとその意識を飛ばし始めていた。
白雪家にとっての、そして『ラビ』という一人のアイドルの誕生へと繋がる導火線は、こうして、あまりにもコミカルに、けれど絶対の確信を持って、激しく燃え上がったのである。
【SHADOW PETRI】は作中世界にある架空のブランドです。
ここまでお読みいただきありがとうございます!少しでも先が気になったら、お気に入り登録や評価をいただけると執筆の励みになります!