五月の朝の空気は、まだ夜の冷気をかすかに孕んでいて、肌寒さに身震いするほどだった。
午前六時三十分。白雪まつりは、隣町のターミナル駅から少し離れた場所にある大型イベントホールの赤レンガ敷きの広場に立っていた。
まだ眠気の抜けない目をこすりながら、首元まで白のカーディガンのジッパーを引き上げる。
しかし、その寒さとはまったく別の原因で、まつりの身体は小刻みに震えていた。
彼の、そして隣に立つ母親の視線の先に広がっていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な「人間の海」だった。
「……なに? この行列……?」
まつりの口から、引きつった呟きが漏れた。
広場を埋め尽くしているのは、何百、いや、下手をすれば千人を超えているであろう凄まじい長蛇の列だった。
列は広場の植え込みを縫うようにして何重にも蛇行し、ホールの外壁に沿ってどこまでも伸び、最終的には隣のブロックの歩道にまで達している。
まだ太陽が完全に昇りきっていないというのに、その空間だけが異様な熱気と、徹夜明け特有の殺気立ったオーラに満ち満ちていた。
折りたたみ椅子に深く腰掛けてスマートフォンを睨みつける者、何冊ものパンフレットを大事そうに抱え込んで仮眠をとっている者、グループで熱っぽく語り合っている者。
「先頭の人……一体、何時から並んでるの……?」
恵もまた、その光景を前にして、いつもより一段低い声を漏らしていた。
普段の彼女なら「お祭り騒ぎね!」と真っ先にノリよくはしゃぐところだが、流石にこの、現実の限界を超えたような熱狂の質量には圧倒されたようだった。
「おひとり様、お一つずつとさせてください! 列を崩さないでください! 今から並ばれても、限定カード付きポテトチップス、およびウェハースは、予定数に達してご購入いただけない可能性がございます──っ!」
広場のあちこちで、メガホンを持ったスタッフたちが悲鳴のような声を張り上げ、必死に群衆を捌こうとしていた。彼らの顔は一様に青白く、目の下には深い隈が刻まれている。
昨日からの準備と、予想を遥かに超えて押し寄せた人間の濁流に、完全にキャパシティをオーバーしているのは一目瞭然だった。
スタッフの必死なアナウンスを遠くで聞きながら、恵はふっと息を吐き、どこか呆れたような笑みを浮かべた。
「あらあら、スタッフさんも大変ね。完全に読みが甘かったのかしら。……御愁傷様ね」
メガホンを握りしめて声を枯らす若者を、恵は実につれなく、完全な他人事として眺めていた。つい昨日、シャドー・ペトリの名前を聞いた瞬間に狂狂的な変わり身を見せて大騒ぎした張本人とは思えないほど、現在の彼女はどこか冷淡で、一歩引いた「観察者」のスタンスを保っている。
ゲームのイベントという、自分のテリトリー外の空間に対する、大人の余裕、あるいは無関心とも言える態度だった。
しかし、その隣で、まつりの胸の奥の火種は消えていなかった。
これほどの人間が並んでいる。これほどの熱狂が、まだ始まってもいない一つのゲームのために集まっている。
その事実が、彼の内に秘められた「無駄な行動力」と、いざという時の「勇敢さ」を激しく刺激していた。ここで引き下がったら、きっと僕は一生、あの最前線の隅っこの席で『白雪姫』と呼ばれたまま、何も残せない透明人間として終わってしまう。
まつりは長い前髪の奥で、ぎゅっと唇を噛み締めた。そして、オドオドとしたいつもの猫背をほんの少しだけ伸ばし、母親の手を引くようにして一歩を踏み出した。
「……うん、並ぼうか。お母さん、最後尾あっちみたいだから、急がないと本当に売り切れちゃう」
「え? 本気でこれに並ぶの、まつり? 最後尾なんて、あのはるか向こうの信号の先よ?」
「並ぶよ。ここまで来たんだから、手ぶらじゃ帰れない」
その声には、不思議な果断さが宿っていた。要領も悪く、ドジで、いつも縮こまっている少年が、夢の尻尾を掴むためだけに、底知れないド根性を発揮している。
恵は息子のその「芯の強さ」に一瞬だけ目を丸くしたが、「そこまで言うなら、お母さんも付き合ってあげるわよ」と、楽しげに足調子を合わせた。
二人は歩道を早足で進み、蛇の尻尾のさらに先に位置する、列の本当の最後尾へと滑り込んだ。
周りを見渡せば、自分たちと同じように息を切らせて駆け込んでくる若者や、ブランドのロゴが入ったバッグを肩にかけた熱心な若者たちが、次々と背後に並んでいく。
ようやく位置を確保し、一息ついたところで、恵が周囲の様子を観察しながら、不思議そうに首を傾げた。
「それにしても、まつり。お母さん、やっぱりどうしても不思議なんだけど……。この、アイコネ? とかいうゲームの発売日って、確か一ヶ月前でしょ? なんでまだ遊べもしないゲームの、ただのお菓子を買うために、こんな朝早くから、これだけの人間が暴動一歩手前みたいな行列を作っているわけ?」
ゲームに疎い恵にとって、現状は理解の範疇を超えていた。彼女の認識では、これは「ゲームの発売日の一ヶ月前に行われている、よく分からない販促イベント」に過ぎないのだ。
まつりは、鞄から昨日貰ったパンフレットを取り出し、それを恵に見せながら、静かに、けれど丁寧に解説を始めた。
「お母さん、ゲームの発売……じゃなくて、サービス開始が一ヶ月前なのは合ってるよ。でもね、これはただのお菓子の先行販売じゃないんだ。このポテトチップスとウェハースにはね、ゲームのサービス開始直後からゲーム内で実際に使える『限定コーデカード』が、おまけとして付いてくるんだよ」
「限定コーデカード……。昨日、ペトリの名前があった、あれね?」
「うん。この『アイコネ』っていうゲームは、現実にある有名ブランドがデザインした、本物のコレクションアイテムを、そのままアバターに着せることができるのが最大の売りなんだ。データだけど、ただの偽物じゃない。本物のブランドの名前やロゴが使われていて、そのデザイナーたちが監修した、このゲームのためだけの『最先端のデジタルアパレル』なんだよ」
まつりの言葉に、恵の眉がピクリと跳ねた。
「現実にあるブランドのデザインを、そのまま……?」
「そうだよ。だから、みんな必死なんだ。ネットでのサービスが始まると、世界中から何百万人っていうユーザーが一斉にログインしてくる。その中で、この先行販売でしか手に入らない、老舗ブランドの限定衣装を着ているっていうだけで、スタートダッシュの注目度がまったく変わってくるんだ。無名の新人アイドルが、一瞬で誰かの目を引くための、最強の『武器』になるんだから」
まつりはパンフレットのページをめくり、昨日、恵の目の色を変えさせたあのページを指し示した。
そこには、ただ文字が並んでいるだけではない。各ブランドが今回の『アイコネ』参入に向けて描き下ろした、アバター用の衣装デザインのコンセプトアートが、美しい高精細な印刷で掲載されていた。
伝統と格式を誇る、最高級モードブランド『シャドー・ペトリ』の、夜の闇を溶かし込んだような圧倒的なシルエットの漆黒のドレス。
それだけではない。その隣には、少女たちの圧倒的な支持を集める、ゴシック&クラシカルの雄『クラシカルエレクトリカル』の、繊細なレースとフリルをこれでもかとあしらった、おとぎ話から抜け出してきたかのような絢爛たるボンネットドレス。
さらには、ストリート系の最先端を走るネオ・サイバーブランドや、伝統的な和のモチーフを現代的に解釈したハイカジュアルブランドまで、名だたるトップブランドのロゴと、その誇り高きデザインの数々が、まるで最先端のファッション誌のグラビアのようき美しく並んでいた。
「……だから、ブランドの名前やロゴが使われるのね……」
恵の口から漏れたのは、先ほどスタッフに向けて放ったような、冷淡な他人事の声ではなかった。
低く、深く、そして腹の底から湧きあがるような、本物の「戦慄」を含んだ声。
彼女の瞳が、みるみるうちに変化していく。
それは、単に「息子の趣味の付き添いで、朝早くから並ばされて退屈している母親」の目では断じてなかった。
長年アパレルという修羅の世界に身を置き、服の持つ力、デザインの持つ魔力、そして『ブランド』という二文字が人間にどれほどの狂気をもたらすかを誰よりも熟知している、「プロのアパレル人間のガチの目」だった。
彼女の鋭い視線は、パンフレットのアートワークに描かれた、ドレスのドレープの一本、フリルのカッティングの一ミリにまで注がれていた。
ゲームのデータだからと妥協された形跡は一切ない。むしろ、現実の布地という物理的な制約から解き放たれたことで、デザイナーたちの脳内にある「究極の理想のシルエット」が、電子の光を借りて完璧に具現化されている。
「これは……模造品なんかじゃないわ」
恵は、パンフレットを凝視したまま、震える指先で自分の顎を触った。
「これは、現実のファッション業界が、バーチャルという新しいキャンバスを見つけて、本気で市場を開拓しに来たのよ。データだからこそ、汚れも、劣化も、体型の限界すらも超えて、ブランドの『美学』を100%表現できる……。まつり、このゲーム、本当に年齢も性別も関係なく、誰でもこの服を着てステージに立てるのね?」
「うん、ダイブ型だから、精神が同調すれば、どんな姿にだってなれるって……」
「……そう。だったら、これは紛れもない『最前線』だわ。私が長年追いかけてきた流行の、そのさらに先にある、未開のパラダイスよ」
恵の顔に、不敵な、けれど最高にゾクゾクするような美しい笑みが浮かんだ。
この隣町の特設会場に渦巻いている狂気的な熱狂。それは、ゲームオタクたちの閉じたコミュニティの騒ぎなどではなかった。新しい時代の美学、新しい時代の衣服の価値観が誕生する瞬間の、世界規模の産声だったのだ。
この瞬間、白雪恵の中で、何かのスイッチが完全に切り替わった。
この凄まじい熱狂を目の当たりにした経験が、彼女の脳内で一つの「爆発」を起こす。
ゲームが始まると同時に、長年勤め上げた大切なパートを、ズレた生真面目さで完璧に引き継ぎをして退職し、息子と共にバーチャル世界へプロデューサーとしてフルダイブする──そんな、誰もが正気を疑うような大暴走へと繋がる絶対の導火線に、今、強烈な火が点いたのだ。
そんな母親の劇的な内的変化を、まつりは隣で正確に感じ取っていた。けれど、彼はそれを恐れるどころか、どこか誇らしく、そして心地よい連帯感として受け止めていた。
まつりは、恵の足元から視線を上げ、彼女の全体のコーディネートを改めて眺めた。そして、少し照れくさそうに、前髪を人差し指でいじりながら言った。
「……あの、お母さん。家を出てくる時、すごく急いでたからバタバタしてて気付かなかったけど、さ」
「ん? 何よ、まつり」
「その格好、すごくいいね。かっこいいと思う」
恵は、カチリと洗練されたスタイリングのワイドパンツの上から、上質なハニーベージュのトレンチコートを無造作に羽織っていた。朝の冷たい風を受けて、コートの裾がパタパタと綺麗に揺れている。
ただの防寒着として着てきたはずなのに、彼女の卓越したプロポーションと着こなしのセンスのせいで、まるでパリのストリートスナップから抜け出してきたかのような、圧倒的な「こなれ感」を醸し出していたのだ。
不器用で、自信がなくて、学校ではオドオドしているまつりだけど。
母親のファッションに対する姿勢や、その美しさを認めることに関しては、彼はいつだって真っ直ぐで、真面目だった。
恵は、息子の突然の言葉に一瞬だけ面食らったように瞬きをしたが、すぐにいつもの、ノリの良い親友のような笑顔を取り戻して、まつりの頭をぐしゃぐしゃとかき回した。
「ふふ、ありがと! 流石はお母さんの見習いファッショニスタね。防寒用のトレンチだけど、あえてボタンを全部外して、インナーのドルマンシャツのボリュームを見せるのが、今日の私の小さな『こだわり』よ」
「あはは、痛い、髪の毛ボサボサになっちゃうよ……」
まつりは首をすくめて笑った。
周囲を包む熱狂は、なおもその温度を上げ続けている。スタッフの悲鳴は高まり、列はさらに長く伸びていく。
現実の世界では、僕はただの『白雪姫』だ。頭も悪くて、要領も悪くて、何もない、底辺の高校生だ。
だけど、この最前線の熱気の真ん中で、僕の隣には、最新の流行を誰よりも愛する、最強の母親がいる。
パンフレットに描かれた、真っ白な雪うさぎのようなアバターの姿が、まつりの瞳の奥で、朝日に照らされて一瞬、きらりと輝いたような気がした。
冷たい朝の空気の中、二人の乗った船は、まだ見ぬ電子の海の巨大な渦へと、確かにその舵を切り進めていた。
プロローグの幕が下りるその瞬間まで、まつりは胸の中の「ワチャワチャ」とした高鳴りを、ただ静かに、けれど絶対に消えない炎として、抱きしめ続けていた。
【クラシカルエレクトリカル】は作中世界にある架空のブランドです。
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