雪結(ユキネ)   作:旧作

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第六話 密着の「アイコネ講座」

 

 

 

 五月の朝というものは、春の陽気という言葉の響きから想像されるよりも、遥かに冷酷で容赦がない。

 

 

 特に、コンクリートと赤レンガで固められた駅前の広場は、吹き抜けるビル風のせいでまるで巨大な冷蔵庫の底のようだった。

 

 

 

 太陽の光は確かに世界の端から差し込み始めているというのに、その光線にはまだ地表を温めるだけの質量がなく、ただ白く濁った光が寒々しく空間を照らしているだけだった。

 

 

 

 白雪まつりと、その母親である恵の二人が滑り込んだ長蛇の列は、それから三十分が経過しても、一ミリたりとも、本当に文字通りピクリとも微動だにしなかった。

 

 

 

「……動かない、ね」

 

 

 

 まつりは、白のカーディガンの袖の中に完全に両手を引っ込めたまま、亀のように首を縮めて呟いた。

 

 

 

 吐き出した息が、うっすらと白い煙となって前髪の隙間から立ち上り、すぐに冷たい風にさらわれて霧散していく。

 

 

 

 彼らの前方には、何重にも折り返された人間の背中が壁のようにそびえ立っており、後方には、いつの間にか自分たちを遥かにしのぐ数の群衆が、まるで終わりなき悪夢の尾のように続いている。

 

 

 

 列のあちこちから、寒さに耐えかねて足を踏み鳴らす音や、小さく愚痴をこぼす声が聞こえてくるが、全体の構造としては完全に凍りついたモニュメントのようだった。

 

 

 

「本当にねえ。これだけ人間が集まって静止してる空間なんて、アパレルの初売りセールか、この間の国際展示場の動画サービスが主催する日本最大級の参加型サブカルチャーイベントくらいしか見たことないわよ」

 

 

 

「いや、絶対それ、会議だよね。超が付く。行ってみたいけど、僕たち、一度も行ったことない奴だよね 」

 

 

 

 隣に立つ恵は、ハニーベージュのトレンチコートの襟を少し立てながら、余裕を崩さない口調で言った。

 

 

 

 彼女は寒さに顔をしかめることもなく、まるでパリの街角でカフェの順番を待っているかのような、実にお洒落で凛とした佇まいを維持している。

 

 

 

 しかし、その視線はときおり、列のあちこちにいる若者たちの服装や、彼らが持っているカバン、身に付けているアクセサリーへと鋭く向けられていた。

 

 

 

 彼女にとってこの退屈な待ち時間は、見知らぬ人々のファッションセンスを品定めするための格好の「サンプリング時間」と化しているようだった。

 

 

 

 だが、そんな「ガチのアパレル人間」である母親とは違い、まつりにはそこまでの心の余裕はなかった。

 

 

 

 何しろ彼は、学校では誰とも目を合わせられずに最前列の隅っこで縮こまっている、重度のコミュ症だ。

 

 

 

 これほど密度の高い人間の集団の中に放り込まれているだけで、彼の精神的スタミナはゴリゴリと削られていく。

 

 

 

 周囲の話し声や、スマートフォンを操作する無数の指先の動き、それらすべてが、まつりにとっては自分を脅かすノイズのように感じられて仕方がなかった。

 

 

 

(……何か、何かに意識を集中させてないと、この空間の気配に押しつぶされそうだ)

 

 

 

 まつりは、カーディガンのポケットの中で凍えていた右手をおずおずと差し出し、スマートフォンを取り出した。

 

 

 

 画面を立ち上げると、昨日駅前で貰ったパンフレットの表紙が目に浮かぶ。

 

 

 

 彼は、まだ冷たいスマートフォンの画面を指先でなぞりながら、ふと思い立って、手元に持っていた大判パンフレットの裏表紙をひっくり返した。

 

 

 

 そこには、メタリックの意匠で飾られたインフォメーションの隅に、ひっそりと小さなQRコードが印刷されていた。

 

 

 

『アイコネをより深く知るための、初心者向け公式チュートリアル動画はこちら!』という、どこかポップな文言が添えられている。

 

 

 

「……これ、見てみようかな」

 

 

 

 まつりは小さく呟くと、スマートフォンのカメラ機能を使って、そのQRコードをスキャンした。

 

 

 

 数秒のロード時間の後、画面には『AI-CONNECT Official Channel』という文字と共に、スタイリッシュなカウントダウンの映像が流れ始めた。

 

 

 

「まつり? 何してるの?」

 

 

 

 キッチンの横で野菜を刻む時のように、あるいはセレクトショップでマネキンの位置を調整する時のように、自然な、けれど一切の遠慮のない声が頭上から降ってきた。

 

 

 

 恵が、まつりの手元を覗き込もうと、一歩足を踏み出して距離を詰めてきたのだ。

 

 

 

「あ、いや……暇だから、パンフレットの裏にあったQRコードの、アイコネの説明動画を見てみようと思って。……お母さんも、観る?」

 

 

 

 まつりは、画面を遮るように伸びていた長い前髪を少しだけ手で払いながら、スマートフォンを恵の方へと傾けた。

 

 

 

 ゲームのことはよく分からないと言っていた母親だが、昨日『シャドー・ペトリ』の名前を聞いた瞬間のあの狂狂的な変わり身を思えば、このゲームのシステムについて、今のうちに最低限の知識を共有しておくことは決して無駄ではないはずだ。

 

 

 

 何より、このまま沈黙に耐えながら並んでいるよりは、動画の音声に耳を傾けている方が精神的に楽だった。

 

 

 

「あら、公式の動画? 見たい見たい! どんな綺麗なドレスのグラフィックが映るのか、今のうちにチェックしておかなくちゃね」

 

 

 

 恵は嬉しそうに目を輝かせると、「ちょっと失礼」とばかりに、まつりとの距離をさらに縮めてきた。

 

 

 その瞬間。

 

 

 

「……っ!?」

 

 

 

 まつりの身体が、まるで微弱な電流を流されたかのように、硬直した。

 

 

 

 二人の顔が、信じられないほどの至近距離に接近していた。

 恵はまつりの左側にぴったりと身を寄せ、彼の手にある五・五インチのスマートフォンの小さな画面を一緒に覗き込もうとしている。

 

 

 

 そのため、彼女のハニーベージュのトレンチコートの上質な生地が、まつりの着ている白のカーディガンの袖と擦れ合い、生温かい摩擦熱を伝えてくる。

 

 

 

 それだけではない。

 

 

 

 恵の髪から漂う、いつも家で嗅いでいるはずの、けれど現実の冷たい空気の中でより鮮明に際立つ、柑橘系の上品な香水の香りが、まつりの嗅覚をダイレクトに突き刺した。

 

 

 

 さらに、恵が画面を見つめるために顔を傾けたことで、彼女の綺麗な横顔が、まつりの頬のすぐ横、数センチメートルの位置にまで迫っていた。

 

 

 

 現実の学校生活において、半径一メートル以内に人間が近づくだけでパニックを起こしかけるコミュ症の少年である。

 

 

 

 いくら()()()()()()()()()()であり、普段から親友のような距離感で接している相手だとはいえ、屋外の、これほど人間が密集した空間で、完全に「一画面を共有する」ためのゼロ距離密着を敢行されるのは、まつりの貧弱なパーソナルスペースの許容量を遥かに超えていた。

 

 

 

「お、お母さん……っ。ち、近いです……っ!」

 

 

 

 まつりは顔を真っ赤に染め上げ、オドオドとした声を出しながら、無意識のうちに上半身を右側へと斜めにのけぞらせた。

 

 

 

 スマートフォンを持っている右手だけを左側に残し、自分の顔と母親の顔との間に、どうにか最低限の防衛ライン(空間)を確保しようと必死に身をよじる。

 

 

 

 しかし、当の恵は、そんな息子の純情でコミュ症な反応など、一ミリも気にしていない様子だった。

 

 

 

 彼女の意識はすでに、スマートフォンの画面の中で始まった、きらびやかな電子の世界へと完全に没入している。

 

 

 

 まつりののけぞった姿勢に対しても、「もう、画面が遠くなっちゃうじゃない、しっかり持っててよ」とばかりに、平然とした顔でさらに距離を詰め、まつりの右手を自分の左手で下から支えるようにして画面を固定した。

 

 

 

 

「ほら、まつり、始まったわよ。ほらほら、早く見せて」

 

 

「あ、う、うん……」

 

 

 

 母親のその、全く邪気のない、けれど圧倒的な「親友距離感」に完全に押し切られ、まつりはそれ以上身を引くことを諦めた。

 

 

 

 心臓が少しバクバクと騒がしい音を立てているが、それを必死に無視しながら、スマートフォンの画面へと意識を集中させる。

 

 

 

 画面の中では、派手なエフェクトと共に、一つのキャラクターがポップに飛び出してきた。

 

 

 

 それは、丸っこいデジタルなフォルムをした、ウサギともロボットともつかない、不思議なデザインの二頭身のマスコットキャラクターだった。

 

 

 

 頭部には、アイコネのロゴを模したヘッドセットが光っており、画面の真ん中で短い手足をパタパタと動かしながら、妙に甲高い、加工された電子音声で喋り始めた。

 

 

 

『やあやあ、みんな! 次世代VR世界へようこそ! ボクは『アイコネ』の公式ナビゲーターであり、世界中の新人アイドルたちを導くハッピーマスコット、──【ドルクト】だよ!』

 

 

 

 画面の中で、ドルクトと名乗るマスコットが、大げさなジェスチャーでウィンクを決める。

 

 

 

 その瞬間、まつりの左隣から、極めて冷ややかで、かつ容赦のないツッコミの呟きが漏れた。

 

 

 

「……いや、ネーミングセンスよ」

 

 

 

 恵は、画面の中の愛くるしい(はずの)マスコットをじっと見つめたまま、片方の眉を不満げにひそめていた。その声には、アパレル会社で数々の商品名やブランドの企画に携わってきたプロとしての、深い落胆とダメ出しのニュアンスがこれでもかと込められている。

 

 

 

「アイドル・コネクト。略して『アイコネ』。……その、削られて残った後ろの部分を、ただ適当に繋ぎ合わせて『ドルクト』にしただけでしょ、これ。安直。あまりにも安直すぎるわ。世界同時配信の最先端ゲームの顔なんだから、もうちょっとこう、スタイリッシュで、フランス語の響きを取り入れたような、洗練された名前にできなかったのかしら?」

 

 

 

「ええ……?」

 

 

 

 恵のあまりにも辛辣なネーミング批判に、まつりは長い前髪の奥から、困ったような苦笑いを覗かせた。

 

 

 

 普通の男子高校生なら、公式マスコットの名前なんて「そういうものか」と受け流すところだが、そこは白雪恵である。デザインやブランディングに関する妥協は、例えゲームの中のキャラクターであっても許せないらしい。

 

 

 

 

「まあ……お母さん、マスコットのネーミングなんて、そんなもんじゃないかな。覚えやすくて、ちょっと抜けてるくらいの方が、ユーザーに親しまれやすいんだよ。アイドル・コネクトの魂を半分受け継いでるって意味かもしれないし……」

 

 

 

 まつりは、普段の学校生活では絶対にあり得ないほどの流暢なテンポで、母親を宥めるための言葉を紡いだ。

 

 

 

 不思議なことに、現実のクラスメイトとは一言も喋れない重度のコミュ症の彼が、この母親と、そして自分の大好きな「VRアイドル」に関する話題の時だけは、何の後ろ盾もなく自然に言葉が溢れてくるのだ。

 

 

 彼にとって、この「アイコネ」という共通言語は、母親との良好な関係をさらに補強するための、大切な絆の役割も果たしていた。

 

 

 

『うぐっ……画面の向こうから、何だかユーザー達の厳しい視線を感じるよ……!? でも、めげずに解説にいっちゃうよ!』

 

 

 

 画面の中のドルクトが、まるで恵のツッコミが聞こえていたかのように、大げさにずっこける演出が入る。

 

 

 

 もちろんこれはただの偶然であり、録画された動画の決まりきった演出に過ぎないのだが、タイミングが良すぎるその動きに、恵は「あら、生意気なウサギね」と、少しだけ楽しそうに口元を綻ばせた。

 

 

 

『それじゃあ、これからアイコネでトップアイドルを目指すみんなのために、ステージの絶対的な「力」となる、最強のアイテムについて説明するね! ──それは、【コーデカード】だよ!』

 

 

 

 ドルクトの短い手のひらの上に、きらきらと光るデジタルなカードのグラフィックが出現する。

 

 

 

 まつりと恵は、その画面の光に吸い寄せられるように、さらに顔を近づけた。冷たい風が二人の間を吹き抜けようとするが、あまりの至近距離のため、その風すらも遮断され、二人の周囲だけが、どこか小さな、独立した温かい世界のようになっていた。

 

 

 

 長蛇の列は、相変わらず一歩も動かない。

 

 

 

 けれど、まつりのスマートフォンが映し出す小さな画面の向こう側では、彼らがこれから飛び込もうとしている、無限の色彩に満ちた新世界の全貌が、少しずつ、けれど確実に、そのベールを脱ごうとしていた。

 

 






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