凍てつくような五月の朝の空気は、赤レンガの広場に充満する人々の熱気によって、奇妙に歪んで見えた。
白雪まつりのスマートフォンの画面の中では、公式マスコットキャラクターである『ドルクト』が、短い手足をこれでもかとバタつかせながら、次なる解説のフェーズへと移行していた。
画面の背景が、近未来的なネオンブルーから、無数の光の粒子が飛び交うデジタルなクローゼットのグラフィックへと切り替わる。その中心に浮かび上がったのは、鈍いメタリックの輝きを放つ、三枚の電子カードだった。
『さあ、ここからはアイコネの命! ステージの神様! 【コーデカード】の仕組みについて徹底解説しちゃうよ! カードの種類をしっかり覚えることが、トップアイドルへの第一歩なんだから!』
ドルクトの甲高い声に合わせて、三枚のカードがそれぞれ拡大表示される。
カードの表面には、洗練されたアパレルデザインのイラストと共に、大きく分けて三つの異なる識別コードが刻印されていた。
【AVATAR-1】、【AVATAR-2】、そして【UNISEX】。
そのアルファベットの文字列を目にした瞬間、まつりの左肩にぴったりと身を寄せ、一画面をゼロ距離で覗き込んでいた母親の恵が、ふと不思議そうに首を傾げた。
彼女の端正な眉が中央に寄り、トレンチコートの襟元から覗く細い首筋がかすかに動く。
「ねえ、まつり。お母さん、ちょっと気になったんだけど……この『アバター1』とか『アバター2』って、一体何のことかしら? 普通、こういう女の子のアイドルゲームって、メンズ用とかレディース用とか、あるいは男性キャラ用、女性キャラ用ってハッキリ書くものじゃないの?」
アパレル業界という、性別のカットやシルエットの差異に対して誰よりもシビアな世界に生きる恵にとって、その抽象的なナンバリングはどこか不自然に映ったようだった。
服というものは本来、骨格や体型の性差に合わせて作られるのが大前提だからだ。
まつりは、至近距離から伝わってくる母親の柑橘系の香水の香りに少しだけ耳を赤くしながらも、長い前髪の奥の瞳をスマートフォンの画面に向けたまま、静かに、けれど誇らしげに口を開いた。
「それはね、お母さん。──『配慮』だよ」
「配慮……?」
恵はオウム返しに呟き、息子の横顔を見つめた。
「うん。この『アイコネ』はね、日本国内だけじゃなくて、アジア、ヨーロッパ、アメリカ……本当に全世界で同時にサービスが開始される、世界規模のビッグプロジェクトなんだ。だから、プラットフォームの規約や、世界中の色んな文化、ジェンダーに対する考え方に、すごく厳格に対応してるんだよ。直接的に『
まつりは、昨日から何度も読み返して頭に叩き込んだ仕様書の知識を、滑らかなテンポで披露していく。
学校の教室ではクラスメイトと一言も喋れずにドジを踏んでばかりの少年が、この瞬間だけは、まるで一流のゲームナビゲーターのような明晰さを見せていた。
「だから、ゲーム内ではあえて『男・女』っていう記号を使わないんだ。大まかに『男性的な骨格や男装に最適化されたカット』をアバター1、『女性的な骨格やドレスなどの女装に最適化されたカット』をアバター2、っていう風にシステム側でコード化して呼んでいるんだよ。
そして、一番右にある【UNISEX】……つまり『兼用』カードは、どんな骨格のアバターが着ても、その体型に合わせてAIが自動で最高のシルエットに再構築(リサイズ)してくれる、一番貴重で高価な最高級ライセンスなんだ」
まつりの丁寧な解説を聞きながら、恵の瞳の奥に、元アパレル会社の企画職としての「鋭い知性」がパッと灯った。
彼女はトレンチコートのポケットから手を出すと、自分の顎に指先を当てて、深く感心したように何度も頷いた。
「なるほどね……! そういうことだったの。単なるゲームの都合じゃなくて、国際的なエンターテインメントとしての『クリーン・プロトコル』ってわけね。衣服の歴史においても、ユニセックスやジェンダーレスなモードっていうのは常に最先端の挑戦だけど、それをバーチャル空間のシステムとして最初から組み込んでいるのは、ビジネスとして実にスマートだわ。過度な露出や性的な表現を排除して、純粋な『カッティングの美しさ』や『シルエットの妙』だけで勝負させる……。アパレル人間として、その潔さはむしろ好感が持てるわね」
「うん、お母さんなら分かってくれると思ってた」
まつりは少し照れくさそうに微笑んだ。自分の好きな世界の設定を、母親がプロの視点から肯定してくれたことが、何よりも嬉しかった。
『それじゃあ、次に進むよ! アイコネの服は、ただのお洒落じゃない! ステージを支配するための究極の【力】!
それ即ち、パワーなんだ! すべてのコーデカードは、5つのカテゴリー『
画面の中のドルクトが、まるで魔法少女のステッキのようなアイテムを振りかざすと、画面が5つの鮮やかな色に分割された。それぞれの領域に、異なるオーラをまとった衣装のコンセプトアートが次々と映し出されていく。
二人は息を呑み、さらにスマートフォンへと顔を近づけた。二人の前髪がかすかに触れ合うほどの距離だったが、今やその気恥ずかしさよりも、画面から放たれる圧倒的な設定の魅力が、親子の意識を完全に支配していた。
『まずは王道! みんなのハートをメロメロにしちゃう、ピンクの輝き──【ラブリー系】!』
画面に映ったのは、フリルとリボンをこれでもかとあしらった、愛らしさの結晶のようなミニドレスだった。観客の感情を優しく包み込み、ステージ上のアイドルの精神力を回復させる効果を持つという。
『続いて、最先端のスタイリッシュ! 都会的でクールなブルーの閃光──【クール系】!』
シャープなジャケットスタイルや、非対称(アシンメトリー)なカッティングの近未来的なタイトドレスが映し出される。観客を圧倒し、ステージの主導権を完全に支配するための、攻撃的な属性だ。
『そして元気いっぱい! 弾けるイエローのビタミンパワ──―【アクティブ系】!』
ストリートファッションや、ネオンカラーのスニーカー、軽快なショートパンツスタイル。会場のボルテージを最速で爆発させ、ライブのテンポを加速させる特性を持っている。
『さらに、神秘的で幻想的……紫の霧に包まれた深淵──【ミステリアス系】!』
ゴシック調のドレスや、退廃的なレース、あるいは伝統的な和のモチーフをダークに解釈した衣装。観客を一種のトランス状態に引き込み、底なしの魅力で深く狂わせる力がある。
『最後はこれ! 圧倒的な格の違いを見せつける、至高のゴールド──【セレブ系】!』
昨日、恵の目の色を変えさせた『シャドー・ペトリ』の漆黒のドレスや、歴史ある老舗メゾンが手がける絢爛たるイブニングドレス。
高級感と気品に溢れ、ステージそのものの「格」を強制的に上昇させ、どんな批判(アンチ)すらも平伏させる絶対的なカリスマの属性。
「……服が、ただのファッションじゃなくて、ゲーム内の『力』、か」
恵は、画面に映し出される5つの属性のデザインを網羅するように見つめながら、ゾクゾクとするような声を漏らした。
「これ、本当に面白いわね、まつり。アパレル業界でもね、着る服によって人間の精神や、その日のパフォーマンスが変わるっていうのは常識なのよ。強いスーツを着れば商談に勝てるし、美しいドレスを着れば立ち振る舞いまでエレガントになる。それをこの『アイコネ』は、数値化された『パワー』としてシステムに落とし込んでいるのね。ラブリー、クール、アクティブ、ミステリアス、セレブ……どれもファッションの歴史を支えてきた絶対的な『
「う、うん。お母さん、目がまたガチになってるよ……」
まつりは母親の凄まじい熱量に圧倒されながらも、画面の次のスライドへと指をすすめた。
『そしてそして! このコーデカードをスキャンする部位は、全部で【5箇所】あるよ!』
画面には、マネキンアバターのグラフィックが表示され、以下の5つのスロットが光り輝いた。
1. 【ヘッド】(髪飾り、帽子、ボンネット、カチューシャなど)
2. 【トップス】(シャツ、ジャケット、ドレスの上半身など)
3. 【ボトムス】(スカート、ズボン、ドレスの下半身など)
4. 【シューズ】(ブーツ、スニーカー、ヒールなど)
5. 【アクセサリ】(イヤリング、ネックレス、手袋、特殊な小物など)
『この5つの部位に、それぞれお気に入りのカードをスキャンして、自分だけの最強のトータルコーディネートを完成させるんだ! つまり、一回のライブを完璧に戦うためには、最低でも5種類のカードが必要ってことだね!』
ドルクトがパチパチと手を叩くエフェクトと共に、解説が一段落する。
画面を見つめていた恵は、ふと現実に戻ったように息を吐き、少しだけ現実的な、主婦としての、そして元企画職としてのシビアな表情を浮かべた。
「……ちょっと待って、まつり。一回のステージに5枚のカードが必要ってことは……。さっき、この先行販売のアイコネ・チップスとウェハース、一個『150円』って書いてあったわよね?」
「うん、一袋、一個150円だよ。おまけのカードがランダムで1枚入ってるんだ」
「ということは……」
恵は指を折って計算を始めた。
「最低限、全身の服を揃えるだけで、ストレートに綺麗に部位が被らずに出たとしても、150円×5枚で、750円。でも、当然そんなに上手くいくわけがないわよね。同じ【ヘッド】ばかりが出たり、自分のアバターに合わない規格が出たり、系統がバラバラになったりするはずだわ。まともに戦える『一着のコーディネート』を完成させるためには、一体何袋のチップスを買い漁らなきゃいけないの? ……これ、集めるの、めちゃくちゃ大変そうね」
母親のその、極めて真っ当でリアルなお財布事情への指摘に、まつりはガクンと肩を落とし、白のカーディガンの裾をぎゅっと握り締めた。
「確かに……お母さんの言う通りかも……。1枚150円って、お小遣いで買うには安く見えるけど、5箇所全部をちゃんと狙い通りに揃えようと思ったら、何千円、何万円っていうお金があっという間に消えちゃうよね。ましてや、僕たちみたいな一般人が、大手の有名なVRアイドル事務所や、お金を持ってる大人のプレイヤーに勝とうと思ったら、カードの枚数の時点で圧倒的に不利になっちゃうのかな……」
まつりの声に、いつものネガティブで弱気なトーンが混ざり始める。現実の壁、資本の壁というものが、まだ始まってもいないゲームの前に、冷然と立ちはだかっているように感じられたのだ。
しかし、長蛇の列は依然として動かないものの、二人の手の中にあるスマートフォンは、そんな少年の絶望をあざ笑うかのように、さらなる「ゲームの核心」
……そして、白雪家という一見弱小な親子が、世界を相手にジャイアントキリングを起こすための、最大の伏線となる仕様を映し出そうとしていた。
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