ファイルは保存形式が帝国様式のままの、十年前の記録だった。
帝国軍保安部イゼルローン支局・特別事案第七三四号。
キャゼルヌは背もたれに体重を預けたまま、ゆっくりと読み進めた。端末の青白い光が、彼の疲れた顔を照らす。
被害者 フーゴー・ベルナー 年齢五十八歳
歓楽街第四区画において酒場三軒、劇場一棟、簡易宿泊施設を経営。 軍需物資の下請け納入実績あり。商業組合複数で役員を務める。
死因:複数刺創による失血死。 発見場所:自宅兼事務所(劇場街裏手)
ルイーズ(仮)年齢二十五歳前後
士官用酒場ヒンターフェザーンの歌手。
本名不明。
死因;頸部を切られ失血死。
発見場所;店の所有するアパルトマンのバスルーム
「ただの殺人事件か……」
キャゼルヌは小さく鼻で笑った。
有力者だ。軍人相手の商売人でありながら、歓楽街の顔役。こういう人間が死ねば、必ず「軍紀への影響」「要塞の名誉」が優先される。上層部からの指示は予想通りだった。
迅速解決。軍紀への悪影響を最小限に。要塞司令部の名誉を損なうな。報道統制を実施せよ。
どこの組織も同じだ、とキャゼルヌは思った。真実など二の次。管理こそがすべて。
ページをめくる指が止まった。
担当捜査官 ウォルフガング・ミッターマイヤー 中尉
キャゼルヌはわずかに眉を上げた。当時の階級で言えば、まだ「双璧」と呼ばれる前の、ただの優秀な青年士官。
十年前――。
「……ロイエンタール中尉、昨夜はどちらに?」
憲兵の詰問に、オスカー、フォン・ロイエンタールは、まるで退屈な質問をされたかのように片眉を上げた。
「どこに、とは?」
「その……被害者ベルナーの店に所属していた歌手、ルイーズの部屋に……」
「ああ。泊まっていたが?」
あまりに平然とした返答に、憲兵たちは一瞬言葉を失った。
ミッターマイヤーが思わず振り返る。
「おい、ロイエンタール中尉……」
「何だ、ミッターマイヤー中尉。私は昨夜、彼女の部屋で寝ていた。事実だ」
ロイエンタールは肩をすくめ、淡々と続けた。
「だが、彼女が殺されたのは私が出た後だ。時間も、状況も、証人もいる。……それに、私が犯人なら、こんな雑な仕事はしない」
その声音には、冗談とも本気ともつかない冷たさがあった。
憲兵たちは一斉に視線をそらし、誰もそれ以上追及しようとはしなかった。
形式上は「最有力容疑者」であるはずなのに、誰も彼を疑わない。
ロイエンタール自身も、まるで当然の権利であるかのように現場へ踏み込み、捜査に加わった。
「……お前、完全に好き勝手やってるだろ」
ミッターマイヤーが小声で呟くと、ロイエンタールは異色の瞳を細めた。
「私は“容疑者”だぞ、ミッターマイヤー中尉。捜査に協力するのは当然だろう?」
「協力って顔じゃないだろ、どう見ても……」
「気にするな。誰も本気で私を疑っていない」
その言葉は、事実であると同時に、どこか寂しげでもあった。
当時のイゼルローン要塞歓楽街第四区画は、帝国の栄光という薄い表皮の下で蠢く、生々しい臓物そのものだった。
「本当に要塞か、ここは」
ミッターマイヤーは眉をひそめた。
「最前線の緊張感など欠片もない」
路地には酔った兵士が溢れていた。
女たちが笑い、客引きの声が飛び交う。
どこかの店から安っぽい楽団の演奏が流れてくる。
帝国と同盟の命運を左右する最重要拠点とは思えなかった。
「お前は今ごろ気付いたのか」
隣を歩く男が片方の口角だけを上げた。
「人間が集まれば泥が溜まる。内地も辺境も変わらん」
二人は劇場街の裏手にある事務所へ向かった。
すでに保安部員たちが現場を封鎖している。
彼らは二人の姿を見るなり、背の高いロイエンタールへ敬礼した。
ミッターマイヤーは顔をしかめた。
「担当は俺だ」
慌てて敬礼し直す保安部員を横目に、ロイエンタールは小さく笑った。
「現場保存は?」
「完了しております」
「被害者は?」
「フーゴー・ベルナー。五十八歳」
保安部員が資料を差し出した。
「酒場三軒、劇場一棟、宿泊施設を経営しております」
「歓楽街の顔役か」
「それだけではありません」
保安部員は言葉を選ぶように続けた。
「こちらを」
差し出された帳簿をめくる。
ミッターマイヤーの手が止まった。
「孤児院?」
さらに頁をめくる。
「診療所」
次の頁。
「配給融通?」
また次。
「住宅修繕費」
また次。
「学校?」
思わず顔を上げた。
「何だこれは」
保安部員が肩をすくめた。
「この辺りの住民はベルナーを『市長』と呼んでいました」
「市長だと?」
ミッターマイヤーは吐き捨てた。
「ここは軍事要塞だぞ」
「公式にはな」
ロイエンタールが静かに言った。
「だが現実には街があり、人が生きている。行政が数えないなら、誰かがその代表者になるしかあるまい。……だが、この『市長』のもう半分の顔を見ろ、ミッターマイヤー。光が強ければ、影もまた深い」
ミッターマイヤーは頁を進めた。
そこに並んでいたのは別の数字だった。
高利貸し。
軍需物資の横流し。
賄賂。
用心棒への支払い。
身内への制裁金。
「……」
黙り込んだ男に、ロイエンタールは淡々と言った。
「民にパンを配る者は、同時に首輪も握る」
その日の午後。
二人はベルナーの店を訪れた。
店は営業していたが、客は少ない。
誰もが様子を窺っている。
カウンターの奥で年配の女が煙草を吸っていた。
「ベルナーの代わりは決まったのか」
ロイエンタールが尋ねる。
女は鼻で笑った。
「決まるわけないだろ」
煙を吐く。
「あの人が死んで三日だよ」
「随分慕われていたようだな」
視線が店内を横切る。
皆、黙って耳を傾けている
「慕われてたさ」
女は即答した。
「搾取もされたけどね」
「どっちなんだ」
「両方だよ、軍人さん」
女は肩をすくめた。
「あの人がいなきゃ食えない奴が大勢いた」
ミッターマイヤーは言葉を失った。
「あんたたちはここを不落の要塞だの戦略拠点だの呼ぶけどね、あたしたちにとっちゃ寒がりの街さ」
「街?」
「そうだよ」
女は笑った。
「帝国軍の若いのが飲みに来ようが、別の軍服を着た誰かが来ようが関係ない」
その言葉は妙に耳に残った。
「凍えた男に酒を出して、温めて、明日の戦場へ送り出す。それだけさ」
事件の真相は、若いミッターマイヤーの正義感を打ち砕くに十分だった。
ベルナーは、ある上級貴族による軍需物資の巨額横領の証拠を握り、それを盾に歓楽街の自律権を拡大しようとしたために「口封じ」された。
犯人はプロの暗殺者ではない。貴族に命じられた軍の保安部――つまり彼ら自身の身内だった。
歌手ルイーズの部屋からは、本来あるはずのない、内地の名門貴族の私的刻印が入った貴金属が見つかった。
「これ以上の捜査は不要である。事案は強盗殺人として処理せよ」
上層部から届いた理不尽な命令書を前に、ミッターマイヤーは拳を血がにじむほど握りしめた。
激昂しようとする彼の肩を、ロイエンタールが静かに、しかし抗いがたい力で押さえた。
「やめろ、ミッターマイヤー。これがこの要塞の呼吸だ。我々は巨大な檻の前にいるに過ぎん。これ以上踏み込めば、消されるのは我々の方だ」
ミッターマイヤーは机を叩いた。
「こんなものが正義か!」
ロイエンタールは黙って命令書を読んでいた。
「違う」
静かな声だった。
「なら何だ」
「統治だ」
ミッターマイヤーは言葉を失った。
ロイエンタールは命令書を机に置いた。
「この要塞は正義で動いているわけではない」
こうして捜査は終結した。正義は沈黙した。ベルナーの帳簿は司令部の命令で焼却された。
事件は歴史の表層から消え去った。
だが灰になったのは帳簿だけだった。
そこに記されていた人々はイゼルローンに生きていく。彼らはその後も、要塞の裏側で生活を続けていた。
ヤン・ウェンリーがイゼルローンを奪取する日まで。