彼は自分を愛することができなかった
※小説家になろうにも掲載しています

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なろうに隔離していましたが、箸休めにハーメルンでも掲載します


救済

彼はボロ雑巾だ。

 

明るいだけの青天の下、街の雑踏の中、前頭葉が抑えられる感覚を覚えながらトボトボ歩いている。景色を景色としてしか受容しない。それに彼の感情は影響されない。ただ空が青い。ただぼんやりとした熱が肌に張り付いている。肌と脳の境界がある。

 

罵倒、暴言。偶に殴られたり。彼はただ黙って耐えてきた。やり返す事は出来た。しかし、それは無責任だと思った。そうすれば、自分だけの問題じゃなくなってしまう。もし傷つき死んでしまったら、もし致命傷になったら。

嫌いな者に、何をしたって良いわけではない。

 

 

彼は、あらゆる責任を自覚していた。

 

あんな、何も考えず嗤うゴミにはなりたくないという嫌悪。

 

やり返せたら、どれだけスッキリしただろう。人に吐き出せたのなら、どれだけ楽になれただろう。しかし、人に愚痴を言うのは申し訳なかった。何度も頭の中で殺した。やつは隙だらけだった。

"絶対にブチ殺してやる。

 

 

 

 

 

 

お前の大切な人を目の前で"

 

責任と嫌悪から溜め込んだ怒りは、憎悪に変わっていた。それはいつもいつも彼の前頭葉を締め付ける。怒りを我慢する為の理性を働かせていたのだ。

 

──失敗ばかりの人生だった気がする。

彼は自己嫌悪でいっぱいだ。家族を蔑ろにし、立てた目標は実行しない意志薄弱者。出来なかった事を内心で誤魔化して言い訳ばかり。それを周囲に見せず、笑って飄々として、弱さを隠す。そのクセ、プライドだけは一丁前。失敗ばかり、目についてしまう。確かにあったはずの良かった事を覚えていない。

──こんなどうしょうもないやつは、こうなったって仕方がない。

抑鬱感。

 

憎しみと鬱で、前頭葉が常に詰まり、抑えられている感覚。常に自死を窺い、日常で、唐突に憎しみが噴き出る。楽しくても、死にたくなる。急に脳のスイッチが変わる。環境と情緒に振り回され、彼の心はボロ雑巾のようになっていた。

 

そうしていつものように自分の病んだ心の分析をしていた彼は、ふと気付いた。自分をこんなにもボロボロにした一旦を自分も担っているのだと。

 

彼は自己責任という言葉で復讐を留まったが、その自己責任というのは、自己を保護する責任を放棄しているものだった。

自ら相手に加害を加えない事を、何処かで心の拠り所にしていた彼はしかし、自分というものを蔑み軽視していたのだ。傷つけていたのだ。

それは結局の所、彼が忌み嫌う者を、忌み嫌うに至った行為と同じである。

 

その根底にあるのは低い自己肯定とか、自己嫌悪とか、自分を価値なき存在、駄目な存在とする価値観である。そうなって当然という自罰的な心持ちが、自分の事を勘定に入れさせない。それが、傷に繋がっているのだ。

 

"嫌いな者に、何をしたって良いわけではない"

"こんなどうしょうもないやつは、こうなったって仕方がない"

 

自分を他者のように捉えているのなら、他者のように尊重するのが筋なのだ。

 

ふと、彼の前を歩く五十歳程の汚い格好の男が、道端に痰を吐き捨てた。低俗な品性。

 

彼はこういうのが本当に嫌いなのだ。見てられない。嫌なものを見たと思った。

 

……いやしかし本当に気持ち悪い。

 

…………この世に唾棄された汚物。

 

………………まるで自分のような。

 

 

「!」

 

彼の頭の中で、その吐き捨てられた痰が自分なのだという観念が渦巻いた。

 

瞬間、翻って吐き捨てられた痰の下に駆け寄り、じっと見つめる。

 

黒いアスファルトの上にへばり付いている、黄色くドロドロとしている痰は、中央部分がすこし白んでいた。鼻先が触れそうになるくらい鼻を近づけてスンスンと臭いを嗅ぐと、吐き捨てた男の唾液の臭いと相まって、汚物のような悪臭を放っていた。彼はそれを優しく撫でてやる。

右手の人差し指に、ベチャベチャした物体の、湿っぽい生あたたかい感覚が走り、骨の髄から身体を震わせた。

指にへばり付き、その撫でる左右の動きに連動して広がる様がなんとも気持ち悪い。

 

激しい嫌悪で身体を強張らせ、顔を顰めつつも、彼は痰の表面を撫でた。

周りがザワザワとする。ヒソヒソと、奇異や嫌悪の目で見られる。

彼はそれに心を痛め、悲しみ、そして益々自分と痰を同一視していった。

 

そうして彼が、一心不乱にへばり付いた痰を撫で続けていると、段々とその嫌悪の内に不思議な肯定が生じてきた。この吐き捨てられた痰カスの、その汚らしさ自体を受け入れ始めたのだ。それは一種の慣れであった。

 

しばらくして、彼が人差し指を離そうとした所、痰は黄色の粘っこい糸を引いた。まるで蓄膿症の鼻水のようだ。

 

そして彼はその人差し指を、パクっと口に含んでみた。舌で指先についている粘液をしゃぶり取ると、舌に触れる仄かな温かさと、途轍もないエグみを感じて、

 

「オェェ……!」

 

とえずいた。口内に広がる苦味と、臭さに悶え、嫌悪を感じながらゴクリと飲み込むと、脳髄から寒気がして、身体が震えた。彼の唾液を纏った痰は、少し喉にへばりつきながらも流れていった。

口に垂れた痰の糸を舐めとり、それもまた飲み込んだ。

 

更に大きくなった周りのざわつきに、彼の羞恥は最大まで高まり、痰を舐め取ったのも相まって心が相当に磨耗した。遠巻きに囲まれ、嫌悪と奇異に晒されているそんな最中、彼の心の中にある観念が浮かんだ。

 

──ここまでやったのなら、いっそもう、何処までもいってしまおう。もうこれ以上、何を戸惑うことがあるのだろう。

 

そして振り切れた彼は、最後の大仕事に挑むような心持ちで痰に口を近づけていった。

 

ザワザワザワザワ

 

周りのざわめきと、肌にまとわる熱気、快晴、雲一つない明るい青空、全てを確かに感じながらも、どこか自らと乖離している感覚。

 

汚物のような悪臭が強くなり、ついに痰カスの中心の白んだ部分に口を当てる。唇に当たるヌメヌメとした生温かい痰カスを感じると、少し口を開いて、それをズルズルと啜っていった。その最中、粘り気で上手く啜れず、空気だけを吸う音も気持ち悪い。そうして全てを口の中に含んだ後、口の中には先程とは比べ物にならないエグみと苦味を感じ、身体の拒否反応で何度も何度も口内に啜った痰を吐き出そうとえずく。しかし、手で無理やりに唇を閉じ、くちゃくちゃと咀嚼しながら、歯茎や歯にこびり付いた痰をこそぎ落とした。味蕾に他者の痰を触れさせて、そのぬちゃぬちゃとした食感と、生温かさと、味を感じながら、身体を震わせる。

 

そうして口に含んだ痰カスを十全に味わい尽くし、自分の唾液を纏わせて飲み込みやすくした所で、ゴクンと飲み込んだ。しかし痰は粘度が高く、喉にへばり付いた。そのネバネバした感触を感じて鳥肌を立たせながらも、何度も何度も喉を嚥下する内に遂にゴクリと飲み込む事が出来た。ドロリとした痰が喉を通過していく。彼はその、食道を伝っていく粘り気とぬくもりを感じ、気が狂いそうになる程の嫌悪感で脳髄の芯を震わせた。鳥肌が何度も何度も繰り返し立ち、寒気が走る感覚を何度も感じた。

 

彼の頭上には雲一つない快晴の青空が広がっている。太陽はその下で暮らす人々の心を照らすように輝いていて、黒いアスファルトの上には染みだけが残っている。それはいずれ乾いて元の状態に戻るだろう。

 

全てが終わった後、彼の消耗し切った心に、不思議な充足感があった。

彼は、自分を愛そうと努力したのだ。嫌悪にまみれつつも優しく撫で、一部、そこから全部と受け入れた。

 

嫌悪の対象である自分、軽蔑の対象である自分、疎外の対象である自分。

それをいきなり愛する事は難しく、また、その過程でどうしようもない嫌悪感を覚えるだろう。

 

しかし、それを堪えて自分を大切に扱えば、少しづつ受け入れていけるはずだ。

別に、無理に愛さなくても良いのだ。ただ、自身への嫌悪や無関心から己を守れるようになれれば。

 

結局、前頭葉の詰まった感覚は拭い去られなかった。抑鬱も憎しみも依然として存在し、彼を蝕んでいる。しかし、彼は、きちんと自分を勘定に入れられるようになったのだった。

 




痰舐め書くの辛かったです

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