NARUTO 甲蟲伝   作:ヘビトンボ

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第九章『蟲と忍』

001

 

サソリとの死闘から、数日が経過した。

混迷を極める第三次忍界大戦は、未だ終わりの兆しを見せず、前線には重苦しい空気が漂い続けている。

 

マユが次に意識を取り戻したのは、薄暗い医療天幕の中、簡素なベッドの上だった。

鼻を突く消毒液の匂いと、全身を襲う、鉛でも埋め込まれたかのような凄まじい激痛。呪印のチャクラがもたらした反動は、彼女の小さな身体を容赦なく蝕んでいた。

 

「あ、気が付きましたか……。よかった、あれから急に気絶してしまったので、本当に心配したんですよ」

 

枕元から、ホッとしたような優しい声が聞こえてくる。視線を向けると、額当てを身につけた木ノ葉の医療忍者の女性が、安堵の表情を浮かべてマユの顔を覗き込んでいた。

 

「ここは……」

「前線の医療本隊の天幕です。サソリが撤退した後、あなた、その場に崩れ落ちるように意識を失ってしまって。他の忍たちが大急ぎでここまで運んでくれたんです」

 

医療忍者はそう言うと、マユの額の包帯を器用に替えていく。

 

「体にひどい打撃の痕があったのと……何より、チャクラの経絡が酷く荒れていて、一時はどうなることかと。でも、あなたの並外れた生命力のおかげで、なんとか一命を取り留めました。本当に、よく生きていてくれましたね」

 

かけられる労いの言葉。だが、マユはその温かい言葉を受け止めることができず、ただガスマスクのない素顔のまま、天幕の天井をじっと見つめていた。

 

あの日、大蛇丸を追ってアンコと走り出した日。一族から、暗部から、敵の忍びから、世界の理不尽から身を護るために、必死に蟲を育て、泥をすすり、少しは強くなったのだという自覚も、確かにあった。

 

だが、いざ蓋を開けてみれば、どうだ。

 

戦場に君臨する本物の怪物──赤砂のサソリを前に、マユの培ってきた技術も知略も、何一つとして通用しなかった。最後はただ、大蛇丸に刻まれた『呪印』の暴虐なチャクラに理性を翻弄され、我を忘れて暴れることしかできなかった。

しかも、生き残れた理由は自分の力ではない。偶然もたらされた戦況の変化によって、サソリに「見逃してもらった」からに過ぎない。

 

(私は、ただ生かされただけ……。何の成果も、出せていない……)

 

未だ外からは、せわしなく行き交う兵士たちの足音や、怒号、重傷者の呻き声が聞こえてくる。戦争は今もなお、現在進行形で多くの命を貪り続けているのだ。

 

その残酷な現実の只中で、マユは自分の無力感に、ただただ打ちのめされていた。

アンコと生きて再会するという誓い。そのために得たはずの力は、化け物の前ではあまりにも小さく、無様だった。じわじわと皮膚の奥で疼く呪印の感覚と、手のひらに残る圧倒的な敗北感。

 

「まだ、動いちゃダメですよ」と優しく制する医療忍者の声を遠くに聞きながら、マユは悔しさに奥歯を噛み締め、涙を堪えるようにそっと瞳を閉じた。

 

002

 

医療忍者が天幕を離れ、しばらくの時間が経った頃だった。

張り詰めた静寂が満ちる天幕の入り口の布が、音もなく持ち上がる。

 

「お疲れの様だな」

 

低く、抑揚のない声。現れたのは、かつてマユの前に立ちはだかり、根へと、ダンゾウの元へと彼女を連行した、あの狐の面をつけた暗部の男だった。

 

「……貴方は……」

 

最悪の記憶が脳裏をよぎり、マユの表情が瞬時に険しく歪む。ダンゾウの冷酷な眼光が思い出され、彼女は本能的な嫌悪感を隠そうともせずに男を睨みつけた。しかし、狐面の男はマユの敵意など最初から存在しないかのように、淡々と用向きを告げる。

 

「此度のサソリの撃退、ご苦労だった。ダンゾウ様も褒めておいでだ」

 

「……なにを、私は見逃してもらえただけで」

 

マユはガスマスクのない顔を歪ませ、自嘲気味に、しかし明確に反論した。

自分は負けたのだ。戦術的撤退という偶然に救われ、赤砂のサソリという怪物に命を施されただけの敗北者だ。そんな自分が「撃退した功労者」として扱われるなど、滑稽でしかなかった。

 

だが、男は面の奥から冷徹な視線を向けたまま、言葉を被せる。

 

「そういう事にすると言っている」

 

「……っ」

 

マユの言葉が喉の奥で詰まった。

 

男の短い言葉の意図を、大蛇丸の元で歪んだ大人の論理を見てきたマユの頭脳は、嫌というほど理解してしまった。

未だ集結の兆しが見えないこの第三次忍界大戦において、里は、そして『根』は、戦意を維持するための「英雄」を、あるいはダンゾウの息がかかった有能な戦力をアピールするための「実績」を必要としている。真実がどうであれ、公式には「油女マユが赤砂のサソリを退けた」という美談でなければならないのだ。

 

(私の無力さも、悔しさも……全部、政治の道具にされるんだ……)

 

敗北者である自分に、強制的に着せられる英雄の衣。それは称賛などではなく、自由を奪うための新たな鎖のようにマユの肩へと重くのしかかる。

唇を噛み締め、怒りと情けなさで拳を震わせるマユを、狐面の男は見下ろしたまま、冷酷な沈黙でその現実を認めさせた。

 

「それで……何の用ですか」

 

マユは布団を握りしめ、冷ややかな、しかし諦めの混じった声音で問いかけた。狐面の男がこの最前線の医療天幕にまでわざわざ足を運んできた以上、ただの戦果の確認や、ダンゾウからの労いの言葉を伝えに来ただけであるはずがない。

 

「もう見当はついているんだろう、任務だ」

 

男の声には一切の慈悲も、躊躇いもなかった。戦況が刻一刻と悪化し、無数の命が前線で消費されていく中、サソリを相手に張り合ったという戦力は、根にとっても里にとっても、これ以上ない格好の駒でしかなかった。

 

「……私、一応治療を受けるために此処にいるんですが」

 

マユは包帯が巻かれた自身の腕を見つめ、ガスマスクのない顔を歪めて抗議した。

呪印を完全解放した代償による激痛は今も全身を苛んでおり、チャクラの経絡はズタズタだ。鼻血こそ止まったものの、起き上がるだけでも凄まじい目眩が襲ってくる。今の自分は、まともに蟲を操ることすらままならない満身創痍の「病人」だった。

 

しかし、男はマユの言葉を一蹴するように、冷徹な現実を突きつける。

 

「それは仕方ない、今は戦火だ。動ける忍であるなら病人でも使われるのが、忍界大戦だ」

 

その冷酷な言葉が、天幕の中に重く響き渡る。

理不尽だが、それがこの大戦の、そして忍という生き物の絶対的な真実だった。綺麗事や人道的な配慮など、激化する戦火の前では何の意味も持たない。動く手足があり、息をしているならば、死ぬその瞬間まで戦場に駆り出される。

 

(結局……私は、ただの道具……)

 

サソリを前にして味わった圧倒的な無力感と、自分の都合などお構いなしに次の死地へと背中を押してくる世界の冷酷さ。

アンコのいる里へ生きて帰るという誓いがあっても、この終わらない大戦の濁流は、マユに一時の休息さえも許してはくれなかった。マユは悔しさに唇を噛み締めながら、男から手渡されるであろう次の任務の書状を、ただ睨み据えるしかない。

 

 

狐面の男の手から差し出された、無機質な白い書状。マユはズキズキと痛む腕を強引に動かし、それをひったくるようにして受け取った。

 

封を切り、中に記された文字に視線を落とす。

 

『霧隠れで不穏な動きあり、直ちに調査し情報を持ち帰れ』

 

簡潔にまとめられたその命令を読み終えた瞬間、マユはガスマスクのない顔をさらに不機嫌そうに歪め、天幕の天井へ向けて深い溜め息を吐き出した。

 

「岩や霧、そして砂の抜け忍までいる戦場、随分木ノ葉は恨まれているようですね」

 

嫌悪と自嘲の混じったマユの呟き。

岩隠れとの神無毘橋を巡る死闘の傷跡も癒えぬうちに、今度は海を隔てた霧の里、霧隠れへの潜入調査。全方位から敵国に狙われ、常に戦火に晒され続けている木ノ葉隠れの里の現状は、下忍の身から見ても異常としか言いようがなかった。

 

マユの皮肉に対し、狐面の男は感情の窺えない面の奥から、低く淡々とした声を返す。

 

「……隣の芝生は青く見えるのだろう、忍の隠れ里などどれも同じものだというのにな」

 

その言葉には、大戦の綺麗事を排した、根の忍らしい冷徹な本質が籠もっていた。どの里も自らの利益のために他国を侵し、都合の良い大義名分を掲げて忍の命を消費している。肥沃な土地を持つ木ノ葉を妬み、奪おうとする他国の思惑など、この男にとっては今更議論する価値もない日常の一コマに過ぎないのだろう。

 

だが、マユが感じていた違和感は、木ノ葉が恨まれているという事実そのものだけではなかった。

 

大蛇丸の元で歪んだ大人たちの策略を特等席で見せつけられ、そしてダンゾウという男の底知れない闇に触れてきたマユの直感が、この書状の裏にあるさらなる「不穏さ」を敏感に察知していた。

 

ただの潜入調査であれば、他にも動かせる手練れの暗部はいくらでもいるはずだ。サソリとの戦いで呪印の反動に苦しみ、蟲のストックもまともに回復していない病人の自分に、わざわざ狐面の男が直接出向いてまで持ってきた任務。

 

マユは書状を握りしめたまま、狐面の男をじろりと睨み据えた。

 

「……それで、これだけじゃないんでしょう?」

 

書状に書かれた表向きの命令の、さらに奥にある本命。ダンゾウが、そして『根』が、このタイミングで自分を霧隠れへと送り込む真の狙いは何なのか。マユは冷たい冷や汗を背中に感じながら、男の次なる言葉を待った。

 

「正直、今の霧の戦力はあまり目に見えて高くはない……忍び刀七人衆も壊滅したことだしな」

 

「え、それ初耳です」

 

男の口から淡々と告げられた衝撃の事実に、マユは思わず驚愕の声を漏らした。

霧隠れの最高戦力であり、他国からも恐れられていたあの『忍び刀七人衆』が壊滅したなど、最前線の医療天幕に引き籠もっていた下忍の耳に届くはずもない情報だった。だが、狐面の男の口調は、それが冷酷な既定事実であることを物語っている。

 

「……追い詰められた霧は戦力として、爆弾を出してくるとダンゾウ様は読んでいる」

 

男の声音が、一段と低く重くなる。

強力な前線戦力を失い、後がなくなった国が最後に縋る「爆弾」。その単語が意味する最悪の兵器に、マユの脳裏へある仮説が弾き出された。大蛇丸の研究所で世界のあらゆる禁忌や兵器の知識を目にしていたマユだからこそ、その言葉の裏にある凄惨な意図に、一瞬で辿り着いたのだ。

 

「……尾獣……三尾ですか」

 

ガスマスクのないマユの顔から、完全に血の気が引いていく。

霧隠れが保有する最大最悪のチャクラの質量兵器、三尾。追い詰められた霧の里がそれを解き放とうとしているのだとしたら、これから向かう霧隠れの戦場は、サソリとの死闘すら生温く思えるほどの地獄と化すに違いない。

 

「その通りだ。奴らがそれをいつ、どのように動かすか……それを探るのがお前の真の任務だ」

 

狐面の男はマユの動揺を気にかけることもなく、次の死地へのカウントダウンを冷徹に告げた。

 

003

 

「待ってください! あなた、その身体で一体どこへ行くつもりですか!? まだ戦える状態では……!」

 

狐面の男が影に溶けるように去った後、再び天幕に戻ってきた医療忍者が、身支度を整えて立ち上がろうとするマユの姿を見て、悲鳴のような声を上げた。

だが、マユはただ黙って、いつものガスマスクをゆっくりと顔に装着する。その奥から、低く落ち着いた声で医療忍者をなだめた。

 

「大丈夫です。少し急ぎの任務が入っただけです……、治療、ありがとうございます」

 

引き止める手をすり抜け、痛む身体を引きずるようにして天幕の外へと足を踏み出す。

 

一歩外へ出た瞬間、マユは周囲の忍たちの視線が一斉に自分に突き刺さるのを感じた。ざわざわとした私語が、風に乗って耳に届く。

 

「おい、あれって……油女の」

「ああ、あの赤砂のサソリを追い払ったっていう忍だろ」

「……あんなに若かったのか。神無毘橋の『白い牙の倅』も凄まじい戦功を立てたっていうじゃないか。今の一期はとんでもないな、黄金の世代だ」

 

好奇、畏怖、そして尊敬。そのどれもが混ざり合った無数の視線に晒され、マユはひどく居心地の悪い気分になりながら、ただ黙って歩みを進めた。

本当は違う。私はただ、見逃してもらっただけの敗北者だ。そう叫び出したい衝動が喉まで出かかった、その時だった。

 

「おい、お前……もう次の戦場へ行くのか、忙しいな」

 

一人の負傷した忍が、包帯の巻かれた手を軽く上げてマユを呼び止めた。その目は、作られた美談を疑うような色など微塵もなく、ただ純粋な感謝に満ちていた。

 

「これだけは言わせてくれ。俺たちを……仲間を救ってくれて、本当にありがとう」

 

その言葉に、マユの足が止まった。

 

ここでまた「私はサソリに見逃してもらっただけだ」と駄々をこねるのは、彼らの純粋な感謝を汚す、ただの無粋でしかない──今のマユには、不思議とそう思えた。

真実がどうであれ、自分が泥塗れになって呪印の狂気に抗い、時間を稼いだことで、ここにいる誰かの命が救われたのは紛れもない事実なのだから。

 

「……いえ。お大事に」

 

ガスマスクの奥から、少しだけぶっきらぼうに、けれど実直な言葉を返す。

 

周囲からの称賛を否定せず、そのまま素直に受け取った瞬間、マユの胸に渦巻いていた重苦しい無力感が、ほんの少しだけ軽くなったような気がした。

 

まだ大戦は終わらない。霧隠れ、そして『三尾』という次なる最悪の地獄が待っている。それでもマユは、再び冷酷な戦火の中へと歩き出すのだった。

 

004

 

「ムシは無視してフェードアウト!俺様登場、援護上等!!」「……もうやだ」

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