私、油女マユの人生は苦難の連続だった。
思い出せる楽しい日々の裏には全てにおいて、辛く悲しい出来事がへばりついている。それが、忍びの一族として生まれてしまった私の運命だと言えば、諦めがつくかもしれない。だがただ何もせずにその場で苦痛をあげぐだけの人生から抗いたいとも思ってしまう。
葉を食むだけの芋虫も、やがて綺麗な蝶へと変化を遂げるように。諦めなければきっと夢はかなうのだろうと幼い私はそう信じていた。信じなければ心が壊れてしまいそうだったからだ。
第一話『蛇と虫の出会い』
001
薄暗く湿度の高い陰鬱とした演習場、そこは油目一族が自身の蟲を飼いならし、術を試すために作られた地下空間だった。そこは現在、煙が立ち込め肌を焼くような熱が立ち込めていた。それは外気の熱ではなく、その場にいた少女が作り出した惨状だった。幼い体内、その経絡系の隅々から間断なく噴き出し続ける、暴虐なまでのチャクラの熱だった。
「──また失敗か」
冷淡な声が、こだまする。そこには肌が焦げ付き肉の焼ける放ちながら転がる少女の姿がある。齢は8歳ほどだろうか、小さな身体を抱きしめながら苦痛に顔をゆがめる少女の名は油女マユ。彼女は何度目かも分からない術の発動で何度も失敗を繰り返していた。
「…ごめんなさい」
黒髪に赤いメッシュの入ったショートカットの少女は、自身の肌が暴発したチャクラの熱で焼き切れるのもいとわず再度立ち上がるとまた印を結び始める。そしてまた爆炎を起こして悲鳴をあげながら演習場を転がるのだった。火傷、擦過傷、身体のあちこちに傷を作る痛ましい姿でなお、マユは再び立ち上がった。
「いい加減諦めろ、お前のような出来損ないは何度やっても忍術など使えるはずもない」
声を向けたのは、マユの様子を見にきた一族の大人だった。彼の衣服の袖からは、主の意思に従って整然と蠢く寄壊蟲の群れが、黒い靄のように覗いている。その蟲たちの羽音すら、マユを嘲笑っているように聞こえた。
地面に両手をついたマユは、荒い呼吸を繰り返しながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。
彼女の視線の先では、本来なら標的を正確に穿つはずだった木ノ葉流の基本忍術が、制御を失って大爆発を起こし、周囲の立木を無残に黒焦げにしていた。
「ただの『分身の術』に、なぜそれほどのチャクラを込める。……いや、込めているのではないな。お前はただ、蛇口の壊れた水瓶のように、己の力を垂れ流しているだけだ」
「ちが……っ、私は、ちゃんと印を……!」
「口答えをするな、マユ」
大人の声には、怒りすら入っていなかった。あるのは、深い落胆と、異質なものを見る忌避感だけだ。
「油女の忍は、静謐でなければならない。蟲の羽音を聴き、蟲とチャクラを分け合い、影のように息を潜めて敵を討つ。だがお前のそれは何だ? 尾獣の如き禍々しいチャクラの奔流……。それでは蟲を宿すどころか、巣に入れた瞬間に蟲たちがチャクラの熱で焼け死ぬ。油女の歴史において、蟲を宿せぬ者は、ただの木偶だ」
──忌み子。
それが、黒と赤の混ざった奇妙な髪色をして生まれたマユに、一族が与えた烙印だった。
油女一族きっての天才児、その呼び名が彼女に冠されるのは、まだずっと先の話。この時のマユは、ただ己の体内で荒れ狂う「過剰な力」に振り回され、誰からも手を差し伸べられない、孤独な八歳の少女に過ぎなかった。
どれだけ必死に印を組み、精神を集中させても、術を発動する瞬間にチャクラが勝手に膨れ上がり、暴発する。体内共生を試みようとした寄壊蟲は、マユの経絡に触れた瞬間にあまりの熱量に耐えかねて全滅した。一族の長老たちは「呪われた子」と囁き合い、彼女を油女の籍から実質的に除外した。
誰も私を見てくれない。
誰も私を認めてくれない。
この溢れる熱のせいで、私は暗闇の中に一人で置き去りにされている。
そんなある日、マユの前に一人の少年が現れた。名を、油女トルネという。
彼はマユより少し年上でありながら、一族の中でも特異な「ナノサイズの毒蟲」を宿すため、周囲から孤立しがちな境遇にあった。トルネだけは、マユの暴発するチャクラの光の中に、一族の誰もが見落としていた「本質」を見出していた。
「マユ。お前のその力、このまま埋もれさせるには惜しい……お前を必要としている場所がある」
トルネが差し伸べた手。それが、志村ダンゾウ率いる暗部養成部門、通称『根』への誘いだった。
一族から見捨てられたマユにとって、拒否する理由はなかった。たとえそこが、感情を殺し、過去を消し去る非情の檻であったとしても、己の存在価値を証明できる場所であるならば、地獄にだって足を踏み入れる覚悟だった。
しかし、『根』での訓練は過酷を極めた。
感情を奪うための洗脳、容赦のない実戦形式の殺し合い。その中でマユは、やはりチャクラの制御という壁にぶち当たっていた。術を使うたびに過剰なチャクラが印に込められ、周囲を巻き込んで暴発する。
「そこまでだ」
養成所の教官の冷徹な声が響く。
対戦相手の少年は、マユが放った術の暴発に巻き込まれ、激しく壁に叩きつけられて気絶していた。マユ自身も、己の右腕から立ち上る硝煙と、経絡を引き裂くような熱痛に顔を歪めていた。
「油女マユ。お前はまた術を暴発させた。相手を無力化することには成功したが、これでは隠密を旨とする暗部の任務には到底使えん。お前のチャクラはあまりにも下品で、騒がしすぎる。……感情を殺せぬ以前に、己の肉体すら制御できぬ道具など、根には不要だ」
周囲の同期生たちから、冷ややかな、あるいは憐れむような視線が突き刺さる。
一族から見捨てられ、ようやく辿り着いた闇の底でさえも、私は「出来損ない」として処理されようとしている。
(どうして……どうして私だけが、こんな風に生まれなきゃいけなかったの……?)
マユは長い前髪の奥で、悔しさと絶望に緑色の瞳を濡らしながら、傷だらけの拳を強く握りしめた。これ以上、どこへ行けばいいのか。私を認めてくれる場所なんて、この世界には最初から存在しないのではないか。
暗闇の檻の中で、少女は一人、凍えるような孤独と、皮肉にも己を焼き続けるチャクラの熱の狭間で、ただ静かに絶望の淵に立たされていた。
「使えない捨て駒」として処理されそうになっていたその時──運命の歯車が、音を立てて回り出した。
002
『根』の地下深くにある、松明の炎だけが揺れる暗い謁見の間。
マユは冷たい石床に膝をつき、深く頭を垂れていた。彼女の周囲には、先ほどの模擬戦で暴発させた術の硝煙が微かに残っている。
正面の玉座には、包帯を顔と右腕に巻いた老人、志村ダンゾウが微動だにせず座っていた。その眼光は冷酷で、マユを「出来損ないの道具」として値踏みしている。
「チャクラの総量だけならば、上忍……否、それ以上。だが、制御できぬ力など、戦場においては自滅の引き金に過ぎん。油女の異端児よ、お前の価値はこれまでか」
ダンゾウの冷徹な宣告が下されようとした、その時だった。
「──あら、随分と手厳しいじゃない、ダンゾウ」
影の中から、滑り込むように現れた声があった。
低く、掠れていて、まるで地を這う生き物のような、背筋が凍るほどに魅惑的な声音。
マユが思わず顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。
長い黒髪、異常なほどに白い肌、そして、金色に輝く切れ長の瞳。その瞳の瞳孔は、まるで蛇のように縦一文字に割れている。男の纏う雰囲気は、これまでマユが出会ったどの忍とも違っていた。圧倒的な強者としての余裕、そして底の知れない「知」への狂気が、その佇まいから滲み出ている。
木ノ葉隠れの伝説の三忍──大蛇丸。
「……大蛇丸か。何用の用だ。今は『根』の選別の最中だ」
ダンゾウが不機嫌そうに目を細める。しかし、大蛇丸はダンゾウの言葉など耳に入っていないかのように、まっすぐにマユへと歩み寄ってきた。
(な、に……この人……)
マユは息を呑んだ。大蛇丸が近づくにつれ、その圧倒的なチャクラのプレッシャーに身体がすくむ。だが同時に、不思議な感覚に捉われていた。
いつもなら、他人のチャクラが近づくとマユの体内のチャクラが過剰に反応し、暴走を始めようとする。しかし、大蛇丸のチャクラは、冷たく、深く、まるでマユの体内の「熱」を凪がせるかのような、底なしの深淵を感じさせたのだ。
大蛇丸はマユの前にしゃがみ込むと、細く白い指先で、マユの顎をクイと持ち上げた。
前髪の隙間から覗く、マユの瑞々しい緑色の瞳。大蛇丸の金の瞳が、その奥をじっと覗き込む。
「ふうん……。黒と赤の髪、そしてこの瞳。油女の一族でありながら、これほどまでに濃厚で、暴力的なチャクラを宿している。面白いわね」
「この子供は術を安定させられん。印を結べば過剰なチャクラが暴発し、蟲を宿せばその熱で死滅させる。道具としては不良品だ」
ダンゾウの容赦のない言葉に、大蛇丸はクスクスと低く笑った。その笑い声は、謁見の間の冷たい空気を震わせる。
「不良品? 冗談でしょう、ダンゾウ。あなたには、この子の価値が分からないの? ……この子はね、水瓶の蛇口が壊れているのではないわ。体内の経絡系が、常人の何倍ものチャクラを『生み出し続けてしまう』特異体質なのよ。つまり、出力が高すぎるの。普通の術(回路)では、この子のチャクラを受け止めきれなくて焼き切れているだけ」
大蛇丸の言葉は、マユの心に、これまで誰も注いでくれなかった「理解」という名の雨を降らせた。
一族の誰もが、自分を「無能」だと、制御のできない「呪われた子」だと罵った。だが、この男は違う。私の身体の中で起きている現象を、正確に、そして肯定的に分析している。
「大蛇丸、お前はこの小娘をどうするつもりだ」
「私が引き取るわ。ちょうど、私の実験……いえ、研究の手伝いをしてくれる、素質の良い素体を探していたのよ。この『過剰なチャクラ』、少し手を加えて回路を整えてあげれば、化けるわよ。……どうかしら、マユ?」
大蛇丸が、マユに向かって妖しく微笑んだ。その笑みは、救いの手のようでもあり、底なしの沼への誘いのようでもあった。
「私の弟子になりなさい。あなたのその『才能』、私が扱い方を教えてあげるわ」
マユは、喉を鳴らした。
恐怖はあった。この男の側にいれば、いつかその狂気に呑まれて死ぬかもしれないという本能の警告。しかし、それ以上に、自分を「面白い」と言ってくれたこの男の瞳から、目を逸らすことができなかった。
「……お、願い……します……」
マユの小さな声。それが、二人の歪な師弟関係の始まりだった。
003
大蛇丸の実験室。そこは、木ノ葉の陽の当たる場所からは決して見えない、昏い闇の中にあった。
壁一面に並べられたホルマリン漬けの臓器、奇妙な薬液が満ちたフラスコ、そして不気味な心音を立てる培養槽。普通の子供であれば、恐怖で泣き叫び出すような空間だったが、マユにとっては、こここそが世界で唯一、自分に居場所を与えてくれる「教室」だった。
「痛むかしら?」
大蛇丸の声が響く。
マユは実験台の上に座り、全身に特殊な金属製の器具──大蛇丸が発案した忍具『チャクラ吸収器』を取り付けられていた。四肢や体幹の主要な経穴に直接針を打ち込み、過剰に溢れ出るチャクラを強制的に外部へバイパスし、吸収・貯蔵する構造だ。
「いいえ……。少し、冷たいだけで……大丈夫です、大蛇丸様」
マユはガスマスクの奥で答えた。大蛇丸の弟子になって間もなく、彼女は顔の下半分を隠すガスマスクを着用するようになっていた。過剰なチャクラの放出による呼吸器への負担を軽減するためと、大蛇丸の研究室に満ちる様々な薬品の毒素から身を守るためだ。
「そう、我慢強い子ね」
大蛇丸は満足そうに微笑み、吸収器のダイヤルを回した。
その瞬間、マユの体内を支配していた、あの不快な「熱」が、急速に引いていくのを感じた。まるで、大雨で氾濫しそうになっていた川の水が、一斉に巨大な水路へと流れ込んでいくかのような、圧倒的な爽快感。
「さあ、立って。簡単な『瞬身の術』を試してみなさい」
大蛇丸の指示に従い、マユは結印する。
(未・午・申──)
いつもなら、印を結んだ瞬間にチャクラが指先から破裂するように溢れてしまう。だが今は、吸収器が余分なエネルギーを貪欲に吸い取ってくれている。適正な量だけが、マユの意図通りに術の回路へと流れていく。
ポン、と軽い音を立てて、マユの姿が実験台の上から消え、数メートル離れた床の上に現れた。
暴発はない。完璧な、洗練された瞬身の術。
「できた……。私、術が、ちゃんと……」
マユは己の両手を見つめ、声を震わせた。初めて、自分の意志で術を完全にコントロールできた。その感動に、緑色の瞳が潤む。
「ふふ、言ったでしょう? あなたは不良品なんかじゃない。ただ、器が大きすぎただけ。これでようやく、スタートラインね」
大蛇丸はマユに近づき、その黒と赤の髪を優しく撫でた。
その手の温もりが、マユにとっては救いそのものだった。一族が誰も教えてくれなかったこと、誰も与えてくれなかった肯定を、この大蛇丸だけが与えてくれた。この時から、マユにとって大蛇丸は、単なる「暗部の重鎮」ではなく、絶対的な「先生」となったのだ。
それからの日々、マユは大蛇丸の背中を追い続けた。
大蛇丸は、マユに多くの忍術を直接手取り足取り教えることはしなかった。それは生来、油目一族として生まれたマユはチャクラが制御できるようになった今、そう遠くない未来に寄壊蟲を自身に共生させることになるからだった。
寄壊蟲は共生している忍のチャクラを食らい繁殖する。その変わりに忍の術の代わりに戦ってくれる兵士となるのだ。そのため油目一族は里の忍が使う基本忍術の殆どがチャクラが蟲の餌になっているため印を結んでも発動しない体質になっている。
故に大蛇丸はいずれ使えなくなる術を教える非効率なことはせず、マユの成長を見据えた教育を施していく。
折角使えるようになった分身の術に興奮していたマユは、さらなる術を教えてもらえない事に少し不満げだったがそこは老獪な大蛇丸である。言葉巧みにマユを誘導していった。
覚えても使えない術に価値なんてないわ、術は使えることが前提。私に無駄な時間を使わせないでくれるかしら。それよりも重要なのは、戦場を俯瞰して見る事と、無駄のない印の組み方よと彼は言った。
マユは大蛇丸と共に『根』や暗部の任務に赴き、その戦い振りを特等席で観察した。
大蛇丸の戦いは、美しく、そして徹底的に冷徹だった。敵の心理を読み、罠を張り、最小限の動きで致命傷を与える。戦場における彼の圧倒的な冷酷さと、それを支える洗練された戦術眼を、マユは乾いたスポンジのように吸収していった。
「マユ、敵の配置が変わったわ。どう動く?」
「……東の班を囮にし、西の退路に私のチャクラの残滓を罠として設置します。敵がそれに目を取られた隙に、先生の蛇で確実に仕留めるのが、最も効率的かと。実行は闇に紛れる夜より、逆に昼間の方が注意を引いて成功しやすいかもしれません」
「うふふ、素晴らしいわ。本当にあなたという子は、物覚えが良い。私の戦術が、あなたの中に染み込んでいくのが分かるわ」
大蛇丸に褒められるたび、マユの心は満たされた。
彼女が使う術のベースは、依然として油女一族由来の基礎的なものが多かったが、その扱い方や戦術の組み立ては、完全に「大蛇丸流」へと染まっていった。
しかし、そんな平穏は、マユの成長と共に再び揺らぎ始める。
004
数年が経過し、マユは十二歳になっていた。幼い容姿は残しつつ、その翡翠の瞳には幼少期にはなかった自身が宿っている。油女一族特有の黒や灰色一色の外套とは異なり、小柄な彼女には大きすぎる手がすっぽりと隠れてしまうほどの目深なジャケットだった。火傷が治りきらない肌を嫌い、マユは肌をあまり見せないような服を良く着るようになっていた。
顔には大きなガスマスクを付けて、口元を隠しているがその中で唇が弧を描いているのは誰の目にも明らかだった。実験室をてきぱきと移動して資料を整理する敬愛する大蛇丸をマユは。キラキラとした目で見つめていた。
「今日は、何の修行でしょうか大蛇丸先生」
「そうね…貴方も良い歳になったことだし、チャクラの制御も順調、そろそろ油目一族の秘伝を受け入れるのも悪くないかもしれないわね」
「先生……私、やっぱり普通の忍として術が使えるままいたいっていうのはダメですかね」
「それが、貴女の本心なら私は何も言わないわ。でも貴女、虫は好きじゃない。私が止めても任務中蝶々追いかけていったこと忘れてないわよ」
マユは気まずそうに、けれどどこか嬉しさを隠しきれない様子で、手がすっぽりと隠れるほど長いジャケットの袖をパタパタと振った。顔の下半分を覆うガスマスクの奥から、くぐもった、しかし年相応に甘えたような声が漏れる。
「あ、あはは…それは忘れてほしいです、あの時の私はちょっとおかしかったっていうか…先生と出会えて幸福の絶頂にいたっていうか…だって、それまでは術を使うたびに体中が熱くなって、誰にも見向きもされなくて、毎日暗闇の中に一人ぼっちだったんです。それを、先生が『チャクラ吸収器』で助けてくれて、初めて普通の術が使えるようになって……。嬉しくて、世界が急に明るく見えちゃったんです、そんなときに綺麗な蝶々なんてみつけたらつい追いかけたくなっちゃいませんか?」
「このガキは戦場でどこまで緊張感がないのかと、あの時は開いた口がふさがらなかったわ」
大蛇丸は呆れたように首を振ってみせたが、その金の瞳には冷酷な暗部の指導者としてのそれではなく、どこか年の離れた愛弟子をからかうような、微かな温もりが宿っていた。
「貴女のそれは自分の一族への拒否感からの言葉よ。自分をないがしろにしてきた一族に取り込まれることを恐れて自分の意思まで否定しようとしている。それは貴方の悪いところよマユ」
「それは…そうなんですけど……だから、せっかく先生のおかげで『普通の忍』として歩き出せたのに、またあの一族の、寄壊蟲を受け入れてしまったら昔の私を、『出来損ない』だった私を蔑んできたあの人たちと同じものになってしまうんじゃないかって」
大蛇丸はマユの言葉を遮ることなく、静かに聞いていた。そして、ゆっくりと歩み寄ると、マユの目深なジャケットのフードを優しく指先で撥ね上げた。
「一族への意地ね。……でも、マユ。勘違いしてはダメよ」
大蛇丸の手が、マユの頭を愛おしそうに撫でる。その冷たい手のひらの感覚が、マユにとってはどんな暖炉よりも心地よかった。
「私はあなたを、油女の凡庸な忍にするつもりなんて毛頭ないわ。あの一族の連中が、あなたのチャクラの才能に怯えて蟲を宿せなかったのは、彼らの器が小さすぎたから。あなたがこれから歩むのは、彼らの後ろを追う道ではない。溢れるチャクラと、それを喰らう無数の蟲を完全に調教し、一族の常識をすべて踏み付けにしていく道よ」
大蛇丸の金の瞳が、妖しく、そして絶対的な確信を込めてギラリと光った。
「忌み子と罵った連中の掌を、その圧倒的な力でひっくり返してやりたいとは思わないかしら? ……私はね、その光景が見たくてたまらないのよ、マユ」
先生のその言葉は、マユの心の一番深いところに、ふつふつと新しい熱を灯させた。
一族を見返したいという復讐心ではない。この人がそこまで言うなら、この人が望む私の姿があるなら──たとえそれがどれほど異形で、おぞましい蟲の道だとしても、喜んで突き進んでみせる。
マユはガスマスクの奥で、しっかりと口元を結び、前髪の隙間から緑色の瞳を強く輝かせた。
「……分かりました、先生。私、やります。油女の術も、蟲も、全部私の力にしてみせます」
「ええ、その意気よ。さあ、まずはあなたのその膨大なチャクラに耐えられる、特別な寄壊蟲の選別から始めましょうか」
大蛇丸は満足そうにくすくすと笑い、実験室の奥へと歩き出した。マユはその広い背中を見つめながら、長すぎる袖の裾をぎゅっと握りしめ、弾むような足取りでその後に続いた。
006
身体の成長と共に、彼女が体内で生成するチャクラの量は、大蛇丸の予想をも超えるスピードで増大していった。
パキィン──!
平穏が破られる日は唐突に訪れた。実験室に鋭い硬質な音が響く。
マユの全身に取り付けられていたチャクラ吸収器が、その許容量を超え過負荷によって一斉にひび割れ砕け散ったのだ。
「くっ……あ、あ、あああ……先生……っ、あつ、い、身体が……っ!」
砕け散った吸収器の破片がキンと冷たい床に転がる中、マユは激痛に耐えかねてその場に膝をついた。
ガスマスクの奥から、過呼吸気味の、悲痛な悲鳴が漏れる。
せき止められていたダムが一気に決壊したかのように、体内で暴走を始めたチャクラの奔流が、彼女のまだ幼い経絡系を凄まじい勢いで逆流していた。手が隠れるほど長かったジャケットの袖からは、包帯の巻かれた白い腕が露出しているが、その肌はまるで熱湯を浴びせられたかのように真っ赤に充血し、目に見えるほどの陽炎のようなチャクラの熱気が立ち上っている。
「……これほどの短期間で、吸収器の許容量を完全にオーバーしてしまうなんてね。私の試算を遥かに超えているわ……」
マユは床に倒れ込み、激しい拒絶反応に身を悶えさせた。
せき止められていたダムが決壊したかのように、暴虐なチャクラが再び経絡を暴走する。肌が真っ赤に充血し、体中から熱気が立ち上る。ガスマスクの隙間から、苦しげな悲鳴が漏れた。
大蛇丸は砕け散った器具の破片を見つめながら、顎に手を当てて思案した。その瞳には、落胆ではなく、さらなる未知への興奮が宿っている。
「先生……私、また、あの暗闇に……戻るのですか……?」
苦しみの最中、マユは涙を浮かべながら大蛇丸の着物の裾を掴んだ。また術が使えなくなる恐怖、また誰からも見向きもされなくなる恐怖が、彼女を支配していた。
大蛇丸はフッと口元を釣り上げると、マユの前に膝をつき、その手を力強く握りしめた。
「戻らせはしないわ、マユ。機械がダメなら……生物に吸わせればいいのよ」
「生物……?」
「そう。あなたの実家……油女一族のやり方を、ここで証明してあげるわ。彼らは、あなたのチャクラが強すぎて蟲が死ぬと言ったけれど……それは、宿す蟲の『量』と『質』が足りていなかっただけよ」
大蛇丸は立ち上がり、実験室の奥から、禍々しい妖気を放つ巨大な壺を運んできた。中からは、無数の羽虫が擦れ合う、不気味な重低音が響いている。
「普通の油女一族が宿す数倍……いや、数十倍の寄壊蟲を、あなたの体内に一気に共生させるわ。彼らに、あなたの過剰なチャクラを『餌』として与え続けるのよ。蟲たちがあなたのチャクラを喰らい、あなたが蟲にチャクラを供給する。完璧な永久機関を作り出すの」
一匹ずつ寄生させて慣らしていく一族のやり方では、虫の方が過剰なチャクラに焼き切れてしまう。ならばと大蛇丸は一度に沢山の虫を寄生させることで一匹の虫が受けるチャクラの負担を分散させようとしたのだ。だがそれは、一族のものでさえ数年に一度は死亡事故が起こる制御が難しい寄壊蟲。一歩間違えればマユの肉体が内側から蟲たちに食い破られ、骨も残らず消滅する、狂気の生体実験だった。油女一族の歴史において、そんな無茶な共生を試みた者は一人もいない。
「恐怖はあるかしら、マユ?」
大蛇丸の問いに、マユはガスマスクを外し、陶器のような色白の顔を露出させた。その表情に、迷いはなかった。
「先生の言葉なら……私は、地獄の業火だって飲み込みます」
「ふふ、良い子ね」
大蛇丸が壺の封印を解いた。
瞬間、黒い大津波のような寄壊蟲の群れが飛び出し、マユの身体へと殺到した。
「あああああああ──ッ!!」
マユの皮膚の毛穴という毛穴から、蟲たちが肉体を侵食し、経絡へと潜り込んでいく。激痛と、体内を蠢く異物感に、マユは絶叫した。
だが、大蛇丸は冷徹に、かつ正確にマユのチャクラの流れを監視し、その細い指先でマユの経穴を突きながら、チャクラの運行をサポートしていく。
「耐えなさい、マユ。あなたのチャクラの熱で、蟲たちを屈服させるのよ。主がどちらであるか、その身に刻み込みなさい!」
大蛇丸の叱咤が、マユの意識をつなぎ止めた。
マユは歯を食いしばり、体内で暴走するチャクラを、あえて蟲たちの群れへと向かって解放した。
熱と熱のぶつかり合い。蟲たちは最初、その圧倒的なエネルギーに焼かれて死滅しかけたが、マユの強靭な生命力と大蛇丸の緻密なコントロールにより、次第にその「熱」に適応し、チャクラを凄まじい勢いで吸収し始めた。
──一時間後。
実験室に、静寂が戻った。
マユは床に大の字になって倒れていた。しかし、その呼吸は深く、安定していた。
肌の赤みは完全に消え去り、むしろ以前よりも健康的で、透明感のある陶器のような美しさを取り戻している。
「……大成功、ね」
大蛇丸が額の汗を拭いながら、愉快そうに笑った。
マユがゆっくりと起き上がり、己の体内に意識を向けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。数万、数十万という通常の油女の数倍以上の寄壊蟲たちが、彼女の膨大なチャクラを吸って満足そうに、規則正しく整列して眠っている。彼らが過剰なチャクラを適度に消費してくれるおかげで、マユの精神は、生まれて初めて完璧な「平穏」を得ていた。
それだけでも最高の気分だったのだが、ふとマユは自分の身体に違和感を覚えたのだ。大量の寄壊蟲に食べられたはずのチャクラがまだ体内に残っていることに。
「これ…チャクラが」
咄嗟に呟いたマユに大蛇丸は意味深な笑みを浮かべた。
「品種改良が間に合ってよかったわ、貴方の取り込んだ寄壊蟲は貴方の器から漏れ出した制御できない余剰部分のチャクラのみを食らい尽くす。壊死した肉だけ食べるウジのようにね。本来の運用であればそれで寄壊蟲は戦闘に足るだけの数増殖できないけれど、貴方の膨大なチャクラ量ならそれを可能にできるわ」
マユは試しに印を結んだ。
(巳・未・申──)
高度なBランク忍術の印。
発動した術は、暴発することなく、マユの意図した通りの威力と範囲で、実験室の強固な障壁を綺麗に消し飛ばした。蟲を体内に宿しながら、これほど高度な忍術の制御と発動を両立させるなど、本来の油女一族の常識では不可能な芸当だった。
「信じられない……。これが、私の力……」
「ククク…素晴らしい才能よマユ」
この日を境に、里におけるマユの評価は一変した。
「術も使えない忌み子」という蔑称は消え去り、一族の誰もが彼女を「油女一族きっての天才児」と呼び、手のひらを返して擦り寄ってきた。
しかし、マユはそんな一族の連中を、冷ややかな緑色の瞳で見つめるだけだった。ガスマスクの奥で、彼女は小さく毒を吐く。
(私が苦しんでいた時は、腫れ物みたいに扱ったくせに。……虫唾が走るわ)
マユにとって、価値があるのは自分を認め、育ててくれた大蛇丸ただ一人。
彼女の忠誠と親愛は、すでに木ノ葉の里でも一族でもなく、この白い蛇の男にのみ捧げられていた。
005
大蛇丸の監視下で安定した力を手に入れたマユは、暗部の一員として、数々の過酷な任務をこなしていった。
大蛇丸の洗練された戦術を模倣し、膨大なチャクラと無数の寄壊蟲を操る彼女の戦闘スタイルは、敵にとって文字通りの悪夢だった。
そんなある日、マユは大蛇丸と共に、他国との国境付近での極秘偵察任務に就いていた。
そこで、二人は「それ」に遭遇した。
地響きと共に、鬱蒼とした森が割れた。
現れたのは、山を思わせるほどの巨体を持った、禍々しくも美しい、六枚の翅(はね)と一本の尾を持つ巨大な甲虫──。
「──っ! 先生、あれは……!?」
マユは息を呑んだ。全身の寄壊蟲たちが、恐怖と興奮で一斉に騒ぎ出すのを感じた。
「……まさか、こんなところで遭遇するなんてね。あれは滝隠れの里が秘匿しているはずの尾獣──『七尾』よ」
大蛇丸の金の瞳が、鋭く輝く。
巨大な尾獣は、侵入者である二人を排除すべく、凄まじいチャクラの咆哮を上げた。その一撃だけで、周囲の地形が一変する。
「マユ、退くわよ! 今の私達だけで、あれを完全に無力化するのは分が悪いわ」
「は、はい……!」
大蛇丸の指示で、二人は命からがらその場を退却した。大蛇丸の迅速な状況判断と、マユの寄壊蟲による目眩ましがなければ、確実に命を落としていたであろう死闘だった。
安全なアジトに帰還した後も、マユの脳裏からは、あの七尾の姿が離れなかった。
恐怖を遥かに超えて、マユの心を支配していたのは、圧倒的な「魅了」だった。
(なんて……なんて美しくて、巨大な蟲だったのだろう……)
油女一族の寄壊蟲は、チャクラの制御を誤ると、宿主の肉体を食い破るほどの巨大化を見せる個体が稀に存在する。それは一族の間では「失敗作」「暴走」として忌み嫌われる現象だった。
しかし、マユの発想は違った。大蛇丸の狂気を色濃く受け継いだ彼女の思考は、すでに常人のそれから逸脱していた。
(もし……あの巨大化を、完全にコントロールできたら? 意図的に寄壊蟲を巨大化させ、質量兵器として操ることができたら……。私は、先生の力になれる。誰よりも、強く……!)
それからのマユは、狂ったように研究に没頭した。
油女一族の書庫に無断で忍び込み、古今東西の文献を漁り、寄壊蟲の遺伝子や生態、チャクラによる変異の歴史を調べ尽くした。
実験室に籠もり、体外に出した寄壊蟲に、己の膨大なチャクラを一定の配分で注ぎ込む実験を繰り返す。
「この個体は、チャクラを三割注いだ時点で肉体が崩壊する……。なら、こちらの甲殻が厚い個体は……? そう、五割まで耐えられる。巨大化の速度は、私のチャクラをどれだけ食べたかに比例する……!」
ガスマスクを外し、髪を振り乱しながら、顕微鏡とフラスコに向かうマユ。その姿は、かつて自分を拾ってくれた大蛇丸の姿に酷くによく似ていた。
ある日、そんなマユの様子を見にきた大蛇丸は、実験室の床で蠢く、犬ほどの大形にまで巨大化した、禍々しい甲殻を持つ新種の蟲たちを見て、一瞬だけ目を見張った。
そして「ククク」と肩を揺らして苦笑した。
「マユ、あなたって子は……まさか、尾獣を見て『あれを作ろう』だなんて思い立つなんてね。……本当に、私に似て歪な子」
大蛇丸のその言葉は、あきれ半分、しかし深い愛おしさが混ざっていた。
マユは、長い前髪の隙間から、嬉そうに緑色の瞳を輝かせた。
「先生に似たのだとしたら、それは私にとって、何よりの誇りです」
数年後、この狂気とも言える研究は実を結ぶ。
マユは品種改良によって、様々な戦況に適応させた巨大改良寄壊蟲『甲壊虫(こうかいちゅう)』を完成させ、それを口寄せによって戦場に召喚する、唯一無二の忍へと成長を遂げることになる。
他里から、恐れを込めて『木ノ葉の毒虫』と呼ばれるようになる、その原点は、間違いなくこの薄暗い実験室と、白い蛇の男との出会いにあった。
マユにとって、大蛇丸は光だった。
たとえ世間が彼を「冷酷な悪魔」と呼ぼうとも、彼女を暗闇から救い出し、その翼を広げさせてくれたのは、大蛇丸という名の、ただ一人の「先生」だったのである。