NARUTO 甲蟲伝 作:ヘビトンボ
001
最悪の出会いから遡る事1時間前……
「コガネ、次もお願いします」
マユが印を結んで口寄せすると、ポフンと小規模な白煙と共に、最後の相棒である『コガネ』が姿を現した。相次ぐ激戦と呪印の暴走に巻き込まれ、その強靭な翅には幾つもの傷跡が残っているが、主の呼び出しに応じたコガネは、その翅を鋭く震わせた。
マユがその背中にしがみつくと、コガネは爆発的な羽ばたきで泥塗れの地面を蹴り、一気に上空へと舞い上がる。
ズキズキと鳴り響く全身の痛みをガスマスクの奥で堪えながら、マユは空中から一足飛びに、次なる任務の地へと向かって一直線に飛行を始める。地上を這って進むよりも遥かに早く、かつ障害物のない空中ルート。少しでも早く情報を持ち帰るための選択だった。
だが、鬱蒼とした森の上空へと差し掛かった、その刹那。
マユの全細胞が、急激な大気の変調と、肌を突き刺すような強烈な悪寒を感知した。
「──ッ!!」
ガスマスクの奥で赤い瞳が見開かれるのと、眼下の深緑の木々が一斉に眩い白青色の光に染まるのは、完全に同時だった。
バリィィィッ!!
鼓膜を破らんばかりの狂暴な落雷の音が、空間全体に轟き渡る。
森のあちこちの木陰に潜んでいた、雲隠れの精鋭たち──それも一や二ではない、十数人規模の忍が一斉に結託し、上空の獲物を撃ち落とさんとして放った、最大出力の『雷遁』による一斉照射だった。
雷の国より出で立つ、雲隠れの洗練された雷遁の技術。
網の目のように天へと伸びる、無数の青白い電撃の槍が、空中という遮蔽物のない絶対的な死角で、逃げ場のないマユとコガネに向かって容赦なく襲いかかった。
「……空を飛んでる以上、そういうのには対策してますよ」
死線から突き上げられる無数の雷の槍を前にしても、マユの思考は驚くほど冷徹だった。大蛇丸の研究所で、そして赤砂のサソリとの死闘の最中で、彼女の戦術眼は限界を超えて磨き上げられている。
ガスマスクの奥の赤い瞳が、迫り来る青白い閃光の軌道を瞬時にトレード。雲隠れの精鋭たちによる一斉照射は一見完璧な網に見えたが、個々のチャクラ量や結印のタイミングの僅かなズレにより、一瞬の、そして針の穴ほどの「ムラ」が生じていた。
「コガネ、右三十度、そのまま直下……次は左へ!」
マユの鋭い指示に、コガネは信じられないほどの機敏さで応じた。
強靭な翅を極限までしならせ、空中を滑るように急制動をかける。バリバリと空間を灼き、空気をオゾン臭で満たす雷の柱を、マユはまさに皮一枚、髪の毛一筋の差で次々と躱していく。電撃の余波が放つ熱風がガスマスクを掠め、全身の産毛が静電気で逆立つ。しかし、そのどれもが彼女の肉体に直撃することはなかった。
「……避けられただと!?」
「なんだあれは……あの速度の雷遁を、空中で目視して躱したというのか!?」
森の中から迎撃の雷を放っていた雲隠れの精鋭たちの間に、驚愕と動揺が走る。
必殺を確信していた一撃を、まるで最初から軌道を知っていたかのように紙一重で嘲笑うかのように通り抜けた異形の羽虫と、その背に跨る木ノ葉の忍。
その異様な戦闘スタイルと、呪印のチャクラの名残で僅かに変色した禍々しい姿に、一人の忍がハッと目を見開いた。
「あの赤と黒の髪……蟲を使う忍術……! まさか、木ノ葉の『毒虫』か!?」
今や前線でその悪名を広めつつある存在。赤砂のサソリを相手に前線を死守し、怪物を追い払ったとされる、木ノ葉の忌むべき若き防壁──。
雲の忍たちが口々に戦慄の声を上げ、畏怖の眼差しを向ける中、コガネは彼らの真上を爆風のような速度で一気に通過していく。
「……木ノ葉の毒虫ってなんですか?」
眼下を過ぎ去る雲の忍たちの焦燥しきった顔を見下ろしながら、マユはガスマスクの奥で、心底不可解そうに小さく首を傾げた。
サソリとの戦いを「撃退」として処理され、里の英雄として祭り上げられ始めた結果、他国にはいつの間にかそんな禍々しい二つ名で知れ渡っていたらしい。
せめて『白い牙』や『黄色い閃光』のような、もう少し格好の良い名前はなかったのだろうか──そんな、緊迫した戦場にはおよそ不釣り合いな不満を胸に抱きながら、マユはコガネを背に飛び回る。
雲隠れの忍たちは、そのままマユを送り出すほど甘くはなかった。
驚くべきことに、空中での曲芸染みた回避を見せつけられ、明確な実力差を突きつけられたはずの雲の忍たちが、一斉に木々を蹴ってマユの影を追いかけてきたのだ。
上空へ向けて次々とクナイや風魔手裏剣が投擲され、さらに空中へ跳躍しながらの雷遁がマユの退路を塞ぐように放たれる。その一人一人の顔は、恐怖に歪みながらも、絶対にここを通さないという決死の形相に染まっていた。
(……おかしい。普通なら一度距離を置くはずなのに、なりふり構わず追ってくる。……よっぽど、この先に私を近づけたくないんだ)
それは、この方面の先に雲隠れにとって絶対に他国に知られたくない重要拠点があるか、あるいは彼ら自身が何らかの命がけの戦線を死守している証拠でもあった。
だが、理由がどうあれ、執拗に喰らいついてくる精鋭たちを背負ったまま飛行を続けるのは、コガネの体力を削り、いずれ致命的な一撃を被弾するリスクを高めるだけだ。
「……そこまで死にたいなら、良いですよ」
ガスマスクの奥で、マユの赤い瞳が冷酷な光を宿した。
これ以上、痛む身体を労りながら鬼ごっこを続けるのは時間の無駄だ。流石にこの執念を振り切ることは難しいと瞬時に計算を終えたマユは、コガネの頭を急角度で下方に向けさせた。
「コガネ、急降下!」
応、とばかりに翅の音を変えたコガネが、重力に従って文字通り垂直に墜落するような速度で地上へと突っ込んでいく。
向かってくる雲の忍たちの驚愕の表情が、ガスマスクのレンズ越しにみるみる拡大される。
マユは落下の勢いをそのまま殺傷力へと変えるべく、自らの袖口へとチャクラを送り込み、無数の蟲たちの羽音を戦場に響かせながら、迎撃のために両手を広げた。
『秘術・蟲玉』
急降下の風圧にガスマスクを叩かれながら、マユが冷徹に、短く呟く。
広げた両の袖口から、ドス黒い雲のような密度の蟲たちが爆発的に噴き出した。
それは、敵のチャクラを感知して群がり、その肉体ごと喰らい尽くす油女一族の恐るべき秘術。
「う、うわああああああっ!?」
迎撃しようと空中に跳躍していた雲の忍の一人が、逃げ場のない空中であっという間に蟲の濁流に包み込まれた。悲鳴は一瞬にして、無数の翅が擦れ合う不気味な羽音にかき消される。チャクラを吸われ、身動きの取れない肉体が球体状の蟲の塊──『蟲玉』へと変貌し、そのまま地面へと叩きつけられた。一人の忍が、瞬く間に蟲たちの餌食となっていく。
「な、なんだこれは……っ! 術が、チャクラが吸い取られて……!」
「ひ、退け! 捕まるなっ……ぎゃあああああ!」
マユが指先で次々と指示を飛ばすたび、黒い波は生き物のように形を変え、必死の形相で襲いかかってくる雲の忍たちを次々に飲み込んでいく。戦場に一つ、また一つと禍々しい蟲の球体が形成され、雲の精鋭たちが成す術もなく沈黙していった。
その凄惨な光景を、マユはコガネの背の上から、至極冷めた目で見下ろしていた。
(サソリの傀儡に比べれば、この人たちの動きは止まっているのも同然……。でも……)
圧倒的な実力差。しかし、マユの心に油断は一切なかった。ガスマスクの奥の赤い瞳は、森の奥からさらに湧き出すように現れる、新たなチャクラの気配を敏感に捉えていた。
(おかしい。これだけの損害を出しても、まだ次から次へと人が出てくる……。この先に、一体何があるっていうの?)
油女の防壁を前にしてなお、命を投げ打つように戦場へと投入されてくる雲の忍たち。彼らの異様なまでの執念に深い警戒を抱きながら、マユは痛む身体のチャクラを再び練り直し、次なる波を迎え撃つべく身構えた。
「……霧の方角に、この規模の雲の妨害……」
マユは、次々と蟲玉に呑まれていく雲の忍たちの最期を冷徹に見届けながら、ガスマスクの奥でぽつりと呟いた。
痛む身体に鞭を打ち、コガネの背の上で戦況を俯瞰する。
彼女が今向かっているのは、間違いなく『霧隠れ』の調査任務に指定された方角だった。しかし、そこでマユの前に立ち塞がり、自らの命を文字通り使い捨ての壁にしてまで足止めを測ってきたのは、霧ではなく『雲隠れ』の精鋭たちだ。
他国の領域、あるいはその境界線近くに、これほどの規模の戦力を潜伏させ、なりふり構わず木ノ葉の忍を排除しようとしている異常な状況。
その事実がマユの冷徹な頭脳の中で、一つの最悪な線となって繋がっていく。
(ただの妨害行動じゃない。雲隠れも掴んでいるんだ……霧が、最後に追い詰められて何をしようとしているのかを。そして、それを自里に都合の良い形で利用としている……)
狐面の男から手渡された書状。ダンゾウが予測していた、霧隠れの「爆弾」──尾獣・三尾の投入。
当初はどこか現実味の薄かったその最悪のシナリオが、目の前の雲の忍たちの必死な形相によって、一気に現実味を帯びて迫ってくる。忍界を根底から揺るがすような巨大なチャクラの怪物が、すぐそこで目覚めようとしているのだ。
「……これは、信憑性が増してきましたね……」
マユの赤い瞳が、ガスマスクのレンズの奥でいっそう冷たく冴え渡る。
自分が今、ただの大戦の局地戦ではなく、世界の命運を左右する巨大な濁流の渦中に立たされていることを、彼女は嫌というほど理解した。
「……これは、地道に潰してる場合じゃないですね。早く指示された場所に行かないと戦況が変わる……」
マユは眼下に広がる戦場を見下ろし、小さく舌打ちをした。
ここにいる雲の忍をいくら 蟲玉で 葬ったところで、彼らはただの足止めに過ぎない。霧隠れが『爆弾』を起動させ、雲隠れがそれを巡って動き出しているのだとしたら、一分一秒の遅れがそのまま取り返しのつかない致命傷になる。
「戻りなさい」
マユが短く命じると、雲の忍たちを包み込んでいた黒い蟲の球体が瞬時に解け、その羽音の奔流がマユの袖口へと引き揚げられていく。
敵を完全に仕留めきる前に、マユは再びコガネの翅を羽ばたかせ、強引に上空へと離脱して霧の方角へ直進しようとした。追いかけてくるなら、空中で躱し続ければいい。今は潜入と情報収集が最優先だ。
しかし、コガネが再び高度を上げようとしたその刹那。
「──ッ!?」
凄まじい風切り音が、マユの直感を鋭く突き刺した。
眼下の雲の増援たち、そのさらに後方──森の深い闇の奥から、恐るべき速度と正確さで放たれた一筋の銀光。
それはマユを、いや、彼女を乗せて飛ぶコガネの翅を正確に狙って投擲された、一本の『短刀』だった。
ただの手裏剣術ではない。風を切り裂き、大気を震わせるほどの重いチャクラが刃に纏わされている。避ければ背後のコガネの頭部に突き刺さり、受ければその衝撃で飛行のバランスを完全に失う。
サソリとの死闘で痛む肉体に、再び冷たい緊張が走る。マユは咄嗟に身を翻し、急激な攻撃の軌道を見極めようと、ガスマスクの奥の赤い瞳をその「刃の主」が潜む森の奥へと向けた。
「ムシは無視してフェードアウト!俺様登場、援護上等!!」
韻を踏んだ、奇妙に陽気で、しかし圧倒的な威圧感を孕んだダミ声が戦場に響き渡る。
「……あれは……っ」
投げ込まれた短刀の軌跡を追うようにして、森の奥から猛烈な速度で跳躍してきた影。独特のサングラス、背中に背負った何本もの刀、そして褐色に引き締まった巨躯。
マユはガスマスクの奥で息を呑み、己の判断の遅れを瞬時に悟った。
(しまった……長居し過ぎた……!)
雲の忍たちが実力差を知りながらも、なりふり構わず命懸けで自分に喰らいついてきた本当の理由。それは単にこの先の防衛線を死守するためだけではない。この「本命」が戦場に到着するまでの時間を稼ぐため、自分をこの場に引き留めるための肉の壁だったのだ。
着地と同時に、男の身体から噴き出したのは、今まで感じたことのないほど禍々しく、そして悍ましい暴虐のチャクラ。それは、記録として目にしたことのある、あるいはサソリを前にした時に感じた死線すらも容易に塗り替えるほどの、圧倒的な「質」の暴力だった。
雲隠れの忍にして、八尾の人柱力──キラービー。
「サソリの次は、八尾の人柱力ですか……っ!」
マユはコガネの背の上で、悔しさに奥歯が砕けんばかりに歯噛みした。
まだ呪印の反動でチャクラの経絡はズタズタ、身体の痛みも引いていない。サソリの時と同じように、いや、それ以上に世界の理不尽が、木ノ葉の「下忍」に過ぎないマユの前に立ち塞がる。
逃げるか、戦うか。
霧隠れの『三尾』を巡る混沌とした戦場で、最強最悪の乱入者を前に、マユの赤い瞳が冷たい汗と共に激しく揺れ動いた。
002
「……任務遂行のために、ここで立ち止まってはいられないんですよ……!」
マユは痛む身体を鼓舞し、瞬時に結印する。八尾の人柱力という文字通りの「怪物」を相手に、今の満身創痍な状態で正面から付き合うなど自殺行為でしかない。まずはこの場を離脱し、霧隠れの方角へ向かうのが最優先だ。そう決断したマユの行動は早かった。
『秘術・五里蟲中』
マユの袖口から、視界を完全に遮断する特殊な微小蟲の群れが爆発的に噴き出し、辺り一面を分厚い黒煙のような帳で包み込む。チャクラを乱す蟲の煙幕。これで一瞬でもキラービーの五感とチャクラ感知を狂わせ、コガネの飛行で一気に死線を脱する──そのはずだった。
だが、その視界ゼロの煙幕を、悍ましい赤いチャクラの衣を纏った影が力任せに切り裂いて突進してきた。
「なっ……!?」
「ムシを刺す♪ 敵刺すキラービー♪ ウィィィィィィ!!」
奇妙なラップが、凄まじい風圧と共にマユの耳元で炸裂する。五里蟲中の煙幕など、八尾の圧倒的なチャクラの奔流の前には、吹き飛ばされる塵芥も同然だった。
キラービーの身体が、信じられないアクロバティックな軌道で空中を舞う。関節の各部に挟み込まれた何本もの短刀が、まるで生き物のように不規則な閃光となってマユを襲った。
ガキィンッ!
マユは手にしたクナイで辛うじて最初の一撃を弾くが、その衝撃だけでズタズタの経絡に激痛が走り、ガスマスクの奥で血の味が広がった。先日のサソリとの死闘による疲労と呪印の反動が、確実に彼女の反応速度を鈍らせている。
(……っ、この人……私の避ける先を、最初から読んで……!)
キラービーの攻撃は粗野に見えて、計算され尽くしていた。マユが痛む身体で必死に躱したその退路に、すでに次の刃が「置かれて」いるのだ。卓越した変幻自在の剣技。
「く……っ!」
このままでは空中から叩き落とされると判断したマユは、コガネの翅を強く叩かせ、一気に後方へとバックステップを試み、どうにか距離を取る。
しかし、キラービーはその隙を逃さない。手中に残った短刀を、まるでクナイのように目にも留まらぬ速さで投擲してきた。チャクラを纏った刃が、キィンと空気を引き裂いてマユの急所へと迫る。
「しまっ……!」
身体が重い。思うように動かない足を強引に動かし、紙一重で刃を躱していくが、掠めた風圧だけで皮膚がピりピリと裂け、体勢が大きく崩れる。避けるだけでも精一杯。完全に主導権を握られ、霧隠れへ向かうどころか、その場に釘付けにされたマユは、じわじわと死の足音が近づくのを感じていた。
「しかたありません……ね」
ガスマスクの奥で、マユは覚悟を決めた。
このまま削られ続ければ、霧隠れに辿り着く前にここで八尾の錆にされる。五体満足で任務を遂行するという選択肢は、キラービーが目の前に現れた時点で消滅していた。
マユはズタズタになった経絡へ、強引に「あの力」を呼び込む。
首筋に刻まれた大蛇丸の呪印が、生き物のようにドクドクと脈動を始めた。
赤黒いチャクラがマユの身体を包み込み、皮膚の表面に、毒々しい六角形の幾何学文様が急速に広がっていく。それはまるで、蜂の巣のようでもあり、彼女を縛り付ける新たな呪いの檻のようでもあった。
「なんだ、蜂の巣……お前の身体もハチノス♪ 韻を踏むには、お誂え向きの姿(ルックス)!!」
キラービーはマユから放たれる不気味なチャクラに一瞬だけサングラスの奥の目を細めたが、怯むどころか、さらにラップの調子を上げて短刀を構え直す。
だが、マゆは自身の身体に起きた「異変」に、ガスマスクの奥で僅かに目を見開いていた。
(……痛みが、ない……?)
サソリとの戦いであれほど彼女を苦しめ、肉体を内側から破壊するようだった呪印の激痛。それが、今回は驚くほど滑らかに、すんなりと肉体に馴染んでいる。
短期間で何度も呪印を強制解放した結果、マユの肉体が、大蛇丸の仕掛けた「呪い」のチャクラに急速に適合し始めていたのだ。それが人としてどれほど致命的な狂気への一歩であるかを理解しつつも、今はその溢れ出る力に頼るしかなかった。
「……ハチノスになるのは、そっちです」
ドッ!!!
「『蜂突』!」
呪印によって爆発的に跳ね上がった身体能力。マユが背後の大木を蹴りつけた瞬間、木幹が蜘蛛の巣状に爆ぜ、彼女の姿が文字通り一瞬にしてブレるように掻き消えた。
残像すら残さない、圧倒的な直線速度。
突如として視界から消えた木ノ葉の毒虫に、さしものキラービーも「なにっ……!?」と、その陽気なラップをピたりと止め、サングラスの奥で周囲の気配を鋭く警戒した。
キィィィンッ!!!
空気を引き裂く甲高音と共に、キラービーの耳元をマユの『蜂突』による手刀がかすめた。
超高速の一撃を首を傾けて間一髪で躱したキラービーだったが、その直後、背後からドゴォォォンッ!と凄まじい衝撃音が響く。振り返れば、マユの手刀が直撃した大木の幹に、まるで砲弾でも撃ち込まれたかのような巨大な風穴が穿たれていた。
「……ッ!」
キラービーの額から、一筋の冷汗が伝う。陽気だった男の顔から完全に余裕の笑みが消えていた。
「お前の技みたことある、何処で知ったそれ雲の技……!」
サングラスの奥の目を鋭く光らせ、キラービーが低く問い詰める。
直線的な超高速移動から、チャクラを集中させた部位で相手を貫く。その体術の理合は、紛れもなく雲隠れが誇る『忍体術』の系譜──それも、雷影の血筋に連なる者たちが使う高速戦闘の戦術そのものだった。
呪印の文様を全身に浮かび上がらせたマユは、引き抜いた手刀から木屑を払いながら、ガスマスクの奥から冷淡な声を返した。
「ああ……貴方は雲隠れでしたね……。そうですよ、これは貴方方の先代の影の方から参考にさせてもらいました」
「参考って……そんだけでマネできるなら苦労はねぇよ、バカヤロー、コノヤロー!」
キラービーが呆れと驚愕の混じった怒声を上げる。
三代目雷影の圧倒的なスピードと破壊力を「参考にした」などと言って、下忍の身、それも他国の忍が呪印の力だけで形にできるわけがない。だが、大蛇丸の研究所で世界中の忍術や生体データを貪るように学び、その「構造」を脳内に叩き込んでいたマユにとって、呪印による爆発的なチャクラと肉体強化さえあれば、それは再現不可能な技術ではなかった。
「……天才って、嫌ですよね。私自身、そう思います」
自嘲気味に呟きながら、マユは再び大木を蹴る。
呪印のチャクラが馴染み、痛みが消えたことで、彼女の肉体はかつてないほど鋭利な「武器」と化していた。八尾の人柱力を前に、マユは霧隠れの地へと道を切り開くため、さらなる高速戦闘の構えをとった。
『蜂突蓮華』。再びマユの姿がぶれ、キラービーの視界からかき消える。
だが、今度はサソリに見切られた、ただの猪突猛進な直線攻撃ではない。
それは、凄まじい回転を加えながら、縦横無尽に平面を這うような、蜂突の連続波状攻撃だった。
ドゴォン! ドサァッ!
「右ッ……いや、上か!? チクショー、速すぎるだろ、バカヤロー!!」
キラービーがサングラスの奥で目を剥く。
彼の視界には、もはやマユの姿は一人ではない。超高速の回転移動が残像を生み、まるで数人のマユが同時に、異なる方向から、一糸乱れぬ連携で襲い掛かってきているかのように『分裂』して見えていた。
残像の一つを手刀で切り裂いた直後、死角から別の残像が放った蹴りがキラービーの脇腹を捉え、その巨躯が強引に空中へ弾き飛ばされる。
変幻自在、予測不能の『蓮華』の軌道。
呪印に馴染んだ肉体が放つ、悪夢のような連続蜂突に、さしもの八尾の人柱力も完全に主導権を奪われ、防御に回ることしかできなかった。
手応えはあった。マユが放った『蜂突蓮華』の嵐のような連続攻撃は、寸分の狂いもなくキラービーの肉体を捉えるはずだった。しかし、その刃が彼の肌に届く直前、猛烈な赤黒いチャクラの奔流が爆発的に膨れ上がり、物質としての圧倒的な質量を持った「尾」となってマユの前に立ち塞がった。
ドゴォォォンッ!!!
「……っ!?」
尾獣の尾による絶対的な防御。
マユの放った超高速の衝撃は確かにその尾にしっかりと通り、チャクラの肉塊に風穴を開けるほどの凄まじい破壊力を見せつけた。並の忍なら肉体ごと消し飛んでいたであろう一撃。
だが、それは実体を持たない『チャクラの衣』が生み出した防壁に過ぎなかった。
ゴボゴボと沸き立つような不気味な音を立てて、穿たれたはずの巨大な穴が瞬く間に再生していく。ほんの数秒と経たずに、尾は元の禍々しい形状を取り戻し、その後ろに潜むキラービー自身には、掠り傷一つ届いていない。
「どんだけ突いても無駄無駄ァ! 俺様の後ろにゃ尾獣のチャクラ♪ 効かねえな、コノヤロー!」
再生の速度が、マユの攻撃速度を完全に上回っている。
呪印によって限界まで高めた体術ですら、尾獣という無限に近いチャクラの塊を前にしては、文字通り暖簾に腕押し。いくら完璧な技術で風穴を開けようとも、即座に修復される絶望的な現実を前に、マユは着地と同時にガスマスクの奥で冷たい汗を流した。
(これが……人柱力。どんなに威力を上げても、チャクラそのものを削り切らない限り、本体に届きすらしない……!)
サソリの硬質な傀儡とはまた違う、圧倒的な「再生」と「質量」の暴力。
呪印のチャクラが馴染み、身体が動くようになったとはいえ、このまま長期戦になればジリ貧になるのはマユの方だった。
「……」
ガスマスクの奥で、マゆは荒い呼吸を整えながら思考を巡らせる。
呪印の仕様により、本来なら動くはずのない満身創痍の肉体の痛みは一時的に軽減していた。麻痺しているに等しいその冷徹な頭脳で、彼女は今、目の前の怪物に対して「無謀な挑戦」をするべきか否かを天秤にかけていた。
呪印には、その先がある。
より強く、深く大蛇丸の呪いを受け入れ、禍々しいチャクラを全身の細胞に滾らせることで、肉体そのものを異形へと変質させる段階。マユはそれによる圧倒的な力の向上を、これまでの実験と実戦の中で身をもって体験していた。
だが、あれはあまりにもリスクが高すぎる。
(あの形態を使えば、この尾獣の衣を破る出力は手に入るかもしれない……。だけど……)
あの形態に移行すれば最後、精神は強烈な破壊衝動に塗りつぶされる。理性を失い、ただ目の前の敵を貪り食うだけの、獣のような木偶に成り下がる諸刃の剣。
そして、今対峙している相手はキラービーだ。
ただ獰猛に、いたずらに暴れ回るだけの獣になったところで、戦術もクソもなく、八尾の圧倒的な暴力の前に返り討ちに遭うのが関の山。万に一つも勝ち目のない、無駄な暴走に終わることは目に見えていた。
(理性を保ったまま、あの出力を引き出す方法はない……。ここで理性を捨てたら、私は二度と木ノ葉の忍(道具)としても、人間のマユとしても戻ってこられないかもしれない……)
じりじりと再生していく赤黒い尾を見つめながら、マユは自身の内側で疼く呪印の衝動を、必死に理性で押さえつける。
霧隠れの目的地へ向かうための時間は、もう一刻の猶予もない。この絶対的な壁を前に、マユの精神は極限の選択を迫られていた。
「……私は負けない」
パンッ! と、マユは両手で自身のガスマスクの上から強く頬を叩いた。硬質な音が戦場に響き、弱気になりかけていた己の心を烈火のごとく叱り飛ばす。
ここで理性を失うことを恐れて出し惜しみし、八尾の錆になるか。それともリスクを承知で限界を超えるか。どちらにせよ、ここで霧隠れの地を前にして無様に死ぬという結末だけは、絶対に受け入れるわけにはいかない。
(やるしかないなら、やって死ぬだけ……。いずれにしても死ぬくらいなら、ここでアレを限界まで暴走させて、盛大に自爆してでもこの化け物を道連れにしてやる……!)
冷徹だった脳細胞が、一転して狂気とも言える特攻の覚悟で満たされていく。
もしここで八尾の人柱力を道連れに、あるいは相打ちにでも持ち込むことができれば、雲隠れの戦力は瓦解する。それは回り回って、木ノ葉の里にいる大好きな人──自分の帰りを信じて待っている大切な先輩の『アンコ』を、戦火から護る盾になるはずだった。
「アンコ先輩……見ていてください」
ガスマスクの奥、赤い瞳に一切の迷いが消え去る。
他国の忍を、世界を揺るがす化け物を、そして自分自身をもすべて巻き込んで燃え尽きるための、最悪で最高の自爆特攻。
マユは首筋の呪印へ、これまでとは比較にならないほどの莫大で禍々しい、憎悪に満ちたチャクラを注ぎ込み始めた。その華奢な肉体が、世界の理不尽を噛み砕くための「真の異形」へと変質を始める──。
「なんだ、姿が豹変……! 俺の十八番、まるでハチだぜ転変!!」
キラービーが、驚きと興奮の入り混じったラップを響かせる。
サングラスの奥の目が捉えたのは、マユの身体に走る六角形の文様が赤黒い光を放ちながら、ドロドロと溶け出すようにその肉体を造り変えていく光景だった。
凄まじいチャクラの奔流が収まった後、そこに現れたのは、もはや人間の少女の姿ではなかった。
肌は不気味な黄色に変色し、手足には蟲の関節を持つ強靭な外骨格が形成されている。背中には巨大な蜂の翅が生え、その全体像は「蜂人間」とも形容できる、悍ましい異形の存在だった。
ガスマスクのレンズ越しに覗く赤い瞳は、だが…理性を失ってはいなかった。アンコを護るために、マユは人間であることを捨て、八尾を屠るための最悪の「道具」へと自らを羽化させたのだ。
「「……サあ、殺シ合イまショう」
ガスマスクの隙間から覗く、鋭く尖った大あごの生えた異形の顔で、マユは不気味に、歪んだ笑みを浮かべた。その声は、呪印のチャクラによって何重にもブレた、おぞましいノイズのようになって周囲の大気を震わせる。
すでに彼女の脳内は、呪印がもたらす強烈な破壊衝動に侵食されつつあった。
しかし、そのガスマスクの奥、爛々と赤く輝く瞳に宿っていたのは、ただ理性を失った獣の狂気ではない。
(死んででも、この化け物を仕留める……。ここで私がこいつを道連れにすれば、雲は引く。霧の爆弾も、木ノ葉に届かなくなる……!)
己の命と引き換えにしてでも、目の前の敵を確実に殺す。
それは、凄惨な戦場の中でマユが最期に手放さなかった、狂気的なまでの「必死の意志」だった。死への恐怖など、アンコ先輩や里を護るという妄執の前には存在しない。
凄まじい羽音と共に、マユの背中から生えた蜂の翅が激しく振動を始める。
文字通り命を燃やし尽くす自爆特攻の構えをとる蜂人間を前に、キラービーもまた、その身体から噴き出す八尾のチャクラをいっそう濃密に、そして凶悪に膨れ上がらせて身構えた。
「『蜂突』」
ノイズ混じりの声と共に、異形の蜂人間(マユ)の身体が再び残像となって、キラービーの視界から掻き消えた。
「またそれかコノヤロー、でももう効かねえバカヤロー!!」
キラービーはサングラスの奥の目をギラつかせ、姿を追うのを止めた。代わりに、自身の身体を包む禍々しい八尾のチャクラをさらに膨れ上がらせ、高密度のチャクラの衣による絶対防御を優先する。先ほどのように再生されるだけの防壁ではない。いくら速くとも、貫通力で劣るマユの体術では、この高密度なチャクラの塊を貫くことはできない──そう確信していた。
しかし。
「……なにっ」
キラービーのサングラスが、驚愕に歪む。
高密度なチャクラの衣──八尾の尾に、マユの繰り出した手刀が「当たった」その瞬間。そこには穿たれた穴ではなく、まるで熱せられた鉄がドロリと解けるように、チャクラそのものが崩れ始めたのだ。
それは貫通ではない。蟲の関節を持つ異形の手刀に纏わされた、呪印と蜂の毒が混ざり合った未知のチャクラが、八尾のチャクラそのものを「腐食」させていたのだ。
ドロ……ッ、ボロリ……。
手刀が当たった箇所から、チャクラの衣が液状化して崩れ落ちていく。再生しようにも、そのチャクラそのものが侵食されているため、修復が追いつかない。
「しまっ……!?」
キラービーは咄嗟に、その侵食された尾を蛸のように自ら切断し、腐食が本体へ及ぶのを回避する。
しかし、マユの攻撃は止まらない。立て続けに、残像を生みながらの波状攻撃が繰り出される。その度に、マユの手刀がチャクラの尾を捉え、ドロリと腐食が広がる。キラービーはその度に、泣く泣く自身の尾を切り離さざるを得なかった。
切り離されたチャクラの塊が、地面で腐食し、蒸発していく。
再生と切断の連鎖。その度に、キラービーが誇る圧倒的な尾獣のチャクラは、確実に、そして急速に削り取られていった。八尾の人柱力を前にして、木ノ葉の毒虫は、その絶対的なチャクラ量すらも蝕む恐るべき刃を隠し持っていた。
「『雀蜂針(じゃくほうしん)』なんて名付けましょうかね……」
ドロリと解けるように蒸発していく尾獣のチャクラを見つめながら、マユは歪んだ大あごを鳴らして、狂気的な笑みを漏らした。
「どうやらこの姿になった私は、私の体内で飼う蟲の毒が使えるようになっているみたいです……」
呪印の真価を発揮して変化したことで、彼女の細胞と、体内で交配を繰り返してきた兇悪な毒蟲たちの因子が完全に融合していた。ただのチャクラではない。触れた傍からあらゆるエネルギーや有機物を腐食・分解させる、超高濃度の生体毒チャクラ。それが八尾の絶対防御すら容易く溶かしているのだ。
だが、その圧倒的な力を振るいながらも、マユの脳裏には、自身の身体をここまで異常な「兵器」へと造り替えた狂気の科学者への諦念が過る。
「……先生……私の身体、弄り過ぎでは……?」
ガスマスクの奥の赤い瞳が、怒りと自嘲に細められる。
サソリの時すら引き出せなかった、己の肉体に眠るさらなる不気味な可能性。戦況を覆す力を得た喜びなどない。ただ、ここまで人外の化け物に仕立て上げられていたという事実に、ぞっとするような冷気が背筋を走る。
しかし、今はその呪われた身体のすべてが武器だ。
「さあ……もっと削り合いましょう、蛸やろう!!」
背中の巨大な翅を激しく振動させ、マユは毒のチャクラをその蟲の爪にギラギラと滾らせる。
切断を余儀なくされ、明らかにチャクラ量を減らしたキラービーへ向け、異形の蜂人間はさらなる猛毒の追撃を仕掛けるべく、その地を蹴った。
「鋭い刺突、これはひとつ、俺も本気、出すしかねぇぜ……!」
サングラスの奥の目が、かつてないほど鋭利に光る。
目で追うことすら困難な超高速の猛攻。そして、触れることすら拒絶する、八尾のチャクラの衣さえドロドロに溶かす未知の猛毒『雀蜂針』。その二つの絶望的な手札によって確実に追い詰められたキラービーは、これ以上の温存は死を意味すると悟り、自らの最大の切り札を切ることを決断した。
「……何か、仕掛けてくる……!」
ガスマスクの奥でマユは直感する。キラービーの身のこなし、そして大気をつんざくラップの残響から陽気さが完全に消え失せ、戦士としての凄まじい殺気が膨れ上がった。
次の瞬間──!!!
キラービーの巨躯が、先ほどまでとは比較にならないほど濃密で、文字通り世界を圧殺するような赤黒い禍々しいチャクラの衣に包まれる。それは人間の形を保ちながらも、まるで小さな尾獣そのものがそこに顕現したかのような異形への変化だった。
「な……ッ!?」
その圧倒的な質量と密度のチャクラに、異形と化したマユですら一瞬、完全に面食らってしまう。
だが、そのほんのわずかな硬直が、致命的な隙を生んだ。小さな尾獣と化したキラービーが、その大口を血の池のように大きく開いた時、マユはそこから繰り出されようとしている「忍術」の正体に気づくのが一瞬、遅れた。
キラービーの咆哮と共に、彼の口元へと、周囲の空間を歪ませながら黒と白の不気味な光が猛烈な勢いで収束を始める。
2:8の比率で練り込まれる、陰陽のチャクラ。
膨大なチャクラと異質な感知能力を持つマユの全身に、かつてないほどのおぞましい戦慄が走った。外骨格の下の肌が激しく鳥肌立ち、本能が「これに触れれば、細胞一つ残さず消滅する」と狂ったように警鐘を鳴らす。
尾獣の放つ最大最強の奥義──『尾獣玉』。
「……っ、マズ、い……!」
逃げようと背中の巨大な翅を激動させ、強引に身を捻ってその場からの離脱を試みるマユ。
しかし、キラービーの口元で極大の球体へと完成したそれは、すでに回避の軌道を完全に覆い尽くしていた。
ドゴォォォンッ!!!!
マユの絶望の影を光で完全に塗りつぶすように、極大の閃光となった尾獣玉が、大地を、大気を、森のすべてを消滅させながら文字通りの光の濁流となって放たれた。
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