NARUTO 甲蟲伝   作:ヘビトンボ

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幕間 『蟲と先生』

001

 

「う、うう……っ」

 

かすかな、しかし明らかな痛みを伴ったうめき声が、耳鳴りの止まない静寂の中に溶けていく。

 

マユは痺れた指先を、泥を掴むようにして微かに動かした。指先が感じる、湿った土の冷たさとザラついた感触。

朦朧(もうろう)とする意識の混濁の中で、彼女は「自分は今、どうなっているのか」を必死に手繰り寄せようとした。

 

(そうだ……私は、確か……あのキラービーの……)

 

記憶の最後にあるのは、視界のすべてを白く染め上げた、あの絶対的な絶望の閃光。八尾の人柱力が放った、文字通りすべてを塵に還す『尾獣玉』の暴虐。あれを、私は至近距離で浴びて──。

 

(なら……私は、死んだの……?)

 

ここが黄泉の国なのか、それとも。

だが、肺に流れ込んでくる焦げ臭い空気の苦しさも、全身の細胞が悲鳴を上げているような焼き付く痛みも、あまりにも生々しい。

いや、そもそも「意識がある」ということ。こうして泥の冷たさを感じ、思考を巡らせているということ自体が、まだ自分が現世に繋ぎ止められている──生きているということの、何よりの証明だった。

 

しかし、なぜあの直撃から生き残れたのか。

呪印のあの形態が盾となったのか、それとも別の要因か。

限界を超えて酷使した脳の経絡はズタズタで、どれだけ答えを求めようとしても、霧が立ち込めるように思考がまとまらない。

 

異形化が解けつつあるのか、肌に走る六角形の文様が弱々しく明滅する中、マユはただ、生きている不条理と、泥の味のする暗闇の底で、必死に意識の灯火を繋ぎ止めようとしていた。

 

002

 

マユがはっきりと意識を取り戻した時、周囲を包んでいた硝煙の向こうには、恐ろしいほどの静寂が広がっていた。

 

首を微かに動かして見回すも、あの八尾の人柱力・キラービーの姿はどこにもない。そればかりか、執拗に自分を追い詰めていた雲隠れの追手たちの気配すら、完全に消失していた。静まり返った荒れ地の中に、マユはただ一人、ぽつんと取り残されている。

 

「……っ、が、あ……」

 

視線を自身の身体へと落とした瞬間、マユは息を呑んだ。

呪印のチャクラによる麻痺が解け、視界が鮮明になったことで、自らの肉体が迎えている「絶望的な現実」が、容赦のない激痛と共に脳を突き刺す。

 

右腕の骨はあり得ない角度に折れ曲がり、衣服を突き破って白い骨牙が覗いている。地面に投げ出された両足も、膝から下が完全に砕け、あらぬ方向を向いていた。そして何より、彼女が倒れ伏す周囲の大地は、抉られたクレーターのようになっており、そこにマユ自身のものと思われる大量の血が、凄惨なほど赤黒く飛び散っていた。

 

人間なら、とうに失血死していてもおかしくない、文字通りの致命傷。

 

(……ああ。なるほど……)

 

朦朧とする頭で、マユは一つの推論に辿り着く。

あのキラービーですら、尾獣玉の直撃を浴び、これほどまでに五体が損壊し、大量の血を流して転がっているマユの姿を見て──『流石に、これで死んだ』と判断したのだろう。人柱力としての任務、あるいは追撃の優先順位から、わざわざ死体にトドメを刺す必要もないと見限って、この場を去ったのだ。

 

死体と誤認されるほどの、圧倒的な破壊と蹂多。

 

「……いや、本当になんで生きてるんでしょう……私……」

 

ガスマスクのひび割れたレンズの奥から、マユは自嘲気味に、掠れた声を漏らした。

生気のない唇から血の泡が零れる。

 

キラービーの誤算、そしてマユ自身にとっても予想外だったのは、彼女の身体に組み込まれた大蛇丸の実験の成果──呪印による異常な生命力の底上げと、体内の毒蟲たちが持つ異様な生存本能だった。肉体が死に瀕したことで、細胞レベルで生き残ろうとする蟲たちの蠢きが、マユの心臓を辛うじて動かし続けていたのだ。

 

生き残った。しかし、動ける身体ではない。

霧隠れの目的地を前にして、木ノ葉の道具たるマユは、血の海の中で再び訪れようとする意識の闇と戦うことになる。

 

003

 

次に目覚めた時、視界に飛び込んできたのは、見慣れた白い布の天井──再び、医療忍者の天幕の中だった。

 

あのサソリ戦の後に担ぎ込まれた場所とは、おそらく違う前線基地なのだろう。傍らでは、見覚えのない別の医療忍者が、険しい表情でマユの脈拍を測り、手際よく点滴のボトルを取り換えている。マユはただ、感覚の鈍い頭のままで、その慌ただしい動きをぼうっと眺めていた。

 

ひび割れたガスマスクは外され、代わりに酸素マスクが当てられている。身体を動かそうとしたが、あらぬ方向に曲がっていた腕も足も、厳重なギプスと医療チャクラの包帯で固定されており、指先ひとつ動かすのすら億劫だった。

 

戦傷者で溢れ返る天幕の中。すぐ近くで、怪我人の治療にあたっている別の医療忍者たちの、慌ただしくも興奮を帯びた私語がマユの耳に流れ込んでくる。

 

「おい、聞いたか……今度は雲の『八尾』を退けたらしいぞ」

「え……なんだその話、マジかよ」

「お前、聞いたことないのか? あのサソリと、雲隠れの八尾……化物共を連続で撃退した、この大戦の『英雄』が、ここに担ぎ込まれてるんだぞ」

 

英雄──。

そのあまりにも身の丈に合わない単語が耳に触れた瞬間、マユは乾いた唇を微かに震わせた。

 

「……また、盛られてる……」

 

酸素マスクの内側で、ぼそりと、吐き出すように呟いた自嘲の言葉。

ただ死に物狂いで暴れ、自爆特攻を仕掛けようとして返り討ちに遭い、死体と誤認されて見逃されただけ。撃退でもなければ、英雄でもない。歪められ、誇張されていく真実に、暗澹たる気持ちが胸を焦がす。

 

だが、その呟きは、点滴を換えていた医療忍者の耳に届いていた。

医療忍者は点滴の管を整える手を一瞬だけ止め、優しく、しかしどこか切実な眼差しをマユへ向けた。

 

「……嘘でも、誇張でも、それだけあなたの活躍が、戦場にいる彼らの『希望』になっているってことですよ」

 

「希望……」

 

マユは心の中でその言葉を繰り返した。

大蛇丸の実験体にされ、蟲を飼われ、異形の呪いを受け入れた自分。木ノ葉の便利な「道具」として、死に場所を求めて戦場を這い回っているだけの毒虫が、他人の、それも命を懸けて戦う忍たちの希望になっているという矛盾。

 

皮肉な現実への困惑と、ほんの少しの割り切れなさを抱えながら、マユは重い瞼を閉じ、再び深く静かな眠りの底へと沈んでいこうとする、その時バサリ、と天幕の入り口の布が撥ね上げられ、一人の忍が姿を現した。

その顔を覆うのは、見慣れた、そして忌々しい暗部の「狐の面」。根の連絡員だった。

 

「……また貴方ですか、暇なんですか?」

 

酸素マスクの奥から、マユは酷く億劫そうな、それでいて明確な拒絶の色の混じった声を絞り出した。満身創痍の今、最も顔を合わせたくない相手だった。

 

「そう邪険にするな……今回の活躍、ダンゾウ様も評価しておいでだ」

 

狐面の男はマユの刺々しい態度を受け流し、淡々と、しかしどこか満足げな響きを帯びた声を返す。その言葉に、マユは怪我をしていない方の眉を不機嫌そうにひそめた。

 

「……任務失敗したのに、ですか?」

 

本来の目的は、霧隠れの目的地への隠密行、あるいは前進。それを八尾という想定外の戦力に阻まれ、相打ちにすら持ち込めず、死体と誤認されて生き残っただけだ。根の忍として、任務の失敗はそれだけで存在価値を否定されかねない失態のはずだった。

 

「結果はそうだな。だが、雲の八尾を足止めできた功績は大きい」

 

狐面の男は一歩歩み寄り、ベッドの傍らで腕を組んだ。

 

「……そも、今の木ノ葉にあれほどの戦力を、数時間もの間同じ場所にとどめておく戦力がどれだけいると思っている。お前が時間を稼いだおかげで、他前線の防衛線がどれほど救われたか」

 

男の声音には、お世辞や慰めではない、冷徹な事実としての『評価』が宿っていた。

 

「あまり過小評価するな。お前も十分、化け物だよ」

 

「化け物」──その言葉は、普通なら罵倒や蔑称のはずだった。しかし、大蛇丸に弄くられたこの肉体と、八尾のチャクラすら溶かした猛毒の価値を、根は正しく「兵器」として承認している。それが今のマユにとって、唯一の歪んだ救いでもあった。

 

マユは狐面の奥の視線をじっと見つめ返しながら、何も言わずに視線を天井へと戻した。

化け物でも、希望でも、何でもいい。

ただ、これほどの泥沼を生き延びてしまったという事実だけが、じわじわと彼女の重い身体に圧し掛かっていた。

 

「……それで、それだけを言いにここまで来たんですか? 流石にもう私は任務続行できませんけど……」

 

真っ当に評価されたのが気恥ずかしいのか、それとも別の感情からか。マユはギプスに包まれた頬をほんのりと朱に染め、照れ隠しのように話題を変えた。大げさにギプスと包帯で固定され、ベッドから吊り下げられている両足をひらひらと動かしてみせる。この五体満足とは程遠い身体では、これ以上の軍事行動など物理的に不可能なのは一目瞭然だった。

 

しかし、狐面の男は静かに首を横に振った。

 

「いや、お前にはもう任務はない……そろそろ大戦終結も近いだろうからな。今回俺がここに来たのは次いでだ」

 

男は淡々と事務的な連絡を口にする。だが、次の瞬間、その硬質な声音がふっと柔らかく、どこか懐かしい響きへと融解した。

 

「……それと、『よく頑張ったわね、マユ』」

 

「え……っ?」

 

男の口調の変化──そして何より、その底に滲む優しくも凛とした「聞き覚えのある声」に、マユの心臓が跳ね上がった。

ハッとして、ベッドの上で動かない身体を強引に強張らせ、目の前の狐の面を凝視する。

 

(……違う。あの『根』の連絡員じゃない……!)

 

冷静になって考えれば、いつもの狐面の男が自分をこれほど真っ直ぐに褒めてくれたことなど、ただの一度としてなかった。

それに、脳の霧が晴れるにつれて、マユは致命的な違和感に遅まきながら気づく。

 

ここはキラービーと死闘を繰り広げた、最前線から遥かに離れた後方の医療天幕だ。マユ自身は、蟲(コガネ)を使った超高速飛行で移動したからこそ、この短時間でここまで長距離を移動できた。だが、普通の忍が徒歩や瞬身でこの距離を追いかけて、今ここに先回りして現れるなど、それこそ避雷針の術などでなければ物理的に不可能なはずなのだ。

 

では、この声の主は──。

 

「……ま、さか……」

 

ガスマスクを外されたマユの唇が、驚きと、信じられないという歓喜の予感に震え始める。その視線の先で、狐面の忍はゆっくりと、その白い仮面に手をかけた。

 

「ククク……久しぶりね、マユ……」

 

狐の面がゆっくりと外され、その下に現れたのは、妖艶な笑みを浮かべた青白い肌の男──いや、そのあまりにも聞き馴染んだ、かつてマユのすべてを弄び、そしてすべてを与えた師の顔だった。

 

マユの喉が恐怖と驚愕で凍りつく。目の前にいるのは、根の連絡員でも、木ノ葉の味方でもない。里を抜け、世界を震撼させている伝説の三忍の一人。

 

「……先生」

 

混乱する頭のまま、マユの唇から無意識に溢れ出たのは、かつて音の隠れ里で彼に師事していた頃の、古い呼び名だった。

 

「……貴方まだ、私の事を先生と呼んでくれるのね」

 

大蛇丸は、琥珀色の瞳を細め、懐かしむように、そしてどこか歪んだ愛おしさを込めて目を細めた。長い舌がチロリと唇を濡らす。

 

「木ノ葉の『道具』として随分と都合よく使われているようだけれど……。サソリを退け、八尾のチャクラすら腐食させるあの『状態2』の猛毒。私の施した呪印と蟲の融合を、まさかここまで見事に開花させてみせるとはね。流石は私の可愛い実験体(生徒)だわ」

 

大蛇丸がなぜ、木ノ葉の後方医療天幕に、それも暗部の姿に変装してまでここにいるのか。

戦場の喧騒の中、マユのベッドの傍らに立つ元師の影は、圧倒的な異物感を放ちながら、横たわる彼女をじっと見下ろしていた。

 

「先生……私は……貴方はどうして里抜けなんて……!」

 

身をよじることもできないベッドの上で、マユは悲痛な歪んだ顔で問いかけた。

なぜ自分を置いていってしまったのか。なぜ里を裏切るような真似をしたのか。聞きたいこと、ぶつけたい感情は山ほどあった。

 

しかし、大蛇丸はただ意味深な笑みをその薄い唇に浮かべると、マユの言葉を優しく、そして冷徹に遮った。

 

「……語りたいことも沢山あるでしょうけど、先も言った通り私は次いでで寄っただけ。時間はあまりないわ。……それにしても、随分と無茶をしたわね。今回は、特別よ」

 

「あ……」

 

大蛇丸が、包帯に覆われたマユの首筋──あの呪印の刻印へと、そっと白く冷たい手をかざす。

マユが身構えた瞬間、首筋からドクドクと、大蛇丸の直系の禍々しくも圧倒的な密度を持つチャクラが流れ込んできた。

 

だが、それはマユの肉体を破壊し、苦しめるためのものではなかった。

大蛇丸のチャクラはマユの経絡を、そして体内の蟲たちを爆発的に刺激しながら全身を巡り、負傷した箇所を急速に活性化させていく。

 

ぐちゅり……、ぐちゅぐちゅ……。

 

「っ、あ、あ、が……っ!?」

 

あらぬ方向に折れ曲がっていた腕や、砕けて吊るされていた両足の肉が、内側から不気味に蠢き始めた。ギプスの中で骨が強引に噛み合い、割れた皮膚や血管、筋肉が、まるで時間を巻き戻すかのように急速に塞がっていく。蟲たちの生存本能と大蛇丸の細胞活性化の術が融合した、常軌を逸した超高速の医療再生。

 

激痛と引き換えに、瞬く間にマユの肉体は五体満足な状態へと修復されていく。

 

「これは、頑張った弟子へのご褒美……」

 

引き抜かれた手のひらを見つめ、大蛇丸はクククと喉を鳴らした。

 

「それと、私の優秀な『成果』への先行投資といえるかしら。──じゃあね、マユ。また会いましょう」

 

そう言い残すと、大蛇丸の身体は音もなく床へ、影へと溶けるようにして天幕の暗がりに消え去っていった。

後に残されたのは、先ほどまでの致命傷が嘘のように 完治した肉体を持ったマユと、シーツに染み付いた大量の血痕、そして「化け物」としてさらに完成度を増してしまった己の身体の不気味な拍動だけだった。

 




普通に保護者丸になってしまった。

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