NARUTO 甲蟲伝   作:ヘビトンボ

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第三章『蟲と蠍』

私が外に目を向けることが出来るまで、きっと先生は待っていてくれたんだと思います。

それはせっかく育てた作品が壊れてしまうのが勿体ないという思いからだったとしても、私はそのお陰でここに立っていることが出来るから、だから感謝を言わせてください。

ただ一つ、許せないのは……私よりも貴方を純粋な目で慕っていたあの人を置いていったこと。

 

第三章『蟲と裏切り』

 

001

みたらし団子の、あの強烈なまでの甘じょっぱさと、夕方の里の匂い。

それが、油女マユの凍りついていた世界の輪郭を、確かに少しだけ変えていた。

 

それからのマユの日常には、小さな、しかし劇的な変化が訪れる。

これまで彼女にとっての「世界」とは、大蛇丸のいる昏い実験室と、己の体を焼き焦がすチャクラの熱、そして標的を仕留めるための冷徹な戦場、その三つだけで構成されていた。それ以外の場所はすべて、自分を「忌み子」と蔑んだ冷酷な有象無象が蠢く、価値のないノイズでしかなかったのだ。

 

だが、あのハチャメチャな任務と団子屋の午後を経て、マユは気づけば、実験室の厚い鉄扉を開けて一歩外へ踏み出す回数が増えていた。

 

ある日の午後。

マユは里の外縁にある、陽の光が木漏れ日となって降り注ぐ森の広場にいた。

相変わらず目深に被った大きなジャケットに、顔の下半分を覆うガスマスクという重装備ではあったが、その足取りは以前のような陰惨さを帯びていない。

 

「……ジジ、ジ……」

 

マユが長すぎる袖の先からそっと白い指先を差し出すと、体内から数匹の寄壊蟲が這い出て、彼女の爪の上で小さく羽を震わせた。大蛇丸の過激な生体実験を生き延び、マユの過剰なチャクラを喰らって品種改良された、禍々しくも美しい、漆黒の甲殻を持つ蟲たち。

 

いつもなら実験室のシャーレの中でしか観察しなかった彼らが、本物の太陽の光を浴びて、どこか嬉しげに光沢を放っている。

 

「……あなたたちも、外の方が気持ちがいいの?」

 

ガスマスクの奥で、くぐもった、けれど微かに穏やかな声が漏れる。

ふと視線を上げると、視界の隅を、一匹の美しい紋白蝶がひらひらと舞っていくのが見えた。

 

かつて、任務中に見かけて思わず追いかけてしまい、大蛇丸に「このガキは緊張感がない」と呆れられた、あの蝶だ。あの時は幸福の絶頂にいて理性を失っていただけだと言い訳したが、今、こうして改めて陽の光の中で舞う蝶を見ると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 

「(……綺麗だな……)」

 

信じなければ心が壊れてしまいそうだった、幼い頃の夢。

『葉を食むだけの芋虫も、やがて綺麗な蝶へと変化を遂げるように。諦めなければきっと夢はかなう』

 

自分は、大蛇丸という至高の理解者を得て、芋虫から羽化することができた。一族を見返すだけの力も手に入れた。けれど、羽化した後に広がる世界を、自分は今まで一度も見ようとしていなかったのかもしれない。アンコという、眩しいほどに真っ直ぐな光に引っ張り出されて、初めてそのことに気づかされた。

 

「よっ! 何黄昏れてんだよ、暗い妹弟子!」

 

背後から、ドサリと遠慮のない音がして、聞き慣れた快活な声が響いた。

振り返ると、木の上から飛び降りてきたアンコが、両手にこれまた大量の紙包みを抱えてニカッと笑っている。

 

「……アンコ先輩。なぜ私がここにいると分かったのですか。私は気配を完全に殺していたはずですが」

マユは慌てて指先の蟲を袖へと戻し、翡翠の瞳を少しだけ尖らせて見せた。

 

「あはは! お前の蟲の気配は消せても、そのぶかぶかのジャケットは目立ちすぎなんだよ! ほら、これ!」

 

アンコはマユの隣にどっかりと腰掛け遠慮もなしに、紙包みをマユの膝の上に押し付けた。

包みを開けると、中から現れたのは、まだほんのりと温かいみたらし団子だった。

 

「お前、最近よく外に出てるって先生から聞いたからさ。どうせまた美味いもん食ってないんだろ? ほら、ガスマスク外しな!」

「……先生が、そんなことを……」

 

大蛇丸が自分の変化を気づいていたことへの気恥ずかしさと、団子を嬉々として届けてくる姉弟子の強引さに、マユはふっと小さく息を漏らした。

今度は抵抗することなく、パカッとガスマスクを外す。

 

現れた陶器のような白い素顔に、さらさらと黒と赤の髪が揺れる。マユは団子を一本手に取ると、今度は自ら進んで、小さな口でモチッと齧りついた。

やっぱり、暴力的に甘くて、美味しい。

 

「……アンコ先輩。次の任務のルートですが、私の蟲の索敵を少しは聞いてくださいね。私は、効率的な戦い方を好むのです」

「へーへー、善処しまーす! でもアタシが突っ込んだら、お前が完璧にフォローしてくれんじゃん?」

「それはあなたが無茶をするからです……!」

 

口を尖らせながら団子を頬張るマユを見て、アンコは嬉しそうにその頭をガシガシと撫で回した。

 

マユの世界は、相変わらず大蛇丸の昏い闇が中心にある。それは変わらない。

けれど、その闇の檻の隙間から差し込む陽の光を、美味しいと思える団子の味を、そして隣で騒がしく笑う姉弟子の存在を、今のマユは少しだけ「愛おしい」と思えるようになっていた。

 

絶望の淵でただ手をこまねいていた八歳の少女は、もうどこにもいない。

少しずつ、けれど確実に、油女マユは自分の足で、明るくなった世界を歩み始めていた。

 

 

002

 

 

「──ずいぶんと仲良くなったみたいじゃない、マユ」

 

いつもの昏い実験室。フラスコの中で怪しげな紫色の薬液がコトコトと音を立てる中、大蛇丸の、低く、低く地を這うような声音が響いた。

資料の束を整理していたマユの身体が、物理的にビクリと跳ね上がる。

 

大蛇丸は、お気に入りの肘掛け椅子に深く腰掛け、長い指先で顎を支えながら、妖しく金の瞳を細めていた。その口元には、すべてを見透かしたような意地の悪い笑みが浮かんでいる。

 

「先生……! な、何を仰るのですか」

 

マユは慌ててガスマスクの固定ベルトを弄りながら、前髪の隙間から翡翠の瞳を泳がせた。いつになく声が上ずっているのは、ガスマスクのフィルターを通しても一目瞭然だった。

 

「否定しなくていいのよ。最近のあなたは、任務から戻るたびにあの騒がしい子の愚痴を言うけれど……その時のあなたのチャクラ、とても安定していて『嬉しい』と叫んでいるわ。それに、以前よりも実験室の外にいる時間がずいぶんと増えたでしょう?」

 

大蛇丸はくすくすと肩を揺らした。それは、暗部の冷酷な統率者としての顔ではなく、愛弟子のささやかな成長をからかって楽しむ、意地の悪い「先生」の顔だった。

 

「ち、違います! 誤解です先生!!」

 

マユは長すぎるジャケットの袖をパタパタと激しく振り回しながら、必死に詰め寄った。その白い肌は、過剰なチャクラの熱ではなく、純粋な羞恥心で耳の根元まで真っ赤に染まっている。

 

「私はただ、あの先輩があまりにも無鉄砲で、先生の戦術を微塵も理解していないから、監視しているだけです! 放っておいたら、せっかくの先生の計画をめちゃくちゃにして、泥を塗るような真似をしかねませんから! 私が一緒に行って、先生の代わりに手綱を握ってあげているだけです!!」

 

一息にまくし立てるマユ。

 

「それに、あの団子というのも……! あれは、ただの糖分と炭水化物の塊です! 私は体内の蟲の代謝を活性化させるための、効率的なエネルギー摂取として、義務感で口にしているだけで……! 別に、美味しいからとか、お姉様と一緒に食べたいからとか、そういう軟弱な理由では、断じて、絶対に、天地がひっくり返ってもありません!!」

 

「うふふ、そう。随分と熱い弁明ね」

 

大蛇丸はますます愉快そうに目を細め、立ち上がると、マユの目の前までゆっくりと歩み寄ってきた。その圧倒的な存在感に、マユは思わず言葉を詰まらせる。

 

大蛇丸の細く白い指先が、マユの目深なフードをそっと撥ね上げた。

 

「マユ。私はね、それでいいと思っているのよ。あなたが一族を拒絶し、暗闇の中に閉じこもっていた時期は、あなたの歪な器を育てるために必要だった。けれど、今のあなたは蟲を飼い慣らし、器を広げたわ。……ならば、外の世界を見て、その過剰なチャクラを別の感情で動かすことも、あなたには良いスパイスになる」

 

冷たい手のひらが、マユの頭を優しく撫でる。

マユはガスマスクの奥で、きゅっと唇を結んだ。先生のその言葉は、アンコとの関係を許容してくれている優しさであると同時に、すべてが「大蛇丸の手のひらの上の実験」であるという事実を突きつけるものでもあった。

 

けれど、マユにとっては、それこそが心地よかった。自分はやはり、この人の観察対象であり、愛弟子なのだと実感できるから。

 

「……先生。私は、誰とどれだけ過ごそうとも、私のすべては先生のものです」

マユは素直に、しかし一途な瞳で大蛇丸を見上げた。

「私の蟲も、私のチャクラも、私のこの命も……あなたのためにしか使いません」

 

「ええ、分かっているわ、マユ。あなたは私の、本当に可愛いお人形だもの」

 

大蛇丸は満足そうに微笑み、再び机の上の研究資料へと目を戻した。

 

「さあ、お喋りはここまでよ。明日はまた、あの子と合同任務でしょう? 早く資料を片付けて、明日に備えなさい。……また『お土産』が手に入ると良いわね」

 

「……もう、先生までからかわないでください……!」

 

マユは顔を真っ赤にしたまま、ふくれっ面でガスマスクを正し、乱暴に資料を整理し始めた。

口では必死に否定しながらも、明日また、あの騒がしい姉弟子に強引に肩を組まれる瞬間を、自分の心がほんの少しだけ心待ちにしていることに、マユは気づかない振りを続けるのだった。

 

003

 

翌朝、再び下された合同任務の巻物を前に、マユは暗部の支給品である作戦机を激しく叩いていた。

 

「──ですから、アンコ先輩! 今回ばかりは本当に、絶対に、何が何でも悪目立ちは許されないと言っているのです!」

 

ガスマスクのフィルターが激しい呼吸でヒューヒューと鳴る。マユの長い前髪の奥の翡翠の瞳は、これ以上ないほど血走っていた。

机の上に広げられた指令書には、冷徹な文字でこう記されている。

 

『任務:砂隠れ国境付近に潜伏する賊の討伐。並びに、砂隠れの里の忍の動向にまつわる極秘偵察』

 

「風の国との国境付近といえば、砂嵐が吹き荒れる不毛の地。遮蔽物も少なく、ただでさえ他里の忍の侵入が目立つ場所です。賊の討伐は前座に過ぎません。本命は砂隠れの防衛網とチャクラ密度の動向を探る、完全な隠密偵察任務です。もし先方にこちらの侵入が露見すれば、砂隠れとの外交問題に発展しかねないのですよ!?」

 

マユは長すぎるジャケットの袖をパタパタと振り回しながら、必死にことの重大さをまくし立てた。彼女の体内で、主の緊張を察知した寄壊蟲たちが、微かに「ジジ……」と張り詰めた羽音を立てる。

 

しかし、対面する姉弟子はといえば、長椅子にだらしなく足を投げ出し、すでに紙包みから取り出したみたらし団子を美味そうに頬張っていた。

 

「んぐ、むぐ……ぷはぁ! 固い固い、マユは本当に頭が固いねぇ。大丈夫だって、アタシの『潜影蛇手』はね、隠密にだって使えるんだから。ほら、袖からススッと蛇を出してさ、敵が気づく前にガブッと」

 

「先輩のそれは、ススッではなくドガァンです! 前回だって罠の張ってある防壁に真っ正面から突っ込んだじゃないですか!」

 

「アはは! あれは結果オーライじゃん? あ、マユも一本食う? 砂隠れの方まで行くなら、しばらく里の団子は食えなくなるしさ」

 

悪びれもせず、タレの滴るみたらし団子を突き出してくるアンコに、マユは本気で頭痛を覚えた。

 

(どうして先生は、この任務にまでこの人を組み込んだの……? 私一人なら、蟲を空気中に溶け込ませて、息を潜めて数日で完璧な偵察報告書を仕上げられるのに!)

 

大蛇丸の意図が分からない。けれど、あの絶対的な師が「お互いに良い刺激になる」と言ったのだ。ならば、このハチャメチャな姉弟子がどれだけ暴走しようとも、自分がその手綱を握り、完璧に任務を遂行して見せるしかない。

 

「……いいですか、アンコ先輩。現地に着いたら、私の指示に従ってもらいます。勝手に団子の串を投げたり、大声をあげたりしたら、私の蟲で先輩の口を物理的に塞ぎますからね」

 

マユはガスマスクを指先でトントンと叩きながら、極冷のトーンで告げた。

アンコは「へーへー、怖いねぇ」と笑いながら、最後の一粒を器用に口に放り込み、空になった串をペッとゴミ箱に放り投げるのだった。

 

004

 

砂隠れの国境付近は、見渡す限りの赤茶けた岩肌と、容赦なく肌を焼く熱風が吹き荒れる、過酷な荒野だった。

その乾いた砂が舞い散る、巨大な岩陰の窪みに、賊が根城にしているという天幕の集落があった。

 

「……周囲の砂に紛れて、私の寄壊蟲を放ちました」

 

岩陰に潜んだマユは、目深に被ったフードの隙間から、周囲のチャクラの流れを鋭く見極めていた。水飛沫のおかげで空気中の湿度は高く、油女の蟲たちにとっては、かつてマユが育った地下演習場のように活動しやすい環境だった。

 

「天幕の内部に賊が十五人。蟲を通じて感じるチャクラの質から見て、大半は一般人の寄せ集めです。……ですが、そのさらに奥、滝の裏側に、明らかに異質な、練度の高いチャクラの反応が1つあります。これは……おそらく忍。賊の頭目にどこかの抜け忍が収まっていると考えた方が良いですね」

 

マユは隣のアンコを振り返り、ガスマスクの奥から厳しい視線を送った。

偵察で放った蟲の反応から、忍の数は暫定一人。数では勝るが、それがどうにも違和感となっていた。此処は良くも悪くも滝隠れが近すぎるのだ、調査のために短期間近づいた2人ですら、滝隠れを刺激しない様に十分に注意を払っていた。

 

だからこそ、この付近を「抜け忍が賊を従えて拠点している」という普通なら滝隠れからスパイ活動か何かだと判断されて直ぐに討伐されてもおかしくない状況にも関わらず、集団が現存している事実がどうにも不安を拭えなかった。

 

まるで砂隠れから忍を差し向けられても撃退できるといっているような…

 

「作戦を変更した方がよさそうです。何か…嫌な予感がします。

忍ではない賊の討伐は後回しで行い。まずは私が賊の頭目まで蟲を放ち正確に相手のチャクラ量を計測させます。もし、相手が私たちの手に余る存在だった場合即座に撤退する準備を整える必要が…」

 

「──よし、じゃあアタシが先陣切って突っ込むわ!」

 

「話を聴いてくださいと言っているでしょうがぁぁーーーっ!?」

 

マユの制止が鼓膜に届くより早く、アンコは不敵な笑みを浮かべて岩陰から飛び出していた。

 

「木ノ葉の御手洗アンコ様だ、お前らぁ! 派手に行こうじゃん!!」

 

洞窟の入り口で見張りをしていた賊たちが、突然現れた紫色のポニーテールの少女に一瞬呆気に取られ、次の瞬間には怒号をあげて刀を抜いた。

 

「敵襲だ! 囲めッ!」

「おらおら、遅い遅い! 『潜影蛇手』!!」

 

アンコの袖口から放たれた数匹の大蛇が、乾いた砂煙を弾き飛ばしながら賊の身体に巻き付き、巨大な岩壁へと激しく叩きつける。ズガァン、と重々しい破壊音が荒野に轟いた。

 

「ああっ、もう! だから、あれほど、隠密だと言ったのに……!」

 

マユは長すぎるジャケットの袖をぎゅっと握りしめ、半泣きになりながらも、即座に結印を始めた。

ここでアンコを見捨てるわけにはいかない。そして何より、この騒ぎで先ほどマユが感知した「異質な気配」が動いた。

 

「──騒々しいな。木ノ葉の羽虫と蛇が、僕の庭で何をしている」

 

不意に、上空の崖の上から、冷淡で、酷く抑揚のない少年の声が降ってきた。

 

砂煙が風に流されたその先。岩壁の頂に腰掛けていたのは、一人の少年だった。

燃えるような赤髪に、感情のまるで見当たらない、深い茶色の瞳。その背後には、異形の、そしておぞましい禍々しさを放つ巨大な傀儡が、カタカタと不気味な音を立てて佇んでいる。

 

マユの体内の寄壊蟲たちが、その少年の姿を捉えた瞬間、まるで天敵に出会ったかのように一斉に激しく「ジジジジジジ!!」と狂ったような警告の羽音を立て始めた。

 

「な、に……これ、は……」

マユの背筋に、これまでにないほどの極冷の戦慄が走る。

 

「マユ! 上のあいつ、ただの砂の忍じゃないよ!」

アンコも即座に獲物を賊からその少年へと切り替え、クナイを構えて鋭い視線を送る。

 

少年の名は、サソリ。

天才傀儡師にして、砂隠れの誇る最高戦力。のちに『赤砂のサソリ』として全世界の忍界にその恐怖を轟かせることになる、若き天才だった。

 

「僕の仕込み道具(賊)をこれ以上壊されるのは癪に障る。──消えろ」

 

サソリが細く、生き物とは思えないほど綺麗な指先を微かに動かした。

瞬間、彼の背後の傀儡の口がガバリと開き、そこから目にも留らぬ速度で、数千発に及ぶ黒い毒針が、雨のように二人に向かって降り注いだ。その針の先からは、浴びれば即座に神経を融解させるであろう、どす黒い毒液が滴っている。

 

「マユ!!」

「分かっています!!」

 

マユは地を蹴り、アンコの前に躍り出ると、両の袖口から自身の膨大なチャクラをこれでもかと解き放った。彼女の全チャクラを喰らって活性化した、漆黒の寄壊蟲たちが、二人の前面に巨大な、そして分厚い「蟲の盾」を瞬時に編み上げる。

 

『秘術・蟲壁の術』

 

ギチギチギチギチ!! と、激しい金属音が響き渡る。

サソリの放った無数の毒針が蟲の盾に衝突し、その凄ましき質量でマユの腕に強烈な衝撃が走る。マユの蟲たちは針に込められたサソリのチャクラの糸を貪欲に喰らい尽くそうとしたが、あまりの密度の高さと物理的な弾幕の多さに、盾が内側から悲鳴を上げ、パキパキとひび割れるように霧散し始めた。

 

「くっ、……喰いきれない!? チャクラの密度が常軌を逸しています……! このままでは破られる!」

「だったら、アタシが懐に飛び込むッ!」

 

アンコは網シャツを翻し、蟲の盾の隙間から崖の上へと一気に跳躍した。

「『潜影多蛇手』!!」

彼女の袖口から、先ほどを遥かに上回る大蛇の群れが飛び出し、サソリの肉体を文字通り圧殺せんと襲いかかる。

 

しかし、サソリは表情一つ変えない。指先をかすかに引き戻すと、巨大な傀儡がアンコの蛇の群れを一瞬で切り刻み、さらにその太い尾のような仕込み刃が、空中の一無防備なアンコの胸元を鋭く突き刺そうと迫る。

 

「危ない……っ!」

マユは親指を強く噛み切ると、滴る鮮血を素早く手のひらに広げ、激しく地面へ叩きつけた。

 

「──『口寄せ・甲壊蟲(こうかいちゅう)』!!」

 

ドォン! と、激しい白煙が荒野に爆ぜる。

現れたのは、マユが実験室で品種改良を施した、犬ほどの大きさの巨大な蟲だった。普段彼女が体内で飼育しているナノサイズの蟲とは違い、わざわざ口寄せという時空間忍術の手順を踏んで呼び出さなければならないサイズまで巨大化したそれは、丸みを帯びた頑強な容姿と、太陽の光を浴びて妖しく輝くエメラルドグリーンの光沢が目立つ甲虫だった。

 

「コガネ! 毒針を防いで!」

 

マユの鋭い号令に、口寄せされた甲壊蟲──『コガネ』は、短い脚で力強く地を蹴ると、その巨体に似合わぬ速度でアンコの前へと回り込んだ。直後、ガキィィィン!! と、サソリの傀儡の仕込み刃と、コガネの極厚の甲殻が正面から激突し、凄まじい火花が散る。

 

「チッ、硬いな……」

サソリが初めて、不快そうに眉をひそめた。

 

コガネの背中に飛び移る形で着地したアンコは、荒い息を吐きながらも、すぐに次のクナイを構える。マユはコガネを下がらせ、アンコと背中合わせになるようにして着地した。

 

マユは長すぎるジャケットの袖口から滴る自身の血を払い、ガスマスクの奥で歯を鳴らした。

(……おかしい。なぜ、砂隠れの至宝とも呼ばれる忍が、こんな場所に『一人』でいるのですか……?)

油女特有の冷徹な観察眼が、サソリの異常な状況を鋭く捉えていた。周囲に砂の忍の気配はなく、彼が口にした「僕の庭」という言葉。その答えは、サソリ自身の呟きによってもたらされる。

 

「……木ノ葉の蛇の弟子か。妙なところで嗅ぎ回られたものだ。せっかく、里の追手を処理して、次の『材料』を吟味する静かな時間を手に入れたというのに」

 

「……! 先輩、気をつけてください……あいつは砂隠れの任務でここにいるのではありません。既に……『里を抜けて』います!」

サソリの目的は、禁忌の人傀儡の研究を進めるため、里を捨てて逃亡すること。この国境の荒野は、砂隠れの追手を確実に各個撃破し、逃走経路を眩ますために彼が周到に選んだ潜伏先だったのだ。周囲の賊も、ただの実験動物に過ぎない。

 

「僕の芸術を理解できない凡愚の里など、最初から未練はない。逃亡ルートの雑音として、ここで君たちを仕留めるのも悪くないな。……僕の傀儡の材料に、ちょうどいい」

 

サソリの底冷えするチャクラを感じ、マユの直感が明確な赤信号を鳴らし続けた。もしあの傀儡の毒液が少しでも肌に触れれば、その時点で二人の命はない。

 

「……アンコ先輩、ここは私が引き付けます。私の全チャクラを暴発させ、コガネと全ての蟲を囮にすれば、あいつの足止めは可能です。……その隙に、先輩は一人で里へ逃げて、大蛇丸先生に報告を──」

 

「バカ言ってんじゃないよ!」

 

マユの冷徹な提案を、アンコは即座に猛烈な怒声で遮った。

 

「な、……何を言っているんですか!? 感情で動かないでください、二人ともここで死ぬのが一番非効率です!」

「置いてくわけないだろ! それに、あいつ今、なんて言った? お前を『傀儡の材料』にするって言ったろ!」

 

アンコは網シャツの奥で激しく胸を上下させながら、サソリを睨みつけたまま、一歩も後ろへ退こうとはしなかった。その澄んだ金の瞳には、普段の軽薄さなど微塵もなく、ただただ大切な妹弟子を「道具」扱いされ、命の生け贄にされかけたことへの、純粋で激しい怒りの炎が燃え盛っている。

 

「私の可愛い妹弟子を、あんな死人みたいなガキの玩具にされてたまるかってんだよ! 逃げるなら二人、戦うのも二人だ! アタシが正面から道を作る。マユ、お前とその綺麗な虫で、あの不気味な糸を全部食い千切れ!」

 

「アンコ、先輩……」

 

ガスマスクの奥で、マユは息を呑んだ。

あまりにも非効率。あまりにも無鉄砲。大蛇丸の教科書には絶対に載っていない、命の無駄遣い。

 

けれど──どうしてだろう。一族にいた頃なら「馬鹿な出来損ない」と冷笑していたはずのその無茶苦茶な熱さが、今のマユの胸の奥を、酷く愛おしく、そして強く揺さぶるのだ。

 

「……ハァ。本当に、どこまで調子を狂わせる人ですか、あなたは」

 

マユは諦めたように小さく息を吐くと、ガスマスクの奥で、その薄い唇を不敵な弧へと歪めた。

前髪の隙間から覗く翡翠の瞳が、照りつける砂漠の太陽の下で、サソリの赤髪に負けないほど妖しく、鋭く輝き出す。

 

「分かりました。私の全チャクラをもって、あの男の指先を、その傲慢ごと噛み潰して差し上げます。……コガネ、先輩の足場になりなさい! 行きますよ、アンコ先輩! 帰ったら団子を死ぬほど奢ってくださいね!」

 

「おう! 腹壊すまで食わせてやるよ、妹弟子!」

 

自らの歪んだ芸術のためにすべてを捨て、完全に闇へと堕ちたサソリ。

対する二人は、最悪に噛み合っていない戦術のなかで、お互いが「相手が絶対に後ろを護ってくれる」という奇妙な、しかし強固な信頼の元に動いていた。

 

コガネの背を蹴り、アンコが再びサソリのいる崖の上へと一気に跳躍する。

 

006

「──どこまでも鬱陶しい羽虫どもだ」

 

崖の上で、サソリの低い声が砂嵐の轟音を切り裂いた。感情の欠落した茶色の瞳が、初めて明確な「不快」の不気味な光を宿す。

彼はただ静かに逃亡の時を待つつもりだった。しかし、目の前の木ノ葉の忍──大蛇丸の血を引く蛇の術を操る少女と、規格外のチャクラを放つ蟲使いの少女は、彼の計算を狂わせるだけの歪な生命力を放っている。

 

それが、完璧な美を追求するサソリの逆鱗に触れた。

 

「僕の時間をこれ以上浪費させるな。……一気にすり潰してやる」

 

サソリが懐から新たな口寄せの巻物を取り出し、それを空中で激しく展開した。彼の細い指先から無数のチャクラの糸が放射状に伸び、巻物の文様に触れた瞬間、ボフンッ! と、荒野のあちこちで同時に白煙が爆ぜる。

 

現れたのは、一機や二機ではない。

それぞれが異形の武器を携え、ガチガチと関節を鳴らす十数機に及ぶ『絡繰人形』の群れだった。

あるものは四本の腕に仕込み刀を握り、あるものはその胸部から毒煙を噴き出しながら、じりじりとマユとアンコを包囲するように崖の上から飛び降りてくる。

 

「くっ、……数が多い……!」

 

マユはガスマスクの奥で、自身のチャクラが急速に削られていくのを感じていた。コガネを維持し、さらにこれだけの絡繰人形の猛攻を防ぐには、いかに品種改良された彼女の蟲であっても、物理的な限界がある。

 

「マユ、弱気になってんじゃないよ! 囲まれたって、全部叩き壊せばいいだけじゃん!!」

 

アンコは空中から迫り来る傀儡の一機を見据え、印を結んだ。

「『潜影多蛇手』!!」

放たれた大蛇が傀儡の胴体に絡みつき、強引に岩壁へと叩きつける。しかし、サソリの操る傀儡は、破壊された先からチャクラの糸に引かれ、まるで生きているかのようにパーツを繋ぎ合わせ、再び鎌を振り上げて襲いかかってきた。

 

「壊しても、あの男の糸が繋がっている限り動き続けます……! 先輩、下がってください、絡繰の隙間から毒霧が──」

 

「──させないよ!」

 

アンコはマユの前に割り込むと、迫り来る毒霧の弾幕を、自らのクナイと瞬身の術で強引に払い落としていく。

 

サソリの指先は、まるで熟練の演奏家のように、空中で見事な弧を描いていた。十数機の傀儡が、彼の意志一つで一糸乱れぬ連携を見せ、二人の防壁を確実に、そして冷酷に削り取っていく。

 

「ふん……木ノ葉の蛇の毒など、僕の調合した毒の足元にも及ばない。そのまま、その醜い肉体を腐らせて、僕のコレクションの一部になるといい」

 

サソリの放つ圧倒的な「数の暴力」と、一切の隙がない傀儡の波。

じりじりと後退を余儀なくされる中で、マユの翡翠の瞳は、過酷な砂嵐の向こうで冷酷に指先を動かす赤髪の少年を、じっと見据え続けていた。

 

(……このまま防戦一方では、確実に毒に呑まれる。ならば……やるべきことは一つだけ)

 

マユは体内の、大蛇丸の実験によって限界まで広げられたチャクラの「器」を、あえて内側から強引に抉るようにして解放し始めた。彼女の周囲の空気が、過剰なエネルギーの熱によって陽炎のように歪み始める。

 

「アンコ先輩。……あの男の十本の指、私がそのすべてを、一瞬だけ、物理的に『止めます』……狙うのは、本体だけです」

 

「──へっ、最初からそのつもりだよアタシに合わせな!」

 

絡繰人形の関節がガチガチと鳴る絶望的な包囲網の中で、二人の少女は、さらにその殺気を研ぎ澄ませていく。

 

「──無駄な足掻きを」

 

サソリの冷淡な声とともに、十数機の絡繰人形が一斉に襲いかかった。四方八方から迫る仕込み刃と、怪しく立ち込める紫の毒煙。退路は完全に断たれ、荒野の熱風すらもサソリの殺気に圧殺されていた。

 

「コガネ、防壁を最大展開! 先輩、私の真後ろへ!」

 

マユの号令に、巨虫『コガネ』がそのエメラルドグリーンの甲殻をさらに誇示するように二人の盾となり、凄まじい金属音を響かせて傀儡の第一波を弾く。だが、多角的な連動を見せるサソリの傀儡術は、コガネの死角を突いてアンコの足元へ無数の仕込み針を走らせた。

 

「おらぁッ!」

 

アンコは強靭な跳躍力でそれを紙一重でかわし、空中で身を翻しながらクナイを投擲するが、傀儡の頑強な盾に弾かれる。その一瞬の硬直を、サソリの茶色い瞳は見逃さない。

 

「終わりだ」

 

サソリの右手の指先が微かに跳ね、二機の傀儡が鋭い爪を剥き出しにして、無防備なアンコの背後へと肉薄した。

 

(──ここです。この瞬間を、私は待っていた……!)

 

マユはガスマスクの奥で、翡翠の瞳をらんらんと輝かせた。

大蛇丸の実験室で、己の肉体を焼き焦がすほどのチャクラに耐え、品種改良を重ねてきたのは、何もコガネ(甲壊蟲)だけではない。

 

マユは長すぎるジャケットの袖口を、これまでにないほど大きく広げ、体内の全チャクラを両腕の経絡へと一気に集中させた。

 

「──『秘術・蟲糸縛り(ちゅうししばり)の術』!!」

 

袖の奥、彼女の白い肌に潜ませていた特殊な変異蚕の群れが、主の莫大なチャクラを得て、一斉に爆発的な勢いでその口を開いた。

 

シュババババババッ!!!

 

放たれたのは、漆黒の蟲たちではない。太陽の光を鋭く反射する、数万、数億に及ぶ白銀の『蟲糸』の激流だった。

それは瞬時に砂嵐の熱風を切り裂き、アンコを襲おうとしていた絡繰人形の隙間をすり抜け、崖の上のサソリへと一直線に伸びていく。

 

「何……!?」

 

サソリが初めて、その感情の無い声を微かに震わせた。

 

回避は間に合わない。サソリの十本の指先、そしてそこから伸びていた見えないチャクラの糸に、マユの放った白銀の蟲糸が容赦なく、そして蜘蛛の巣のように何重にも絡みついた。

 

ギチギチギチッ……! と、肉が締まるような不気味な音が荒野に響く。

ただの糸ではない。マユのチャクラを極限まで吸い、粘性と硬度を鉄線以上にまで高められた粘着糸だ。それがサソリの指を強引に縛り上げ、その動きを完全に物理ロックした。

 

指が動かなければ、いかなる天才傀儡師であっても、その術のすべてが霧散する。

空中で牙を剥いていた十数機の絡繰人形たちが、チャクラの供給を絶たれ、まるで糸の切れた人形のようにガタガタと音を立てて地面へと崩れ落ちていった。

 

「くっ……指が、動かん……!」

縛り上げられた自身の両手を見つめ、サソリの顔が初めて屈辱に歪む。

 

マユは、己の全チャクラを放出した反動で、ガスマスクの隙間からゴホッと鮮血を吐き出しながらも、荒い息のまま崖の上の姉弟子を見上げた。

 

「アンコ先輩……!! 今ですっ!!」

 

「おうよ! よくやったマユ──ッ!」

 

アンコは懐に飛び込んで肉薄するのではなく、コガネの背を強く蹴り飛ばしてサソリの真上の死角へと跳躍すると、即座に極大のチャクラを袖口へと込めた。

 

「逃がさねぇよ! 『潜影多蛇手(せんえいたじゃしゅ)』!!」

 

バサササササッ!!! と、アンコの袖口から、先ほどとは比較にならないほど狂暴で、太く、巨大な大蛇の群れが津波のように溢れ出た。

動きを封じられたサソリは避けることもできず、その無防備な身体を、大蛇たちの鱗が幾重にも、そして執拗なまでに締め上げ、文字通り雁字搦めにして岩壁へと叩きつける。

 

「な……ッ、蛇……!?」

 

大蛇の重圧と締め付けによって、サソリの身体から骨の軋むような音が響く。サソリ本体の足止めとしては、これ以上ない完璧な一撃だった。

 

「マユ、走るよッ!!」

 

着地と同時に、アンコは迷うことなくマユの細い腕をガシッと掴んだ。

「当初の目的は偵察」というマユの冷徹な判断を、アンコはここでようやく、戦術として選択したのだ。里抜けの天才をここで深追いすれば、どんな隠し玉で相打ちに持ち込まれるか分からない。

 

「口寄せ解除……っ」

マユが途切れ途切れの声で告げると、コガネは白煙となって消え去る。

 

「しっかり掴まってな!」

アンコは満身創痍のマユを背負い直すと、背後の砂煙のなか、大蛇に絡みつかれながらも凄まじい殺気を放ち始めている赤髪の少年に、最後にニカッと不敵な笑みを向けてみせた。

 

「あばよ、赤髪のガキ! 団子でも食って頭冷やしな!」

 

ドォン! と、二人の足元から砂煙が爆ぜる。

アンコの爆発的な瞬身の術によって、二人の影は激しい砂嵐の向こうへと、一瞬にして掻き消えていった。

 

残された荒野には、大蛇の縛りをチャクラの刃で強引に切り刻み、忌々しげに自身の指の糸を引き千切るサソリの、底冷えする狂気だけが響いていた。

 

二人の戦術は最悪に噛み合っていなかった。けれど、お互いが「相手が絶対に後ろを護ってくれる」という奇妙な、しかし強固な信頼の元に動いたからこそ、二人は死線を超え、生きて木ノ葉への帰路につくことができたのだった。

 

 

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