NARUTO 甲蟲伝 作:ヘビトンボ
時系列、年齢の問題で一章のマユを暗部へ推薦した存在を油女トルネから、その父のシクロへ変更しています。ご不便おかけし申し訳ございません。
私と言う存在を語るうえで一番外せないのが大蛇丸先生です。ですが、私に日の当たる道を歩ませてくれたのは、アンコ先輩を始めとして里の皆さんのお陰だと今ならいう事が出来ます。木ノ葉は、忍には闇が付きまとう、それでも諦めずに進んだからこそ私は此処に立っている。ああ、かなう事ならもう一度あんなことが起こる前に先生を止めることが出来れば……
001
命がけの国境越えを経て、夕暮れ時の木ノ葉の里へと帰り着いた頃には、二人の身体はすっかり泥と砂にまみれていた。
演習場の片隅、誰もいない木陰に辿り着いた瞬間、アンコはマユを背中から下ろし、その場でへなへなと地面に座り込んだ。
「ぷはぁぁーーっ! 生きてる! アタシたち、生きて帰ってきたよマユ!」
「……声が大きいです、アンコ先輩」
マユはガスマスクをパカッと外し、泥のついた前髪を払いながら、深く、深く息を吐き出した。全身のチャクラを使い果たした虚脱感で、指先一つ動かすのも億劫だったが、ガスマスクの奥から現れたその素顔には、どこか安堵の色彩が滲んでいた。
(本当に……よくあの状況から生還できたものです)
一息つき、体内の蟲たちが落ち着きを取り戻したのを確認すると、マユの頭脳はいつもの冷徹さを取り戻し始めた。
今回の危機の原因は、ひとえに姉弟子の無鉄砲さと、隠密任務への理解の低さにある。生還できたのは結果オーライに過ぎない。
「あの、アンコ先輩。無事を喜び合うのは結構ですが、今回のことについては、私は猛烈に抗議させて──」
「──マユ」
厳しい口調で苦言を呈そうとしたマユの言葉を、アンコの低く、真剣な声音が遮った。
見れば、アンコは地面に膝をついたまま、深々と頭を下げていた。普段の快活で、どこか人を食ったような姉弟子の姿からは想像もつかない、絵に描いたようなド下座だった。
「……本当に、すまなかった」
「え、あ……せ、先輩……?」
予想外すぎる反応に、マユの翡翠の瞳が丸くなる。
「アタシ、完全に調子に乗ってた。大蛇丸先生の弟子になって、ちょっと強い術が使えるようになったからって、自分の実力に自惚れてたんだ。……アタシのせいで任務をめちゃくちゃにして、それだけじゃなく、マユを……お前を、あんな危険な目に遭わせた」
頭を下げたまま、アンコはぎゅっと拳を握りしめていた。その声は、大切な妹弟子を失いかけたことへの、本物の恐怖と悔恨に震えている。
「あの赤髪のガキに、お前が『材料にする』って言われたとき、アタシ、本当に頭が真っ白になった。もしお前に何かあったら、アタシ、先生に顔向けできないどころか、一生自分を許せなかった。……もう二度と、あんな無茶はしない。お前の索敵も、作戦も、これからは絶対にちゃんと聞く。だから……頼むから許してくれ、マユ」
「っ、な、ななな……何を仰っているのですか……!」
完全に話の主導権を奪われ、マユは猛烈にどもってしまった。長すぎるジャケットの袖をパタパタと振り回し、視線をあちこちへと泳がせる。
いつものように「あはは、悪かったって!」と笑い飛ばされると思っていたのだ。それならいくらでも冷徹に突き放せた。なのに、こんなに真っ直ぐに、自分のために涙を堪えるようにして謝られるなんて、計算にない。
(ずるいです、こんなの……)
サソリとの戦いの最中、自分を道具扱いした敵に対して、本気で怒って命がけで前に立ってくれたアンコの背中が、嫌でも脳裏に焼き付いている。大蛇丸の実験室の闇しか知らなかったマユの心は、あの戦いを通して、すでにこの姉弟子に大分ほだされてしまっていた。
「……はぁ。まったく、本当に、大袈裟なんですよ、あなたは」
マユはぷいっと不自然なほど大袈裟にそっぽを向き、頬を微かに赤く染めながら、くぐもった声で呟いた。
「……まぁ、そこまで深く反省しているというのなら、今回だけは不問に処してあげなくもありません。死人に口なしと言いますし、偵察としての最低限の情報は持ち帰れましたから」
「マユ……! じゃあ、許してくれるの!?」
ガバッと顔を上げたアンコの金の瞳が、一瞬でぱあっと輝く。現金なほどに分かりやすい姉弟子に、マユはため息をひとつついた。
「ええ。……ですが、それはそれとして、です」
マユはそっぽを向いたまま、長すぎる袖の先から白い指先をすっと突き出し、アンコの鼻先へと向けた。
「あの過酷な砂漠で、私の可愛いコガネも、変異蚕たちも、文字通り身を削る働きをしました。彼らの失ったエネルギーを迅速に補給するためにも……帰りがけに、団子は死ぬほど奢ってくださいね。約束、ですから」
マユのツンとした要求に、アンコは一瞬呆気に取られたように目を丸くし──次の瞬間、いつもの快活な爆笑をあげた。
「あはははは! なんだよそれ! お前、実はアタシが思ってる以上に、相当団子好きだな!?」
「なっ……! せ、先輩ほどじゃないですよ……!」
マユは顔を真っ赤にして、今度こそガスマスクを乱暴に顔へと装着した。
夕暮れ時の木ノ葉の里。赤く染まる影法師が二つ、並んで歩き出す。
大蛇丸という昏い中心(太陽)を持ちながらも、二人の間には、確かに「姉妹」のような温かい光が灯り始めていた。
002
次の日、木ノ葉の里を包む朝の光はどこか白々しく、昨日までの砂漠の熱風が嘘のように穏やかだった。
マユは日課である蟲の改良を行うため、大蛇丸の研究室の一角へ足を運んでいた。ここは師の広大な実験場であり、マユにはその中に少しだけ、個人的に間借りさせてもらっている小さな研究机がある。
その机の上で、マユは現在、じっと何かと睨めっこをしていた。
「……ううむ。やはり、甲殻の結晶構造をチャクラで緻密化するだけでは、あのレベルの物量には耐えきれません。……もっと根本的な、分子密度の結合を見直さなければ……」
彼女が視線を注いでいる先──机の大部分を占領するようにして鎮座しているのは、昨日口寄せした巨虫『コガネ』だった。
品種改良の結果生み出された、犬くらいの大きさを誇るエメラルドグリーンの甲虫。先のサソリとの戦闘において、その驚異的な機動力と硬質な防御力は、間違いなくマユとアンコの命を救う大いなる盾として役に立った。
だが、マユの頭脳はすでに冷徹な反省フェーズに入っている。
(あのままサソリとの交戦が続いていれば、コガネは早晩、あの圧倒的な物量を誇る絡繰人形たちの毒牙にかかって破られていたはずです……)
天才傀儡師の底知れなさを肌で知ったからこそ、今のままでは足りない。その反省を踏まえて、マユはさらにコガネを改良し、より強固で、より巨大な、どんな猛毒をも弾き返す完璧な蟲を作れないものかと一人で奮闘していた。
「ここの節を、もう少し肉厚にして……あ、でもそうすると、瞬発的な跳躍時のチャクラ伝達効率がコンマ数秒落ちますね。コガネ、ちょっと右の前脚を動かしてみてくだ……あ、そこは触らないで、くすぐったいです。もう、大人しくしていてください」
「きゅー」と、コガネが大きな身体を揺らし、エメラルドグリーンの触角をマユの頬へと擦り寄せる。マユは長すぎるジャケットの袖でそれを受け止めながら、ああでもない、こうでもないと眉をひそめて呟き続けていた。
机の上の大きな甲虫に「もう、めっ、ですよ」などと言いながら、ピンセットとチャクラ筆を手に真剣に格闘しているその姿は──事情を知らないはた目から見れば、まるで大きなお気に入りの猫と無邪気に戯れている少女にしか見えなかった。
「ふ、ふふ……」
不意に、暗がりから低く、湿り気を帯びた笑い声が漏れ聞こえた。
マユがびくりとして振り返ると、いつの間にか研究室の入り口に、長い黒髪を揺らした師──大蛇丸が立っていた。いつも冷徹で、何を考えているか分からないその白い顔が、机の上の「少女と巨虫の微笑ましい光景」を見て、今にも吹き出しそうに震えている。
「せ、先生……! いつからそこにいたのですか! 悪趣味です!」
マユは顔を真っ赤にし、大慌てでコガネを隠すように(犬サイズなので全く隠れていないが)両袖を広げて立ちはだかった。
大蛇丸は琥珀色の瞳を細め、長い指先で自身の口元を覆いながら、くくくと肩を揺らしている。
「ククク、ごめんなさいね、マユ。……あまりにも微笑ましい『実験』をしていたものだから、ついね。アンコといい、あなたといい……私の生徒たちは、どうしてこうも…変わっているのかしら」
楽しげに首を傾げる師の姿を見ながら、マユはジト目を向け、ガスマスクをはめる前の素顔のまま、ぽつりと溢した。
「……変な先生」
大蛇丸はそれに対しても怒る風でもなく、ただその妖しい薄笑いを深めるだけだった。歪な師弟関係、そして歪な実験室。けれどこの瞬間だけは、どこか奇妙な平穏が、その小さな研究机の周りを満たしていた。
003
陽の光の下へ目を向けるようになったマユの日常には、もう一つ、新しく加わった『日課』があった。
任務の合間を縫っては、あの騒がしい姉弟子──アンコに強引に連れ出され、里の団子屋へ出かけること。暴力的なまでに甘じょっぱいみたらし団子を口に転がし、隣で大声をあげて笑うアンコの顔を眺める時間は、気づけばマユの凍りついた心を確実に、少しずつ溶かしていた。
だが、今日に限っては、その日課が狂ってしまっていた。
『ごめんマユ! 今日はどうしても外せない用事があってさ! 団子はまた今度な!』
今朝がた、待ち合わせ場所に現れたアンコは、本当に申し訳なさそうに両手を合わせてそう言うと、嵐のように去っていった。
一人、ぽつんと木ノ葉の往来に取り残されたマユは、目深に被ったフードの隙間から、行き交う人々をぼんやりと見つめていた。
(……仕方がありませんね。先生の研究室に戻って、コガネの改良の続きでもしましょうか……)
そう思って、一度は元来た道を振り返る。けれど、その瞬間、マユの脳裏にふと奇妙な思考が過った。
──アンコ先輩が一緒じゃないなら、研究室へ帰ろう。
(……っ!?)
ガスマスクの奥で、マユの白い肌が自らの思考に対する気恥ずかしさで一気に引っくり返った。
長すぎるジャケットの袖をパタパタと激しく振り回し、誰も見ていないというのに、慌てて周囲を見回す。
(な、何を考えているのですか、私は! まるで、あの先輩がいないと外を楽しめない子供のようではありませんか! 私は油女マユ、大蛇丸先生の優秀な実験体であり、愛弟子です。別にあの人が居ないなら居ないなりに、一人で有意義な休日を過ごして見せますよ……!)
フン、と鼻を鳴らし、マユは意地になって里の中心地へと向かって歩き出した。自分はもう、暗闇の檻に閉じこもっていた八歳の少女ではない。一人で街を歩くことくらい、造作もないはずだった。
──だが、マユには致命的な問題があった。
彼女のこれまでの人生経験で培った土地勘は、大蛇丸の昏い実験室と、実家近くの演習場、アンコの家、そして任務先への最短ルートのみ。つまり、木ノ葉の里の一般的な商業区画や住宅街に関する「土地勘」が、完全にゼロだったのだ。
歩けども歩けども、目に飛び込んでくるのは見慣れない派手な看板と、同じように見える路地裏ばかり。気づけば人通りは疎らになり、どこをどう曲がったかも分からない入り組んだ住宅地の中に、マユは完全に孤立していた。
(……ここは、どこですか。なぜ、先ほどの団子屋の通りに戻れないのですか。私の蟲たちの索敵網は、このようなノイズの多い民間人の居住区を識別するようには作られていないというのに……)
ガスマスクのフィルターが、焦りでヒューヒューと小さく鳴る。完全に迷子になったことを認めざるを得ず、途方に暮れて立ち尽くした、その時だった。
「──迷子かい、お嬢ちゃん」
背後の影から、音もなく、低く、酷く平坦な男の声が降ってきた。
マユの身体が物理的にビクリと跳ね上がる。即座に迎撃のために袖の蟲たちに意識を向けようとしたが、その声の主の『チャクラの質』を認識した瞬間、マユの翡翠の瞳が驚愕に大きく見開かれた。
振り返った先に立っていたのは、マユと同じように、顔の上半分を奇妙な黒いマスクで覆った若き忍。
全身から漂うのは、油女一族のそれでありながら、同時に根の暗部としての冷徹極まる、禍々しい蟲の気配。
「……シクロ、……叔父上(おじうえ)」
ガスマスクの奥から、マユの掠れた声が漏れる。
油女シクロ。
かつて、一族の中で「過剰すぎるチャクラを持つ忌み子」として幽閉され、処分されかけていた八歳のマユを、大蛇丸の元へ──暗部養成所へと『推薦』した張本人。
マユにとっては、自分を暗闇から救い出してくれた恩人であり、同時に、自分の運命を大蛇丸の狂気へと決定づけた、因縁の男だった。
004
「……ずいぶんと見違えたな、マユ。大蛇丸様の部下として、上手くやっていけているかい?」
シクロは外套の襟を少しだけ引き下げ、底の見えない双眸でマユを見つめた。その声には、かつて忌み子として幽閉されていた少女の行く末を案じるような、微かな熱が含まれている。
その問いかけに対して、マユはガスマスクの奥で、小さく肩をすくめてみせた。
「やっていけているか、と問われれば……まぁ、死なない程度には。大蛇丸先生は、一族の誰もが見捨てた私の特異体質を『最高の素材』として肯定して、その器を広げるための術や品種改良の技術まで、惜しみなく与えてくださいました。その点に関しては、本当に感謝しているのですが……」
そこまで言って、マユは長すぎるジャケットの袖をパタパタと不満げに振り回し始めた。
「ただ、本当に『変な人』なんですよ! 私が研究机でコガネと真面目に睨めっこをしているだけで、今にも吹き出しそうに意地悪く笑ってきたり、実験室は常に薄暗くて不気味ですし、たまに何を考えているのか全く分からない妖しい薄笑いを浮かべるんです。それに、私の姉弟子にあたるアンコ先輩という人も、これまた輪をかけて無鉄砲で、隠密任務だと言っているのに正面から大声をあげて突っ込んでいくような、人の話を一切聞かない馬鹿で……でもそんな所が…あ、いえ何でもなくて。昨日も団子を死ぬほど奢らせて──」
「はは……、そうか」
大蛇丸への高い評価と、それに続く呆れるほどの愚痴のオンパレード、そして最後には何故か姉弟子への不満(という名の手の込んだノロケ)を並べ始めた姪の姿に、シクロは思わず苦笑を漏らした。
シクロの口元に、いつしか温かい笑みが浮かぶ。
かつて地下の檻で死を待つだけだった少女が、今では他人の理不尽さに文句を言い、里の団子の話を熱心に語っている。一族の因習という『呪い』から完全に解き放たれ、一人の人間として、そして忍として、感情豊かに生きているその表情を見て、シクロは心の底から救われたような深い安心感を抱いていた。
「あの頃の、一族の地下で暗い目をしていた姿に比べると……本当に、ずいぶん顔色が良くなったな」
しみじみと語るシクロに、マユは前髪の隙間から翡翠の瞳を覗かせ、あっけらかんとした調子で返した。
「それはそうですよ。あの頃は、自分の体内で暴走するチャクラに食い殺されかけていて、呼吸をするだけで精一杯……そもそも、チャクラをまともに練ることすら出来ませんでしたからね。今こうして生きて道に迷えているだけでも、あの檻の中に比べれば大進歩です」
かつての地獄のような日々を、まるで他人の事のように淡々と、どこか誇らしげに語るマユ。その強さと、彼女をそこまで変えた大蛇丸の研究所での日々に、シクロは改めて「あの時の選択は間違っていなかった」と確信するのだった。
シクロに先導され、入り組んだ住宅街をいくつか曲がると、見覚えのある賑やかな大通りへとすぐに誘い出された。遠くには、昨日アンコと入った団子屋の派手な看板が小さく見えている。
「ここならもう大丈夫だろう。──もう迷子になるんじゃないぞ」
シクロはそう言って、まるで行き先を失っていた幼い子供に言い聞かせるように、マユの頭へぽんと手を置いた。そして、不器用ながらも優しくその髪を撫でようとする。
パシッ、と小気味いい音が往来の喧騒に紛れた。
マユは長すぎるジャケットの袖で、シクロの手を少しだけ強めに振り払っていた。
「……子供扱いしないでください」
ガスマスクの奥から、低く、むくれたような声が漏れる。
マユは目深く被ったフードの縁をぐっと引っ張り、そっぽを向いた。一族に幽閉されていた八歳の頃ならいざ知らず、今の自分は大蛇丸の元で修羅場を潜り、昨日だって砂隠れの天才と渡り合ってきた一人の立派な「忍」なのだ。それを、未だに保護が必要な迷子のように扱われたことが、彼女のささやかなプライドに障ったらしい。
振り払われたシクロは、一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐにまた、姪の確かな成長を噛み締めるように苦笑した。
「そうだな。悪かった、マユ」
「分かれば良いのです。……それでは、私は研究室へ戻りますので」
マユはツンとした調子のまま、今度は迷わないよう、大通りに沿ってしっかりと足を踏み出した。
子供扱いされた気恥ずかしさで少しだけ歩調が速くなっていたが、その背中には、かつて地下の檻で死を待つだけだった弱々しさは微塵もなかった。
005
シクロと別れたマユは、結局そのまま、いつものように大蛇丸の研究室へと足を運んでいた。一人で過ごす休日など、彼女にとっては研究机に向かって蟲をいじっている時間と何ら変わりはない。
だが、重い鉄の扉を開け、研究室へと一歩足を踏み入れた瞬間──マユの全身の蟲たちが、一斉に不気味なざわめきを立てた。
「……? え……?」
ガスマスクの奥で、マユは呆然と立ち尽くした。
いつもなら薄暗い部屋の随所で怪しい光を放っていたはずの、大型の培養装置や実験器具。壁際を埋め尽くし、禁忌の術理や品種改良のデータがびっしりと詰まっていたはずの巨大な資料棚。そのすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗さっぱりと消え失せていたのだ。
がらんとした広い空間に残されているのは、マユが間借りしている小さな研究机と、そこに置かれた彼女のわずかな私物だけ。
あまりの光景に、マユは長すぎるジャケットの袖を握りしめ、のんきに首を傾げた。
「……お引っ越し、ですか? それにしても、私に一言の連絡もないなんて、先生も相変わらず手際が良いというか、大雑把というか……」
どこか別の場所へ研究室を移すのだろう。大蛇丸の弟子になって以来、そういった先生困った移動には慣れていた。だからこそ、マユはそこに大きな危機感を抱くことはなかった。
「ククク……。引っ越し、ね。相変わらず、あなたは呑気で、そして鋭い子ね、マユ」
背後の闇から、ぬうっと長い影が伸びてきた。
振り返ると、そこにはいつもの白い着物を纏った師──大蛇丸が佇んでいた。だが、その琥珀色の双眸は、いつにも増して昏く、底知れない妖しさを湛えている。
「先生。片付けるなら言ってくだされば、私も手伝いましたのに。私のコガネの新しい飼育ケースは、次の研究室のどこに置けばよろしいですか?」
素朴な疑問を投げかけるマユに、大蛇丸は音もなく近づくと、彼女の小さな頭髪に細い指先をそっと滑らせた。その手のひらは、蛇のように冷ややかだった。
「いいえ、手伝いは必要ないわ。……全ては計画通りに進んでいるのだから」
大蛇丸はマユの翡翠の瞳をじっと見つめ、その薄い唇を、これまでで最も深く、そして意味深な弧へと歪めてみせた。
「──そろそろ、潮時だからね」
「潮時……ですか?」
「ええ。この退屈な『木ノ葉の里』という器は、私の求める真理を収めるには、少々狭すぎたのよ……。ふふ、ふふふ……」
師の口から漏れ出たクククという湿った笑い声が、冷たい風となって誰もいない空っぽの研究室に木霊する。
その言葉の真意を、マユはまだ知らない。
大蛇丸がこの木ノ葉の里を永久に捨て、血の凍るような『裏切り』の夜を今まさに始めようとしていること。そしてそれが、大好きな姉弟子との、そしてこの平穏な日々との永遠の別れを意味していることに、マユが気づくのは──この数時間後のことだった。