NARUTO 甲蟲伝 作:ヘビトンボ
001
「そういえば、あの『赤砂のサソリ』と交戦したそうね」
薄暗い部屋の真ん中で、大蛇丸が思い出したようにそう呟いた。
その蛇のような細い眼眸には、かつて同じ組織で相まみえることになる天才傀儡師への、純粋な好奇心が宿っている。
マユはガスマスクの奥で、気まずそうに視線を落とした。
「……戦う気はありませんでした。私個人の戦力分析としては、あれは完全に『敗戦』です。アンコ先輩との奇妙な連携が、偶然あいつの不意を突けただけで……。私たちは、辛うじて命を拾ったに過ぎません」
「ふふ、いいわね。冷静な戦力分析が出来ているわ」
大蛇丸はクククと低く笑い、マユの目の前でゆっくりと両腕を広げた。
「貴女のチャクラは、実験の成果もあり、既にこの里の並の忍……いいえ、誰もを超えている。──でも、それだけよ。貴女には、その膨大なチャクラを最大限に活かすための、戦術規模の高い術がまだ学べていない。それに何より……」
大蛇丸の長い指先が、マユの華奢な肩へと触れる。その手は相変わらず、ゾッとするほど冷たい。
「エネルギーの総量に反して、貴女の肉体がまだ追いついていないわ。そのままだと……今回のサソリのように、貴女の蟲の防御を圧倒的な物量で突破できる敵が現れた時、貴女はそのか弱い肉体を、戦場に無防備に晒してしまうことになる」
「……っ」
突きつけられた痛烈な事実。サソリの毒針の雨に、蟲の盾が悲鳴を上げて破られかけたあの恐怖が、マユの脳裏に鮮明に蘇る。
「……仰る通り、です。私には、まだ『絶対的な力』が足りません」
ガスマスクの奥で、マユは悔しさと己の無力さに、小さく肩を震わせて落ち込んだ。大蛇丸へ師事して、試行錯誤してと色々な手段を模索してきたが、ついぞ自身の力を高めるものは会得できなかった。
筋トレは勿論、肉体改造も行ってきたが彼女の力はまだ一般的な下忍の域を出ないでいた。
そんな愛弟子の健気な絶望を見つめながら、大蛇丸の薄い唇が、これまでで最も優しく、そして最も昏い弧を描いた。
「だからこそ、プレゼントを用意したの」
「え……プレゼント、ですか?」
「ええ。貴女のその膨大なチャクラを、そのまま『最強の鎧』と『最大の兵器』へと変える、私にしか作れない最高傑作よ。……私からの、最後のプレゼント。受け取ってくれるかしら、マユ?」
大蛇丸はそう囁くと、すうっと音もなくマユの背後へと回り込んだ。
「え、最後…あ……」
拒絶を許さぬ冷徹な動きで、大蛇丸の細い指先がマユの長すぎるジャケットの襟元に掛けられる。そのまま滑るようにして、彼女が常に身に纏っていた黒いジャケットが床へと脱ぎ捨てられた。下着同然の半裸にされたマユの華奢な背中が、冷え切った研究室の空気に晒され、思わず小さく身震いする。
「先生、……何を……」
マユが戸惑いと僅かな恐怖に翡翠の瞳を揺らした、その瞬間だった。
大蛇丸の首が、人間のそれとは思えない角度と長さで、蛇のように鋭く伸長する。剥き出しにされたマユの白い首筋に向けて、その口内から妖しく光る鋭利な二本の牙が突き出された。
「──っ!?」
逃げる隙すら与えられない。大蛇丸の牙が、マユの柔らかな首筋へと深く、容赦なく突き立てられた。
「いっ……!? ぁ、あぐ、っあぁぁぁあーーーっっ!!!」
肉を引き裂く激痛の後、そこから注ぎ込まれたのは、ドス黒く、あまりにもドロドロとした『異質なチャクラ』の濁流だった。
それは瞬時にマユの首筋から全身の経絡へと駆け巡り、体内の細胞を一つ残らず焼き焦がすような、凄まじい激痛の拒絶反応となって彼女を襲う。
「あ、が……はっ、あ、あ、あああぁぁッ!!」
激痛にのたうち回るマユの首筋には、大蛇丸の血とチャクラが混ざり合い、三つの六角形を組み合わせた未知の紋様──『呪印』が、まるで焼き鏝を押されたかのように黒々と刻み込まれていく。蟲の巣(ハニカム)を連想させるその歪な形は、彼女の膨大なチャクラと蟲の力を強制的に暴発させるための、禁忌の鍵だった。
「ふふ、耐えなさい、マユ。それを乗り越えた時、貴女は真の力を手に入れる……」
大蛇丸の昏い笑い声が、狂気となってマユの薄れる意識の奥底へと響き渡る。
全身を襲う致死の激痛の中で、マユの脳裏には、昨日自分を馬鹿みたいに真っ直ぐな目で庇ってくれた、あの温かい姉弟子の笑顔が最期に過っていた──。
002
世界が激痛の闇に塗りつぶされてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
「……っ…………ぅ……」
ガスマスクを剥ぎ取られたマユの薄い唇から、微かな掠れた呻きが漏れる。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、目に飛び込んできたのは、見慣れたはずの、しかし今はがらんどうになった研究室の天井だった。
マユは、冷たい床の上で仰向けに倒れていた。
鉛のように重い身体を強引に起こそうとして、首筋に走った、身を切るような「妙な痛み」に思わず小さく悲鳴をあげる。
「いたっ……! ぁ、つ、熱い……?」
細い指先で恐る恐る自らの首筋に触れる。そこには、ただの傷ではない、皮膚の奥のチャクラの経絡を強引に縛り上げるような、禍々しい違和感がどす黒く居座っていた。
その違和感が呼び水となり、気絶する直前の記憶が津波のように脳裏に蘇る。
休日、空っぽになった研究室、大蛇丸の「そろそろ潮時だからね」という不穏な言葉、そして──背後から剥ぎ取られたジャケットと、首筋を貫いたあの冷たい牙。
「……先生、……っ」
はっと息を呑み、マユは首の痛みを堪えながら、必死に周囲を見回した。
「先生! 大蛇丸先生……! どこですか……!?」
掠れた声で叫び、誰もいない研究室の奥を何度も見つめる。
しかし、帰ってくるのは、自分の荒い呼吸と、どこか遠くで換気扇が回る無機質な音だけだった。大型の装置も、棚も、そして自分に呪印を刻み込んだあの白い肌の師も、そこにはもう、影も形もなかった。
1時間。マユの体内の蟲たちが刻んだ正確な体内時計によれば、自分が気絶していたのはそれだけの時間だ。そのわずかな間に、大蛇丸は完全に姿を消していた。
「何の説明もなく、あんな……っ。一体、私に何を植え付けたのですか……!」
首筋の三つの六角形──『呪印』が、衣服の擦れさえ拒絶するようにドクドクと不気味に脈動している。体内の膨大なチャクラが、その紋様を中心にして、今までにないほど禍々しく、そして強力に引き絞られているのが分かった。
力が必要だと言ったのは自分だ。サソリの物量に絶望したのは事実だ。
だからといって、あんな痛みを伴う『プレゼント』を強引に突き立て、そのまま何も言わずに消え去るなど、いくらなんでも理不尽が過ぎる。
マユは、床に落ちていた長すぎる黒のジャケットを拾い上げると、痛む身体を支えながら、のろのろとそれを羽織った。
「……あの方は、本当に……。いつも、本当に必要なことだけを、言葉にしない……っ」
ガスマスクを再び顔へと装着し、フィルター越しに深く、深く、辟易としたため息を吐き出す。
大蛇丸の弟子になって数年。彼の突飛な行動や冷酷な実験には慣れていたつもりだったが、今回のことばかりは、胸の奥にざらりとした、言葉にできない不吉な予感が澱のように沈んでいく。
あの人はいつも、自分たちの数手先の世界を見ている。
けれど、その世界に、自分やアンコ先輩の居場所は本当にあるのだろうか。
静まり返った空っぽの部屋で、マユは自分の首筋をきつく抑えながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
003
事態は、マユの困惑を置き去りにしたまま、最悪の方向へと転がり落ちていった。
バァン!!! と、鉄の扉が爆音を立てて跳ね返る。
「動くな!」
凄まじい殺気とともに、空っぽの研究室へなだれ込んできたのは、異様な仮面を被った複数の忍──木ノ葉の『暗部』だった。一瞬にしてマユを取り囲み、抜かれた刀の切っ先が容赦なく彼女に向けられる。
「な……っ、何事ですか、これは……!」
休日の一室に突如として訪れた異常事態に、マユはガスマスクの奥で翡翠の瞳を見開いた。いくら大蛇丸の実験室とはいえ、自分は正規の木ノ葉の忍であり、彼らの同僚のはずだ。
動揺するマユの前に、キツネの面を被った暗部の男が一歩踏み出し、冷酷な宣告を下した。
「油女マユだな。──大蛇丸が里を抜けた」
「……え?」
その単語の意味が、一瞬、脳内で結びつかなかった。
里抜け。それは、忍の里において最も重い『裏切り』を意味する言葉。
「そんな……何かの間違いです! 先生は、さっきまでここに──」
「間違いではない。数刻前、大蛇丸は三代目火影様によって秘密裏に行われていた禁忌の人体実験の現場を完全に抑えられた。火影様および直属の暗部が拘束を試みるも、奴は激しい抵抗の末に防衛線を突破、里の外へと逃走した」
キツネの面の奥から放たれる声には、隠しきれない焦燥と怒りが滲んでいた。
「くそ、ここもか!」
「大蛇丸の逃走先に関する資料や手がかりになりそうなものは……何もない、すでに引き払われているな」
「どこかで情報が漏れていたというのか……!」
なだれ込んだ他の暗部たちが、がらんとした部屋を乱雑に捜索し、口々に呪詛を吐き散らす。その様子を、マユはただ呆然と見つめることしかできなかった。
(だから……資料も、装置も、すべて消えていたのですか。先生は、初めからすべてが発覚することを見越して、この部屋を片付けていた……)
『そろそろ、潮時だからね』
あの妖しい薄笑いとともに残された師の言葉が、最悪のパズルとなって脳内でカチリと噛み合う。大蛇丸の里抜けは、冗談でも何でもない。動かしようのない、冷酷な事実だったのだ。
「チッ、時間の無駄だ。即座に班を再編成し、国境へ追い忍を送るぞ! 奴を絶対に火の国から出すな!」
キツネの男の号令とともに、暗部たちは用済みとばかりに、風のように部屋から飛び出していった。誰も、大蛇丸の実験体であり愛弟子でもあったマユのことなど、気にかける余裕すらなかった。
一人残された、本当の空白。
張り詰めていた緊張が切れた瞬間、ドクン、と首筋の『呪印』が、今までで最も激しく、燃えるような熱を帯びて脈動した。
「うっ……! あ、が、あ……っ」
三つの六角形の紋様が皮膚を突き破らんばかりに疼き、脳髄を直接針で刺されるような激痛がマユを襲う。
自分にこの呪印を刻み、何の説明もなく里を捨て、自分とアンコ先輩を光の世界へ置き去りにした、あの白い蛇。
(……最低の、人です……っ)
いまだ首筋で呪わしく、そして圧倒的な存在感を主張し続ける『最後のプレゼント』の痛みが、今のマユには、酷く、酷く癇に障って仕方がなかった。
004
額から流れる脂汗がガスマスクの縁を濡らし、顎のラインを伝って床へと滴り落ちる。
マユは燃え盛るような首筋の痛みに耐えながら、引きちぎれそうな呼吸を繰り返し、ふらつく足取りで空っぽの研究室から這い出るようにして外へ出た。
暗く長い廊下を進み、大蛇丸の研究所が隠されている地下施設の出口へと辿り着いた、その時だった。
「何言ってんだよ!!」
地上の光が差し込む出入口の広場で、聞き慣れた、けれどこれまでに聞いたことがないほど切羽詰まった叫び声が響き渡った。
「先生がそんなことするわけないだろ! 何かの間違いに決まってるッ、もう一度ちゃんと調べ直せよ!」
「どけ、みたらしアンコ。火影様の直接の命だ。お前がこれ以上職務を妨害するなら、大蛇丸の信奉者として拘束せねばならん」
「うるせえ! 離せ! アタシは先生のところにいくんだよ!」
見れば、そこには数人の暗部たちに囲まれ、今にもクナイを抜きそうな勢いで掴みかかろうとしているアンコの姿があった。
いつもなら自信に満ち溢れているその金の瞳は、今は激しい動揺と、現実を拒絶するような恐怖で激しく泳いでいる。
「アンコ、先輩……」
ガスマスクの奥から、マユの掠れた声が漏れる。
昨日、あんなに嬉しそうに「生きて帰ってきた」と笑い合い、自分に謝ってくれた優しい姉弟子。外せない用事があると言っていたのは、きっと大蛇丸の不穏な動きを察知して、自分なりに師の身を案じて動いていたからに違いない。
信じたくない。信じるわけにはいかない。
そんなアンコの悲痛な叫びが、がらんとした地下の空間に虚しく響いていた。その姿を見つめるマユの首筋で、三つの六角形を模した呪印が、まるで嘲笑うかのようにドクドクと熱く疼き始めた。
「マユ……ッ!?」
暗部を睨みつけていたアンコが、ふらふらと壁を伝って現れたマユの姿に気づき、ハッと目を見開いた。その尋常ではない脂汗と、いまにも倒れそうな憔悴ぶりに、アンコは暗部を力任せに押し退けてマユへと駆け寄る。
「おい、マユ! しっかりしろ、どうしたんだよその様子は……! 部屋のなかで、一体何があったんだ!?」
心配そうにマユの肩を掴むアンコの手が、微かに震えている。
マユは溢れそうになる激痛を堪え、ガスマスクのフィルターをヒューヒューと鳴らしながら、長すぎるジャケットの襟元に手をかけた。そして、自身の左の首筋を、アンコの目の前へと剥き出しにする。
「……これ、を……見て、ください……っ」
そこにあったのは、今なおドクドクと不気味に黒いチャクラを脈動させている、三つの六角形が組み合わさった歪な紋様──。
「な、……ッ!?」
それを見た瞬間、アンコの息がぴたりと止まった。
その金の瞳が、大蛇丸の里抜けを聞かされた時以上の、底知れない驚愕と戦慄に染まっていく。アンコはまるで、信じられない恐怖の遺物でも見るかのように、マユの首筋からガタガタと後ずさった。
「それ……嘘、だろ……? なんで、お前がそれを……」
「先輩……? 知って、いるのですか、これを……」
息も絶え絶えに問いかけるマユに対し、アンコは自身の右手を、震わせながら自らの首筋へと持っていった。そして、身に纏っているメッシュのインナーを大きく引き下げる。
「それ……アタシも数日前、先生に急に呼び出されて……着けられた奴だ……!!」
アンコの首筋にも、マユと全く同じ、三つの六角形を組み合わせた禍々しい『呪印』が刻まれていた。マユのものが今まさに熱を帯びて暴れているのに対し、アンコのそれは、すでに肉体に定着し、より深い黒色を放っている。
「……え……」
マユの翡翠の瞳が、驚愕で凍りついた。
あの人は、自分だけでなく、アンコ先輩にまでこの命を削るような禁忌の力を植え付けていた。それも、里を捨てる数日前に。
二人に別々のタイミングで呪印を与え、そして何一つ説明せぬまま、今日、里から消え去った。
自分たちは、最初から『そういう役割』として、あの蛇の掌の上で躍らされていたに過ぎなかったのか。
お互いの首筋に刻まれた、あまりにも不吉で歪な「師との繋がりの証」。
顔を見合わせる二人の間に、大蛇丸という存在の圧倒的な冷酷さと狂気が、逃れられない呪いとなって重く、重くのしかかっていた。
「マユ……アタシ、どうしたらいいと思う……?」
絞り出すようなアンコの声は、ひどく小さく、そして脆かった。
いつも自信満々で、どんな困難も力任せに突き破ってきたあの強い姉弟子が、今にも ぽろぽろと涙をこぼしそうな顔で、年下のマユに縋り付くようにして訴えかけている。
大好きな、世界で一番尊敬していた師からの、突然の、そしてあまりにも残酷な裏切り。
その現実を前に、アンコの心は完全に粉々に砕け散ってしまっていた。
(……どうしたらいい、ですか)
マユはガスマスクの奥で、激痛に震える身体を支えながら、必死に思考を巡らせた。
状況は、これ以上ないほどに明白だ。
装置も資料も綺麗に片付けられていた研究室。そして、自分たち二人の首筋に刻まれた、この禍々しい『呪印』のプレゼント。大蛇丸が里抜けの事実を自分たちに一切黙っていたことから見ても、結論は一つしかなかった。
(私たちは……置いていかれてしまったのです)
あの人は最初から、自分たちを連れて行く気などなかった。ここに残されれば、大蛇丸の弟子として暗部や里からどんな不当な扱いを受けるか、あの聡明な師が気づかないはずがない。それなのに、何の説明もなく、ただ呪いだけを残して消え去った。
普通なら、激しい憎悪を抱くべき場面だった。一族に忌み子とされ、ようやく見つけた居場所すらも奪ったあの白い蛇を、呪って、恨んで、決別するべきだった。
だが──。
(……それでも)
マユの翡翠の瞳が、じっと床の黒いジャケットを見つめる。
暴走するチャクラに食い殺されかけていた自分を檻から連れ出し、最高の素材だと肯定してくれた。コガネと戯れる自分を見て、意地悪そうに、でもどこか楽しそうに吹き出しそうになっていた。あの奇妙で、冷たくて、けれど確かに温かかった実験室の日々が、どうしても頭から離れない。
どんなに理不尽なことをされても、どれほどおぞましい呪いを刻まれても。
油女マユという人間は、どうしても、大蛇丸を嫌いになることなど出来なかった。それはきっと、隣で泣きそうな顔をしているアンコも、同じなのだろう。
「アンコ先輩」
マユはのろのろと動き、長すぎるジャケットの袖で、アンコの震える手をそっと包み込んだ。
そして、ガスマスクのフィルター越しに、けれどこれまでになく、はっきりと自分の『意志』を言葉にした。
「……私は、追いかけたい……です」
「え……」
アンコがハッと目を見開く。
「置いていかれたのなら、追いつくだけです。あの方が何を考えて私にこれを刻んだのか、なぜ何も言わずに消えたのか……このまま何も知らずに里で生きていくなんて、私には耐えられません。捕まえて、あの変な先生の胸ぐらをつかんで、問い詰めてやりましょう」
マユの言葉に、アンコの金の瞳に小さな、けれど熱い火が灯る。
「マユ……お前……」
「行きましょう、先輩。まだ、暗部の追い忍が出たばかりです。私たちの蟲と蛇の索敵なら、まだ間に合います」
首筋の呪印は、今なお激しく、熱く脈動している。けれど、それはもうマユにとってただの激痛ではなかった。
闇の先へ消えた師の背中を追いかけるための、羅針盤。
二人の少女は、お互いの歪な呪いを確認し合うように強く頷くと、引き止めようとする暗部たちの声を背に、昏い廊下を蹴って、光の差す地上へと駆け出していった。
木ノ葉の頑強な正門をくぐり抜け、二人はうっそうと茂る火の国の森へと飛び出した。
「大蛇丸先生のチャクラの残滓を追います。私の蟲たちなら、どれほど痕跡を消されても、あの独特な油のような気配をわずかに感知できるはずです……!」
マユは走りながら長すぎる袖を大きく振り、無数の微小な蟲たちを前方へと放った。黒い霧のように広がった蟲たちが、師の消えた方角を探って森の奥へと散っていく。
「同時に、上空からの広い視界を確保します。コガネを──」
さらに索敵精度を上げるため、マユは走りながら口寄せの印を組もうとした。
──だが、指先が動いたその瞬間。
「あ……っ、が、あぁぁぁああッッ!!!」
首筋の三つの六角形が、まるで内側から爆発したかのように、これまでにない強烈な激痛を放った。経絡を流れるチャクラが強引にせき止められ、全身の筋肉が硬直する。マユは印を維持することすらできず、激しく地面へと転がり、その場に丸くなってうずくまってしまった。
「マユっ!?」
並走していたアンコが慌てて足を止め、地面にへたり込んだマユの身体を抱き起こす。ガスマスクの奥で、マユの翡翠の瞳は苦痛にきつく閉じられ、全身から滝のような冷や汗が噴き出していた。
「おい、しっかりしろ! ……マユ、アンタ、もしかしてそれ……本当にさっき入れられたばかりなのか!?」
アンコはマユの首筋でドクドクと赤黒く脈動する呪印を見つめ、自身の首筋を忌々しげに抑えながら、吐き捨てるように独白した。
「チッ、なんて無茶しやがるんだ、あのクソヘビ……! その呪印の意味はアタシにもまだ分からねえ。だけどな、アタシがそれを入れられた直後は……まる一日、一歩も動けねえほどの地獄の激痛だったんだ。立ってるだけでも奇跡だってのに、チャクラを練って口寄せなんかやろうとしたら、身体が拒絶反応でぶっ壊れちまう!」
アンコの金の瞳に、焦りと、マユを巻き込んでしまったことへの罪悪感が入り混じる。
このまま進めば、大蛇丸に追いつく前にマユの命が危ないかもしれない。
アンコはマユの小さな肩を強く握りしめ、苦渋に満ちた声で、暗に引き返すことを促した。
「……マユ。追うのは、一度やめるか? 今ならまだ、里に戻って医療班に──」
「……っ、……いいえ……」
マユはガスマスクのフィルターを激しく上下させ、濁った呼吸を吐き出しながら、きっぱりと首を横に振った。
長すぎるジャケットの袖で地面を強く掴み、痛む身体を無理やり震わせながら、アンコをまっすぐに見つめ返す。その翡翠の瞳には、激痛に決して屈しない、頑ななまでの強い意志の炎が灯っていた。
「ここで……止まったら、もう二度と、あの人に追いつけなくなります……。私は、行きます。アンコ先輩……!」
置いていかれた少女の意地が、呪いの痛みを上回る。マユのその執念に気圧されるように、アンコは一瞬目を見張った後、ふっと覚悟を決めたように獰猛な笑みを浮かべた。
「──へっ。そうこなくっちゃね! ああ、行こう! 追いついて、あのクソヘビの胸ぐら掴んで、思いっきりひっぱたいてやんなきゃアタシらの気が済まねえもんな!」
マユの頑なな瞳を見たアンコは、吹っ切れたようにそう叫んだ。その金の瞳には、いつもの破天荒で頼もしい姉弟子の輝きが戻っている。
「……はい、とっちめてやりましょう」
マユはガスマスクの奥で深く息を吐き出し、アンコの肩を借りてどうにか立ち上がった。
呪印の拒絶反応のせいで、まだ高度な術のための印を組むことはできない。チャクラを大きく練ろうとすれば、すぐにでも首筋に激痛が走る状態だ。
(印が結べないのなら……すでに外へ放っている蟲たちだけで索敵を回します)
マユは長すぎる袖から、これ以上のチャクラを消費しないよう、自立して動く寄壊蟲の群れだけを扇状に広げて森の奥へと滑らせた。上空からのコガネの目は使えないが、地を這う蟲たちのネットワークが、大気中のわずかな違和感を拾い集めていく。
すると、森へ入って間もない開けた足元で、蟲たちが一斉に不穏な反応を示した。
「先輩、待ってください。……あそこです」
マユが指差した先──生い茂る草むらの根元に、生々しい赤黒い「血痕」が飛び散っていた。さらにその先には、草を荒々しく踏み荒らした、里の外へと続く明確な「足跡」が残されている。
「血痕に足跡……! 追い忍の暗部とやり合った跡か!? まだ新しい、これならすぐに追いつけるぞ!」
アンコがクナイを握り直し、その痕跡を追って飛び出そうとした。
だが、マユはその場に立ち止まったまま、フードの隙間から翡翠の瞳を怪しく光らせる。
「……待ってください、アンコ先輩。……妙です」
「あん? 何がだよマユ、急がねえと──」
「考えてもみてください。あの大蛇丸先生ですよ? 用意周到に研究室の私物を全て片付け、暗部の奇襲すら完璧にいなして里を抜けたあの人が……こんな、下忍でも気づくような分かりやすい痕跡を、そのまま残していくでしょうか」
マユの指摘に、アンコがハッと息を呑んだ。
確かに、大蛇丸の隠密性と冷徹なまでの完璧主義を知る二人からすれば、あまりにも不自然極まりない「優しさ」だった。まるで、追っ手をこちらへ誘導しているかのような。
「……私の蟲たちに、もう一度正確な『匂い』を辿らせます」
マユはそっと微小な蟲を地面へ追加で放ち、大気中に残留する大蛇丸の固有のチャクラ、そして彼が使っているであろう薬品の匂いを追わせた。
蟲たちは、先ほどの血痕と足跡の残るルートを完全に無視し──全く別の、鬱蒼とした道なき獣道の方向へと向かって、狂ったように触角を震わせ始めた。
「やはり、あちらの足跡は偽装です。足跡も血痕もない……でも、この植物の擦れ具合と、空気の底に沈む油のような匂い。本物の先生の軌跡は、あっちの暗闇の方向へ続いています」
ガスマスクのフィルターから、フゥ、と静かな呼吸が漏れる。
「危なかったね、マユ。アタシ一人だったら完全に引っかかって、今頃どっかの罠に突っ込んでたわ」
アンコは冷や汗を拭いながら、頼れる妹弟子を見つめて不敵に笑った。二人は視線を交わすと、偽の足跡に背を向け、本物の蛇が潜む昏い森の深淵へと、静かに足を踏み入れていった。
本物の痕跡を見つけ出してからは、道なき道を進む二人の足取りは確実に速くなっていった。
(匂いが……強くなってきています。蟲たちの反応の密度から見ても、先生との距離は確実に縮まっている……!)
首筋の呪印は依然として鉛を埋め込まれたように重く、ズキズキと激しい自己主張を続けている。だが、大蛇丸のチャクラがすぐ近くにあるという事実が、マユの痛みを驚くほど麻痺させていた。
「おいマユ、このままいけば本当に先生に追いつけるかもしれないな!」
並走するアンコの横顔にも、先ほどまでの絶望は消え、焦燥の中にも確かな希望の光が戻りつつあった。
だが──。
シュッ!!!
「──っ! 先輩、伏せて!」
森の静寂を切り裂いて、背後の闇から鋭い風切り音が二つ、同時に飛来した。
マユは長すぎる袖を振り回す余裕すらなく、アンコと共にとっさに左右の茂みへと身体を捻って滑り込む。
ドスッ! ドスッ!
つい一瞬前まで二人がいた地面の泥に、深く、鋭く、二条のクナイが突き刺さって小刻みに震えていた。その刃には、容赦のない殺気がこれでもかと込められている。
「チッ、誰だ!?」
アンコが素早くクナイを構え直し、着地と同時に背後の木々を睨みつけた。
木々の影から、音もなく、数人の影が降り立つ。そこにいたのは、先ほど大蛇丸の研究室になだれ込んできたのと同じ、不気味な仮面を被った木ノ葉の『暗部──追い忍部隊』だった。
「みたらしアンコ。そして、油女マユ」
部隊の先頭に立つ、先ほどのキツネの面を被った男が、低く冷徹な声を森の闇に響かせる。その抜かれた刀の切っ先は、大蛇丸へ向けられるべきもののはずが、今はまっすぐに二人の少女へと固定されていた。
「お前たちに大蛇丸追撃の任務は下りていないはずだ。……ここで何をしている」
仮面の奥から放たれる、値踏みするような、そして明確な警戒を含んだ視線。
里を裏切った大蛇丸の「直属の弟子」である二人が、任務も受けずに逃亡ルート上に現れたのだ。追い忍の目には、二人が師を追っているのではなく、師の逃亡を助けるために動いている『同調者』のように映っているに違いない。
(……最悪のタイミング、ですね)
ガスマスクの奥で、マユの翡翠の瞳が険しく歪んだ。
あと少しで大蛇丸の背中に届くかもしれないというこの瞬間に、身内であるはずの里の忍が、最も厄介な障害として二人の前に立ち塞がった。
「理由は、後で説明します……! 罰だって、後でいくらでも受けます……っ! だから、私に、私たちに先生を追わせてください……!!」
いつもなら淡々と、感情を隠して喋るマユが、ガスマスクの奥から割れんばかりの悲鳴のような声をあげて懇願した。
長すぎるジャケットの袖をぎゅっと握りしめ、首筋の呪印の激痛に耐えながら、必死に暗部へ向けて頭を低くする。今、ここで足止めを食らえば、あの気まぐれで冷酷な蛇は、二度と手の届かない深淵へと消え去ってしまう。それだけは、どうしても嫌だった。
だが、キツネの面を被った暗部は、その悲痛な訴えに対して、ぴくりとも動じず黙って首を横に振った。
「だめだ。許可できない」
仮面の奥から放たれる声は、冷徹な氷のようだった。
「現状、お前たちは大蛇丸の直属の弟子であり、最も近くにいた部下だった。そんな忍に、里を裏切った凶悪な犯罪者である師を『止められる』とは到底思えない。むしろ──」
暗部が刀を握る手に、ぐっと力がこもる。森の空気が一気に張り詰めた。
「師を逃がすための時間稼ぎ、あるいは、奴に同調して共に里を抜けるための合流と見るのが妥当だ。大蛇丸の弟子である以上、お前たちもまた、潜在的な『裏切り者』の容疑者なんだよ」
「……っ!」
マユの翡翠の瞳が、絶望と悔しさで大きく見開かれた。
里のために戦い、サソリとも命がけで渡り合ってきたというのに、師が里を抜けた瞬間から、自分たちは「信頼に値しない不審者」へと格下げされてしまったのだ。
「ふざけんなッ……!!」
隣でアンコが、怒りで顔を真っ赤に染めながら叫んだ。クナイを握る手が激しく震えている。
「アタシらが先生を逃がすわけねえだろ! とっちめて、連れ戻すために追ってんだよ! どけ! そこをどかねえなら、力ずくでも──」
「やめろ、アンコ! 反抗すればその場で即座に『反逆者』として処刑することになる!」
キツネの男の鋭い一喝が、森の闇を切り裂いた。周囲を囲む暗部たちの刀が、いつでも二人の首を撥ねられるように、さらに一歩間合いを詰めてくる。
(どうして……どうしてこうなるのですか……!)
首筋の三つの六角形が、まるでお前たちの居場所はもうどこにもないのだと嘲笑うように、ドクドクと熱く、そしてひどく癇に障る激痛を放ち続けていた。
早く追わなければ、大蛇丸先生の匂いを見失ってしまう。
でも、ここで目の前の暗部と交戦すれば、自分たちも「里抜けの同調者」として完全に処理され、二度と木ノ葉の里には戻れなくなるだろう。
進むことも、退くこともできない。
絶対的な板挟みの状況のなかで、マユの精神はすでに限界を迎えていた。一族の檻から解放されて以来、ようやく手に入れた「弟子」としての居場所も、「忍」としての証明も、すべてが理不尽に足元から崩れ去っていく。
──ドクン、ドクン、ドクン。
その絶望の隙間に、首筋の『呪印』が、待ってましたとばかりにドス黒いチャクラを流し込んできた。
(……あぁ、もう、うるさいですね……)
三つの六角形の紋様から溢れ出た異質な力が、マユの脳髄を直接、毒のように侵食していく。激痛はいつしか、脳を焦がすような快感に似た「怒り」へと変貌し、彼女の思考をどす黒い破壊衝動へと強引に誘導し始めた。
真面目に、冷静に分析して、ルールを守ろうとするから苦しいのだ。
だったら──。
「……じゃあ、もう、全部壊しちゃいましょうか」
「え……マユ?」
隣にいたアンコが、その異様な声音にハッとしてマユを振り返った。
ガスマスクの奥、フードの隙間から覗くマユの翡翠の瞳は、完全にハイライトを失い、どろりとした底なしの闇に染まっている。
同時に、彼女の首筋の呪印から、まるで生き物のような六角形の紋様が侵食を始め、その白い肌を、顔の半分を、恐ろしい速度で侵食し、塗り潰していった。
「マユ、アンタ、その顔……何だそれ……!?」
アンコが恐怖を覚えるほどの禍々しいチャクラが、マユの小さな身体から爆発的に噴き出す。
その溢れ出た狂気のエネルギーに呼応するように、周囲の草むらや木々の影から、数百万、数千万という単位の寄壊蟲が、地鳴りのような羽音を立てて湧き出し始めた。
「先生を追うのを邪魔するなら……里の暗部も、この森も、全部、全部消してしまえば良いのです……。ふふ、あはははっ!」
フィルター越しに漏れ出る、壊れた玩具のような狂った笑い声。
呪印の圧倒的な力に呑まれたマユは、己の肉体の限界さえも忘れたように長すぎる両の袖を広げ、目の前の暗部たちへ向けて、最悪の殺意を解き放とうとしていた。
(そう……邪魔をする相手は、誰一人として証拠を残さずに殺してしまえばいいのです。死体ごと、私の蟲たちの餌にしてしまえば、最初から誰もいなかったことになる。そうすれば……問題はすべて解決します……)
あまりにも暴論であり、狂気に満ちた最悪の解決方法。しかし、呪印の闇に精神を蝕まれ、破壊衝動に脳を侵されたマユにとっては、それこそが合理的で最も美しい「最適解」のように思えた。
首筋から溢れ出た黒い六角形の紋様が、マユの「顔の右半分」と「右腕」へと恐ろしい速度で這い回り、その肌を禍々しく塗り潰していく。非対称に肉体を侵食する異質の力が、彼女の体内の膨大なチャクラを限界を超えて引き出し、暴走させていた。
「チッ、やはり大蛇丸の同調者か! 術を発動される前に仕留めろ!」
マユの纏う尋常ではない異様な雰囲気と、森を埋め尽くさんとする蟲の羽音に、キツネの面を被った暗部は「交戦の意思あり」と瞬時に判断。拘束ではなく、明確な『排除』のために印を結ぼうとした──その、刹那。
──ヒュッ!!!
「……なっ!?」
突如として、先頭の暗部の目の前が爆音と共に歪んだ。
反射的に頭を後ろへ逸らした彼の頬の皮一枚を、豪速の「抜き手」が超至近距離で通過する。空気を切り裂く衝撃波だけで、キツネの面の半分がピキリと割れた。
印を結ぶ暇すら与えられない予測不能の超高速。暗部の男は、辛うじて泥塗れになりながら地面を真横に転がることで致命傷を回避したが、その一撃の余波によって、暗部部隊の完璧な包囲陣形が一瞬にしてガタガタに崩壊した。
「おそい、おそいです──」
土煙の向こう側、長すぎるジャケットの袖から、引き絞られた鋭い指先を覗かせたマユが、不自然な角度で首を傾げていた。
呪印の力が、エネルギーに追いついていなかった彼女の華奢な肉体を、強制的に「怪物」の域へと引き上げている。
「アハ、アハハッ! そんなノロい動きじゃ、先生に追いつく前に……みんな、みんな死んじゃいますよぉ!!」
ガスマスクのフィルターから漏れ出るのは、甲高い、壊れた歪な笑い声。
一歩踏み込むたびに地盤が陥没し、マユの背後から湧き出た黒い蟲の津波が、陣形の崩れた暗部たちを貪り食わんと、一斉に牙を剥いて襲いかかった。
「『秘術・五里蟲中(ごりむちゅう)』」
マユの歪んだ口唇から放たれたその言葉と同時に、彼女がこれまでに周囲の森へ放ち、潜ませていた無数の蟲たちが一斉に呼応した。
それはマユの体内から湧き出たものだけではない。周囲の木々、土の底、草むらに至るまで、あらかじめ空間全体に配置されていた蟲たちのネットワークが、呪印のチャクラによって一激で強制暴発させられたのだ。数千万、数億という生体の大群が、まるで意思を持つドス黒い煙幕となって森を一瞬で包み込んだ。瞬く間に辺りは光を失い、濃密な蟲の結界へと変貌する。
「くそ、視界を奪われた!」
「くるぞ、総員防御陣形を──っ!」
闇のなかで暗部たちの焦燥の叫びが響くが、蟲の羽音がそれすらも掻き消していく。
「あはは、アハハハッ!!」
完全に視界の遮断された蟲の霧の中、マユは呪印に浸食された顔の右半分をピきピきと引き攣らせ、高揚した頬を歪めて不気味な笑みをつくっていた。
脳髄を焼き尽くさんとする、すべてを破壊したいという圧倒的な怒り。あるいは、周囲の蟲すべてと脳が直結し、この空間の全てを支配しているという全能感が、マユの精神を完全に支配していた。紋様に染まった黒い右腕を突き出せば、それだけで世界を容易にねじ伏せられる気がしたのだ。
「やめろ、マユ……ッ! こいつらと戦う意味はねえ、目を覚ませ!!」
蟲の防壁の向こうから、アンコが悲鳴のような声をあげて叫ぶ。大蛇丸を追いたい気持ちは同じだ。しかし、このまま里の暗部を惨殺すれば、それは本当の破滅を意味する。様子が完全におかしい妹弟子を前に、アンコは必死に手を伸ばして説得しようとした。
だが──。
「大丈夫ですよ、アンコ先輩……」
マユはガスマスクの奥の、左右で色の違う狂った瞳をアンコへ向け、ねっとりとした、まるで耳を疑うほど優しく、そして冷酷な声音で囁いた。
「──すぐ、終わらせますからァ」
まるで聞く耳を持たない。
破壊の快楽に身を委ねたマユの右腕が、次の瞬間、暗部たちの命を刈り取るために、容赦なく振り下ろされようとしていた。
それは──『蜂突(ほうとつ)』と呼ばれる、マユが独自に編み出したオリジナルの格闘技術だった。
指先を針のように鋭く揃え、高密度に練り上げたチャクラを手刀の刃として纏わせる。そして一気に加速し、まるで蜂の急襲のごとき速度で相手の急所を一点突破する必殺の貫手。大蛇丸の研究所で「とある忍」に関する極秘資料を読み、その術理をヒントに開発したものだった。
本来、この技は実戦に耐えうるものではなかった。力のないマユに速さによる加速を乗せることで威力をあげようというコンセプトではあったが、マユの華奢な身体──とりわけ筋力の面においてまず加速するための筋力がないという致命的な欠点があったため、どれほどチャクラを鋭く練り上げても、肉体がその衝撃と駆動に耐えきれなかったのだ。
だが、今は違った。
顔の右半分と右腕を黒く侵食する大蛇丸の『呪印』。それがもたらす異質なチャクラは、マユの肉体的な限界を強引に引き剥がし、その腕力を木々に容易く風穴を空けるほどの暴力的な破壊力へと跳ね上げていた。
蟲たちの感知により、暗闇のなかで暗部たちの配置はすべて丸見えだった。
「まず、ひとり──」
ドンッ!!! と地を蹴る。爆音と共にマユの身体が弾け飛んだ。
「ぐぁあああッ!?」
凄まじい衝撃波と共に、一人目の暗部の胸へマユの黒い右腕が突き刺さる。防弾仕様の防具ごと肉体を容易く貫き、生々しい血飛沫が闇に舞った。呪印のチャクラが青白い電撃のような火花となって、暗部の肉体を内側から焼き焦がす。
「な、なんだこの速度は……ぐはぁっ!」
「うおおおっ!? どこから──がはっ!」
「があああああッ!!!」
引き裂かれる肉の音。骨の砕ける鈍い響き。
真っ暗な蟲の霧──『五里蟲中』の底で、木ノ葉の精鋭であるはずの暗部たちの悲鳴と絶叫だけが、次から次へと無惨に響き渡る。彼らは反撃の糸口すら掴めぬまま、ただの肉塊へと変えられていった。
凄惨極めて、圧倒的な蹂躙。
すべてを壊し尽くす快感に身を委ね、マユはガスマスクの奥で「アハ、アハハハ!」と狂った笑い声をあげ続け、その血塗られた右腕をさらに次の標的へと向けようとする。
「やめてくれ……ッ!!」
その時、五里蟲中の結界を揺るがすほどの、アンコの絶叫が響き渡った。
アンコは自身の頭を掻きむしり、涙と冷や汗で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、狂気の一途をたどるマユの背中に向かって叫んでいた。
「こんな……こんなこと、やめてくれマユ……ッ!! こいつらは里の仲間なんだよ! 先生を追うために、なんでこんな……こんなことまでしなきゃいけないんだよ!!」
悲痛な、魂を絞り出すような姉弟子の叫び。
その声は、全能感と破壊衝動に満たされていたマユの脳の特等席に、冷や水を浴びせるようにして冷酷に響いた。
005
「ぐっ……こいつ、本当に油女一族なのか……!?」
蟲の霧の奥から、マユの『蜂突』による最初の一撃をどうにか致命傷で免れた暗部が、血を吐きながら呻き声をあげた。油女一族といえば、蟲を使った緻密な術や搦め手を得意とする遠隔・隠密型の忍であるはずだ。目の前の少女が振るう、肉体そのものを凶器に変えた圧倒的な怪力と超高速の体術は、彼らの知る一族の戦術とは完全にかけ離れていた。
「……呪印か。奴の首筋の紋様が、膨大なチャクラを強引に肉体活性へと回しているのだろう。大蛇丸め、里を抜ける間際にこれほど不気味な兵器を残していくとはな」
キツネの面を半分割られた隊長格の暗部が、冷徹に状況を分析し、油断なく刀を構え直す。
未だに無数の悲鳴が暗闇に響き、陣形は崩壊寸前。だが、里の精鋭である彼らもただ殺されるのを待つだけの木偶ではなかった。このまま闇雲に動けば、マユの『五里蟲中』の餌食になるだけだ。大勢を立て直すため、彼らが選んだ対抗策は一つだった。
「まずはこの視界を塞ぐ蟲どもを打ち払うぞ! 班員、俺に合わせろ!」
「応っ!」
残された暗部たちが瞬時に数歩下がり、互いの背を任せるようにして同時に高速の印を結ぶ。
「「「火遁・豪火球の術(かとん・ごうかきゅうのじゅつ)!!!」」」
暗部三人がかりで同時に放たれた巨大な炎の塊が、一つの猛烈な火の海となって、周囲を覆っていたドス黒い蟲の霧へと牙を剥いた。
轟ッ!!! という爆音と共に、激しい熱風が森を包み込む。
どれほど数がいようとも、寄壊蟲の性質上、広範囲を焼き尽くす高火力の火遁は天敵に等しい。マユのチャクラを吸って狂暴化していた周囲の蟲たちは、容赦なく襲いかかる紅蓮の炎に焼かれ、ジチジチと嫌な音を立てながら一斉に灰へと変わっていく。
強制的に蟲の防壁が打ち払われ、再び森のなかに、焦げた土の匂いと月の光が差し込んできた。
「はぁ、はぁ……ッ!」
視界が開けたその中心。
顔の右半分と右腕を黒い紋様に染めたマユは、術を破られた衝撃と、呪印がもたらす急激なチャクラ消費の反動からか、その場にわずかに膝をついていた。ガスマスクの排気弁から、熱い息が白く吹き出る。
「形勢逆転だ。……よくもやってくれたな、大蛇丸の仔蛇め」
炎の残火を背に、刀を構えた暗部たちが、怒りと警戒を孕んだ瞳でじりじりとマユを包囲し直していく。破壊衝動の引き金となっていた蟲の結界を破られたマユの瞳に、ほんの一瞬だけ、焦りに似た光が揺らめいた。
006
「囲め。今度こそ確実に無力化する」
キツネの面の隊長が鋭く命じると同時に、生き残った暗部たちがマユの死角を突くようにしてじりじりと散開し、完璧な連携で間合いを詰めてきた。彼らの手元は、すでに次の火遁の印を結び終えている。一度でも不審な動きを見せれば、今度は容赦なくその身体を直接焼き尽くすという、無言の脅迫だった。
「はぁ……っ、はぁ……!」
マユはガスマスクの奥で激しく息を乱しながら、包囲網を睨みつけた。
火遁によって『五里蟲中』を破られ、一族の術の優位性を奪われた。そればかりか、先ほどまで脳を満たしていた全能感は急速に薄れ、代わりに呪印が肉体に強いる猛烈な負荷と激痛が、再びじわじわと全身を蝕み始めている。
(……このままでは、捕まります。あの人の背中が、どんどん遠くなっていく……!)
そんなことは、絶対に許されない。
置いていかれた理由を、あの人の本心を、この目で確かめるまでは、こんなところで立ち止まるわけにはいかないのだ。
「あ、ああ、あああ……ッ!!」
マユは焦燥と屈辱に身を焦がし、奥歯が砕けんばかりにギリリと激しく歯ぎしりした。
(もっと……もっと力が欲しい……! 里の決まりだとか、暗部の連携だとか、そんな生ぬるいものをすべて、一瞬で捻り潰せるほどの絶対的な力が……!! こいつらを全員、今すぐ一枚残らず肉片に変えて、皆殺しにできる力が欲しい……!!!)
その昏く、狂暴な歪んだ願いは、他ならぬ大蛇丸が彼女の首筋に仕込んだ「呪い」にとって、最高の栄養床だった。
マユが紋様に染まった右腕に、狂ったようにチャクラを籠めた──その瞬間。
──ドクンッ!!!
心臓が跳ね上がるような、不気味な地鳴りのような拍動が森に響いた。
マユの顔の右半分と右腕を這う黒い六角形の紋様が、まるで脈打つ血管のように、禍々しい「赤黒い光」を放ち始めたのだ。
「なっ……チャクラが、さらに膨れ上がって……!?」
間合いを詰めていた暗部たちが、その異様極まる光景に思わず足を止める。
マユの右腕に集まった赤黒い光は、大気へと霧散するのではなく、彼女の肉体そのものを急速に、そしておぞましく作り変えていった。
パキパキ、と骨が軋み、皮膚が変質していく不気味な音が響く。
呪印の紋様に塗り潰されていたマユの右腕は、血の気の引いた白さから、一転して硬質な「浅黒い色」へと変色していった。それは人間の肌の質感ではなく、まるで寄壊蟲たちの外骨格を幾重にも編み上げ、凝縮させたかのような、禍々しくも美しい『蟲の鎧』。
指先はさらに鋭利な漆黒の爪へと尖り、前腕から肩にかけては、硬質な幾何学的パターンの甲殻がぴったりと肉体を覆っていく。
「腕が……変化しただと……!?」
暗部のひとりが驚愕に声を震わせる。
それは、大蛇丸の呪印がマユの「油女としての才能」と狂暴な破壊衝動に呼応し、その肉体を部分的を、『化物』へと引きずり込んだ証拠だった。人間の域を完全に超越した、蟲の王のごとき異形の右腕。
「ゲフッ……!! ゴホッ、ゴホゴホッ……!」
その圧倒的な全能感の代償は、あまりにも睦まじく、そして残酷にマユの肉体を蝕んでいた。
激しく咳き込んだマユのガスマスクの排気弁から、ドロりとした鮮血が溢れ出し、地面の泥を赤く汚す。呪印がもたらす異質なチャクラと、人間の域を超えた肉体変化(状態2の局所変化)は、まだ下忍である彼女の未熟な内臓や経絡に、凄まじいまでの過負荷を与えていた。体内が内側から焼け焦げるような、凄絶な激痛が彼女を襲う。
「マユッ!! もうやめろ、それ以上はアンタの身体が──」
背後でアンコが悲痛な声をあげる。だが、マユは溢れる血を長すぎる左の袖で乱暴に拭い去ると、自身の「浅黒い蟲の鎧」に覆われた右腕をじっと見つめた。
「ふ、ふふ……アハハハハハ!」
激痛と吐血の苦しみすら、今のマユにとってはただの快楽のスパイスに過ぎなかった。
ガスマスクの奥、左右に歪んだ翡翠の瞳に狂気じみた歓喜の光を宿し、マユはひび割れた声で笑う。
「大丈夫……まだ、動けます……。まだ、戦える……! この腕があれば……里の暗部なんて、先生の足元にも及ばない雑魚なんて、全員まとめて一瞬で捻り潰せる……!!」
呪印の闇に完全に呑まれ、壊れた人形のように笑うマユ。
肉体が崩壊する恐怖など、大蛇丸への執念と破壊衝動の前には綺麗さっぱり消え失せていた。浅黒い甲殻に覆われた右腕にさらなるチャクラが収束し、パチパチと空間を裂くような黒い火花が一段と激しさを増していく。
「狂ったか……! 総員、容赦するな!」
キツネの面の暗部が叫び、生き残った忍たちが一斉にマユへと飛びかかる。だが、狂気の笑みを浮かべるマユの身体は、すでに次の「蹂躙」に向けて、爆発的な一歩を踏み出そうとしていた。
マユがその浅黒い蟲の鎧と化した右腕を掲げ、暗部たちを肉片へと変えるべく爆発的な一歩を踏み出そうとした、まさにその刹那だった。
「──ごめんね、マユ」
蟲の羽音と炎の爆音に紛れ、背後の闇から一切の気配を消して接近した「男」の手が、マユの首筋へと容赦なく伸びた。
ドクン、とマユの心臓が大きく跳ね上がる。
首筋──まさに赤黒く脈打つ呪印の根元を正確に、強く握りしめられた。そのあまりにも冷徹で確実な捕縛に、マユの身体は反射的に硬直する。
(だれ──っ!?)
脳を満たしていた狂気と破壊衝動が、一瞬の驚愕によって押し流される。
すぐに背後の敵を叩き潰そうと、脳からの伝達が浅黒い右腕へと飛んだ。漆黒の爪が、背後の肉を、骨を貫こうと駆動を始める──はずだった。
「あ……れ……?」
しかし、動かない。
どれだけチャクラを込めようとしても、感覚を失ったかのように右腕はだらんと力なく垂れ下がり、泥の中に力なく沈んだ。そればかりか、全身の経絡を巡っていた呪印の暴走チャクラが、首筋を掴むその手によって完全に遮断され、逆流を始めていく。
「が、はっ……あ、ああああああッ!!!」
次の瞬間、首筋から脳髄、そして全身の神経へと、これまでにないほどの凄絶な激痛が突き抜けた。脳が真っ白に染まるほどの衝撃に耐えかね、マユはガスマスクの奥で短い悲鳴をあげながら、その場に崩れるように両膝をついた。
「よくここまで耐えたね。……だけど、もういいんだ」
ねっとりとした呪印のチャクラが急速に霧散し、マユの顔の右半分と右腕から赤黒い光と六角形の紋様が引きいていく。浅黒い蟲の鎧も、剥がれ落ちるように元の白い肌へと戻っていった。
視界が激痛で霞むなか、マユは首を掴むその男の影を、フードの隙間からどうにか見上げる。
そこに立っていたのは、特徴的なゴーグルをかけ、全身から無数の毒蟲のチャクラを漂わせた男──マユにとっては一族の「檻」の象徴であり、同時にその圧倒的な実力を知る人物だった。
「シクロ……叔父上……っ」
背後に立っていたのは、油女シクロ。
一族のなかでも異端の蟲を操る、根の忍──そして、大蛇丸の動向を最も警戒していたはずの男が、最悪の戦場に冷然と降臨していた。
「……どうして、邪魔するの……っ」
首筋から全身へと駆け巡る激痛のなか、急速に体力を奪われたマユの身体は、糸の切れた人形のように前方へと傾いでいく。
呪印の紋様が完全に引き、浅黒い蟲の鎧が消え去ったマユの視界は、どろどろとした暗闇に包まれようとしていた。
(せっかく……あと少しで、先生に……)
薄れゆく、そして墜ちていく意識の底で、マユの脳裏にいくつもの記憶の断片が、まるで走馬灯のように浮かんでは消えていった。
──暗く息苦しい油女一族の「檻」のなか、自分を冷徹に見下ろしていたシクロの、けれどどこか哀れむようでもあったゴーグルの奥の瞳。
──その檻を壊し、「私の実験を手伝ってくれないかしら」と、気まぐれに白い手を差し伸べてくれた大蛇丸の、妖しくも魅惑的な微笑み。
──そして、研究所の冷たい床で一人きりだった自分に、「おいマユ、飯食いに行くぞ!」と強引に手を引いて、外の世界の温かさを教えてくれたアンコの、眩しいほどの笑顔。
どれもがマユにとって、この歪んだ世界で確かに生きていたという証明そのものだった。
「マユ──ッ!!!!」
静寂に向かう世界の中で、誰かが自分の名前を狂ったように叫ぶ声が聞こえた。
あぁ、アンコ先輩だ。そんなに泣きそうな声を出さなくても、私は大丈夫なのに……。
ボタボタと地面に滴る血の音と、必死にこちらへ駆け寄ってくるアンコの足音を遠くに聞きながら、マユの意識は完全に深い闇の底へと沈んでいった。