NARUTO 甲蟲伝   作:ヘビトンボ

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今回は前編です


第七章『蟲と戦』前編

001

 

とうとう、最悪の幕が上がった。

 

後に『第三次忍界大戦』と呼ばれることになる、忍の歴史史上最も凄惨な泥沼の戦い。

これまでは各地の小国を巻き込む形で行われていた五大国間の緊迫した小競り合い──冷戦状態の均衡が、ある日とうとう決定的な琴線を超えてしまったのだ。

 

引き金を引いたのは、やはり『岩隠れの里』だった。

かねてより不穏な動きを見せていた岩隠れは、木ノ葉隠れの里と同盟関係にあった『草隠れの里』の領土へ、突如として大軍を以て大規模な侵略を開始。大国による事実上の宣戦布告であり、草隠れの要請を受けた木ノ葉もまた、自国の防衛と他国への抑止力を示すため、全面戦争へと打って出ざるを得なくなった。

 

これをドミノの最初の一片として、事態は瞬く間に、誰も止められない速度で動き出す。

 

草隠れの里は五大国の狭間に位置する戦略的要衝。そこが岩の手に落ちれば、木ノ葉の喉元に刃を突きつけられたも同然となる。里の忍たちが次々と前線へ召集され、木ノ葉の里は一気に戦時下の物々しい空気に包まれていった。

 

自宅の薄暗い研究室で、マユは蟲の羽音を聞きながら、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。

 

(ついに、始まった……。ダンゾウの言った通りに……)

 

それは同時に、マユが『根の防波堤』として、地獄の戦場へ放り込まれるカウントダウンがゼロになったことを意味していた。

 

「時が来たぞ、油女マユ」

 

闇の中から現れた『根』の使者が告げたのは、情け容赦のない出撃命令だった。

 

岩隠れの侵攻スピードは木ノ葉の予測を遥かに上回っていた。草隠れの里の防衛線は次々と突破され、前線からは連日のように凄惨な被害報告と、増援を乞う悲痛な報せが届き続けている。戦況は開戦早々にして最悪と言ってよかった。

 

マユはダンゾウとの約束通り、里の表の忍たちが組織する正規の部隊とは完全に切り離され、単独、あるいは根の特殊工作部隊の影として、とある最前線の戦線へと赴くことになる。

 

そこは、岩隠れの本隊が木ノ葉の領土へ一気になだれ込もうと猛攻を仕掛けている、最も危険な激戦区──まさに「防波堤」が必要とされる死地だった。

 

出発の朝、マユはまだ眠っているアンコの枕元に、いつも通りの短い手紙と、自身のチャクラを込めた特製の蟲を数匹残し、静かに家を出た。

 

「……行ってきます、アンコ先輩」

 

ガスマスクを深く付け直し、腰に膨大な蟲を宿した大容量の瓢箪と、大蛇丸の資料から得た禁術の巻物を背負う。その瞳には、かつて大蛇丸を追っていた頃のような迷いはなかった。あるのは、人質に取られた大切な人の命を何が何でも守り抜くという、暗く燃え盛る執念だけ。

 

マユは木ノ葉の里に背を向け、血と硝煙の匂いが立ち込める戦場へと向かって、音もなく跳んだ。

 

002

 

「──『口寄せ・甲壊蟲《コガネ》』」

 

前線へと急ぐ道中、マユは結印とともに地面へ手を突き、いつもの相棒を呼び出した。

白煙と共に現れたのは、大蛇丸の研究室で品種改良を重ね、さらにこの数日間の引きこもり生活で戦闘用に完全調整された、あの巨大なエメラルドグリーンの甲虫だ。

 

「コガネ、悪いけど急ぐよ。背中を貸して」

 

コガネはマユの意図を察したように、低くブウンと羽音を鳴らすと、その巨体を反転させてマユの背中へとぴったりに貼りついた。

ガチリ、とコガネの頑強な脚がマユの衣服と瓢箪をがっちりとホールドする。

 

次の瞬間、コガネの2枚の翅が猛烈な速度で振動を始め、強烈な風を巻き起こした。マユの身体がふわりと重力を無視して浮き上がる。

 

「──上がれ!」

 

マユの合図とともに、コガネは爆発的な推進力で上空へと一気に飛び立った。

大戦の火の手があちこちで上がり、黒煙が立ち込める草隠れの空を、マユはコガネに背負われる形で縦横無尽に飛翔する。地上を走るよりも遥かに速く、そして障害物を無視して激戦区へと直行できる空中移動。

 

轟轟と吹き荒れる風の中、ガスマスクの奥でマユは眼下に広がる地獄絵図を見下ろしていた。

 

(待っていてください、アンコ先輩。私は何があっても、死なずにあの場所に帰りますから……!)

 

銀緑の光跡を残しながら、マユは岩隠れの大軍が待ち受ける最前線の防波堤へと、空から急速に接近していった。

 

002

 

向かう先は、岩隠れの里との国境沿い。うっそうとした巨木が立ち並び、視界の悪い森が生い茂る場所だった。

 

そこは数日前から戦況が膠着していると報告されていたが、実際には膠着などではなく、木ノ葉の戦線がじわじわと、確実に後方へ押し下げられているという最悪の進行状況だった。さらに異常なのは、その前線から情報を持ち帰る木ノ葉の偵察忍の数が、ここ数日で極端に減っているという点だ。

 

生きて戻った者がほとんどいない──その異常な事実が意味する答えは、誰の目にも明らかだった。

 

(偶然の敗北じゃない。情報そのものを完全に遮断しながら、確実にこっちを圧殺しにきている……)

 

おそらくこの戦場には、組織的な戦術を無意味にするような、たった一人で戦場を支配できるほどの圧倒的な実力を持つ『怪物』が潜んでいる。かつて大蛇丸たち三忍が戦場でそうであったように、敵軍の精神的支柱であり、蹂躙の象徴たる手練れの忍。

 

(私が戦うのは……そんな化け物と、そいつが率いる岩の大軍……)

 

轟と耳を打つ風の音の中、マユはコガネに背負われて空を滑空しながら、ごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。ガスマスクの奥、恐怖で冷たくなった手をきつく握りしめる。

 

けれど、ここで退くわけにはいかない。自分が引き下がれば、その瞬間に里のアンコが殺される。

 

マユは恐怖を殺気へと強引に変換し、深く立ち込める森の暗緑色の樹冠へと、一気に急降下していった。

 

鬱蒼と生い茂る森の木々をすり抜け、マユが戦地へと降り立った瞬間、鼻を突いたのは強烈な血と死臭だった。

 

そこに広がっていたのは、無惨にも地面に折り重なって倒れる木ノ葉の忍たちの死者の群れ。しかし、その遺体はどれも奇妙だった。豪快な忍術で焼き払われた痕もなければ、刀で深く切り裂かれた跡もない。衣服や肌に残されていたのは、すべて細い針のようなもので突かれた痕や、小さな刃による鋭利な切断面だけ。一見すると致命傷とも言い難いごく小さな傷ばかりだった。

 

だが、死んだ忍たちの顔はどれも苦悶に歪み、肌は土気色を通り越して不気味な紫色に変色している。

 

(……『毒使い』。それも、かすり傷一つで確実に息の根を止める、極めて強力な劇物の……)

 

大蛇丸の元で医術や薬物の基礎も叩き込まれていたマユは、即座に敵の特性を見抜いた。

油断なく辺りを見回し、まだ息のある生き残りの忍がいないか探すため、そして森の奥に潜む敵を警戒しながら、一歩、また一歩と慎重に足を進ませる。

 

その時だった。

 

──ビィンッ!

 

静寂に包まれた森に、硬い糸が限界まで張り詰め、弾けたような鋭い音が響いた。

 

「っ……!」

 

マユは思考よりも先に、反射的に全身の細胞を爆発させて身をよじった。突風のように何かが頭上をかすめ、マユはそのまま泥まみれになりながら地面を激しく転がる。

 

間一髪で立ち上がり、今しがた自分がいた場所へ視線を向けると、そこには異様なものが佇んでいた。

 

カタカタカタ……と不気味な関節音を立てて身体を動かす、茶褐色の人形。それはただの木人形ではない。人間の形をベースに造り変えられた禍々しい気配を放つ──『傀儡』だった。人形は歪な動きでマユへと顔を向けると、ギチギチと音を立ててその口を大きく開け、内部に仕込まれた禍々しい砲身をこちらへと真っ直ぐに向けていた。

 

「絡繰り傀儡……岩の戦場に砂の技術、ですか。嫌な予感しか、しませんね……」

 

ガスマスクの奥でマユは忌々しげに、しかし冷徹に、その暗殺人形を睨みつけた。

 

ギチギチと音を立て、人傀儡の砲身の奥で再び毒針の発射体制が整えられていく。その微かな火花の爆発音を、マユの鋭敏な聴覚が捉えた。

 

「させるか……っ!」

 

マユは地面を強く蹴り上げると、弾丸のような速さで傀儡の懐へと肉薄。体を極限まで捻り、その硬質な頭部を目がけて鋭い蹴りを叩き込んだ。

 

ゴッ、と鈍い衝撃音が響き、頭部をへし折られた傀儡がバランスを崩して後方へと吹き飛ぶ。すかさずマユは着地と同時に、背後にぴったりと張り付いている相棒へと短く指令を飛ばした。

 

「コガネ、低空飛行! このまま間合いを維持して!」

 

ブゥゥン! とコガネの2枚の翅が猛烈に唸りを上げ、マユの身体を地上数十センチの高さへと浮かせた。樹木が複雑に入り組む森の中、マユは障害物を滑るようにすり抜ける超低空飛行で、不規則な軌道を描きながら次なる襲撃に備えて応戦の構えをとる。

 

周囲の木々の影、そして土の中まで、マユは自身のナノサイズの毒蟲や偵察蟲をいっせいに放ち、森全体を索敵した。しかし、どれだけ網を広げても、肝心の『術者』の気配がまるで行っ向に引っかからない。

 

「術師の姿は……見えない。私の蟲にも感知できない。チャクラ糸を限界まで伸ばして、ずいぶん遠くから操っているみたいですね……」

 

ガスマスクの奥で、マユの顔が険しく歪む。

姿を見せぬまま、毒を仕込んだ無機物の人形でこちらの体力を確実に削り取ろうという陰湿な戦術。戦場を支配する『化け物』の正体が徐々に輪郭を現し始める中、マユはコガネと共に、さらなる警戒の網を張り巡らせた。

 

「……厄介ですね」

 

次々と襲いかかってくる傀儡の刃や毒針をコガネの低空飛行で紙一重に回避しながら、マユはガスマスクの奥で小さく毒づいた。

 

このまま防戦一方では拉致が明かない。マユは攻撃を捌く一瞬の隙を突き、傀儡の関節から伸びているはずの、不可視の『チャクラの糸』を指先で捕らえ、その供給源──すなわち術者が潜む方向を力技で辿ろうとした。

 

しかし、糸の感触を辿り、そのベクトルを脳内で計算した瞬間、マユは奇妙な違和感に目を見開いた。

 

「──ッ、これは……!」

 

チャクラの糸は、術者から傀儡へと真っ直ぐに伸びているわけではなかった。

周囲に乱立する巨木の幹や、点在する巨大な岩。それらを巧妙に経由し、まるで複雑な滑車をいくつも噛ませるかのように、意図的に糸の方向が何度も何度も変えられていたのだ。

 

術者は、自身の居場所が露見するのを徹底的に防ぐため、あらかじめこの森の地形そのものをトラップの拠点を構築するように利用していた。木や岩に糸を這わせることで、操り手へと続くはずの『線』を複雑に偽装し、敵に自身の存在を絶対に辿らせないよう、完璧な隠蔽工作の策を打っている。

 

(ただの手練れじゃない。戦場全体の構造を完全に把握して、最初からこの森を自分の『巣』にしているんだ……!)

 

姿の見えない蜘蛛の巣に絡め取られていくような、形容しがたい圧迫感。マユは冷や汗を流しながらも、この狡猾極まりない術者の正体を暴くため、さらなる思考を巡らせるのだった。

 

「……仕方ありませんね。割り切るしか、なさそうです」

 

糸を手繰る索敵が通用しないと悟ったマユは、即座に思考を切り替えた。

敵の居場所へとダイレクトに辿り着く手段が絶たれた以上、ここからはどちらの集中力と体力が先に尽きるかという、泥沼の千日手になる。

 

「ぶわりっ!」と、マユが両の手のひらを大きく突き出すと同時に、その袖口や衣服の隙間から、黒い霧のようなナノサイズの蟲の大群が爆発的に湧き出した。

 

「──この森全体に広がれ」

 

マユの短い合図とともに、黒い霧は意思を持つかのように四方八方へと霧散し、鬱蒼とした森の隅々へと潜り込んでいく。

チャクラの糸を辿れないのなら、あとは数に任せた蟲の絶対的な感知網で、絨毯爆撃のように地道に森の全域をシラミ潰しに探るしかない。

 

それには相応の時間がかかる。

蟲たちが森の奥深くを這い回り、潜んでいるはずの敵の本体を見つけ、その正確な居場所をマユの脳へとフィードバックしてくれるまで──。

 

マユにできることは、ただ一つ。

死角から、木々の陰から、まるですべてを圧殺しようとカタカタと音を立てて次々に湧き出てくる異形の傀儡たちを、相棒のコガネと共に、自身が『防波堤』となって泥臭く一体ずつ叩き潰していくことだけだった。

 

「──一匹ずつ潰すなんて、そんな悠長なことはしていられませんね」

 

次々と湧き出てくる傀儡の群れを前に、マユは結印の速度をさらに速めた。地道に戦う姿勢を見せつつも、一刻も早くこの戦況を打破せねばこちらのチャクラが先に枯渇する。

 

「『口寄せ・甲壊蟲《カミキリ》』!!」

 

激しい白煙と共に、マユの足元に新たな影が現れた。

呼び出されたのは、いつも背中にいるコガネとほぼ同じ、人間を優に一人乗せられるほどの巨体を持つ大蟲。しかし、その姿は銀緑のコガネとは対照的だった。長い天を付くような触覚、細長い体躯、夜の闇のように深い黒色の体表に、不気味なほど鮮烈な白い斑点がいくつも浮かび上がっている。

 

そして何よりも異彩を放っていたのは、その頭部に備わった巨大な大顎─大刀もかくやというほどの、禍々しく鋭い牙だった。

 

「ギチチチチチ……ッ!」

 

紙切は現世の空気を吸うなり、金属が擦れ合うような狂暴な鳴き声を響かせ、その大顎を激しく噛み合わせた。ただそれだけで、周囲の風が鋭く裂ける。

 

大蛇丸の研究所で、硬質物の「切断」と「破壊」に特化して品種改良された、マユのもう一匹の戦力。

 

「カミキリ、手当たり次第にあの人形どもを噛み砕きなさい。糸ごと、すべてをね!」

 

マユの冷酷な命令を受け、黒斑点の巨躯が爆発的な速度で地面を這い出した。その大顎が、迫り来る人傀儡の頑強な木造りの身体を、文字通り「紙」のように容易く切り裂き、粉砕せんと牙を剥く。

 

「こっちですよ、人形風情が!」

 

マユは自らが囮となり、派手な体術とコガネによる低空滑空を駆使して、森のあちこちから襲い来る傀儡たちのヘイトを一身に引きつけた。ガスマスクの奥で冷徹に戦況を見極めながら、あえて隙を晒すように動いては、次々と湧き出る傀儡を自身の周囲へと誘い込んでいく。

 

マユの狙い通り、獲物を確実に仕留めんと傀儡の群れが距離を詰めてきた、その瞬間──。

 

「──今です、紙切!」

 

影から飛び出したのは、黒い巨躯に白い斑点を宿した凶暴な大蟲だった。

 

「ギチチチチチッ!!」

 

紙切の鋭利な大顎が、空を裂いて猛然と躍りかかる。バキンッ、と硬質な音が森に響き渡り、傀儡の一体の胴体が文字通り真っ二つに噛み砕かれた。大蛇丸の研究所で培われた品種改良の成果は凄まじく、頑強な人傀儡の骨肉や木造りの装甲など、紙切の牙の前には防具の体をなしていなかった。

 

さらに紙切の獰猛な牙は、傀儡の身体だけではなく、空間に張り巡らされた『チャクラの糸』をも正確に捉えていた。

 

ブチブチブチッ!!

 

目に見えないはずの強靭なチャクラの糸が、紙切の牙によって強引に食いちぎられ、四散していく。操り手との繋がりを断たれた傀儡たちは、まるで魂の抜けた泥人形のように、ガタガタと崩れ落ちて地面へと転がっていった。

 

マユが引き寄せ、紙切がすべてを断ち切る。

姿の見えない術者が仕掛けた完璧な蜘蛛の巣が、マユたちの連携によって、確実に、そして暴力的に食い破られようとしていた。

 

だが、事態はそう甘くは進まない。

 

「……なんで……っ!?」

 

ガスマスクの奥で、マユは思わず驚愕の声を漏らした。

 

自身へと一斉に襲いかかってきた10体もの人傀儡。マユが囮となって引きつけ、紙切の狂暴な大顎でその身体も、操り糸も、すべてをバラバラに噛み砕いて「やっと倒した」と思った、まさにその時だった。

 

地面に転がっていた無数の木造りの手足、割れた頭部、引きちぎられた胴体──それらのパーツが、まるで生き物のように不気味に蠢き始めたのだ。

 

「そうか……糸で……!」

 

バラバラに切断されたはずのパーツの隙間から、細く強靭なチャクラの糸がまるで血管のように、あるいは蜘蛛の糸のように滑り込み、残っているパーツ同士を強引につなぎ直していく。

10体だった傀儡は、その形を変え、今度はより巨大で歪な『4体の傀儡』へと姿を変えて、再びガタガタと立ち上がった。

 

遠隔からチャクラの糸を操り、バラバラになったジャンクパーツを瞬時に再構築して戦線に復帰させる──。

これほどまでに精密で、器用な真似をこれだけの遠距離から平然とやってのけるなど、通常の傀儡師の領域を遥かに凌駕している。

 

(敵ながら……凄まじい技術ですね……)

 

マユは息を呑み、感心すら覚えながらも、その背中には最悪の冷や汗が伝っていた。

どれだけ壊しても、パーツがある限り無限に形を変えて蘇る。そして、この絶望的な状況を作り出している『傀儡使い』は、いまだにこの広い森のどこにも姿を見せていないのだ。

 

「でも……この程度で、負けるわけにはいきません」

 

ガスマスクの奥で、マユは自らに言い聞かせるように呟いた。里で自分の帰りを待っているアンコの笑顔が脳裏をよぎる。こんなところで、姿も見えない化け物に圧殺されてたまるものか。

 

マユは精神を極限まで集中させると、残されたチャクラを振り絞り、胸の前で素早く印を結んだ。そして、顔を覆うガスマスクの固定具を片手で弾くようにして少しだけ外すと、森の冷たい空気を胸いっぱいに大きく吸い込んだ。

 

「──『風遁・胡蝶の舞(こちょうのまい)』!!」

 

マユの口から、猛烈な突風が吹き荒れた。しかしそれは、ただの暴風ではない。風の中には、特別に培養された、光を乱反射して眩しく輝く「特殊な鱗粉」が無数に含まれていた。

 

突風に乗って放たれたきらびやかな粉は、まるで意思を持つかのように空中でありとあらゆる色に輝く無数の『蝶の姿』へと形を変え、再構築された4体の傀儡の周囲を包み込むように激しく纏わりついていく。

 

光の乱反射と、蝶の羽ばたきを模した鱗粉の嵐が、傀儡の視界と感覚機関を完全に狂わせていく。

 

「……ただの目くらましの術ですが、これで十分。一瞬でも動きを止められれば、カミキリで勝負は付きます!」

 

マユが再びガスマスクを装着し、鋭い視線で合図を送る。

その言葉に応じるように、黒い巨躯に白い斑点を宿した紙切が、大顎をギチギチと鳴らしながら、視界を奪われ完全に動きの止まった傀儡の群れへと、トドメの一撃を叩き込むべく猛然と躍り出た。

 

「カミキリ、今度は元に戻せないくらい、徹底的に粉々にしなさい……!」

 

マユの指示を受け、紙切の凶暴な大顎が狂ったように駆動した。目くらましで動きを止めた4体の傀儡を、今度はただ切断するだけでなく、細切れのウッドチップへと変えるように、徹底的に噛み砕き、圧壊していく。これでもう、いくらチャクラの糸を繋ごうとも、形を成すことは不可能なはずだった。

 

ようやく一息つける──そう思ったマユの前に、うっそうとした木々の隙間から、音もなく不気味な人影が現れた。

 

その姿を目にした瞬間、マユの全身にゾクリアルとした怖気が走る。

 

現れたのは、全身を隠すように大きなマントを身にまとい、口元を厚いスカーフで覆った大男だった。しかし、そのシルエットは明らかに人間のそれからは逸脱している。まるで四足歩行の獣のように頭の位置が低く、そこから後ろへと異常なほど長く伸びた身体──異形、という言葉がこれほど似合う男はいなかった。

 

さらに、男の背後のマントの隙間からは、鉄の節骨でできた巨大な蠍の『尻尾』のような絡繰りが、ギリギリと音を立てて不気味に蠢いている。

 

(この異様なチャクラ……そして、あの絡繰りのパーツ……)

 

情報を持ち帰る忍を絶やし、この森を完璧な蜘蛛の巣へと作り変えて戦場を支配していた、正真正銘の元凶。

 

マユはガスマスクの奥で息を詰め、紙切を自身の前に立たせて身構えた。ついに姿を現した、砂の技術を操る岩隠れの「化け物」を前に、マユの戦いは本当の佳境を迎えようとしていた。

 

 

「俺の傀儡が破壊される気配を感じてきてみれば……なんだお前か……久しいな、油女マユ」

 

マントの奥から響いたのは、低く、そして脳裏に焼き付いて離れない、あの冷徹な声音だった。姿は変わっているが、ここまで共通点が多ければもう認めるしかなかった。

 

「……人違いだと、良かったんですけど」

 

ガスマスクの奥で、マユの頬が引きつった。

ここまで見せつけられた、遠隔操縦による圧倒的な絡繰り技術。壊されたパーツを瞬時に再構築する、異常なまでの精密さ。砂の里の技術でありながら、なぜか岩隠れの戦線にいるという矛盾。

 

すべてのピースが、ある一つの最悪な答えを指し示していた。マユは心のどこかで「できれば違っていてほしい」と願っていたが、その微かな希望は、男の言葉によって無残にも打ち砕かれた。

 

「赤砂の、サソリ……!」

 

圧倒的な力で木ノ葉の忍たちを蹂躙した砂隠れの天才傀儡師。マユにとっても、先の偵察任務で死の恐怖を骨の髄まで刻み込まれた、まさしく『強大な敵』その人だった。里を抜けて行方をくらましていたはずの怪物が、今、この異形の傀儡の内に身を潜め、岩隠れの戦力を底上げする最悪の凶星として目の前に立ち塞がっている。

 

「まさか、こんな泥沼の戦場で、あなたと再び戦うことになるなんて……。本当に、私はつくづく運が悪い…」

 

マユは恐怖で震えそうになる足を無理やり踏み締め、コガネの翼を激しく震わせ、カミキリの大顎を構え直させた。かつて手も足も出なかったあの絶望的な強者を前に、マユは生き残るためのすべてを懸けて、戦いの構えをとった。

 

「あの時はお前には逃げられたからな、お前の事を片時も忘れたことはなかったよ」

 

サソリが扮する傀儡の不気味な口元から漏れ出たその言葉は、文字面だけを追えば、まるで執着の果ての愛の告白のようにも聞こえるかもしれない。だが、それを発したのが『赤砂のサソリ』という男であるならば、その意味はただ一つ──最悪の死の誘いに他ならなかった。

 

自分が仕留め損ねた獲物を今度こそ殺してやると言っているのだ。

 

傀儡の奥に潜むサソリの視線が、まるで品定めでもするかのように、マユの身体を頭から爪先までねっとりと舐めるように動く。

 

「……っ!」

 

その冷酷で歪んだ視線に、マユの全身にぞわりと激しい鳥肌が立った。ガスマスクの奥で、嫌悪感と生々しい恐怖が背筋を駆け上がる。

 

「光栄ですね、あの赤砂のサソリにそこまで気に入っていただけるなんて。ですが、あいにく私は此処で死ぬつもりはありません!」

 

マユはコガネと紙切にチャクラを送り込み、迎撃の体制を極限まで高めた。一度は死線を潜り抜けた相手。しかし、今のマユには守らなければならない大切な人がいる。この狂気に満ちた天才傀儡師を前に、マユは自らのすべてを懸けた防波堤となるべく、鋭く地を蹴った。

 

「いいや、お前は此処で死ぬ」

 

不気味な節骨の塊のような口が、カタカタと音を立てて動いた。その奥から響くサソリの声は、あくまで冷徹で、どこか陶酔を含んでいる。

 

「お前は俺の手によって、朽ちることのない芸術……最高の傀儡に殺される、それは本来、光栄に思うべきことだぞ?」

 

「だれが……貴方なんかに!」

 

マユはガスマスクの奥で叫び、コガネの背を強く蹴った。

 

刹那、ヒルコの背後から太く強靭な、鉄の蠍の尾が、風を切り裂き、必殺の一撃となってマユを襲った。

 

「くっ……!」

 

マユは咄嗟にコガネとの連携でチャクラを爆発させ、低空滑空でその一撃を紙一重に回避する。尾が通過した直後の衝撃波で、周囲の木々の葉が巻き上げられる。

 

そのままの勢いで、マユはサソリの本体──ヒルコへと直接攻撃を仕掛けるべく、黒い巨躯に白い斑点を宿した凶暴な大蟲、紙切を差し向けた。

 

「ギチチチチチッ!」

 

カミキリの大顎が、サソリへと肉薄する。だが。

 

──バキンッ! バキンッ!

 

サソリの手首が不気味に蠢いた瞬間、カミキリの前に、さらに新たな二体の傀儡が、空間から滑り込むようにして現れた。

 

二体の傀儡は、紙切の狂暴な突進を受け流すようにその大顎に絡みつき、そのままカミキリを、サソリの本体から強引に引き剥がし、遠ざけてしまう。

 

「虫風情が俺に近づこうなど、百年早い」

 

サソリの冷酷な言葉とともに、二体の新たな傀儡が、紙切へと刃を向けた。マユは、サソリの本体へと近づく手段を完全に封じられ、さらなる窮地へと追い込まれていく。

 

「そういえば、今回は逃げないんだな」

 

傀儡の巨躯から、サソリの低く冷徹な声が漏れ出る。かつての戦場では、徹底して生存を優先し、煙に巻くようにして撤退を選んだマユ。その過去を知るサソリにとって、疲労困憊でありながらも一歩も引こうとしない今の彼女の姿は、奇妙に映ったのだろう。

 

「……逃げたいのは、やまやまですけどね」

 

マユはガスマスクの奥で、荒くなった息を整えながら、途切れ途切れに言葉を返した。額から流れた冷汗が、マスクの縁を濡らしていく。

 

「逃げるわけにはいかない……理由があるんですよ」

 

脳裏をよぎるのは、木ノ葉の里の景色。そして、自分の帰りを信じて待っているアンコの笑顔。自分がここでこの怪物を止めなければ、戦線は崩壊し、その災厄は巡り巡って里の大切な人たちへと牙を剥くことになる。

守るべきものがあるからこそ、今のマユの足は、恐怖に震えながらも地を割りそうなほど力強く踏み留まっていた。

 

「そうか……」

 

サソリは吐き捨てるように、酷く退屈そうに呟いた。

 

「お前も無駄なものに縛られているのだな。仲間、繋がり、里……そんなものは、やがて朽ちて消えゆく脆い幻に過ぎない。永遠の芸術だけが、唯一の価値だというのに」

 

「それは、貴方の価値観でしょう……!」

 

「哀れな奴だ。だが、その無駄な感情が生み出す必死の抵抗も、俺の人形の素材としては良いスパイスになる」

 

ギリギリ、と傀儡の背後で蠍の鉄尾が鎌首をもたげる。サソリの冷酷なチャクラが膨れ上がり、森の空気が一気に凍りついた。

 

サソリの圧倒的な傀儡の操作技術の前には、紙切の速度であっても、本体に到達する前に傀儡の肉壁によって止められてしまう。その事実を肌で理解したマユは、一瞬の躊躇もなく次なる結印へと指を動かした。

 

この包囲網を、絡繰りの肉壁ごと強引にブチ抜くための、絶対的な質量と推進力が必要だ。

 

「──『口寄せ・甲壊蟲《カブト丸》』!!」

 

激しい白煙が爆発的に広がり、森の地鳴りのような重低音が響く。

現れたのは、サソリの操るヒルコの体躯にも匹敵する、巨大な茶褐色の甲虫──頑強極まる外殻と、天を衝くような一本の巨大な角を備えた、規格外のカブトムシだった。

 

大蛇丸の研究所で「突進力」と「絶対防御」の限界を突き詰めて品種改良された、まさに生ける戦車。

 

「カブト丸、突貫して!!」

 

マユの悲壮な叫びに応じるように、カブト丸の背に備わった巨大な翅(はね)がブゥゥゥン!!と重低音を鳴らして超高速回転を始めた。

 

ドゴォッ!!

 

地を削りながら、茶褐色の巨躯が文字通りの弾丸と化して爆進する。サソリが差し向けた傀儡たちが、その圧倒的な質量と突進力の前に、まともな盾にすらならず、次々と弾き飛ばされ、粉砕されていく。

 

「ギィィィィィ──ッ!!」

 

巨大な角を先頭に掲げ、すべての障害物を圧殺しながら猛進するカブト丸。サソリの鉄壁の防陣に、マユの文字通りの「命懸けの突破口」がこじ開けられようとしていた。

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