NARUTO 甲蟲伝   作:ヘビトンボ

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第八章『蟲と蠍』後編

001

 

「──チッ!」

 

サソリの指先が不気味に跳ね、カブト丸を阻止せんとさらに数体の傀儡がその射線上に立ちはだかる。しかし、生ける戦車と化した茶褐色の巨躯は、止まらない。

 

迎撃に飛び出した傀儡たちは、カブト丸の圧倒的な質量の前になす術もなく、一撃で文字通りのウッドチップへと叩き潰され、四方八方へと蹴散らされていった。

 

障害物を力任せにブチ抜いたカブト丸は、その勢いのまま、ついに本丸であるサソリの傀儡の正面へと肉薄する。

 

「いっけぇぇぇーーっ!!」

 

マユの魂を絞り出すような叫びと同調するように、カブト丸の巨大な一本角が、異形の絡繰りマントの胸元へと突き刺さった。

 

──ドコンッ!!!

 

周囲の空気が爆ぜるような、凄まじい大轟音が森全体に響き渡った。その衝撃波は凄まじく、周囲の木々を激しく揺らし、ねぐらにしていた鳥たちが一斉に悲鳴を上げて空へと飛び立っていく。

 

土煙が激しく舞い上がる中、カブト丸の角を受け止めたサソリが、ズズズ……と数メートルほど地面を削りながら後退していた。

 

やがて土煙が薄れると、そこにはカブト丸の角が直撃した、傀儡の頑強な装甲が映し出される。完全に粉砕することこそ叶わなかったものの、その胸部には、ベキベキと派手な亀裂が走り、確かな破壊の痕跡が刻まれていた。

 

「……ほう」

 

ヒルコの奥から、サソリの低く、地を這うような声が響く。それは怒りというよりも、純粋な驚嘆に近かった。

 

「砂隠れのあらゆる忍具、あらゆる術を弾いてきた俺のヒルコの装甲に、傷をつけるとはな……。油女マユ、やはりお前はただの蟲使いではないらしい……そろそろ本気を出すか。時間も惜しくなってきたしな」

 

ヒルコの奥から響く声に、これまでの余裕は消え失せ、冷徹な殺気が混じり始めた。

サソリが指先をわずかに動かすと、全身を覆っていた大きなマントとフードが、ばさりと音を立てて払いのけられ、その全貌が白日の下に晒される。

 

現れたのは、人間のそれとはかけ離れた、悪夢のような異形の絡繰りだった。

男の背面を形成していたのは、ぎろりと虚空を睨みつける、巨大で禍々しい『般若の顔』。そして、先ほどまでマユを脅かしていたあの太く強靭な蠍の尾は、その般若の口から吐き出された、鉄骨の「舌」だったのだ。

 

ギチギチと関節の音を立て、さらに頭の位置を低くした四足歩行の姿勢で構えを取るサソリ──ヒルコ。

 

「ガパリ」と、般若の面の下にあるヒルコ自身の顎が、あり得ない角度まで大きく左右に割裂(さかれて)広がった。

 

「──死ね」

 

開かれた口の暗黒から、陽光を浴びて黒光りする無数の毒針が、まるで豪雨のように一斉に掃射された。かすり傷一つが致命傷となる、サソリ特製の猛毒が塗られた暗器の嵐。

 

「またそれですか……っ!」

 

かつての戦場でも味わったその洗礼に、マユの身体は本能的に反応していた。

コガネの羽ばたきによる急加速と、カブト丸の頑強な背を盾にするようにして、間一髪でその毒針の射線から身をひるがえし、嵐をやり過ごす。

 

しかし、サソリの狙いはその猛毒の雨で仕留めることだけではなかった。

 

マユが回避行動を取ったわずかな隙。サソリはヒルコの内で、静かに、しかし禍々しいチャクラを練り上げ、口寄せの印を結んでいた。

 

「『口寄せの術』──」

 

ボガンッ!!!

 

これまでの傀儡の出現とは一線を画す、森の木々をなぎ倒すほどの巨大な白煙が爆発した。立ち込める煙の奥から、圧倒的な、そしてどこか禍々しく生々しいチャクラのプレッシャーが戦場を圧殺していく。

 

「これを使うことになるとはな……。覚悟しろよ、油女マユ」

 

ぶわり、と視界を完全に覆い尽くすほどの濃厚な白煙が膨れ上がり、周囲の木々を激しくなぎ倒した。

 

その煙の奥から、ゆっくりと姿を現したのは、一人の「男」だった。

端正でありながら、どこか冷徹さを漂わせる特徴的な青髪の偉丈夫──。だが、その肌の質感や、関節部分に見えるかすかな隙間が、それが生きている人間ではなく、精巧に造られた『傀儡』であることを雄弁に物語っていた。

 

しかし、先ほどからマユの前に立ちはだかっていた、使い捨ての妨害用傀儡とは明らかに一線を画している。そこにあるだけで周囲の空気を歪ませるような、そこはかとない、そして圧倒的な威圧感がその人形からは放たれていた。

 

「……それは……」

 

ガスマスクの奥で、マユの瞳が驚愕に揺れた。

これほどまでのチャクラのプレッシャーを放つ傀儡など、聞いたこともない。ただの人形ではない──その直感が、マユの全身の細胞に警鐘を鳴らし続ける。

 

「……お前の歳だと知らないか」

 

ヒルコの奥から、サソリが低く、愉悦を孕んだ声で呟いた。青髪の傀儡は、まるで主の言葉に呼応するように、指先一つ動かさないまま不気味に佇んでいる。

 

「これは俺の最高傑作……砂隠れの歴史において『最強』と謳われた男」

 

サソリの指先が微かに跳ね、操り糸が青髪の傀儡へと繋がれた。

 

「──『三代目風影(さんだいめかぜかげ)』だ」

 

その名を耳にした瞬間、マユの背筋を氷のような戦慄が駆け抜けた。

他国の忍であっても、その名はあまりにも有名であり、あまりにも謎に包まれていた。数年前に突如として砂隠れの里から姿を消し、行方不明となっていたはずの「最強の影」。

 

それが、まさか目の前の怪物の手によって殺され、その能力のすべてを遺したまま『人傀儡』へと作り変えられていたなどという最悪の真実を前に、マユは言葉を失いただ圧倒されるしかなかった。

 

「……そんな……っ」

 

ガスマスクの奥で、マユは絶句した。

 

『三代目風影』──その名を聞いた瞬間、マユの脳裏を埋め尽くしたのは、「そんな馬鹿な」という否定ではなく、背筋が凍りつくような奇妙な『確信』だった。敵のブラフだと笑い飛ばし、聞き入れないという選択肢など、最初から存在していなかった。

 

なぜなら、マユには大蛇丸の研究所で培った、歪で膨大な「人体の知識」がある。そして何より、かつて大蛇丸が漏らした、ある不穏な『助言』が、今になって最悪のパズルとなって脳内で噛み合ってしまったからだ。

 

(大蛇丸様が仰っていた……砂の里の最高傑作が、行方不明になったのではない。何者かに『狩られた』のだと。まさか、それが……サソリ……貴方だったのですか……!)

 

目の前の青髪の傀儡から放たれる、尋常ならざる禍々しいチャクラ。それは、生身の人間から直接命を奪い、そのチャクラ経路ごと人形に仕立て上げなければ、絶対に再現不可能な「生きた遺物」の気配そのものだった。

 

大蛇丸の知識が、マユの頭の中でけたたましく警笛を鳴らし続ける。

 

(ただの傀儡じゃない……。生前の術を、あの血継限界すらそのまま使える『人傀儡』……!)

 

サソリの狂気と、それを実現させてしまった異常な技術の深淵。マユはかつてない絶望的な威圧感に押し潰されそうになりながらも、その最高傑作を見据えて、震える手で構える。

 

(逃げ出したい……ッ!)

 

マユの心の中で、悲鳴のような本音がきつく目を閉じた。

目の前に君臨する『最強の影』の死体。ここから今すぐ逃げ出して、あたたかい里に帰りたい。アンコのいる場所に、生きて戻りたい。

恐怖でバラバラになりそうな精神を、マユは奥歯が痛むほど噛み締め、必死に押し殺した。ここで私が背を向ければ、瞬時にこの怪物に背後から貫かれ、三代目風影同様に人傀儡の素材にされるだけだ。

 

だが、そんなマユの決死の葛藤を嘲笑うかのように、サソリの指先が冷酷に跳ねた。

 

三代目風影の傀儡が、ガタガタと音を立てて不気味に動き始める。

その口が大きく開かれたかと思うと、そこから「ぶわり」と、陽光を遮るほどの不気味な黒い粉末が吐き出され、またたく間に上空へと広がっていった。

 

(黒い……砂……!? いいえ、これは──)

 

マユがその正体に気づき、戦慄した時にはもう遅かった。

空を覆った黒い質量は、サソリの磁力のチャクラによって一瞬にして無数の鋭利な「針」へと姿を変え、逃げ場のない広範囲の豪雨となって降り注ぐ。

 

「──『砂鉄時雨(さてつしぐれ)』!!」

 

音を置き去りにするほどの速度で射出された、金属の嵐。ただの砂ではない、重さと硬度を兼ね備えた「砂鉄」の弾丸が、マユと彼女の蟲たちを容赦なく圧殺せんと、頭上から猛然と襲いかかった。

 

「三代目風影は、練り込んだチャクラを磁力に変える特殊体質だ……」

 

凄まじい風切り音を立てて降り注ぐ砂鉄の嵐の向こうから、サソリの、どこか陶酔を帯びた声が響く。すでに勝負は決したと確信しているのだろう。絶対的な優位に立つ天才は、自らの芸術を誇示するように饒舌に語り出した。

 

「俺はその体質のまま、こいつを傀儡に変えることで、その能力を自在に使うことができる。血継限界をそのまま残した、世界で唯一の『人傀儡』……これこそが不朽の美だ」

 

マユの目の前で、盾となったカブト丸の頑強な茶褐色の外殻に、無数の砂鉄の針が突き刺さり、火花を散らす。しかし、ただの金属片ではない。磁力によって加速し続ける砂鉄は、カブト丸の絶対防御すらも徐々に削り、その巨躯を地へと縫い付け、強引に圧殺しようとしていた。

 

「くっ……あ、ああ……っ!」

 

激しい衝撃波と、防ぎきれずに掠めていく黒い火花のような砂鉄の擦過傷に、マユは腕を顔の前にかざして耐えるしかなかった。

 

サソリの言う通り、これはあまりにも理不尽な力だった。傀儡師自身のチャクラだけでなく、人傀儡となった三代目風影の「磁遁」が、生前と変わらぬ脅威となって戦場を完全に支配している。

 

「どうした、油女マユ。自慢の蟲どもが、磁力の檻の中で悲鳴を上げているぞ」

 

視界を埋め尽くす黒い時雨の中で、マユは絶望の淵に立たされながらも、必死に次の一手を模索していた。だが、最強の影の力を前に、その思考すらも砂鉄の嵐に呑み込まれそうになっていた。

 

「……不朽だの永遠だのと、五月蠅(うるさ)いんですよ……ッ!」

 

砂鉄の豪雨がカブト丸の外殻を削り、激しい金属音と火花が散る狂乱の中で、マユの纏う空気が一変した。

 

恐怖に震えていたはずの彼女の身体から、どす黒く、そして圧倒的に濃密な「力」が噴き出し始める。

 

ズズズ……、と不気味な脈動の音を立てて、ガスマスクの隙間、目元や頬の皮膚に、禍々しい六角形の幾何学文様が這い回り出した。大蛇丸によって刻まれた『呪印』──それがマユの意思を無視して、あるいは彼女の怒りに呼応して、急速にその半身を侵食し、黒く染め上げていく。

 

「あ……が、ああああッ!!」

 

劇薬のようなチャクラが全身の経絡を駆け巡り、脳を、神経を、圧倒的な破壊衝動で焼き焦がしていく。呪印の侵食が進むにつれ、マユの精神は内側から強引に塗り替えられ、その口調すらも、いつもの理性的で臆病な彼女からは想像もつかないほど粗雑なものへと変貌していった。

 

「どいつもこいつも、人形だの作品だの、気色の悪いことばっかブツブツと……! 他人の体を好き勝手に弄くり回して、何が芸術だ……。反吐が出るんだよ、クソ野郎……ッ!!」

 

「……ほう?」

 

呪印の力を解放し、禍々しいチャクラの波動を放ち始めたマユを前に、ヒルコの奥でサソリの瞳がわずかに細められた。

 

理性を狂気へと変換し、暴力的なまでの出力を得たマユ。そのガスマスクの奥の瞳は、圧倒的な殺意を孕んでギラギラと赤く輝き、頭上の砂鉄の嵐を真っ向から睨みつけていた。

 

「『蜂突』──ッ!!」

 

呪印の暴虐なチャクラを爆発させた瞬間、マユの姿が掻き消えるようにぶれた。

超高速の踏み込み。文字通り、蜂が獲物を射抜くような直線的かつ苛烈な一撃が、砂鉄の雨を強引にブチ抜いて、三代目風影の胸元へと一瞬で肉薄する。

 

「──さっさと壊れろ、陰湿野郎!!」

 

呪印の暴虐なチャクラに脳を焼き焦がされたマユの口から、獰猛な咆哮が迸る。

その移動速度は、解放前の彼女とは完全に一線を画していた。全身を侵食した禍々しい六角形の幾何学文様が脈動するたび、爆発的な推進力がマユの脚に宿る。

 

頭上から容赦なく降り注ぐ『砂鉄時雨』の黒い豪雨。しかし、今のマユの赤い瞳は、その凶悪な弾幕のわずかな隙間を完全に捉えていた。

耳を裂く風切り音を立てて迫る砂鉄の針を、ある時は最小限の首の傾げで、ある時は軸足をミリ単位でずらすだけの極小の動きで紙一重に回避していく。風影の傀儡から放たれる圧倒的な磁力の圧迫感をも力技でねじ伏せ、マユは最短距離の直線軌道を描きながら、超高速で距離を詰めにかかった。

 

厄介な広範囲遠距離攻撃を仕掛けてくるこの『三代目風影』を、サソリの防陣ごと先に圧殺して潰す──。

理性を暴力に塗り替えられた今のマユにとって、それは本能が弾き出した最も確実な最適解だった。

 

だが、戦場を支配する本物の「化け物」の洞察力は、その圧倒的な速度すらも冷徹に網膜に焼き付けていた。

 

「動きは早いがそれまでだ、単調すぎるんだよ」

 

ヒルコの奥から、サソリの酷く冷ややかで、退屈そうな声が響く。

 

「呪印という安易な力に溺れ、頭のネジが数本吹き飛んだか。力を得た代償に、かつてのお前の最大の武器だった『いやらしさ』が完全に消え失せているぞ、油女マユ」

 

刺突の構えをとったマユの手元──その指先から繰り出される『蜂突』の鋭利な一撃が、三代目風影の精巧な頭部へと到達する、そのほんのコンマ数秒前のことだった。

 

背後から、鼓膜を直接突き刺すような、空気を切り裂く凶悪な金属音が轟いた。

 

「っあ……!?」

 

ガスマスクの奥で、マユの赤い瞳が驚愕に引き絞られる。

脳に焼き付いたその音の正体を、マユの細胞は嫌というほど記憶していた。サソリの本体──ヒルコの般若の口から吐き出された、あの太く強靭な鉄骨の『蠍の尾』が、信じられない速度でしなり、マユの死角である背後から正確に襲いかかっていた。

 

風影の傀儡を囮にし、突進してくるマユの直線的な軌道を完璧に読み切った上での、冷酷無比なカウンター。

 

前方に全チャクラを傾けたこの制動不可能な最高速度の中では、背後からの必殺の一撃を回避する術は残されていなかった。

 

次の瞬間、サソリの巨大な尻尾が、避ける暇もなくマユの身体を強く殴打した。

 

強烈な衝撃が容赦なく肉体を襲い、マユの身体は木の葉のように吹き飛ばされる。きりもみ回転をしながら宙を舞うマユは、受け身を取ることもできず、そのまま地面へと激突するかと思われた。

 

しかし、その背中から、マユを落とさせまいとひとつの影が動く。

相棒の『コガネ』だった。コガネは主の危機を察し、その強靭な翅を千切れんばかりに超高速振動させ、凄まじい風圧を生み出しながらマユの衝撃を受け止めた。コガネの決死の援助によって気流が生まれ、マユは辛うじて空中で態勢を立て直すことに成功する。

 

ドサリ、と膝を突きながら地面に着地したマユは、ガスマスクの隙間からどろりと漏れ出る、生温かい感覚に気づいた。

強烈な打撃の衝撃により、鼻の奥が裂け、鼻血が溢れ出ていた。マユはそれを、手の甲で乱暴に、雑に拭い去る。

 

だが、その身体に走る激痛と、鼻血を拭ったという現実の感覚が、皮肉にも彼女の脳を覚まさせた。

呪印の暴虐なチャクラによって破壊衝動に満たされていた脳内に、冷たい冷水が注がれたかのように、少しだけ冷静な思考が戻ってくる。

 

(……落ち着け。今、私は何をしようとしていた……?)

 

ガスマスクの奥で、マユの瞳が細められる。

呪印の力に呑まれ、力任せに突っ込んだ結果がこれだ。サソリの言う通り、速度が上がった代わりに、自分の動きは単調極まりないものになっていた。あの怪物を相手に、ただの直線的な突撃など自殺行為でしかない。

 

マユは荒い呼吸を整えながら、少し冷静になった頭で戦況を分析し始める。

 

目の前には、依然として不気味に佇む『三代目風影』の人傀儡。そして、その背後で、強靭な鉄尾をうねらせながらこちらを睨みつける『ヒルコ』。

あの風影の傀儡が放つ砂鉄の術は、広範囲かつ高威力で、こちらの蟲の接近を容易に許さない。さらに、下手に近づけば、サソリ自身のあの鉄尾による死角からのカウンターが飛んでくる。攻防ともに隙のない、完璧な二重の陣形。

 

(まともに戦っても、術の物量と手数の差で押し潰されるだけ。呪印のチャクラで身体能力が上がっている今なら、あの砂鉄の嵐にも耐えられるけれど……それだけじゃ、あの二体を同時に崩すことはできない……)

 

じわじわと皮膚を侵食する六角形の幾何学文様が、依然として劇薬のようなチャクラを供給し続けている。だが、この力は長くは持たない。理性が完全に焼き切れる前に、この絶望的な均衡を打ち破る「いやらしい」一手を、自らの頭脳で見つけ出さなければならなかった。

 

マユは震える指先をそっと背中の瓢箪へと伸ばし、冷徹にサソリの次なる動きを凝視した──。

 

そうしている間にも、戦場を支配するサソリはマユに思考の時間を与えてはくれない。

 

「仕切り直しの時間など、与えると思うか」

 

ヒルコの奥からの冷酷な呟きと同時に、三代目風影の傀儡がガタガタと音を立て、地を滑るような猛烈な初速でマユに向かって突撃してきた。

 

それだけではない。風影の頭上、陽光を遮るようにして数トンの砂鉄が集束し、見る間に巨大な『金づち(鉄槌)』の形状へと変化していく。磁力によって高密度に圧縮され、ただの鉄塊を遥かに凌ぐ質量を得たその黒い金づちを、風影の傀儡は一切の予備動作なく、マユの頭上へと真っ向から力任せに振り下ろした。

 

ドォォォォォンッ!!!

 

凄まじい破壊音が爆発し、まるで小規模な地震でも起きたかのように周囲の地面が激しく揺れ動く。風影の鉄槌が直撃した地面はクレーター状に陥没し、凄まじい衝撃波とともに土煙と粉砕された岩の破片が四方へと吹き飛んだ。

 

しかし、その破壊の渦の中に、マユの姿はなかった。

 

「……チッ、甘いんですよ……!」

 

衝撃に揺れる地上の遥か上空──。

マユは地響きが鳴り響く瞬間に、背後からマユを支えていたコガネの強靭な前脚に自身の身体を掴ませていた。コガネの羽ばたきによる爆発的な超高速飛翔によって、地上から垂直に文字通りの「跳躍」を果たし、空中に逃げることでその一撃を余裕をもって回避していたのだ。

 

呪印のチャクラによって、マユ自身の動体視力と空間把握能力は限界まで引き上げられている。少し冷静さを取り戻した今の彼女の脳は、敵の質量攻撃の軌道を完全に読み切っていた。

 

空中でコガネに掴まりながら、眼下の土煙を見下ろすマユの瞳が、ガスマスクの奥で冷徹に光る。

 

(上空なら、あの地を這うようなスピードの突撃も、地表を伝う衝撃波も届かない……。それに、上空からなら──奴らの死角が丸見えだ)

 

砂鉄の鉄槌を振り下ろし、わずかに硬直の姿勢をとっている三代目風影。そして、その後方で操り糸を引くヒルコ。

空中という絶対的な優位から戦場を俯瞰したことで、マユの脳内に、サソリの完璧な二重陣形を内側から狂わせる、油女一族らしい戦術のパズルピースが急速に組み上がっていった。

 

手元に残された戦力は、自身の肉体を強化し続けている呪印の劇薬たるチャクラ、そして共に空中へ逃れた最後の相棒・コガネ。

まともに戦えば最強の影の前に圧殺される。ならば、その圧倒的な「力」の前提そのものを引っくり返すしかない。

 

「サソリ……、人形遊びの時間はもう終わりです」

 

マユは空中でコガネから手を離し、重力に従って風影の頭上へと真っ逆さまに落下しながら、素早く印を結び始めた。

 

「──おおおおおッ!!」

 

呪印によって限界を超えて高まった膂力を床へと叩きつけ、マユは爆発的な勢いで再び立ち上がった。その足は、痛みに悲鳴を上げるどころか、より強固に地を捉え、再び『三代目風影』の傀儡へと向かって一直線に駆け出す。

 

「懲りない奴だ」

 

サソリの冷徹な声とともに、先ほどマユを叩き落としたあの凶悪な鉄尾が、再び空間を切り裂いて襲いかかる。同じ軌道、同じ速度──だが、今のマユの頭脳は冷徹にその瞬間を待っていた。

 

(今だ……ッ!)

 

「『風遁・蟲針(むしばり)』!!」

 

迫り来るサソリの尾の直前、マユは懐から無数の細長い蟲針を投擲し、同時に口から鋭い風のチャクラを吹き付けた。風を纏った針は、凄まじい推進力を得て、弾丸のような速度でサソリの本体──ヒルコへと射出される。

 

「俺の真似か、お粗末なものだな」

 

サソリは嘲笑混じりに呟いた。先ほど自らが放った『砂鉄時雨』や毒針の嵐に比べれば、その威力も範囲もあまりに貧弱。ヒルコは、マユの放った針の雨を避けることすら固執せず、強固な装甲でそのまま受け止める構えを取る。

 

「追い詰められて、ろくに考えが回らなくなったか」

 

サソリの言う通り、それはあまりにも無謀で、自殺志願者のような悪手に見えた。だが、ガスマスクの奥に隠されたマユの瞳は、決して諦めてなどいなかった。この一手が、これから始まる「時間稼ぎ」のための、冷徹に計算された布石であることに、サソリはまだ気づいていない。

 

マユの狙いは、最初から三代目風影ではなく、それを操るサソリ──ヒルコそのものだった。

 

「……ッ!?」

 

蟲針をあえて正面から、油断して受け止めたヒルコの巨躯が、突如としてギチリ、と不気味な音を立てて硬直する。

マユの放った針は、ヒルコの強固な外殻を破壊するためのものではなかった。四足歩行で身を低くしたその瞬間、関節の隙間、駆動部が剥き出しになる一瞬の「点」を正確に撃ち抜き、深く食い込んでその動きを内部から阻害したのだ。

 

ここに来るまでの道中、そしてこの戦いの中で、散々傀儡と相対し、その構造と糸の伝達経路を観察し続けたマユだからこそ成し得た、執念の即興劇。

 

「な……んだと……」

 

サソリが指先を動かすが、ヒルコの四肢は言うことを聞かない。そればかりか、突き刺さった針の頭から、悍ましい羽音が響き始めた。

 

「──『死相展足(しそうてんそく)』!!」

 

マユが結印すると同時に、埋め込まれた針の内部から、肉眼では見えないほど極小の寄壊蟲の群れが爆発的に這い出し、ヒルコの関節内の絡繰りやバネに強引に噛み込んだ。蟲たちはサソリのチャクラを喰らいながら膨張し、関節を内側から「あらぬ方向」へと強引に捻じ曲げていく。

 

メリメリ、ベキキキッ!

 

「バカな、俺のヒルコが……!」

 

サソリの驚愕の声を置き去りにし、ヒルコの巨躯は文字通り『昆虫標本』のように、左右の四肢を無残に外側へと突っ張らされ、地面に縫い付けられるようにして完全にその動きを封じられた。

 

強固な装甲も、凶悪な鉄尾も、駆動部を物理的にロックされては動かせない。大蛇丸の研究所で培った人体の解剖知識と、傀儡の構造への深い理解。その二つを狂気の呪印の中で融和させたマユの泥臭い一撃が、絶対の天才であるサソリの足を、完全に大地へと縛り付けた。

 

「きて、カブト丸──ッ!!」

 

ヒルコの動きを完全にロックした大好機に、マユは間髪入れずにいつでも飛び出せるように控えていた存在の名前を叫ぶ。

 

カブト丸の頑強な翅が唸りを上げ、弾丸のような速度で拘束されたサソリへと飛び込む。

三代目風影が操る『砂鉄時雨』の黒い雨がノコギリ丸の身体を激しく叩くが、カブト丸同様に毒針を防御できる硬度を誇るその甲殻は、飛び交う砂鉄の弾丸を火花に変えて難なく弾き飛ばし、その暴風雨を強引に潜り抜けていく。

 

「く……ッ!?」

 

サソリが操り糸を引いて三代目風影を自身の傍へ引き寄せようとしたが、カブト丸の突進速度が僅差でそれを上回る。カブト丸の太刀にも似た凶悪な角が、サソリのヒルコの太い胴体を真横から完全に捉え、凄まじい力で貫いた。

 

例え幾重のもの術の猛攻を凌げる傀儡だとしても、中身は精密な絡繰りだ。二度もカブト丸の猛攻を受けた胴体は、圧倒的な力で真っ二つに切断され、無数の歯車や破片を撒き散らしながら、地面へと力なく地面へと沈む。同時に糸か途切れたのか三代目風影の傀儡も地面へと墜落した。

 

ガシャァァンッ……!

 

真っ二つに裂かれたヒルコが、無残な木切れとなって地面へ転がり落ちる。

サソリの『最強の盾』を落とすという、他国の忍からすれば奇跡に近い大金星を挙げたマユだったが、それを喜ぶ余裕など微塵もなかった。

 

「はっ、……ひゅ、……う、く……っ」

 

ガスマスクの奥の呼吸は浅く、ひどく喘いでいる。呪印による過剰なチャクラの酷使と、先ほど頭部を強打したダメージが、今になって一気に彼女の肉体を蝕み始めていた。視界がチカチカと明滅し、指先ひとつ動かすのすら激痛が走る。

 

(今……今しか、ない……ッ! 傀儡が動けないうちに、本体を……!)

 

限界寸前の身体に鞭打ち、クナイを握り直して壊れたヒルコへと一歩を踏み出す。

 

しかし、サソリという怪物の底は、マユの想像を遥かに超えていた。

 

「──フン、まさかお前にここまでやられるとはな」

 

ヒルコの奥から、冷徹な鼻笑いが響く。

直後、ギチギチとロックされていたヒルコの巨躯が、まるで内側から爆発するように、バラバラとパーツごとに『解体』され始めた。

 

「な……ッ!?」

 

マユが驚愕に目を見開く。サソリは、マユが仕込んだ『死相展足』の針と寄壊蟲ごと、ヒルコという強固な外殻そのものを自らパージ(解除)したのだ。せっかく緻密に計算してハメ殺した関節の拘束が、外装を捨てるというあまりにも豪快な手段によって、一瞬で無意味なものへと帰す。

 

飛び散る絡繰りの破片とマントの残骸。その中央、土煙の向こうから、一人の人影がゆっくりと立ち上がった。

 

現れたのは、かつての戦場で、マユがその目に焼き付けた姿。

不気味なほどに整った容姿をした、燃えるような赤髪の青年。

 

「……油女マユ」

 

サソリは感情の消えた、硝子玉のような瞳でマユを凝視した。その声音は、静かすぎて逆に背筋が凍りつくほどの純粋な殺意に満ちている。

 

「俺がこうまで殺したいと思った奴は……初めてだ」

 

ヒルコという絶対の盾を剥がされ、最高傑作である三代目風影を壊されてなお、赤髪の青年の佇まいからは、一切の揺らぎも、敗北の気配すらも感じられなかった。それどころか、真の『全貌』を現したサソリから放たれるチャクラは、先ほどまでの比ではないほどに濃密で、圧倒的な死の気配を漂わせていた。

 

サソリが背中から、おもむろに巨大な巻物を取り出した。

その表面に記された不穏な文字を目にした瞬間、マユの脳裏に最悪の予感が走る。それが、彼がさらなる傀儡を、それもこれまでの規模を遥かに凌駕する「何か」を呼び出すための引き金であることは、説明されずとも理解できた。

 

ぐっと次の攻撃に備えてチャクラを練るその時、その時、サソリの背後から、鬱蒼とした木々を掻き分けて一人の岩隠れの忍が姿を現した。

 

上忍や実戦部隊の者たちのような重々しい防具は身につけておらず、この凄惨な前線にはおよそ似合わない、動きやすさ重視の軽装をしている。その格好からして、本陣と各戦線を往復する連絡係の忍なのだろう。

 

だが、その忍はサソリの元へ駆け寄ろうとした瞬間、その場に文字通り凍りついた。

 

目に飛び込んできたのは、あまりにも異常な戦場の惨状だった。森の木々はなぎ倒されて粉々になり、地面は抉れ、空を不気味な黒い砂鉄が覆っている。そして何より、そこに対峙する二人の存在──禍々しい六角形の幾何学文様を肌に浮かび上がらせ、血のような赤い瞳で空中を漂う木ノ葉のくノ一と、砂隠れの伝説たる『三代目風影』の人傀儡を平然と操る暁の怪物。

 

尋常ならざるチャクラのプレッシャーが肌を刺し、連絡係の忍は一瞬にして顔を真っ青に染めた。ガチガチと歯の根を鳴らし、あまりの恐怖にその場から逃げ出したい衝動を必死に抑え込みながら、喉を鳴らしてサソリへと声を絞り出す。

 

「で、伝令……っ、サソリ殿……!」

 

その悲鳴に近い声に、ヒルコの奥からサソリの冷徹な視線が向く。

 

「……何だ。見ての通り、取り込み中だ。くだらない報告なら、その首を次の傀儡の部品にするぞ」

 

サソリの低く、一切の感情を排した声に、岩隠れの忍は背筋を氷で撫でられたように震え上がった。しかし、もたらされた言葉は、この戦場の勝敗すらも覆しかねない、大戦の戦況を揺るがす最悪の急報だった。

 

「し、至急戦線を離脱されたし……っ! 神無毘橋にて、橋が……我が方の補給路である『神無毘橋』が、木ノ葉の部隊によって完全に破壊されました!!」

 

「何だと……?」

 

サソリの声に、初めて明確な不快感のトーンが混じる。

 

「前線の維持、および新たな陣地構築のため、上層部より至急本陣へ戻られたしとの命令です……っ!」

 

岩隠れの忍はそこまで一気にまくし立てると、これ以上この怪物たちのプレッシャーに耐えきれないと言わんばかりに、脱兎のごとく背後の森へと引き返していった。

 

神無毘橋の崩壊──。岩隠れにとって、この大戦の命運を握る最大の補給線が絶たれたことを意味するその一報は、サソリの指先を微かに止めさせた。

 

空中で印を結びながら、落下軌道にあったマユの耳にも、その伝令の声は確かに届いていた。ガスマスクの奥で、マユの赤い瞳が大きく見開かれる。

 

(神無毘橋……。岩隠れの重要な補給路が落とされた……?)

 

他国の戦況や、その任務に誰が向かっているかなど、この最前線で死線を彷徨う下忍のマユが深く知る由もない。ましてや、そこに木ノ葉のどのような手練れが関わっているかも知らなかった。

 

しかし、大蛇丸の元で戦局の推移を冷徹に叩き込まれてきたマユの頭脳は、もたらされた「岩隠れの補給路崩壊」という事実が持つ意味を、瞬時に弾き出していた。

 

サソリの任務は、この前線を崩壊させて木ノ葉の本陣へ攻め入ること。だが、補給路を断たれた岩隠れ軍にとって、これ以上の戦線維持や深追いは、兵站が枯渇して全滅を意味する致命傷となり得る。サソリほどの天才が、それを理解できないはずがなかった。

 

「……チッ。余計な邪魔が入ったな……」

 

ヒルコの奥から、サソリの苛立ちの混じった舌打ちが響く。三代目風影の傀儡が、マユを捉えていた視線を僅かに外し、撤退の気配を帯びてカタカタと不気味に首を鳴らした。

 

「……俺は此処を移動する」

 

ヒルコの奥から、サソリの低く、完全に興奮の冷めた声が響く。神無毘橋の崩壊という最悪の凶報を受け、これ以上の戦闘継続は彼にとって無意味な時間の浪費でしかなかった。

 

「……追ってくるなら、止はしないが」

 

三代目風影の人傀儡が、その冷徹な青髪を揺らしながら一歩後退する。サソリの指先から伸びるチャクラの糸が微かに引かれ、あれほど戦場を圧殺していた砂鉄の針や巨大な鉄槌が、サラサラと音を立てて崩れ、地表へと回収されていった。

 

空中から着地し、呪印の禍々しいチャクラを全身に漲らせたまま身構えていたマユは、その言葉を聞いた瞬間、ガスマスクの奥で深く、長く、溜め息を吐き出した。

 

全身の皮膚を侵食する六角形の幾何学文様が、彼女の意思の弛緩を察したように、じわじわと引き潮のようにその勢いを潜めていく。劇薬のチャクラがもたらしていた暴力的な昂ぶりが去り、代わりに全身を襲う凄まじい疲労感と激痛に耐えながら、マユはサソリを真っ向から睨み据えた。

 

「いえ……私は此処の戦場を維持することが任務ですから……」

 

マユは手の甲で、再度鼻血を丁寧に拭い去ると、いつもの、しかしどこか吹っ切れたような声音で冷然と言い放った。

 

「貴方ともう戦うなんて御免です」

 

その言葉に嘘偽りはなかった。ダンゾウから下された命令は、あくまでもこの前線の死守。退いていく怪物を無謀に追いかけ、三代目風影の能力を前にこれ以上の私闘を演じる理由など、どこにもない。何より、自分の大切な蟲たちをこれ以上失いたくないという本能が、撤退を受け入れろと叫んでいた。

 

「……賢い選択だな。少しは生き残る確率を計算できる頭が残っていたか」

 

サソリはそれ以上マユに視線を向けることなく、踵を返した。三代目風影の傀儡がその背を護るように付き従い、ヒルコの巨躯が鬱蒼とした森の奥へと、驚くほどの静けさで消えていく。

 

戦場に、にわかに静寂が戻ってきた。

耳を劈くような金属音も、視界を覆い尽くした黒い砂鉄も消え去り、後に残されたのは、に無残に粉砕された木々と、深く抉られた大地の傷跡だけだった。

 

「……はぁ……、はぁ……っ」

 

完全にサソリの気配が消えたことを確認した瞬間、マユは緊張の糸が切れ、その場に崩れ落ちるように両膝を突いた。

 

呪印の反動による激しい悪寒と筋肉の痙攣が、彼女の小さな身体を容赦なく痛めつける。ガスマスクの奥で激しく喘ぎながら、マユは血の跡が残る地面をじっと見つめた。

 

(生きて、いる……。私は、あの赤砂のサソリを相手に、生き延びたんだ……)

 

アンコのいる里へ生きて戻る。その強い執念と、神無毘橋の崩壊という戦局の激変によって、マユは辛うじて最悪の結末を回避した。しかし、この大戦がもたらす狂気と絶望の深淵は、油女マユの心に、消えることのない深い爪痕を刻み込んでいくことになる。

 

003

 

「ありがとう、油女マユ……! 君のおかげで、この前線は守られた!」

「助かった……! あの赤砂のサソリを相手に、まさか一人で持ちこたえるなんて……!」

 

サソリの気配が完全に森の奥へと消え去り、マユが泥塗れの地面に両膝を突いたまま動けずにいると、にわかに周囲の木々の陰から木ノ葉の忍たちが次々と姿を現し、彼女の元へと駆け寄ってきた。

 

彼らは戦場から逃げ出していたわけではなかった。サソリの放つ『三代目風影』の圧倒的な磁遁の嵐、そしてマユが解放した『呪印』の禍々しいチャクラの激突──あまりにも次元の違う化け物同士の激戦を前に、下手に近づけば足を引っ張るだけだと判断し、遠巻きに戦況を見守ることしかできなかったのだ。

 

「こんなに若いのに、すごいな君は……」

「ああ、凄まじい闘志だった。まるで、あの『木ノ葉の白い牙』の若い頃を見ているようであったぞ……!」

 

一人のベテランの忍が感極まったように声を震わせ、マユの泥を被った小さな肩にそっと手を貸し、引き起こそうとする。周囲の忍たちも皆、畏敬と感謝の念が入り混じった目で彼女を見つめ、口々にその戦い振りを称賛する言葉を投げかけていた。

 

だが、彼らの温かい言葉が、肩に触れる手のぬくもりが、今のマユにとっては、まるで鋭利な刃物となってその心をズタズタに切り裂いていくようだった。

 

木ノ葉の白い牙──かつて天才と謳われた、伝説の英雄。そんな偉大な存在の若き日になぞらえて、彼らは自分を褒め称えている。前線を死守した殊勲の英雄として、最大級の賛辞を贈ってくれている。

 

(……違う)

 

ガスマスクの奥で、マユはきつく、血がにじむほどに己の唇を噛み締めた。

その拳は激しく震え、爪が手のひらに深く食い込んでいる。

 

(私は、勝ってなんかいない……っ!)

 

サソリが引いたのは、ただ岩隠れの本陣から「神無毘橋崩壊」の急報が届き、戦略的な理由でこれ以上の戦闘を無意味だと判断したからに過ぎない。もしあの伝令があと数分遅ければ、あるいはサソリが伝令を無視してでも自分を殺すと決めていれば、今頃マユは、あの無惨な死体と同じように紫黒色の毒に染まった死体となり、傀儡の材料にされていただろう。

 

あの怪物の前で、自分はただの『敗北者』だったのだ。

 

「……見逃してもらった……だけです……」

 

マユは肩を貸そうとする忍の手を、弱々しく、しかし明確な拒絶を込めて振り払った。ガスマスクの奥から漏れ出た声は、酷く掠れ、悔しさと情けなさで震えていた。

 

「私は……、アイツに、生かされただけ……。そんな称賛は、不要です……っ」

 

冷徹に、そして残酷に突きつけられた「世界の深淵」と、自らの圧倒的な力不足。

生き残ったという安堵よりも、ただ見逃されたに過ぎないという屈辱と恐怖が、呪印の引いたマユの身体を冷たく支配していく。周囲の忍たちは、想定外の頑なな態度に戸惑いの表情を浮かべ、それ以上言葉をかけることができずに沈黙した。

 

粉砕されたウッドチップの匂いと、冷たくなった紙切の骸を背に、マユはただ一人、己の無力さを呪うように深く深く、頭を垂れるしかなかった。

 

 

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