かつて通った廃校の屋上で、男は幼き日の「宝箱」を開ける。
果たして男はその箱から何を持ち出すのか。
古びた廃墟の中に足を踏み入れる。
言うまでもなく危険な行為で、褒められた振る舞いではない。
だったら使う当てのなくなった建物など即座に取り壊せばいいだろうに。
それも上手くは行かないか。
なにせ金がかかる。なんでも金、金、金。まったく嫌な世の中だ。
国の人口減少は歯止めがかからず、若者は重税に喘ぎ未来への展望が見えない。
なんとか外人が土地を買い占めるのを水際で阻止はしたものの…
今考えれば、果たしてそれだって正しかったのかどうか。
そもそも部分成功されてる時点で戦略的に敗北しているのだ。
今更慌てて法規制をしても後の祭りだろう。
そもそも人口減少にこれと言った対策を打てていないのは事実。
さりとて土地を求める異人にそれを譲るつもりは毛頭ない。
無茶振りのツケはいつだって現実にのしかかってくるものだ。
と来れば、自然、遺棄地が増える一方となる。
だからこういった廃墟が片付けられずにあちらこちらに転がっているわけだ。
中には街一つ丸々ゴーストタウンになった、なんて笑えない話だって珍しくない。
誇りだなんだと言っていられるのは何の心配もなく食べられる間だけだろう。
痛み分けどころかトータルで見れば負けていると評されても無理からぬところだろう。
ここもそんな遺棄された場所の一つだ。
そして、かつて自分が通っていた学校でもある。
校門は閉じられたまま動かなくなっているが、隙間なんて何処にでも在るものだ。
慌てることなく訳知り顔でぽっかり開いた抜け道を身を屈めて通り過ぎる。
ふと、アオミドロが繁茂したエリアを横目にして足を止める。
緑の水たまりを眺めて少し首を傾げ、思い至った。
……あぁ、プールか。
プール授業のある珍しい校区だったのだがそれも今は昔か。
今では夏場はボウフラなんかの害虫がすごいことになりそうだが。
虫を警戒して、というわけではないがジッポに火を入れ紫煙をくゆらせ始める。
歩きタバコは決してお行儀が良いとは言えないが、咎める者もいないだろう。
なに、ここから持ち出す秘密の思い出が1つ2つ増える程度に過ぎない。
輪っかになった煙を青空に吐き出してから、再び歩き始める。
想像していたような暗くおどろおどろしい気配はない。
匂いなんかももっと異臭がするかと思ってもいたがそんな様子もない。
強い緑の薫りが運ばれてくるものの、それは自分にとって決して不快なものではない。
むしろところどころ柔らかな陽が差し込んで何処か神秘的な雰囲気すら漂っている。
といっても決して足場が良いわけではない。
景色に見惚れて足を取られないように気を付けなければならないか。
……順当に荒れてはいるが、荒れ果ててはいない。
よく廃墟と聞いて想像するような半グレたちのゴミや落書きのようなものも存在しない。
そういった意味では治安が良い、と言うべきなのだろうか。
「………」
軽く、息を零すかのように笑みがこぼれてしまう。
治安が良い廃墟とはこれ如何に。
言うなれば外れ者らからすら忘れられるようなスポットと表現するのが妥当だろうに。
校庭は時間の経過とともに原初の姿を取り戻している。
有り体に言えば草木が生い茂る原っぱだ。
砂利を踏みしめていた音が消える。
寝転がったりすれば気持ち良さそうだ。
まぁ、変な虫とかがいるかもしれないから実際には行動に移さないが。
子供の頃は何処までも広い大陸のように感じていた校庭をあっさりと通り過ぎる。
ほんの少しの落胆と寂寥感を覚えつつ、いよいよ校舎の中に足を踏み入れた。
肌の感覚が変わる。
それまで感じていた風の心地よさが消えたことに今更気付く。
首元のボタンを一つ外しながら煙草の火を消した。
別に火事を心配したわけではない。
思い出をただ通り過ぎるのならばともかく浸り切るにはこの紫煙は少々邪魔に感じたのだ。
失礼を承知で、思い出の校舎に土足のままで上がり込む。
衝撃を吸収するリノリウムの床だったのだが、それでも軽快な靴音を響かせてくれる。
果たしてそれは年月に経過によるリノリウムの変質か、自分の靴の素材ゆえか。
「………」
今ならタップダンスを披露したところで誰も咎めることはないだろう。
少しの間、立ち止まってからまた歩き始める。
埃の海の上に真新しい足跡を残しつつ、そんな、益体もないことを考えながら。
図書室、視聴覚室、家庭科室、職員室、保健室。
記憶を頼りに思い出のスポットを巡っていく。
幾らでも蘇ってくる記憶もあり、記憶にない新たな発見もあった。
当然だ。ここは自分だけの思い出が刻まれた場所ではないのだから。
確認、感嘆。
そして僅かな驚きと安堵。
それらは言葉としては零さない。
誰も聞いていないであろうにもかかわらず。
「………」
何処か、胸の裡に抱えて捕まえておかないと消えてしまうかのように感じていた。
勿論幾つかは鍵のかかった部屋があったが、全てではない。
窓ガラスは外されたのか割れたのか、開放的であり、あまり息苦しさは感じられない。
経年劣化した古い木造校舎ならばこうはいかなかったであろう。
比較的安全に歩けることに感謝を抱きつつ、少しづつ足を進めていく。
探索の版図を広げるかのように。
真っ白な地図を自分の走り書きで埋めていくかのように。
それはある意味で、幼い日に夢見た思い出の冒険の続きなのかも知れない。
そして、順々に階段を上がってゆく。
一段、二段、三段…
内心で数えながら階段を上がってゆく。
そして、屋上への扉に手を掛ける。
普通に考えれば鍵はかけられているはずだ。
……でも、もし開くようなことがあったら?
自分は、一体、何がしたいのだろう。
果たして、そんな答えを考える暇もないまま扉はあっさりと開いてしまった。
急に差し込んだ強い光に思わず目を細める。
強い風が吹き抜けていく。
目を開けると、見晴らしの良い視界が広がる。
思わず視線を持ち上げて空を眺める。
思い出のスポットで廃墟探索をしていたはずなのに。
何処にあっても変わり映えのないはずの青空から、妙に目が離せなかった。
屋上のタイルの隙間から伸び放題になっている雑草を避けつつ手摺りに近づく。
先程通ってきたプールや校庭が妙に小さく見えた。
遠くには民家のようなものが辛うじて見える。
あれは知っている人の家だっただろうか。そもそも今もまだ人が住んでいるのだろうか。
このままここから飛び降りても良いかも知れない。
そんなことを考えつつも、子供の頃に感じたほど絶望的な高さでないことを確認する。
地面の大部分が草に覆われているとなれば簡単に死にきれないかも知れない。
だとすればどう転んでもつまらないことになる可能性は高いだろう。
そっと預けていた体重を戻して手摺りを離す。
手のひらにこびり付いてしまった赤錆をズボンで拭いつつ視界を巡らせる。
見つけた。
屋上の死角部分に取り付けられた貯水槽に続く梯子。
幾つか『欠け』はあるものの、まだ使用に耐え得る面影を残している。
ギュッと掴んで体重をかける。
……壊れる気配はない。
それに勇気付けられて、少しずつ登っていく。
程なく登り終えると、貯水槽の脇に腰を下ろす。
子供の頃は屋上から見える景色と一風変わって見えたが、今見れば何の変わり映えもない。
けれど、感じる風はより強く心地良くなったのかも知れない。
それだけに過ぎないが、それこそが、あるいは大きな違いなのかも知れない。
── 秘密基地。
この学校に通っていた時分に仲の良い同級生と昼休みや放課後に集まった思い出の場所。
手癖のようなもので、腰を落ち着ければ自然とジッポに火を灯してしまう。
今更消してしまうのも憚られたので、ありがたく、ゆっくりと肺に煙を行き渡らせる。
思い出に浸るのに紫煙の力を借りるのも時には悪くはないだろうさ。
……みっともない言い訳だということは十二分に自覚しているが。
さておき、落ち着けば頭の冷静に冴えわたるもので。
秘密基地にありがちな『宝の隠し場所』についても思い出した。
なんてことはない。
鉄組みで浮かせられた貯水槽の底の部分、死角となる場所に隠してある。
ただそれだけの話であった。
手が汚れるのも厭わず、思い切ってシャツの袖口をまくり上げて手を突っ込む。
なんせ今日ここにたどり着いたのも本来予定にない突発的な行動の賜物。
次の機会なんて永遠に訪れないかも知れないのだ。
だったらトコトンまでバカをやってみるのも悪くはない。
四苦八苦しながらようやく取り出したのは小さな段ボール箱。
たかが段ボール箱と侮るなかれ。
子供が学校に関係ないアイテムを持ち込むのは、それはそれは大冒険だったのだから。
そんな決死の覚悟で持ち込まれた段ボールは宝箱のように輝きを放って見えたことだろう。
……ま、今となっては薄汚れた紙箱にしか見えないものだが。
上手く貯水槽が陰になってくれていたのか、奇跡的に損壊らしきものは見えない。
虫食いの跡も見られず、埃を払えば少し崩れてしまったものの充分形は保っている。
ドキドキしながら開けてみる。
そして、『宝箱』の中には何もなかった。
手に持った時の軽さから覚悟していた。
……自分だけがこの学校の唯一の卒業生というわけではない。
こんなありふれた秘密基地だって何代にもわたって受け継がれてきたはずだ。
きっとこの宝箱だって何度も学生たちの宝物を受け入れ代替わりを見送ってきたはず。
いや、この箱だって果たして『あの時の段ボール箱』なのかどうかすら分からない。
少しの納得感と寂寥感を覚えつつ蓋を閉じようとしたら、ふとした弾みで底が抜けた。
落ちる埃や砂利に混じってひらりと舞う薄茶色の短冊… いや、紙切れか?
今にも崩れそうなそれを手にとって眺めてみれば其処にはこう書かれていた。
『はずれ』
これには堪らない。
腹を抱えて笑ってしまった。喉が枯れるかと思うほどに。
自分の思い出の宝箱。
その中にはもはや何も残っていなかったのだと少々の落胆を覚えたものだが。
誰かの用意した遊びの芽はしっかりと植え付けられていたのだ。
してやられたものだ。
今日ここに入るまでは、この廃墟探索を永遠の片道切符にしても良いと思っていた。
しかし、こうまで虚仮にされてはそんな『予定通り』の道を進むことも癪に障る。
一体いつぶりになるのか、久方ぶりの『捻くれ者』の気質が蘇るのを沸々と自覚しながら。
……俺は、この薄茶色の紙切れに煙草の火を押し付けて消し潰した。
そしてまた笑う。
もう、声を押し殺す必要はない。
思う存分、誰の目も気にしないままに笑い倒す。
そうしてやおら立ち上がって尻の埃を勢いよく払い除けた。
── もういいかい?
なにもない眼下の原っぱから、遠き日の遊びに興じる子供たちの声が聞こえた気がした。
「……あぁ、もういいよ」
そう呟いて歩き始める。
またあの長い帰り道を辿ることを考えればうんざりしたが、それも自分の撒いた種。
精々虚勢を張って、笑いながら、中指を立てて歩み続けてやろう。
それでくたばっても、もともと惜しむ命でもなんでもない。
なんせ、自分はなんにも手に入れてなかったのだから。
持ち出す思い出なんて何一つなかった。
肩にのしかかるのはとんでもない徒労感ばかり。
そうして俺は、行きの時とは打って変わって悪態をつきながら帰路につくのであった。
やっぱり廃墟なんてクソだな。