誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意)   作:つねお あきら

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第0話 プロローグ ― 後悔と反省、そして最後の機会

焦熱地獄。

 

 

 

そこから噴き上がる、轟々と燃え盛る炎が、苦痛に呻く人々――いや、もはや人と呼ぶことさえ憚られる無数の罪人たちの全身を、容赦なく呑み込んでいた。

 

 

 

それは単に皮膚を焼き、筋肉を焦がす、一般に知られているような炎の熱ではなかった。

 

 

 

生前に積み重ねた無数の悪業。己の欲望のために他者を踏みにじった罪……。

 

 

 

そして何より、二度と取り返すことのできない、他者のかけがえのない命を奪った代償が一つ、また一つと積み重なった末に、炎という実体は、

 

 

 

罪人たちの肉体を越え、魂の最奥にまで潜り込み、絶え間なく焼き続ける苛烈な刑罰と化していた。

 

 

 

身体は引き裂かれ、焼かれ、凄絶な地獄の法則によって強制的に与えられた再生力で無理やり元へ戻されることを繰り返し、

 

 

 

肉が一片残らず焼け落ちて骨が露出し、その骨すら黒く焦げて灰へ崩れ落ちた後、再び元の肉体へ戻される、その過程においてさえ、彼らには『死』という慈悲深い逃げ道は一切許されなかった。

 

 

 

燃え、裂かれ、また生え、そして再び焼かれ、砕かれる。そのおぞましい輪廻の環の中で、時間という感覚など、とうの昔に消え失せていた。

 

 

 

何年が過ぎたのか。あるいは、何百年、何万年が流れたのかさえ分からない。

 

 

 

もはや、人という種の歴史を初めから終わりまで何度繰り返してもなお足りないと感じるほど、あまりにも長い歳月が過ぎ去っていたため、今日と昨日を区別することすら意味を失っていた。

 

 

 

すでに、億劫と呼んでもなお足りぬほどの長い時が流れていた。

 

 

 

その苦痛は、正常な人間の精神を粉々に砕き、自ら狂気へ堕ちさせるには十分すぎるものだった。

 

 

 

実際、周囲には人として生きていた間に無数の悪業を重ねた罪人と、人へ戻ることすら困難なほど、さらに重い罪業を積んで鬼となった罪人たちが大半を占めていた。

 

 

 

彼らはまるで人間としての自我を失い、本能だけを残した獣のように咆哮し、

 

 

 

生前に自らが犯した悪業を少しも顧みることなく、なぜ自分たちがこのような苦痛を受けねばならぬのかと、あたかも理不尽な目に遭っているかのように、人とも思えぬ絶叫を上げ、阿鼻叫喚の地獄を埋め尽くしていた。

 

 

 

ある者は助けてくれと惨たらしく懇願し、ある者は自分の罪はこれほど重くないと天を呪い、

 

 

 

またある者は、もう二度とあんなことはしないと泣き叫んだ。だが、

 

 

 

その言葉のうち、どれほどが自らの罪を心から悔いる真の懺悔であり、どれほどが、ただ今この瞬間の苦痛から逃れたいだけの卑怯な命乞いであるのかは、神や菩薩の慧眼を持たずとも容易に見抜けるほどだった。

 

 

 

しかし、その絶叫に満ちた地獄の只中。もっとも熱い劫火が吹き荒れる中心に、一際異質で、圧倒的な気を放つ存在が静かに座していた。

 

 

 

薄紫色の着物を纏い、長い髪を垂らした男。

 

 

 

その髪の先には、かつて『赫灼の子』と呼ばれた者たちを思わせる赤色が宿っており、

 

 

 

炎によって何度も身体を焼き尽くされ、そのたびに再生を繰り返しているにもかかわらず、その奇怪でありながら威圧的な風貌だけは容易に失われなかった。

 

 

 

人間と呼ぶには、顔に六つもの眼を持つ、異形にして威圧的な鬼。

 

 

 

彼は燃え盛る炎の中でも微動だにせず、瞑想の姿勢を保ったまま、自らの皮膚が焼け、筋肉と骨が灰となって散っていく苦痛を、まるで他人事のように黙然と受け入れていた。

 

 

 

もちろん、彼とて苦痛を感じないわけではない。

 

 

 

炎が肉へ食い込み、骨を焼くたびに、六つの眼の眉が僅かに震え、

 

 

 

全身の筋肉が本能的に強張り、ときには固く噛み締めた唇の隙間から低い呻きが漏れることもあった。

 

 

 

だが少なくとも、周囲の罪人たちのように、自分がなぜこんな場所にいなければならないのだと叫んだり、世へ向かって恨み言を吐いたりはしなかった。

 

 

 

彼が人間だった頃の名は、継国巌勝。

 

 

 

だが、強さへの果てしない執着と、自分より遥かに優れた双子の弟へ向けた歪んだ劣等感に囚われた末、人として歩むべき道を捨て、鬼へ堕ちた。

 

 

 

そうして鬼の始祖・鬼舞辻無惨から、『十二鬼月』を率いる最初の上弦、その中でも最強の者へ与えられる上弦の壱という地位と共に、『黒死牟』という新たな名を与えられ、数百年もの間、怪物として生きてきた。

 

 

 

すでに苦痛へ慣れきったような無表情を浮かべていたが、絶え間なく押し寄せる地獄の波の中で、彼は血が滲むほど唇を噛み締めながら、過ぎ去った日々を一つずつ思い返していた。

 

 

 

「……まこと、悔やまれるものだ。ただ強さに執着するあまり……その愚かな欲望一つのために、多くの人間と仲間を殺し、喰らってまで……あのように生きる必要が、本当にあったのか……?」

 

 

 

頭の中では、鬼となって以降の生涯を巻き戻すように、数百年に及ぶ血生臭い記憶が絶え間なく逆流し始めた。

 

 

 

自分自身ですら、正確に何人を殺したのか覚えていないほどの長い歳月だった。

 

 

 

だが地獄という場所が持つ、おぞましく悪辣な性質のせいなのか。生前には、ただの餌、あるいは自分より弱い剣士程度にしか思わず忘れていた者たちの顔が、むしろ死んだ後になって、より鮮明に浮かぶようになっていた。

 

 

 

『裏切り者め!鬼へ堕ちた貴様が、どの面を下げて御当主様の御首を斬り落とす!天罰を受けるぞォォォッ!!そこまでして……鬼になってまで、生き永らえたかったのか!!』

 

 

 

ぽたり……ぽたり……ぽたり……。

 

 

 

鬼となった、その最初の日。彼は鬼殺隊の月柱という自らの地位と、これまで他の隊士たちから積み上げてきた信頼を利用し、鬼の討伐に関する案件を御当主様と直接協議せねばならない、という名目で、あまりにも容易く鬼殺隊本部と産屋敷家の正門を越えることができた。

 

 

 

門を守る隊士たちは、いつもと変わらぬ敬意に満ちた態度で彼へ頭を下げ、彼がすでに人間ではないという事実に、誰一人気づかなかった。

 

 

 

そして、ついに当主の居室へ辿り着いた時。自分へ親切で温かな笑みを向けながら、こんな遅い刻までご苦労だったと迎えてくれた当時の当主を前にしてさえ、

 

 

 

巌勝は何一つためらいを見せることなく刀を抜き、その頸を斬り落とした。

 

 

 

当主の首が胴から離れた瞬間に噴き上がり、自らの羽織を赤く染めた熱い血の感触は、数百年を経て地獄へ堕ちた今でさえ、奇怪なほど生々しく記憶へ残っていた。

 

 

 

そうして頸を斬った後、ようやく擬態を解き、六つの眼を持つ鬼の姿へ戻った自分を見つめていた当主の最期の表情を、当時の巌勝は当然、裏切り者へ向ける怒りと憎悪なのだとばかり思っていた。

 

 

 

だが焦熱地獄で、人の歴史など比較にすらならぬ歳月を過ごし、あの日の光景を何度も何度も噛み締め直した今となっては、

 

 

 

当時の当主の顔へ浮かんでいた感情が、自分の記憶にあるような単純な怒りではなかったのだと、ようやく認められるようになった。

 

 

 

改めて考えれば、その感情は四字熟語で表したほうが、むしろ短く正確だった。

 

 

 

惻隠之心――。怒りというよりも、

 

 

 

自分を見つめながら、痛ましく、哀れに思う眼差しだった。

 

 

 

まるで、自らの命を奪った者を恨むより先に、人の道を自ら捨て、怪物の道へ踏み込んだ巌勝を、可哀想だとでも思っているかのような眼差し。

 

 

 

そうして当主の首を斬り、立ち去ろうとしたその瞬間、その凄惨な光景を遅れて目撃した当主の妻が、獣のような悲痛な叫び声を上げた。

 

 

 

かけがえのない者を目の前で失った時、人間が上げることのできる、もっとも本能的で、

 

 

 

もっともおぞましい慟哭だった。子供たちは、首を失ったまま床へ倒れている父の遺体を見て、あまりの衝撃にその場へ崩れ落ち、

 

 

 

涙を流した。だが当時の巌勝は、彼らの姿を最後まで見届けようとさえせず、当主の首を抱え、屋根の上へ逃げ去ることに必死だった。

 

 

 

裏切り者――。

 

 

 

侍の出である彼にとって、それはもっとも恥辱的で侮蔑に満ちた言葉の一つであったと言っても過言ではない。

 

 

 

だが、まことに吐き気がするのは、当時の自分にとって、その汚名よりも、鬼となったことで得られる甘美さと昂揚感のほうが、遥かに大きかったという事実だった。

 

 

 

人間の血と肉を喰らわなければならないことだけは、最初から気に入らなかった。それでも、自らの剣術を『老い』という自然の摂理によって失わず、永久に保つことができる。

 

 

 

人間であるならば、どれほどの強さを得ても最後には死によって終わらなければならないが、自然死することのない鬼の肉体ならば、その強さを延々と積み上げ続けられる。それは当時の自分にとって、

 

 

 

あまりにも大きな価値だった。何より、痣を発現した者へ与えられるという二十五歳の短命への恐怖から逃れられる。

 

 

 

数百年でも、数千年でも生きて剣を磨き続ければ、いつかは縁壱へ届くかもしれない。そんな虚しい希望が、鬼となることへのあらゆる拒絶感を呑み込んでしまっていた。

 

 

 

侍の矜持は……鬼になった時点ですでに捨てたのだと思っていた。

 

 

 

だが今になって冷静に振り返れば、それすら違った。

 

 

 

自分が持っていたすべてを、『縁壱』という、見方によっては武神の座へ上ったとさえ思えるほど圧倒的だった存在に似たい、追いつきたいという理由だけで、

 

 

 

家族も、家も、家に仕える者たちも兵卒たちも、無責任にすべて置き去りにして鬼殺隊へ入った、あの時からすでに、侍として持つべき最低限の責任と誇りには、巨大な亀裂が入り始めていたのだ。

 

 

 

ましてや、人間だった頃に自分と婚姻し、家庭を築いた妻と、自らの血を引いて生まれた子供たちまで置き去りにして。

 

 

 

当時は、そのすべてを捨てたという事実よりも、縁壱が歩む武の道を、自分もまた歩めるという事実のほうが重要だった。

 

 

 

今になって思えば、呆れるほど愚かで、情けない話だった。

 

 

 

その後、自らが強くなるという理由だけで、大地へ血の臭いが立ち込めるほど数多の血を流し、手段も方法も選ばず斬り捨て、喰らい尽くした無数の罪なき人々と鬼殺隊士たち。

 

 

 

民間人の瞳には自分へ向けた恐怖と絶望が満ち、鬼殺隊士たちの瞳には、かつての仲間が人を喰らう怪物となって自分たちを斬り伏せているという裏切りへの怒りが燃えていた。生前の自分は、

 

 

 

そうした表情を弱者の感情だと決めつけ、何とも思わず目を逸らしていた。だが、ついに死に、地獄でその顔を一つ一つ思い出すようになると、巌勝は果てしない後悔と痛恨、そして自分自身への嫌悪と自責の底なし沼へ沈んでいくしかなかった。

 

 

 

「……我が末裔にまで、取り返しのつかぬことをした。時透無一郎……私の狭量で、取るに足らぬ欲のために、お前のあれほど尊い命を奪ってしまった……」

 

 

 

自らの手で命を奪った、遥か遠い末裔。

 

 

 

胴を横一文字に断たれ、上半身と下半身が分かれ、臓物さえ零れ落ちるほどの凄惨な傷と、人間が耐えられるとは思えない激痛へ襲われながらも、

 

 

 

ただ自分一人の命を永らえさせるために足掻いたのではなく、数多くの人々のために、

 

 

 

そして、圧倒的に強い自分を倒すために歯を食い縛り、最後に残された生命力を刀へ注ぎ込んで赫刀を発現させた無一郎の姿が浮かんだ。あの小さな子供が、

 

 

 

どれほど痛かったことか。

 

 

 

自分が無一郎と同じ人間の身体であったなら、あれほどの傷を受けた瞬間、刀を取り落とし、悲鳴を上げながら死を待っていたかもしれない。

 

 

 

それでもあの子は、自分一人を倒すことが、残された仲間たちの命と、さらに多くの人々の命を救うことになるという理由だけで、最後の瞬間まで刀を放さなかった。

 

 

 

その姿を思い出すと、巌勝の顔にある六つの眼から、後悔と申し訳なさに満ちた赤い血涙が、絶え間なく溢れ落ちた。

 

 

 

続いて巌勝は、縦に両断されて全身が裂けた状態にありながら、自分の刃を喰らって血鬼術を発現させ、最後には自分が血鬼術を正常に使えぬよう封じ、

 

 

 

死へと至る決定的な一撃を作り出した、半鬼に近い存在だった不死川玄弥を思い出し、感嘆すると同時に、言葉では言い表せないほどの痛ましさを覚えた。

 

 

 

あの子もまた、自分より遥かに弱かった。

 

 

 

剣士としての才覚だけを見れば、自分が数百年にわたって相対してきた数多の強者たちと比べることさえ憚られるほどだっただろう。

 

 

 

それでもあの子は、自らが弱いという事実を知っていたからこそ、自分にできる方法を最後まで探し続けた。その結果、強さだけを崇拝して数百年を生きた上弦の壱を殺す、決定的な役割を果たしたのだ。

 

 

 

「……あの子にも、あまりに酷いことをした。もしかすると……あの子によって私が死んだことこそ、必然の定めだったのかもしれんな……ふ、ふふ……」

 

 

 

自嘲気味に笑った巌勝は、続けざまに押し寄せる地獄の熱と炎が身体へ食い込む痛みに短く呻き、全身から流れ出た血は地獄の熱へ触れ、ぱち、ぱち、と音を立てながらそのまま蒸発していった。

 

 

 

それでも、六つの眼から流れ落ちる涙だけは、なかなか乾かなかった。

 

 

 

苦痛の中で、自らが犯した悪業は、どれほど遅れて悔いたところで無かったことにはならないという虚しさを感じながら、やがて彼は、自分の記憶の中で、もっとも痛い指にも等しい、ただ一人の名を呼んだ。

 

 

 

「……最後に、縁壱。お前には本当に、すまなかった。兄として……私は、あまりにも情けなかった。

 

 

 

あれほどお前の才を妬み、あれほど完璧に近いお前の謙虚ささえ、自分を嘲っているのだと誤解して憎み、

 

 

 

お前が後世へ伝えようとしていたものが、単なる強さや個人の名ではなく、絆と協力、そして次の世代へ受け継がれていく継承の精神なのだということすら認められず、

 

 

 

最後には、私を十分に殺せたにもかかわらず、哀れな兄のためにとうとう二振り目を振るえなかった、その慈悲心まで憎んだ……。

 

 

 

お前が死んだ後も、あれほど長い歳月の中で、記憶の中のお前へ勝とうと、罪なき人々や隊士たちを殺し、喰らいながら……なお、お前を憎み続けた。

 

 

 

いつかは、お前より上へ行けると愚かにも信じていたが……結局、私はお前の影さえ踏むことができなかった」

 

 

 

この地獄が罪人へ対しもっとも悪辣だと感じられるのは、単に肉体を焼く、身体的な刑罰だけで終わらない点にあった。

 

 

 

一定の時間が経つごとに、生前積み上げた罪業を基に幻覚と幻聴、さらには幻視まで、本人の意思などお構いなしに与えるのだ。

 

 

 

自分が喰らった無数の人々と鬼殺隊士たちの、呪詛に満ちた声が四方から響き、さらには自分が直接殺した、その瞬間の凄惨な姿のまま、一人、また一人と現れては、自分を嘲り、罵った。

 

 

 

最後には、燃え上がる自分の身体を、無数の手が掻き毟り、爪を立てて引き裂いているかのような錯覚まで覚えた。

 

 

 

彼らが死ぬ瞬間に流した血の匂いが鼻先へ入り込み、口の中で生臭い血の味さえ感じるほど、五感そのものが徹底的に騙される苦痛が続く。

 

 

 

それはもはや、単なる炎以上の何か、と表現することさえ足りぬほどだった。

 

 

 

明らかに実在しない、歪められた五感であるにもかかわらず、現実と区別できぬほど鮮明に感じられるのだから、

 

 

 

これほどの苦痛を受けてなお狂わぬと言うほうが、むしろ嘘に思えるほどの、肉体を越えた精神拷問だった。

 

 

 

初めてこの刑罰を受けた頃は、巌勝も歯を食い縛って耐え、時には自分の耳を塞ごうとしたこともあった。だが、

 

 

 

億劫の時の中で同じ経験が数え切れぬほど繰り返されると、今では自分へ呪いを浴びせるその声さえ、自分が受けるべき、あまりにも当然の怨嗟なのだと思うようになっていた。

 

 

 

こうした現象を経験しながら巌勝は、もし自分がほんの少しでも早く己の分を知っていたなら、死に至ってなお弟と会うことのできぬ今の状況を、

 

 

 

天が自分を憎み、怒ったからなのだと考えていたかもしれない、と感じた。

 

 

 

しかし、冷静になった今の現実は、誰のせいでもなかった。

 

 

 

縁壱のせいでもない。無惨だけのせいへ押しつけることもできない。自分より優れた才を弟へ授けた天のせいなど、なおさらではなかった。

 

 

 

無惨の手を取ると決めたのも自分。鬼となり、人を喰らって力を積み上げたのも自分。

 

 

 

自らの剣術が消えることを恐れ、縁壱へ追いつけぬまま死ぬことを恐れ、そのすべての誤った選択を正当化したのも、すべて自分自身だった。

 

 

 

「……私が己の分を知っていたなら、死んでもなおお前へ会えぬのは、ある意味では天が怒ったから……いや。

 

 

 

これは、ただ私の業報なのだろう。誰にも責任を押しつけることのできぬ、私自身の選択が積み重なり……今のこの姿になったのだろうな」

 

 

 

巌勝は、しばらく言葉を止めた。

 

 

 

そして、数百年の間、人として生きていた時も、鬼として生きていた時も、どうしても認めることのできなかった真実を、ようやく口にした。

 

 

 

「……ただ私は、縁壱……お前になりたかったのだ……」

 

 

 

その、あまりにも単純な一言を口にするために、実に長い時間が必要だった。

 

 

 

自分は、縁壱をただ殺したかったのではない。

 

 

 

あの者の持つ力を奪いたかった。同じ場所へ辿り着きたかった。自分が、尊敬される家の後継者であり、優れた武士であるという事実よりも、弟のほうが遥かに偉大な存在だという事実を認めるのが怖かった。だからこそ、

 

 

 

愛と憧憬という感情の上へ、嫉妬と憎悪を無理やり塗り重ね、最後には、自分自身さえ、どれが本当の感情なのか分からなくなってしまったのだ。血涙を流しながらも、

 

 

 

時には自分を温かく見つめ、時には悲しげに見つめ、時には心から尊敬しているという表情を見せていた、さまざまな縁壱の姿だけは、決して忘れていなかった。地獄の炎は、巌勝の肉体を何度も焼き、

 

 

 

灰へ変えた。だが心のもっとも深い場所へ刻まれた弟の笑顔と、

 

 

 

自分を見つめていた、あの温かく、それでいて物悲しい眼差しだけは、どれほど長い歳月が流れても、ついに焼き尽くすことができなかった。

 

 

 

しかし今さら、その記憶へ縋って後悔したところで、何になるというのか。

 

 

 

自分が犯した罪が消えるわけでもない。自分が殺し、喰らった人々や鬼殺隊士たちが蘇るわけでもない。縁壱が再び自分の前へ現れ、「兄上」と呼んで笑ってくれるわけでもなかった。

 

 

 

罪の代償を払い終えるその時まで、この地獄の炎は永遠に自分を焼き、さらに焼き続けるのだろう。

 

 

 

「たかが才覚が何だというのだ。たかが強さが何だというのだ!たかが死を超えたことが、それほど大したことだったというのか……。……見苦しく生き永らえた鬼としての生涯は、今になって思えば、

 

 

 

吐き気がするほど醜い。……ただ一度でも、私の選択を……もう一度だけ変えることはできぬのか。もし本当に、そんな機会がたった一度だけでも与えられるのなら……今度こそ、別の道を歩めるだろうに……」

 

 

 

五百年近い歳月を鍛錬へ費やし、数多の武人たちが憧れた至高の境地へ辿り着こうとし、

 

 

 

最後には人間の限界そのものを捨ててまで、それを手に入れた。それでも最後に残ったものは、自分より遥かに弱い人間たちが命を賭して築き上げた『協力』と『継承』の力によって迎えた、寂しい最期だけだった。

 

 

 

自分は、強い個人一人がすべてを圧倒するのだと思っていた。だが、自分を殺したのは、自分と同じほどの力を持つ、もう一体の怪物ではなかった。

 

 

 

弱い者たちが互いの足りない部分を補い、一人が倒れれば次の者がその意思を受け継ぎ、自らの命よりも、後へ残る者たちのことを思う。その積み重ねこそが、数百年もの力を積み上げた自分を、ついには打ち倒したのだ。

 

 

 

その事実を、死んでからようやく認めたというのだから、まことに滑稽だった。

 

 

 

地獄の劫火が僅かに弱まるたび、縁壱の声が耳鳴りのように耳元へ蘇った。

 

 

 

『この笛を、兄上だと思い……どれほど遠く離れていようとも挫けず、日々精進いたします』

 

 

 

炎の中、幻聴のように聞こえてきた縁壱の最初の声は、父が幼い縁壱を激しく打ち据えた後、兄としてただ弟が哀れだと思い、初めて作ってやった笛にまつわる記憶だった。

 

 

 

子供の手で木を削って作ったのだから、熟練の職人が作った品のように端正であるはずもなく、

 

 

 

歪で、粗く、まともな音すら出ない、不格好でみすぼらしい笛。それでも、それを渡したあの日、弟は初めて、自分へ心から感謝していることを見せてくれた。

 

 

 

当時の巌勝にとっては、ただ可哀想な弟へ与えた、小さな親切に過ぎなかったのかもしれない。だが縁壱にとって、その笛は、この世でほとんど初めて受け取った、純粋な家族の愛情が込められた贈り物だった。

 

 

 

『この国で、兄上に次いで強い侍になりたいです』

 

 

 

二つ目の声は、家の栄誉と安寧のため、義務として剣を学んでいた自分の姿を眺めていた、見たところ剣の才能などまるでなさそうだった弟が口にした、一言だった。あの頃の自分は、

 

 

 

それを聞いて、弟なりに兄を敬っているのだろう、程度に思っていた。だが時が流れ、縁壱が持つ圧倒的な才能を知ってからは、あの言葉さえ、実は自分を嘲っていたのではないかと疑ったこともあった。

 

 

 

しかし今思えば、それすらも、自分の歪んだ心が生み出した捻じれに過ぎなかった。

 

 

 

縁壱は、本当に兄を敬っていたのだ。自分を打ち負かして家の主になりたかったわけではない。ただ兄と同じ道を歩き、隣に立って刀を振るいたかっただけだった。

 

 

 

『兄上、私たちはそれほど大そうなものではありません。長い長い人の歴史の、ほんの一欠片に過ぎません。

 

 

 

私たちの才覚を凌ぐ者が、今この瞬間にも産声を上げているでしょう。彼らがまた育ち、同じ場所まで辿り着くのです。

 

 

 

何の心配も要りません。私たちは安心して人生の幕を引けばよい。喜ばしいことではありませんか、兄上。兄上、

 

 

 

いつの日か、これから生まれてくる子供たちが私たちを越え、さらに高い場所へ、果てまで登っていくでしょう』

 

 

 

三つ目の声は、弟を追って鬼殺隊へ入り、自分もまた痣を発現し、二十五歳を迎える前にいつ死ぬかも分からぬ焦燥と不安の中で、一日一日を生きていた頃、

 

 

 

そんな自分へ「何も心配せず、旅立ってよい」という意味で、縁壱がかけた言葉だった。

 

 

 

だが当時の巌勝には、その言葉が慰めには、まるで聞こえなかった。

 

 

 

自分が生涯を懸けて築き上げた月の呼吸と剣術が、自分と共に消えてしまっても構わないと言われているように聞こえた。自分が何十年も費やして築いた武の境地が、未来に生まれる誰かによって、あまりにも容易く追い抜かれるのだと嘲られているようにさえ感じた。

 

 

 

けれど今になって、あの言葉を改めて思い返してみれば、縁壱は本当に喜んでいたのだ。

 

 

 

自分より強い者が現れることを恐れるどころか、後世の人々が自分たちを越え、さらに高みへ辿り着くことを、人という存在が発展し、受け継がれていく、何よりも美しいこととして受け入れていた。

 

 

 

『お労しや……兄上……』

 

 

 

最後の声は、自分が鬼となり、当主の首を斬り、無惨へ忠誠を誓ってから、実に六十年の歳月が流れ、いつの間にか八十を越え、老いさらばえた姿となった弟が、再び自分と相見えた時、生前、最後に口にした一言だった。

 

 

 

縁壱の言葉が途切れた瞬間、すでに冷え切ったはずの巌勝の血が、再び煮え立ち始めた。

 

 

 

地獄が聞かせる幻聴なのか。それとも、自分がこのあまりにも長い刑罰へ耐えきれず、ついに狂ってしまったのか。

 

 

 

だが、そんな疑問が頭を埋め尽くすよりも先に、死の直前に見た光景が雷のように脳裏を走り抜けた。巌勝は、あの日、縁壱と最後に対峙した決闘を、再び鮮明に思い出し始めた。

 

 

 

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無惨の甘美な誘いを受け、鬼となってから、実に六十年という長い歳月が流れた後のことだった。

 

 

 

だが彼は今でも、あの日、縁壱が自分へ向けた眼差しを忘れられなかった。

 

 

 

歳月の荒波と激動の中でも決して曇らなかった、あの空にある太陽のような、弟の瞳。その瞳に宿っていたのは、

 

 

 

兄を責め立てる非難でも、自分が鬼へ堕ちたことへの燃え上がる憎悪でもなかった。そこにあったのは、

 

 

 

底を知ることのできない、淡く深い憐憫。物悲しい哀惜。そして同時に、鬼へ堕ちた兄を前にしても、最後まで捨てきることのできなかった愛情だった。

 

 

 

プシュッ!

 

 

 

生と死の境界。巌勝の頸は、完全に落ちる寸前――紙一重の肉だけを残して、深々と斬られていた。

 

 

 

神の領域へ届いた弟の一撃を前にしては、鬼特有の不死性も、回復力も、何の意味も成さなかった。

 

 

 

弟へ勝つ。その一念だけで、胸を押し潰していた恥辱も、人として持つべきすべてのものも押し殺し、もっとも強靭な鬼へなったというのに。白髪の老人となり、

 

 

 

いつ寿命が尽きても不思議ではないほどの歳月を生きた縁壱へ、自分は指一本まともに触れることすらできなかった。自分は、

 

 

 

相手にすらならない存在なのだと、たった一度の剣撃だけで、あまりにも完全に思い知らされた。

 

 

 

信じられなかった。認めたくもなかった。

 

 

 

巌勝の顔は、怒りと諦め、そして生涯にわたり纏わりついてきた劣等感が、再び爆発して生まれた巨大な絶望が入り混じり、ひどく複雑に歪んだ。

 

 

 

彼は重い沈黙の中で、縁壱の二太刀目が、自らの頸を完全に断ち切る時を待った。

 

 

 

片方では、死が怖かった。

 

 

 

その死が怖いがために、人という種すら捨てて鬼となったのが、自分だった。

 

 

 

しかしもう片方では、いっそこのまま縁壱の手で死ねば、数十年にわたって自分を蝕み続けてきた、あの劣等感と執着から、ついに解放されるのではないか。そんな、虚脱にも似た考えさえ浮かんでいた。

 

 

 

ところが……。いくら時が流れても、自分はまだ死ななかった。訝しんで顔を上げると、あの眩い刃がもう一度振るわれるより先に、縁壱は刀を構えたまま、静かに息絶えていた。

 

 

 

「……死んだ……?縁壱が……?」

 

 

 

巌勝の六つの眼が、信じられぬというように大きく見開かれた。

 

 

 

八十年を越える歳月を生きた縁壱は、戦乱が吹き荒れていた当時の人間から見れば、珍しいという言葉では足りぬほど、ほとんど奇跡に近い無病長寿を遂げた老人だった。

 

 

 

それでも縁壱は、巌勝にとって、今なお絶対に越えることのできぬ、巨大な神のような存在だった。

 

 

 

完璧とさえ思えるその肉体は、外見だけを見れば歳月の霜を被り、白髪と皺に覆われた、老いさらばえた老人の姿に弱っているように見えた。

 

 

 

だが巌勝自身が、痣の発現と共に開花させた『透き通る世界』の眼で見通してみれば、

 

 

 

内臓と筋肉の流れには、歳月によって深刻に崩壊した痕跡など、ほとんど見つけることができないほど、信じ難いまでに完全な状態が保たれていた。

 

 

 

縁壱は病で死んだのではない。刀を振るう力が尽きて死んだのでもない。

 

 

 

武人としての頂点を、最後の瞬間まで保ったまま、ただ自分へ与えられた寿命を終え、自然へ還っただけだった。

 

 

 

息が止まった後でさえ、魂の伴侶であった日輪刀は、老人の手から容易には落ちなかった。

 

 

 

それどころか、縁壱の赤い刃は、しばし低い剣鳴を響かせながら赤く燃え上がり、やがて主の生気が完全に失われたことを悟ったかのように、ゆっくりと、その眩い力を収め、静かに消えていった。

 

 

 

その瞬間、巌勝は、弟が自分へ与えた最後の慈悲と、その慈悲を受けたにもかかわらず、結局自分は弟へ勝てなかったという事実を前にし、胸のもっとも深い場所から煮え立つような、狂気と絶望を覚えた。

 

 

 

縁壱は、自分に敗れたのではない。ただ……寿命が尽きて死んだだけだった。

 

 

 

そして自分は、そんな老いた弟にすら敗れた。

 

 

 

最後には鬼となり、数十年、刀を磨き、人を喰らい、力を増してなお。その残酷な現実は、巌勝の中へ最後まで残っていた自尊心さえ、無残に踏み潰した。

 

 

 

彼は、己の筋肉と骨を削り、肉を足して強度を極限まで高めた愛刀――虚哭神去を、荒々しく引き抜いた。ザシュッ!

 

 

 

ズシャアアアッ!

 

 

 

そして、すでに死んだ弟の亡骸を容赦なく斬り裂き、首筋へ青筋を浮かべながら、剣士としても、兄としても、あまりにも醜く、惨めな絶叫を上げた。

 

 

 

「もうよい!!もうよいと言ったではないか!!私は、お前のその天賦の才へ、ただ一度でも追いつこうと、

 

 

 

『侍』という高潔な武人の矜持さえ捨て、鬼という醜悪な怪物へなってまで、骨を削るように鍛え、無数の人間を喰らった!!

 

 

 

それなのに縁壱!!お前は!!この私へ勝つ機会すら与えず、こんなにも呆気なく先に死ぬというのか!!なぜ最後まで、

 

 

 

卑しく醜く成り果てた、この愚かで、情けなく、救いようのない兄の、最後に残った自尊心まで踏みにじり、死によって先に行ってしまうのだ、縁壱ィィィッ!!」

 

 

 

コトッ。

 

 

 

怒りに目を眩ませて振るった刃によって、縁壱の亡骸が無惨にも二つへ断たれた、その時。赤い羽織の裾の間から何かが床へ落ち、数度転がった後、静かに止まった。

 

 

 

巌勝の視線が、その物へ向いた。

 

 

 

それは、冷たく二つへ割れた、小さな木の笛だった。

 

 

 

人間だった頃。もっとも幼く、もっとも純粋だった日の自分が、直接作って渡したもの。言うなれば、『兄弟の絆』そのものが刀によって二つへ断たれたような姿だった。

 

 

 

家の後継者として、良い部屋、良い食事、良い衣を与えられ、あらゆる豊かさを当然のように受け取っていた自分とは違い、

 

 

 

一室へ閉じ込められ、差別と折檻の中で惨めに暮らしていた縁壱を哀れみ、幼い自分の手で木を削り、渡した不格好な笛。

 

 

 

まともな音すら鳴らず、形も歪で、幼い巌勝の眼から見ても、何の役にも立たぬ、取るに足らない物だった。そんな笛を、縁壱は八十年を越える自らの生涯の、ほとんどすべてにわたって、懐の奥深くへ大切に仕舞い続けていた。

 

 

 

家を出た時も。

 

 

 

うたと出会い、平凡な幸福を得た時も。

 

 

 

その幸福を失い、鬼殺隊へ入った時も。

 

 

 

兄が鬼へ堕ち、無数の人を殺し、鬼殺隊を裏切ったと知った後でさえ。

 

 

 

そして最後に、兄と再会し、死を迎える、その瞬間まで。

 

 

 

兄が鬼となり、人々を斬り殺す醜悪な怪物へ堕ちたにもかかわらず、縁壱は死ぬ瞬間まで、兄を完全に恨み、切り捨てることができなかった。かつて一度、

 

 

 

自分へ温かく手を差し伸べてくれた兄を愛していた。ただ、その記憶一つだけで、あの笛を大切に抱いて、生きてきたのだ。

 

 

 

つう……。つううう……。

 

 

 

弟の計り知れぬ愛情を知った瞬間、巌勝の顔に浮かぶ六つの眼が、不気味に痙攣した。

 

 

 

いや。正確には、その半分――三つの眼からだけ、堪え続けていた血涙が、滝のように果てしなく流れ落ちた。

 

 

 

巌勝にとって縁壱は、鬼となってから数百年が過ぎても、その顔も、共に過ごした記憶も鮮明なまま残る、ほとんど唯一の血縁だった。

 

 

 

そして心の最奥では、ただの一度たりとも、完全に憎み切ることのできなかった、愛する弟だった。だから半分の三つの眼からは、痛切な血涙が溢れ続けた。

 

 

 

だが同時に縁壱は、武人であった自分が、生涯を費やしても届くことのできなかった、憎らしい嫉妬の対象でもあった。

 

 

 

自分が人間を捨て、鬼となる道を選んだ、もっとも巨大な劣等感の象徴でもあった。ゆえに、残る半分の三つの眼からは、とうとう血涙が流れることはなかった。

 

 

 

愛と憎悪。憧憬と劣等感。相反する感情によって二つへ割れた鬼の肉体が作り出す、奇怪でありながら、あまりにも悲しい慟哭だった。

 

 

 

「縁壱……お前は……最後まで、この醜く、情けない兄を……覚えていたのか……」

 

 

 

その瞬間。彼が鬼となってから数百年、必死に縋り続けてきたあらゆる『強さ』の意味が、砂の城のように音を立てて崩れた。

 

 

 

結局、鬼という不死の肉体を得て、人間には得ることのできぬ理不尽な強さを手にしてなお、老い、衰えた縁壱に、最後まで敗北した自分。

 

 

 

その後は、二度と誰かへ敗れる屈辱を味わいたくないと、数百年の間、無数の剣士たちを屠り、その肉を噛み砕いて喰らいながら、足掻き続けた。

 

 

 

だが数百年が過ぎた遥か未来。かつて縁壱が自分へ語った言葉は、寸分違わず現実となった。

 

 

 

巌勝が思っていた通り、遥かな世代を経ても、縁壱と完全に同等の、圧倒的な力を一人だけで持つ人間は、結局、現れなかった。

 

 

 

しかし、それは重要ではなかった。

 

 

 

縁壱が常に語っていた、『継承と協力』という、人と人の繋がり。たとえ一人が死んでも、その意思を次の者が受け継ぐ。

 

 

 

一人では勝てぬ敵を、互いの足りない部分を補い合いながら、共に倒す。『皆』という、巨大な力。その力によって、傲慢に数百年を君臨した上弦の壱である自分は、最後には一握りの、虚しい灰となって消えたのだから。

 

 

 

その時だった。過去の走馬灯へ縋り、さらに思索を続けようとすることを阻むかのように、焦熱地獄の苛烈な炎が、再び激しく燃え上がった。

 

 

 

その無慈悲な業火は、蘇りつつあった鬼の肉体だけでなく、時空を越え、縁壱を切なく想い返していた巌勝の精神と魂まで丸ごと呑み込み、白く焼き尽くし始めた。

 

 

 

人の言葉では、もはや測ることさえできないほどの途方もない歳月。五京三千兆年。

 

 

 

それは、夜空の銀河が幾度も明滅し、人類が築いてきた無数の文明が一握りの砂と塵へ変わり、宇宙の虚無へ消え去ってなお余るほど、想像を絶する時間だった。地獄の時間は、

 

 

 

あまりにも重く、あまりにも欺瞞的だった。何より、罪人へ一片の慈悲すら与えないという点において、あまりにも悪辣だった。

 

 

 

人間の世で王朝が幾度も入れ替わるほどの、数百年、数千年という歳月でさえ、あの天上界――他化自在天の尺度から見れば、一度瞬きをすることと大差のない刹那に過ぎない。

 

 

 

その天界の時間で、実に一万六千年を満たして、ようやくこの焦熱地獄の『たった一日』が過ぎる。

 

 

 

巌勝の全身を焼く炎は、一瞬一瞬、生身の肉を裂き、骨を溶かした。だが地獄の苛烈な業風は、灰となった彼を、再び息のある肉体へ蘇らせることを繰り返した。

 

 

 

蘇れば、また焼かれた。焼け死ねば、また蘇った。

 

 

 

その循環の中に、『死』という終わりは存在しなかった。

 

 

 

「……もう……分からぬ……。もう……あまりにも……疲れた……」

 

 

 

一秒ごとに、億劫の悲鳴が胸を引き裂いた。

 

 

 

初めの数百万年は、生前に残した刃の軌跡と月の呼吸を思い返した。数億年が流れてからは、あれほど憎みながら、同時にあれほど愛していた弟の顔を、数え切れぬほど思い描いた。

 

 

 

だが、兆という単位の時さえ河のように流れ、魂の残骸すら摩耗し始めると、自分が人として生きた時間も、鬼として生きた時間も、あまりにも短い一瞬に思えるようになった。

 

 

 

自分が持っていた傲慢な武人の誇りも。黒死牟という名で築き上げた残虐な悪名も。上弦の壱という地位も。無惨から受けた信頼さえ。

 

 

 

この無限にも近い時の前では、燃え上がる炎の中で一瞬揺らめいた後、跡形もなく蒸発する陽炎に過ぎなかったのだと、ただ悟るだけだった。

 

 

 

五京年を越える、ほとんど永遠に近い刑罰。

 

 

 

それは、神が自分へ下したもっとも残酷な刑罰であると同時に、見方を変えれば、自分が犯したすべてを、ただ一度でも正しく振り返る時間を、無理やり与えた、もっとも残酷な慈悲でもあった。

 

 

 

果てしなく繰り返される火刑の苦痛の中で、巌勝は、自らが積み上げた罪業の重みを、一つずつ悟っていった。

 

 

 

生前なら、自尊心のために絶対に認めなかったであろう、自らの醜い感情と選択を、今では何の言い訳もせず、見つめられるようになっていた。

 

 

 

炎が骨の節々を溶かすたび、男の悲鳴は、いつの頃からか、苦痛へ耐えるための沈黙へ変わっていった。

 

 

 

そして再び身体が蘇るたび、弟へ伝えられなかった詫びと、自らが殺した者たちへ向ける罪悪感だけが、さらに深く増幅していった。

 

 

 

月光すら呑み込もうとした、弱く、傲慢だった鬼は、今や終わりの見えぬ焦熱地獄という巨大な歯車の下で、絶え間なく擦り潰されていた。

 

 

 

悲鳴を上げることさえ贅沢に思えるほど、凄まじく熱い沈黙の中で、ただ自分へ与えられた五京年の日々を、全身で、何も言わず受け入れ続けていた。

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

さらに、どれほどの時が流れたのだろう。

 

 

 

途方もない歳月にわたって続いた劫火の苦痛は、ついに男から、日を数えるという遊びすら完全に奪い去っていた。

 

 

 

何年が過ぎたのかという問いには、もはや何の意味もなかった。

 

 

 

人の世ならば、一人の人生そのものになり得る数十年が、焦熱地獄では一度目を閉じ、再び開くより短い時間にすら感じられた。

 

 

 

巌勝に残されたものは、炎が来れば受け入れ、肉体が再生すれば、また次の炎を待つことだけだった。

 

 

 

その日も巌勝は、地獄の中心で瞑想の姿勢を取り、六つの眼を固く閉じていた。

 

 

 

初めてこの場所へ来た時も。途中、どれほど長い時が流れた後も。変わることなく、肉が焼けて灰となり、再び息のある肉体へ戻る、苛烈な因果律を黙然と耐え続けていた。

 

 

 

ところが、その瞬間。巌勝は、魂の枷のように、断ち切れぬ葛の蔓のように自らを縛り続けていた焦熱地獄の炎が、嘘のように、ふっと消えたことへ気づいた。

 

 

 

「……?」

 

 

 

辺りを包んだのは、奇妙な静寂だった。

 

 

 

あまりにも長い歳月、炎の熱と苦痛だけの中で生きてきたせいなのだろうか。

 

 

 

冷たく降りた、『痛みがない』という状態のほうが、むしろ見知らぬもののように不自然だった。巌勝は苦痛が消えたことを喜ぶより、何をすればよいか分からず、

 

 

 

困惑したまま固まった。ゆっくりと、

 

 

 

指を動かしてみた。身体が…

 

 

 

…焼けない。腕も、

 

 

 

無事だった。肉が裂けない。骨が溶ける痛みもない。

 

 

 

これまで自分にとって当たり前の日常に等しかった苦痛が、突然消え去った。そのため、むしろこれが新しい刑罰の始まりではないかと、疑いさえ湧き上がった。

 

 

 

その時。静寂を破り、背後から誰かの穏やかな足音が聞こえた。

 

 

 

コツ……コツ……。

 

 

 

巌勝が重い顔を上げる。六つの眼が同時に、僅かに震えた。

 

 

 

「ふむ。まだその姿勢のまま、地獄の火を味わっておられたのですね。あれほど長い間焼かれ続けたものが、突然終わった。さて、どのようなお気持ちですか?」

 

 

 

その声は、春風のように温かい。だが同時に、この地獄のどれほど深い奈落でも、一度として聞いたことのない、奇妙な響きを宿していた。

 

 

 

巌勝の六つの眼が一斉に、声のした方向へ焦点を合わせた。数百年、無数の敵と刃を交え、研ぎ澄ませてきた武人としての直感が、本能的に強い警鐘を鳴らした。

 

 

 

『気配が……ない。この私が、これほど近くまで来られるまで気づかなかっただと…

 

 

 

…。人ではない……。だが、鬼でもない。この地獄へ堕ちた他の罪人たちと同じ、濁った気も感じぬ。いったい……この存在は何者なのだ……?』

 

 

 

心の中へ波のように押し寄せる疑問とは裏腹に、長い歳月の苦痛を淡々と受け入れ、ある程度、傲慢さを手放した巌勝の口から出た声は、意外なほど礼を保っていた。

 

 

 

「……貴方は、何者ですか……」

 

 

 

落ち着きと格を併せ持つ巌勝の態度に、謎めいた存在は柔らかな笑みを浮かべて答えた。

 

 

 

「そうですねぇ……。ある者は私を『菩薩』と呼び、またある者は『業報の救い手』と呼ぶようですよ」

 

 

 

パチン!

 

 

 

その瞬間。菩薩と名乗った存在が軽く指を弾いた。その短い音と共に、紫の炎が闇の中で灯り、その姿を淡く照らした。

 

 

 

そして、今まで何の特徴もない、ただの人間にしか見えなかったその顔が、瞬く間に、巌勝の魂を数百年にわたって支配し続けてきた愛憎の相手――縁壱の顔へ、完璧に変わった。

 

 

 

瞬間、巌勝の全身が石のように強張った。六つの眼が、

 

 

 

信じられぬものを見るように大きく見開かれた。ほんの僅かな間だけ、本当に、あれほど会いたかった弟と、ようやく死後の世界で再会できたのではないか。そんな考えすら浮かんだ。

 

 

 

しかし、その考えは長く続かなかった。顔も。声も。あまりにも完璧に縁壱と同じだった。だからこそ、数百年もの間、弟を心の奥へ抱えて生き続けた自分には、むしろもっとはっきり分かった。

 

 

 

この存在は、縁壱ではない。

 

 

 

「……その顔、その声……。貴方は何者なのです。すでに罪人である私を、このような形で嘲ろうというのですか?」

 

 

 

弟の顔を弄ばれた。そう思った瞬間に湧き上がった怒りを抑え、巌勝が震える低い声で問いかける。

 

 

 

すると縁壱の姿を取っていた存在は、その鋭い言葉が終わるや否や、再び灯りの中で、流麗に姿を変え始めた。

 

 

 

今度は、聖なる法衣を荘厳に纏った、尊い仏の化身だった。

 

 

 

慈悲深い仏の姿へ完全に定まったその者は、もはや人と呼ぶことすら憚られるほど、億劫の歳月によって魂も肉体も壊れ果てた巌勝の姿を、静かに見下ろした。

 

 

 

痛ましげに軽く舌を鳴らしながらも、一方では、あまりに重くなった空気を意図的に和らげようとするように、少し飄々とした口調で男へ問いかける。

 

 

 

「はは。心の中ではずいぶん動揺しておられるようなのに、口から出る言葉は、その程度ですか?

 

 

 

それはさておき、人間であれば到底経験することすらできぬ地獄の炎を、あれほど長い間受け続けたご感想はいかがです、

 

 

 

黒死牟殿?……いや。今は、その名よりもこちらのほうが、ずっと似合いますね。継国巌勝殿」

 

 

 

「なぜ……貴方が……私の……名を……?」

 

 

 

予想もしなかった、人間だった頃の名で呼ばれ、明らかに動揺する巌勝。だが、その高貴な存在は、すぐ答えを与える代わりに低く息を吐き、唐突に、別の問いを投げかけた。

 

 

 

「はぁ……。まあ、いきなり正体を明かしても面白くありませんから、私から先に一つ聞きましょう。この地獄を治める地獄の王たちの中で、もっとも代表的な存在が誰なのか。それくらいは、ご存じでしょう?」

 

 

 

答えを教えるのかと思えば、突然問い返してくる。そのとぼけた声音に巌勝は呆れつつも、同時に、

 

 

 

この存在から滲み出る、言葉にし難いほど深い慈悲と圧倒的な格に、自分でも気づかぬうちに心が少し静まっていくのを感じた。そして素直に答えた。

 

 

 

「……閻魔大王」

 

 

 

「はい、正解です!私と閻魔大王殿は、公的には互いに担う役割が違い、時には意見がぶつかる、競い合う関係とも言えますが、私的には、

 

 

 

長い長い歳月を互いに深く敬いながら過ごしてきた仲です。そう言えば……少し見当がつきますか?」

 

 

 

愉快そうに笑う、その澄んだ声へ、巌勝はしばらく黙り込んだ。

 

 

 

地獄。閻魔大王。

 

 

 

菩薩。業報の救い手。

 

 

 

そして、罪人へ堕ちた自分が、人間だった頃に使っていた名まで正確に知る存在。一つ。

 

 

 

また一つ。すべての手掛かりを頭の中で繋ぎ合わせる。やがて巌勝は、六つの眼を大きく見開き、低い声で、その仏の正体を口にした。

 

 

 

「……私は鬼として生きた身ではあるが、貴方の存在すら知らぬほど無知ではありません。その御名は……地蔵菩薩。……そうなのでしょう」

 

 

 

「正解です」

 

 

 

地蔵菩薩は軽く笑った。

 

 

 

だが巌勝の内側では、少し前、自分の弟の顔をあまりにも容易く真似られたことで、小さな怒りの火が灯った。しかしすぐに、今さらこの場所で自分が怒ったところで、何になる。そんな虚しさが胸を満たした。

 

 

 

彼は自嘲の混じった苦い笑みを浮かべ、力の抜けた眼差しで菩薩へ問いかけた。

 

 

 

「……それならば、なおさら理解できません。なぜ、よりによって私の弟の姿で現れたのですか。

 

 

 

あの弟の才を見て劣等感に狂い、執着した果てに鬼へ堕ちた私を、嘲り、弄ぶために、このおぞましい場所まで、わざわざ降りてこられたのですか?」

 

 

 

地蔵菩薩はしばらく何も言わず、巌勝を見つめた。

 

 

 

少し前まで残っていた戯けた気配が僅かに薄れ、自分の行為が巌勝のどの傷へ触れたのかを認めるように、静かに謝罪した。

 

 

 

「……ふむ。あなたのもっとも痛い逆鱗へ触れてしまったようです。その点については、私からお詫びしましょう。

 

 

 

いくら私があなたの反応を見てみたかったとはいえ、縁壱という存在があなたにとってどのような意味を持つのかは十分に知っていますからね。少々、意地が悪かったと言うべきでしょう。

 

 

 

ですが、神々の恩寵を独り占めしていたと言っても過言ではない、あの存在を越えようと、生涯にわたり耐え、努力し続けたことそのものについては、私も感心しています。もちろん、

 

 

 

その努力の向かう先をあまりにも大きく誤り、結局は無数の人を殺した怪物になったという事実まで、私が肯定しているわけではありませんが。

 

 

 

そして今、私の目の前にいるその魂を、一人の人間として尊重する意味で、これからは黒死牟ではなく、『巌勝』と呼ぶことにしましょう。

 

 

 

巌勝殿。あなたが流した、その血涙に混じる後悔と痛恨。そして、この果てしない歳月の中で、自分が犯したことから目を逸らさず、正面から見据え続けた末に抱くようになった、本心からの反省。それがなければ、

 

 

 

私がわざわざこの焦熱地獄の深淵まで降りてくる理由もなかったでしょう」

 

 

 

地獄の苦痛へ耐え続けている自分を褒めているのか。それとも、巧みに試し、弄んでいるのか。容易には見分けられず、巌勝は僅かに眉を寄せ、菩薩を見つめた。だがやがて、

 

 

 

相手がただ言葉を交わすためだけに、ここまで来たのではないと確信し、問いかけた。

 

 

 

「……そのような話だけを並べるために来られたわけではないと察しております。では……私に、何の御用で……ここへ来られたのですか」

 

 

 

その率直な問いに、地蔵菩薩は慈しむように笑った。そしてすぐ、顔から戯けた色をほとんど消し、底知れぬほど真剣な表情で口を開いた。

 

 

 

「あなたが地獄で上げた叫び。後悔。自責。そして生涯、あなたを囚え続けた『絶対的な強さ』というものが、結局どれほど虚しいものだったのか。そこへ気づくまでの過程も、私は上から、ずっと見ていました。

 

 

 

ですが、だからといって、あなたが犯した罪業が無かったことになるわけではありません。

 

 

 

数多の人間を喰らい、屠ったことは、どのような鬼であろうと、どれほど哀しい事情を抱えていようと、決して正当化することのできない大罪です。

 

 

 

どれほど遅れて悔い、涙を流したところで、あなたの手で死んだ人々が蘇ることはありません。ならば当然、

 

 

 

その罪に相応しい苛烈な代償を払うことも、世の変わらぬ理なのでしょう。……まあ、

 

 

 

すでにこの場所で、想像することさえ難しいほどの時間を焼かれ続けてきたあなたへ、こんなふうに水を差すような残酷なことを言うのは、少し気の毒ではありますが……」

 

 

 

「……そのことについては、少しも理不尽だとは思っておりません」

 

 

 

予想外にも、巌勝が途中で言葉を遮った。

 

 

 

地蔵菩薩が少し眼を見開く。巌勝は六つの眼を閉じ、淡々と言葉を続けた。

 

 

 

「私が殺した命は……あまりにも多い。この炎がどれほど苦しいとしても、私に殺された者たちが感じた恐怖と、その家族が抱いたであろう悲しみを思えば、むしろ、この程度では足りぬのかもしれません。ですから、

 

 

 

そのことについては……説明していただかなくとも結構です」

 

 

 

地蔵菩薩は、しばし静かに彼を見つめた。やがて、その口元へ、ほんの微かな笑みが浮かんだ。

 

 

 

「そこまで認められるようになったのなら、私がここまで降りてきたのも、まるきり無駄ではなかったようですね」

 

 

 

地蔵菩薩は、再び本題へ戻った。

 

 

 

「あなたが、それほど愛し、憎んだ縁壱。彼は、無惨という、この世の悪魔を討ち倒すため、神々が特別に配した、世界の奇跡にも等しい存在でした。それはあなたも、

 

 

 

誰よりよく分かっているでしょう。生涯、すぐ傍らで見てきたのですから。けれど残念ながら、

 

 

 

彼の人生は、あなたが思っていたほど、決して順風満帆なものではありませんでした。

 

 

 

いや。むしろ、あれほど圧倒的な強さとは似つかわしくないほど、深い悲劇を胸へ抱いたまま生き続けた、あまりにも痛ましい男だった、と言うほうが正確でしょう」

 

 

 

「……何を言っている?神にも等しい力を持った、私の弟の人生が……平穏ではなかっただと?いったい……それは、どういう意味だ!?」

 

 

 

突然告げられた言葉。生涯、あらゆるものを持っている存在だと思っていた弟の人生が、実は不幸だった。理解し難いその話を聞いた巌勝は、抑え切れぬほど動揺した。

 

 

 

彼にとって縁壱は、いつだって、すべてを持っていた人間だった。

 

 

 

生まれた時から見えていた――透き通る世界。

 

 

 

生まれながらに圧倒的な身体能力を示した――痣。

 

 

 

生まれた時から、手に力を込めるだけでも発現した――赫刀。

 

 

 

人間の限界を越えた身体能力。

 

 

 

そして、すべての呼吸の源となった――日の呼吸。

 

 

 

自分は、そのすべてを得るために、数百年も足掻き続けた。だというのに縁壱は、生まれた瞬間から、そのすべてを持っていた。少なくとも巌勝の眼には、縁壱こそ、この世でもっとも多くの祝福を授かった人間に見えていた。

 

 

 

そんな弟の人生が、むしろ悲劇だったなどという言葉を、容易く受け入れられるはずがなかった。

 

 

 

その激しい動揺を静かに眺めていた地蔵菩薩は、しばらく考えるように間を置いた後、懐から、澄んだ青い光を放つ、小さな透明の水晶を取り出した。そして、それを巌勝へ差し出した。

 

 

 

「受け取りなさい。この水晶は、ある特定の者が、生涯の中で経験した記憶と感情、胸を締めつけるような瞬間まで、可能な限り、そのまま保存しておける霊験あらたかな器です。

 

 

 

そして、あなたの弟である縁壱が、生涯を通じて歩んだ人生も、この中へ収められています。

 

 

 

あなたは生涯、縁壱が持つ圧倒的な強さだけを見て、羨み、そして激しく妬みました。ですが、

 

 

 

その力を持つ人間が実際には何を望み、何を失い、どのような心を抱えて生きたのか。そこを見ようとは、ほとんどしませんでした。しかし、

 

 

 

縁壱の一生が収められた、この記憶の欠片へ、あなた自身が真正面から向き合えば……。果たして、あなたの考えがどのように変わるのか。私も実に興味深いですね」

 

 

 

穏やかに笑う地蔵菩薩の顔を、呆然と見つめていた巌勝は、やがて、重く、それでいて温かな気を放つ水晶を、両手で受け取った。

 

 

 

「……これは、どうすれば動くのですか」

 

 

 

「心の中で、『始め』と唱えた瞬間。縁壱が歩んできた、本当の物語が始まります」

 

 

 

菩薩の低い案内を聞き、巌勝は水晶を強く握り締めた。そして胸のもっとも深い場所から、一つの言葉を紡いだ。

 

 

 

『……始め』

 

 

 

その言葉が落ちると同時に、透明だった水晶の中心で、青く穏やかな炎が灯った。

 

 

 

しかし、この炎は魂を焼いてきた地獄のものとは、まるで違った。

 

 

 

苦痛を与えるのではない。長い歳月傷つき続けた魂を、そっと抱き締めるかのように、巌勝の身体と精神を柔らかく引き寄せていく。

 

 

 

あまりにも長い間、『炎』という言葉から苦痛しか連想できなくなっていた巌勝でさえ、その温もりに触れた瞬間、幼い頃の母の胸を思い出したほどだった。

 

 

 

その神秘的な導きへ、すべてを委ねるように身を任せる。そして巌勝はついに、生涯、自ら見ようとしなかった弟の本当の人生へ、深い水の中をゆっくり泳いでいくように、沈み込んでいった。

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

吸い込まれた巌勝の眼前へ、別の世界が広がった。

 

 

 

それは、単に縁壱の過去を外側から眺めるだけのものではなかった。まるで前世の縁壱本人が見ていた視点と感覚の一部を共有し、その眼を通して世界を見ているかのような、奇妙で、胸を締めつける体験だった。

 

 

 

人の皮膚の下で動く筋肉。血管。鼓動する心臓。膨らみ、縮む肺。そこまでがあまりにも鮮明に眼へ入った瞬間、巌勝は、この世界が何を意味しているのかを、すぐに悟った。

 

 

 

縁壱は、生まれながらに『透き通る世界』を見ていた。額には『痣』を持って生まれた。そして正しく刀を握り始めるようになると、剣鳴が響き、赫刀までも発現した。

 

 

 

兄である自分を遥かに凌駕する、天賦の才を持って生まれた存在だった。

 

 

 

だが、それほど巨大な力を持って生まれた弟が、最初に向き合った現実は、温かな祝福とは正反対だった。あまりにも冷たく、あまりにも残酷だった。

 

 

 

病に苦しむ母を、誰よりも献身的に介抱していた。それでも父からは、ただ双子として生まれたこと。額へ奇妙な痣を持っていたこと。それだけを理由に、『呪われた存在』と罵られ、容赦なく打ち据えられた。

 

 

 

だが、あれほど酷い折檻の中でも、縁壱は黙って耐えた。そして折檻が終わった後も、自分の傷を手当てするのではなく、痛む足を無理に無視しながら、苦しい足取りで、病に伏す母の部屋へ向かった。

 

 

 

自分が殴られて痛いという事実より、母が一人で倒れてしまうかもしれないという心配のほうが、先に立っていたのだ。

 

 

 

家の後継者の座を、もし弟へ奪われたらどうしよう。そう恐れ、一瞬一瞬、不安と焦燥へ囚われていた、自分の幼少期とは、

 

 

 

あまりにも違っていた。あの暗闇の中でも、どこまでも毅然とし、子供とは思えぬほど大人びた姿で母を支えていた、幼い縁壱。その日々を、今まさに目の前で見続けながら、巌勝は胸が詰まり、しばらく何も言えなかった。

 

 

 

『病に苦しむ母上を支えるお前を見て……。兄として褒め、励ますどころか、

 

 

 

その姿さえ、父上と母上の心を得ようとしているのではないかと疑い、ただお前を死ぬほど憎み、妬んでいた……。あの頃の自分が……心底、忌まわしい……』

 

 

 

地蔵菩薩が言った通り、生まれた時から、神々の恩寵を全身へ受けていた縁壱は、わずか七歳にして、刀の握り方さえ、まともに数度教わっただけの状態で、たった四、五合。それだけで、家の熟練した武士を、瞬く間に打ち倒した。

 

 

 

巌勝は、その光景を初めて見たあの日、血が逆流するような嫉妬と恐怖を覚えた、自らの姿を、痛ましげに思い返した。掌が裂け、

 

 

 

血が流れるほど、数え切れぬほど繰り返して修練し、ようやく得た剣術。それを弟は、ただ数度の説明を聞いただけで、あまりにも容易く、自分以上のものとして見せてしまった。

 

 

 

『そもそも、天が授けた神の才だったというのに……。私のような者が、己の分も知らず、それへ追いつこうと醜く足掻いていたのか……』

 

 

 

とはいえ、努力そのものが悪かったわけではない。

 

 

 

今になって思えば、問題だったのは、自分を磨くために努力したことではなかった。いつからか、ただ縁壱へ勝つためだけに鍛えるようになり、縁壱へ勝てなければ、自分という存在には何の意味もない。そう信じるようになってしまったことだった。

 

 

 

場面が移る。母が縁壱のため、太陽神へ無事と安寧を祈りながら、心を込めて作った華やかな耳飾りの護符が映った。

 

 

 

かつての巌勝であれば、その温かな光景を見ただけでも、唇へ血が滲むほど苛立ちと劣等感が吹き上がり、全身を数百本の鋭い針で突き刺されるかのような痛みを感じていたかもしれない。

 

 

 

母さえ縁壱だけを特別に思っている。そう歪めて受け取っていただろうから。

 

 

 

だが、母がどれほど凄惨な闘病を続けていたのか。その傍らで、縁壱が実際にどのように生きていたのか。

 

 

 

それを遅れて知った今となっては、身体の真気が徐々に尽き、死へ向かっていく母のために、誰より成熟し、毅然として傍に立ち続けた弟が、自分より遥かに大きな孝を尽くしていたことを、

 

 

 

認めるほかなかった。そうして巌勝の重い胸の中では、自分自身への嫌悪と、それでも、あの幼い歳でそのように振る舞った弟への誇らしさと痛ましさが、悲しく同居していた。

 

 

 

そして縁壱の幼年期は、ほどなくして、母が病によって早世したことで、大きな転機を迎えた。

 

 

 

家を出て、僧となるため寺へ行かねばならなくなった縁壱は、兄である自分を訪ねた。そして幼い頃、自分が何気なく渡した、あの不格好な木の笛を、世界の何よりも大切な品であるかのように、両手で固く握り締めていた。

 

 

 

それが、弟にとっては事実上、全財産に等しかった。

 

 

 

それでも縁壱は、小さな木の笛を胸へ抱き、幼い巌勝へ深く頭を下げ、一つの恨み言も、不満も口にせず、静かに家を去った。のちに父は、

 

 

 

母が残した遺書を読んで初めて、自分が縁壱をどれほど誤解していたのか悟り、激しい後悔と自責へ陥った。人を遣わし、縁壱を連れ戻せと命じた。しかし、

 

 

 

本来なら僧になるはずだった寺にも、近隣の村にも、どこを探しても、弟の姿は見つからなかった。

 

 

 

『いったい……。縁壱。我が弟よ。あれほどお前を憎み、競い合う相手としか見なかった兄の、あんな取るに足らぬ笛を……。なぜ、それほど大切に抱いていたのだ……』

 

 

 

だが、その問いへの答えは、今の巌勝には、もう分かっていた。

 

 

 

縁壱にとって、自分は生涯、競争相手などではなかった。

 

 

 

ただ――兄だった。

 

 

 

自分がどれほど歪んだ心で弟を見ていたとしても、縁壱は、幼い頃に一度だけ手を差し伸べてくれた兄の姿を、長い間、心の中へ抱いて生き続けていたのだ。

 

 

 

今さら悔いても、すでに数百年も遅い。それでも巌勝は、眼の縁へ溜まる涙を、あえて堪えようとはせず、霞む視界で、縁壱の人生を黙々と追い続けた。

 

 

 

あまりにも幼い歳で、家を完全に離れ、一人の旅人のように生きるようになった縁壱は、やがて、『うた』という女と出会った。

 

 

 

幼くして両親を失った、哀れな孤児。それでも、誰より心優しく、この世のあらゆる生命の尊さを大切にする、温かな女だった。

 

 

 

二人には、豪華な屋敷も、高い身分も、人が羨む財もなかった。小さな粗末な家で、互いの体温へ寄り添いながら、ささやかに暮らし、深く愛し合った。

 

 

 

そして質素な婚礼を済ませた後、ついに、うたの腹へ、美しい一つの『新しい命』が宿るという、幸せな日々を迎えた。

 

 

 

巌勝はそこで、弟が生涯を通じ、ほとんど初めてと言ってもよいほど、幸福という感情へ満たされて浮かべた、あまりにも素朴で、大きく、澄んだ笑顔を見た。

 

 

 

剣術で誰かへ勝った時でもない。

 

 

 

この世でもっとも強い剣士だと認められた時でもない。

 

 

 

ただ、愛する女と同じ家で飯を食べ、共に笑い、生まれてくる子を待つ。あまりにも平凡な日常。それだけが、縁壱を、あれほど幸せにしていた。

 

 

 

『……これが。これこそが……お前が本当に望んでいたものだったのか……』

 

 

 

巌勝の胸の中へ、言葉では表し難い感情が芽生えた。

 

 

 

だが、残酷な運命は、縁壱へ『試練』と呼ぶには、あまりにも酷すぎるものを課した。

 

 

 

時が流れたのか。視点が唐突に変わった。そして、しばらくして巌勝が目にした光景に、彼は長い間、何も言えなくなった。

 

 

 

すでに朝の光が明るく差しているというのに、小さな家の中は、異様な静寂へ沈んでいた。濃い闇の中で、縁壱が魂を失ったように膝をついていた。

 

 

 

その前には、冷たくなったうたと、この世の光すら見ることなく、腹の中で命を失った子の亡骸が横たわっていた。

 

 

 

愛した者たちの肌からは、すべての血の気が失われ、冷たく固まっていた。昨日まで、幸せな会話と笑い声で満ちていたはずの小さな部屋には、もう、何一つ生命の音がなかった。

 

 

 

縁壱は、亡骸と呼ぶことすら憚られるほど、鬼の手で無惨に引き裂かれた妻と子の身体を、胸へ抱き締めた。

 

 

 

初めは、声を枯らして泣き叫び、「守れなかった」と、何度も繰り返した。

 

 

 

そうかと思えば、まるで現実を認められぬというように、うたの身体を強く抱いた。そしてしばらくすると、何も言えなくなり、

 

 

 

ただその顔だけを呆然と見つめ続けた。その状態のまま、縁壱は実に十日間、その場で、一口の水も、

 

 

 

一握りの食べ物も、口へしなかった。黒い髪は荒々しく乱れ、血の気を失った目の下は青黒く沈み、

 

 

 

唇は乾き切って、あちこちが裂けていた。十日が過ぎる頃には、流す涙さえ、すべて枯れ果てたのか。何も言わず、

 

 

 

ただ、愛した家族の亡骸を呆然と見つめ続けた。乾いた唇だけが、僅かに震えていた。

 

 

 

「……守れなかった。大切な……すべてを……。たった一人さえ……」

 

 

 

胸の中へ、血の涙を流すほどの怒りと悲しみを、すべて呑み込んだ縁壱は、十日の間、その姿を痛ましげに見守っていた一人の鬼殺隊士に勧められ、ついに鬼殺隊へ入った。

 

 

 

弟の記憶を、幽霊のように共有していた巌勝は、いつの間にか、自分の指先が、意思とは無関係に震えていることへ気づいた。

 

 

 

凄まじい罪悪感と悲劇へ押し潰された弟の顔を、最後まで正面から見ることができなかった。

 

 

 

『お前の妻と子が……。ああ……!なぜ天は、お前へまで、このように残酷な試練を与えたのだ……。私は、

 

 

 

お前にはすべてが与えられていると思っていた。だというのに、お前が本当にもっとも欲しかったものは、私があまりにも容易く捨ててきた、このような平凡な家庭だったのか。どうして……。

 

 

 

どうして天は、我が弟へ、これほど途方もない絶望を与えねばならなかったのです……』

 

 

 

巌勝の精神が大きく揺らいだ、その時。傍らに立っていた地蔵菩薩の低い声が、静寂を破った。

 

 

 

「今だから私から言いますが。縁壱は、この悲劇について、鬼殺隊で再会したあなたへ、一言も話していません」

 

 

 

巌勝は、それはどういう意味だと尋ねようと、顔を向けかけた。

 

 

 

だが、前世で弟が鬼殺隊へ入った後、自分へ過去の人生について、ほとんど何も語らなかったという記憶が、雷のように脳裏を走った。

 

 

 

そのことを思い出した巌勝の顔を見つめ、地蔵菩薩は沈んだ眼差しで問いかけた。

 

 

 

「なぜだと思います?」

 

 

 

巌勝には、何か思い当たることがあった。それでも、容易く言葉にすることはできなかった。

 

 

 

すると地蔵菩薩は、低く溜息を吐き、静かに話し始めた。

 

 

 

「当時、縁壱が鬼を斬り、兄であるあなたを劇的に救った時。たった一体の鬼によって、家で精鋭として鍛えられていた、あなたの部下たちは、すべて殺されましたね。

 

 

 

当主だったあなた自身も、鬼を相手に、まともな抵抗すらできなかった。まあ、私もそれ自体を責めるつもりはありません。あの時代には、

 

 

 

鬼を相手にするための『呼吸法』さえ、まだまともに確立されていなかった。純粋に人間が使う普通の刀では、鬼を殺すこと自体が、ほとんど不可能に近い。それほどまでに理不尽な時代でしたから。ですが、

 

 

 

縁壱は違うふうに考えていました。自分が、ほんの一歩遅れて到着したせいで、本来なら十分に生きられたはずの、罪もない兵たちが、全員死んでしまった。そのことへ、凄まじい罪悪感を抱いていたのです。

 

 

 

『遅れてしまった』その事実は、彼にとって、ただの失敗ではありませんでした。かつて、自分がほんの少し家を離れた間に、大切な妻と、生まれて幸福を得るはずだった子まで失った、あの恐ろしい記憶と、直接繋がっていたからです。

 

 

 

そんな苦痛の最中、兄であるあなたが、当時持っていた名誉ある家と、当主という高い地位。

 

 

 

そして、縁壱から見れば、兄が婚姻した妻と、大切な子供たちまで、すべて置いてきた。そのうえで、ただ刀一本だけを手にし、鬼殺隊へ入った姿を見た時――。

 

 

 

縁壱は、あなたが、罪もない兵たちを失ったことへの自責と、復讐心から、鬼を滅ぼすために来たのだと、そう信じていたのです。

 

 

 

だから一方では、愛する兄と再び同じ道を歩き、共に鬼を斬ることができる。その事実を心から喜びました。そしてもう一方では、

 

 

 

自分と同じように、『平凡で幸福な人生』を強制的に捨て、これから残る人生を、血に塗れた鬼殺隊士として生きることになった兄へ、申し訳なさすら抱いていたのです」

 

 

 

「…………」

 

 

 

「ですが。肝心のあなたが考えていたことは、あまりにも醜く、まるで違っていました」

 

 

 

地蔵菩薩の声が、突然、ひときわ重くなった。

 

 

 

「その切迫した瞬間でさえ!あなたを守るため、どう足掻いても勝てぬ戦いだと分かっていながら、命を賭し、

 

 

 

最後まで主君であるあなたを守ろうとした、忠義ある部下たちの命は、驚くべきことに、あなたの頭の中でもっとも重要なものではなかった。

 

 

 

惨めに生き残ったその瞬間、幼い頃とは比べものにならぬほど、さらに強くなった弟の圧倒的な武を見て……。

 

 

 

ただ、『凄まじい嫉妬』と、『醜い劣等感』に囚われていた。……そうではありませんか?」

 

 

 

「……!」

 

 

 

魂の最奥を、寸分違わず抉り抜く。止めを刺すにも等しい菩薩の一言に、巌勝は何一つ返すことができなかった。

 

 

 

いや。反論しようとさえ、思えなかった。

 

 

 

胸が裂けそうなほど苦しく、恥ずかしかった。だが、それは否定できぬ、醜い真実だった。

 

 

 

巌勝は、血が通わなくなるほど拳を握り締め、乾いた唇を強く噛み締めるだけだった。

 

 

 

思い返せば、共に戦場を駆け、鬼を狩っていた頃の縁壱は、まるで初めて甘い菓子を口へ入れた子供のように、いつだって澄み切り、純粋だった。誰より強い存在でありながら、

 

 

 

自分がどれほど強いのかを誇ろうとはしなかった。兄と共に同じ道を歩き、

 

 

 

同じ敵を見据え、刀を振るう。ただそれだけの、あまりにも単純で、些細なこと一つに、心から喜んでいた。

 

 

 

『……たった、これほど些細なことへさえ、子供のように幸せそうだったお前を。兄である私は、あの虚しい強さへの執着を捨てられず、妬んでいたというのか。

 

 

 

ただ、その暗い心へ呑まれ、迷いもせず無惨の手を取った、この私は……いったい……』

 

 

 

だが、兄弟が共に刀を振るい、ほんの僅かな間だけでも同じ道を歩んだ幸福な日々は、長く続かなかった。

 

 

 

生まれながら痣を持っていた縁壱は、どのような神秘によるものなのか、最後まで短命に終わることはなかった。

 

 

 

一方、後天的に痣を発現させた巌勝は、二十五歳になる前に死ぬという恐怖。自分が死んだ瞬間、月の呼吸と、生涯積み上げた剣術のすべてが失われてしまうかもしれないという恐怖。

 

 

 

そして、どれほど鍛えても、永遠に縁壱へ追いつけないという、絶望的な現実へ囚われた。

 

 

 

その結果。初めて、そして最後に、自分を非常に高く評価し、互いの利益のため『提案』という形で手を差し伸べてきた無惨によって――。いや。正確には、その提案を自らの意思で受け入れたことで、巌勝は自ら鬼となる道を選んだ。

 

 

 

そして、ついに無惨と縁壱が戦場で相対した時の記憶が再生された。

 

 

 

縁壱は、当時、一般の鬼にとって致命的な弱点である斬首を、事実上、完全に克服していた無惨を相手に、刹那のうちにその肉体を、信じ難いほど細かく斬り刻んだ。

 

 

 

死を直感した無惨が、命を繋ぐため四方へ飛散させた千八百の肉片。そのうち実に千五百を、縁壱は瞬く間に粉々へ斬り砕いた。

 

 

 

驚異という言葉しか浮かばない、その光景。だが、地獄の長い歳月を経た今、それを見つめる巌勝の感情は、昔のように嫉妬で歪むことなく、ただ静かだった。

 

 

 

鬼となった直後には、主君と臣下という関係を越え、誰にも邪魔されぬ私的な場では、互いに敬語を捨てて話すほど、奇妙な親しささえあった無惨との関係。

 

 

 

だが、その欺瞞に満ちた結びつきは、地獄で凄惨な刑罰を受け、自らの人生を何度も振り返った今となっては、朝になれば音もなく蒸発する、虚しい露のように、綺麗に消え失せていた。

 

 

 

『無惨。この弱く、卑怯な男は……。私という盾を手に入れた途端、完全に油断したのだな。

 

 

 

我が弟の力が、いったいどれほどのものなのかも知らず、神の力を侮った代償として……

 

 

 

。お前も死んだ後は、私と変わらぬ果てのない苦痛の中を、惨めに這い回っているのだろう……』

 

 

 

結局、無惨は小さな頭部を形作る、みすぼらしい細胞の塊と大差ない姿へなりながら、辛うじて逃げ延びた。だが、一人残された縁壱には、それよりも遥かに残酷な知らせが、立て続けに突きつけられた。

 

 

 

実の兄である巌勝が、鬼へ堕ち、鬼殺隊を裏切った。その衝撃的な事実が、鬼殺隊全体へ伝わったのだ。さらに巌勝は、

 

 

 

無惨へ確かな忠誠を示すため、深夜、何食わぬ顔で鬼殺隊当主の屋敷へ侵入した。自分を信じ、油断していた当主の頸を、無慈悲に斬り落とし、持ち去った。その凄惨な大罪によって、

 

 

 

周囲の多くの柱と隊士たちは、凄まじい衝撃と怒りへ陥った。そして、その巨大な憎悪と侮蔑の眼差しは、巌勝一人だけに向けられることなく、実の弟である縁壱にまで及んだ。

 

 

 

そうして縁壱は、生涯を捧げてきた鬼殺隊から、ついに不名誉な形で追放された。

 

 

 

隊士の中には、兄の罪と、無惨を殺し切れなかった責任を問い、縁壱へ切腹を命じるべきだという、極端な意見まで出た。

 

 

 

だが皮肉にも、その主張を毅然と退けたのは、まさに巌勝によって父の頸を奪われた、当時の当主の長男だった。

 

 

 

自分の父が、どれほど惨たらしい姿で死んだのかを、誰よりも分かっていた。

 

 

 

それでも彼は、縁壱が鬼殺隊で立てた『功』と、これまで救ってきた無数の命を思えば、切腹という処罰などあり得ないと断じ、最終的に、追放という比較的軽い処分で事を収めた。

 

 

 

そうして、何の罪もない弟が、何年も身を置いた鬼殺隊から追い出され、雪と雨の降る道を、一人、孤独にあてもなく歩いていく姿が映った。

 

 

 

巌勝は、再び胸を引き裂かれるような痛みを覚え、血涙を流した。

 

 

 

『愚かな兄のせいで……。お前へ、生涯拭うことのできぬ、

 

 

 

あまりにも酷いことをしてしまった。鬼殺隊の御当主よ。どうか、

 

 

 

あの時の私を永遠に許さないでほしい。あなたの息子が、むしろ私の弟へ慈悲を与えたという事実が、今となっては、

 

 

 

いっそう私を恥じ入らせる。あの頃の私が行った利己的な所業は、今見ても背筋が凍るほど、忌まわしい……』

 

 

 

その後、縁壱は鬼殺隊の隊士ではなくなっても、あてもなく世を巡りながら、自分と同じ悲惨な運命を、他の誰かが繰り返さぬよう、身体が許す限り、できるだけ多くの人々を救い続けた。

 

 

 

誰かに褒められることを望まなかった。鬼殺隊から再び呼び戻されることも期待しなかった。

 

 

 

鬼へ惨殺されようとしている、罪のない命を見れば、ただ刀を振るって救った。そして、その者が生き残った。その事実だけへ満足し、また旅へ出た。

 

 

 

巌勝は、その尊い足跡を見つめながら、自分と弟の違いが、単に剣術の才能だけにあったのではなかったということを、遅すぎるほど遅れて、骨身へ染みるほど悟り、果てしなく自分を責めた。

 

 

 

そして歳月が流れた。まだ『竈門』という姓を名乗る以前。炭を売って生きる、深い山里の貧しい一家で、弟の偉大な呼吸が、『ヒノカミ神楽』という、太陽神を讃え、

 

 

 

家族の安寧を祈る、素朴な『舞』の姿へ変わりながら、無事に受け継がれていく光景を目にした。

 

 

 

「あなたの、その呼吸。私どもの家で、代々受け継いでいきます!この呼吸も!この太陽神の宿る耳飾りも!」

 

 

 

「……ありがとう。では、行くよ」

 

 

 

炭吉が、心から縁壱へ約束する姿。その約束一つだけで十分だというように、小さな笑みを残し、背を向ける弟。その姿を見つめる巌勝の胸には、奇妙な羨望と、畏敬の念が同時に芽生えた。

 

 

 

その後、炭吉の家は、『竈門』という姓を持つ一族へ変わっていっても、あの約束を忘れなかった。

 

 

 

刀を取り、人を斬る剣術という姿ではない。家族の安寧を祈る『舞』という、まったく別の形へ変わってなお、縁壱が残した心と技は、世代を越え、受け継がれ続けた。

 

 

 

『私は、自分の月の呼吸が後世で失われることを恐れた。自分を越える者など、この世へ存在してはならぬという、巨大な傲慢と恐怖へ囚われ、ついには死そのものすら拒み、鬼となった。だというのに……

 

 

 

縁壱。お前の日の呼吸は、刃ではなく舞となり、元の名さえ別の名へ変わったというのに、人から人へ、世代から世代へ、果てしなく、しぶとく繋がり……。とうとう、人々の心の中へ受け継がれたのだな。

 

 

 

お前は、自分の名が残らなくても、何とも思わなかったのか。

 

 

 

ただ、次の者が受け継ぐ。その事実一つだけで、満足だったのだな……』

 

 

 

そうして、偉大な弟の魂を前に、果てしない、惨めなほどの恥を覚えた巌勝は、縁壱の生涯、その最後の幕章だった、六十年後の再会――。

 

 

 

自分と凄絶に相対し、たった一度の剣撃だけで自分を死の寸前へ追い込みながら、最後まで二太刀目を振るえず、刀を握ったまま立ち尽くし、息絶えた弟の尊い亡骸を、再び見た。

 

 

 

今度は、眼を逸らさなかった。

 

 

 

すでに息が止まり、何の抵抗もできぬ弟の身体を、自分が勝てなかったという、卑小な怒り一つだけで、引き裂くように斬り刻む、過去の自分の姿を、最後まで見続けた。

 

 

 

『……すでに息絶え、抗うことすらできぬ弟の虚しい亡骸を、ただ勝てなかったという理由だけで、あれほど斬り刻んだ自分が……。どうしようもなく、忌まわしい。

 

 

 

そして、そんな行いを、数百年が過ぎてからようやく間違いだったと認めている今の自分もまた、あまりにも遅すぎたと思えて……。ただ、深く……やるせない……』

 

 

 

やがて、縁壱の全生涯を収めていた、走馬灯のようなすべての場面が、眩い光の中へ、ゆっくりと散りながら終わりを迎えた。

 

 

 

瞬く間に、漆黒の闇へ包まれた巌勝。しばらくすると、眩い聖なる後光が大地を照らし、彼はゆっくりと意識を取り戻した。

 

 

 

再び、焦熱地獄だった。

 

 

 

だが、地蔵菩薩が慈悲深い処置を施してくれたためなのか、魂を蝕んでいた焦熱地獄の苛烈な炎は、なお完全に鎮まったままだった。

 

 

 

そして、永遠に赤いままなのではないかと思えた地獄の景色が、古く、乾き切った繭の殻のように、呆気なく崩れ、深い闇の中へ散っていった。

 

 

 

崩壊する世界の中心で、巌勝はついに、生涯、自らを支配していた傲慢を、完全に手放していた。両膝をつき、深く頭を垂れていた。

 

 

 

最強を望んだ武人でもない。上弦の壱・黒死牟でもない。

 

 

 

ただ、弟の人生をあまりにも遅く理解した、一人の哀れな兄。継国巌勝。その姿だけが、そこにあった。

 

 

 

「いかがでしたか?あなたの弟の人生、そのすべてを、初めから最後まで、自ら見て、感じたご感想は?」

 

 

 

静まり返った空気を破る、地蔵菩薩の少しおどけた問い。胸の中を荒れ狂っていた悲しみを、ようやくある程度まで鎮めた巌勝は、呟くように短く答えた。

 

 

 

「……哀れでありながら、尊かった。そして……まことに、我が弟らしい。そう、思いました」

 

 

 

地蔵菩薩はしばらく、深い眼差しで彼を見つめた。そして、ふっと低く笑った。

 

 

 

「ようやく少しは、人らしい顔をするようになりましたね。まあ、あれほど壮大な一生をすべて見た後の感想としては、ずいぶん月並みで、面白みに欠ける答えなのが、私としては少々惜しいところではありますがねぇ」

 

 

 

巌勝は、菩薩の冗談混じりのからかいにも、怒らず、動揺もしなかった。

 

 

 

むしろ、自分自身も何を言うべきか、まだ明確には整理できていないというように、ほんの僅かな苦笑を浮かべた。そして、胸の奥で複雑に絡まり合っていた感情を、一つずつ取り出すように語った。

 

 

 

「そう言われても、特に反論できる言葉はありません。

 

 

 

そして……。自分自身へは、あまりにも複雑な感情を抱きました。

 

 

 

嫌悪。怒り。虚脱。執着。狂気。羞恥……。あまりにも多くの感情が一つへ絡まり、今すぐすべてを綺麗に整理することは、まこと、容易ではないと思います。

 

 

 

ですが、結局、一つだけは明らかです。

 

 

 

私自身が醜い怪物へなったことは、縁壱のせいでも、天があの子へ優れた才を授けたせいでもありません。

 

 

 

その弟を見ながら、私一人が虚しい欲望と劣等感へ沈み、最後には自ら誤った道を選んだ。明白な、私自身の過ちです。……

 

 

 

ただ、言葉もありません」

 

 

 

自らの醜い罪と責任を、淡々と認める武人を、地蔵菩薩はしばらく、じっと見つめた。

 

 

 

やがて、痛ましさと呆れが奇妙に入り混じるように舌を鳴らし、重く口を開いた。

 

 

 

「当然です。あなたとは違い、弟は、あれほど天賦の強さを持ちながらも、自分にできる範囲で、弱い命を一つでも多く救おうと、生涯を費やしました。

 

 

 

そして、もしあなたが、『強さ』という、あの虚しい欲望と、弟へ向ける劣等感だけを捨てていたなら、あなたにも、まったく別の人生が待っていました。

 

 

 

穏やかな家庭を築き、目に入れても痛くないほど愛しい子供や末裔たちが育っていく姿を見ながら、あなたの弟のように、人の身体のままでも、非常に長い歳月を生きることのできる運命を、

 

 

 

もともと自ら持っていたのです。それなのに、

 

 

 

今のあなたは何ですか。己の分にも合わぬ、過ぎた欲と恐怖のため、弟があれほど切実に手にしたがっていた、罪のない『睦まじい家庭と子孫』という祝福を、あなたは自らの手で捨てた。妻も。

 

 

 

子も。家も。そして、あなたを慕い、従っていた無数の者たちも。

 

 

 

そうしてすべてを投げ捨てた結果――。後には、あなた自身の手で無惨に殺した、あの哀れな時透家の子供たちに至るまで……。

 

 

 

あなたが置き去りにした血筋は、長い長い歳月を、悲劇と苦痛の中で彷徨うことになったのです」

 

 

 

菩薩の鋭い叱責は、錐のように、巌勝の胸の奥深くへ突き刺さった。

 

 

 

無一郎の顔が、再び浮かんだ。

 

 

 

あまりにも遠い末裔。生前、直接情を交わしたことすらない子供だった。それでも今は、『末裔』という言葉そのものが、かつて自分が捨てたすべてを、再び思い出させた。

 

 

 

地蔵菩薩は、そのまま言葉を続けた。

 

 

 

「一方。神にも等しい強さを持ちながら、ただ愛する者と共に、『睦まじい家庭を築いて得る、ささやかな幸福』それだけを望んでいた縁壱殿は、その幸福を、何もかも奪われました。

 

 

 

愛した妻。生まれ、この世の光を見るはずだった子。共に暮らしていくはずだった家。すべてが、たった一瞬で壊れました。

 

 

 

そんな血の涙を流すような境遇にあっても、彼には、鬼となった兄を斬る機会が確かにあった。それでも最後まで、兄へ向ける愛情を、完全には断ち切れなかった。

 

 

 

あなたを殺せるだけの力がありました。そして、あなたを殺さなければ、この先も無数の人間があなたの手で死んでいくかもしれない。それくらい、十分に分かっていたはずです。

 

 

 

それでも。神の肉体を持つ者には似つかわしくないほど、むしろ過剰なほど人間らしい心が、あまりにも深かった。

 

 

 

自らの選択で鬼となった兄と、元凶である無惨によって、この先もっと多くの者が死ぬかもしれない。その巨大な苦悩。それでも、

 

 

 

兄を自らの手で完全に殺したくはない。その心。その二つの間で、最後まで答えを見つけることができないまま、彼は眼を閉じたのです。

 

 

 

だからといって……。それが正しかったと、私が言っているわけではありません。

 

 

 

結果だけを見れば、彼の未練によって、その後さらに多くの犠牲が出たと考えることもできるでしょう。ですが、

 

 

 

それもまた、縁壱が、あなたの思っていたような、何の感情も持たぬ完全な神などではなかったという証です。

 

 

 

家族を愛し、兄を捨て切れず、自分が守れなかった人々を、生涯胸の中へ抱いて生きた。あまりにも人間らしい、一人の人間だったという証でもあるのです」

 

 

 

自らの傲慢を果てしなく削りながら、同時に、今まで一度も正しく見ようとしなかった、縁壱の人間らしい部分までも、改めて突きつける菩薩の痛烈な言葉。

 

 

 

巌勝は、もう怒るということさえ忘れたかのように、痛ましげに頷いた。

 

 

 

「……面目も、ありません……」

 

 

 

地蔵菩薩は、そんな巌勝をしばらく見下ろした。

 

 

 

だが、まだ先は長い。縁壱一人の生涯を見ただけで、すべての懺悔が終わったなどと思ってはならない。そう告げるように、ゆっくりと袈裟の内側へ手を入れた。

 

 

 

そして、先ほど縁壱の人生を見せた小さな水晶玉とは、比べることさえ難しいほど、さらに深く、荘厳な気を放つ、もう一つの玉を取り出した。それを、巌勝の前へ差し出した。

 

 

 

その玉の中に映っていたのは、たった一人の姿ではなかった。

 

 

 

無数の剣士。

 

 

 

無数の柱。

 

 

 

名さえ歴史へ残すことのできなかった隊士たち。

 

 

 

代々受け継がれる呪いの中でも、鬼殺隊を支え続けた当主たち。

 

 

 

そして、鬼へ家族を奪われても、再び刀を握った、数え切れぬ人々。その姿が、夜空の星のように、絶え間なく現れては、消えていった。

 

 

 

巌勝の六つの眼が、その巨大な玉へ、ゆっくりと向けられた。

 

 

 

少し前まで、弟の人生を見て、自分の罪を多少なりとも理解した。そう思っていた胸の中へ、言葉では説明し難い不吉な予感と共に、新たな緊張が芽生えた。

 

 

 

縁壱一人の人生だけでも、自分がどれほど多くのものを誤解したまま生きていたのか、思い知らされたというのに。あの玉の中で、自分を待っているものは、いったい何なのか。

 

 

 

その問いへの答えを知っているように、地蔵菩薩は、ごく僅かに口元へ笑みを浮かべた。

 

 

 

そして巌勝もまた、直感的に理解した。

 

 

 

自分が見なければならないものは、まだ終わっていないのだと。

 




───

【あとがき】

本来、韓国のウェブ小説サイトではこれを第1話としてプロローグを始めていたのですが……。設定が色々と追加され、オリジナルキャラクターが加わったことで、それに伴う説得力を持たせるために再度手を加え、プロローグを2つに分けて進めることになりました。

こちらのサイトでは初投稿となるのですが……少し恥ずかしいですね。

設定資料ばかりを読まされ、本編を待ってくださっていた方々には申し訳なく思っております。そして、常に感謝の気持ちを抱きながら執筆しております。職場で働きながらも、

昼休みに何か思い浮かぶエピソードなどがあれば、合間を縫ってコツコツと書き進めています。それでは、今回はこの辺で。

次の話でプロローグは終わりを迎える予定です……。いつも愛しております。皆様のすべての物事がうまくいき、常に笑顔で……いつも幸せであられることを願っております。

【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!

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