誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意) 作:つねお あきら
焦熱地獄。
そこから湧き上がる猛烈な業火が、苦痛に悶え呻く人々、いや、罪人たちの全身を呑み込んでいた。
それは単に皮膚を焼き、筋肉を焦がすといった、我々の常識で知る熱気ではなかった。
生前に犯した無数の悪業と、他者の命を奪った代償が一つ、また一つと積み重なって炎となり、魂の最深部まで灼き穿つ、凄絶な刑罰であった。
肉体は引き裂かれ、焼き尽くされては、地獄の苛烈な理によって強制的に付与された再生力により、拒絶の余地なく再び修復されることを繰り返した。
灼かれ、裂かれ、再び生えるというその悍ましい輪廻の鎖の中で、時間の感覚などとうに消失していた。
すでに億劫と呼んでも足りぬほどの長い歳月が流れた。その苦痛は、まともな人間の精神など容易く粉砕し、狂気に叩き落とすに十分なものであり、
事実、周囲には人間として悪業を積んだ罪人や、人間に戻ることすら叶わぬほどの更なる悪業を積んで鬼となった罪人たちが、その大半を占めていた。
彼らはまるで自我を失い、本能だけが残った獣のように咆哮し、生前に犯した悪業を棚に上げて理不尽を訴えるかのような、人間とも思えぬ悲鳴を上げながら、阿鼻叫喚の惨状を埋め尽くしていた。
しかし、その悲鳴が渦巻く地獄の真ん中、最も熾烈な劫火が吹き荒れる中心に、唯ひとつ、圧倒的な気配を放ちながら静かに正座する存在があった。
薄紫色の着物を纏い、長い髪を垂らした男。その髪の先端には、「赫灼の子」を象徴する赤き色彩が宿っていた。
人間と呼ぶにはあまりにも奇怪な、顔に六つの眼を持った、威圧的な容貌の鬼。
彼は燃え盛る炎の中でも揺るぎなき瞑想の構えを崩さず、自らの骨と肉が灰となって散りゆく苦痛を、まるで他人事であるかのように黙々と受け入れていた。
彼の人間としての名は継国厳勝。しかし、強さへの果てなき執着と弟への歪んだ劣等感に囚われて鬼へと堕ち、
鬼の始祖・鬼舞辻無惨によって「十二鬼月」という集団を率いる最初の、そして最強の上弦である「黒死牟」という汚名を得て、数百年の歳月を怪物として生きた。
すでに苦痛に慣れきった無感動な表情であったが、終わりなく押し寄せる地獄の波濤の中で、彼は血の滲む唇を噛み締めながら、過ぎ去りし日々を回想した。
「まことに……後悔の念に堪えぬ。ただ強さに執着するがあまり……その愚かな欲一つで、多くの人間や同胞を喰らってまで……あれほど貪欲に生に縋らねばならんだのだろうか」
彼の脳裏には、鬼となってからの生を振り返るかのように、数百年に及ぶ血生臭い記憶が絶え間なく巻き戻され始めた。
『裏切り者が! 鬼へと堕ちた貴様が、どの面下げて当主様の首を刎ねおったか! 天罰が下るぞ、黒死牟!!!!!!!!!! そこまでして……鬼になってまで生きたかったのか!!』
ぽつり……ぽつり……ぽつり……
鬼となった初日、彼は鬼殺隊の「月柱」という地位を利用し、鬼の討伐に関する案件を当主と論의するという名目で、
あまりにも容易く鬼殺隊の本部と産屋敷邸の正門を潜り抜けた。そして、自らを親切かつ温かな微笑みで歓迎した当時の当主の首を、感情の失せた表情で刎ねた。
首が落ちる瞬間、自らの羽織を染め上げた当主の血は、決して忘れられぬ光景であった。
そうして首を刎ねた後にようやく擬態を解き、眼が六つに変わった鬼としての己の姿を見せてこそ、当主の表情は己の歪んだ記憶の中では「怒り」に満ちていたのだと思い込んでいたが……
今一度深く噛み締めてみれば、怒りという感情よりは、この感情を四字熟語で表すならば、短くも強烈であった。
「惻隠之心」……そうして首を刎ねて立ち去ろうとした瞬間、その光景を目撃した当主の妻が悲鳴を上げた。その悲鳴は、大切な者を失った時に漏れる、獣の如き凄惨な絶叫であった。
子供たちは、首を失った父親の遺体を見て衝撃を受けたのか、涙を流しながらその場に頽れ、彼は屋根の上へと逃げ去るのに必死であった。
裏切り者……侍の出である彼にとって、最も不名誉で屈辱的な言葉であったやもしれぬが、その代償を支払ってでも、当時は鬼になったという事実があまりにも甘美で刺激的であった。
たとえ人喰いをせねばならぬという点が不本意であったとしても、自らの剣技を永久に維持でき、強さを少なくとも自然死することのない鬼の身体で積み重ね続けられることこそが、彼にとって最大の財産であったのだ。
侍の矜持など……すでに鬼となった時から、いや、それ以前に己が持っていたもの全てを「縁壱」という、ある意味で武神の座に至ったと思われた存在に近づきたいがために、
家族と家門……そして家に仕える食客や兵卒どもを無責任にことごとく捨て去り、鬼殺隊の門を叩いた時から、とうに捨て去っていたはずの彼だった。
その後、己が強くなるために大地へ血の匂いが立ち込めるほど無数の血を流し、手段と方法を選ばず斬り伏せ、喰らい尽くした無辜の民と鬼殺隊士たち。
民間の人々の目に宿っていた恐怖と絶望、隊士たちの目に灯る裏切りへの、そして己へ向けられた燃え盛る怒りに直面しながら、彼は果てなき後悔と痛嘆、そして自責の泥沼へと沈み込んでいくしかなかった。
「我が末裔にすら、まこと惨い仕打ちをしたものよ……時透無一郎。私の偏狭かつ浅薄な欲のために、お前のその尊き命を奪ってしまったな……」
己の手で命を刈り取った末裔。胴を横一文字に両断され、上体と下体が泣き別れとなって内臓が溢れ出るほどの凄惨な姿となり、同時に凄まじい激痛が襲いかかったにもかかわらず、
数多の人々のために、そして己を討ち果たすために歯を食いしばり、赫刀を発現させた無一郎の最期の姿を思い浮かべると、六つの眼からは後悔と悔恨に満ちた紅き血の涙が絶え間なく溢れ出た。
引き続いて厳勝は、縦に両断され全身が裂かれた状況にありながらも、己の刃を喰らって血鬼術を発現し、ついに己に術を発動させぬまま死に至らしめる決定打を放った、
擬似的な鬼の身であった「不死川玄弥」を思い返し、感嘆、そして憐憫の情を抱いた。
「あの子にすら、まこと酷い仕打ちをしたものよ……。あるいは、あの子のおかげで私が果てたのは、必然たる運命であったのかもしれぬな……。ははは……」
自嘲気味に笑う厳勝は、容赦なく押し寄せる地獄の熱と炎に苦痛の呻きを漏らし、全身から流れ出た血は地獄の熱気に触れてパチパチと音を立てながら蒸発していった。
しかし、それでもなお六つの眼から流れる涙が枯れることはなかった。苦痛の中で、とうに手遅れとなった業報に対し虚無感を抱いたまま、彼は最後に、最も胸を締め付けられる存在である弟の名を呼んだ。
「最後に、縁壱。お前には、まことに申し訳ないことをした。兄として、私という男はどこまでも情けなかった。それほどまでに、お前の才能を嫉妬し、お前の完璧なまでの謙遜すらも憎み、
それほどまでに、後世へと伝えようとしたものが強さではなく『絆と協調の継承』であったことを憎み、最期まで私を討ち果たせたはずであるのに、哀れな兄のために生かしてくれたその慈悲深さまでをも憎んだ……。
お前が死に絶えた後、あれほど数多の年月の中で、記憶の中のお前に勝とうと無辜の民や隊士たちを殺め、喰らい続けながらも、未だにお前を憎んでいたというのに……。結局、私はお前の影を踏むことすら叶わなかった」
この地獄が罪人に対して最も悪辣であると感じる点は、苦痛が今や己の意志とは無関係に、幻覚や幻聴、さらには幻視までをも容赦なくもたらすという点であった。
己が喰らい尽くした数多の人々や隊士たちの呪詛に満ちた声、さらには己が殺害した時の姿で一人、また一人と現れては嘲笑い、罵り、
終いには、燃え盛る己の肉体を掻き毟り、引き裂くかのような錯覚まで……。五感が徹底的に、苦痛を超えた『何か』に苛まれている様は、言葉で表現することすら生温いものであった。
分明に歪められた五感であるというのに、すべてが現実のように感じられる。狂わずにいると言えば嘘になるほどの、肉体を超越した精神的な苦痛であった。
このような惨状に、厳勝は「もう少し早く己の分を弁えていれば、死に際してすら弟に巡り会えぬこの境遇を、天の怒りだと思ったであろう」と考えていた。
しかし、冷酷なる現在の現実は、誰のせいでもない。ただ己が選択し、積み上げてきた醜悪な業報の代償を、地獄という罰の場で支払っているに過ぎないのだ。
「私が分を弁えていれば、死に臨んですらお前に会えぬのは、天の憤怒ゆえか……。いや、違うな。これはひとえに、我が犯した業の結果なのだろう。私はただ……縁壱、お前になりたかったのだ……」
血の涙を流す最中であっても、時には己を温かく見つめ、時には己を悲しげに眺め、時には己を尊敬の眼差しで仰ぎ見るなど、多様であった縁壱の姿を決して忘れることはなかった。
地獄の業火は肉体を焼き尽くしたが、心の最深部に刻まれた弟の微笑みだけは、どうしても灼き穿つことができなかった。だが、今更後悔したところで何になろうか。
罪の代償が終わりを迎えるその時まで、この地獄の火炎は永遠に彼を灼き、そしてまた灼き続けるのだろう。
「分不相応な才能が何だというのだ。取るに足らぬ強さが何だというのだ! 死を克服したことが、一体どれほどの大事であったというのか……。醜く生き永らえた鬼の生涯は、まことに忌まわしいものだと、そう思わずにはいられぬな。
……ただの一度でいい。私の選択を、もう一度やり直すことは叶わぬのだろうか」
五百年近い歳月の間、修練に修練を重ね、武人が憧れ続けた至高の領域へ到達しようともがき、ついにそれを成し遂げたというのに。結局は独り取り残されたまま、命を賭して協調の手を握り合った者たちによって迎えさせられた、うらぶれた最期。
地獄の劫火がわずかに凪ぐたびに、縁壱の声が耳鳴りのように耳朶を揺るがした。
『この笛を、いただいたこの笛を兄上と思い、どんなに離れていても挫けずに、日々精進いたします』
炎の中で幻聴のように聞こえてきた縁壱の第一の声は、
父が縁壱を殴りつけた後、兄としてただ哀れに思い、初めて作ってやった不格好で粗末な、音すらまともに出ない、
なんとも見劣りのする出来栄えの笛を手渡した際、その日初めて弟が己に返した、感謝の言葉であった。
『この国で、兄上の次に強い侍になりたいです』
第二の声は、家門の栄光と安泰のために義務として己が剣技を学んでいた姿を、一見すれば才能など皆無に見えた弟が見つめ、ぽつりと漏らした一言であった。
『兄上、私たちはそれほど大した者ではありません。長きにわたる人間の歴史の中で、ほんの一欠片に過ぎないのです。
私たちの才能を凌駕する者が、今この瞬間にも生まれていることでしょう。その者たちが育ち、また同じ場所へと到達するのです。
何も案ずることはありません。私たちは安心して人生の幕を閉じてよいのです。心地よいことではありませぬか、兄上。
兄上、いつの日か、これから生まれてくる子供たちが私たちを飛び越え、さらなる高みへ、果てまで上り詰めるのです』
第三の声。弟の後を追って鬼殺隊へと入り、痣の発現によって己がいつ死ぬかも分からず、一日中焦燥と不安に苛まれながら生きていた時、「案ずることなく去ればよい」と弟が口にした一言であった。
『お労しや、兄上……』
最期の声。己が鬼となり、当主の首を刎ねて無惨への忠誠を誓ってから六十年が過ぎ、八十を越えた醜く老いさらばえた姿の弟が放った、生前における最後の一言であった。
縁壱の言葉が途切れた瞬間、厳勝の冷え切った血が沸き立ち始めた。地獄の幻聴か? それとも、己はとうに狂い果ててしまったのか?
彼の脳裏には、死の直前の光景が雷光の如く閃いた。あの日の、縁壱との最後の決闘が、鮮明に蘇り始めた。
.
.
.
.
無惨の甘美な提案によって鬼と化してから、実に六十年という長き年月が流れた後のことであった。しかし、彼は今なおあの眼差しを忘れることができない。
歳月の過酷な風波と激変の中にあっても決して揺らぐことのなかった、あの天の太陽の如き弟の視線。その瞳に宿っていたものは、兄への非難ではなかった。
それは、深さの知れぬ淡い憐憫であり、うら悲しい愁いであり、同時に、鬼に堕ち果てた兄へ向ける最後の情愛であった。
ぷしゅっ!
生と死の狭間で、彼の首は皮一枚を残すのみの、紙一重で繋がっているに過ぎぬ瀕死の有様であった。
神の領域に達した弟の一撃の前では、鬼特有の不死性すらも無力であった。
「弟に勝つ」という一念のみで、この瞬間にも己の胸を圧し潰さんとするあの羞恥の念を無理純に抑え込み、最も強靭な鬼となったというのに。
いざ白髪の老人となった縁壱を前にしてみれば、自分は指先一つまともに触れることすら叶わぬ、到底敵うはずもない存在であると思い知らされたからであろうか。
厳勝の顔面は、怒りと諦念、そして巨大な絶望感が入り混じり、酷く複雑に歪んでいた。
彼は重苦しい沈黙の中で、縁壱の二の太刀が己の首を完全に刎ね絶ってくれるのを、苦痛とともに待った。
しかし……刃が再び振るわれるより前に、縁壱は緩やかに息を引き取った。
「死んだのか……? 縁壱が……?」
およそ八十を優に超え、戦乱の吹き荒れる戦国時代においては極めて稀な無病息災の生涯を送り、ついに老人となった今でも、縁壱は厳勝にとって未だ超えられぬ巨大な神であった。
その完全無欠な肉体は、たとえ表向きには歳月の霜が降り、老いさらばえて見えようとも、厳勝自身が痣を発現させると同時に開眼したあの「透き通る世界」の眼で透視した時、
内臓と筋肉のうちは、まったく歳月の痕跡すら見当たらぬほど、完璧に流動していた。弟は老いて朽ちたのではない。武人としての頂点を維持したまま、天寿を全うして自然へと還ったのだ。
息が絶えた後も、魂の伴侶であった日輪刀は、老人の手からこぼれ落ちることはなかった。
それどころか、縁壱の赫き刃は、しばし低く微かな剣鳴を響かせて赫々と燃え上がり、主の生気が消滅すると、ゆっくりとその燦然たる力を収めて翳っていった。
その瞬間、厳勝は弟が己に遺したその最後の慈悲を前に、胸の最深部から沸き起こる、狂わんばかりの狂気と絶望を味わった。
彼は、自らの筋肉と骨を削り、そこに肉を這わせて強度を増した愛刀「虚哭神去(きょこくかむり)」を荒々しく引き抜いた。
ザシュッ! ドチャアアアッ!
そして、すでに息絶えた弟の遺体を容赦なく引き裂き、首の筋を立てて、醜くも凄絶な悲鳴を上げた。
「やめろ!!! やめろと言わなかったか!! 私はお前のその天賦の才に、ただの一度でも追いつかんがため、
『侍』という高潔な武士の矜持すら投げ打ち、鬼という醜悪な怪物にまで成り下がって骨を削り、鍛錬を重ね、数多の人間を喰らってきたのだ!!
それなのに縁壱!!!! お前は!!! これほどまでに私へ勝つ機会すら与えず、虚しくも先に行くというのか!!
なぜ最期まで、浅ましく醜り果てた、この愚かで情けない兄の最後の自尊心を無残に踏みにじり、死を以て先に去ってしまったのだ、縁壱!!!!」
ころり。
怒りに目を眩ませて振るった刃によって、縁壱の遺体が惨たらしく真っ二つに裂かれた。その瞬間、紅き羽織の衣擦れの隙間から、何かが床へと転がり落ちた。それは、冷たく二つに割れた小さな木の笛であった。
それは過去、人間の頃の、最も幼く純粋であった日々に手渡した「兄弟の情愛」が断ち切られた破片であった。
家門の跡継ぎとしてあらゆる富と豊穣を享受していた自分とは違い、部屋一間に閉じ込められ、差別と折檻の中で悲惨に生きていた縁壱を哀れに思い、自ら削って手渡した不器用な笛。
まともな音すら鳴らぬ、何一つ役に立たぬ不恰好なこの笛を、縁壱は世を去る直前のその瞬間まで、懐の奥深くへと大切に仕舞い込んでいたのだ。
兄が鬼となり、人類を屠る醜悪な怪物へと堕落したにもかかわらず、縁壱は死ぬ瞬間まで兄を怨むどころか、兄を愛する心一つでその記憶を大切に抱き締めて生きてきたのだった。
じわあぁぁぁ……
弟の推し量れぬほどの愛を突きつけられた瞬間、厳勝の顔に浮かぶ六つの眼が痙攣した。いや、正確にはその半分である三つの眼からだけ、堪えていた血の涙が滝のように終わりなく流れ落ちた。
彼にとって、鬼となってからもその面影が脳裏から離れなかった唯一の存在である縁壱は、心の底から愛した唯一の血肉であり弟であったがゆえに、半分の三つの眼からは切々たる血の涙が溢れ出た。
しかし同時に、縁壱は武人であった自分が生涯を捧げても届かなかった、憎悪すべき嫉妬の対象でもあった。ゆえに、残り半分の三つの眼からは、どうしても血の涙が流れ落ちることはなかった。
愛憎によって引き裂かれた鬼の肉体が紡ぎ出す、奇怪にして哀切極まる慟哭であった。
「縁壱……お前は……最期まで、この醜くも不甲斐ない兄を、覚えていてくれたのか……」
その瞬間、彼が鬼として数百年の間、執念深く縋り付いて生きてきたすべての「強さ」の意味が、砂上の楼閣の如く崩れ去った。
結局、「鬼」という不死の肉体を得て理不尽な強さを手に入れたにもかかわらず、すでに老い衰えた縁壱に最後まで敗北した己。
彼はこれ以上、他の誰かに敗北の羞恥を味わわされぬよう、数百年の歳月の間、他の剣士たちを屠り、その肉を喰らい尽くしながら足掻いてきた。
しかし、数百年が過ぎた遥か未来に至り、縁壱の言葉は一寸の狂いもなく実現した。
厳勝の予想通り、気の遠くなるような世代を経ても、縁壱ほどの圧倒的な、神に似た力を独りで有する者など誰も現れなかったが、
弟が常に語っていた「継承と協調」という人間たちの連帯、すなわち「すべて」という巨大な力によって、傲慢に君臨していた上弦の壱である己は、結局、一掴みの儚い灰となって消え去ったのだ。
まさにその時、彼が過去の走馬灯を掴み、思考を繋ぎ止めようとするのを阻むかのように、焦熱地獄の苛烈な炎が、再び激しく燃え上がった。
その無慈悲な火炎は、蘇りつつあった鬼の肉体はもちろんのこと、時空を超えて縁壱を愛おしく回想していた厳勝の精神と魂までも丸ごと呑み込み、白く灼き尽くし始めた。
人間の言語では到底測ることすら叶わぬ、遥かなる歳月、五京三千兆年。
それは、夜空の天の川が幾度となく明滅し、人類が築き上げてきた文明が一掴みの砂や塵となって宇宙の空虚へと消え去るに十分な時間であった。
地獄の時刻は、恐ろしいほどに重く、そして欺瞞に満ちていた。さらにまた、悪辣極まりなかった。
人間界において王朝が入れ替わる数百、数千年の歳月は、あの天上界である「他化自在天(たけじざいてん)」の瞬きの一瞬に過ぎぬというのに、
その天上の時間で、およそ一万六千年間を満たして初めて、ここ焦熱地獄の「僅か一日」が過ぎ去るに過ぎないのだ。
厳勝の全身を焼く火炎は、毎瞬ごとに生肉を引き裂き、骨を溶かしたが、地獄の苛烈なる業風(ごうふう)は、彼の灰燼を再び息の通う肉体へと蘇らせることを執拗に繰り返した。
「もう分からぬ……。もう、あまりにも……疲れ果てた……」
毎秒ごとに、億劫の悲鳴が胸を切り裂いた。最初の数百万年の間は、己が遺した刃の軌跡を思い浮かべ、数億年が流れた後には、酷く憎み、そして愛した弟の顔を描いた。
しかし、兆の単位の時間が大河の如く流れ、魂の残骸すらも摩耗し始めると、
彼が抱いていた傲慢な武人の矜持も、黒死牟という名で積み上げてきた残酷な悪名も、ただ燃え盛る炎の中で跡形もなく気化する刹那の陽炎に過ぎなかったのだと、そう悟るのみであった。
五京年を超える、事実上の永遠に近い刑罰。
それは、神が己に下した最も残酷なる慈悲であった。無限に繰り返される火刑の苦痛の中で、厳勝は己が完成させてしまった罪業の重さを、つぶさに思い知らされていった。
炎が骨の節々を溶かすたび、男の悲鳴は今や、ただひたすらに苦痛に耐え忍ぶための忍耐の沈黙へと変わり、再び肉体が再生するたび、弟へ届かなかった悔恨の念は増幅していくばかりであった。
月光さえも呑み込もうとした、脆弱にして傲慢であった鬼は、今や終わりの見えぬ焦熱地獄の巨大な歯車の陰で磨り潰されながら、
悲鳴を上げることすら贅沢な、酷く熱い沈黙の中で、ただ己に許された五京年の、その一日一日を、全身で言葉もなく受け止めていた。
どれほどの時間が流れたであろうか。
遥かなる歳月を続いた劫火の苦痛は、ついに男から日々を数えるという慰みさえ奪い去った。
その日も厳勝は地獄の真っただ中で瞑想の姿勢を取り、六つの眼を固く閉じていた。
相変わらず、己が最初にここへ落とされた時も、その最中も、一貫して絶え間なく肉が焼け焦げて灰となり、再び息の通う肉体へと再生する過酷な因果律を、黙々と耐え忍んでいた最中のことであった。
瞬間、厳勝は己を魂の足枷の如く、葛の蔓のように縛り付けていた焦熱地獄の火炎が、嘘のように一瞬にして掻き消えたのを感じた。
四方を覆い尽くしたのは、奇妙な静寂であった。あまりにも長い歳月を、ただ炎の熱気と苦痛の中だけで過ごしてきたせいであろうか。
冷ややかに降りてきた「苦痛の不在」がかえって見慣れぬほどに不調法に思え、彼は動揺する感情をどうすることもできぬまま、むしろ凍りついたように佇んでいた。
まさにその時、ふと静寂を破り、彼の背後から何者かの静かな足音が聞こえてきた。厳勝が重い頭を上げると、その六つの眼が同時にびくりと震えた。
「ふむ、相変わらずその姿勢で地獄の火を味わっておられたが、それが終わってみて、いかなる思いがいたしますか?」
その声は春の風のように温かかったが、同時に地獄のいかなる深い深淵にあっても聞いたことのない、妙なる響きを孕んでいた。
厳勝の六つの眼が一斉に、音のした方向へと焦点を合わせた。そして、男の武人としての直感が警鐘を鳴らした。
(気配がない……。これほど近くに寄られるまで気づかぬとは! 人間でもない……。かと言って、鬼ではなおさらない! 一体、この存在は何者だ?)
心の内で波のように押し寄せる疑問とは裏腹に、長い歳月、苦痛を淡々と甘受しながら研ぎ澄まされた厳勝の声は丁寧であった。
「……何者だ」
淡々としながらも格調高い厳勝の態度に、ベールに包まれた存在は、柔和な微笑みを浮かべて答えた。
「さあ、どうでしょう。ある者は私を『菩薩』と呼び、またある者は『業報の救い手』と呼ぶそうですが」
パチン!
その瞬間、自らを菩薩と称した男の指が軽やかに弾かれた。その音とともに、紫色の炎が暗闇の中で彼の輪郭を仄かに照らし出した。
すると、存在感すらなく極めて平凡であった彼の顔が、瞬く間に厳勝の魂を支配する愛憎の対象────縁壱の顔へと完全に変貌した。
瞬間、厳勝の全身が石のように硬直した。
一方で、あまりにも容易く己の弟へと姿を変えた存在に対し、震える声で低く問いかけた。
「……その顔、その声……。貴様は何者だ。すでに罪人である私を、さらに愚弄しようというのか」
彼の刃の如き言葉が終わるや否や、縁壱の姿をした存在は、再び灯火の中で流麗に変貌し始めた。
今度は聖なる法衣を荘厳に纏った、厳かなる仏の現身であった。
慈悲深き仏の姿へと完全に定まった彼は、今や人というのも憚られるほどに魂と肉体が壊れ果てた厳勝の有り様を、じっと見下ろした。
彼は痛ましげに舌を打ちながらも、男へこの地獄に対する感想を、それとなく問いかけた。
「はは、すでに内心では動揺していながら、口から出るのはようやくそれほどの手向け言葉だけですか。
それはそうと、この世に存在すらしない地獄の火炎を味わってみて、いかが感じられましたか、黒死牟殿?……いや、継国厳勝殿」
「……貴様はなぜ……私の……名を……?」
想像だにしなかった己の呼び名に、酷く動揺した厳勝が問うと、その高潔なる存在は低く吐息を漏らし、言葉を続けた。
「はぁ……。まあ、強いて言うならば、まずは私から問いを投げかけましょう。ここ地獄を統べる十王たちのうち、その代表者は誰ですか?」
答えを明かすかと思えば、唐突に問いを投げかける彼の食えない声に、厳勝は呆れを覚えながらも、
その身から漂う慈悲深さに知らず知らずのうちに魅了され、大人しく答えを口にした。
「……閻魔大王」
「ええ、大正解です! その閻魔大王様とは、公的には競い合う関係ですが、私的には互いを深く尊重し合う仲、とでも言いましょうか。そんな存在ですよ。大したものですね?」
人を喰ったように笑う彼の清らかな声に、厳勝はしばし沈黙を保っていたが、やがて六つの眼を大きく見開き、低く仏の正体について呟いた。
「……たとえ私が鬼として生きた身であろうとも、貴方の存在を知らぬはずがなかろう。名は──地蔵菩薩、であろうな」
厳勝の内面でわずかに怒りの火が熾ったが、すぐに虚しさが胸を満たした。彼は自嘲の混じった苦い微笑を浮かべた後、虚脱した視線を菩薩へ向けて問いかけた。
「なぜ、よりによって私の弟の姿で問いかけるのだ。あの弟を見て劣等感に狂い、執着し、結局は鬼へと成り下がった私を、嘲り弄ぶためにこの悍ましき地までわざわざお越しになられたのか……」
またしても縁壱の穏やかな姿へと静かに変わった地蔵菩薩は、いつの間にか再び厳かなる仏の姿へと戻り、低く謝罪した。
「ふむ、貴方の最も痛む逆鱗に触れてしまったようで、謝罪いたします。しかし、そもそも神々の恩寵を独り占めした彼を超えようと耐え抜いてきた貴方の努力だけは、真に殊勝なものです。
まずは一人の人間として尊重するという意味を込め、黒死牟ではなく『厳勝』と呼ばせていただきましょう。
厳勝殿、貴方が流したあの血の涙の混じった後悔と痛嘆、そして心からの反省がなかったならば、私がこの深淵まで来ることはなかったでしょうね」
地獄の苦痛に耐え忍ぶ己を称賛しているのか、あるいは巧妙に弄んでいるのか分別のつかぬ厳勝は、眉をひそめて問いかけた。
「そのような言葉を並べるためだけに来られたのではあるまいと、そう察している。……私に一体何の用があって、ここへ来られたのだ」
彼の率直な問いに地蔵菩薩は慈愛深く笑っていたが、やがて悪戯っぽさを消し、深さの知れぬ真摯な表情で口を開いた。
「貴方の叫び……貴方の後悔と自責、そして絶対的な強さの虚しさについての物語は、あの上の世界でもよく聞こえておりました。
しかし〜、それが生み出した罪業は永遠に消すことはできないでしょう。数多の人間を喰らい、屠ったことは、いかなる鬼であれ、決して許されることのない大罪です。
当然、それに対する過酷な罰を受けることは、世界の普遍なる理というものではありませんか? まあ、燃え盛っている貴方にこのような水を差す残酷な言葉を吐くのは遺憾ですが……。
貴方がそれほどまでに愛憎を抱いていた縁壱、あの者は無惨という世界の悪魔を打ち倒すために、神々が特別に按配した世界の奇跡でした。
ですが、気の毒なことに彼の人生は、貴方が考えているようなものとは違い、決して順風満帆なばかりではありませんでした。むしろ、悲劇的な物語を胸に抱いて生きた、極めて不憫な男なのです」
「それはどういう意味だ? 神に匹敵する力を持った私の弟の人生が、順風満帆ではなかっただと……一体、それはどういうことだ!?」
唐突に紡がれた菩薩の言霊の中で、弟の人生が不幸であったという途方もない真実を突きつけられ、厳勝は抑えきれぬほどに動揺した。
その激しく揺れ動く姿をじっと見つめていた地蔵菩薩は、しばし思案する様子を見せた後、自らの懐から玲瓏と輝く小さな透明な水晶を取り出し、厳勝へと手渡した。
「お受け取りください。その水晶は、ある対象が生きてきた胸に染みる瞬間を、そのままに記憶しておく能力を備えた霊妙なる器です。
縁壱の生涯にわたる人生も、まさにここへ克明に収められております。貴方は生涯、縁壱の持つ圧倒的な強さばかりに目を奪われ、羨望と悍ましき嫉妬を抱いてこられました。
ですが、縁壱の魂が刻まれたこの記憶の断片と正面から向き合ったなら……果たして貴方の考えがどのように変わるのか、実に興味深いところですね」
穏やかに微笑む菩薩の顔をただ茫然と見つめていた厳勝は、やがてずっしりと重い水晶を両手で受け止め、問いかけた。
「この器は、どのようにすれば動くのだ」
「心の中で『始まり』と呟いた瞬間、縁壱の物語がようやく幕を開けることでしょう」
菩薩の低く穏やかな案内を聞いた厳勝は、やがて水晶を強く握り締め、胸の最深部から言葉を紡ぎ出した。
(始まりだ)
呪文が下るや否や、透明であった水晶の中心から、青き光の温和な火炎が立ち上った。
しかしこの炎は、魂を灼いていた地獄のそれとは異なり、苦痛を与える代わりに包み込むかのように優しく厳勝を惹きつけ始めた。
その神秘的な導きに完全に精神を委ねて身を任せた厳勝は、ついに生涯にわたり覆い隠されていた弟の真実の人生の中へと、深く、水底をたゆたうように沈み込んでいった。
.
,
.
.
その内へと吸い込まれた厳勝の目の前に、もう一つの世界が広がった。それはすなわち、前世の縁壱の視点から世界を見つめる、奇妙にして胸の締め付けられるような光景であった。
縁壱は生まれた時から先天的につねに「透き通る世界」を見ており、額には「痣」を、剣を握れば剣鳴を響かせる「赫刀」までも発現させるなど、兄である自分を遥かに圧倒する天賦の才を抱いて生まれてきた。
しかし、その巨大な権能を手にしながらも、弟が直面した現実はどこまでも冷酷で冷たいものであった。
病魔に苦しむ母を至れり尽くせりで看病しながらも、父からはただ双子として生まれたという理由だけで「呪われた存在」と罵倒され、無残に殴り飛ばされねばならなかった。
だが、その過酷な折檻の中にあっても縁壱は黙々と耐え抜き、鞭打たれた後は、かえって引きずる足を必死に隠しながら、痛む足取りで病床の母の部屋へと向かった。
家門の跡継ぎの座を、もしや弟に奪われはせぬかと、毎瞬ごとに不安と焦燥に震えていた己の幼少期とは、あまりにも違っていた。
その暗闇の中にあっても、限りなく毅然と、大人びて対処する縁壱の幼き日々を目の当たりにしながら、厳勝は胸を締め付けられ、しばしの間、言葉を失った。
(病に苦しむ母を支えるお前を見ながら……。兄として褒め称え、励ますことすらできず、ただお前を死ぬほどに憎み、嫉妬した己自身に、酷い嫌悪感を覚えるな……)
生まれた時から地蔵菩薩の言葉通り、神々の恩寵を一身に纏って生を受けた縁壱は、わずか七歳の若さで、たった四、五合のうちに、家門の熟練の武者を一瞬にして打ち負かした。
厳勝は、血が逆流するかのようであった当時の記憶を、うつろに回想した。
(はじめから、天が授けし神の才であったのだ……。私のような者が、それを追いかけようと分をも弁えず、醜く足掻いていたに過ぎなかったのだな……)
画面が変わり、母が縁壱のために太陽神へ武運長久と安寧を祈り、丹精込めて作ってくれた華やかな耳飾りの守り札が映し出された。
かつての厳勝であれば、その睦まじい光景を見るだけで、唇から血がにじむほどの苛立ちと劣等感が湧き起こり、全身を何百本もの鋭い針で突き刺されるような苦痛を覚えたはずであった。
しかし、母の凄惨極まる闘病の有り様を今になって知った今となっては、身体の真気が枯渇し、死に瀕していた母のために、
誰よりも成熟し、健気に寄り添っていた弟が、自分よりも遥かに大きな「孝」を尽くしていたという事実を、認めざるを得なかった。
ゆえに、重苦しい胸の内には、己自身への嫌悪感と、同時に弟への愛おしさが、悲しくも共存していた。
そして縁壱の幼少期は、それから間もなくして、病のために母が早世したことで大きな転換期を迎えた。
家門を去り、僧侶となるために寺へ赴かねばならぬ状況の中で、縁壱は兄である自分を呼び、幼い日に戯れで手渡したあの不器用な木の笛を、宝物のように大切に握り締めていた。
それが、弟の持つ全財産であった。しかし、その木の笛を抱きしめたまま、幼き日の厳勝に向けて深々と一礼を捧げると、忽然と姿を消した。
後になって、父が母の遺した遺書を目にし、そこでようやく大きな後悔と自責に駆られ、縁壱を連れ戻すよう命じたが、僧侶になるはずだった寺の、そのどこを探しても弟の姿は見つからなかった
。
(一体……縁壱、我が弟よ。お前をあれほど死ぬほどに憎んだ兄の、その矮小な笛を……これほどまでに大切に抱きしめていたとは、真に嘆かわしいことだ……)
今になって悔いたところで、すでに数百年の歳月が流れた後の祭りであったが、厳勝は目元に込み上げる涙を強いて堪えようともせず、霞みゆく視界で縁壱の人生を黙々と追いかけた。
あまりにも幼い年齢で家門を完全に去り、平凡な流れ者として生きていた縁壱は、やがて「うた」という娘と出会った。
早くに親を亡くした哀れな孤児であったが、誰よりも心根が優しく、この世のすべての生命の尊さを等しく慈しむ温かい娘であった。
二人は小さなあばら家で互いの体温に寄り添い合い、睦まじく過ごしながら深く愛し合い、ささやかな婚礼の後には、ついにうたの腹の中に美しき「新しき命」をも宿すという、幸福な日々を迎えた。
厳勝は、弟が生涯を通じてただ一度、祝福の中で幸福な感情に満たされながら浮かべた、あの素朴で、大きく、澄み渡った微笑みを見た。
しかし、残酷な神は、縁壱に試練と言うにはあまりにも過酷な運命を課した。
時が流れたのか視点が変わり、厳勝は間もなくして目の当たりにする光景に、言葉を失わざるを得なかった。
陽光がすでに眩しく降り注ぐ朝の時刻であったが、四方が静寂に包まれた小さな家の中、濃い暗闇の中で縁壱が魂を奪われたかのように膝をついていた。
彼の前には、冷たく冷え切ってしまったうたと、世界の光を見ることも叶わぬまま腹の中で息絶えた子供の遺体が横たわっていた。
愛した者たちの肌は血の気が引いて冷たく、部屋の中にはいかなる生命の響きも存在しなかった。
縁壱は、遺体と呼ぶことすら躊躇われるほどに鬼の手によって無残に引き裂かれた、妻と子の凄惨な肉体を胸に抱き締めた。
凄絶に咆哮し、同じ言葉を呟くことを繰り返しながら、縁壱は実に十日もの間、その場所で一滴の水も一口の食事も口にしなかった。
彼の黒い髪は荒々しく乱れ、血の気の失せた目の下は青黒く死んでいた。
十日が過ぎると、彼はもはや涙さえ枯れ果て、何一つつぶやくこともなく、ただ愛した家族の遺体だけを茫然と見つめていた。
ただ、乾いた唇だけが微かに震えるばかりであった。
「守れなかった……大切な皆を……。誰一人として……」
胸の内に血の涙を流すほどの怒りと慟哭を呑み込んで生きていた縁壱は、全霊を復讐の狂気で満たしたまま、十日もの間その姿を見守っていた一人の鬼殺隊士の勧めを受け、ついに鬼殺隊へと入隊した。
弟の記憶を幽霊のように共有していた厳勝は、いつしか己の指先が制御できぬほどに震えていることに気づいた。酷い罪悪感と悲劇に押し潰された弟の顔を、彼はついに正面から見据えることができなかった。
(お前の妻と子が……。ああ、何故天はお前にもこれほど残酷な試練を与えたのだ。一体なぜ、彼にこれほどまで理不尽な絶望を与えねばならなかったのですか……)
厳勝が精神的に激しく揺れ動いていたその時、傍らに立っていた地蔵菩薩の低い声が静寂を破った。
「今更お話しすることですが、縁壱は、この悲劇的な出来事を鬼殺隊へと身を投じた貴方に、ただの一言も明かしませんでした」
厳勝は、それが一体どういう意味なのかとその意図を問おうと首を巡らせた。
しかし、いざ前世において弟が鬼殺隊へと入ってきた時、己に対して自身の過去の生について言葉をほとんど惜しんでいた記憶が、稲妻のように脳裏をよぎった。
記憶を呼び起こした厳勝を見つめながら、地蔵菩薩は沈んだ眼差しで問いを投げかけた。
「なぜだと思いますか?」
何か思い当たる節がありながらも、敢えて口を開くことのできぬ厳勝に向け、地蔵菩薩は低くため息を漏らして答えた。
「当時、縁壱が鬼を斬り、兄である貴方を劇的に救った時、たった一体の鬼のために、家門で精鋭として鍛え上げられた貴方の部下たちが全滅いたしましたね。
さらに貴方は当主であったにもかかわらず、鬼を相手に何一つ抵抗もできませんでした。まあ、理解はできます。
あの時代には鬼に対抗するための『呼吸法』すら定立されておらず、純粋に日輪刀がなければ鬼には決して勝てなかった、酷く不条理な時代だったのですから。
しかし、縁壱は違った風に考えました。自分がほんの一歩遅れて来てしまったがために、生き残るはずだった無辜の兵たちが皆死んでしまったという事実に、途方もない罪悪感を抱いていたのです。
『遅れて来てしまった』というこの致命的な行動は……過去、自分が留守にしていた間に大切な妻と、生まれ、幸福を享受して然るべきだった子さえも失うこととなった、元凶のような行動だったのですから。
このような苦痛の最中にあって、兄である貴方が当時手にしていた名誉ある家門と当主という高い地位、
そして縁壱の境遇から見れば、兄が婚姻し、愛する妻や子らまでもすべて捨ててその地に残したまま、ただ一振りの剣を握って鬼殺隊へと入隊したのを見た時───
縁壱は、貴方が無辜の兵を失った自責の念と復讐心から、鬼を滅ぼしにやって来たのだとばかり思い込んでいたのです。
ですから、一方では兄の参戦を心から歓迎しながらも、もう一方では、自分のように『平穏で幸福な生』を強制的に諦め、残された生涯を血生臭い
鬼殺隊士として生きようとする兄への申し訳なさで、その胸はいっぱいだったのです」
「……」
「ですが実際、貴方の考えは醜くも完全に違っておりましたね。
あの切迫した瞬間でさえも! 貴方を保護しようと、勝てぬ戦いであるにもかかわらず命を賭して最後まで主君である貴方を守ろうとした、忠義なる部下たちの命など、驚くべきことに貴方の眼中にはありませんでした!
ただ惨めに生き残ったその瞬間、幼き頃とは比べものにならぬほどに強くなった弟の圧倒的な武威を目の当たりにし……ただ『悍ましき嫉妬』と『醜悪な劣等感』に囚われていたの……ではありませんか?」
「……!」
魂を正確に射抜く、菩薩の確実な追撃とも言うべき一喝に、厳勝はただの一言も返すことができなかった。いや、反論する厳しさすら持ち得なかった。
胸が引き裂かれるほどに不快で、羞恥に塗れたものであったが、それこそが否定できぬ醜悪な真実であったからだ。厳勝はただ、血が通わぬほどに拳を強く握り締め、乾いた唇を噛み締めた。
考えてみれば、ずっと自分と共に戦場を駆け巡り、鬼を狩っていた頃の縁壱の姿は……まるで甘き菓子を口に含んだ幸福な童の笑顔のように、いつでも澄み渡り、純粋であった。
兄と共に同じ道を歩んでいるという、極めて単純で、ささやかな事実一つに心から喜んでいたのだ。
(……これほどまでに些細なことにすら、童のように幸福そうであったお前を、あろうことか兄という者は、あの虚しき強さへの執着に耐えかねて嫉妬したというのか。
ただその闇の心に蝕まれ、躊躇いもなく無惨の手を取ってしまった私という存在は、一体……)
しかし、その短くも幸福であった日々も束の間であった。痣を生まれつき持っていた縁壱は、いかなる神秘的な理由によるものかは分からぬが、ついに短命に終わることはなかった。
だが、後天的に痣を発現させた厳勝は、二十五歳を迎える前に死ぬという短命の恐怖、そして永遠に縁壱へ追いつくことは叶わぬという凄絶な恐れに囚われたあまり、
結局、最初で最後、己を高く評価して互いの利のために「提案」を持ちかけてきた無惨の手により、自ら鬼となる道を選んだ。
その後、ついに無惨と縁壱が戦場で対峙した時の記憶が再生された。縁壱は、斬首という鬼の唯一の弱点を完全に克服してみせた無惨を相手に、
刹那の瞬間のうちに、無惨が霧散させた1,800の肉片のうち、実にもぎ取った1,500を瞬く間に粉砕して見せた。
驚異というほか乗る言葉もないその光景を見つめる厳勝の感情は、地獄の歳月を経た今となっては、ただ淡々とするばかりであった。
鬼となった直後には主従の関わりを超え、誰よりも気心の知れた私的な間柄としてまみえる時には、互いにタメ口で言葉を交わしていた無惨との関係。
しかし、その欺瞞に満ちた結束は、地獄で凄惨な刑罰を受けるうちに、まるで朝を迎えれば音もなく蒸発してしまう儚き露の如く、跡形もなく消え去ってしまった後であった
。
(無惨、この脆弱で卑怯な奴め……。私という盾を作り上げた後、完全に油断しおったな。
畏れ多くも我が弟の持つ神の力を侮った代償として、お前もまた果てなき苦痛の中で惨めに這いつくばるが良い……)
結局、無惨は小さな頭を形作った恥晒しの細胞の塊と成り果て、辛うじて逃げ延びたが、一人残された縁壱には最悪の残酷な知らせが次々と舞い込んできた。
その知らせとは他でもない、実の兄である厳勝が鬼へと堕落し、鬼殺隊を裏切ったという衝撃的な真実が鬼殺隊全体へと伝わったことであった。
その上、厳勝は無惨へ己の確固たる忠誠を示すため、深い夜、鬼殺隊当主の屋敷へと堂々と侵入し、油断していた当主の首を残酷に刎ねて持ち去った。
この惨むべき大罪により、周囲の数多の柱や隊士たちの巨大な憎悪と軽蔑に満ちた視線の中で、縁壱は生涯を捧げた鬼殺隊からついに不名誉極まる追放を言い渡されてしまった
。
甚きは鬼殺隊士の中から、縁壱に対し割腹を求める過激な主張まで飛び出す状況であったが、皮肉にもその主張を黙殺したのは、
当時首を刎ねられた当主の嫡男であった。己の父が凄惨な姿で帰らぬ人となったにもかかわらず、毅然として縁壱の「功」を鑑みても割腹など到底あり得ぬと、追放という軽い罰に留めたのだ。
そうして、何一つの罪もない弟が、数年もの間身を置いていた鬼殺隊から追い出され、一人孤独に雪の降り頻る道なき道を彷徨い歩く、涙を誘う光景が映し出されると、
厳勝はまたしても胸を引き裂かれ、血の涙を流した。
(愚かな兄のせいで……お前に生涯拭えぬ酷い仕打ちをしてしまった。鬼殺隊の当主よ、どうかあの時の私を永遠に許さないでくれ。
当時の私が自行した利己的な行動は、今こうして見返しても鳥肌が立つほどに忌まわしい……)
その後、縁壱は鬼殺隊の所属ではなくなったものの、当てもなく世界を彷徨いながらも、自分と同じ悲惨な運命を他人に味わわせまいと、
己の動かせる身体の限り、鬼に屠られそうになっていた無辜の数多の生命を黙々と救い出し続けた。
厳勝はその崇高な足跡を見つめ、際限なく自責の念に駆られた。
そして歳月が流れ、「竈門」という姓がつく前の、炭を売る深い山奥のうらぶれた家門にて、
弟の偉大なる呼吸が「ヒノカミ神楽」という太陽神を讃え、家族の安寧を祈る素朴な「舞」の形で、安全に継承されるのを目撃した。
「貴方のその呼吸は、我が家が代々継承いたします! この呼吸も! この太陽神の宿る耳飾りも!」
「……ありがとう。では、行くよ」
その後、炭吉の家系が「竈門」という姓を持つ家門へと移り変わりながら、連帯と継承が成されていく様を見た厳勝の胸の内に、妙なる羨望と畏敬の念が沸き起こった。
(私自身は、己の月の呼吸が後世に途絶えることを恐れ……私を凌駕する者がこの世に存在してはならぬという大いなる傲慢に陥り、結局は鬼となった。
縁壱、お前の日の呼吸は刃ではなく舞となり、果てしなく、粘り強く世代を超えて……ついに人間たちの心の中に継承されたのだな……)
この偉大なる弟の魂の前に、限りなく凄絶な羞恥を覚えた厳勝は、縁壱の人生の掉尾であった六十年後の再会────己と凄絶に相まみえ、刃を交えた末に、
剣を握ったまま立ち往生を遂げた弟の崇高な遺骸を見つめ、ついに熱き懺悔の涙を溢れさせた。
(……すでに息が絶え、抗うこともできぬ弟の虚しき肉体を、勝てなかったという拙劣な怒りで引き裂くように難詰した己自身に……
抑えきれぬほどの嫌悪と、深い哀惜が同時に込み上げるな……)
やがて、縁壱の全生涯を収めた走馬灯のようなすべての光景が、絢爛に幕を閉じた。
瞬く間に漆黒の暗闇へと包まれた厳勝であったが、しばらくして眩い聖なる後光が大地を照らすと同時に、緩やかに意識を取り戻した。
地蔵菩薩が慈悲深き処置を施してくれたお陰であろうか、魂を蝕んでいた焦熱地獄の過酷な火炎は、完全に鎮まっていた。
そして、永遠に続くかと思われた赤き地獄の情景は、まるで脆く崩れ去る古びた繭の殻のように虚しく砕け、深い暗闇の底へと散っていった。
その崩壊しゆく世界の中心で、厳勝はついに傲慢さを完全に捨て去り、両膝をついて深く頭を垂れていた。武人ではなく、一人の哀れな兄の姿として。
「いかがですか? 弟さんの人生のすべてをご覧になった感想は」
静まり返った空気を破る地蔵菩薩の食えない問いかけに、ようやく悲しみを淡々と振り払った厳勝が、呟くように、簡潔に答えた。
「……不憫でありながらも高貴であり、いかにも私の弟らしい、そう思いました」
地蔵菩薩はしばらくの間、深みのある眼差しで彼を見つめていたが、やがてふっと低い笑い声を漏らした。
「ようやく、少しは人間らしい顔をなさるようになりましたね。もちろん、ありきたりで面白みのない感想を口にされたのは、少々残念ではありますが〜」
厳勝は菩薩の冗談混じりの窘めにも動揺することなく、胸の最深部から磨ぎ澄まされた言葉を一つずつ紡ぎ出していった。
「そして……己自身に対し、複雑な感情を抱きました。嫌悪、怒り、虚脱、執着、狂気……。あまりにも多くの感情が縺れ合い、整理をつけるのは真に容易ではない、と。
しかし結局のところ、私が醜悪な怪物に成り下がったのは、あのような弟を見て虚しき妄執に囚われた、明白なる私の過ちです。ただ……返す言葉もございません」
淡々と己の醜悪な罪を認める武人の姿を、地蔵菩薩はじっと見つめていた。やがて、哀惜と歯痒さが交錯する、舌を打つ音を響かせながら、菩薩は重々しく口を開いた。
「当然、そうでなくてはなりません。貴方とは違い、弟さんはその天賦の強さを手にしながらも、ただ一柱でも多くの弱き生命を救おうと生涯を捧げました。
そして、もし貴方が『強さ』というあの虚しき妄執さえ捨てていたならば、平穏な家庭を築き、目に入れても痛くないほどの愛おしい子孫たちに囲まれながら、無病息災を全うする運命にありました
。
貴方の弟さんのように、人間としても極めて長生きしたはずだったのです! なのに、現在の貴方の姿は一体何ですか!
分に不相応な過分なる欲のために、弟さんがあれほどまでに切望していた、罪なき『睦まじき家庭と子孫たち』を貴方自身の心と手で直に捨て去ってしまった結果───
貴方が後年、己の手で無残に屠ったあの可哀想な時透家の子供たちに至るまで、貴方の血脈は凄惨な奈落へと突き落とされてしまいましたね」
菩薩の鋭い詰問は、厳勝の胸を錐のように突き刺した。
「反面、神に匹敵する強さを持ちながらも、ただ『睦まじき家庭を築き、ささやかな幸福を全うすること』だけを求めていた縁壱氏は、その幸福をことごとく打ち砕かれた状態でした。
そのような血の涙を流す状況にあっても、彼は鬼と成り下がった兄を斬る機会があったというのに、兄への情愛が……
神の肉体を持つ者には到底似つかわしくないほどに、人間的な面が余りにも深く、濃かったがゆえに、自らの選択によって鬼と化した兄と元凶たる無惨の手で、今後数多の人間が死にゆくことを知りながらも……
その巨大な苦悩を『兄』という一人の存在のために、ついに昇華せぬまま目を閉じたのです」
限りなく己の傲慢さを削ぎ落とす菩薩の痛烈なる言霊の前に、厳勝はもはや怒る術すら忘れてしまったかのように、うつろに首を縦に振った。
「面目次第もございません……」
しかし、まだ道半ばであると言わんばかりに、地蔵菩薩は袈裟の袂からまた別の一玉の珠を取り出し、厳勝へと示してみせた。
───
【あとがき】
本来、韓国のウェブ小説サイトではこれを第1話としてプロローグを始めていたのですが……。設定が色々と追加され、オリジナルキャラクターが加わったことで、それに伴う説得力を持たせるために再度手を加え、プロローグを2つに分けて進めることになりました。
こちらのサイトでは初投稿となるのですが……少し恥ずかしいですね。
設定資料ばかりを読まされ、本編を待ってくださっていた方々には申し訳なく思っております。そして、常に感謝の気持ちを抱きながら執筆しております。職場で働きながらも、
昼休みに何か思い浮かぶエピソードなどがあれば、合間を縫ってコツコツと書き進めています。それでは、今回はこの辺で。
次の話でプロローグは終わりを迎える予定です……。いつも愛しております。皆様のすべての物事がうまくいき、常に笑顔で……いつも幸せであられることを願っております。