誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意) 作:つねお あきら
その珠は、少し前まで縁壱の記憶を収めていた小さな珠とは違っていた。巌勝の六つの眼を満たしてなお余るほど巨大で、その中では数えきれぬほどの光が互いに連なっていた。
一つの生涯が暮れると、別の生涯がその光を受け継いだ。遠くから見れば眩しかったが、近づくほど、その光の間に滲んだ血の痕跡が鮮明になっていった。
「まだ終わりではありません。今度は鬼殺隊の記憶をご覧いただきましょう。縁壱殿と同じ時代を生きた剣士たちから、
その後を継いだ数多の隊士や柱、そして産屋敷家の当主たちの生涯が、この中にあります。あなたが死んだ後も続いた戦いと、ついに無惨が滅びた日まで、すべて収められています。
方法は同じです。心の中で始まりを思い浮かべてください。ただ今回は、誰がより優れた剣を振るったかだけを見ないでください。
彼らが何を失い、それでも何を守ろうとしたのか……最後まで見届けていただきたいのです」
巌勝は答える代わりに、うつむいた。少し前、弟の人生を追体験しながら流した涙が、まだ頬に残っていた。その涙を拭おうともせず、彼は珠の前に立った。
『始まり』
その一念に応じるように、珠の表面が静かに開いた。魂を覆っていた肉体の形が力を失い、傾いていく間に、彼の意識は幾重にも重なった記憶の奥深くへ吸い込まれていった。
最初に彼を迎えたのは、刃がぶつかる音ではなかった。
薪が燃える音だった。幼い子供が眠りの中で身じろぎし、誰かがまだ冷めていない飯を器へ分けていた。戸の向こうから、帰ってきた者を呼ぶ声が聞こえた。巌勝が誰の家なのか考える間もなく、戸を開こうとしていた手が止まった。
血の匂いがした。つい先ほどまで互いの名を呼び合っていた者たちが、床に倒れていた。器が一つ、横へ転がり、敷居にぶつかった。
生き残った子供は、倒れた母を揺さぶった。自分の掌を濡らしているものが何なのか分かっていながらも、衣を掴んでいれば起き上がってくれるかのように、手を放そうとしなかった。
『お母さん! 駄目……駄目だよ! 目を開けて、お母さん!』
その泣き声が終わる前に、別の記憶が彼を覆った。今度は妻の名を呼ぶ男だった。続いて、友を背負い山道を駆ける若者だった。
背中に負った身体が次第に重くなっていくのに、彼は止まれなかった。あと少し行けば村がある、人を呼べる、まだ間に合う。そう思いながら足を前へ出し続けた。
『死ぬな。もうすぐだ。あと少し……あと少しだけ耐えてくれ!』
巌勝は口を開いたが、声は何一つ出なかった。記憶の中の若者の背は濡れていた。背中に触れていた息遣いが、ある瞬間から感じられなくなった。その事実に気づいた時の冷たさまでもが、まるで自分の身に起きたことのように押し寄せた。
彼は数百年もの間、人間を見てきた。剣を握る手がどれほど震えるか、心臓がどれほど速く脈打つか、どこを斬れば倒れるのか、誰より正確に知っていた。
だが目の前の人間が家へ帰れば誰の名を呼ぶのか、死に際して誰の名を呑み込むのかを、知ろうとはしなかった。
今、彼が体験しているのは、まさしく自分が目を背けてきた残りの人生だった。
「……うう……!」
無数の記憶が一度に染み込んできた。一人の悲しみを受け止め切る前に、次の者の絶望が胸を押し潰した。巌勝は両手で自分の襟を掴んだ。
息をする必要すらない魂の身体でありながら、喉が詰まった。逃げ場を探すように顔をそむけると、また別の者の最後の視線とぶつかった。
その視線の先には鬼がいた。時には見知らぬ怪物であり、時には彼の知る上弦だった。そしてある記憶の中では、月の紋様が刻まれた刃の向こうに、六つの眼を持つ自分の顔が見えた。
その瞬間だけは、眼を閉じたかった。
だが巌勝は閉じなかった。死にゆく人間には、自分の顔を見ないという自由さえなかった。自分が耐えるのが苦しいという理由で、彼らの最期をもう一度見捨てることはできなかった。
やがて記憶は、戦うことを決めた者たちの人生へと続いた。大切な者を葬った後も墓の傍を離れられなかった手が、刀の柄を握った。
最初は刀を持ち上げることさえ難しかった子供が、倒れては吐くことを繰り返しながら立ち上がった。怒りが消えたわけではない。その怒りだけでは目の前の一人すら救えないのだと学ぶまでには、長い時間がかかった。
『その手で斬ることばかり考えるな。お前の後ろに人がいるなら、まずどこまで下がれるかを見ろ』
ある師が、弟子の足を直した。弟子は分かったと答えたが、次の稽古でも同じ過ちをした。師はまた足先を指し示した。
一本の刀に宿っていたのは、生まれつきの才だけではなく、誰かが数えきれぬほど繰り返し伝えた教えでもあった。
縁壱から学んだ初代の剣士たちの姿が過ぎった。日の呼吸をそのまま使いこなせなかった彼らは、自らの体質と剣に合うよう、呼吸を変えていった。
ある者は構えを低くし、ある者は足を運ぶ拍子を変えた。できない動きを掴んで落ち込んだ夜にも、翌日になれば互いの剣を見ながら、また稽古を始めた。
巌勝はその顔を見覚えていた。かつて自分と同じ場所に立ち、息を整えていた仲間たちだった。とうに忘れたと思っていた声が聞こえると、彼が鬼殺隊を去った日の記憶まで蘇った。
自分は彼らの寿命を見て、終わりを数えていた。彼らは残された時間で誰を教え、何を残すかを話し合っていた。同じ死を前にしてなお、一つの目標のため、それぞれのやり方で自分たちの遺産を残そうとしていたのだ。
産屋敷家の記憶は、それよりもさらに長く続いた。病に侵された当主が、咳を抑えながら死んだ隊士の名を読み上げていた。
傍に座る幼い跡継ぎは、最初は父の言葉を書き留めているだけだったが、ある名の前で筆を止めた。数日前、自分へ頭を下げて挨拶した者の名だった。
『あの子の家族には……私が直接伝えよう』
当主はとうとう次の名へ進めなかった。しばらく目を閉じてから、ようやく曲がった背を起こした。隊士たちへ帰ってこいと告げたその口で死を伝えねばならないことが、幾代にもわたって繰り返されていた。
それでも彼らは戦いを手放さなかった。
『私たちの代で終わらせられなければ、次の代が継いでいく。私たちの身体が倒れても、無惨を滅ぼすという志まで一緒に葬られはしない。
ただ……その日が来るまで、死ぬかもしれない子供たちを一人でも多く、生きて帰せるようにしよう』
炎のように燃え上がる決意の中には、押し殺した恐れもあった。自分の子供へ同じ重荷を残さねばならない苦しみ、今夜送り出した隊士が戻らないかもしれないという不安。
彼らは、そうした心を持たぬ者たちではなかった。その心を抱えたまま、次の夜のために備えた。
季節が変わり、人々の顔も変わった。無惨が暗躍してきた長い歳月の中で、誰かの平凡な一日が終わる場所から、また別の剣士の人生が始まった。
生き残った者たちは、先に死んだ者の刀を拾い、戻れなかった者が残した記録を開いた。数行にも満たない報告が、次の者の命を救うこともあった。
だが、すべての死がすぐに価値ある成果として残ったわけではない。誰にも知らせることができないまま死んだ剣士もいれば、最後まで名を確かめられなかった亡骸もあった。
鬼が消えた後になって、崩れた家の下から見つかった者もいた。巌勝はその虚しさの前で歯を食いしばった。後の世の勝利が、その夜に届いて死にゆく者を繋ぎ止めてくれるわけではなかった。
彼は、人間だった頃に部下たちを失った夜を思い出した。呼吸も、鬼を斬る刀も持たなかった自分は、仲間たちが倒れていく姿を、ただ茫然と見ていることしかできなかった。
あの時の無力さがどれほど凄惨なものか知っていながら、鬼となった後は、同じ絶望を数えきれぬほど作り出した。
血を吐きながら刀を構える者を見て弱いと思った。死んだ仲間を抱き締める者を見て隙が多いと思った。だが、自分もかつてその場所にいたことを、最後まで忘れて生きていた。
十二鬼月、その中でも上弦という巨大な壁が現れるたび、記憶の中の戦場は崩れていった。一生をかけて鍛えた剣は届かず、命を懸けて踏み出した一歩を、鬼は笑いながら消し去った。
その前で、逃げたいと思わなかった者がどれほどいただろう。巌勝の身体を通して伝わってくる震えは、彼らの恐怖まで隠さなかった。
それでも、残る者がいた。
仲間が負傷者を背負うまで刀を放さず、民間人が路地の果てへ消えたことを確かめてから、ようやく後ろへ退いた。倒れた者を引きずり出す隙を作るため、再び駆け込む者もいた。
巌勝なら勝ち目がないと見切ったであろう瞬間に、彼らは斬れる敵の首ではなく、生きて逃がせる人の数を数えていた。
指の折れた剣士は、残った手で刀の柄を握った。到底立ち上がれない隊士は、自らの身体を引きずって道を空けた。後から来る者が転ばぬよう、最後の力で散らばった木片を押しのける手まで見えた。
その小さな仕草に、巌勝の涙が溢れた。自分が追い求めた極意とはあまりにも遠く、一度も目を向けなかった行いだった。だが、その道を踏んで進んだ誰かは生き残り、次の戦いへ立った。
遥かな歳月が流れた後、ついに彼と直接戦った黄金世代の顔が現れた。
巌勝は彼らの剣を覚えていた。自分へ伸びてきた刃、最後まで倒れなかった執念を覚えていた。今は、その戦いへ至るまでの人生も一緒に見えていた。
誰かに守られていた幼い日々と、最後まで守れなかった人、戦場へ出る前に言い切れなかった言葉が、刀を握るそれぞれの手に重なった。
痣がもたらす短命を知った時も、彼らの心は揺れた。二十五歳という年齢は、数字で口にするより遥かに短かった。
無惨を倒した後を思い描こうとした瞬間、自分に残された時間がどれほどかを数えずにはいられなかった。それでも彼らは、目の前の戦いから刀を引かなかった。
死んでも構わない者たちだったからではない。生きてしたいことがあり、傍にもっといたい人がいた。だからこそ、同じ明日を奪われる誰かを見て見ぬふりができなかった。
その事実が、巌勝にはなおさら耐え難かった。自分が捨てたのは、ただ短い寿命ではなかった。その短い生を誰かと分かち合いながら生きる可能性だった。
永遠に剣を振るい続けたいという欲望のため、そのすべてを投げ捨てた後、他の者たちが守ろうとした明日まで奪った。
無一郎の姿が見えた時、彼は自分の手を見下ろした。血縁だと気づいてなお、止まらなかった手だった。その子は、自分が遥か昔に犯した罪と何の関わりもなかった。それなのに、その罪が生んだ刃を身体で受けねばならなかった。
玄弥が呼んでいた兄の名が耳に突き刺さった。巌勝は目の前の兄弟を見ながら縁壱を思い浮かべかけ、そしてその考えすら止めた。
彼らの死は、自分に兄弟愛を悟らせるためにあったのではない。それぞれが自分の名と人生を持つ者たちが、自分のせいでもう二度と会えなくなったのだ。
彼は両手を胸に置き、うつむいた。記憶がもたらす痛みを軽くしてくれと祈ることはなかった。死にゆく者たちが耐えねばならなかった時間と比べれば、最後まで見て記憶することさえ、自分にはあまりにも遅い行いだった。
ついに太陽が昇った。
無惨が陽光の下で絶叫しながら崩れ落ちた。最後まで他者の命を踏みにじり、逃げようとしていた身体が、一握りの灰となって散った。生き残った隊士たちは互いを抱き締めた。勝利を叫ぼうとした口から、先に死んだ仲間の名が溢れた。
笑いながら泣く者もいれば、隣に横たわる人の肩を揺する者もいた。もう終わったから目を開けてくれ、一緒に朝日を見ようと呼びかける声が続いた。その手がゆっくりと止まる瞬間まで、巌勝は見た。
任務を終えた安堵から微笑む者もいた。残される者を案じながら、最後まで言葉を続ける者もいた。あれほど待ち望んだ朝が来たというのに、すべての者が一緒に立ち上がることはできなかった。
ついに、巌勝の膝が崩れた。
目の前の姿が記憶にすぎないと分かっていた。今ここで頭を下げたところで、彼らには届かないことも知っていた。それでも立ってはいられなかった。
人間を蔑みながら数百年にわたり君臨した上弦の壱は、彼らが血で守り抜いた朝を前に、深く平伏した。
どん。
額が床に触れた。一度礼をして立ち上がることができず、もう一度頭を下げた。震える肩を支えていた指先が、力なく丸まった。
「……あなた方を尊敬する。私の剣がどれほど速かったか、どれほど長く生きたかなどでは……あなた方が守り抜いたものを、到底量ることなどできぬ。私はあれほど剣の極みを追い求めながら、肝心の、剣を取るべき理由を捨ててしまった」
喉が詰まり、それ以上言葉が続かなかった。縁壱が自分へ望んでいた兄の姿と、かつて自ら夢見た侍の姿が、今さら重なった。あれほど遠くへ求めていたものが、力のない誰かの前に立つことから始まるのだと、彼はすべてを失ってからようやく目にした。
巌勝は長い間、立ち上がれなかった。自分を哀れんでくれという泣き声も、今さら許してくれという願いも出なかった。遅すぎるほど遅れて向き合った人々の人生が胸を満たし、その名をすべて呼ぶこともできぬまま、ただ慟哭した。
珠の中の朝が、ゆっくりと遠ざかっていった。だが、その朝を見ることができなかった顔は、光が消えた後も彼の記憶から消えなかった。
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珠の光が静まった時、巌勝はまだ膝をついていた。少し前まで聞こえていた泣き声が止むと、地獄の静寂がかえって不慣れに感じられた。
彼は遅れて手を開いてみた。記憶の中で掴もうとしていた人は、誰一人その手に残っていなかった。
地蔵菩薩は急いで声をかけなかった。男が顔を上げられるほどの時間を待ってから、静かに尋ねた。
「いかがでしたか。彼らの人生をすべて見終えた今、何がもっとも長く心に残っていますか?」
「……自分たちの代では終えられない戦いだと分かっていながら、次の者へ刀を渡していた、その手が残っています」
巌勝の声は、慟哭の余韻で荒く掠れていた。彼はゆっくり息を整えてから、言葉を続けた。
「彼らの中には、弟や私ほど強くない者が大勢いました。一人では鬼一体すら斬れない者もいたでしょう。
前世の私は、それを見ただけで、その人の価値をすべて知ったつもりになっていました。ですが彼らが互いを生かし、後に続く者を育てている間、私は自分の剣しか見ていませんでした。
それでも最後に無惨を倒したのは、彼らでした。先に倒れた者が残した教えと、生き残った者が手放さなかった志までが重なり合い、あの朝を作ったのです。
私は長く生き残っておきながら、誰にもそのような明日を残せませんでした。苦々しく、それでいてあまりにも多くのことが悔やまれます……」
彼はしばらく唇を閉じた。一人ずつ浮かぶ顔を必死に繋ぎ止めながら、再びうつむいた。
「何と言えば、彼らにふさわしい敬意を示せるのか分かりません。尊敬すると口にしながらも、その言葉を言う口が恥ずかしいのです。
私が傷つけた者たちへ、今になって、あなた方はあれほど立派だったと語ることさえ……あまりにも遅すぎますから」
「遅かったと知るその心まで、捨てる必要はありません。ただ、その心をどこへ使うのかは、考えなければならないでしょう」
地蔵菩薩の言葉に、巌勝は顔を上げた。菩薩は彼を叱ることも、もう十分に泣いたと慰めることもしなかった。静かにその視線を受け止めながら、自らがここへ来た理由を明かした。
「あなたに弟と鬼殺隊の記憶を見せたのは、もう一度生きる機会をご提案するためでした。
その機会を望むかと尋ねる前に、まず、あなたが目を背けてきた人生を見てもらいたかったのです。
何を変えたいのかさえ分からないまま戻るのなら、同じ年月をもう一度生きたところで意味がないでしょうから」
「もう一度……生きる機会、とおっしゃいましたか?」
巌勝の眼が揺れた。炎が静まった後も、彼は次の刑罰を待っていた。対話が終われば、また炎の中へ戻るのだと思っていたため、菩薩が問う生を、自分のこれからとすぐに結びつけて考えることができなかった。
巌勝は膝の上に置いた手を見下ろした。少し前までは、その手で何をしたのかばかりを思い返していたが、今度は何をしながら生きるのかを考えなければならなかった。
指を開こうとすると、意外にも力が入らなかった。彼は少し待ってから、ゆっくりと掌を開いた。両手を開いてからようやく、菩薩をもう一度見た。なおも答えを待つ眼差しが、そこにあった。
唇を動かしかけて止まる彼へ、地蔵菩薩は問いを続けた。
「縁壱殿は並外れた力で、多くの人を救いました。あなたにも、生涯をかけて磨き上げた剣がありますね。その剣をもう一度握れるとしたら、今度は誰のために振るいますか?
もちろん、弟より多くの人を救いなさいという意味ではありません。ただ、あなたが望む生を聞きたいのです」
巌勝は長く迷わなかった。つい先ほど見た記憶が胸を押し潰していたが、その重さがあるからこそ、答えはむしろ明瞭になっていた。
「……縁壱を越えるために、他人の人生を踏みにじることは、二度といたしません。弟が私より強いという事実を、自分への侮辱だと受け取ったのは、ただ私が愚かだったからです。
機会をいただけるのなら、自分の剣で人々を救いたい。弟が救おうとした人々、私が見捨てた人々……目の前で手を伸ばす者を、今度は通り過ぎません。
縁壱と同じ剣を握れないからといって、私の剣まで何の役にも立たぬわけではなかったのに、その事実を認めるまで、あまりにも長い歳月を費やしてしまいました」
彼の声に、少しずつ力が戻ってきた。失われた生を振り返っていた男が、まだ訪れていない時間へ向かい、初めて言葉を投げかけていた。
「弟を、またあれほど孤独に生きさせたくありません。妻と子を失ってなお、誰を恨むこともできぬまま生きていたあの子の傍へ……今度は兄として残りたいのです。
縁壱の人生を、私が代わりに決めようというのではありません。せめて、あの子が大切にするものを、私も一緒に守りたいという意味です。
私自身の道も探したい。強さを得るためにすべてを捨てる覇道の果てには、何一つ残りませんでした。
どれほど遥かで険しいとしても、その強さで誰かを守り抜く王道を歩みたい。私が月の呼吸を生み出した時間まで、すべて無駄に終わらせたくはありません」
地蔵菩薩は、彼の言葉を最後まで聞いた。巌勝がその視線の前で再びきちんと膝を揃えると、菩薩の口元に淡い微笑みが広がった。
「それならば、機会を差し上げましょう。あなたが語ったその人生を、過去へ戻り、自ら生きてみてください」
「ですが……私の刑罰は、まだ終わっていないはずです。あれほど多くの人を殺した私が、ここを離れてもよいのでしょうか?」
その問いに、地蔵菩薩は一度まばたきをした。それから、大切な話を抜かしていたことに気づいたかのように、軽く額へ手を当てた。
「これは、先にその話をすべきでしたね。順番を間違えてしまいました。あなたを焼いていた炎が消えたのは、焦熱地獄で受けるべき刑罰を、すでにすべて終えたからです」
「……すべて、終えたと?」
「はい。五京三千兆年。あなたに下された、あの長い刑期を最後まで満たされました。私が話をするため、一時的に炎を止めたわけではありません。あなたはもう、あの炎へ戻る必要はないのです」
巌勝は、自分の周囲の地面を見下ろした。冷えた地面へ置いた指先が微かに震えた。どれほど長くこの瞬間を待ったのかさえ数えきれないのに、いざ終わったと聞くと、何も言葉が出てこなかった。
地蔵菩薩はその手を見下ろしながら、説明を続けた。
「本来なら、残る悪業を浄めるため、さらにいくつもの生を経なければならなかったでしょう。人ならぬ生命として生まれ、生きる時間もあったはずです。
ですが、あなたが珠の中の記憶と向き合い、懺悔している間に、その最後の残滓は私の権能で浄化しました。
その部分の責任は私が負います。閻魔大王から少々お小言をいただくでしょうが……それは、私たちの間で話すことです」
軽く添えられた冗談にも、巌勝は笑えなかった。炎が消えたという事実と、自分が犯したことまで終わったという思いは、簡単には結びつかなかった。苦痛が止んでも、記憶の中の顔はそのまま残っていた。
「私がもう一度人として生まれられるとしても……彼らへしたことが消えるわけでは、ありませんよね」
「その通りです。刑罰を終えたことと、誰かから赦されたことは、同じ意味ではありません。ですが、あなたに残された人生を、どう使うのかと問うことはできるでしょう。
普通に転生する道も開かれていますし、私が提案した回帰の道もあります。あなたが望むものを選んでください」
巌勝はそこでようやく、深く身を伏せた。少し前、記憶の中の人々へ捧げた礼とは違った。今度は自分を待ってくれている存在へ、まだ選べる道が残っているという事実に、頭を下げた。
「……ありがとうございます。私のような者へ、もう一度何をするのかと問うてくださった、それだけでも、身に余る恩です」
彼はなお、六つの眼を持つ鬼の姿をしていた。だが、その周囲を包んでいた凶暴な気配は静まり、長く忘れていた武人の清廉な気迫が現れていた。
罪業が浄められても、記憶まで消えたわけではない。巌勝はその記憶を抱えたまま、ゆっくりと背を伸ばした。
「では、お戻りになる道について説明しましょう。心を強く持つだけで、すべての危険を越えられるわけではありませんから、私もいくつかの備えを用意しました」
地蔵菩薩が一歩近づいた。どのような備えなのか問い返す間もなく、菩薩の指が巌勝の額の中央へ伸びた。
ずぶり。
指先が額を貫いた。巌勝の肩が反射的に強張ったが、痛みはなかった。裂けた肉も、流れる血もない。光が魂の奥深くへ染み込み、彼がまだ知らぬ何かを変えていた。
「……これは?」
「少しだけお待ちください。あなたを傷つけようとしているわけではありませんから、力を抜いていただいて構いません」
その言葉に、巌勝は握り締めていた手を開いた。内側から感じる見慣れぬ温もりを確かめながら、静かに待った。地蔵菩薩は指を抜くと、彼の額を一度軽く指で触れた。貫かれていた場所には、痕跡すら残っていなかった。
「まず、回帰丸について知っておいていただくことがあります。その薬を呑めば、あなたは今持っている記憶をそのまま保ったまま、七歳の身体へ戻ります。
新しい両親のもとへ生まれ直すのではありません。継国巌勝として生きていた、幼い頃の人生から、もう一度始めるのです」
七歳。
巌勝は、その年齢を心の中で繰り返した。最初はあまりにも幼く、遥かな数字のように感じられた。だが、あの頃の家を思い浮かべた瞬間、胸の一角が激しく脈打った。
母がいた。縁壱も、まだ家を出てはいなかった。手を伸ばせば届いたはずなのに、自ら遠ざけてしまった人々が、その時代には生きていた。
彼はすぐに答えようとして、口を閉じた。その顔を思い浮かべただけで、決断を急いではならないと思った。何を持って戻り、何をもう一度すべきなのかを、まず知る必要があった。
「お話の途中で申し訳ありませんが……記憶を保つというのが、どこまでを意味するのか、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「遠慮なくお尋ねください。先に手を加えておきながら、説明が遅れてしまいましたね」
「人として、鬼として生きる中で得た戦闘の経験、月の呼吸を磨いてきた心得も、すべて残るのですか? 痣や透き通る世界へ至った時の感覚まで……失わずに持っていけるということでしょうか?」
地蔵菩薩はすぐには答えず、彼を見つめた。巌勝には、その眼差しが何を見極めようとしているのか分かった。つい今しがた強さへの執着を捨てると語ったその口で、また力について尋ねたのだから、当然だった。
「その経験を残しておきたい理由を、聞かせていただけますか?」
巌勝は問いから逃げなかった。少しの間、自分の手を見下ろしてから、落ち着いて言葉を続けた。
「生涯をかけて得た心得が消えると思えば、惜しくないのかと問われるなら……惜しいと答えるほかありません。その剣を形にするため重ねてきた努力まで、偽りだったとは言えませんから。
ですが、その惜しさのために、また他人の命を奪おうという意味ではありません。私は、人を守ろうとして力が及ばなかった絶望も知っていますし、力を得た後に人を傷つけた傲慢も知っています。
今、その経験を持ったまま戻れるのなら、同じ愚かさを繰り返すためには使いません。今度は、救うべき人の前で剣が遅れぬよう、鍛えます」
彼はしばらく言葉を止めた。自分の答えがもっともらしく聞こえるかどうかだけを確かめたくはなかった。自分でも恐れている部分まで、隠さず告白した。
「数百年かけて身についた癖が、数言で何もかも変わったなどと断言はいたしません。ただ、何を捨て、何を残さなければならないのかは分かりました。
人を傷つけた経験まで忘れることはせず、再びその道へ戻る言い訳にもいたしません。
それでも、その力を私へ預けることはできないとお考えなら、従います。心得を失うからといって、人を守るという意思まで引っ込めることはできませんから。
初めから学び直さねばならないのなら、そういたします。私が望んでいるのは、自分の剣を取り戻して終わる人生ではありません」
巌勝は深く頭を下げた。菩薩の答えが出るまで急かすことはしなかった。きつく重ねた手の上へ、まだ乾いていない涙が一滴落ちた。
地蔵菩薩が手を上げると、柔らかな力が彼の肩を支えた。膝をついていた男が、ゆっくり身体を起こした。
「それでは、はっきり申し上げましょう。あなたが人として、鬼として生きる中で得た記憶と心得は、すべて残ります。
月の呼吸を磨き上げた悟りも、痣と透き通る世界を経験した感覚も失われません。鬼の身体で血鬼術を扱ってきた記憶も同じです。
ただし、戻る身体は七歳です。数百年にわたって鍛えた肉体まで、一緒に戻るわけではありません。その違いを忘れてはなりません。
剣をどのように振るえばよいか知っていても、その剣を受け止める筋肉と骨は、もう一度育てなければなりません。呼吸を覚えていても、幼い身体が慣れるための時間は必要です」
巌勝はその言葉を聞き、静かに頷いた。初めて剣の重さに耐えた腕、稽古を終えても開かなかった指の感覚が、かすかに蘇った。あの幼い身体にも今の力が備わっていると、錯覚してはならなかった。
「道を失い、迷いながら、最初から悟り直さなければならないわけではないのですね。記憶をもとに、身体をもう一度鍛えればよいのでしょうか?」
「その通りです。何を身につけるべきか分かっているのですから、前世より遥かに早く進めるでしょう。修練した分だけ、取り戻せる感覚も多いはずです。
ですが、知っているからといって、すでにできていると思わないでください。あなた自身の身体で身につけたものは、あなたがもっとも正確に確かめられるはずですから」
「承知しました。急いで力を取り戻すことばかり考えて身体を壊してしまえば、本当に必要な時に剣を取れなくなるでしょう。少しずつ取り戻します。その過程も、自分の務めとして受け入れます」
確かな答えを得ると、巌勝の呼吸が少しだけ軽くなった。失った剣を返してもらったという安堵よりも、戻って何から始めればよいのか、初めて明確になったことへの安堵だった。彼はすぐ、次の問いを口にした。
「では、先ほど私の額を貫かれたのは、記憶を保つためだったのですか? それとも、別の理由があるのでしょうか?」
地蔵菩薩の微笑みが、少し薄れた。巌勝はその表情の変化を見逃さなかった。まだ聞いていない条件があるのだと悟り、姿勢を正した。
「それは、あなたが後に持つことになる鬼の体質を変えるための備えです。このことを隠したまま、機会を勧めることはできません。
残念ながら、過去へ戻ったとしても、あなたが無惨の血によって鬼になるという大きな因果までは消えません」
「……また、鬼になるということですか?」
巌勝の顔色が硬くなった。つい先ほど思い浮かべた母と弟の顔に、血に濡れた自分の手が重なった。再び彼らの傍へ立てるという希望が生まれた、その瞬間、自分がもっとも恐れる運命まで一緒に戻ってきた。
地蔵菩薩は、男がその言葉を受け入れる時間を与えた。巌勝は手を開いては握ることを繰り返し、やがて低く尋ねた。
「私がまた、人間を傷つけずには生きられない人生になるのなら……人々を守るという約束と、矛盾するのではありませんか? あの血を受けた瞬間から無惨の支配へ縛られ、人を喰わなければ生きられなくなるのでしょう」
「まさに、その矛盾を防ぐため、あなたの体質へ手を加えたのです。今のあなたは前世と違い、自ら無惨へ協力しようとはしないでしょう。
むしろ、誰かを守ろうとしてあの者と対立し、最後には無理やり血を与えられる可能性が高い。その時、あなたの意志や人の心まで、あの者へ奪わせるわけにはいきません」
菩薩の言葉に、巌勝は眼を閉じた。無惨の誘いを受け入れた前世の自分が浮かんだ。死への恐れを見抜いたあの男は、必要な言葉だけを選び、差し出した。
剣術をさらに磨けるという約束の前で、自分はその後に続く代償を知りながらも、目を逸らした。
今度は同じ誘いを拒むことができる。だが、拒む意志があることと、無惨の手から誰かを守り切れる力があることは、別の問題だった。
「無惨の力は、すでによくご存じでしょう。前世の縁壱殿を除けば、呼吸と痣、透き通る世界へ至った剣士であっても、一人で正面からあの者を倒すのは極めて難しい。
あなたが長年の心得を持って戻るからといって、その差がすぐに消えるわけではありません。
まして無惨は、自分を脅かす相手と正々堂々戦うような者ではありません。縁壱殿が生きている間、徹底して身を隠していたことを、ご覧になったはずです。
勝てないと思えば逃げ、相手の隙が見えれば、もっとも卑劣な手段で突いてくる者です。あなたが強くなるだけで、すべてを防げるとは考えないでください」
「……分かっています。私が、もっとも近くで見てきた卑怯さですから」
巌勝は苦く答えた。その卑怯さを知りながら従った年月は長かった。今度は、無惨がどのような存在か知っているという事実を、後から持ち出す言い訳で終わらせたくなかった。
「では私は、鬼となった後も、人の食べ物で生きられるのですか?」
「はい。普通の飯や菜、水を受け入れられる体質へ変えました。人の血肉を喰わなければ命を保てず、強くもなれないという枷から外したのです。
食事で身体を養い、呼吸と剣術を鍛えながら、力を蓄えることができます。無惨の血があなたを鬼へ変えたとしても、その血があなたの人生すべてを支配することはできません」
その説明を前に、巌勝はしばらく言葉を失った。不老不死や新たな力より、普通の食事を口にできるという言葉が、真っ先に胸へ届いた。
誰かが用意してくれた膳の前へ座ってよいという意味だった。その隣に座る人の命を奪わなければ明日を迎えられない、そんな身体として生きずに済むという意味だった。
かすかに、飯を炊く匂いが蘇った。それを最後に嗅いだ日を思い出そうとしても、記憶は容易に続かなかった。人の食卓から離れていた年月は、それほど長かった。
「……それだけでも、感謝いたします。同じ膳に載ったものを食べ、人の声を聞いていられるのなら……再び鬼となった後も、私が守ろうとする人生から、完全に追いやられずに済むのですね」
「ただし、人を喰らい、力を増す鬼と同じ速さで成長できると思ってはいけません。あなたが選んだ道には、地道な修練が必要です。他人の命を奪って、その時間を縮めることはあってはならないでしょう」
「その時間に耐えるのが苦しいからと、また人を傷つけるのなら、戻る意味がありません。自分の身体と剣で埋めます」
その答えを聞いた地蔵菩薩は頷いた。そして、男へ許されたもう一つの力について説明した。
「倒した鬼から、力を取り込むこともできます。前世、入れ替わりの血戦の勝者が、敗者を吸収した方法を覚えていますか?
それと似た部分はありますが、あなたへ許した捕食は、相手の身体を丸ごと喰らうこととは違います。その鬼が持つ血鬼術の精髄を取り出し、自分の力として定着させるものです」
巌勝の表情が僅かに強張った。身体を喰らうわけではないと聞いても、他の鬼が人を傷つけて蓄えた力を、自分が得るという考えには、すぐ頷けなかった。
「その力がどこから来たものか知りながら……自分のものにしろ、ということなのですね」
「抵抗はあるでしょう。ですが、その力を今度は誰へ向けるのかは、あなたが決められます。人を殺していた血鬼術を奪い、人を閉じ込めていた壁を壊すこともできるでしょうし、
逃げる者を阻んでいた力で、追ってくる敵を足止めすることもできます。剣を振るうだけでは救えない瞬間が、きっと訪れるでしょうから」
地蔵菩薩は一度言葉を止め、男の眼を見た。巌勝は反論する言葉を探すより、つい先ほど珠の中で見た戦場を思い返していた。
敵を斬っても、すでに崩れた家が元へ戻るわけではなく、どれほど速い剣を持っていても、遠く離れた人々すべてへ届くことはできなかった。
「もちろん、得られる力を無闇に集めろという意味ではありません。何を受け入れるか選び、受け入れたものを身につけねばなりません。あなたの体質が耐えられる限度もあります。
他人の血鬼術を取り込んだからといって、その持ち主が積み重ねた使い方まで、自然にあなたのものになるわけではありません。
月の呼吸と、前世で磨いた血鬼術だけでも、あなたの剣は強力です。その価値を低く見ようという話ではありません。
ただ、剣士としての矜持のために、救える人を取りこぼさないでほしいのです。守るべき人が目の前にいるのなら、自分に与えられた手段を、十分に見渡してください」
「……自分が身につけた方法だけが正しいと、固執してはいけないということですね」
「はい。ただし、人を守るという名目さえあれば、どのような手段でも正当化されるという意味ではありません。何をしようとしているのかと同時に、その行いで誰が傷つくのかも見なければならないでしょう。
あなたはもう、自分の剣の完成度だけで、戦いの終わりを判断する人ではないのですから」
巌勝はゆっくりと頭を下げた。剣を完成させるため、人を捨てた自分にこそ、もっとも必要な言葉だった。過去の剣を取り戻すことと、過去の姿勢へ戻ることを、混同してはならなかった。
「肝に銘じます。私には馴染みのない力であっても、人を救うために必要なら学びます。剣を握る手の体面にこだわり、もう一方の手を伸ばすべき時を逃しはしません」
菩薩の声が、一段低くなった。
「そして、その人生は短く終わらないかもしれません。鬼となった後は、人間のように老いて死ぬことができません。無惨を探し、戦う間に数百年が流れることもあるでしょうし、
あなたが知る歴史より、さらに長い時間が必要になることもあり得ます。私は、その使命がいつ終わるのかを約束しません」
巌勝は答えを急がなかった。刑罰の歳月に耐えたのだから、どのような時間にも耐えられると、簡単に言いたくはなかった。
苦痛の中で一日を耐えることと、愛する者を失ってなお、次の日に別の誰かへ手を伸ばすことは同じではなかった。
だが、まさにその理由で戻りたかった。失うことが怖いから傍へ立たないのなら、自分はまた、自分の安寧だけを選んだことになる。
「人として穏やかに老いていきたい心がないと言えば、嘘になるでしょう。再び鬼になることも怖い。ですが、その恐れのため、今度も誰かの傍から離れたくはありません。
いつか涙を流しながら、この選択の重さを思い知る日が来たとしても……人々を守れるのなら、喜んで茨の道を歩きます。
血の臭いに満ちた修羅の道であっても、今度はその道の果てに残される人々を、先に見ます。それが、私が戻りたい理由です」
地蔵菩薩は彼の覚悟を受け止めた。だが、まだ説明していないことが残っていた。
「その道には、あなた自身が越えなければならない、大きな難関が二つあります。鬼にとってもっとも致命的な弱点が何か、ご存じですね?」
「太陽……そして、日輪刀で頸を斬られることです」
「その通りです。あなたには、斬首と太陽を克服できる可能性も開いてあります。ただし、今この場で、その弱点を消して差し上げたという意味ではありません。
その境地へ至るまでは、頸を斬られれば死に、陽光を浴びれば焼けます。その違いを、はっきり覚えておいてください」
「斬首を克服するところまでは……前世の私も、最後の瞬間に届きかけたことがあります。ただ、あの時の姿は……」
巌勝の言葉が止まった。刃へ映った醜悪な姿が蘇った。死にたくないという執着だけで無理やり繋ぎ止めた身体を見て、自分がなりたかったものは、このような怪物ではなかったと思った、あの最後だった。
地蔵菩薩は、その記憶をわざわざ嘲ることはしなかった。
「あなたがあの時、何を見たのかも知っています。今度、越えなければならないのは、肉体の弱点だけではありません。
生き残らなければならない理由と、あなたをもっとも深い場所で縛りつけている闇、その両方と向き合わねばなりません。その境目では、自分自身を欺くことは難しいでしょう」
「……その闇が何なのか、見当はつきます」
巌勝は、自分の六つの眼を持つ姿を思い浮かべた。罪業は浄められたと聞いても、黒死牟として生きた記憶は残っている。その記憶を消すことと、それを真正面から見つめて乗り越えることは違うのだと、今なら少し分かる気がした。
「一つ目の難関を完全に越えれば、斬首という死の法則から外れることができます。ですが、太陽はなお残ります。二つ目の難関まで越えて初めて、真昼にも自由に歩けるようになるのです。
そこまで完成すれば、食物や水を絶えず摂らなければ存在を維持できないという限界からも解き放たれます。鬼が生まれながらに持つ弱点を越えた、いわゆる完全生物の境地です。
無惨があれほど渇望しながら、ついに成し遂げられなかったものでもあります」
「それなら……日が昇るという理由で、誰かを救いに向かう道を止めなくてもよくなるのですね」
巌勝が真っ先に思い浮かべたのは、太陽の下で得られる権勢ではなかった。夜が終わるという理由で、引き返さねばならなかった道だった。これからその道の果てで誰かが助けを求めたなら、自分はまた、その者を残して退かなければならないかもしれない。
「その通りです。ただし、意志が強いだけで太陽を越えられるわけではありません。肉体が満たさなければならない条件と、そこへ至る順序があります。
生きたいという執着一つで無理やり押し進めても、完成させることはできません。詳しい内容は、私から直接お伝えします。戻られた後も、落ち着いて思い返してください」
地蔵菩薩が、再び手を上げた。今度は巌勝が、自ら顔を正面へ向けた。指が額を通り抜けると、言葉には移し難い知識が、順を追って彼の魂へ刻み込まれていった。
ばらばらだった条件同士が繋がり、先に整えなければならないものと、その後に可能になることが区別されて伝わった。
彼は眼を閉じた。一度に押し寄せた内容を慌てて掴もうとはせず、大切な順序から一つずつ辿った。地蔵菩薩は手を引いた後も、彼が十分に受け入れるまで待った。
条件を知っただけで、その境地を得たわけではなかった。それを成し遂げるため、実際に生きながら向き合わねばならない時間は、まだ残されていた。巌勝はその違いを胸へ刻み、眼を開いた。
「……覚えておきます。教えていただいたことを、根拠のない自信へ変えず、自分が背負うべきこととして受け止めます」
地蔵菩薩は懐から、霜が降りたように白く輝く丸薬を取り出した。小さな薬が一粒あるだけだったが、巌勝はそれを見つめても、軽々しく手を伸ばせなかった。
「これが回帰丸です。呑み込んだ瞬間、あなたの魂は炎に包まれ、過去へ向かいます。劫火とは別の炎ですから、恐れないでください。眼を開ければ、七歳の身体へ戻っているでしょう」
その言葉を聞いて、ようやく巌勝は両手を差し出した。丸薬が掌の上へ置かれた。刀の柄を握る時とは違う緊張が、指先へ宿った。
彼の前に残されていたのは、これ以上の説明ではなく、この機会を受け入れるかどうか、自分で決めることだった。
地蔵菩薩は続けて、小さな水晶玉が六つ入った袋を差し出した。巌勝が受け取ると、水晶同士が触れ合う澄んだ音が静かに響いた。
「この水晶玉の使い方も、先ほどお伝えした知識の中にあります。離れた場所にいても、互いに知らせを交わせるものです。
必要な時、一度互いの意を合わせて繋いでおけば、ずっと手で持っている必要はありません。いつか、信頼できる者たちと分けて使ってください」
巌勝は袋の口を慎重に閉じた。六つという数を確かめている間、珠の中で見た伝令や、遅れて届いた援軍の姿が思い浮かんだ。
自分の剣がどれほど速くとも、一人であらゆる場所にいることはできない。誰かへ状況を知らせ、その者の声を聞くことが、生死を分ける時もあるだろう。
「……一人で使うためにくださったものでは、ないのですね」
「誰と分けるかは、あなたが決めることです。剣を信じて預けられる人だけではなく、苦しい時にそれを隠さず話せる人も必要でしょう。知らせを届ける道具があっても、自分一人で背負うと言って口を閉ざしてしまえば、何の意味もありません」
巌勝は、水晶の入った袋を懐へ入れた。その言葉を聞いても、すぐに誰かの名を浮かべて答えることはできなかった。前世では、共に戦った者すら最後には捨てた自分だった。
もう一度信頼を得るには、何をしなければならないのか。そのこともまた、生きながら学ぶ必要があった。
地蔵菩薩が一歩退くと、巌勝は慌てるように彼を呼び止めた。
「発つ前に……最後に一つ、お願いしたいことがあります」
「まだあるのですか? 私もかなり色々と差し上げたつもりなのですが。これ以上大きな力が欲しいと言われたら、上から見ておられる方々の顔が、とても険しくなりそうですね……」
軽く笑いながら天を指していた菩薩が、言葉を止めた。巌勝が、もう一度膝をついていたからだった。丸薬を握った手を胸元へ集めると、地蔵菩薩の顔からも戯けた色が消えた。
「……お話しください」
「時透家の子供たちについてです。前世で私が捨てた家族、そしてその血を継いで生まれた子孫たち……私は彼らへ、取り返しのつかない罪を犯しました」
その言葉を口にするまでには、思っていた以上に時間がかかった。鬼殺隊を裏切ったと語った時よりも、舌が重かった。自分へ背を向ける力さえ持たなかった人々を、もっとも近い場所から捨てたことだった。
武家の発展のために決められた婚姻だった、剣への志のほうが強かったのだと、かつて彼は考えていた。家を捨てた後、その家がどう生きていったのか、知ろうともしなかった。
どれほどもっともらしい理由を並べても、残る事実は一つだった。妻と子供たちは彼を待ち、彼は帰らなかった。
「私は、彼らを置き去りにしてなお、自分の先のことばかり考えました。鬼になった後は、家族の顔すら忘れて生きました。そして遥か後の世、その家に生まれた子が私の前へ立った時……血を分けた者だと知りながら、自分の手で殺しました」
無一郎の名を口にしようとした瞬間、喉が詰まった。巌勝はさらに深く頭を下げた。最後にその子へ届いた自分の刃が、今も手の中にあるように感じ、何も握っていない手さえ地面へ置いた。
「無一郎にとって、私が先祖だという事実に、何の意味があったでしょう。守りもせず、共に生きてもいないのに……最後には、あの子を殺した鬼でしかありませんでした。
兄の有一郎も、鬼に命を奪われました。私は長い歳月を生きていたのに、あの子たちの傍へ、一度たりとも立てませんでした」
熱い涙が手の甲へ落ちた。巌勝はそれを拭わぬまま、話を続けた。
「過去へ戻ったなら、縁壱の家族を守ります。弟の妻と、これから生まれる子供が、あれほど惨たらしく死ぬことを、もう許したくありません。
その子が育ち、家族を築き、子孫が続いていくなら、私は長く残って彼らを守りたい。ですから……恐れながらも、お願い申し上げます。
無一郎や有一郎のような、あの哀れな子供たちが、今度は私の血筋ではなく、縁壱の子孫として繋がり、生まれてこられるようにしていただけないでしょうか。
自分たちを見捨て、傷つけた先祖の血ではなく……最後まで人を守り続けた、あの子の血を継がせてください」
言い終えても、彼は顔を上げることができなかった。子孫を授けてほしいと願う言葉より、自分の子孫ではなくしてほしいと願う言葉が、これほど重いとは思わなかった。だが、自分の欲のために家族を持ち、捨てた人生を、二度と繰り返したくはなかった。
地蔵菩薩は、すぐには答えなかった。男が何を手放そうとしているのか、その手放す心の中にどのような恐れが混じっているのかを見つめるように、しばらく彼を見ていた。
「あなたの子孫として生まれること自体が、その子たちの罪なのではありませんよ、巌勝殿。過ちを犯したのは先祖であるあなたであって、生まれてくる子供たちではありません。その点は、忘れないでいただきたい」
「……分かっています。あの子たちの血が汚れているという意味で申し上げたのではありません。ただ私には、その縁をもう一度、自分のものとして抱える資格があるのか、分からないのです」
男の声が小さくなった。菩薩の前でだけは、強く言い切るよう装うことのできない心だった。
「私はこれから、鬼として生きながら、人々を守ることになるのでしょう。その道の中で、また誰かへ、夫として、父として、私を待ってほしいなどと言えるでしょうか。
自分が家族を望んだという理由だけで、彼らを孤独にし、帰らぬ者を待たせることは……もう二度としたくありません。
それなら、傍に置いてくれと求めず、ただ守ります。あの子たちが私を先祖と呼ばなくても構いません。
ただ、生きて互いを呼び合い、食べるべき時に飯を食べ、夜になれば安心して眠れるのなら……私は、それで十分です」
彼が望む光景は、ささやかなものだった。だが、そのささやかな日常を自ら捨て、他人から何度も奪ったからこそ、容易には口にできなかった。巌勝は、その人生の外側に残ることになっても、今度は壊す側にはなりたくなかった。
「前世の妻と子供たちにも……私なしで生きる道があってほしいのです。あの者たちの人生が、私の選択のせいで、また閉ざされないことを願います。
私の心が軽くなるよう、あの者たちが私を赦してくれるようにしてほしいとは願いません。ただ、彼らが幸せになれるなら、その幸せの中に私がいなくても、受け入れます」
地蔵菩薩は、長く息を吐いた。この願いは、もっと長く生きたい、もっと強くなりたいという望みとは違った。だからといって、自分の幸福を何もかも捨てようとする決意が、すべて正しいわけでもなかった。菩薩は、その二つの心を同時に見ていた。
「子孫たちの縁を縁壱殿の家系へ繋ぐことは、私が天界と相談し、力を貸しましょう。あの子たちが、新しい歴史の中でも生まれてこられる道を開いておきます」
巌勝の肩が大きく震えた。そこでようやく顔を上げると、その表情には安堵と悲しみが入り混じっていた。
「……本当に、そのようにしていただけるのですか?」
「はい。ただ、生まれる縁を繋ぐことと、その人生を代わりに生きることは別です。すべての日々が平穏だと、約束することはできません。
あの子たちを守るという、あなたの言葉はこれからも必要になるでしょう。新しい歴史では、あなたの知らない困難も生まれるでしょうから」
「それでも守ります。未来のすべてを知らないからという理由で、今度も見て見ぬふりはしません」
巌勝は、額が地面へ触れるほど深く礼をした。感謝を重ねて口にするほど、かえって足りないように感じられ、しばらく何も言えなかった。地蔵菩薩は、彼が自分から身体を起こすまで待った。
やがて巌勝は丸薬を持ち上げた。小さな薬一粒を見つめる眼に、決意が宿っていた。戻れば、向き合う弟がいる。
まだ生きている母がいる。彼らの人生を変えるなどと大きなことを言う前に、今度は傍へ立たねばならなかった。
地蔵菩薩が、その手を一度止めた。
「もう一つだけ、お伝えしたいことがあります。あなたはあまりにも長く、一人で耐えることばかり考えています。これからの人生まで、何もかも孤独でなければならないと、先に決めてしまわないでください」
「私は……誰かへ、そんな人生を一緒に生きてほしいとは言えません」
「その誰かが何を望むのか、あなたはまだ聞いていないでしょう。ですから、あなたが戻る世界へ、一つの縁を繋いでおきました。あなたが歩く長い時間を、共に歩める――運命の相手、とでも申し上げておきましょう」
「相手……? それは、どういう意味ですか? 私はもう一度家庭を持つつもりはないと……」
その言葉が終わるより早く、地蔵菩薩が軽く指を弾いた。呑もうとしていた丸薬が巌勝の口の中へ入った。驚いて息を呑む間に、薬は喉を通り、温かな気が魂全体へ広がった。
「菩薩様! まだ、その話は……!」
純白の炎が足元から立ち上がった。巌勝は反射的に身を固くしたが、自分を焼き続けてきた地獄の熱は感じなかった。炎は魂を引き裂く代わりに、長い間彼を縛りつけていた場所を解いていった。
地蔵菩薩は笑いながら、最後の言葉をかけた。
「お会いになったら、ご本人へ直接尋ねてください。その縁をどのように繋いでいくのかは、あなた一人だけで決めることではありません。私は、お二人が出会う道を開いただけです。その後のことは、生きながら決めても遅くありません」
巌勝はまだ何か言おうとしたが、その声は炎の中へ散った。六つの眼に残っていた疑問と狼狽も、次第に遠ざかっていった。懐の袋を落とさぬよう両手を合わせていた姿も、光に呑まれた。
「どうか戻って、あなたが望むと言った人生を生きてください。巌勝殿」
ぼうっ――!
炎が一度大きく燃え上がり、やがて静まった。男が立っていた場所には、もう誰もいなかった。魂が消えたのではなく、彼が生きてきた時間の、遥か遠い始まりへ向かって旅立ったのだ。
地蔵菩薩は、その場所を長く見つめていた。子孫を望まないと言った言葉と、その子孫たちの幸福を願いながら震えていた声が、ともに残っていた。
自分は家族の温もりを望んではならないと考えている男が、実のところ何をもっとも切実に守りたいのかは、あまりにも明らかだった。
「いつか、その言葉をもう一度考える時が来るかもしれません。それでも、今日の決意を裏切ったのだとは思わないでください。誰かに傍へいてほしいと願うことまで、罪になるはずはありませんから」
その言葉は、すでに去った巌勝には届かなかった。菩薩は、聞こえることのない祈りを低く続けた。
「あの子も、あなたの孤独を慰めるためだけに生きる人ではありません。あの子にも、痛みと願いがあります。
どうか、互いの言葉を聞いてください。あなたが一方的に守るだけの人生から、ともに生きる人生へ進むことができればと、願っています」
海の向こうの神々と苦労して交わした約束が蘇った。十三柱の神々が、娘や孫のように大切に思う一人の少女と、一人の男の縁を繋ぐまでに、菩薩は少なくない小言を聞かされた。
その中でも、もっとも不満そうな顔で黙っていた一柱が、今まさに訪れようとしていた。
地蔵菩薩は袈裟の裾を整えた。巌勝が去ったからといって、自分の仕事がすべて終わったわけではない。彼へ機会を与えると決めた、その選択を、今度は自分が説明しなければならなかった。
.
.
.
.
ぎいいっ――。
重い鉄扉が開くような音が、静寂を裂いた。巌勝が去った場所の向こうへ、濃密な気配が降りた。地蔵菩薩は驚くことなく振り返った。
玉色の正服を整えて身にまとった閻魔大王が、闇の中から姿を現した。業鏡をかたどった冥府の杖が地面を突くと、周囲に残っていた微かな火明かりまで揺らいだ。
その視線は空になった地面へ一瞬留まり、すぐに菩薩へ向けられた。
「ついに送り出したのだな。あの男が本当に人を救うと信じておるのか、地蔵菩薩?」
「そうできる機会はあると信じています。自分が犯したことと向き合ってなお、もう一度戻ると決めた心を、私は偽りだとは思いませんでした」
「ここでは誰もが、自分は変わったと言う。炎の前で泣かぬ罪人は珍しく、もう一度機会をくれれば善く生きると願わぬ罪人も少なくはない。私は、あの者の涙だけで納得することはできぬ」
閻魔大王が杖を回すと、業鏡の表面へ淡い顔がいくつも浮かび上がった。少し前まで珠の中を過ぎていった人生の一部だった。
巌勝に命を奪われた者、その者を待ち続けたまま、ついに一生を終えた者の記録が、次々と映し出された。
「あの者が刑期を終えたことは、私も知っておる。その刑罰を定めた冥府の王が、ほかならぬ私なのだから。
だが、刑罰の終わりを認めることと、あの者へ他人の人生を再び変える力まで与えることは、別の問題だ。
この者たちは、そなたの決定を、どう受け止めればよい?」
地蔵菩薩の眼差しが業鏡へ留まった。閻魔大王は、一つの顔の前で杖の動きを止めた。生前、優れた武功を持つ者でも、広く名を知られた剣士でもなかった。その記録は、その者が死んだ夜で終わっていた。
「無一郎のような子供だけが被害者なのではない。あの者の記憶の中で、名すら霞んだ者たちもおる。これから功を立てる一人のために、この者たちが味わったことを軽くしてよいはずがない。
冥府が懺悔を見るのは確かだ。だが、死者の無念を守ることもまた、冥府の務めである」
「同意します。もし私が、彼らに代わって赦しを宣言しようとしていたのなら、閻魔大王様が止められるのが正しいでしょう」
「ならば、なおさら問おう。なぜ過去へ送った? ただ普通に転生する道を開くだけでも、あの者には十分な機会だったはずだ」
地蔵菩薩は袈裟の裾を静かに揃えた。業鏡から眼を逸らさず、答えた。
「自ら壊すことへ加担した世界へ戻り、今度は別のことができると考えたからです。すでに亡くなった方々の赦しを得るためではありません。これから訪れる死を防ぐことのできる場所へ、送り返したのです」
「まさに、その先こそが問題だ。歴史を変えれば、あの者が知る死だけが消えるわけではない。本来なら鬼と出会わなかった者が、別の道で鬼と出会い、
助けを受けるはずだった者が、変わった事情のために一人残されることもある。そなたも、その可能性を知ったうえで送り出したのであろう」
閻魔大王の声が、冷たく沈んだ。
「前世の犠牲者を救うために、今生には存在しなかった新たな犠牲者を生むこと。その危険まで抱えてなお、それを救いとだけ呼べるのか?
あの者が、本来なら生きていたはずの誰かの死を前にすることになった時、その時そなたは何と言う?」
菩薩はすぐには反論しなかった。その沈黙を、閻魔大王は軽く受け流さなかった。
「より多くの人を救えるのだからよい、と言うつもりなら、まずその言葉を引っ込めよ。冥府の秤は、命の数だけを数える算盤ではない。
一人が死ねば、その人をもう呼べなくなった家族が残る。百人救ったのだから一人くらいは仕方ないなどと、私はその者たちへ言うことはできぬ」
「私にも言えません」
地蔵菩薩が顔を上げた。その顔から、戯けた色は完全に消えていた。
「その人が本来は生きていたのか、死ぬ運命だったのかによって、死の重さが変わるとは思いません。
巌勝殿が戻ることで新たな危険が生まれたのなら、その危険もまた見過ごしてはなりません。彼が防ぐべきものは、自分の記憶にある悲劇だけに限られないのです」
「それは、すべきことを言っただけで、できるという保証ではあるまい」
「その通りです。保証ではありません。ここで私が、どの死も起こらないと言えば、閻魔大王様が真っ先に、それは偽りだと指摘されるでしょう。
ですが、何も変えない道に犠牲がないという保証もありません。むしろ私たちは、その道で誰が死に、どれほど長い夜が続くのかを、すでに見ています」
地蔵菩薩の視線が再び業鏡へ向いた。止まっていた記録の下には、異なる時代の名が続いていた。
「無惨が生きている限り、人々は死に続けます。鬼を止めるため子供たちが剣を握り、辛うじて生き残った子が、次の子を教えます。
最後には勝ったのだから、その過程もそのままにしておくほうが正しいのだと……私は、簡単には言えませんでした」
「因果へ手を加えないことが、常に正しいというわけではない。だが、手を加えられるからといって、それだけで正しくなるわけでもない」
「おっしゃる通りです。だからこそ、何を変えられるのか、誰へその機会を渡すのかを見極めなければなりませんでした。私に可能な介入が、すべて正しいわけではありません。
ただ今回は、その時代を実際に生き、自分がした選択を変えたいと願う一人の者がいました。私は、その意思を受け入れました」
地獄の王は、しばらく菩薩を睨みつけた。その怒りには、秩序を乱された不快感だけがあるのではなかった。新たに生まれる犠牲者の名も、結局は自分の前へ置かれることになる。
冥府では、生きた者が語る大きな理念よりも、一人の人間へ実際に何が起きたのかを、先に見なければならなかった。
「そなたは、無惨を早く消せば、より多くの命を救えると期待しているのであろう。だが歴史が変われば、あやつも別の動きをする。
本来消えるはずの時より長く生き残ったらどうする? 巌勝という変数を警戒し、より悪辣な手を使うようになったら?」
「その可能性もあります。無惨は黙って待ち、私たちが決めた時に死んでくれる存在ではありません。
巌勝殿一人を送り返したからといって、数百年早く終わるなどと断言はいたしません。
それほど容易な戦いであったなら、私が先ほど見せた記憶も、あれほど長くはなかったでしょう」
「ならば、そなたが期待しているものは何だ?」
「戦いが終わる日だけではありません。その日まで生きる人々です。無惨を斬るまで長い時間がかかったとしても、その間に救える命があります。
真夜中に誰かが戸を叩いた時、外へ出る者。手遅れになる前に知らせを届ける者。生きて帰った隊士を、もう一度立ち上がらせる者。そうした人々が増えれば……その時間も変わり得ます」
菩薩は、低く、はっきりと言葉を続けた。
「だから巌勝殿へ、剣だけを返したのではありません。人を喰わずとも生きられる体質を与え、他者と知らせを分かち合える物も渡しました。
自分がすべての者より強くなるだけで十分だとは、考えてほしくありませんでした。共に生きる人々を見つけ、その人々の力まで受け入れるところから、変わることは多いはずです」
閻魔大王は、業鏡に映る記録をしばらく見下ろした。一本の剣が速ければ防げた死もあった。だが、誰かが危険を知らせていれば避けられた死もあった。その違いを知らぬわけではない。
だが、可能性があるというだけで、責任が消えるわけではなかった。
「つまり、あの者には、元から知っていた人間だけでなく、変わった歴史の中で危険へ陥る者まで見よと告げたわけだな。
だがその重荷を一人へすべて背負わせて、そなたは退くつもりか? 自分が作った変化かどうかさえ分からぬ悲劇の前で、あの者が潰れたなら、それもあの者の至らなさだと言うのか?」
「私が機会を開いたという事実は残ります。その選択の責任を、すべて彼へ押しつけるつもりはありません。彼自身がしたことは彼へ問わなければなりませんが、
私が許した備えそのものが誤っていたのなら、それは私の責任です。閻魔大王様が今日ここへ来られた理由も、その責任を明らかにするためではありませんか」
地蔵菩薩は、冥府の王と向き合ったまま立っていた。閻魔大王はその態度を見定めるようにしてから、杖をゆっくり下ろした。
「その答えは覚えておこう。だが、それでもあの者へ与えた特別扱いが、過ぎたものだという考えは変わらぬ。
回帰に、すべての記憶と剣術の心得、人を喰わぬ鬼の体質、他の血鬼術まで取り込める可能性……。
その上、斬首と太陽を越える道まで。罪を犯した者へ与えるには、過分な褒美に見える」
「褒美という側面がまったくないとは申しません。もう一度生きる機会と、それを成し遂げるための手段を受け取ったのですから。ただ、それが安楽な人生を約束する褒賞なのかどうかは、彼が手放した道と合わせて見ていただきたいのです」
地蔵菩薩は、巌勝が去った場所を見つめた。
「彼は普通に転生することもできました。黒死牟だった記憶を失い、新しい両親の腕の中で育ち、別の人生を始めることもできたのです。
その人生にも苦しみはあるでしょうが、少なくとも、自分が殺した者たちの最期を毎日思い返しながら生きる必要はなかったでしょう。
ですが彼は、記憶を消してくれとは言いませんでした。人として老い、死ぬ人生を手放し、また鬼になると知りながら、戻ると言いました。
自分が殺した者たちの顔、鬼殺隊を裏切った記憶、弟へ抱いた嫉妬まで、すべて持っていきました。それらはこれから、選択によって変わっていく自分自身を見守る記憶として残るでしょう」
「その苦しみに耐えるという理由だけで、より大きな権利を得てもよいというのか?」
「苦痛が権利の根拠だという意味ではありません。その力がなぜ必要なのか、そしてその力で何をしようとしているのかが重要なのです。
人を喰わない体質は、彼が自分の約束を守れるようにするためのものですし、残した心得は、より早く人を救えるようにするためのものです。
長く苦しんだのだから、誰より強く生きてもよいという意味で与えたのではありません」
閻魔大王は指で杖の頭を一度叩いた。すぐには答え難い話が出ると、そうして考えを整える癖があった。地蔵菩薩は、その短い沈黙を急かさなかった。
「……自ら選んだ、二度目の贖罪だと見ているわけだな」
「はい。ただし、冥府からさらに刑罰を科したわけではありません。すでに払った罪の代価が足りないとして、もう一度払わせるべきではないでしょう。
彼は自分の罪を覚えたまま、今度は何をするのかを、自分で決めたのです。地獄の炎が彼を縛っていた時間と、人を守るという約束によって自ら残ろうとする時間は、別のものです」
「あの者は、その二つを区別できぬかもしれぬ。先ほども、自分には家庭も子孫も贅沢だと考えていたではないか。生きながら、自分を罰することばかりに囚われるやもしれぬ」
「その点は、私も心配しています。だからこそ、戻った先で人々と共に生きてほしいのです。自分が苦しめば苦しむほど、他の者が幸せになるわけではないということも、
生きている人々と関わる中で、学ぶ必要があるでしょう。言葉で教えるだけでは変わらない部分です」
「ならば、もう一度この者たちへ戻るとしよう」
閻魔大王が業鏡を持ち上げた。消えることのない顔が、二柱の神の間へ置かれた。
「巌勝が、いつか人々を救ったという功を掲げて、この者たちへ赦しを求めたなら、そなたはどうする? 地獄の刑罰も終え、今は功徳まで積んだのだから、自分を憎まないでくれと言ったなら?」
「赦すかどうかは、被害を受けた者の権利です。加害者が刑期を終えたという理由で、報酬のように要求できるものではありません。巌勝殿が何万もの命を救ったとしても、その功徳で、自分が殺した一人の人生を、なかったことにはできません」
地蔵菩薩は業鏡の中の顔を一つずつ見つめながら、言葉を続けた。
「無一郎が、自分を殺した先祖を赦さなければならない理由はありません。彼に頸を斬られた当主も、その後に残された家族も、笑って受け入れる義務はありません。
戻った先で変えられることが生まれたからといって、すでに起こった死の記録を覆い隠してほしいと願うつもりもありません」
閻魔大王は業鏡に映る顔を、もう一度見渡した。少し前に回帰を論じていた時も、今こうして可能性を語っている時も、記録の中の死は変わっていなかった。その事実を確かめて初めて、杖を握る手から少し力が抜けた。
「彼らが最後まで赦さなくとも、巌勝殿には目の前の人を救うことが残っています。誰にも変わったと認めてもらえない日にも、同じ選択をしなければならないでしょう」
地蔵菩薩は業鏡へ向かって丁寧に頭を下げた。閻魔大王はその礼を見届けた後、鏡をゆっくりと回した。裏側にも、まだ確かめていない名がびっしりと並んでいた。二柱の神は、その名が視界から消えるまで言葉を止めた。
閻魔大王が、杖を一度転がした。
「それでも、なぜ巌勝でなければならなかったのかという疑問は残る。人を救う意志を持つ剣士は、あの者だけではなかった。
いっそ罪のない善人へ機会を与えるほうがよかったのではないか? 同じ力を与えれば、その者たちも戦えるだろう」
「彼らへ、もう一度戦いへ行くかと尋ねることはできるでしょう。ですが、善良だからという理由だけで、いつ終わるとも知れぬ戦場へ送り返すことはできません。
すでに十分に戦い、去った者へ、今度は無惨の血まで受け、さらに長く残れと求めることが正しいのかも、考えねばなりません」
「巌勝には、そのようなことを求めてもよいというのか?」
「彼にも、断ることはできました。ただ、彼には他の者とは異なる経験があります。私は、その経験と、彼自身が何を望んでいるのかを、合わせて見ました」
地蔵菩薩は指を開き、男が生きた二つの人生を一つずつ示すように話を続けた。
「彼は人間の剣士として、呼吸と痣、透き通る世界を経験しました。他人から教わるだけでなく、月の呼吸を自ら生み出した者でもあります。
鬼になってからは、数百年にわたり上弦の壱として生き、無惨を間近で見てきました。命令を受ける者たちの恐怖、彼らが互いへどう接するか、無惨が何に怒り、何を恐れるかを、直接経験しました。
鬼殺隊の頂へ身を置いた記憶と、十二鬼月の頂へ立った記憶を、同時に持っています。どちらか一方の強さしか知らぬ者ではありません。両方の側に立ち、その間を渡る時、自分が何を捨てたのかも知っています」
閻魔大王は黙って聞いていた。男が持つ経験が稀であるという点には、異論はなかった。問題は、その経験を今度どう使うのかだった。
「無惨の傍に長くいたからといって、あやつの手の内をすべて知っているわけではあるまい」
「もちろんです。無惨が巌勝殿へ、何もかも打ち明けたはずはありません。ですから、経験が役に立つということと、すべて知っているということを混同してはなりません。
ですが、血を与える時にどんな約束をするのか、配下を生かしたまま、どう恐怖へ縛りつけるのかを知る者は、その誘惑に気づくことができます。自分がかつて屈した言葉をもう一度聞いた時、その後に何があったかを覚えているでしょうから」
地蔵菩薩は、しばらく眼を伏せた。
「彼が縁壱殿の兄であるという点もあります。弟の苦しみを、誰より近くで見ていなければならなかったのに、実際には長く目を背けた血縁です。
私は、今度こそ彼が、弟のことを誰よりよく知っていると思うのではなく、改めて知っていこうとしてほしいのです。剣の天才だったという一つの事実だけでは、その人の生涯すべてを知ることはできないと、つい先ほど学んだばかりなのですから」
「その学びが長く続くのかを、私は疑っておるのだ」
「その疑いは当然です。私も、彼が特別な経験を持つというだけで、いつも正しい選択をするとは考えていません。
ただ、自分がどこで間違えたのかを知り、その場所へ戻って、今度は別のことをすると言いました。私は、その意志へ、彼の経験を預けてみる価値があると判断しました」
閻魔大王は、巌勝が消えた地面を見た。人として生き、自ら鬼を選び、その選択によって数多の罪を重ねた後、焦熱地獄の刑期をすべて終えた魂。そのすべての条件を同時に持つ者を、もう一度見つけるのは難しい。
だが、稀であることが信じられるという意味ではなかった。むしろ、再び堕ちた時にどれほど危険な存在となるのかを思えば、冥府の王は、その機会を容易に祝福することなどできなかった。
「あの者が、また弟の才を前に劣等感を抱いたならどうする? 数百年の記憶まで持っているのに、それでも超えられぬと思い、今度はさらに大きく歪むやもしれぬ。人の欲を甘く見るな」
杖を握る手へ力が入った。
「そなたが与えた力で、また人を喰らい始めたなら、前世よりなお酷い怪物となるかもしれぬ! その時も、一度足を踏み外しただけだと言うつもりか?
天之御中主神様にも、そなたの師である釈迦様にも、その責任から逃れることはできぬぞ!」
「私も、一度懺悔したからといって、生涯二度と揺らがないとは思っていません。弟と自分を比べる癖が、ふと蘇ることもあるでしょう。長く生き、疲れた日には、すべてを投げ出したくなることもあるはずです」
地蔵菩薩は、閻魔大王の厳しい視線を、そのまま受け止めた。
「ですが、そのような心が過ぎったことと、その心を言い訳に他人を傷つけることは、分けて考えなければなりません。嫉妬を感じただけで、すでに黒死牟へ戻ったのだと裁いてしまえば、
その後に、別の選択をする余地まで消えてしまいます。大切なのは、その感情の後に、彼が実際に何をするのかでしょう」
「それでも最後には、他人を傷つけるほうを選んだなら?」
「その時に犯した罪は、そのまま残ります。私がかつて可能性を見たという理由で庇うことも、与えた機会が間違いではなかったと言い張ることもいたしません。新たに犯した罪まで、過去の刑罰で先に償ったことにはできないのですから」
閻魔大王は、しばらく言葉を失った。彼が聞きたかったのは、何もかもうまくいくという楽観ではなく、うまくいかなかった時にも、同じ基準を守れるのかという答えだった。
地蔵菩薩は、自分の指を見下ろした。つい先ほど男へ伝えた知識の痕跡は、すでに何も残っていなかった。
「そして、私が開いた二つの難関は、力が多いからといって自然に越えられるものではありません。斬首を克服するには、生き残らなければならない理由を見つけ、
自分をもっとも深い場所で縛る闇と、向き合わなければなりません。巌勝殿にとって、その闇とは何でしょう」
「……前世の自分、であろうな」
「はい。死を避けるため、自ら怪物を選んだ黒死牟です。弟への劣等感と強さへの執着、捨てた家族、傷つけた人々まで、その記憶へ絡みついています。
それを前に、自分の罪を否定したり、また同じ執着へ寄りかかろうとするなら、本当の意味で過去を越えたとは言えないでしょう」
無惨もすでに、頸という弱点を克服した存在だった。だが、巌勝が自分を押し潰す闇と向き合う方法まで、無惨と同じであるはずはなかった。
「自分が死にたくないという思いだけへ縋るのではなく、自分が生き残り、守らなければならない人を思い浮かべられるようになってほしいのです。その心を私が代わりに作ってやることはできません。巌勝殿が実際に生きる中で得なければならない理由です」
「太陽を克服することは、さらに遠いのであろうな。意志だけでどうにかなることでもあるまい」
「その通りです。肉体が満たさなければならない条件も、その条件を積み重ねる順序もあります。必要な知識を伝えたからといって、成し遂げておいたわけではありません。
自分の命を投げ出せばよいなどと考えてもいけません。生き残る意志と、自分の身体を理解すること、その両方が必要です」
閻魔大王は、すでに見た冥府の記録を思い返した。地蔵菩薩が伝えたのは、完成された不死ではなく、そこへ至ることのできる道だった。その道の苛烈さは、冥府を司る彼もよく知っていた。
「結局、成し遂げられるかどうかは、あの者が実際に生き、自ら証明せねばならぬということか」
「はい。私がいくら正しい言葉を並べても、彼に代わって、たった一度の選択すらすることはできません。どのような人間として残るのかは、彼自身が決めなければなりません。
私は、その機会を与えました。そして、私がした選択もまた、その結果と共に振り返らなければならないでしょう」
短い沈黙が流れた。閻魔大王は、そこで退くかに見えたが、かえって一段と不満そうな顔で菩薩を睨んだ。
「……よかろう。そなたの考えは分かった。だが、もう一つある。機会と力を与えるだけでは飽き足らず、海の向こうの神々を訪ねて、運命の相手まで頼んだというのは、いったい何を考えておる?」
地蔵菩薩の口元に、淡い笑みが浮かんだ。閻魔大王はその表情を見るなり、再び杖を握った。
「笑い事ではない! あの十三柱の神の中に私がおることを、そなたが知らぬはずはなかろう! あの子は、我らにとって娘であり、孫も同然の子だ。あのような男と縁を結ばせると言っておいて、私が黙って祝福するとでも思ったのか?」
「あの場では、ほかの方々がお話しになっている間、ずっと黙っておられたではありませんか。ですから私は、ほんの少しくらいは理解してくださっているのかと思っていましたが」
「他の神々が問い詰めておるところへ、私まで一緒になって声を張り上げてどうする! 黙って耐えたことを、賛成したと受け取るでない!」
菩薩はそこでようやく、小さく笑った。冥府の公平さを説いていた王の声には、心配する年長者の思いがはっきり混じっていた。
だからといって、先ほどまでの反対まで私情にすぎないと片づけることはできなかった。彼は、その両方を案じていた。
「あの子を、巌勝殿へ与えたのだとは考えないでください。私が繋いだのは、二人が出会う縁です。あの子がどのような心を抱くのか、誰の傍に残るのかは、あの子自身が決めることでしょう」
「言葉は聞こえがよい。だがそなたは、あの者が孤独だからという理由で、あの子を傍へ置こうとしたのではないのか? あの者の傷を癒やすことが、あの子の務めになってはならぬ」
「おっしゃる通りです。だから巌勝殿へも、一人で決めることではないと伝えました。自分は生涯一人で生きなければならない、という思いも、相手の心を聞いたうえで、改めて考え直す必要があります。
誰かが一緒にいたいと願っているのに、その思いを確かめようともせず遠ざけるのなら、それもまた、その人をきちんと見ているとは言えないでしょう」
地蔵菩薩の笑みが、静かに落ち着いた。
「彼は前世で、自分の欲望のために家族を捨てました。今は、その罪のために、愛も家庭もすべて禁じなければならないと考えています。
私は、あの男が自分自身を憎むことばかりへ囚われ、生きている人が差し出す手まで払いのけるようになることを、案じているのです」
「だからこそ、より慎重にならねばならぬと言っておる。あの子が手を伸ばしたからといって、あの者にそれを受け取る準備があるとは限らぬ」
「はい。二人がいつでも簡単に互いを理解できるとは思っていません。ただ、巌勝殿にも、あの子の痛みを見て手を伸ばす力はあります。
一人が果てしなく慰め続け、もう一人が救われるだけの関係を望んでいるのではありません。互いに守り、互いから学べる縁を願っているのです」
閻魔大王は、長く息を吐いた。菩薩が安直な恋情を押しつけようとしているわけではないと、すでに分かっていた。それでも、自分たちが大切に思う子の未来が、あの果てしなく長い鬼の生と結びつくかもしれないという事実が、気にかかった。
「あの子が幸せであってほしいという言葉なら、私も言う。だが、その幸せをあの男へ預けて、ただ待つつもりはない」
「誰か一人へすべてを預ける必要はありません。あの子にも、自分で道を選ぶ力があるのですから。私たちは二人の出会いを許したのであって、その後の答えまで代わりに書いたわけではないでしょう」
冥府の王は、もうすぐには反論しなかった。地蔵菩薩も、その沈黙を承諾とは呼ばなかった。まだ訪れていない二人の人生を、今この場の言葉だけですべて決めることはできなかった。
「……そなたが、どのような考えであの者を送り出したのかは分かった」
閻魔大王が、ようやく口を開いた。最初のように怒りだけで押し切る声ではなかったが、巌勝を信じるという意味でもなかった。
「機会を許す理由と、あの者がその機会を正しく使えるかどうかは、別の問題だ。そなたの理屈を聞いたからといって、私があの者へ期待を寄せることはできぬ。私はまだ、あの者を認めておらぬ」
「それなら、私と賭けをなさいませんか?」
「……賭けだと?」
閻魔大王の眉がぴくりと動いた。つい先ほどまで重い顔で責任を論じていた菩薩が、突然持ち出した提案だった。地蔵菩薩は逃げずに、その眼を見返した。
「はい。私がここでこれ以上説明しても、変わることはないでしょう。巌勝殿が、これから生きる人生を見届けるのです。
鬼となった後も人を守り、斬首と太陽という二つの難関を越え、完全生物へ至る。私は、彼がそれを成し遂げるほうへ賭けます」
「ならば私は、成し遂げられぬほうへ賭けることになるな」
「そうなります。ただし、他の人々の命を賭け金にすることはできませんから、私たち自身が責任を負えるものを賭けるべきでしょう」
閻魔大王は、菩薩の顔をじっと見た。少し笑みが戻ってはいたが、その眼差しは軽くなかった。失敗の可能性を認めたうえで機会を与えた以上、自分の判断も言葉だけで済ませるつもりはないという態度だった。
「そなたが伝えた条件は、私も見た。一時的に頸を繋ぎ直すことと、斬首を完全に越えることは違う。その先には、さらに太陽が残っておる。その道を最後まで行けと言っておいて、成功するほうへ賭けるというのか?」
「はい。難しいことを知らずに期待しているのではありません。彼自身が、その困難を背負える理由を見つけ出すと信じるのです」
冥府の王は、低く鼻で笑った。彼は、男の意志が最後まで続くと確信してはいなかった。だが、目の前の菩薩が何を賭けるつもりなのかには、興味が湧いた。
「よかろう。ならば、あの者が再び欲のために人を傷つけたなら、そなたはその失敗を冥府の前で自ら明らかにせよ。
加えて今後百年間、もっとも長く答えを待ち続けた怨魂たちの訴えを他人の手に委ねず、自ら聞き、記録するのだ。
誰を救えると判断する前に、誰の声を取りこぼしたのかを、そなた自身の時間と労力を使って、もう一度確かめよ。
その間も、他の魂を救済する仕事は続けねばならぬ。そなたが賭けに敗れたからといって、彼らを待たせるわけにはいかぬからな」
地蔵菩薩の手が、袈裟の上で止まった。単に、もっと時間を費やせという話ではなかった。自らの計らいが生んだ結果を明らかにした後も、自分を恨み得る声の前に直接座ることを求めているのだ。閻魔大王は、菩薩の顔から笑みが消えるのを見ていた。
「まだ境地へ至っていないというだけで、すぐに堕落したと決めつけるつもりはない。ただ、人を守ると語った志を捨て、授けられた力をまた欲のために使うようになったなら、その時は判断から逃げるな」
「……その責任は受け入れます。では、閻魔大王様は何をお賭けになるのですか?」
「あの者がその難関を越え、人を守る生を歩み続けたなら、私も自分の判断が浅かったと冥府の前で認めよう。そして百年間、そなたが新たな根拠とともに申し立てる再審の請願を、私自身が最後まで確かめる。
一度下した判決だからという理由だけで退けず、変わった心と、その後の行いまで聞こう。自らの判決を正すべきことがあるなら、その責任も他の者へ押しつけぬ」
地蔵菩薩はしばらく閻魔大王を見つめた。冥府の王が、自ら下した判断を改めて見直すと約束することは珍しかった。
判決を尊重せよと誰よりも口にしてきた者が、その判決へ異を唱える声を、自ら聞くと言っていた。
「再審を申し立てる根拠は、私が整えます。その魂が犯した罪と、その者から害を受けた人々の記録も、あわせて提出いたします」
「そうせねばなるまい。そなたが指名したという理由で審判を飛ばしたり、罪を消したりする約束ではない。そなたは見直すべき理由を示し、私はその理由を最後まで聞く。互いに自らの判断を振り返る覚悟があるのなら、それで十分であろう」
地蔵菩薩は、ゆっくりと頭を下げた。
「その賭け、お受けします。私が開いた道から逃げはいたしません」
閻魔大王の杖の先へ、淡い光が宿った。二柱の神が交わした約束が、冥府の記録へ残された。それが、まだ訪れていない結末を定めるわけではなかった。ただ、結末を前にした時、どちらも自分の言葉を取り消せないようにした。
ふと、閻魔大王が視線を上へ向けた。
「天界では、どこまで許しを得ておる? そなたを捕まえて問いただす者が、私一人だけとは思えぬが」
「その許しを得ずに、巌勝殿を送り出すことなどできません。三柱の方々へも、私が責任を負うことを申し上げました」
地蔵菩薩の記憶へ、回帰丸を渡す前の光景が蘇った。
彼の意志が届いた天界には、天之御中主神が座していた。その傍らには、高御産巣日神と神産巣日神がいた。三柱の神の視線のもとで、地蔵菩薩は袈裟を正し、礼を尽くした。
宇宙の根源そのものを響かせるような声が、彼へ降りた。
「地蔵よ。かつて数多の命を傷つけた者へ、再び過去へ向かう道を開くというのか。そなたが望むのは、罪人一人を救うことか、それとも地上に残る者たちを救うことか」
「その両方を見たいと思っています。ただ、巌勝一人を救うために、他の人々の人生を軽く扱ってはならないことも分かっています。だからこそ彼へ、まず自分が目を背けてきた者たちの記憶を見せました」
地蔵菩薩は頭を下げたまま、自らの考えを述べた。
「前世の歴史では、最後には無惨を滅ぼしました。ですが、その勝利へ至るまでに、あまりにも多くの人々が平凡な人生を失いました。
義ある者たちが戦いに倒れるたび、その魂を迎えるだけでは、彼らが地上へ残してきた人生を、取り戻してやることはできません。
巌勝へ、あの時代の記憶と経験を残して送り返すなら、彼が防げる悲劇があるはずです。
天界にとっての益があるとすれば、それは、より多くの魂を早くここへ迎えることではありません。その魂たちが地上で自らの生を十分に生き、その後ここへ来られるようにすることだと、私は考えています」
天之御中主神は、しばらく何も言わず菩薩を見た。その沈黙の間に、高御産巣日神が尋ねた。
「ならば、なぜそなた自身の権能で直接、悪を滅ぼさぬのかと問う者もいるであろう。一人を過去へ戻せる者が、その者へ再び戦う重荷を負わせる理由を、どう説明する?」
「私の権能で、地上のすべての結末を決めることはできません。神が未来を知るからといって、人間に代わって選び、戦い始めれば、
人間が自ら生きる場所まで狭くなるでしょう。今回、私が願うのは、あの時代に実際に存在した一人が、自分の選択をやり直す機会です。誰と共に生き、どのように戦うのかまで、私が代わりに決めるつもりはありません」
「だが、機会を開くこと自体が、すでに介入だ」
「その通りです。介入ではないなどと逃げるつもりはありません。私が開いた変化については、責任を負います。
ただ、その変化の中でも、人々それぞれの意志は残らなければなりません。巌勝へ、誰もが彼の言葉に従うような力や、望む結末を保証する約束を、与えようとしているわけではありません」
今度は、神産巣日神の視線が菩薩へ留まった。
「あの者が変えようとする人生には、他の者たちの選択も共に絡んでいる。救おうとするあまり、他人の意思を折ることもあり得る。その点をどう見る?」
「前世の悲劇を知っているという理由で、相手の意思まで分かっていると思い込むこともあるでしょう。彼には、まだそうした傲慢さが残っているはずです。だから、記憶だけを持って戻るだけでは学べないことがあります。
自分が救おうとした人が別の答えを返した時にも耳を傾けられるのか、その人が望む人生のために自らの計画を変えられるのか……生きている人と向き合いながら、学ばなければなりません」
菩薩は両手を合わせた。巌勝が抱いた決意と、まだ捨てきれていない癖をともに思い浮かべた。後者を隠したまま、許しを得ることはできなかった。
天之御中主神が、再び尋ねた。
「あの者が望んだ変化が実現しなかった時にも、そなたはその意志を守れるか。善き決意が、常に善き結果へ繋がるとは限らぬ」
「はい。彼が救えなかった者が生まれたからといって、その者の死を、必要な過程だったと説明するつもりはありません。
失敗する可能性を知って送り出したのであれば、失敗の前でも、その責任を見なければなりません。反対に、すべてを救えなかったという理由だけで、彼が守り抜いた人生まで、何の意味もなかったとは申しません」
菩薩が答え終えると、長い沈黙が流れた。天界の眼差しは、一人の男が得る力だけでなく、その男が戻ることで変わり得る、数多の人生へ向けられていた。
やがて、天之御中主神が口を開いた。
「許そう。ただし、そなたが期待する人生と、あの者が実際に生きる人生は異なるのだと忘れるな。見守るという理由で、その人生を自らの思う通りへ導こうとしてもならぬ。
あの者の選択が、そなたの期待を外れる時、そなた自身も今日語った言葉を思い出さなければならぬ」
「肝に銘じます」
地蔵菩薩は深く礼をした。その許しを得て戻ってきた時の光景が、閻魔大王の杖に残る光と重なった。回帰の道を開く前に差し出した約束へ、今、冥府で交わした約定が加わっていた。
記憶から戻った菩薩を、閻魔大王が見た。安堵の色はなかったが、天界の許しのもとで行われたことだという事実は、受け入れた。
「……あの方々へも、容易ではない約束をしたものだ」
「簡単な答えが返ってくると期待して、願ったことではありません」
閻魔大王が小さく鼻を鳴らした。地蔵菩薩は、それ以上説明しなかった。許しも約束も整ったが、男が生きなければならない時間は、まだ始まったばかりだった。
しばらくの間、二柱の神は、誰もいない地面を見つめていた。少し前まで膝をついていた男の痕跡は、何も残っていない。だが、彼が去ったことで起こる出来事を、もう誰も知らぬふりはできなかった。
閻魔大王が先に、杖を握り直した。
「覚えておけ。賭けをしたからといって、私はあの者が失敗するよう邪魔をするつもりはない。あの者が誤っていると証明するために、人々を危険へ晒したなら、今までそなたへ問うた言葉が、すべて馬鹿げたものになるからな」
「分かっています。閻魔大王様がお望みなのが、より多くの怨霊ではないということくらいは」
「だからといって、私があやつを認めたという意味ではないぞ!」
地蔵菩薩が微笑むと、閻魔大王はすぐに声を張り上げた。菩薩は頷いたが、その表情まで隠そうとはしなかった。
「はい。彼がこれからどのように生きるのかを、見てくださるという意味だと受け取っておきます」
「ふん。口では立派なことを言っておった。本当に人を救い、再び鬼となってもその志を守り、ついに二つの難関を越えるというのなら……、
その時は私も、認めるべきものは認めよう。冥府の王が、自分の予測を守るために、目の前の功を否定するわけにはいかぬからな」
「そのお言葉も、覚えておきます」
閻魔大王は、さらに何か言おうとして咳払いをした。きっぱりと背を向けようとした足が、一度止まった。
「それから……あの子のこともあるゆえ、必要な助言くらいならしてやってもよい。私が直接地上へ降り、何もかも解決してやるという意味ではないぞ。
あの者が道を見失って迷う時、我らの子までひどい目に遭うのを、ただ見ているわけにはいかぬということだ」
地蔵菩薩の口元が、また上がった。
「温かいお気遣いに、感謝いたします」
「感謝などいらぬ! あくまで、あの子のためだ。あの巌勝という男のためではない!」
言い終えた閻魔大王は、杖を地へ突いた。帰路を開く炎が、彼の足元を包んだ。まだ残る冥府の務めを思い出すように、衣の裾を整えた。
「賭けを忘れるな、菩薩。そなたにとっても、軽い約束ではあるまい」
「忘れません」
「それから、もう一つ!」
身体の半分が炎へ沈んでいた閻魔大王が、突然振り返った。地蔵菩薩は今度は何を言われるのか察しているように、黙って待った。
「あやつが、我らの子を勝手に泣かせたなら……その時は本当に、私が直々に胸倉を掴むと思え! 賭けに勝ったからといって、喜ぶつもりなど微塵もないからな!」
その言葉と同時に、閻魔大王の姿が消えた。地蔵菩薩は炎が静まった場所を見つめ、とうとう堪えきれず、低く笑った。
「ふふ……最後まで気に入らぬと仰りながら、もう誰を守るかは決めておられるのですね」
笑いが収まると、地獄は再び静まり返った。菩薩は両手を合わせた。閻魔大王が残していった懸念を思い返しながら、まだ互いの名も知らない二人の行く末を思った。
彼は、巌勝の魂が向かった、遥かな時を見つめた。
「最初は、ごく小さなことから向き合うことになるでしょうね、巌勝殿。剣を取るより前に、誰かの言葉を最後まで聞かなければならないでしょうし、謝ったからといって、すぐには信じてくれない人の前で、待たなければならないこともあるでしょう。
あなたが記憶しているその人と、今、目の前にいるその人が同じではないことも、もう一度知っていかなければならないでしょう」
菩薩は、男が最後に見せた顔を思い浮かべた。人々を守るという決意には迷いがなかったのに、誰かと共に生きる縁を語った途端、ひどく狼狽した。
長く残る覚悟はしていながら、その長い人生の中へ、自分の喜びが入る場所だけは作っていない顔だった。
「どうか、あなた自身にも、生きる理由が増えていくことを願います。守りたい人が増えるのと同じだけ、共に笑いたい人も増えていきますように。
その心を抱くことが、罪を忘れることだと恐れないでください。覚えたまま、それでも傍に残る道を見つけてほしいのです」
その言葉は、誰かへ命令として伝えられることはなかった。地蔵菩薩は、すでに去った男へさらに多くの誓いを求めることなく、静かに祈りを終えた。
やがて菩薩も、自らが司る冥府の場所へ向かって歩き出した。消えた炎と、姿を失った珠、二柱の神が去った場所には、静寂だけが残った。
五京三千兆年もの間、一つの魂を縛りつけていた刑罰の時間は終わり、彼が自ら選んだ人生は、今ようやく始まろうとしていた。
遥かな過去の人の世では、まだ誰一人、その変化を知らなかった。
幼い縁壱は、兄がどれほどの時間を越えて戻ってくるのか知らなかった。病の母もまた、自分の息子がどれほど長く自分を恋い慕ったのか、知る由もなかった。
巌勝にとっては失われた人生だった。だが彼らにとっては、今日もなお続いている一日だった。
その一日には、まだ整えられていない朝餉の膳と、眠る人を起こさぬよう抑えた足音があった。巌勝は、もう一度得る小さな手で、そうした営みの中に自分の居場所を作らなければならなかった。
海の向こうから渡ってきた家の一人の子供も、まだ彼を知らなかった。神々が苦労して結んだ縁があることさえ知らぬまま、その子にも、その子自身の一日が流れていた。
遠からず、二つの人生は触れ合うことになる。だが、互いの名を呼ぶことから先は、二人自身がしなければならなかった。
そして遥か昔の一室で、幼い子供の指先が、微かに動こうとしていた。
その手にはまだ、数百年かけて磨き上げた剣はない。鬼の力もない。だが、人として、鬼として生きたすべての記憶、果てしなく燃え続けた地獄の感覚、そして最後まで手放さないと誓った心は、ともに戻ってきていた。
継国巌勝。
彼は今、七歳の夜明けへ向かっていた。
───
【後書き】
本当に……プロローグを2回に分けて投稿するのも大変でしたが、やはり翻訳が何よりも大変ですね。神のような存在たちは、あえて一人称を「私(わたし)」に統一しました。それから、日本の説話についても少しずつ勉強しているのですが……日本の神様も本当に種類が豊富だなと実感しました。韓国のウェブ小説サイトに比べるて、どうしても翻訳に要する期間が含まれる分、こちらでの投稿は遅くならざるを得ません。翻訳のミスが生じて、お読みになる読者の皆様にご不便をおかけすることだけは……私としても耐え難いことですので。
あ、それから、後々登場する予定の、今回のエピソードにおける「彼女」の心法について、神々の何柱かを変更いたしました。属性や説明はそのままで、神としての格を上げるための変更ですので、そこまで深く気にされなくても大丈夫です!
この長く長い二次創作の物語を読んでくださるすべての読者の皆様に、心より感謝申し上げます。作品を投稿するペースとしては、どうしてもこちらは遅くなってしまう点、何卒ご了承いただけますと幸いです。今日も健康で、幸せな一日を過ごせますように。
もしコメントを残すのに気後れされている方がいらっしゃいましたら、どうぞお気軽にフィードバックでも何でも書き込んでくださいね。それでは、今回はこれにて失礼いたします。
翻訳を施した部分に不備がございましたため、再度修正したものを投稿いたしました。突如として削除してしまいましたこと、読者の皆様には深くお詫び申し上げます。今後はこのようなことがなきよう、より一層細心の注意を払って確認に努めてまいります。
【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!
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1. 削除する
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2. 残してほしい
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3. その他