誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意)   作:つねお あきら

20 / 20
第2話 回帰、嗚咽する二人の兄弟、そして母上……彼女との初の邂逅

ガバッ!

 

 

 

七歳の幼き肉体で目を覚ました継国厳勝は、跳ね起きるが早いか、己を取り巻く空気が劇的に変貌を遂げたことを肌で感じ取った。

 

 

 

それは、視界を埋め尽くしていた地獄の灼熱たる紅蓮の炎が、刹那の間に硝子の破片となって粉々に砕け散ったかのような錯覚さえ覚えさせた。

 

 

 

地獄の業火によって肉が焼け焦げるに留まらず、魂の奥底までをも焼き爆ぜるかのような、凄まじい高熱と硫黄の臭気に満ち満ちていた空間。

 

 

 

焦熱地獄という名のその場所で、己の肉と骨が焼かれ、灰となっては再び再生を繰り返す、五京三千兆年という気の遠くなるような歳月。

 

 

 

常人の、否、いかなる人間の頭脳を以てしても計測不可能と断じるほかない、人類の歴史を遥かに超越した時間。

 

 

 

天地開闢から世界の終焉に至る宇宙の歴史を論じねばならぬほど、永劫とも言える永き過酷な道程の中で舐め尽くしたあの苦痛と熱気に比べれば、

 

 

 

今、幼少期へと回帰を果たしたこの現世は、あまりにも遙遠で、美しく、そして温かかった。

 

 

 

起き上がると同時に、あまりにも久しく、そして見知らぬこの生の世界の感覚に適応するため、厳勝は幼子へと若返った己の肉体を内省し、一つずつ、眠っていた五感を呼び覚ましていった。

 

 

 

「ふううううう………………はあああああ」

 

 

 

暫しの間、己の部屋と外の世界を繋ぐ景色をその『視覚』に収めた厳勝は、童子の肉体としては久しぶりとなる、肺腑の奥深くまで押し寄せる、涼やかでいて清澄に沈殿した朝の空気を深く吸い込み、そして静かに吐き出した。

 

 

 

次いで、厳勝は『嗅覚』を呼び覚まし始めたが、己の部屋において最初に鼻腔をくすぐったその匂いに、全神経を根こそぎ奪われることとなった。

 

 

 

数百年の歳月、忘れ去っていた。しかし、魂の最奥に深く刻み込まれていた、恋しくて、恋しくてたまらなかった人間時代の香。

 

 

 

その匂いは、断じて地獄の硫黄の炎によって、鬼としてのあまりにも永き時間を焼き尽くした死肉の悪臭でもなければ、身体から噴き出す血が蒸発する特유の生臭い血臭でもなかった。

 

 

 

それは、どこか煤けながらも妙に心を落ち着かせる、静かで甘やかな香であり、芳ばしく温かな感覚を呼び起こす匂いであった。

 

 

 

その正体は、陽光をいっぱいに吸い込んで乾かされた、武家に多く用いられる特有の分厚い畳から放たれる、経年した燈心草の固有の匂いであった。

 

 

 

己の部屋を満たす、焦がれ続けた匂いを感じ取った後、厳勝は次なる『触覚』を確かめるべく、手を伸ばして己の顔と手のひらをたどるように撫で回した。

 

 

 

そうして、己の寝所に置かれていた青銅の鏡を取り出し、回帰によって若返った己の姿を凝視し始めた。

 

 

 

鏡に映し出された己の姿には、かつて肉を裂いて忌々しく生え狂っていた虚哭神去の禍々しい眼球の群れも、三対の奇怪なる眼光も、どこにも存在しなかった。

 

 

 

数百年の間、人間を斬り伏せ、貪り喰らってきた、あの奇怪に血走り、人間というよりは獣の爪を嵌め込んだかのような鬼の手では、決してなかった。

 

 

 

白く、きめ細やかで、柔らかく、そして華奢な、骨の髄さえまだ出来上がっていない、いとけなき七歳の間の肉体であった。

 

 

 

次いで、厳勝は手のひらを開いては握り、その感覚を確かめた。鬼の時代の圧倒的な腕力は消え失せていたが、代わりに己の心臓から、生きている人間特有の脈動が確かに伝わってきた。

 

 

 

血が巡り、心臓が跳ね、筋肉が微細に震える、この確かな感覚。

 

 

 

己の肉体の状態をある程度確かめ終えた厳勝は、畳の床を静かに撫でながら、地獄での出来事を頭の中で反芻し始めた。

 

 

 

地蔵菩薩の慈悲が込められた回帰の丸薬は、奇跡の如く、彼を戦国時代の到来を目前に控えた、まさに嵐の前夜とも言うべき時代へと連れ戻した。

 

 

 

正確には、継国家の残酷で、悲しく、そして悲劇に終わってしまったあの運命の種が播かれようとしていた、千四百三十四年の関東地域、東海道に位置する相模国の本家へと、違わずその身を降ろしたのである。

 

 

 

地獄にいた間は、目を閉じれば前世の黒死牟として過ごした数百年の孤独と、悍ましき敗北の記憶が鮮明に蘇ったものだが、今、目を開いて踏み締めているこの場所は、紛れもなく彼の幼少期の部屋であった。

 

 

 

未だに実感が湧かないといった面持ちで、厳勝は障子紙を透過して厳かに、かつ仄かに差し込むあまりにも平凡な日常へと戻ってきた現実を、未だに信じられずにいた。

 

 

 

「戻ったのだな……本当に、戻ってきたというのか。必ずやお前の信頼に応えてみせる……天から見守ってくれ。再度このような機会を授けてくれたお前の恩義に、必ずや報いてみせる……」

 

 

 

刹那、厳勝の胸の奥底から込み上げるように、熱い何かが突き上げてきた。

 

 

 

安堵と切なさ、そしてこの奇跡のごとき機会を授けてくれた存在───地蔵菩薩への形容しがたい畏敬と感謝が渾然一体となり、暫しの間、息の吸い方さえ忘れたかのように呆然と天井を見つめていた。

 

 

 

その時、背後の障子戸の隙間から、極めて微細な床の震動が伝わってきた。

 

 

 

前世において武の極致に達し、五百年近き深遠なる心得を宿した厳勝の感覚は、若返った肉体でありながらも、その気配の主を一瞬にして特定してみせた。

 

 

 

否、頭で特定するよりも前に、胸の奥にある魂が先に反応し、激しく揺れ動いた。

 

 

 

「……」

 

 

 

戸の隙間からじっと兄の背中を見つめていた幼き童子は、兄が己の存在に気づくのを待つかのように、わざとらしく小さく足音を立てた。

 

 

 

ギィ……トコ、トコ……

 

 

 

障子が慎重に開かれる。それは、いつも竈部屋の隅に積まれた落葉よりも気配のなかったあの童子が、兄の無関心と沈黙を妨げまいと息を潜め、出方を窺いながらようやく漏らした、か弱き気配であった。

 

 

 

己へと近づく童子を見つめていた厳勝は、まるで落雷にでも打たれたかのような表情を浮かべ、勢いよく首を巡らせた。

 

 

 

そこには、彼が全生涯を捧げて憎悪し、同時に死に果てるその瞬間まで愛し、恋焦がれた存在が佇んでいた。

 

 

 

しかし、厳勝は再会の喜びよりも先に、心臓を抉られるかのような痛悶に襲われねばならなかった。

 

 

 

継国縁壱───だが、この場所にいるのは、後年に神の寵愛を一身に受け、日の呼吸を操ったあの武神の姿ではなかった。

 

 

 

ただ、父の振るう……実の我が子に対するものとは到底信じがたい過酷な規律に縛られ、人を生かすにはあまりに陰惨な、それこそ幽鬼の出没する部屋と目される狭き処所に押し込められ、

 

 

 

己の姿と比べればあまりにみすぼらしい、古びた着物を身にまとって立っているだけであった。

 

 

 

背丈こそ己と大差ないものの、与えられた理不尽極まる過酷な家の環境と待遇のせいで、己に比してその身体は、骨が浮き出るほどに痩せこけた茨の如き弟が、ただそこに佇んでいるに過ぎなかった。

 

 

 

これでも縁壱が天下に二つとない超絶的な身体の才を持っていたからこそ耐え抜けたのであって、もし平凡な児戯の身であったなら、とうの昔に不帰の客となっていたであろう凄惨な有り様であった。

 

 

 

そのような境遇にあって、幼き縁壱の顔は、まともに直視することさえ憚られるほど、無数の傷に塗れていた。

 

 

 

暴君の如き父の無慈悲な折檻によって穿たれたに違いない、青黒い痣が目元や頬のみならず、全身の至る所に生々しく広がっており、細い肌のあちこちは裂けて血にまみれた瘡蓋が張り付いていた。

 

 

 

それにもかかわらず、縁壱は痛みに喘ぐ呻きをただの一度も漏らさなかった。

 

 

 

むしろ、痛いという愚痴ひとつ零すことなく、ただ静かに佇み、兄の顔色を窺うように見つめていた。

 

 

 

その渇いた唇とは対照的に、清らかに煌めく瞳。

 

 

 

世のあらゆる不条理をその身ひとつで受け止めながらも、ただの一抹の毒気すら孕まぬその透明な眼差しと向き合った瞬間、厳勝は己の魂が微塵に切り刻まれるかのような錯覚に陥った。

 

 

 

厳勝はズキズキと疼く額を抑え、乾いた唾を飲み込んだ。

 

 

 

(縁壱は今、僕たちの母上が病に侵されていることを、すでに知っているはずだ。そして、いつ命が尽きるかも正確に把握している……。

 

 

 

父上は相変わらず僕たちを、正確には僕を、家門のための道具と見做して、当主となるための苛烈な修練と学問を強要している。

 

 

 

そして弟には、家門の呪いという理不尽極まる迷信を盾に鞭を振るい、奉公人どもが自然と侮るよう、見せしめとして縁壱を貶めようとしていた。あの矮小で低劣極まりない罵言の数々……。

 

 

 

縁壱、前世の僕はなぜ気づかなかったのだろう。お前がこの小さな身体で、そのすべての悲しみと孤独を、たった一人で飲み込んでいたということに。

 

 

 

これからは母上にも早くから薬と食事を頻繁に摂っていただき、名医を呼んで、前世のあの日に比べて少しでも長く生きられるよう、最大限の手を尽くさねばならぬ……)

 

 

 

一方、弟をはじめ母のことに至る까지、本格的に慈しみ労わろうと深奥なる懊悩に没두する厳勝の沈黙が長引くと、縁壱の瞳に不審と懸念の光が揺らめき始めた。

 

 

 

未だに己が置かれた凄惨な状況や、痛みに疼く己の肉体の有り様よりも、ただひたすらに最愛の兄の身に障りがあるのではないかと気遣う、幼子らしからぬ成熟した佇まいを見せる弟の姿。

 

 

 

それを見つめる厳勝の胸中において、前世の記憶の中で狂おしいほどに己を縛り付け、焼き焦がした醜悪なる嫉妬と愛憎の滓に過ぎなかった浅ましき感情は、

 

 

 

弟の懸念に満ちた顔と向き合った刹那、解ける氷の如く霧散していった。

 

 

 

代わりに、五体満足な弟を目にしたいと願い続けた焦がれと、血を分けた兄弟としての無条件なる愛情、

 

 

 

そして罪なき弟と病床の母を放置せしめた罪悪感と申し訳なさという複合的な感情が心臓へと奔流となって押し寄せ、激しく鳴り響き始めた。

 

 

 

ついに、厳勝は全身から突き上げる慟哭の如き熱情に理性を奪われ、その場から弾かれたように立ち上がった。

 

 

 

そうして、あまりにも久方ぶりの回귀ゆえか、未だ馴染まぬ幼子の肉体で、歩み始めの幼児のごとく千鳥足でよろめきながら駆け寄り、

 

 

 

膝を突き、静かに兄の反応を待っていた縁壱の小さな身体を、砕けんばかりに強く抱き締めた。

 

 

 

「……?」

 

 

 

唐突なる抱擁に、兄を静かに見つめていた縁壱の身体は、困惑のあまり石の如く硬直した。

 

 

 

否、正確には縁壱の胸中において、複雑に絡み合う感情の数々が交錯している状態であった。

 

 

 

現在の兄と邂逅する以前、毎日のように父から死ぬほど鞭打たれていた時、己のために身を挺して庇ってくれた兄の姿を、縁壱は決して忘れることができなかった。

 

 

 

さらに言えば、言葉を発せぬ『推参な唖』のふりをする己の身代わりとなり、その場で苛烈な折檻をその身に受けた優しき兄は、

 

 

 

何も言わずに微笑みながら、小刀を手に取り、奉公人から譲り受けた木切れを用いて、ある道具を彫り始めたのだった。

 

 

 

ある程度の時が流れた後、己へと手渡された道具は、熟練の職人の手によるものではない、あまりにもいとけない幼子の手慰みで作られた、歪な形の笛であった。

 

 

 

己の兄は満面の笑みを浮かべ、その笛を差し出しながら、朗らかに微笑みかけたのだ。

 

 

 

『何かあったら、この笛を吹くんだ。たとえその笛が見窄らしくとも、兄である僕がお前を救うため、いかなる距離であろうと、いかなる時であろうと駆けつける……絶対に約束する!』

 

 

 

言葉の喋れぬ弟への、兄なりの惻隠の情であったのかもしれぬ。しかし、その純粋で弟を想う兄の慈愛の姿に、己は深く胸を打たれ、笛を無言のまま強く握り締めながら、無上の感謝を抱いた。

 

 

 

しかし……正確には、あの日を境にして、兄は変貌を遂げ始めてしまったのだ。

 

 

 

家門の跡継ぎとして学問に励むのみならず、武芸を修めることもまた侍の義務であったがゆえに、狂気じみた形相で手のひらを血に染めながら凄まじい修練を重ねる兄の姿を、己は見つめていた。そんな折、

 

 

 

兄を教えていた剣術指南の武士が、半ば悪戯心から己に刀の握り方と振り方を大雑把に教え、手合わせを求めてきたのだ。

 

 

 

あの日、初めて刀の握り方を学んだはずの己が、ほんの数度刀を振るっただけで、若く屈強であり、長年鍛錬を積んできたはずの武士に傷を負わせ、失神させてしまった。

 

 

 

その光景を目にして驚愕した兄が、己に向かってどうやったのだと問い詰めてきた。あの時の兄の表情は、焦燥と執念に満ち満ちており……己に温かな微笑みを向けてくれていたあの面影は、微塵も存在しなかった。

 

 

 

縁壱はそんな兄の変貌ぶりに、無意識のうちに唖のふりをすることを止め、『はい、僕には僕なりの呼吸の仕方があり、人の身体を透かして見て、それに対応したまでです』といった具合に答えてしまったのだ。

 

 

 

そうして、己は兄と家門の当主の座を懸けて競い合うような、血生臭く殺伐とした関係ではなく、どこにでもある平凡な家で、平凡な兄弟として戯れたいのだと、双六や凧揚げがしたいのだと、無頓着にも口にしてしまった。

 

 

 

しかし、そのような姿を見せてしまった後、兄はまったくの別人へと変貌を遂げ始めてしまった。

 

 

 

己のいかなる振る舞いが、いかなる言葉が、兄を刺激してしまったのだろうか。あるいは、兄の心を悪い方向へと変えさせてしまったのだろうか。

 

 

 

己が挨拶を交わしても、かつてであれば自ら歩み寄り、手を差し伸べ、頭を撫でてくれたあの優しき兄の姿は、完全に消え失せてしまったのだ。

 

 

 

むしろ、己を見つめる兄───厳勝の姿は、凄絶なまでに己を無視し、踏みにじろうと足掻く、競合者の表情そのものであった。

 

 

 

結局、縁壱はその原因を正しく把握せぬまま、他人よりも遥かに遠ざかってしまったこの関係において、己に解決できる術など何一つないことを悟った。

 

 

 

そうして、より一層己の言葉を殺し、振る舞いにおいては誰の目にも留まらぬよう隠れ、密やかに歩むことが、縁壱の習癖として固まっていった。

 

 

 

見方を変えれば、兄は常に若当主という重き軛と圧迫感に苛まれる日々の中で、あの日己が見せてしまったあの武勇のせいで、善良で優しかった兄が、

 

 

 

もしや弟である己がその気になれば、己の地位を脅かし、奪い去ろうとする競合者として誤解したのではないかという、罪悪感と申し訳なさを抱いていた縁壱であった。

 

 

 

本当は、心から市井の兄弟たちが共に戯れる姿を眺めながら、己もまた他の家々の兄弟のように、小突き合いながらも楽しく遊びたかったのが、純然たる己の本心であったというのに……。

 

 

 

そのように、常に始終一貫して厳格かつ冷徹な眼差しで弟を無視し、傍観していた兄が、突如として今は全身をあからさまに震わせ、弟の肩に顔を埋めて咽び泣いていた。

 

 

 

「すまぬ……縁壱。僕が悪かった……! うあああああああ…………っ!!!!」

 

 

 

厳勝の喉を裂いて、凄絶なる嗚咽がほとばしり出た。

 

 

 

胸の奥底に澱んでいた、前世の人間であった頃と鬼へと成り果ててからの時代に至るまで、すべての複合的かつ多様な状態の感情が集約された心の血の涙が、七歳の童子の涙となり、弟の古びた衣の肩を黒々と濡らしていった。

 

 

 

なぜ、あれほどまでに憎んだのか。なぜ、あの純粋な弟の瞳から目を背け、自ら化け物となる道を選んだのか。

 

 

 

なぜ、鬼と化した己を斬ることすらできず、憐れんでいた弟を罵倒し、ただ憎悪することだけに明け暮れたのか……。

 

 

 

弟の温かな背が指先に触れるたび、前世の凄惨なる懺悔が脳裏を烈しく殴りつけた。

 

 

 

縁壱は、兄の身体から放たれるあてどない悲哀と、魂を絞り出すかのような心からの謝罪に、多大なる衝撃を受けていた。

 

 

 

生まれてからただの一度も目にしたことのない、兄の脆くも悲しげな姿に、縁壱の眼球にも赤い血走りが浮かび、涙が溜まり始めた。

 

 

 

そうして、あの日以来閉ざされていた縁壱の口が開かれ、涙をぽろぽろと零している兄に向けて、彼なりの温かな慰めの言葉をかけた。

 

 

 

「兄上、泣かないでください。僕は平気です。本当に平気ですから……。

 

どのような事があったのかは分かりませんが……それによって生じた悲しみは、心ゆくまで僕を抱き締め、鬱憤を晴らしてくださればと思います。僕たちは、同じ日、同じ刻に生まれた双子の兄弟ではありませんか。

 

僕はどのような状況であっても、兄上の味方です。歪み、泣きたくなり、悲しむその心をどうか安んじていただき、負の感情や邪念がすべて空っぽになるまで、泣いてしまっても構いません……」

 

 

 

「……ああああああ! ああああああっ!!!! すまぬ……!

 

家門の跡継ぎという浅ましき地位に呑まれ、本当に労わるべきであったお前と母上を放置したことは、弟を庇い、病める母上を奉養すべき長男としての義務を裏切った僕の罪だ……。

 

そんな剣術が何だというのだ! そんな地位が何だというのだ! そんな権力が何だというのだ、それらに狂わされた僕自身が……実に忌々しく、恨めしくてならぬ」

 

 

 

ぽろ、ぽろ、ぽろ……。

 

 

 

絶え間なく滝の如く溢れ出る涙に暮れながらも、厳勝は必死に涙を堪えている縁壱の顔を真っ向から見据えた。

 

 

 

「いくらでも僕を罵るがいい、いくらでも僕を恨むがいい、いくらでも僕を殴るがいい……本当に……すまぬ……縁壱……うっ、うう……うあああああ!!」

 

 

 

絶え間なく繰り返される涙ながらの心からの謝罪に、縁壱もまた、その小さな両手で、己に辛辣に当たった申し訳なさと母を支えられなかった罪悪感に慟哭する、最愛の兄の背を強く抱き返した。

 

 

 

兄弟が互いの体温を余すことなく分かち合い、部屋中に響き渡るほどの泣き声───正確には、一方的に号泣する厳勝の声が、静寂に満ちていた継国の屋敷の中庭へと、細く、そして長く響き渡っていった。

 

.

 

 

.

 

 

.

 

 

.

 

どれほどの時間、そうして泣き続けていただろうか……。やがて涙が引き始めるにつれ、厳勝はハッと我に返った。

 

 

 

己が若当主としての体面も忘れ、弟の許しも得ぬまま不意に抱き締め、馴れ馴れしく振る舞ってしまったという事実に、奇妙な羞恥が押し寄せてきた。

 

 

 

厳勝は緩やかに腕を解き、己の薄紫色の羽織の袖で辛うじて涙を拭いながら、温かき眼差しで己を見つめる縁壱の瞳から目を逸らした。

 

 

 

「……すまぬ、縁壱。僕が分別のない物狂いのように騒ぎ立ててしまった。

 

その上、無道な父上によって苦しめられ、痛むお前の身体を……許しも得ず無作法に触れ、抱き締めてしまったのだから、お前が不快に思うのも無理はない」

 

 

 

前世の記憶の中で、弟の才能を羨むあまり嫉妬に狂い、常に距離を置いていた己の醜悪なる所業ゆえに、もしや弟の心を傷つけてしまったのではないかという、反射的に飛び出した兄なりの丁重な謝罪であった。

 

 

 

しかし、縁壱は静かに首を横に振った。縁壱は、人間の感情の揺らぎを透明に読み解く『透き通る世界』の眼を有していたがゆえである。

 

 

 

さらに言えば、その深度は極限と呼ぶにふさわしい第三段階に到達した極意、すなわち『無間神眼』の境界を、生まれたその瞬間から保有していたのが縁壱という存在であった。

 

 

 

それゆえに弟は、兄の謝罪の奥底に秘められた申し訳なさと、深遠なる情愛を一瞬にして見抜いていた。

 

 

 

縁壱は前世の全生涯を通じても、兄の前で己が浮かべ得る最大限の、春の陽光に咲き誇る花のように華やかで清らかな微笑を、その口元に湛えた。

 

 

 

「滅相もございません、兄上。僕は少しも不快などと思っておりません。むしろ……生涯で一度も味わったことのない、最も温かな兄弟愛を授かった心地がいたします」

 

 

 

己へと向けられた、純粋なる陽光のごとき弟の微笑みを目にし、厳勝はより一層胸が締め付けられる思いであった。

 

 

 

室町時代の過酷な風潮において、縁壱は双子の『弟』という理由だけで、不条理極まる人間以下の扱いを受けながら育った弟であった。

 

 

 

双生児───。

 

 

 

この時代において『双子』という存在は、不吉なる凶兆と見做されていた時期であった。

 

 

 

この当時、すなわち室町時代から続く戦国期にかけては、家門의 存続と家督争いの構図が、家の運命を決定づける最も重大な問題であった。

 

 

 

通常であれば当然ながら長子が家業を継ぐのが原則であったが、双生児は同時に生を受けるがゆえに、「どちらが真の兄(嫡男)であるか」を巡り、熾烈なる暗闘が勃発しやすかった。

 

 

 

その上、家臣どもが二人の童子を担ぎ上げて派閥を割り、相争うような事態になれば、最悪の場合、家門そのものが空中分解しかねなかった。

 

 

 

それゆえ武家においては、双子が生まれれば一人をなき者として扱うか、あるいは寺へと送り出して僧侶にさせるか、遠縁の養子に出して家門の枠外へと隔離することが、ありふれた習わしであった時代なのだ。

 

 

 

そうした政治的な理由を差し置いても、宗教的には『畜生腹』という、極めて悍ましき迷信がはびこっていた。

 

 

 

その内容たるや、犬や豚のごとき畜生の生を営む微物は一度に数多の仔を産み落とすが、人間は一度に一人の子を産むことこそが順理であると信じられていた。

 

 

 

したがって、人間が一度に二人以上の子を産むことは、「前世において獣であったか、あるいは獣と変わりない不浄を働いたがゆえである」という、屈辱的な烙印を押される不条理極まる時代であったのだ。

 

 

 

このために、双生児を産み落とした母親さえも家門内における立脚地を失い、あるいは追放されるという苦汁を舐めさせられるのが常であった。

 

 

 

己と縁壱の母が置かれた凄惨な状況に思いを馳せれば、厳勝は五臓六腑がねじ切れるほどの痛悶を禁じ得なかった。

 

 

 

そして、これら迷信と宗教の因習ゆえに、当時の人間は人に授けられる魂や神聖なる才、生命力というものは、ただ一人の人間に完全に集中せねばならぬと考えていた。

 

 

 

すなわち双生児とは、一つの生命力が半々に裂かれて生を受けがゆえに、不完全なまま生まれ出でた存在と見做されていたのである。

 

 

 

皮肉なことに、今は憎悪に満ち満ちているものの、前世において『鬼舞辻無惨』の傍らに侍り、その趣味であった西洋の文物や学問に僅かばかり触れていた黒死牟───

 

 

 

否、現世へと回帰を果たした厳勝の視点からすれば、そのような迷信や呪いの類いが、断じて狂気の沙汰であることなど当然のごとく理解していた。

 

 

 

薄れゆく無惨との記憶を背後に追いやり、厳勝は現在へと集中することを心に決めた。縁壱の小さな手を己の両手で包み込み、前世の業を断ち切るかのように、切なる語気で言葉を紡いだ。

 

 

 

「縁壱、僕の言葉をしっかりと胸に刻むのだ。もう二度と、この家で他人の顔色を窺う必要も、己の存在を消して息を潜めて生きる必要もない。

 

お前は天が僕に授けてくれた、ただ一人の大切な弟だ。だから僕の前では、辛いことも、嬉しいことも、悲しいことも、憎いことも、寂しいということすら……人間ならば、あまりにも多様な感情を抱いて生きてゆくものなのだ。

 

これからは……どのような感情を抱こうとも隠すことなく、すべて僕に話しなさい。

 

未だ足りず愚かな身ではあるが、これでも当主の跡継ぎという地位にあるこの兄が、すべてを受け止め、お前を守ってやるゆえ。

 

今日からは……せめて僕の前だけでも、そのような想いを表に出してほしいのだ。僕の言っている意味が分かるか?」

 

 

 

己に対し、かつて果たせなかった情愛を注ごうとする兄の口から放たれた『弟』という言葉が、縁壱の脳裏を強烈に打ち据えた。

 

 

 

これまで縁壱は、誰の目にも触れさせなかった……否、触れさせたくはなかった心の最奥に、常に深い傷を抱いて生きていたのだ。

 

 

 

己と同じく捨てられたも同然の母の傍らに常に侍り、彼なりに己を気遣ってくれていた兄の周囲を漂うことそれ自体が、

 

 

 

堂々たる若当主である兄の地位を脅かし、あるいは父を激怒させて家門に紛争を引き起こすのではないかと、戦々恐々とする日々を送ってきた。

 

 

 

そのように己を縛り付けていた罪悪感が、ある程度洗い流されてゆくのを感じた縁壱は、項垂れたまま、必死に堪えていた一滴の涙を畳の床へとぽつりと落とし、生きてきて初めて、己の孤独であった胸の内をありのままに告白した。

 

 

 

「僕は……僕が生を受けていること自体が、兄上の重荷になっているのだと思っておりました。

 

父上が常に兄上を見つめ、正しき跡継ぎと称されていた反面、僕には一瞥すら下さることはなく、むしろ鬱憤晴らしのように僕を打ち据え……母上を放置されていましたが……。

 

そのような光景を目にして育った僕は、どうやら怒りや恨みを抱くことよりも先に、諦めることを覚えてしまっていたのかもしれません。

 

そこまでは平気でした。双子という定めに順応することなど、何の苦でもありませんでしたから。

 

しかしあの日、兄上が僕のために父上の折檻を受けてくださった時、『僕』という存在が、尊敬し最愛する兄上のお邪魔になっているのではないかと……それが恐ろしくてたまらず、ただ静かに気配を殺していたのです。

 

『僕』という存在のせいで誰かが打たれ、悲しむなどということは、決して耐え難いほどの罪悪感と自責の念を抱かせるものでした。その対象が……僕の尊敬し、お慕い申し上げる兄上であるならば、尚のことでございます」

 

 

 

厳勝は静かに涙を流す弟の痛切なる告白に、きつく唇を噛み締めた。

 

 

 

これほどまでに聡明で、兄を敬い、母を常に想って気遣う童子を、前世の己は傲慢と猜疑心に目を眩まされ、死地へと追いやっていたのだ。

 

 

 

厳勝は縁壱の全身を細かく見分した。古びた着物の下から覗く手首や足首は、まるで茨の如くに痩せこけていた。

 

 

 

七歳という年齢でありながら、若当主として何不自由なく飢えを知らずに育った己に比べ、弟の肉体は途方もないほどに貧弱であり、栄養失調に苛まれていた。

 

 

 

一日に冷たく冷え固まった麦飯の塊が一つと、塩辛い大根の一片のみで長らえさせられていた、卑しき側女や下男すら下回る劣悪な食事のせいであった。

 

 

 

そのような弟の痛ましき有り様に最早耐え兼ねた厳勝の瞳に、落雷のごとき眼光がよぎった。彼は部屋の外部の回廊に向けて、声を張り上げた。

 

 

 

「外に誰かおらぬか! 直ちに僕の処所へ参れ!」

 

 

 

突如として響き渡った若当主の不平なる一喝に、中庭で雑役に追われていた奉公人どもは顔面を蒼白に染め、障子の前へと駆け寄って平伏した。

 

 

 

「は、はい! 若当主様! お呼びでございましょうか!」

 

 

 

「今、刻限はどれほどだ」

 

 

 

「巳の刻、三刻ほどにございます」

 

 

 

厳勝は彼らに向けて、若当主たる者が帯びる特有の峻烈なる気迫を以て、強く圧迫を加えた。

 

 

 

「今、酷く腹が減っている。直ちに厨房へ赴き、最も栄養があり滋養に富んだ貴重な菓子を調えよ。ただし、これを食した後に昼餉を摂るゆえ、量は控えめで構わぬ!

 

僕の弟である縁壱と共に食すゆえ、聊かでも遅滞が生じたり、膳立てに疎かさがあれば、この厳勝、決して捨て置かぬぞ!」

 

 

 

奉公人どもは、幽鬼の出没する部屋の『腑抜け』と嘲り侮っていた縁壱の名が若当主の口から紡がれたことに驚天動地したものの、

 

 

 

厳勝の背筋も凍るような怒濤の気勢に気圧され、腰を抜かさんばかりに慌てふためきながら厨房へと脱兎のごとく駆け出していった。

 

 

 

しばらくの後、継国無双の広大なる厨房にて若当主の急なる厳命により奔走し調えられた、最高級の滋養に富んだ菓子が盛られた漆器の膳を携え、厳勝付きの比較的若い小姓が恐る恐る部屋へと入ってきた。

 

 

 

膳を据え置くや否や、再び不興を買うことを恐れて額を床に擦り付け、這うような後ずさりで足早に退散してゆく小姓であった。

 

 

 

縁壱は、兄が運ばせた膳に並ぶ菓子の有り様を目にし、言葉を失っていた。

 

 

 

千四百三十年代、室町時代の中期───この時代において、それも関東に位置する相模国の由緒正しき名門武家である継国家において、若当主ほどの地位にある者にのみ許される茶請け(菓子)の格式は、

 

 

 

当世の庶民にはおよそ想像すら及ばぬほどに貴重であり、贅を尽くしたものであった。

 

 

 

一皿目は、米の粉を練り上げて炭火で香ばしく焼き上げた丸き餅に、甘く煮詰めた蜜をたっぷりと絡めた団子であった。

 

 

 

二皿目には、上層武家が茶を点てる際に添えるという『羊羹(精製した小豆を砂糖と寒天で練り固めた紅き懸物)』が、玲瓏たる紫黒の光沢を放ちながら、端正に切り分けられていた。

 

 

 

最後には、素朴な色合いながらも内には小豆の餡が隙間なく詰まった饅頭と、甘味を引き立てるのに相応しい程よい苦味を帯びた抹茶が、調和を保ちながら隙なく配されていた。

 

 

 

「縁壱、早く箸を取りなさい。すべてお前に食わせるために用意させた菓子だ」

 

 

 

厳勝は食べ物から目を逸らすことなく、自ら膳の前へと進み寄って座した。

 

 

 

次いで厳勝は、職人が檜を削り出し、紅き天然の漆を数十回にも及び塗り重ねて作り上げた最高級の漆塗りの箸を手に取り、

 

 

 

紫黒の光沢を帯びて硬く引き締まった羊羹を、一口の大きさに手慣れた様子で精巧に切り分けた。

 

 

 

すうっ──、とん──。

 

 

 

微かな艶を纏った甘美なる小豆の塊を端正につまみ上げた厳勝は、それを縁壱の口元へと優しく添えた。

 

 

 

あまりにも過分なるもてなしに、初めは拒もうとした縁壱であったが、生まれて初めて目にする芳しくも甘き菓子の香りと、

 

 

 

己に向けて限りなく慈愛に満ちた眼差しを送る兄の手つきに魂を奪われたかのように、呆然と座すばかりであった。

 

 

 

幼子の腑の中では、久しく飢えに喘いでいた臓腑が激しく蠢き、ぐう、と可憐な音を響かせた。

 

 

 

「兄上……僕がこのような貴重な菓子を、父上の許しもなく、畏れ多くも食してよろしいのでしょうか」

 

 

 

縁壱が恐る恐る兄の顔色を窺いながら問いかけると、厳勝は柔和に微笑みながら弟の肩を優しく叩いた。

 

 

 

「この家門の跡継ぎは僕だ。僕の権限でお前を食わせるのだから、この家の者が誰であろうとお前を非難することなどできぬ。ゆえに、何も案ずることなく早く口に入れなさい」

 

 

 

兄の確固たる保証を得た縁壱は、慎重に口を開き、兄が差し出した羊羹の一片を迎え入れた。

 

 

 

歯が緩やかに沈み込む、重厚でありながらも瑞々しい食感とともに、純粋にして、どこか安らぎを覚える滋味深き甘みが、久しく冷え固まった麦飯と塩辛い大根の一片のみで長らえてきた童子の、未だ未熟なる味覚を鮮烈に揺さぶった。

 

 

 

次いで、蜜を煮詰めた団子の香ばしき風味が口内を満遍なく温かに包み込むと、縁壱の透明なる双眸が丸々と見開かれた。

 

 

 

「……本当に、甘うございます、兄上。口の中が、まるで雪が解けゆくかのように温かく、優しゅうございます。僕の生涯において、これほどまでに貴重で美味しい菓子は初めてにございます」

 

 

 

縁壱はもぐもぐと愛らしく団子を噛み締め、飲み込んでは、しきりに感嘆の声を漏らした。

 

 

 

厳勝は、弟が生を受けて初めて、真っ当な食べ物を余すことなく摂取し、童子らしい幸福を享受する姿を見つめていた。

 

 

 

甘き小豆の餡をつけた弟の小さな頬を眺める、ただそれだけのことで、前世において数百年の長きにわたり己を苛み続けた、あの凄絶なる魂の飢餓と虚無感が、跡形もなく満たされてゆくような、心地よき精神的充足感が押し寄せてくるのであった。

 

 

 

二人の兄弟はその後、春の陽光が穏やかに降り注ぐ処所の中で、緩やかに菓子を分け合いながら、凍てついていた互いへの誤解と傷を温迫に浄化していった。

 

 

 

やがて、陽が天の真ん中へと昇りつめる午の刻へと差し掛かる頃、語らいの最中に再び腹に物寂しさを覚えた厳勝は、もう一度回廊にて控えていた奉公人を呼びつけた。

 

 

 

ずるるっ!

 

 

 

「若当主様、お呼びでございましょうか!」

 

 

 

厳勝は、本来であれば我が家門における最も基本であり、同時に権力の象徴でもあった『本膳料理』の格式に則り、最大で四の膳まで華やかに調えるよう命じようとした。しかし、

 

 

 

昼餉の前にすでに十分な菓子を食していた縁壱は、むしろ静かに首を横に振り、兄の厚意を懇切に辞退した。

 

 

 

「すでに兄上のお心尽くしにより、本来の僕であれば逆立ちしても経験し得なかった至福で満たされております。

 

その上、これほどのお料理を調えようとすれば、兄上の下で働く奉公人たちの負担があまりにも大きくなってしまうかと存じます。

 

簡素な飯と汁のみでも十分に長らえることができますゆえ、どうか軽き食事に留めてはいかがでしょうか。兄上が弟のためにあまりに無理をされているのではないかと、

 

気懸かりでならず、このように申し上げた次第です」

 

 

 

すでに午前の茶請けでこの上なく満足していた縁壱であったがゆえに、これ以上の厚意はもしや兄上の威信に瑕をつけるのではないかと案じる――そんな弟の健気な姿に、厳勝は小さく溜息を漏らしながら首を振った。

 

 

 

「はあ、そこまで言うのであれば仕方がないな。ならば一の膳のみで調えさせよう。ただし、本膳の料理に肉を加えさせる。お前の身体を案じてのことゆえ、こればかりは受け入れておくれ」

 

 

 

本来の『本膳料理』は、家門の財政状況によって多少の差異はあれど、一の膳に相当する本膳の料理は、基本的な飯と味噌汁、そして最小限のおかずのみで構成されるのが常であった。

 

 

 

しかし、厳勝の権限によって例外的に本膳へ幾つかの肉料理を追加するという、その強硬な言葉に、

 

 

 

縁壱は小さく溜息を漏らしながらも、ひとえに己のために「憎まれ役を買って出る覚悟」を湛えた兄に対し、畏敬の念と痛ましさが入り混じった表情で、辛うじて頷いてみせた。

 

 

 

「……これほどまでに心から僕のために尽くしてくださるというのに、拒み続けては兄上、否、若当主様の浮名に瑕がつきかねません……。兄上のそのお言葉、ただただ有り難く頂戴いたします」

 

 

 

その姿に、ようやく弟の頑なさを挫いたと安堵した厳勝は、先ほどよりも柔らかな声音で奉公人どもに命じ、己が伝えた通りの膳を求めさせた。

 

 

 

しばらくの後、平時よりも一回り大きき漆の膳が、兄弟の目の前へと据え置かれた。

 

 

 

まず、蒸籠でふっくらと蒸し上げられた白米と、巨大な蛤を落として塩と清酒で透明に仕立てた吸い物が据えられ、

 

 

 

その周囲には、薄切りにした茹で蛸と蔬菜を塩と酢で清々しく和えた前菜や、味噌と酒粕に深く漬け込まれた大根や茄子の香の物が並んでいた。

 

 

 

そして、そこに付け加えられたものこそが、例の肉料理であった。これらは、これまで蔑視と冷遇に晒されてきた縁壱を労わるための、兄なりの格別の配慮に他ならなかった。

 

 

 

供されたのは大きく分けて二つの肉料理であった。一つ目は、山野を駆ける野生の雉の肉を薄く切り分け、炭火で香ばしく狐色に焼き上げた逸品。

 

 

 

そしてもう一品は、質の良い極上の塩を振り、じっくりと焼き上げた『鯛の塩焼き』までが添えられていた。

 

 

 

「縁壱、遠慮せずに早く食べなさい。すべてお前のために調えさせたものだ」

 

 

 

厳勝は、一際大きく丸々と身の肥えた鯛の焼き物から、自らの手で丁寧に骨を取り除き、縁壱の飯椀の上へと載せてやった。

 

 

 

縁壱は、生まれて初めて目にする脂の乗った柔らかな料理の香りに、思わず唾を飲み込みながらも、容易には手を付けられずにいた。

 

 

 

しかし、厳勝が重ねて促すと、ようやく小さな箸を持ち上げ、鯛の身を口へと運んだ。

 

 

 

パリッと焼かれた皮の奥から溢れ出る香ばしい魚の脂と、程よい塩気が幼き童子の舌を鮮烈に揺さぶった。

 

 

 

「本当に……美味しいです、兄上。兄上も、どうか召し上がってください」

 

 

 

驚きに目を丸くしながらも、己のことは差し置いて兄を気遣おうと、箸で魚の身を分けようとする健気な弟の姿。それを愛おしそうに見守っていた厳勝は、静かに首を横に振った。

 

 

 

「僕はこのような料理を、恥ずかしながら毎日のように食してきたのだ。この膳はひとえにお前のためのものゆえ、兄のことは気に病むに及ばぬ」

 

 

 

「ですが……」

 

 

 

「これこれ、兄の切なる願いをそのように拒み続けるのであれば、いっそ若当主の命であると硬く言い渡さねば聞き入れぬか?

 

良いのだ。僕はただ、お前が誰の顔色を窺うこともなく、緩やかに、そして十分に食してほしいと願っているのだよ」

 

 

 

「……分かりました。では、有り難く頂戴いたします」

 

 

 

縁壱は兄への感謝を片時も忘れることなく、静かに料理をもぐもぐと口へと運び進めた。その姿を眺めながら、厳勝はこれまでの生涯で一度も味わったことのない、奇妙な精神的満腹感と幸福感に包まれていた。

 

 

 

二人の兄弟はそうして広々とした部屋の中、睦まじく言葉を交わしながら、飢えていた腹と心を温かに満たしていった。

 

 

 

久しの間、弟と深い語らいを重ねて情愛を育んでいた厳勝であったが、ふと、己が正確にはどの時点へと回帰したのかを確認せねばならぬと思い至った。

 

 

 

前世の記憶があまりにも膨大であるため、大まかな年齢のほかには、正確な節季や日時を掴みきれていなかったがゆえである。厳勝は、膳を下げに上がった老いた奉公人に向けて、重みのある声音で問いかけた。

 

 

 

「これに控えよ。僕が久方に弟との対話に没頭するあまり、少々節季の感覚を失ってしまった。今が何年(なにどし)の何月何日であるか、正確に言ってみよ」

 

 

 

老いた奉公人は、藪から棒に時節を問う若当主の奇妙な問いに首を傾げたものの、すぐさま室町幕府の年号を思い起こし、恭しく腰を折った。

 

 

 

「若当主様、現在は永享六年、万物が咲き誇る春うららかな四月(うづき)の時節にございます。本日の陽が天の真ん中に位置しておりますゆえ、午の刻の時分にございます」

 

 

 

奉公人が退室すると、厳勝は脳内で素早く年数を逆算した。奉公人が口にした時代は、己が鬼としての最期を生きた生涯を基準に計算してみた結果、千四百三十四年の四月であった。

 

 

 

あらゆる悲劇を根源から断ち切り、新たな布石を打ち始めるには、これ以上ないほどに完璧な時層であった。

 

 

 

「よし、時間はまだ十分に。あるな」

 

 

 

厳勝は内心で安堵の溜息を漏らした。

 

 

 

昼餉を終えた後、縁壱が未だ兄の過分なる温情と恩恵に気圧され、別れの挨拶として深く一礼を捧げ、己の陰惨たる物置小屋へと戻ろうとした時のことである。

 

 

 

厳勝は、弟の痩せこけた手首を優しく掴み留めた。

 

 

 

「あの埃っぽい納戸で時を費やすことはない。まずは今日、僕と共に城下の街へ赴こう。家門の若当主として民草の安寧を見分するついでに、お前に広い世界というものを見せてやる」

 

 

 

「ですが、兄上……このような厚意を奉公人どもに目撃されては、兄上の威厳がまるで立ちませぬ」

 

 

 

「そのようなことはない。むしろ、下々の者どもはお前を軽んじようとしていたが、若当主である僕がお前を遇し、保護する姿勢を見せれば、彼らは僕の威厳を恐れ、お前に対してそのような卑劣な真似をすることはできなくなるのだ。

 

それに、同じことを何度も言わせないでおくれ……お前は僕の弟だ。いかなる誰人からも、侮辱や後ろ指を指される謂われなど微塵もない。自信を持ち、胸を張って堂々と生きなさい」

 

 

 

そう言いながら、厳勝は縁壱に家門の中で最も滑らかな最高級の絹の羽織を着せかけた。

 

 

 

護衛の足軽どもを伴うようにという奉公人たちの進言は退けようとしたものの、縁壱の懇願を受け入れ、最小限の供の者だけを従えて、相模国の活気に満ちた城下の街へと足を踏み入れた。

 

.

 

 

.

 

 

.

 

 

.

 

千四百三十四年の関東の街並みは、特有の素朴ながらも活気に満ちた熱気に包まれていた。四方から行商たちの威勢のいい呼び声が響き渡っている。

 

 

 

縁壱は生まれて初めて目にする広大な世界と、人々の生き生きとした姿に魂を奪われたかのように、きょろきょろと辺りを見回していた。

 

 

 

彼の瞳には『透き通る世界』を通じて、己が知る、あるいは未だ知らぬ無数の色彩を帯びた感情が、人々の間で調和を保ちながら交錯してゆく光景が映っていた。

 

 

 

そんな我が弟の眼差しに、感銘と興味、そして畏敬といった前向きな情念が入り混じっていることに気づいた厳勝は、新たな経験に胸を躍らせる弟の側面に、静かに視線を注いでいた。

 

 

 

その時、厳勝は弟の視線がふと一処に留まった瞬間を、鋭い眼光で捉えた。

 

 

 

縁壱の目線の先には、露店の立ち並ぶ一角で、甘き水飴の香りを漂わせながら炭火で香ばしく焼かれている、団子売りの屋台があった。

 

 

 

平民であれば甘草や柿の渋抜きを施した甘味で甘んじねばならぬ時代にあって、その店では貴重な水飴を煮詰めた蜜を、狐色に焼き上げられた米の団子の上へと贅沢に絡めていた。

 

 

 

いくら上層武家の子弟といえど、体面上、城下の露店売りの食べ物に易々と口を付けるわけにはいかぬものであったが、鮮やかに捏ねられた色とりどりの餅と芳しい香りは、幼き弟の心を惹きつけるに十分なものであった。

 

 

 

「これなる者、ここにある菓子のうち、最も甘く柔らかなものを三箱、直ちに調えよ」

 

 

 

しかし厳勝は、そのような弟の願いを叶えてやるために、体面など一切に頓着することなく、供の奉公人に銀銭を握らせて菓子を買い求めさせた。

 

 

 

しばらくの後、奉公人が運んできた柔らかな串に刺さった三色団子には、甘き水飴の蜜がたっぷりと絡められていた。厳勝はその団子の一串を、縁壱の口元へと優しく差し出した。

 

 

 

「さあ、食してみなさい。城下の民草が口にする安直な菓子ではあるが、食してみれば、純粋にして素朴ながらも思いのほか美味であると分かるはずだ」

 

 

 

縁壱は慎重に団子を一口、齧り取った。

 

 

 

もっちりとした餅の食感とともに、口内を満遍なく強烈に包み込む水飴の甘みに、縁壱の双眸は鈴のように清らかに、そして爛々と輝いた。

 

 

 

厳勝は、弟が生を受けて初めて「七歳の童子」らしい純真な愉悦を覚えながら、団子を美味そうに頬張る姿をじっと見つめていた。

 

 

 

その光景を眺めるだけで、数百年の長きにわたり地獄の底で凍てついていた厳勝の、傷痕となって残った胸の内の蟠りが、うららかな春風に吹かれて、ほんの少しでも癒やされてゆくかのような心地を覚えるのであった。

 

 

 

城下の華やかな街並みと賑やかな人々の姿に囲まれ、久しの間、兄の手厚き庇護のもとで甘味を口に運んでいた縁壱であったが、

 

 

 

いつしか時は瞬く間に流れ、陽が傾いて西の山へと沈みゆく頃、天空が茜色の夕映えに染まり始めると、

 

 

 

己でも気づかぬうちに、その清らかな瞳に名残惜しさと、それから「再びあの冷え切った物置小屋へ戻らねばならぬ」という諦念の情念が影を落とした。

 

 

 

しかし、すぐさま感情を健気に押し殺した縁壱は、手に残された団子の箱をぎゅっと握りしめ、袖口をもじもじと弄んでいたが、厳勝の周囲に控える奉公人たちの姿を目に留めると、彼らへとそっと団子の入った箱を差し出そうとした。

 

 

 

奉公人どもは驚愕して手を振り辞退し、厳勝は、純粋に己の菓子を下にいる者たちへと分け与えようとする縁壱の殊勝な心根を察して、穏やかに諭した。

 

 

 

「縁壱、わざわざ奉公人どもにくれてやる必要はない。もちろん、彼らは僕の頼みによって日暮れまで付き従ったのだから、後に僕の手からしかるべき恩賞을 遣わすつもりだ。

 

ゆえに、その菓子はすべてお前が食すが良い」

 

 

 

「僕はすでに、十分に腹が満ちております。それに、この方々がいてくださらなければ、僕も兄上も、このように安全を保障されたまま楽しく睦み合い、菓子を口にすることなど叶わなかったはずではございませんか?

 

その上、この方々は家門の雑役を黙々と一身に引き受けてくださっている方々にございます。

 

このような時こそ、先ほど兄上が仰られた恩賞もさることながら、僕からも微力ながらこのような貴重な菓子を分け与えることが、継国の品格を高め、彼らもまた心から我が家門に忠義を尽くす契機になると、僕は信じております。

 

ですから、僕のこの振る舞いを、どうか兄上も快くお許しいただけないでしょうか」

 

 

 

実際に縁壱は、たとえ彼らが父親の命令によって、否応なしに己に向けていた陰口や、言動の端々に滲ませていた態度について、むしろ大して気にかけていない様子であった。

 

 

 

逆に、継国という家門を支える者たちの献身と労苦に対して、心から『感謝』の念を抱いていたがゆえに、これらの振る舞いは縁壱の性情からして、決して虚飾などから生じるものではなかった。

 

 

 

それゆえに厳勝も、弟のこのような気高き心根に対しては、返す言葉もなく降参せざるを得なかった。

 

 

 

「ふう、良いだろう。そのような心を抱き、実践に移すことは、ただ書を読み、口先だけで説く如何なる君子よりも遥かに優れている。

 

我が弟がこのような性情を備えていることは、私的には兄の立場としても誇らしいが、

 

公的には若当主の立場としても、弟が配下の者たちへこのような模範を示してくれることに、真に福を授かったと覚えざるを得ないな」

 

 

 

殊勝に思った厳勝が弟の頭を撫でてやった後、次いで弟から差し出された団子の箱を受け取り、己の周囲に控えていた奉公人どもへと手渡しながら声を張り上げた。

 

 

 

「本日、お前たちの義務とはいえ、私的にお前たちの時間を奪ったことについては、追って金銭なり、あるいは別の方法なりで恩賞を遣わすつもりだ。

 

この菓子を授けることについては、僕に感謝するのではなく、我が弟に感謝するが良い。

 

弟のこのような振る舞いにより、お前たちがより一層、我が家門の務めに励んでくれるものと、僕は信じて疑わぬ。

 

これほどの恩恵を施されたにもかかわらず、恩を仇で返し、再び僕の耳に弟への不穏な噂が届くようなことがあれば……その時は、僕がお前たちを保護するなどという考えは捨てるが良い」

 

 

 

奉公人たちの労苦を労いつつも、縁壱の体面を大いに高める厳勝の威厳に満ちた言葉に、奉公人どもは二人の兄弟へ向けて、感謝の念を込めた一礼を捧げた。

 

 

 

この時から、彼らの間で縁壱に対する眼差しや噂が少しずつ変わり始めることになるのだが、それは、ある程度の時間が流れてからのことであった。

 

 

 

「では……今日はこれにて戻るが良い。真に大儀であった」

 

 

 

淡々としてはいるが、奉公人たちを配慮して手短に解散を告げる厳勝の言葉に、彼らは心からの畏敬を込めて頭を垂れた後、それぞれ己の家へと散っていった。

 

 

 

僅かな沈黙が流れた後、厳勝は突如として縁壱の手を握り、弟が暮らす、冷え切った空気が漂う小さな納戸へと向かって歩みを進めた。

 




───

【後書き】

以前から、あの二人の兄弟はあまりにも交流が少なすぎるのではないかと感じており、少々感情移入(?)が行き過ぎた結果、兄上ならしてあげられたであろう待遇をこれでもかと縁壱に注いでしまいました。

かなりの長編ということもあり、このエピソードも二つの回に分けてお届けしております。(韓国の小説サイトである『ノベルピア』では、文字数が最大3万字を超えると連載システム上、投稿が難しくなるようでして……。今回のエピソードも文字数を計測してみたところ、ゆうに3万字を超えてしまったため、やむを得ず二分割いたしました)

この作品を執筆していると、昔の時間を測る単位や室町時代の生活様式について、半ば強制的に勉強させられることになります……。この時代の人々も格差や二極化が激しかったのだろうとはある程度予測していましたが、調べてみればみるほど凄まじい実態が見えてきました。二次創作を執筆する中で、こうした時代背景を自然と学び、知ることができるのは本当に興味深く、楽しい経験です。今後連載を続けていく上でも、こうした時代考証については……もちろん代替歴史(架空歴史)小説ではないので完璧な考証は難しいでしょう。しかし……それでも原作が日本で生まれた作品である以上、少しでも寄り添えるよう「努力」はしていきたいと考えております。

あ、それから母親である朱乃(あけの)の巫女に関するお話ですが、こちらは二次創作におけるオリジナル設定として、少し急ごしらえで盛り込んだものになります。
原作の基準では、母上は単純に日の神を信仰していたとされています。また、父親の名前も原作には表記されていないため、やむえずこちらで任意に名付けさせていただきました。それから、やはり韓国で執筆するよりは、こちらのサイトの性質上、日本語への翻訳や校正の確認を挟まねばならないため、当然ながら更新にお時間をいただく点についてはご容赦いただけますと幸いです。

……長々とした文章ではありますが、長編として末永く、たくさんのエピソードをお見せしたいという思いゆえに時間がかかってしまうのだと、どうかご理解いただけますと嬉しく思います。

改めて、このような長大な小説を読んでくださる読者の皆様に、いつも感謝しております。どれほど辛いことがあり、疲れ果てて泣きたくなるような夜があろうとも、常に屈することなく、自信を持って前へと歩みを進めながら、微笑みと愛する心を忘れない──そんな優しく、ハツラツとした皆様であられますよう、心から応援しております。それでは、今回はこの辺りで筆を置かせていただきます。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。