誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意)   作:つねお あきら

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第2話 回帰、慟哭した二人の兄弟、そして母……彼女との初めての出会い

――ゴオオオッ!

 

 

 

七歳の幼い身体で目を覚ました継国巌勝は、勢いよく身を起こした。地蔵菩薩の前で自分を包んでいた温かな白い炎は消え、手のひらの下には皺になった布団の感触が伝わってきた。

 

 

 

障子紙を通した朝の陽射しが膝の上へ落ちた。巌勝は反射的に肩をすくめた。炎は消えたと告げられ、ここへ送り出されたというのに、光が肌に触れればすぐに痛みが押し寄せるような気がした。

 

 

 

肉が焼けていくことを超え、魂の底まで焼き焦がされるような高熱と硫黄の臭い。焦熱地獄で肉と骨が灰になっては蘇ることを繰り返した五京三千兆年だった。

 

 

 

人の歴史だけでは測ることができず、宇宙が生まれて消えていく時間を思い描いても果てを見当つけ難い刑罰の感覚が、いまだ魂にまとわりついていた。

 

 

 

頬を撫でる涼しい風さえ、初めは何なのか分からなかった。彼は焼けていない自分の手を見下ろし、しばらく指を動かすこともできなかった。

 

 

 

ここはどこだ。本当に、あの場所から抜け出したのか。疑念を振り払おうとするように、彼は唇を開いてゆっくりと息を吸い込んだ。

 

 

 

「ふううううう……はあああああ……」

 

 

 

澄みきった朝の空気が、幼い肺の奥深くへ流れ込んだ。息を吐いても喉は焼けず、吸い込んだ空気には血が煮え立つような生臭さの代わりに、古い屋敷の匂いが混じっていた。

 

 

 

巌勝は吐き切る前の息を止めた。数百年の記憶の彼方から、懐かしい香りが一つ、鼻先に引っかかった。

 

 

 

数百年もの間忘れていた、人間だった頃の香りだった。焼けた肉の悪臭と硫黄の臭いに慣れきった鼻先へ触れると、何の変哲もない部屋の匂いさえ、耐え難いほど懐かしいものに感じられた。

 

 

 

陽を含んだ乾いた草の香り、長く踏み締められて固くなった場所の素朴な匂い。それは、手のひらの下の畳から漂う藺草の香りだった。

 

 

 

巌勝は片手をついたまま、指先で畳の目をなぞった。荒く浮いた一本の繊維が指先をくすぐったが、皮膚が剥がれることはなく、その小さな刺激はやがて微かな温もりとして残った。

 

 

 

そこでようやく巌勝は手を上げ、自分の顔に触れた。額から目元を通り、頬に届いた指先が止まると、彼は寝具の脇に置かれていた青銅の鏡を引き寄せた。

 

 

 

ぼんやりとした鏡の中で、幼い顔が自分と同じように瞬きをした。

 

 

 

鏡に映る自分の姿には、肉を裂いて生えていた虚哭神去の忌まわしい眼球も、三対の異様な眼光もなかった。

 

 

 

鏡を握る手にも、血管が異様に浮き上がってはいない。数百年にわたり人を斬り、喰らってきた指ではなく、まだ刀の柄を長く握ることさえ難しそうな小さな指が、鏡の縁を包んでいた。

 

 

 

白く柔らかな肌の下には細い骨の輪郭が浮かび、喉を震わせる呼吸の音さえ、今や七歳の人間の子供のものだった。

 

 

 

続いて巌勝は、手のひらを開いては握ってみた。鬼だった頃の圧倒的な膂力は失われていたが、その代わり、自らの胸の奥から生きた人間特有の脈動が伝わってきた。

 

 

 

血が流れ、心臓が鼓動し、筋肉が微かに震える――この感覚。

 

 

 

彼は反射的に、手首、肩、腰、膝の関節を順に動かしてみた。

 

 

 

刀を握ったまま幾千、幾万と繰り返してきた動作の記憶は、驚くほど鮮明だった。

 

 

 

虚哭神去を振るっていた角度も、月の呼吸を展開するときに足先から背骨を伝い、肩へと流れていた力の道筋も、数百年をかけて積み上げた剣理と心得も、すべて残っていた。

 

 

 

しかし、そのすべてを今すぐ形にできるわけではなかった。

 

 

 

頭では分かっていても、身体がついてこなかった。

 

 

 

腕を少し素早く伸ばしただけでも肩が軽く張り、鬼の身体なら呼吸一つ乱れなかったような動きを真似ただけで、まだ育ちきっていない胸郭が少し速く上下した。

 

 

 

幼い肉体の筋肉と腱は、今の自分の限界をあまりにも正直に告げていた。

 

 

 

『そうか。記憶と心得が保たれているからといって、前世の力までそのまま戻ったわけではない』

 

 

 

巌勝は鏡の中の七歳の自分を、しばらく黙って見つめた。

 

 

 

『月の呼吸も、透き通る世界も、痣も赫刀も……記憶と心得は残っている。ならばこれから、この幼い身体がその力に耐えられるよう、もう一度鍛え直さなければならない。

 

だが、だからといって焦りすぎる必要はない。私はすでに一度、その道を歩いた。今の身体に合わせて、一つずつ進んでいけばよい。

 

前世では強くなるために時を追い立てた。だが今生では、人を守るために身体と心を共に育てていかなければならない』

 

 

 

そう考えると、むしろ心は不思議なほど静まっていった。

 

 

 

かつての自分なら、弟に一歩でも遅れることを恐れ、幼い身体を壊してでも鍛錬を強行していたかもしれない。

 

 

 

その焦燥が完全に見知らぬ感情になったわけではなかった。思い通りに動かない腕を見るなり、まず力を込めようとした先ほどの自分自身が、何よりそれを物語っていた。

 

 

 

だが、今また同じことをするわけにはいかない。守るべき者たちの傍に長く在り続けたいのなら、まずこの小さな身体を自ら壊すことをやめなければならなかった。

 

 

 

巌勝は上げていた腕をゆっくり下ろし、長く息を整えた。指先の震えが治まるまで待つその短い時間さえ、彼には改めて身につけねばならないことのように思えた。

 

 

 

まだ血管すら太く浮かんでいない手を見下ろすと、やがてこの手を染めることになる無数の人々の血が脳裏をよぎった。

 

 

 

今度は、病む者には薬を渡し、飢える者には食べ物を分けたい。刀を握る日が来ても、その刀でまず誰を守るのかを思い出したい。

 

 

 

何より、今いちばん先に目を向けるべき者たちは同じ屋敷の中にいた。病に衰えた母と、父の目を避けて小さな部屋で息を潜めていた弟が、まだここにいる。

 

 

 

ある程度身体を確かめた巌勝は鏡を置き、地獄で起きたことを辿り直した。手を離した瞬間にすべてが消えてしまいそうで、畳の上へもう一度手のひらを押しつけた。

 

 

 

地蔵菩薩の慈悲が込められた回帰丸は、戦国の世が訪れるより前、継国家の悲劇がまだ取り返しのつかない結末へ至っていなかった時代へ、彼を送り返したのだ。

 

 

 

一四三四年、関東地方・東海道の相模国。数百年後には記憶の中でさえ霞んでしまう、継国家本邸の朝だった。

 

 

 

目を閉じれば黒死牟として生きた歳月と地獄の炎が鮮明なのに、目を開けば手のひらの下には幼い頃の部屋がある。その二つの間を行き来するたび、心臓が激しく打った。

 

 

 

障子の向こうで木の葉の影が揺れていた。何事もなかったかのように訪れた平凡な朝を見つめながら、巌勝は何度も唇を動かした。

 

 

 

「戻ってきたのだな……本当に、戻ってきたのだな。地蔵菩薩様、再び機会を与えてくださった御恩は忘れません。どうか見守っていてください。今度こそ……必ず報いてみせます」

 

 

 

最後まで言い切る前に、胸の奥から熱いものが込み上げた。再び陽の下に座っていることが嬉しい一方で、その喜びを享受する資格が自分にあるのかという問いが後を追った。

 

 

 

巌勝は俯いたまま、手の甲へ落ちた一滴の涙を見つめた。赦されたと思うことなどできない。ただ、まだ手遅れではない相手へ手を伸ばす時間を与えられたという事実だけは、目の前の陽射しと同じほど確かだった。

 

 

 

そのとき、背後の障子戸の外で、廊下の床板がほんの微かに鳴った。

 

 

 

何かを感じ取ったというより、遠い昔この部屋でよく耳にした音に、身体のほうが先に反応したと言ったほうが近かった。巌勝は息を止め、戸のほうへ顔を向けた。

 

 

 

低い位置に落ちた影は動かなかった。戸を叩くべきか、このまま戻るべきか迷っているような短い静寂に、巌勝の胸が激しく脈打った。

 

 

 

「……」

 

 

 

戸の隙間から兄の様子を窺っていた子供が、ついに足を少し動かした。自分が来たことに気づいてもらえる程度にだけ音を立てる、あまりにも遠慮深い動きだった。

 

 

 

スル……

 

 

 

障子戸が開いた。いつも足音を殺していたその子は、兄の視線が自分へ向くと敷居のところで止まり、追い払う言葉が聞こえてこないことを確かめてから、ゆっくりと部屋へ入ってきた。

 

 

 

巌勝は口を開けなかった。子供が衣の裾を整え、戸口近くに膝をついて座る間も、まるで雷に打たれた者のようにただ見つめていた。

 

 

 

そこには、生涯を懸けて憎み、死ぬ瞬間まで愛し、恋い焦がれた弟が座っていた。

 

 

 

だが巌勝は、再会の喜びより先に、心臓を抉られるような痛みを味わわなければならなかった。

 

 

 

継国縁壱……。

 

 

 

しかしそこには、後に神の寵愛を受け、日の呼吸を振るう武神となる姿など、欠片もなかった。

 

 

 

我が子にするものとは思えぬ父の折檻と苛烈な規律の下で、人目を避け、狭く陰気な居室を行き来していた子供。

 

 

 

色褪せた武服は袖口が擦り切れ、襟元から覗く首と手首は、同い年の自分とは比べものにならないほど細かった。

 

 

 

立てば背丈は自分とそう変わらないはずだった。だが、きちんと揃えられた両手と、衣の下の痩せた肩を見ていると、二人が同じ家で同じ年月を生きてきたとは信じ難かった。

 

 

 

生まれ持った身体が並外れていたからこそ、ここまで耐えられたのかもしれない。その才に驚くより先に、まず食べさせるべきだったのだという思いが、今になって巌勝の胸を深く抉った。

 

 

 

幼い縁壱の顔には、以前の折檻の痕が残っていた。

 

 

 

目元と頬には青い痣が浮かび、衣の外に出た腕にも色の違う痣がいくつも重なっていた。所々にできた瘡蓋を目にすると、巌勝は弟を掴んで、身体がどれほど傷んでいるのか今すぐ確かめたくなった。

 

 

 

それでも縁壱は、痛いという呻き声を一度も漏らさなかった。

 

 

 

痛いと訴えることすらなく、ただ静かに座ったまま兄の顔色を窺っていた。

 

 

 

その乾いた唇とは対照的に、澄みきって光る瞳。

 

 

 

世のあらゆる理不尽をその身で受けながら、ひとかけらの毒気すら宿さない透明な眼差しを前にして、巌勝は自分の魂を切り刻まれるような感覚に襲われた。

 

 

 

巌勝はずきずきと痛む額に手を当て、乾いた唾を飲み込んだ。

 

 

 

『縁壱は、母上の身体がどれほど悪いか、もう知っているのだろう。自分に見えているものを誰にもまともに伝えられぬまま、毎日母上の呼吸を見守っていたに違いない。

 

父上は私を家の名を継ぐ道具のように扱い、苛烈な鍛錬と学問を強いた。それでも私は、その期待を愛情だと信じて縋っていた。

 

縁壱には家の呪いだと言葉を浴びせ、使用人たちの前で罵り、鞭を振るった。その下で弟が少しずつ口を閉ざしていく間、私はいったい何をしていたのだ。

 

縁壱、前世の私はなぜ目を背けた。お前がその小さな身体で、あらゆる悲しみと孤独を一人で飲み込んでいたというのに。

 

母上の病状も、これ以上放ってはおけない。医師を集め、薬と食事をきちんと用意しなければならない。前世のあの日が再び訪れる前に、私にできることを探さなければ……』

 

 

 

巌勝が何も言えずにいる間、縁壱の瞳にも心配の色が浮かんだ。子供は兄の顔を見つめながら、膝の上に置いた手を少し握り締めた。

 

 

 

自分の身体に残る痣よりも、兄の顔色のほうが先に気になるらしい。痛いところを見せて泣いてもよい年頃の子が、なお自分を気遣っているという事実に、巌勝はもう目を逸らせなかった。

 

 

 

あれほど恐れた弟が目の前にいた。自分より先に剣の理を悟ったというだけで憎んだ子が、今は兄に近づいてよいかも分からず、指先だけを小さく動かしている。

 

 

 

懐かしさと愛情、目を背けてきた歳月への悔恨が一度に込み上げた。巌勝は弟の名を呼ぼうとしたが、開いた唇からはまともな声が出てこなかった。

 

 

 

とうとう巌勝は耐えきれず、その場から立ち上がった。

 

 

 

急いで身体を起こしたせいで小さな膝が一度崩れたが、手を床につき、再び立ち上がった彼は、ほんの数歩の距離をほとんど倒れ込むようにして渡った。

 

 

 

縁壱の前に膝をついた巌勝は、その身体を胸へ抱き込んだ。強く力を込めかけた腕は、痩せた肩が手に触れた途端、はっとして緩み、その代わり震える両手が古びた背中を離すまいと縋りついた。

 

 

 

「……?」

 

 

 

突然抱き締められ、静かに兄を見ていた縁壱の身体は、戸惑いのあまり石のように固まった。

 

 

 

顔を見ることもできないほど近くなった兄の体温は、縁壱には馴染みの薄いものだった。それと同時に、その温もりは、遠い昔に自分を庇ってくれた腕を思い起こさせた。

 

 

 

父が鞭を振るうたび、自分の代わりに前へ出てくれた兄。黙って床だけを見つめていた自分を背に隠し、小さな身体で折檻を受けてくれた兄だった。

 

 

 

そんな日の一つ、兄は自分を安心させるように笑ってみせ、使用人に木片と小刀を持ってこさせた。長いこと悪戦苦闘しながら木を削る間、縁壱はその傍を離れなかった。

 

 

 

やがて兄の手から出来上がったのは、穴の間隔も表面も不揃いな、小さな笛だった。幼い手で不器用に削った品だったが、兄はそれをいかにも立派そうな顔で差し出した。

 

 

 

その日、兄は笛を受け取った自分へ、こう言った。

 

 

 

「何かあったら、この笛を吹け。その笛がたとえ見栄えのしないものでも、兄である私がお前を助けに、どれほど遠くからでも、どんな時でも駆けつける……必ず約束する!」

 

 

 

自分が話せないと思っていたから用意してくれた贈り物だったのだろう。縁壱はその気持ちが嬉しく、笛の荒い表面が手のひらに当たっても、両手で大切に包み込んだ。

 

 

 

だが、兄の眼差しが変わった日も、縁壱は覚えていた。笛をもらった日から少し後、初めて木刀を握った日のことだった。

 

 

 

家の跡継ぎとして学問と武芸を修めていた兄は、手のひらの皮が剥けるほど木刀を振っていた。縁壱は稽古場の端から、その姿を眺めることがあった。

 

 

 

その日、兄を教えていた武士が半ば戯れに縁壱にも木刀を渡し、握り方と振り方を何度か見せた。

 

 

 

しかし、手合わせは思いもよらない結末になった。縁壱がほんの数度動いただけで、長く鍛錬してきた若く頑健な武士が、その打撃に耐えきれず倒れてしまったのだ。

 

 

 

人々が倒れた武士を運び出した後も、兄はその場に残った。二人きりになると、どうやってそんなことを成し遂げたのかと何度も尋ねた。

 

 

 

そのときの顔を縁壱は忘れられなかった。笛を渡してくれた兄の笑顔の代わりに、何かを失うことを恐れているかのような焦りが目元に浮かんでいた。

 

 

 

縁壱は兄の役に立ちたくて、初めて口を開いた。自分に馴染んだ呼吸と、目に見える身体の動きを説明したが、話が続くほど兄の表情は硬くなっていった。

 

 

 

話せば話すほど、何かを間違えているような気がした。そこで縁壱は、剣術よりも兄上と双六や凧揚げをしたいのだと付け加えた。自分が望んでいたのは同じ遊びをして一緒に笑うことだったのに、その言葉さえ兄にはきちんと届かなかったように思えた。

 

 

 

しかし、その姿を見せたあとから、兄はまるで別人のように変わり始めた。

 

 

 

自分のどの行動が、どの言葉が兄を刺激してしまったのだろう。あるいは、自分が兄の心を悪い方向へ変えてしまったのだろうか。

 

 

 

自分が挨拶をしても、以前なら先に近づいてきたり、手を差し伸べたり、頭を撫でてくれた兄の姿は消えてしまった。

 

 

 

自分を見る兄の眼差しは鋭くなり、縁壱が稽古場の近くへ寄るだけで、木刀を握る手に力が入った。何も言わず背を向けてしまう兄の後ろ姿を前に、子供は何度も足を止めた。

 

 

 

自分が何を間違えたのか、正確には分からなかった。身体の動きがどれほど鮮明に見えても、兄が口にしない胸の内まで覗けるわけではなかった。

 

 

 

近づくほど兄を苦しめているように思え、縁壱はまた言葉を飲み込んだ。気配を消し、目につかない場所に留まっているうちに、自分から手を伸ばす機会はますます遠ざかっていった。

 

 

 

いつも若当主という名の下で鍛錬していた兄だった。自分が初めて握った刀で武士を倒してしまったことが、兄にはそれほど重い座を奪おうとする行為に見えたのだろうか。

 

 

 

そう考えるたび、縁壱は罪悪感を覚えた。兄のものを欲しがったことなど一度もないと伝えたかったが、自分から話しかけてさらに遠ざけられるのが怖かった。

 

 

 

塀の外から子供たちの笑い声が聞こえるたび、自分も兄とあんなふうに遊びたいと思った。些細なことで言い合っても、夕方になればまた並んで帰れる、そんな兄弟でありたかった。

 

 

 

そのように背を向けていた兄が、今は全身を震わせながら弟の肩へ顔を埋めていた。襟元に触れる吐息は熱かった。

 

 

 

「すまない……縁壱。私が悪かった……! うあああああ……!」

 

 

 

巌勝の喉を引き裂くように、痛切な慟哭が迸った。

 

 

 

人として生きた頃の後悔、鬼として犯した罪、死んでなお手放せなかった恋しさが一度に喉を塞いだ。数百年もの間飲み込んできた泣き声が七歳の子供の声となって溢れ、弟の古びた衣は涙で濃く濡れていった。

 

 

 

なぜ、あれほど憎んだのか。

 

 

 

なぜ、あれほど純粋な弟の瞳から目を背け、自ら怪物になる道を選んだのか。

 

 

 

なぜ最後まで、立ったまま息絶えた弟を前にしてさえ、自分を訪ねてきたその心を思いやるより、憎しみと恐れに囚われていたのか……。

 

 

 

指先には今も温かな背中が触れていた。死んだ身体から笛を見つけたあの瞬間と、生きている弟の体温が重なるたび、巌勝の嗚咽はさらに深くなった。

 

 

 

縁壱は、自分の襟を濡らす涙と、激しく震える兄の呼吸に驚いた。何を言えばこの泣き声を止められるのか分からず、しばらくは小さな手を兄の背に置いていることしかできなかった。

 

 

 

一度も見たことのないほど崩れ落ちた兄の姿に、縁壱の目にも涙が浮かんだ。自分へ背を向けていた人と、今こうして胸に縋って泣く人が同じ兄だということが、なかなか信じられなかった。

 

 

 

縁壱は喉に引っかかった涙を飲み込み、口を開いた。長い間言えなかった言葉だったが、今は兄に聞いてもらいたかった。

 

 

 

「兄上、俺はここにおります。大丈夫です……兄上がこうして俺を見てくださったことが、俺は嬉しいです。

 

何がそれほどお悲しいのかは分かりません。どうやら私の知らないことがあるようです。それでも、兄上をお一人で泣かせておきたくはありません。私たちは同じ日に生まれた兄弟ではありませんか。

 

兄上が昔、俺を守ってくださったように、今日は俺が傍におります。ですから、言いにくいことなら今すべて話さなくても構いません。涙が止まるまで、こうしております……」

 

 

 

「……ああああああ! ああああああ! すまない……

 

家の跡継ぎなどというつまらぬ地位に食われ、ほんとうに守るべきだったお前と母上を放っておいたのは、弟を守り、病む母上を支えるべき長男の務めを投げ捨てたのは、この私だ……

 

武術など何だ! 地位など何だ! 権力など何だというのだ! なぜ私は、こんなふうに変わってしまったのか……まことに恨めしい……」

 

 

 

ぽた、ぽた、ぽた……。

 

 

 

涙が止まらない中でも、巌勝は少しだけ顔を上げて弟を見た。自分を宥めようとしていた縁壱もまた、唇をきつく噛み、泣くのを堪えていた。

 

 

 

「いくらでも私を罵ってよい。恨んでもよいし、殴ってもよい……お前にそんな資格はないなどと思うな。間違ったのは、お前から目を背けた私だ。本当に……すまない、縁壱……うっ……うあああああ!」

 

 

 

縁壱は兄の背をさらに強く抱き締めた。恨めと言われても答えを探すより、再び自分の傍へ戻ってきた兄を手放したくなかった。小さな手が濡れた衣に縋りつくと、巌勝の泣き声はもう一度大きくなった。

 

 

 

声を上げて泣く兄の声に、弟の押し殺した嗚咽が混じった。いつも静まり返っていた部屋から漏れた泣き声は、開いた戸の隙間を抜け、中庭まで長く響いていった。

 

.

 

 

.

 

 

.

 

 

.

 

どれほど長く、そうして泣いていただろう……。

 

 

 

やがて泣き声が落ち着くと、巌勝ははっと我に返った。

 

 

 

弟の衣がすっかり濡れていた。巌勝はそこでようやく、自分がどれほど長く縋りついて泣いていたのかを悟り、腕の中の小さな身体を慎重に離した。

 

 

 

淡い紫の羽織の袖で目元を拭おうとしたが、袖まですでに濡れていた。彼は意味もなく乾いた場所を探すふりをしながら、温かな眼差しで自分を見る弟から目を逸らした。

 

 

 

「……すまなかったな、縁壱。こんなに痣だらけなのに、私はいきなり抱き締めてしまった。どこか痛むところを押してはいなかったか。驚かせるつもりではなかった。お前の顔を見たら、つい……」

 

 

 

言い終えることのできなかった巌勝は、弟の肩から手を離した。自分の後悔を吐き出すことに夢中で、肝心の目の前の子がどんな顔をしていたのか見てやれなかったのではないかと、今になって気にかかった。

 

 

 

しかし縁壱は首を横に振った。透き通る世界に映る兄の心臓はいまだ速く打ち、涙を拭う指は細かく震えていた。

 

 

 

生まれながらに極意、無間神眼の境地へ達していたその目であっても、兄が生きた別の人生を見せてくれるわけではなかった。身体の流れは鮮明でも、悲しみの理由までそこに書かれているわけではない。

 

 

 

縁壱にはただ、兄が自分を心配していることだけが分かった。痛くはなかったかと尋ねる声と、肩をそっと放す手つきだけで、今ここにいる兄へ近づいてみたいという気持ちになった。

 

 

 

子供は兄の袖端を軽く掴んで笑った。前世の巌勝なら最後まで目を背けていただろう、春の花のように澄んだ明るい笑顔だった。

 

 

 

「痛くはありませんでした、兄上。驚きはしましたが……嫌ではありませんでした。昔のように、また抱いてくださって嬉しかったです」

 

 

 

自分へ向けられた、純粋な陽射しのような弟の笑顔を見て、巌勝はますます胸が裂けそうになった。

 

 

 

縁壱は双子のうち次男だというだけで、家の中ではいつも一歩退かなければならなかった。生まれた順番と額の痣が、その子を粗末に扱ってよい理由のように使われていた。

 

 

 

双子……。

 

 

 

父はその言葉を口にするたび、不吉な凶兆を思い浮かべた。二人の息子を祝福する代わりに、家の未来を曇らせる存在が生まれたのだと考えた。

 

 

 

家の存続と跡継ぎの問題を何より優先する一族だった。巌勝は幼い頃から、自分の名の後につく若当主という呼び名と、それとは対照的にいつも低く扱われる弟の名を、並べて聞きながら育った。

 

 

 

父は、ほとんど同時に生まれた二人の息子が成長すれば、どちらが真の跡継ぎかを巡って争うことになると言った。家臣が二派に分かれて争えば家が滅びる、とも何度も口にした。

 

 

 

まだ刀一本まともに持てない子供たちの前でさえ、大人たちは起きてもいない争いの心配ばかりしていた。

 

 

 

一人を家から遠ざければ争いはなくなる、寺へ送るか、遠縁に預ければよい――そんな話が交わされ、その矛先はいつも縁壱へ向いていた。

 

 

 

そうした打算の上には、『畜生腹』という侮蔑的な迷信まで被せられた。

 

 

 

獣は何匹も子を産むが、人は一人を産むのが道理だという言葉。同じ母から共に生まれた兄弟へ、人の理に背いたという烙印を押す言葉だった。

 

 

 

ある者は前世の罪を口にし、ある者は呪いを持ち出した。だが、そのどの言葉にも、まだ何一つ悪いことをしていない子をどう育て、守るべきかという話はなかった。

 

 

 

その烙印は弟だけに留まらなかった。病む母まで悪しざまに言われたことを思い出すと、巌勝の腹の底が捩れるようだった。自分もその傍で黙っていた日があったことを、今さら知らぬふりはできなかった。

 

 

 

一つの生命力と才能が二つに分かれたから、どちらも完全ではないなどという話も聞いた。ならば、弟に見たあの光は何であり、その子を産み守った母の手は何だというのか。

 

 

 

目の前の弟は、そんな言葉をすべて浴びながら、それでも兄を慰めている。父がどんな名目で遠ざけようと、今自分の袖を掴んでいるのは、生きた血肉を分けた弟の手だった。

 

 

 

前世、無惨を通じて西洋の文物や学問に触れた頃には、そんな迷信が荒唐無稽であることくらい分かっていた。それなのに、自分の嫉妬に都合のよい偏見だけは長く抱き続けた。

 

 

 

その過ちを古い時代のせいだけにすることはできなかった。知らずに目を背けた瞬間もあっただろう。だが、知りながら見たくなかった瞬間まで消えるわけではない。

 

 

 

巌勝は弟の小さな手を両手で包んだ。前世の過ちを繰り返さないと誓いながら、切実な声で子供へ語りかけた。

 

 

 

「縁壱、私の言葉をよく胸に刻んでほしい。もうこの家で人目を窺う必要も、自分の存在を消して隠れるように生きる必要もない。

 

お前は天が私に授けてくれた、たった一人の大切な弟だ。だからせめて私の前でまで、自分の心を隠さないでほしい。

 

痛ければ痛いと言ってくれ。私のことで寂しい思いをしたなら、それも言ってほしい。嬉しかったことや不思議に思ったことがあれば、それも聞かせてくれ。どんな言葉も上手に言わなければならないなどと思わなくてよい。

 

私の知らないお前の話が、あまりにも多い。跡継ぎという名ばかりにしがみつき、肝心の弟の言葉には耳を傾けてこなかった。だから、これからでも聞きたいのだ。

 

今日すぐに胸の内をすべて話せという意味ではない。ただ、この兄の前でまで、いない者のように生きるのはやめてくれ。お前が話し始めたなら、最後まで聞いている」

 

 

 

兄が口にした『弟』という言葉に、縁壱の指先がぴくりと動いた。

 

 

 

縁壱はこれまで、誰にも容易に口にできない傷を抱えて生きてきた。

 

 

 

自分と同じく捨てられたも同然の母を、いつも傍で支え、

 

 

 

それなりに自分を気にかけてくれていた兄の周囲をうろつくことさえ、堂々たる若当主である兄の座を脅かし、父を怒らせ、家に争いを招くのではないかと怯え続ける生活を送ってきた。

 

 

 

その言葉を聞いても、縁壱はすぐには話せなかった。膝の上で指を弄び、俯き、堪えていた涙が一滴、畳へ落ちてからようやく、胸の内の言葉を少しずつ探し始めた。

 

 

 

それすら彼にとっては、とても難しいことだった。

 

 

 

自分を見る人々の身体は、透き通る世界の中にはっきりと映っていた。顔が強張るより先に呼吸が変わり、手が上がるより先に肩へ力が入る。そんな小さな変化を見続けてきたため、縁壱は先に身を隠すことに慣れてしまった。

 

 

 

話さなければ誰かを困らせずに済む。気配を消せば父の目につきにくい。空腹を我慢すれば、母や兄が自分のせいで心を痛めることも減る――そう信じてきた。そうして飲み込んだ言葉は、喉の奥からますます出しにくくなっていった。

 

 

 

だからこそ、巌勝が今は辛さも寂しさも隠さなくてよいと言ってくれたことは、縁壱にとって単なる優しさ以上の意味を持っていた。

 

 

 

唇が何度も開いては閉じる間、巌勝は言葉を足さなかった。弟が息を整えるたび、握っている手の力だけを少し緩めた。

 

 

 

その待つ時間の果てに、縁壱はついに胸の内を語り始めた。

 

 

 

「俺は……俺が兄上の重荷になっているのだと思っていました。

 

父上はいつも兄上を跡継ぎと呼ばれましたが、俺には目立たぬようにしろと仰いました。俺が前に出ればお怒りになり、母上が病まれていても、あまり会いには来られませんでした。

 

初めは、なぜ俺だけがそうしなければならないのか分かりませんでした。ですが、お尋ねしても何も変わらず、俺が泣けば母上がもっと悲しまれました。

 

だから、じっとしていれば大丈夫になるのだと思いました。俺が我慢すれば、少なくとも他の方々が俺のせいで困ることはないと思ったからです。

 

けれど、兄上が俺の代わりに打たれました。俺を庇って打たれたのに、それでも笑ってくださいました……それからは、兄上のところへ行きたくても足が止まるようになりました。

 

俺がまた呼べば兄上が来てくださって、また打たれるような気がしました。だから怖かったのです。俺を嫌われることも怖かったですが……俺のせいで兄上が痛い思いをされることのほうが、もっと嫌でした」

 

 

 

静かに泣く弟の痛ましい告白に、巌勝は唇を噛んだ。

 

 

 

これほど聡明で、兄を慕い、いつも母を思いやっていた子を、前世の自分は傲慢と嫉妬に目を曇らせ、死地へ追いやったのだ。

 

 

 

巌勝は縁壱の身体を上から下まで丹念に見た。古びた武服の下から覗く手首と足首は、茨の枝のように痩せ細っていた。

 

 

 

同じ七歳だというのに、若当主として飢えを知らず育った自分と比べれば、弟の身体はあまりにも貧弱で、栄養不足に蝕まれていた。

 

 

 

冷たく固まった麦飯の塊と、塩漬けの大根を数切れ。それだけで空腹を凌いできた身体だった。同じ台所から自分の膳には温かな料理が運ばれていたことを思うと、巌勝は舌の根に苦味が広がるように感じた。

 

 

 

巌勝はとうとう耐えきれず、廊下へ向かって声を張り上げた。

 

 

 

「外に誰かおらぬか! 今すぐ私の部屋へ来い!」

 

 

 

若当主の突然の一喝に、中庭で雑事をしていた使用人たちは青ざめ、戸口まで駆けつけて膝をついた。

 

 

 

「はっ、若当主様! お呼びでございましょうか!」

 

 

 

「今はどの頃合いだ」

 

 

 

「巳の刻を過ぎたところにございます。昼餉をお出しするまでは、まだ少しございます」

 

 

 

巌勝は開いた戸の向こうで頭を垂れる者たちを見た。声を落ち着かせようとしたが、弟の痩せた手首を見てから胸に込み上げた怒りは、容易には冷めなかった。

 

 

 

「台所へ行き、食べやすい菓子を少し持ってこい。じきに昼餉を取るゆえ、多く用意する必要はない。飲み物も温かいものを用意せよ。

 

弟の縁壱と共に食べる。二人分を同じように用意しろ。誰かの顔色を窺って弟の分を減らすことは、決して許さぬ。私の命だ」

 

 

 

使用人たちは、普段『うつけ』と陰で囁いていた縁壱の名が出ると、驚いたように目を見交わした。だが、開いた戸の向こうから巌勝が真っ直ぐに見据えていると、すぐに深く頭を下げ、急いで台所へ向かった。

 

 

 

しかし巌勝は彼らを送り出した後も、しばらく廊下の先を見つめたまま、強張った表情を崩さなかった。

 

 

 

前世の自分にとって若当主という座は、弟より上に立つ証であり、いつか家を継ぐ『資格』そのものを象徴していた。

 

 

 

だから縁壱が自分より優れた才を見せたとき、その座を奪われるのではないかという恐怖と屈辱に、自らを蝕んだ。

 

 

 

だが、今はまったく違う考えが浮かんでいた。

 

 

 

『この地位がまだ私の手の中にあるのなら……今度は、守るべき者たちの前に立てる盾として使うべきだ』

 

 

 

巌勝は、自分の小さく華奢な手を見下ろした。

 

 

 

『父上が迷信を盾に縁壱を踏みにじろうとするのなら、私は若当主の権限で止める。

 

使用人たちが父上の顔色を窺って弟を蔑むのなら、私を恐れさせてでも、その手を止めさせる。

 

母上が治療を受けられぬのなら、家の蔵を開けてでも薬を出させる』

 

 

 

しばらくして、台所から戻った若い従者が、菓子を載せた漆塗りの膳を抱えて部屋へ入ってきた。

 

 

 

従者は巌勝の前へ膳を置いてから、ようやく向かいの縁壱をちらりと見た。持ってきた二人分の器のうち一つをどこへ置くべきか、手が一瞬止まった。

 

 

 

巌勝が何も言わず弟の前を指すと、従者は慌ててそこへ器を置き、退いた。縁壱は自分の前に置かれた小さな器を見下ろしながらも、すぐには手を伸ばせなかった。

 

 

 

膳には、一度に腹を満たすというより、少しずつ味わう程度の菓子が盛られていた。だが縁壱には、それすら自分に許された取り分だとは信じがたかった。

 

 

 

同じ屋敷で暮らしていながら、若当主の茶席に何が並ぶのかを間近で見る機会さえなかった。

 

 

 

温かな湯気と甘い香りを嗅ぐと、空腹の腹がきゅっと縮んだ。縁壱はその音が兄に聞こえたのではないかと思い、無意識に膝の上の手をさらに強く握った。

 

 

 

まずあったのは、米粉を練って炭火で焼いた団子だった。丸い餅の表面に塗られた蜜が光を受けて艶めき、近づけば穀物がほのかに焦げた香りがした。

 

 

 

その隣には、小豆の甘みを生かした羊羹が食べやすい大きさに切って置かれていた。濃い小豆色の菓子は、素朴な器の中でひときわ鮮やかに見えた。

 

 

 

餡を包んだ饅頭と茶も用意されていた。巌勝は茶から立つ湯気を確かめ、弟が手を火傷しないよう器を少し内側へ寄せた。

 

 

 

「縁壱、さあ食べてみるがよい。お前と分けようと思って用意させた菓子だ」

 

 

 

巌勝は膳の前へ座り直し、箸を取った。弟に食べろと言いながら自分だけ見ていては、かえって手を出しにくいだろうと思い、まず自分から小さな一切れを取った。

 

 

 

それから、縁壱が長く見つめていた羊羹を、一口で食べられるほどの大きさに分けた。いつも使い慣れた箸なのに、弟へ渡すものを選んでいると思うと、妙に指先が気になった。

 

 

 

すっ――、とん。

 

 

 

巌勝が小さな一切れを摘まんで差し出した。箸先が口元まで届くと、縁壱は兄の顔と菓子を交互に見た。

 

 

 

縁壱はなかなか口を開けなかった。すぐ傍から漂う甘い香りに腹は空いたが、兄が自ら差し出してくれる貴重な菓子を本当に受け取ってよいのか迷った。

 

 

 

空っぽの腹から、くう、と音が鳴った。縁壱の耳の先が赤くなると、巌勝は聞こえなかったふりをして箸を少し下げた。

 

 

 

「兄上……俺がこのような貴重な菓子を、父上のお許しもなく頂いてよいのでしょうか」

 

 

 

縁壱が慎重に兄の顔色を窺いながら尋ねると、巌勝は柔らかく笑い、弟の肩を軽く叩いた。

 

 

 

「私の分をお前と分けるのだ。このことで誰かに叱られたなら、私が一緒に食べようと言ったと答えればよい。お前が食べ物を口にしたというだけで、また人の顔色を窺わせるつもりはない。さあ、冷めぬうちに食べよう」

 

 

 

兄の揺るがぬ言葉を受け、縁壱はそっと口を開け、巌勝が差し出した羊羹を一切れ受け取った。

 

 

 

柔らかく崩れる小豆の味が舌に触れた。冷たく固まった麦飯を長く噛んでいたときとは違い、少し噛んだだけでも穏やかな甘みが口いっぱいに広がった。

 

 

 

続けて口にした蜜のかかった団子からは、焼いた餅の香ばしさがした。縁壱は飲み込むのが惜しいように何度かゆっくり噛み、それから目を丸くした。

 

 

 

「……本当に甘いです、兄上。少し食べただけなのに、まだ口の中に甘さが残っています。このような菓子は、初めて食べました」

 

 

 

縁壱は言い終えた後も、自分の前の菓子を見つめていた。驚きの消えないその顔に、巌勝は思わず小さく笑った。

 

 

 

空腹を忘れようと耐えてきた子供が、味を感じている。ただ目の前の一切れが美味しいという、それだけの理由で嬉しそうにしている顔だった。

 

 

 

弟の頬に餡が少し付いた。巌勝はそれを拭ってやりながら、前世でこの子が何を好むのか、一度もきちんと尋ねたことがなかったと気づいた。今日初めて知った小さな喜びが嬉しい一方で、胸の片隅が痛んだ。

 

 

 

二人の兄弟は、春の陽が差し込む部屋で菓子を少しずつ分け合った。縁壱が兄の箸が動くまで待てば、巌勝も一口食べ、少しずつ空いていく器の間に短い会話が続いた。

 

 

 

いつの間にか陽は高く昇り、午の刻に近づいていた。巌勝は茶膳を下げさせると、昼餉を用意する使用人を改めて呼んだ。

 

 

 

ガララッ!

 

 

 

「若当主様、お呼びでしょうか」

 

 

 

巌勝は、いつも若当主の膳に並ぶ本膳料理をたっぷり用意せよと言おうとした。今日くらいは、弟の前に何一つ不足なく並べてやりたかった。

 

 

 

しかし、いくつもの膳を用意せよという言葉が出るより先に、縁壱がそっと兄の袖端を掴んだ。

 

 

 

「兄上、先ほど菓子を頂いたので、まだそれほど空腹ではありません。

 

急にたくさん料理を用意していただけば、台所の方々にも負担がかかりますし、俺が食べきれなければ残してしまうと思います。

 

ご飯と温かな汁物を、兄上と一緒に食べられれば嬉しいです。たくさん用意してくださらないから寂しいということではありませんので……少しだけにしていただけませんか」

 

 

 

巌勝は使用人へ命じかけた言葉を止めた。弟がまた自分を低く扱っているのではと心配したが、先ほど何をどれほど食べたか思い返すと、まったく理由のない話でもなかった。

 

 

 

「分かった。ならば一つの膳で一緒に食べられるだけ用意させよう。ただ、飯と汁だけでは物足りないゆえ、魚と肉の菜も少し添えたい。お前は食べられるだけ食べればよい」

 

 

 

普段自分の前に置かれる膳は、食べる量よりも跡継ぎの格式を示す意味のほうが大きかった。巌勝には当たり前だったが、その格式まで弟に一度に受け入れさせる必要はなかった。

 

 

 

彼は用意する品数と量を減らして、改めて命じた。高価なものを山ほど並べてやりたい気持ちはなお残っていたが、弟が望んだのは、自分と向かい合って食べる一度の食事だった。

 

 

 

縁壱は兄が言葉を変えてくれたのを見ると、袖から手を離した。断れば兄を落胆させるのではと心配していたのに、自分の話を聞いて膳を決める兄の姿が意外だったようだ。

 

 

 

「はい、兄上。そうしていただければ嬉しいです。一緒に食べたかったのです」

 

 

 

巌勝も頷いた。しばらくして、二人の前に昼餉の膳が置かれた。

 

 

 

柔らかく炊いた白米と、蛤を入れて煮た澄まし汁から、温かな湯気が立ち上っていた。

 

 

 

その隣には、薄く切った蛸と野菜を酸味で和えた菜、味噌と酒粕に漬けた大根や茄子の漬物が少しずつ盛られていた。

 

 

 

巌勝が追加で命じた菜も別に置かれた。これまで弟のもとへ回らなかった料理を、今日は共に味わわせたいという兄の心遣いだった。

 

 

 

雉肉を薄く切って香ばしく焼いた小皿と、鯛の塩焼きが膳の中央に置かれた。巌勝はまず魚の身に残った小骨を確かめながら、箸を取った。

 

 

 

「縁壱、まずこれを食べてみるがよい。骨は私が取ってやろう」

 

 

 

巌勝は鯛の白身を小さくほぐし、小骨が残っていないことを確かめてから、弟の飯椀へ載せた。

 

 

 

縁壱は膳に並んだ料理を見回した。どれから手をつけてよいか分からず少し止まった後、兄が取り分けてくれた魚の身からそっと箸で取った。

 

 

 

端についた塩気を少し落とした身が、口の中で柔らかくほどけた。

 

 

 

香ばしく焼けた皮の内側から広がる魚の脂とほどよい塩気が、子供の舌を刺激した。

 

 

 

「本当に……美味しいです、兄上。兄上も召し上がってください」

 

 

 

縁壱は自分の分を飲み込んだあと、兄の器にも目をやった。兄が自分にばかり魚を取り分けていることに気づくと、今度は慎重に別の身をほぐし、兄へ差し出した。

 

 

 

「私は普段から食べているゆえ、お前が先に……」

 

 

 

「それでも兄上と一緒に食べたいのです。こちらにも骨がないか、見ておきました」

 

 

 

巌勝は弟の箸を見下ろした。良いものを与えようとする手を、自分も受け取りたいということなのだ。しばし言葉を失った彼は、器を弟のほうへ差し出した。

 

 

 

「……そうか。ならば兄もありがたく頂こう。お前が選んでくれたものだから、残さず食べる」

 

 

 

縁壱が魚の身を置いた。巌勝がそれを口にすると、先ほどまで遠慮ばかりしていた弟の顔に、小さな笑みが広がった。

 

 

 

料理を取り分けてやったときとは違う喜びが、巌勝の胸に満ちた。弟へ何をしてやれたかばかり数えていた自分も、今はその子が差し出してくれた一切れを受け取っている。

 

 

 

兄弟はそうして広い部屋の中で穏やかに言葉を交わしながら、空いていた腹を温かく満たしていった。

 

 

 

巌勝は食事をしている間も、弟が食べる速さを注意深く見ていた。

 

 

 

初めは縁壱が急いで食べすぎるのではと心配したが、実際はまるで逆だった。縁壱は一口食べるたびにゆっくり長く噛み、次の料理を取る前には、その都度いったん箸を置いた。

 

 

 

急いで腹を満たすというより、もう一度手を伸ばしてよいのか迷っているようだった。美味しいと言うときは目が明るくなるのに、次の一切れを取る直前には膳全体をもう一度見回した。

 

 

 

「縁壱、もう腹は満ちたか」

 

 

 

「縁壱、もう腹は満ちたか」

 

 

 

「ならば、なぜ何度も箸を置くのだ」

 

 

 

縁壱は少し答えを迷った。

 

 

 

「……俺が食べすぎれば、台所で用意したものが足りなくなるのではないかと思いまして」

 

 

 

巌勝は一瞬、言葉を失った。

 

 

 

自分にとっては『足りない』という感覚すらほとんどなかった食卓だった。望めばいくらでも追加を持ってこさせられ、残せば使用人が片づけるのが当然だった。

 

 

 

だが縁壱は、自分に与えられた一度の食事さえ、誰かの取り分を奪っているように考えていた。

 

 

 

巌勝はさらに菜を載せようとしていた手を止め、膳の中央の皿を少し弟のほうへ寄せた。

 

 

 

「心配するな。お前の分を用意したからといって、他の誰かの食事を抜かせたわけではない。もっと食べたければ取ってよいし、足りなければ言ってよい。この膳では、まずお前がどれほど食べたいかを考えなさい」

 

 

 

「ですが……」

 

 

 

「腹が減っているのに我慢する必要はない。今日お前の前に置かれたものは、お前が食べてよい料理だ」

 

 

 

縁壱の視線が兄へ向いた。

 

 

 

「母上や私の取り分を奪っているように思うな。私は、お前が食事を終えてなお空腹のままこの部屋を出ていくのが嫌なのだ。だからまだ腹が減っているなら、一緒にもう少し食べよう。満腹になったら、そのとき箸を置けばよい」

 

 

 

縁壱は自分の飯椀と兄の顔を交互に見た。誰かのためにどれほど我慢すべきかではなく、自分の腹がまだ空いているかを考えることが、少し馴染まないようだった。

 

 

 

「……では、魚をもう少し頂きます」

 

 

 

「ああ。お前の前のものも、まだ温かい」

 

 

 

縁壱は先ほどより迷わず箸を取った。巌勝は『もっと食べろ』とは言い足さず、弟が自分で選んだ一切れを口へ運ぶまで、自分の飯をゆっくり噛んだ。

 

 

 

巌勝はそんな弟を見ながら、自分も飯を一口食べた。不思議なことに、生涯食べ慣れてきた白米なのに、今日は味がまるで違った。

 

 

 

前世で鬼となってからは人の食べ物を口にできず、数百年もの間、人の血と肉で飢えを満たしてきた。

 

 

 

その頃は、強くなるために食べるという行為すら手段でしかなかった。味を楽しみ、同じ食卓を囲む者の顔を見ることなど、とうの昔に忘れていた。

 

 

 

しかし今は違った。

 

 

 

向かいで弟が慎重に汁を掬って飲む姿、熱い汁で口の中を火傷しないよう小さくふうふうと吹いて冷ます姿、魚が美味しかったのか瞳がほんの僅かに明るくなる姿まで、一つ一つ目に入った。

 

 

 

巌勝は、その平凡さがどれほど尊いものなのかを、今になってようやく知った。

 

 

 

誰かと同じ膳につき、同じものを食べること。

 

 

 

腹が満ちれば満足し、美味しいものがあれば互いに分け合い、次の食事が来ることを当然のように待てる暮らし。

 

 

 

前世の自分が強さのために捨てたものは、大層な名誉や理想だけではなかった。

 

 

 

まさに、こうした何気ない日常だった。

 

 

 

彼はふと考えた。

 

 

 

これから縁壱に食べたいものができたなら、できる限り食べさせてやりたい。市場で見て珍しがるものがあれば一緒に眺め、同年代の子供たちの遊びを羨ましそうにするなら、自分で連れて行ってやらせてみたい。

 

 

 

そうして一つずつ……前世の縁壱がまともに享受できなかった幼い日の時間を、取り戻してやりたかった。

 

 

 

それは地獄でどんな刑罰に耐えるよりも、もしかすると自分にとって難しく、そして重要な贖罪になるのかもしれなかった。

 

 

 

弟との食事を終えた巌勝は、今が正確にいつなのかを確かめようと、考えを整えた。

 

 

 

膨大に絡み合う前世の記憶の中で、今が何年の春なのかを明確にしておきたかった。巌勝は膳を下げに入ってきた老いた使用人へ、声を落として尋ねた。

 

 

 

「そなた、今日は何年の何月か、もう一度申してみよ。長い夢を見て起きたせいか、少し頭が霞んでいる」

 

 

 

使用人は唐突な問いに若当主の顔色を窺ったが、すぐに恭しく腰を折った。

 

 

 

「永享六年、四月にございます、若当主様。昼餉を終えられたところですので、今は午の刻頃にございます」

 

 

 

使用人が去ると、巌勝は頭の中で素早く年を数えた。

 

 

 

永享六年なら、後世の暦でいえば一四三四年の春だった。推し量っていた自分の年齢と屋敷の様子が一つの時点に重なり、ようやく思考が少し整理された。

 

 

 

母は生きており、縁壱もまだ家を出てはいない。もう取り返せない悲劇だと記憶していた出来事の中にも、今からなら手を伸ばせるものが残っていた。

 

 

 

「まだ……遅くはないのだな」

 

 

 

巌勝は胸の内で安堵の息を吐いた。

 

 

 

だが、その安堵はほんの一瞬だった。

 

 

 

まだ機会があるということは、決して悠長に待っていてよいという意味ではない。

 

 

 

母の病はすでに進んでいる。

 

 

 

縁壱はまだ幼いが、このままなら遠からず家を離れる運命へ近づいていく。

 

 

 

そしてさらに遠い未来には、無惨と鬼殺隊、そして自分が再び鬼になる因果までもが待っている。

 

 

 

すべてを一度に変えることはできない。

 

 

 

ならば、いちばん近いところから一つずつ断ち切っていくしかない。

 

 

 

巌勝は食事を終え、膳を下げに来た使用人たちを退出させると、その中から最も年長で口の堅い従者を一人だけ呼び止め、廊下の角まで連れていった。

 

 

 

「これから私が申すことを、父上へ無用に言い触らすな。ただし知られたとしても、私が直接命じたと申せばよい」

 

 

 

老いた従者は、幼い若当主の突然の低い声に背筋が固くなるのを感じながら、深く頭を下げた。

 

 

 

「は、若当主様」

 

 

 

「家中で慎重な診立てに定評のある医師を二人、母上の居室へお連れしろ。今日のうちに病状を診てもらい、その後も朝夕に具合を確かめてくださるよう頼め。変化があれば私にもすぐ知らせるように」

 

 

 

従者の目が、ほんの僅かに揺れた。

 

 

 

当主が長く顧みてこなかった奥方の居室へ、若当主が自ら人を遣わすという意味だった。誰の命を先に従うべきか測るような沈黙が、一瞬だけ流れた。

 

 

 

巌勝はその懸念が分かっていたため、命をさらに明確にした。

 

 

 

「まず私の分として保管されている薬材と財を確認する。蔵を預かる者に目録を持ってこさせろ。

 

朝鮮や西域から入った薬材も漏らさず医師に見せよ。ただし何を使うかは、その方々の判断に任せるのだ。

 

母上に必要なものがあるのに費用を理由にためらうことがないようにしたい。台所には、喉を通しやすい粥と汁物を用意させ、

 

母上がどれほど召し上がれるか、傍で見守らせろ。世話をする侍女も一人つけ、医師の言いつけを聞いて、その通りに手伝わせるよう申し渡せ」

 

 

 

「し、しかし若当主様。当主様がお知りになれば……」

 

 

 

「私が責任を負う」

 

 

 

短い一言だった。

 

 

 

だがそこには、七歳の子供が発するものとは思えないほどの揺るぎなさがあった。

 

 

 

巌勝は少し考えてから、さらに言い添えた。

 

 

 

「父上が理由をお尋ねになれば、私の身体を定期的に診てもらうついでに、母上の気力も見ていただくよう頼んだと申せ。

 

今は私に許された財と人を使っている。それすら問題となさるなら、私へ直接お尋ねいただけと言え。そなたたちに責任を押しつけるつもりはない」

 

 

 

「御意にございます」

 

 

 

従者が退くと、巌勝は静かに息を吐いた。

 

 

 

命令を出すこと自体は難しくなかった。

 

 

 

本当の問題は、その命令をこれからも守り通すことだった。

 

 

 

父はきっと、この変化を快く思わない。

 

 

 

縁壱の待遇を少し上げるだけでも家の古い慣習に背くと思う可能性が高く、病む朱乃へより多くの薬材と人手を使うことも、無駄遣いだと責め立てるかもしれなかった。

 

 

 

巌勝は、その反発まで既に計算していた。

 

 

 

自分はまだ七歳だった。

 

 

 

数百年分の精神と経験を持っていても、形式上は父の命令を受ける幼い若当主にすぎない。

 

 

 

家の中のあらゆる権限を好きに振るえるわけではないからこそ、なおさら慎重でなければならなかった。

 

 

 

初めから感情だけで父と真正面から衝突すれば、かえって縁壱や母に火の粉が降りかかる可能性もあった。

 

 

 

『まずは、私にある権限の範囲で動く』

 

 

 

自分に割り当てられた食糧や衣服、個人の蔵に保管された品、身の回りを世話する者、健康を診る医師まで……。

 

 

 

どこまで動かせるのかは、実際に確かめねばならない。だが、その範囲から必要なものを整えるなら、父と争う前でも変えられることはある。

 

 

 

そして父がその線まで越え、縁壱を再び虐げたり、母の治療を妨げようとするなら、そのときは退くつもりはなかった。

 

 

 

巌勝の心の中には、すでに一本の線が引かれていた。

 

 

 

家の慣習や父の権威よりも、家族の命と尊厳が先だ。

 

 

 

その線を越えられた瞬間には、若当主という地位まで賭ける覚悟ができていた。

 

 

 

前世では、家を得るために弟を押しのけた。

 

 

 

今度は、弟を守るためなら家を手放すこともできた。

 

 

 

そう考えると、かえって心は穏やかになった。

 

 

 

何十年も自分を縛り続けた『跡継ぎ』という言葉が、もう首を締める縄のようには感じられなかった。

 

 

 

必要なら、手放せばよい。

 

 

 

守るべき者より大切な座など、この世にはない。

 

 

 

『若当主の権威が母上と縁壱を守れぬのなら、そんな権威には何の価値もない』

 

 

 

しばらくして従者が戻り、二人の医師を連れてきたと低い声で報告した。一人は母の居室へ入り、もう一人は蔵から出した薬材の目録を確かめているという。

 

 

 

世話役の侍女も傍につけたと聞いて、巌勝はようやく、無意識に握り潰していた袖を離した。

 

 

 

「母上は今、いかがだ」

 

 

 

「奥方様は診察を受けられたあと、しばらくお休みになっております。詳しいご病状は、医師が改めてお話しすると申しておりました」

 

 

 

今すぐ戸を開けて入りたかった。だが、その顔を見た瞬間、朝のように崩れてしまう自分が浮かんだ。巌勝は、眠っておられる間だけでも休ませるよう命じた。

 

 

 

目を覚まされたら自分がご機嫌伺いに参ると伝えるように。ただし、待とうとして無理をなさらぬよう、それも付け加えた。

 

 

 

従者を下がらせてから、ようやく巌勝は弟が待つ部屋へ戻った。縁壱に笑いかけながらも、母の居室の方角から聞こえる足音へ、もう一度耳を澄ませた。

 

 

 

昼餉の後、縁壱がなお兄から受けた過分な厚意と恩情に恐縮し、別れの礼をしてから自分の陰気な小部屋へ戻ろうとすると、巌勝は弟の痩せた手首をそっと掴んだ。

 

 

 

「埃っぽい小部屋に戻って時を過ごすな。今日はひとまず私と市場へ行こう。家の若当主として民の暮らしを見て回るついでに、お前にも広い世の中を見せてやる」

 

 

 

「ですが、兄上……このように俺へ情けをかけておられるところを下の者たちに見られれば、兄上の威厳がまるで立たなくなるのではありませんか」

 

 

 

「むしろ私がお前を弟として扱ってこそ、下の者も勝手な真似はできぬ。若当主が実の弟の手を取った程度で崩れる威厳なら、何の役に立つ。

 

それに、同じことをまた言わせるのだな……お前は私の弟だ。生まれついた姿を理由に侮辱されるいわれはない。今すぐ他人の視線を忘れることは難しくとも、せめて私の隣にいるときくらいは、顔を上げて歩いてほしい」

 

 

 

巌勝は弟の顔と手を洗う水を持ってこさせた。乾いた布で拭くときは傷へ力がかからぬよう気をつけ、衣を整えた後には、袖口の柔らかな自分の絹の羽織を重ねて着せた。

 

 

 

供をつけるよう使用人に勧められ、一瞬だけ二人きりで行こうと言いかけたが、紐を触りながら待っている弟を見ると考えを変えた。荷を持ち道を見てくれる使用人を二人連れ、兄弟は相模国の市場へ向かった。

 

 

 

屋敷の正門を出る直前、縁壱の足がほんの一瞬止まった。

 

 

 

巌勝はその僅かな躊躇を見逃さなかった。

 

 

 

「何でもありません」

 

 

 

「何でもありません」

 

 

 

縁壱は癖のように首を振りかけたが、先ほど兄に言われたことを思い出したのか、改めて口を開いた。

 

 

 

「……俺がこのように兄上と並んで門を出てもよいのか、少し心配になりました」

 

 

 

巌勝の目が細くなった。

 

 

 

「誰が、駄目だと言った」

 

 

 

「父上は以前から、俺はなるべく人目につかぬほうがよいと仰っていました。家の凶兆が外の者に知られれば体面に関わる、と……」

 

 

 

その言葉を聞いた瞬間、巌勝の内側に冷たい怒りが湧いたが、弟の前で感情を爆発させることはしなかった。

 

 

 

彼は縁壱の肩をそっと抱き、門の前に並んで立った。

 

 

 

「よく聞け。お前が外へ出ることが、家の体面を傷つけるのではない」

 

 

 

巌勝は先に敷居を越えると、振り返って手を差し出した。命令で引っ張り出すのではなく、弟がその手を取り、自分と一緒に歩いてくれることを願った。

 

 

 

「むしろ、実の血縁を恥じて隠すほうが、よほど恥ずべきことだ」

 

 

 

縁壱は兄の手と、開いた門の向こうを交互に見た。

 

 

 

あの門の向こうは、彼にとってほとんど未知の世界に等しかった。

 

 

 

母の居室と自分の小さな部屋、ときおり許されて通る廊下。それが縁壱の知る世界のほとんどだった。遠くから市場の音を聞いたことはあっても、人の群れの中を歩いた記憶はほとんどない。

 

 

 

巌勝は急かさなかった。

 

 

 

差し出した手を引っ込めることも、もう一度掴めと迫ることもしなかった。弟の目が門の外の道へ向かい、また自分の手へ戻ってくるまで、その場に立って待った。

 

 

 

やがて、縁壱の小さな手がそっとその上へ重なった。

 

 

 

「行こう」

 

 

 

二人の兄弟は並んで正門を越えた。

 

 

 

その瞬間、正門を守っていた兵卒と使用人たちの間に、小さいながらもはっきりとしたざわめきが起こった。

 

 

 

普段なら若当主の遥か後ろにいる姿すら滅多に見られなかった次男坊が、今日は若当主の絹の羽織を着て、兄と手を取り合い並んで歩いていたからだ。

 

 

 

何人かは本能的に縁壱の顔の痣へ目を向け、また何人かは互いに視線を交わした。

 

 

 

その反応のすべてを、巌勝は分かっていた。

 

 

 

そして、わざと縁壱の手を離さなかった。

 

 

 

むしろ、いっそう堂々と歩いた。

 

 

 

『見ておけ』

 

 

 

口には出さなかったが、その態度そのものがそう宣言していた。

 

 

 

『この子は、私が隠さなければならぬ家の恥などではない。私と同じ血を分けた継国家の子であり、私が守る弟だ』

 

 

 

縁壱もまた、周囲の人々の視線を感じていた。

 

 

 

いつもなら俯き、自分の存在感を消そうとしただろう。

 

 

 

だが、手のひら越しに伝わる兄の温もりが、その習慣をほんの少し押し止めてくれた。

 

 

 

顔を完全に上げることはできなくても、少なくとも身体を縮こまらせることはなかった。

 

 

 

外から見れば、幼い兄弟が手を繋いで遊びに出かける姿にすぎなかった。けれど、門を越えてもしばらく離れない縁壱の指先には、そんな平凡な外出を許されるまでの長い躊躇が残っていた。

 

 

 

巌勝は弟の歩幅に合わせて足を緩めた。後ろからどんな目で見られていようと、今日繋いだこの手だけは、自分から先に離して前を歩きたくなかった。

 

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一四三四年、関東の市場は、素朴でありながら活気に満ちた独特の空気で溢れていた。四方から商人たちの呼び声が響いていた。

 

 

 

縁壱は、ほとんど間近で見たことのない広い世界に心を奪われ、辺りを何度も見回した。

 

 

 

透き通る世界に映る身体の動きも、塀の内側で見ていたものとは違った。重い荷物の下で曲がる腰、客を呼ぶために大きく息を吸い込む胸、値を交渉しながら忙しく動く指先が目に入った。

 

 

 

品物を選ぶ客、子供の手を引く母親、荷車を曳く農夫、遠路の途中で休む行商人まで、市場では無数の人々がそれぞれの用事で動いていた。

 

 

 

高くなったり低くなったりする声と、顔に広がる笑みを交互に見ているうちに、縁壱はどこから先に見ればよいか分からなくなった。誰かに見つからぬよう息を潜めていた屋敷の中とは違い、ここでは人の立てる音さえ新鮮だった。

 

 

 

巌勝は、弟が何かに目を止めるたび、少しだけ足を止めてやった。初めはなぜ止まるのかと兄を見上げていた子供も、やがてその隙に、気になっていた方をもう一度ゆっくり見るようになった。

 

 

 

最初のうち、縁壱はどこへ目を向ければよいのかさえ分からなかった。

 

 

 

魚屋の台では銀色の鱗が陽を受けてきらめき、少し離れたところでは鍛冶屋が赤く焼けた鉄を槌で打つたび、火花が小さな星のように散った。

 

 

 

布を売る店の前では、紺、赤、淡い草色に染めた布が風に揺れ、その下を子供たちが行き来しながら独楽を回したり、木の棒を持ってふざけた剣術ごっこをしたりしていた。

 

 

 

縁壱の視線は、とりわけ同年代の子供たちのところに長く留まった。

 

 

 

一人の子が独楽に紐を巻いて勢いよく投げると、独楽は地面の上で鋭く回り、隣の子が自分の独楽をぶつけて相手のものを外へ弾き出すと、周囲から歓声が上がった。

 

 

 

別の子供たちは紙と竹ひごで作った凧を手に、風のよく通る道へ向かって走っていった。

 

 

 

縁壱はその光景をじっと見つめていた。

 

 

 

顔にはなお大きな変化がなかったが、巌勝は弟の視線がほんの少し長く留まっていることに気づいた。

 

 

 

前世の記憶が蘇った。

 

 

 

初めて刀を握った日、縁壱は自分に、剣術より兄上と双六や凧揚げをしたいと言った。

 

 

 

あの頃の自分には、その言葉の意味が分からなかった。

 

 

 

天下に二人といない才を持つ子が、なぜ武を磨かず、つまらぬ遊びをしたがるのかと、もどかしく思うばかりだった。

 

 

 

だが、今なら分かる。

 

 

 

縁壱にとって、それはつまらぬ遊びなどではなかった。

 

 

 

普通の子供になりたいという願いだったのだ。

 

 

 

兄弟でふざけ合い、友と勝負し、転んで膝に土をつけ、日が暮れれば母に叱られながら家へ帰る暮らし。

 

 

 

そんなささやかな日常を、縁壱は武神になることよりも強く望んでいたのかもしれなかった。

 

 

 

「縁壱」

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「あの独楽、面白そうに見えるか」

 

 

 

縁壱はすぐ首を横に振ろうとして、止まった。

 

 

 

兄と目が合った。

 

 

 

隠さずに話せと言われたことを思い出したように、しばし迷った末、ごく小さな声で答えた。

 

 

 

「……少し、やってみたいです」

 

 

 

その一言に、巌勝は笑った。

 

 

 

「よし。ならば買おう」

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「独楽だけでは物足りぬから、紐も予備を買い、双六盤も一つ見てみよう。凧は今日すぐ揚げる時間が足りぬかもしれぬが、気に入ったものがあれば買って、次に揚げればよい」

 

 

 

「兄上、そんなにたくさん買っていただいたら……俺は何からすればよいのか分からなくなります」

 

 

 

「そうか。それもそうだな。ならば一つずつ選ぼう。今は何をいちばんやってみたい」

 

 

 

縁壱は子供たちが遊ぶ空き地をもう一度見た。そして独楽を指し、兄と一緒に回せるよう二つあれば嬉しい、と小さく言った。

 

 

 

巌勝は近くの雑貨屋で独楽を二つと、予備の紐を選んだ。小さな双六盤も一緒に眺め、休みの日に部屋でやろうという言葉に弟が頷くと、それも買った。

 

 

 

凧の前では、むしろ縁壱のほうが長く迷った。

 

 

 

派手な赤い龍を描いた凧もあれば、武士の絵が描かれたものもあった。だが縁壱が最後まで見つめていたのは、飾り気のない白い紙に、小鳥が一羽だけ描かれた素朴な凧だった。

 

 

 

「それがよいのか」

 

 

 

「はい。空で、いちばん気持ちよく飛べそうです」

 

 

 

巌勝は理由をそれ以上尋ねず、その凧も買った。

 

 

 

使用人が品を受け取ると、縁壱はしばらくそれらを見つめ、どうしてよいか分からない様子だった。

 

 

 

生まれて初めて、誰かが自分のために玩具を買ってくれたのだ。

 

 

 

「兄上……」

 

 

 

「どうした」

 

 

 

「俺も、いつか兄上に何か差し上げたいです」

 

 

 

その言葉に、巌勝は足を止めた。

 

 

 

「無理に返さなくてよい」

 

 

 

「それでも、頂いてばかりでは心苦しいです」

 

 

 

「ならば、今度一緒に凧を揚げてくれ」

 

 

 

縁壱の目が少し大きくなった。

 

 

 

「それだけでよいのですか」

 

 

 

「ああ。それで十分だ」

 

 

 

巌勝はそう言いながら、自分でも知らぬうちに笑っていた。

 

 

 

数百年の間に無数の武器や宝を目にし、鬼となってからは、人が一生かけても触れることのできぬ力まで手にした。

 

 

 

それなのに今、自分が何より楽しみにしているのは、たった一度、弟と凧を揚げることだった。

 

 

 

その事実が、不思議と嫌ではなかった。

 

 

 

むしろ胸が温かくなった。

 

 

 

そして巌勝は、心の中で静かに誓った。

 

 

 

今度こそ、必ずその約束を守ろうと。

 

 

 

彼は今買った独楽のうち一つを、使用人から受け取った。

 

 

 

「少しやってみるか」

 

 

 

縁壱は周囲を見回した。

 

 

 

市場の真ん中で武家の子が子供らしく独楽遊びをしてよいものかと、気にしているようだった。

 

 

 

巌勝はそんな弟の心を読んだかのように、人の通行を妨げない空き地を指した。

 

 

 

「あれほどの場所があれば、誰にも迷惑はかけぬ。それに、遊びにも最初というものはある」

 

 

 

巌勝は、自分も幼い頃以来ほとんど触れたことのない独楽の紐をしばらく見つめ、霞んだ記憶を辿りながら胴に巻きつけた。

 

 

 

数百年刀を扱ってきた指先の感覚があるからといって、独楽まで勝手に上手く回せるようになるわけではない。

 

 

 

彼が少しぎこちなく独楽を投げると、木の独楽は地面に触れた途端に傾き、何度かよろめくように回った後、力なく倒れた。

 

 

 

「……」

 

 

 

縁壱が独楽と兄の顔を交互に見た。

 

 

 

巌勝の耳の先が、ほんの僅かに赤くなった。

 

 

 

「久しぶりだからだ」

 

 

 

「そ、その……こほん……こほんこほん……はい」

 

 

 

「……笑いたいのなら、笑ってよい」

 

 

 

縁壱は兄の体面を考えて笑いを堪えようとしたが、口元が少しずつ上がっていくのまでは止められなかった。

 

 

 

初めは声を押し殺しているようだったが、兄が再び紐を巻く途中、自分の指まで一緒に巻き込んで動きを止めると、とうとう小さな笑い声が漏れた。

 

 

 

「ふふ……」

 

 

 

巌勝は思わず手を止めた。

 

 

 

縁壱が笑った。

 

 

 

自分の前で。

 

 

 

誰かを気遣うためにつくった笑みでも、母を安心させるための表情でもない。本当に可笑しくてこぼれた、七歳の子供の笑いだった。

 

 

 

その短い声が、巌勝にはどんな剣鳴よりも鮮明に聞こえた。

 

 

 

指に絡んだ紐をほどく間も、巌勝は弟の笑い声に耳を澄ませていた。縁壱は笑いながら兄の様子を窺い、また独楽へ目を落とした。

 

 

 

兄の機嫌を損ねていないか確かめる癖まで、一度に消えたわけではなかった。

 

 

 

巌勝は今度は失敗した独楽を隠さなかった。地面に斜めに倒れたそれを弟の前へ置き、先についた土を親指で払った。

 

 

 

数百年、刀が通った軌跡を覚えてきた手が、こんな小さな失敗を共に見つめていた。

 

 

 

今日の独楽と、次の凧、双六のように、手元に残せる記憶を一つずつ積み重ねていきたかった。

 

 

 

弟が母の杖になったり、家の者の顔色を窺ったりしなくてよい時間に、自分も共にいたかった。彼は不器用に巻いた紐を整え、二つ目の独楽を手に取った。

 

 

 

「そうだ。そんなふうに笑えばよい」

 

 

 

縁壱は自分が声を出していたことに遅れて気づき、少し戸惑ったが、巌勝は何でもないように二つ目の独楽を渡した。

 

 

 

「今度はお前がやってみるがよい」

 

 

 

縁壱は兄が巻いた紐の形を一度見て、そのまま真似た。

 

 

 

驚くことに、初めての試みだというのに指と手首の動きはあまりにも正確だった。

 

 

 

紐を巻く間隔は一定で、独楽を投げる瞬間も力が片方へ偏らなかった。

 

 

 

とん――。

 

 

 

独楽は地面へ落ちるや真っ直ぐに軸を立て、澄んだ音を立てて回り始めた。

 

 

 

巌勝の眉がぴくりと動いた。

 

 

 

『ほう……こやつ、独楽まで初めてで上手く回すのか』

 

 

 

その真っ直ぐな回転を見た瞬間、巌勝は無意識に紐を握る手へ力を込めた。つい先ほど自分の手から倒れた独楽が同時に浮かんだ。

 

 

 

ほんの一瞬の反応だった。だが、横から自分を見ている弟の視線に気づくと、彼は強張った指をゆっくりと開いた。

 

 

 

また、自分の失敗から先に数えていた。縁壱は今、初めて回した独楽が倒れなかったことを喜び、兄を見ているのに、自分はその顔より先に二つの独楽を比べようとしていた。

 

 

 

「上手いものだ。紐の巻き方からして、私より整っていた」

 

 

 

巌勝は弟のほうへ向き直った。

 

 

 

「兄にも、どう巻いたのか一度見せてくれぬか。先ほどは自分の指まで絡めてしまった」

 

 

 

縁壱は返事を忘れたように兄を見つめた。上手だと言った兄は、自分の独楽を隠すことも、その場を離れることもせず、むしろ近くへ差し出していた。

 

 

 

兄に何かを教えようとして、その眼差しが変わった日のことが蘇った。また同じことになるのではないかと怖かったが、今度の巌勝は急かさず、独楽を持ったまま待っていた。

 

 

 

縁壱は小さな手で紐の端を指した。兄が頷いてその指先を追うと、説明する子供の声も少しずつはっきりしていった。

 

 

 

初めて回した独楽が成功したことより、その反応のほうが嬉しかった。自分の得意なことを兄に見せてもよかったという瞬間が、怖い記憶の隣に新しく残り始めた。

 

 

 

「ここで紐が重ならなければよいのです。兄上も、もう一度なされば上手く回せると思います」

 

 

 

「そうか。ならば、教わった通りにもう一度やってみよう」

 

 

 

二人の兄弟はしばらく、人通りの少ない空き地で交互に独楽を投げた。

 

 

 

巌勝は二度目には少し上達し、三度目にはかなり真っ直ぐ回せるようになった。

 

 

 

縁壱は兄の独楽が自分のものより長く回るのを見ると、初めて、勝負欲にも似た気持ちをほんの少しだけ表に出した。

 

 

 

「もう一度やってもよいでしょうか」

 

 

 

「いくらでも」

 

 

 

実のところ、見方によっては何ということもない遊びだった。

 

 

 

どちらが勝っても家の立場が変わるわけではなく、負けたからと相手の傍を離れなければならないわけでもない。

 

 

 

だが巌勝は、そのことが嬉しかった。倒れた独楽を拾おうと身を屈めても、次の番を待つ弟の足先が傍に見えた。

 

 

 

前世の自分と縁壱の間では、勝ち負けにあまりにも多くのものが懸かっていた。いや、自分一人が勝手に、それほど多くを懸けていたのだ。

 

 

 

どちらが強いか。どちらが優れているか。どちらが父に認められ、家の名を継ぐべきか。

 

 

 

そんな問いで弟を見るたび、一緒にいたいというあの子の言葉は後ろへ追いやられた。

 

 

 

だが今、縁壱が望んでいるのは、独楽をもう一度回すことだけだった。兄の独楽を弾き飛ばしても弟は傍で笑い、自分のものが倒れればまた紐を巻いて差し出した。

 

 

 

巌勝もその前へ自分の独楽を置いた。勝った喜びを味わいながらも、次は弟が勝つと言う声を気楽に聞くことができた。

 

 

 

巌勝は、まさにこういう関係を縁壱が望んでいたのだと、今になってようやく理解した。

 

 

 

兄弟は、必ず互いを超えなければならない競争相手ではなかった。

 

 

 

ときには何の意味もない遊び一つを囲んで笑い、負けたと拗ね、次は勝つと言うだけでも十分だった。

 

 

 

短い遊びを終えると、縁壱は独楽を大切そうに使用人へ預けた。

 

 

 

その顔には、屋敷を出たときより明らかに、子供らしい生気が宿っていた。

 

 

 

遊びを終えて再び道を歩き始めたとき、巌勝は弟の歩みが少し遅くなったことに気づいた。

 

 

 

縁壱の視線の先では、炭火で焼いた団子に水飴を塗っていた。甘い香りが風に乗り、道まで流れてきた。

 

 

 

屋敷で食べた蜜がけの団子より見た目は素朴だったが、火から下ろしたばかりの餅は表面がこんがり色づき、水飴がとろりと流れて串の下へ垂れていた。

 

 

 

売り手は焼き上がった団子を返しながら客と話していた。縁壱はその手つきと、並んだ串を交互に見た。誰かが自分の目の前で菓子を焼いてくれる光景が珍しいようだった。

 

 

 

「柔らかく食べやすいものを少しずつ、三包み用意してくれ」

 

 

 

市場の食べ物を口にすれば武家の体面に関わるという家の言葉を、巌勝も知っていた。

 

 

 

だが弟がその匂いを嗅ぎながら長く眺めているのを見て、そのまま通り過ぎる気にはなれなかった。彼は使用人に銭を渡して支払わせた。

 

 

 

しばらくして受け取った包みを一つ開くと、まだ温かな団子が現れた。巌勝は指先で串の熱さを確かめてから、縁壱へ一本渡した。

 

 

 

「焼きたてで少し熱い。ゆっくり冷まして食べてみるがよい。屋敷で食べたものとどう味が違うか、兄にも教えてくれ」

 

 

 

縁壱は慎重に団子を一口かじった。

 

 

 

もちもちとした食感とともに、水飴の強い甘さが口いっぱいに広がり、縁壱の両目がきらきらと澄んで輝いた。

 

 

 

縁壱は一口飲み込んだあとも、道端の炭火を振り返った。屋敷で菓子を食べたときの驚きに、人の中で焼きたての菓子を受け取って食べる楽しさが加わった顔だった。

 

 

 

巌勝はその表情を見ながら、自分の串も口へ運んだ。長い地獄の中で繰り返し唱えた『贖罪』という言葉が、今は弟の隣で冷ましながら食べる温かな団子一つにも繋がっているように思えた。

 

 

 

ところが、二つ目の団子を取ろうとした縁壱の手がふと止まった。

 

 

 

子供はまだ開けていない包みを一つ見つめると、慎重に兄を呼んだ。

 

 

 

「どうした」

 

 

 

「どうした」

 

 

 

「もしよろしければ……この包み一つは食べずに、母上へ持って帰ってもよいでしょうか」

 

 

 

巌勝の表情がほんの一瞬強張り、すぐに柔らかくほどけた。

 

 

 

「母上に?」

 

 

 

「はい。母上はたくさんは召し上がれませんが、お加減のよいときには、お茶と一緒に甘いものを少しずつ召し上がるのがお好きでした。

 

今も食べられるかは分かりません。それでも今日、兄上とこのようなものを食べたのだと見せて差し上げたいのです。少しでも召し上がれたら……母上も喜んでくださる気がします」

 

 

 

縁壱はまだ開けていない包みを両手で持ち上げ、胸元へ抱いた。紙の隙間から漏れる温もりまで母へ持ち帰りたいかのように、なかなか手を離さなかった。

 

 

 

初めて口にした菓子を前にしても母を思い出す弟を見て、巌勝はしばらく言葉を失った。縁壱は自分の楽しみを我慢しようとしているのではない。愛する人にも分け、聞かせたいと思っているのだ。

 

 

 

前世の自分は、どれほど多くのものを自分だけのものにしようとしただろう。

 

 

 

当主の座も、武芸の名誉も、強さも、果ては弟を超えたという証明までも。

 

 

 

だが縁壱は、初めて知った甘さでさえ、愛する人と分けることを先に考えていた。

 

 

 

「ああ。そうしよう」

 

 

 

巌勝はゆっくり頷いた。

 

 

 

「ただ、今召し上がってよいかは医師に尋ねよう。母上が食べてもよいと言われたら少し分け、味を気に入られたなら、次も一緒に買って帰ればよい。

 

今は食べるのが難しくても、あまり悲しむな。お身体が良くなられたら、また新しく用意して差し上げよう。今日何を見たのか話すだけでも、きっと喜ばれる」

 

 

 

「ありがとうございます、兄上」

 

 

 

縁壱の顔に小さな笑みが咲いた。

 

 

 

その笑みを見た瞬間、巌勝は先ほど出した命令が遅すぎなかったことを、心の底から祈った。

 

 

 

兄弟は残りの菓子を分け合い、市場をもう少し見て回った。初めは兄の後ろをついていくだけだった縁壱も、知らない品が目に入ると、小さな声で名前を尋ねるようになった。

 

 

 

いつの間にか陽が傾き、人々の影が長く伸びていた。店じまいの音が聞こえると、縁壱は名残惜しそうに道を振り返り、またあの小部屋へ戻らなければならないと思ったのか、歩みを遅くした。

 

 

 

だが子供は自分の名残惜しさを先に飲み込み、母へ渡すものとは別に残しておいた最後の包みを持った。そして二人の荷物を抱えていた使用人たちへ、そっと差し出した。

 

 

 

使用人たちが驚いて手を振ると、巌勝も弟を振り返った。よく思われるために自分の分から差し出そうとしているのではないかと心配になった。

 

 

 

「縁壱、お前の分を差し出さなくてもよい。

 

今日私たちについて働いたことには、私から別に労うつもりだ。お前が菓子を節約して、その分まで代わりに報いる必要はない。

 

まだ食べたいのなら、お前が持っていてよい。この者たちに申し訳ないと思っているのか」

 

 

 

「いいえ。俺はもう腹がいっぱいです。それに、この方々は俺たちが遊んでいる間ずっと荷物を持って待ってくださいました。

 

独楽が遠くへ転がったときも拾ってくださり、凧がほかの荷に潰されないよう、ずっと支えてくださいました。

 

俺が楽しく遊んでいる間も手を休められなかったのに、俺たちだけ菓子を食べたことが気にかかったのです。

 

兄上が用意してくださる分とは別に、私が美味しいと思ったものを、この方々にも少し差し上げたいです。

 

兄上が俺に分けてくださったように、俺も分けて差し上げてはいけませんか」

 

 

 

縁壱は使用人たちの顔を見た。以前、自分の名を侮るように呼んだ声まで忘れたわけではなかったが、今日傍で働いてくれた姿まで、なかったことにはしなかった。

 

 

 

巌勝は包みを受け取ろうとしていた手を引いた。弟は兄に任せず、自分の手でそれを差し出していた。良いものを与えてやることばかりに心を向け、その気持ちを見落としていた。彼は使用人たちのほうへ少し身を引き、道を空けた。

 

 

 

「そうか。お前が分けたいと思っているのなら、自分の手で渡すがよい。兄が少し先回りしすぎたな。

 

今日何が嬉しかったのか、お前自身が言葉にしたのだから、この者たちにも分かるだろう。ただし、そのためにいつも自分の取り分を譲らなければならないなどとは思うな。今日は、お前の望むようにしよう」

 

 

 

縁壱は兄を見上げ、それから包みを差し出した。使用人たちがすぐには受け取れずにいると、巌勝が頷き、そこでようやく二人の手が前へ伸びた。

 

 

 

「今日働いた分には、別に労いを用意する。これは縁壱が自分の意思で分けるものだ。礼を言うなら、私ではなく弟に言うがよい。

 

それともう一つ。今日のように、この子が何を望んでいるのか、これからも耳を傾けてほしい。

 

私が傍にいるときだけ若君と呼び、背を向ければまた蔑むような真似はしてほしくない。

 

どんな子であれ、生まれついた姿を理由に侮辱してよいはずがない。だがこの家では、その当たり前のことさえ命として下さねばならぬらしいな。再び私の弟を粗末に扱うことがあれば、私は見過ごさぬ」

 

 

 

きっぱりとした声に、使用人たちはさらに深く腰を折った。巌勝はそれ以上叱らなかった。菓子を渡した弟の気持ちまで、自分の怒りで覆い隠したくはなかった。

 

 

 

「ありがとうございます、若君」一人が縁壱へ慎重に言った。もう一人も遅れて顔を上げて礼を述べた。

 

 

 

長年の偏見が一日で消えるわけではない。だが少なくとも今、彼らは子供の顔を見て、自分の口で礼を伝えた。

 

 

 

屋敷の門内へ戻ると、巌勝は荷を下ろす使用人たちに言った。「独楽と凧は私の部屋へきちんと運んでおけ。それが済んだら下がって休んでよい。今日はご苦労だった」

 

 

 

使用人たちは頭を下げ、荷を運んでいった。人々の足音が遠ざかると、巌勝は母へ渡す包みを抱いた弟へ手を差し出した。

 

 

 

「お前の部屋を少し見てみたい。一緒に行ってくれるか」縁壱が頷くと、兄弟は並んで母屋脇の廊下へ向かった。

 

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門を越えるまでは、縁壱は兄の部屋で別れを告げるのだと思っていた。ところが兄は使用人たちへ荷を預け、自分について屋敷の端にある小さな部屋へ向かっていた。

 

 

 

縁壱は歩き慣れた道を進みながらも、隣を歩く兄を何度も振り返った。いつも一人で通る廊下を共に歩くことは落ち着かず、それと同時に、部屋を見た兄が何を言うのか不安でもあった。

 

 

 

磨かれた床板と華やかな柱が後ろへ遠ざかっていった。人の少ない隅へ入るほど、壁際に溜まる影は濃くなり、足元の木にも荒い木目が感じられた。

 

 

 

壁には長く手入れされていない跡が残り、軒下には湿気を含んだ木の匂いが濃く漂っていた。

 

 

 

屋敷の内側にある部屋とは違い、風を防ぐ障子戸は古び、床は日中も十分に陽が当たらないため、夕方になる前から冷気が上がってきていた。

 

 

 

巌勝はその道を歩きながら、自分の足取りが少しずつ遅くなっていることに気づいた。

 

 

 

自分も間違いなく、同じ家で暮らしてきた。

 

 

 

廊下をほんの数度曲がり、塀を一つ越えれば届くほどの距離だった。

 

 

 

それなのに前世の自分は、ここがどれほど寒いのか、どんな匂いがするのか、夜になればどれほど暗くなるのかさえ、まともに知らなかった。

 

 

 

「兄上?」

 

 

 

縁壱が振り返ると、巌勝は懸命に平静を保ちながら尋ねた。

 

 

 

「お前が暮らしていた場所は……こんなにも暗かったのだな」

 

 

 

その問いを聞いた縁壱は、むしろ当然だというように頷いた。

 

 

 

「はい。俺はずっと、ここで暮らしていました」

 

 

 

ずっと。

 

 

 

その一語が、巌勝の胸を深く刺した。

 

 

 

やがて縁壱は、古びた障子戸をそっと開けた。

 

 

 

スル――。

 

 

 

部屋の中から、冷たく淀んだ空気が静かに流れ出した。

 

 

 

巌勝は中へ一歩踏み込み、そのまま立ち止まった。

 

 

 

部屋と呼ぶのも憚られるほど狭かった。

 

 

 

大人一人が両腕をきちんと広げれば、左右の壁へ指先が届いてしまいそうな空間。

 

 

 

畳は古び、所々で目がほつれ、縁には湿気を吸って黒く変色した跡が残っていた。

 

 

 

壁には冬風が入り込んだのか、紙を幾重にも貼って塞いだ跡があり、隅に置かれた火鉢はあまりに小さく、部屋全体を温めるどころか、指先を温めるのがせいぜいに見えた。

 

 

 

寝具は薄かった。いや、薄いという言葉さえ甘かった。

 

 

 

古い布の中の綿はほとんど抜け落ち、所々で床の硬さがそのまま伝わるほどで、枕も長く押し潰され、ほとんど平らになっていた。

 

 

 

目を巡らせても、幼い子供が長く過ごしながら遊べるような物は見当たらなかった。市場で買った独楽と凧を思い出すと、この部屋の空白がいっそう大きく感じられた。

 

 

 

小さな木箱が一つ、水椀、継ぎを当てた武服が数着……そして母の居室へ行き来するときに履いていたであろう古い草鞋が、整然と置かれていた。

 

 

 

それが、縁壱の持つほとんどすべてだった。

 

 

 

巌勝は部屋の中をゆっくり見回しながら、何も言えなかった。

 

 

 

今日、弟は温かな食事を取り、絹の羽織を着て市場で笑った。だが帰って戸を開ければ、その笑いだけでは何一つ変わらない部屋が待っていた。

 

 

 

良い一日を過ごしたからといって、過去の寒さや飢えまで消えるわけではない。巌勝は、自分が弟へどれほど良くしてやれたかを数えかけていた心が恥ずかしくなった。

 

 

 

『私は……いったい何を見て生きていたのだ』

 

 

 

前世では、初めて握った刀で武士を倒した才能と、自分より深く世界を見通す目ばかりを見ていた。日の呼吸と、ついに超えられなかった武神の境地に遮られ、弟がどんな場所で眠っていたのかを顧みなかった。

 

 

 

今目の前にあるのは、その才能を持つ子供が毎晩身体を横たえていた寝具だった。誰かへ迷惑をかけまいと、痛いという言葉すら飲み込んでいた弟の日常だった。

 

 

 

巌勝は何も言わず部屋へ入り、手のひらを畳へついた。

 

 

 

冷たかった。

 

 

 

まだ陽も完全には落ちていないのに、手のひらを伝って上がってくる冷気がはっきりと感じられた。

 

 

 

冬がどうだったかなど、わざわざ想像する必要すらなかった。

 

 

 

「縁壱」

 

 

 

「はい、兄上」

 

 

 

「冬も……ここで寝ていたのか」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「火鉢は?」

 

 

 

縁壱は部屋の隅にある小さな火鉢を見た。

 

 

 

「父上が、火を多く使うのは贅沢だと仰ったので、とても寒い日にだけ少し焚いていました」

 

 

 

巌勝は目を閉じた。

 

 

 

一瞬でも気を緩めれば、また泣き出してしまいそうだった。

 

 

 

だが今回は、泣くより先にやるべきことがあった。

 

 

 

『これは必ず変える』

 

 

 

彼は心の中できっぱりと結論を下した。

 

 

 

『今日一日の情けで終わらせない。食事も、寝床も、着る物も……この子が明日を恐れずに済むよう変える』

 

 

 

再び部屋を見回していた巌勝の目が、武服の袖で止まった。色の違う布を当てたところには歪んだ縫い目が残り、端の一部には何度も縫い返したのか、糸が太く固まっていた。

 

 

 

「この衣は、誰が繕った」

 

 

 

「俺です。母上へお願いすれば、遅くまで手を動かそうとなさるので……上手にはできませんでしたが、着るには困りませんでした」

 

 

 

縁壱は飛び出した糸の端を指で押さえた。巌勝が傷ついた手を見ると、慌てて袖の中へ隠しかけたが、先ほど兄と交わした言葉を思い出したのか、また手を下ろした。

 

 

 

部屋の一角の盆には、乾燥させた薬草と水椀も置かれていた。夜に母の咳が聞こえたらすぐ持っていくためだという説明に、巌勝はその盆と薄い寝具を交互に見た。

 

 

 

自分が温かな部屋で深く眠る間、弟はあの衣を繕い、母の気配へ耳を澄ませていた。前世ではその姿を見ながら、母の愛を独り占めしようとしているのだと嫉妬していた。

 

 

 

「……苦労したな、と言うことさえしなかった。お前がいつもやれているというだけで、どれほど辛いのか尋ねようとも思わなかった」

 

 

 

縁壱の指が止まった。兄はその手を無理に引き出すことなく、少しだけ近くへ座った。

 

 

 

「私は、お前に長く生きてほしい。まだ一緒にしていないことが多すぎる。だから、お前自身の身体も大切にしてくれ。母上のお世話も、これからは共に考えよう」

 

 

 

子供はしばらく答えられなかった。巌勝はその顔を胸に刻みながら、戸の隙間と古びた部屋を見回した。明日はまず、母の近くで弟が暮らせる部屋を探すつもりだった。

 

 

 

父が止めるなら、避けるつもりはない。今日この手に触れた寒さと、袖に残る縫い目を見てなお、また都合のよい沈黙へ戻ることなどできなかった。

 

 

 

そのときだった。

 

 

 

部屋の隅にある小さな木箱の上に置かれた、見覚えのある物が巌勝の目に入った。

 

 

 

初めは、見間違いだと思った。

 

 

 

あまりにも見栄えがしなかった。長さも短く、穴の間隔も揃わず、幼い手で不器用に削ったせいで、表面のあちこちに小刀の荒い跡が残っていた。

 

 

 

だが彼は、それが何なのか一目で分かった。

 

 

 

「……」

 

 

 

巌勝の呼吸が止まった。

 

 

 

笛だった。

 

 

 

遠い昔、自分が幼い縁壱のために作った、世界でいちばん粗末で不器用な木の笛。

 

 

 

巌勝の視界が瞬く間に揺らいだ。

 

 

 

今いる冷たい部屋が消え、前世の最後の記憶が重なった。

 

 

 

老い、皺の刻まれた縁壱。

 

 

 

八十を超えた身体でなお自分の前へ現れ、刀を構えた弟。

 

 

 

次の一太刀を振るう前に寿命が尽き、ついにはその姿勢のまま息を引き取った弟。

 

 

 

そして、その亡骸から自分が見つけた古びた笛。

 

 

 

何十年もの歳月が流れても捨てず、懐に持ち続けていた、まさにそれ。

 

 

 

前世の黒死牟は、その笛を見て初めて悟った。

 

 

 

自分にとっては幼い頃のつまらぬ記憶の一つにすぎなかったものが、縁壱にとっては生涯胸に抱き続けるほど大切な、兄弟の絆の証だったのだと。

 

 

 

その時ばかりは、捨てたと信じていた弟への愛から目を逸らすことができなかった。だが涙を流しても、彼は結局、鬼として生きる道を捨てなかった。

 

 

 

そして今、その笛が再び目の前にあった。

 

 

 

まだひび割れもせず、八十年分の手垢もついていないまま。

 

 

 

巌勝は思わず、その前へ膝をついた。

 

 

 

手を伸ばしかけて、止めた。

 

 

 

気軽に触れることさえ、恐ろしかった。

 

 

 

「縁壱……」

 

 

 

いつもよりずっと沈んだ声に、縁壱が兄の隣へ近づいた。

 

 

 

「はい、兄上」

 

 

 

「この笛を……まだ持っていたのか」

 

 

 

縁壱は、兄がなぜそれほど驚いているのか分からないように瞬きをした。

 

 

 

そして、あまりにも自然に答えた。

 

 

 

「もちろんです」

 

 

 

その一言で、巌勝の胸が崩れ落ちた。

 

 

 

「なぜ……?」

 

 

 

問いを口にした後で、自分でも妙な質問だと思った。

 

 

 

縁壱はしばらく笛を見つめ、それからごく小さく笑った。

 

 

 

「兄上がくださったものですから」

 

 

 

「……」

 

 

 

「兄上は、何かあったらこれを吹けと仰いました。どれほど遠くても、どんな時でも駆けつけると約束してくださったではありませんか」

 

 

 

縁壱は笛を両手で慎重に持ち上げた。

 

 

 

「あれから兄上を呼ぼうとして吹いたことはありませんが……それでも、これを見ていると、兄上が俺を守ってくださっていた頃を思い出します」

 

 

 

巌勝は俯いた。

 

 

 

『呼ぼうとして吹いたことはない』

 

 

 

その言葉の意味を、彼は分かっていた。

 

 

 

笛を吹いて自分を呼べば、兄に害が及ぶのではないかと恐れたのだろう。

 

 

 

父が怒るのではないかと心配したのだろう。

 

 

 

自分が存在すること自体が兄の重荷になると信じていたから、助けを求めることさえ罪のように感じていたのだろう。

 

 

 

それでも笛は捨てなかった。今、七歳の手で大切そうに持っているように、前世では八十を超えてなお懐に入れていた。

 

 

 

巌勝は両手を強く握った。

 

 

 

爪が小さな手のひらへ食い込んだ。

 

 

 

数百年の歳月をかけて自分が追い求めた名刀、名誉、地位、強さが、その瞬間あまりにもつまらぬものに思えた。

 

 

 

この世で自分が作ったもののうち、誰かが生涯胸に抱き続けたのは、精緻な剣術でも偉大な名でもなかった。

 

 

 

不器用な幼い手で削った、見栄えのしない笛が一つ。

 

 

 

そしてそれは、力ではなく愛情から作ったものだった。

 

 

 

巌勝の目に、また涙が溜まった。

 

 

 

しかし、今度は声を上げて泣かなかった。

 

 

 

その涙を懸命に飲み込みながら、縁壱の手と笛を一緒に包み込んだ。

 

 

 

「縁壱」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「これからは……本当に、私を呼んでくれ」

 

 

 

縁壱は静かに兄を見つめた。

 

 

 

巌勝の淡い紫の瞳は少し濡れていたが、その奥の意志は揺らいでいなかった。

 

 

 

「私は笛を渡しておきながら、約束を守れなかった。お前が呼んでもよい兄なのだという信頼を、最後まで与えてやれなかった。お前が音を鳴らせなかった理由を思えば……お前を責める言葉など一つもない」

 

 

 

縁壱が何か言おうとしたが、巌勝はゆっくり首を横に振った。

 

 

 

「今度は違う。怖ければ吹け。

 

痛ければ吹け。寂しければ吹け。母上に何かあっても吹け。

 

父上がまたお前を打とうとしても吹け。誰かに侮辱されても吹け。私が遠くにいても吹け。

 

私が眠っていようと、鍛錬の最中だろうと、家の仕事をしていようと構わぬ。

 

この笛の音が聞こえたなら……今度こそ、本当に駆けつける」

 

 

 

巌勝は笛を見つめ、ごく低い声で付け加えた。

 

 

 

「今生では、必ず」

 

 

 

最後の言葉はあまりにも小さく、縁壱にはすべて聞き取れなかった。

 

 

 

それでも、兄の手から伝わる真心だけは十分に感じ取れた。

 

 

 

縁壱はしばらく何も言わず、それから笛を大切そうに胸へ抱いた。

 

 

 

そして、ほんの僅かに頷いた。

 

 

 

「分かりました、兄上」

 

 

 

その短い返事の後、二人の間から言葉が消えた。巌勝は部屋の中央に座り、縁壱も包みを傍へ置いて向かいに腰を下ろした。

 

 

 

縁壱は胸に抱いていた笛をそっと置いた。二人の間に置かれた小さな木片の上へ、障子紙を透かした淡い光が落ちた。

 

 

 

朝には兄が自分を抱き締めて泣き、昼には一緒に飯を食べ、独楽を回した。そのすべてが嬉しいのに、縁壱は一日のうちに変わった兄の姿を、どんな言葉で捉えればよいのか分からなかった。

 

 

 

巌勝もまた、弟の顔を長く見つめた。市場で笑っていたその顔にはまだ痣が残り、借りて着せた絹の下から古びた襟が覗いていた。

 

 

 

衣を一枚重ねてやったからといって、その下の傷まで消えるわけではない。彼は目を逸らさず、弟の目元と頬を見つめた。

 

 

 

いつか母の病状が落ち着き、縁壱が自分の衣を着て、この家の中でも心から笑える日が来たなら、今日の寒さを忘れてしまうのではないかと怖かった。

 

 

 

また鍛錬や家の務めを言い訳に、もう大丈夫なのだから振り返らなくてもよいと、自分を騙すのではないか。

 

 

 

巌勝は冷たい畳へ手のひらを置いた。戸の隙間から入る風、消えた火鉢、縫い目の絡まった袖が目の前にあった。

 

 

 

その乏しい暮らしの中で最も綺麗に保管されていたものが、自分の削った笛だという事実に、見下ろす目がまた熱くなった。

 

 

 

『忘れるな。お前がどれほど強くなろうと、この先さらに何百年生きることになろうと……この子が今日、お前の前に差し出したものを忘れるな』

 

 

 

地蔵菩薩が告げた因果が待っている。いつか再び鬼の道へ立つ運命を、この一度の機会だけですべて避けられたと思うことはできなかった。

 

 

 

だが、そのとき何を選ぶのかは今から積み重ねていかなければならない。再び人の身体を失う日が来ても、弟の笛を前に感じたこの心まで捨てたくはなかった。

 

 

 

縁壱は、そんな兄を静かに見つめていた。

 

 

 

透き通る世界に映る兄の心臓は、先ほどから何度も速く打っては、また落ち着くことを繰り返していた。

 

 

 

部屋を見回すたび筋肉が微かに固まり、自分を見るたび目元に涙が溜まった。

 

 

 

縁壱には、兄がなぜそれほど悲しんでいるのか、正確な理由は分からなかった。

 

 

 

今日より前のことを悔いているだけだと考えるには、その感情はあまりにも深かった。

 

 

 

まるで自分がとても長い間兄の傍から消えていて、ようやく再会した者であるかのように見えた。

 

 

 

けれど縁壱は尋ねなかった。

 

 

 

兄が話したくなる時が来れば、きっと話してくれるのだと思った。

 

 

 

今日、兄は自分が話せるようになるまで待ってくれた。

 

 

 

だから自分も、兄を待ってあげたかった。

 

 

 

縁壱は兄の手の甲の近くへ、自分の手を置いた。何と言えばよいのか分からなくても、傍にいることならできた。

 

 

 

巌勝はその手を退けなかった。二人の手の甲が軽く触れ合い、縁壱は兄の震えが少し治まるまでそのままでいた。

 

 

 

縁壱は冷たい床に触れていた指先を少し丸めた。兄の温もりが触れる場所は暖かかった。

 

 

 

夕風が軒先を撫で、古びた障子戸が小さく震えた。縁壱は傍へ置いていた包みが冷たい床に長く触れないよう、膝の上へ載せた。

 

 

 

どちらも先に言葉を口にしなかった。だが、縁壱が笛に触れてから顔を上げるたび、兄はほかへ目を逸らさず、その瞳を受け止めた。

 

 

 

二度目の人生を与えられたからといって、過去の罪が消えるわけではない。一度抱き締めただけで、弟が長く抱えてきた恐れが消えるはずもなかった。

 

 

 

二度目の人生を与えられたからといって、過去の罪が消えるわけではない。一度抱き締めただけで、弟が長く抱えてきた恐れが消えるはずもなかった。

 

 

 

だから待ち、自分がまた間違えたなら謝り、直していかなければならない。『良くしてやった』という言葉で今日を終えるのではなく、明日も同じ心で傍に残りたかった。

 

 

 

巌勝は笛から弟の顔へ視線を移した。明日も、その次の日も、何年が過ぎても、こうして向かい合っていられることを願った。

 

 

 

取り戻した一日が暮れようとしていた。彼はまだ、この子の兄として、その前に座っていた。




───

【後書き】

以前から、あの二人の兄弟はあまりにも交流が少なすぎるのではないかと感じており、少々感情移入(?)が行き過ぎた結果、兄上ならしてあげられたであろう待遇をこれでもかと縁壱に注いでしまいました。

かなりの長編ということもあり、このエピソードも二つの回に分けてお届けしております。(韓国の小説サイトである『ノベルピア』では、文字数が最大3万字を超えると連載システム上、投稿が難しくなるようでして……。今回のエピソードも文字数を計測してみたところ、ゆうに3万字を超えてしまったため、やむを得ず二分割いたしました)

この作品を執筆していると、昔の時間を測る単位や室町時代の生活様式について、半ば強制的に勉強させられることになります……。この時代の人々も格差や二極化が激しかったのだろうとはある程度予測していましたが、調べてみればみるほど凄まじい実態が見えてきました。二次創作を執筆する中で、こうした時代背景を自然と学び、知ることができるのは本当に興味深く、楽しい経験です。今後連載を続けていく上でも、こうした時代考証については……もちろん代替歴史(架空歴史)小説ではないので完璧な考証は難しいでしょう。しかし……それでも原作が日本で生まれた作品である以上、少しでも寄り添えるよう「努力」はしていきたいと考えております。

あ、それから母親である朱乃(あけの)の巫女に関するお話ですが、こちらは二次創作におけるオリジナル設定として、少し急ごしらえで盛り込んだものになります。
原作の基準では、母上は単純に日の神を信仰していたとされています。また、父親の名前も原作には表記されていないため、やむえずこちらで任意に名付けさせていただきました。それから、やはり韓国で執筆するよりは、こちらのサイトの性質上、日本語への翻訳や校正の確認を挟まねばならないため、当然ながら更新にお時間をいただく点についてはご容赦いただけますと幸いです。

……長々とした文章ではありますが、長編として末永く、たくさんのエピソードをお見せしたいという思いゆえに時間がかかってしまうのだと、どうかご理解いただけますと嬉しく思います。

改めて、このような長大な小説を読んでくださる読者の皆様に、いつも感謝しております。どれほど辛いことがあり、疲れ果てて泣きたくなるような夜があろうとも、常に屈することなく、自信を持って前へと歩みを進めながら、微笑みと愛する心を忘れない──そんな優しく、ハツラツとした皆様であられますよう、心から応援しております。それでは、今回はこの辺りで筆を置かせていただきます。

【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!

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