誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意)   作:つねお あきら

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第2話 回帰、慟哭した二人の兄弟、そして母……彼女との初めての出会い

――カッ!

 

 

 

七歳の幼い身体で目を覚ました継国巌勝は、勢いよく身を起こすと同時に、周囲の空気がまるで違っていることに気づいた。

 

 

 

それはまるで、視界を埋め尽くしていた地獄の真紅の炎が、一瞬にして硝子の破片のように砕け散ったかのような感覚だった。

 

 

 

地獄の灼熱によって肉が焼け爛れるだけではなく、魂の底まで炙られるかのような凄まじい高熱と硫黄の臭いに満ちていた空間。

 

 

 

焦熱地獄という場所で、自らの肉と骨が焼かれて灰となり、再び蘇ることを繰り返した五京三千兆年という、常識的な人間の頭では測ることすら不可能に思えるほど、

 

 

 

人類の歴史を越え、創造されては滅びる宇宙そのものの歴史を論じねばならぬほど長い過程で味わった、あの苦痛と熱気に比べれば、幼少期へ回帰した今の世界は、あまりにも遠く、美しく、温かかった。

 

 

 

起き上がると同時に、このあまりに懐かしくも異質な感覚へ適応するため、巌勝は幼くなった自らの肉体を観照しながら、一つずつ感覚を呼び覚まし始めた。

 

 

 

「ふううううう…………はああああ……」

 

 

 

しばらく自室と、その外へ続く世界を『視覚』で確かめた後、巌勝は幼い子供の肉体で久方ぶりに、肺の奥深くへ流れ込んでくる、ひんやりとして澄み切った朝の空気を吸い込み、ゆっくり吐き出した。

 

 

 

次に彼は『嗅覚』を呼び覚まし始めたが、自室で真っ先に鼻先を掠めた匂いに、すべての意識を奪われた。

 

 

 

数百年もの間忘れていた。それでも魂には消えぬ痕跡のように刻み込まれていた、懐かしくてたまらない、人間だった頃の香り。

 

 

 

それは決して、地獄の硫黄の炎によって鬼としての長い歳月を焼かれ続けた死体の悪臭でも、身体から流れた血が高熱で蒸発する時に立ち昇る、生臭い血の匂いでもなかった。

 

 

 

少し燻されたようでありながら、妙に心を落ち着かせる静かで甘い香り。そして、古い家そのものが抱く、香ばしく温かな匂いだった。

 

 

 

その正体は、武家でよく用いられる、陽に十分干された厚い畳から立ち昇る、長い年月を経て目が固く締まった藺草(=燈心草)特有の香りだった。

 

 

 

自室に漂う懐かしい匂いを確かめた後、巌勝は今度は『触覚』を確かめるように手を伸ばし、自分の顔と掌を撫でた。

 

 

 

そして寝床の傍らに置かれていた青銅の鏡を取り出し、回帰によって幼くなった自分の姿を観察し始めた。

 

 

 

鏡に映る自分の姿には、肉を裂いて生えていた虚哭神去のおぞましい眼球も、三対の異形の眼光も存在しなかった。

 

 

 

数百年にわたり人間を斬り、喰らい続けた、血管の浮いた異様な鬼の手――人の手というより獣の爪に近かった、あの手でもない。

 

 

 

白く滑らかで、柔らかく細い。骨髄さえまだ十分に育ち切っていない、か弱い七歳の人間の子供の身体だった。

 

 

 

続いて巌勝は掌を開き、また握ってみた。鬼だった頃の圧倒的な膂力は消えていたが、その代わり、自分の心臓から生きた人間特有の脈動が伝わってきた。

 

 

 

血が流れ、心臓が打ち、筋肉が微かに震える、この感覚。

 

 

 

彼は反射的に手首、肩、腰、膝の関節を順番に動かしてみた。

 

 

 

刀を握ったまま何千回、何万回と繰り返した動作の記憶は、驚くほど鮮明だった。

 

 

 

虚哭神去を振るった角度も、月の呼吸を展開する際に爪先から背骨を通り、肩へと流れていった力の経路も、数百年をかけて積み上げた剣理と心得も、すべて残っていた。

 

 

 

しかし、そのすべてを今すぐ再現できるわけではなかった。

 

 

 

頭では分かっていても、身体がついてこない。

 

 

 

腕を少し速く伸ばしただけで肩が軽く張り、鬼の身体であれば呼吸一つ乱れなかった動きを真似るだけでも、まだ育ち切っていない胸郭が少し速く上下した。

 

 

 

幼い肉体の筋肉と腱は、あまりにも正直に、今の限界を教えていた。

 

 

 

『なるほど。記憶と心得が残っているからといって、前世の力までそのまま戻ったわけではないのだな』

 

 

 

巌勝は鏡の中の七歳の自分を、しばらく無言で見つめた。

 

 

 

『月の呼吸も、透き通る世界も、痣も、赫刀も……この身体が受け入れられる段階まで、再び作り上げていかなければならない。』

 

 

 

『焦る必要はない。私はすでに一度、その道を歩いた。道を見失わぬ方法を知っている。』

 

 

 

『前世では強くなるために時を追った。だが今世では、人を守るために、身体と心を共に育てねばならない』

 

 

 

そう考えた瞬間、かえって心は不思議なほど静まった。

 

 

 

かつての自分なら、弟へ一歩でも遅れることを恐れ、幼い身体を壊してでも修練を強行したかもしれない。

 

 

 

しかし今は違う。もはや目的は、ただ力だけを求めることではなかった。

 

 

 

守るべき者たちが長く生き残れるよう、自分が先に壊れぬことのほうが重要だった。

 

 

 

その事実を受け入れると、巌勝は自然と、もう一度長く呼吸を整えた。

 

 

 

以前の自分なら、身体が耐えられないと知りながらも、弟へ遅れるかもしれないという恐怖と、家の期待に応えられなければ価値を失うという焦燥から、幼い肉体を壊してでも鍛錬を強行しただろう。

 

 

 

だが数百年を巡って戻った今では、そうした執着こそが、自分を他人の視線と比較の中へ閉じ込め、最後には家族まで失わせたのだと、痛いほどよく分かっていた。

 

 

 

まだ血管すら太く浮き出ていない小さな手を見下ろした巌勝は、後にこの手をどれほど多くの血で汚したのかを思い出し、

 

 

 

今度はこの手で病人へ薬を渡し、飢えた者へ食べ物を分け、自分より弱い存在を守ろうと、静かに誓った。

 

 

 

何より、今もっとも先に守らねばならぬ相手は、遥かな未来の誰かではない。同じ屋敷の冷たい部屋で暮らす弟と、病により命の灯火が弱まりつつある母なのだと、胸の奥深くへ刻み込んだ。

 

 

 

自らの身体の状態をある程度確認し終えた巌勝は、畳へ静かに手を触れながら、地獄で起きたことを一つずつ反芻し始めた。

 

 

 

地蔵菩薩の慈悲が込められた回帰丸は、奇跡のように彼を、戦国時代がまだ訪れる前――まさしく暴風前夜の時代へと戻した。

 

 

 

正確には、継国家の残酷で哀しく、最後には悲劇へ終わった運命の種が蒔かれ始める一四三四年、関東地方の東海道・相模国にある本家へ、寸分違わず彼を降ろしたのだ。

 

 

 

地獄にいた間は、目を閉じれば前世の黒死牟として過ごした数百年の孤独と、忌まわしい敗北の記憶が鮮明に蘇った。

 

 

 

だが目を開け、今自らの足で踏んでいる場所は、疑いようもなく幼い頃の自室だった。

 

 

 

いまだ実感が湧かぬような表情で、巌勝は朝日が障子を透かして淡く差し込む、あまりにも平凡な日常へ戻れたという事実を、なお信じ切れずにいた。

 

 

 

「戻ってきたのだな……本当に、戻ってきたのか。必ずあなたの信頼へ報います……どうか天から見守っていてください。もう一度、このような機会を与えてくださった御恩へ、必ず報いてみせます……」

 

 

 

その瞬間、巌勝は胸の一角から熱い何かが込み上げるのを感じた。

 

 

 

安堵と懐かしさ。そしてこの奇跡のような機会を与えてくれた地蔵菩薩への、言葉では表せない畏敬と感謝が入り混じり、彼はしばらく息の仕方すら忘れたまま、呆然と天井を見つめていた。

 

 

 

その時、背後の襖の隙間から、ごく微かな床の震えが伝わってきた。

 

 

 

前世で武の極致へ到達し、五百年近い心得を有していた巌勝の感覚は、幼い身体であっても、その気配の主を一瞬で特定した。

 

 

 

いや、特定するよりも先に、心の奥にある魂が反応し、激しく揺れ動いた。

 

 

 

「……」

 

 

 

襖の隙間からじっと兄の背を見つめていた幼い子供は、兄に自分の存在へ気づいてもらおうとするように、わざと小さく足音を立てた。

 

 

 

ギィ……ト、ト……。

 

 

 

襖がそっと開く。いつも竈の部屋へ落ちた枯葉よりも気配の薄かったその子は、兄の無関心と沈黙を邪魔せぬよう待ち続け、様子を窺いながら、自分に出せる限りもっとも小さな気配を立てた。

 

 

 

近づいてくる子供を見た巌勝は、まるで雷に打たれたかのような表情で、ゆっくり顔を向けた。

 

 

 

そこには、生涯を懸けて憎みながら、同時に死ぬ瞬間まで愛し、恋い焦がれた存在が座っていた。

 

 

 

しかし巌勝は、懐かしさより先に、心臓を抉られるような痛みを味わわねばならなかった。

 

 

 

継国縁壱…………。

 

 

 

だがそこには、後に神々の寵愛を受け、日の呼吸を振るう武神となる姿など、欠片もなかった。

 

 

 

ただ、父が振るう、我が子へ科すものとは到底思えぬ過酷な規律に縛られ、人を住まわせるのも躊躇われるほど、鬼の出そうな陰気な部屋と呼ばれる狭い一室で暮らし、

 

 

 

自分と比べればあまりに粗末で古びた武服を纏って立つ、幼い子供の姿があるだけだった。

 

 

 

背丈は自分と大きく変わらない。それでも、与えられた理不尽なまでに苛烈な家庭環境と待遇のせいで、自分より遥かに痩せ細り、棘だらけの枯れ枝のようになった弟が立っているだけだった。

 

 

 

縁壱が天下に二人といない身体的才能を持っていたからこそ耐えられたのであって、普通の子供の身体なら、とっくに命を落としていたかもしれぬほどの状態だった。

 

 

 

そのような状態にある幼い縁壱の顔は、目を背けたくなるほど傷だらけだった。

 

 

 

暴君のような父の無慈悲な手によるものに違いない青い痣が、目元や頬だけでなく全身へまだらに広がり、細い肌のあちこちが裂けて血のかさぶたを作っていた。

 

 

 

それでも縁壱は、痛いという呻き一つ漏らさなかった。

 

 

 

むしろ痛みを訴える一言すら口にせず、ただ静かに座り、兄の顔色を窺っていた。

 

 

 

乾いた唇とは対照的に、澄んで輝く瞳。

 

 

 

世のあらゆる理不尽を全身で受け止めながらも、毒気一つ宿さない透明な眼差しを前に、巌勝は自らの魂を切り刻まれているような心地になった。

 

 

 

巌勝は疼く額を押さえ、乾いた唾を呑み込んだ。

 

 

 

『縁壱は今、母上が病に伏していることを、すでに知っているはずだ。そして、いつ亡くなるかさえ正確に把握している……。』

 

 

 

『父上は相変わらず私たちを――正確には私を、家のための道具として見なし、当主となるための苛烈な鍛錬と学問を強いている。』

 

 

 

『弟には、ただ家の呪いだという馬鹿げた迷信だけで鞭を振るい、下の者たちまで自然と軽んじるよう、皆の前で縁壱を辱めようとした、あのくだらなく卑劣な罵声……。』

 

 

 

『縁壱。前世の私は、なぜ分からなかったのだろう。お前がこの小さな身体で、あらゆる悲しみと孤独を一人で呑み込んでいたということを。』

 

 

 

『これからは母上にも、早く薬と食事をこまめに召し上がっていただき、医師を呼んで、できる限り前世のあの日よりも長く生きていただけるよう、あらゆる手を尽くさねばならない……』

 

 

 

一方、弟だけでなく母まで本格的に支えようと深く考え込む巌勝の沈黙が長くなるにつれ、縁壱の瞳は不思議そうな色と心配に揺れ始めた。

 

 

 

自分が置かれた状況や、痛みで疼く身体の状態よりも、ただ愛する兄の具合が悪いのではないかと心配する――幼い子供とは思えぬほど成熟した弟の姿を見て、

 

 

 

巌勝は、前世の記憶の中で自らをあれほど締めつけ、焼き続けた醜い嫉妬と愛憎の残滓に過ぎなかった、取るに足らぬ感情が、弟の心配そうな顔を見た瞬間、溶ける氷のように消えていくのを感じた。

 

 

 

代わりに、完全な姿の弟へ会いたかった懐かしさと兄弟の愛情、そして罪のない弟と病の母を放置した罪悪感と申し訳なさという複雑な感情が、心臓へ押し寄せ、激しく脈打ち始めた。

 

 

 

ついに巌勝は、全身から込み上げる感情に理性を失い、その場から立ち上がった。

 

 

 

そして、回帰して久しいせいか、まだ馴染まぬ幼い身体で、歩き始めたばかりの子供のようによろめきながら駆け寄り、

 

 

 

膝をつき、静かに兄の反応を待っていた縁壱の小さな身体を、壊れてしまいそうなほど強く抱き締めた。

 

 

 

「……?」

 

 

 

突然の抱擁に、兄を静かに見ていた縁壱の身体は、困惑のあまり石のように固まった。

 

 

 

いや、正確には、縁壱の心の中で複雑な感情が交錯していた。

 

 

 

今のような兄になる以前、毎日のように父から死ぬほど打たれていた自分のため、真っ先に庇ってくれた兄の姿を、縁壱は忘れたことがなかった。

 

 

 

口が利けない『唖』を装っていた自分の代わりに、その場で苛烈な鞭を受けた優しい兄は、何も言わず笑いながら、小刀と、使用人に用意させた木片で、何かを作り始めた。

 

 

 

しばらくすると、自分へ渡されたものは、熟練の職人ではなく、あまりにも幼い子供の手で作られた、ひどく不格好な笛だった。

 

 

 

兄は笑いながら、その笛を自分へ手渡し、にっこりと微笑んだ。

 

 

 

「何かあったら、この笛を吹け。どれほど不格好な笛でも、兄である私が、お前を助けに、どれほど遠くても、どのような時でも駆けつける……必ず約束する!」

 

 

 

言葉を話せないと思っていた兄の惻隠之心だったのかもしれない。それでも、その好意と、純粋に弟を思う兄の姿に、縁壱は深く心を動かされ、無言で笛を強く握り締めながら感謝した。

 

 

 

しかし……正確には、その日を境に、兄は変わり始めた。

 

 

 

家の後継者として学問を修めるだけでなく、武術を学ぶことも侍の務めであったため、掌が血に染まるほど凄まじい努力を重ねる兄の姿を見ていた自分へ、

 

 

 

兄を指導していた武士が半ば戯れに、刀の握り方と振り方を大雑把に教え、手合わせをさせた。

 

 

 

その日初めて刀の握り方を教わった自分が、ほんの数度振っただけで、若く頑健で長年鍛錬してきた武士へ傷を負わせ、気絶させてしまった。

 

 

 

その光景へ驚愕した兄は、自分に向かって、どうやったのかと尋ねた。

 

 

 

その時の兄の顔には焦燥と欲が満ちていた……自分へ温かな笑みを向けてくれていた頃の面影は、どこにもなかった。

 

 

 

縁壱はそんな兄の姿を前に、無意識のうちに唖のふりをやめてしまい、『私は私なりの呼吸の仕方があり、人の身体を透かして見て、それへ対応しただけです』という趣旨の答えを口にしてしまった。

 

 

 

そして自分は、兄と家督を懸けて血生臭く争う関係ではなく、他の普通の家のような兄弟として遊びたいから、双六や凧揚げをしたいのだと、何気なく告げてしまった。

 

 

 

だが、その姿を見せた日から、兄はまるで別人のように変わり始めた。

 

 

 

自分のどの行動と、どの言葉が兄を刺激してしまったのだろう。あるいは、兄の心を悪い方向へ変えてしまったのだろうか。

 

 

 

自分が挨拶をしても、以前なら先に近づいてきて、手を差し出し、頭を撫でてくれた兄の姿は消えた。

 

 

 

むしろ自分を見る兄――巌勝の表情は……必死に自分を無視し、踏みにじろうともがく競争相手のものだった。

 

 

 

結局、縁壱は原因を正しく理解できぬまま、他人よりも遠くなってしまったこの関係を、自分にはどうすることもできないのだと悟った。

 

 

 

そしてさらに口数を減らし、行動も誰の目にもつかぬよう隠れ、ひっそり歩くことが習慣として身についていった。

 

 

 

見方を変えれば、兄はいつも『若当主』という重い枷と圧迫に追い立てられる日々の中で、その日、自分が見せた武勇によって、

 

 

 

優しく親切だった兄が、もしや弟である自分がその気になれば、自らの地位を脅かし奪う競争相手になったのだと誤解したのではないか――そう考え、罪悪感と申し訳なささえ抱いていた縁壱だった。

 

 

 

本当はただ、市場で兄弟が一緒に遊ぶ姿を見て、自分も普通の家の兄弟のように喧嘩をしながらも楽しく遊びたい。それだけが、縁壱の偽りない本心だったのに…………。

 

 

 

そんなふうに、いつも終始一貫して厳しく冷たい眼差しで弟を無視し、放っていた兄が、今は突然、全身を隠すこともなく震わせ、弟の肩へ顔を埋めて啜り泣いていた。

 

 

 

「すまない……縁壱。私が悪かった……! うあああああ……!!!!」

 

 

 

巌勝の喉を引き裂くような、凄惨な慟哭が迸った。

 

 

 

胸の奥へ溜まり続けた、前世で人間だった頃から、鬼となった後の歳月に至るまで――あらゆる複雑で多様な感情が凝縮された心の血涙が、七歳の子供の涙となって、弟の古びた衣を黒く濡らした。

 

 

 

なぜ、あれほど憎んだのだろう。

 

 

 

なぜ、あれほど純粋な弟の瞳を背け、自ら怪物となる道を選んだのだろう。

 

 

 

なぜ、鬼となった自分を斬り切れず、哀れんでくれた弟を罵り、憎むことばかりに必死だったのだろう……。

 

 

 

弟の温かな背が指先へ触れるたび、前世への凄惨な懺悔が脳裏を打ち据えた。

 

 

 

縁壱は、兄の身体から溢れ出る果てしない悲しみと、魂を絞り出すかのような真心の謝罪に、大きな衝撃を受けた。

 

 

 

生まれてから一度も見たことのない、兄の弱く、悲しみに沈んだ姿を前に、縁壱の眼にも赤い血管が浮かび、涙が溜まり始めた。

 

 

 

そして、あの日以来閉ざしていた縁壱の口が開き、涙をぽろぽろ流す兄へ、彼なりの温かな慰めの言葉を送った。

 

 

 

「兄上、泣かないでください。私は大丈夫です。本当に、大丈夫です……」

 

 

 

「何があったのかは分かりませんが……それによって生まれた悲しみは、どうか私を好きなだけ抱き締めながら、すべて吐き出してください。私たちは同じ日に、同じ時に生まれた双子の兄弟ではありませんか?」

 

 

 

「私はどのような時でも、兄上の味方です。歪んだ心も、泣きたい気持ちも、悲しい思いも、すべて解き放ってください。負の感情や邪念が、何も残らず空になるまで、泣いてくださって構いません……」

 

 

 

「……あああああ! ああああああ!!!!!!!! すまない…………」

 

 

 

「家の後継者などという取るに足らぬ地位へ食い尽くされ、本来なら守るべきだったお前と母上を放置したのは、弟を守り、病の母上へ孝養を尽くすべき長男の務めを捨てたのは、私だ……」

 

 

 

「たかが武術が何だ! たかが地位が何だ! たかが権力が何だ! なぜ私は、こんなもののために、ここまで変わってしまったのか……まことに、恨めしくてならぬ」

 

 

 

ぽたり、ぽたり、ぽたり…………。

 

 

 

滝のように流れ続ける涙の中でも、巌勝は必死に涙を堪えている縁壱と目を合わせた。

 

 

 

「いくらでも私を罵ってよい。いくらでも私を恨んでよい。いくらでも私を殴ってよい……本当に…………すまない…………縁壱……う、うう……うああああ!!」

 

 

 

途切れることなく繰り返される、涙に濡れた心からの謝罪に、縁壱もまた小さな両手で、自分へ酷くしたことへの悔いと、母を支えられなかった罪悪感に泣き叫ぶ、愛する兄の背を強く抱き返した。

 

 

 

兄弟が互いの体温を余すところなく分かち合い、部屋が揺れるほど響く泣き声――正確には、ほとんど一方的に泣き続ける巌勝の声が、静寂しかなかった継国邸から中庭へ、細く長く響いていった。

 

 

 

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どれほど長く、そうして泣いただろう……。

 

 

 

やがて泣き声が収まると、巌勝ははっと我に返った。

 

 

 

若当主としての体面さえ忘れ、弟の許しも得ず、いきなり抱き締め、無遠慮に振る舞ったことを思い出し、妙な恥ずかしさが込み上げた。

 

 

 

巌勝はそっと腕をほどき、自らの淡紫色の羽織の袖でようやく涙を拭いながら、温かな眼差しで自分を見つめる縁壱から目を逸らした。

 

 

 

「……すまなかったな、縁壱。私が幼稚にも突然騒ぎ立ててしまった。それに、愚かな父上のせいで疲れ、傷ついている……お前の許しもなく、勝手に身体へ触れ、抱き締めてしまった。さぞ不快だっただろう」

 

 

 

前世の記憶で、弟の才を欲し、妬んだあまり、いつも距離を置いていた自分の醜い振る舞いのせいで、もし弟の心を傷つけていたら――そんな恐れから反射的に飛び出した、兄なりの丁重な謝罪だった。

 

 

 

しかし縁壱は首を横へ振った。縁壱は、人間の感情の信号を透明に読み取る『透き通る世界』の眼を持っていたからだ。

 

 

 

しかもその深度は、極限と呼ぶべき第三段階の極意――無間神眼の境地へ、生まれた瞬間から到達していた。

 

 

 

ゆえに弟は、兄の謝罪に込められた申し訳なさと深い愛情を、一瞬で見抜いた。

 

 

 

縁壱は、前世を通じても兄の前ではほとんど見せたことのないほど、春の花のように華やかで澄んだ微笑みを口元へ浮かべた。

 

 

 

「いいえ、兄上。私は少しも不快ではありません。むしろ……生まれて初めて、もっとも温かな兄弟愛をいただいたような気持ちです」

 

 

 

自分へ向けられた、純粋な陽光のような弟の微笑みを見て、巌勝はますます胸が締めつけられた。

 

 

 

室町時代の苛酷な風習の中で、縁壱は双子の『次男』だというだけで、理不尽としか言いようのないほど人以下の扱いを受けて育った弟だった。

 

 

 

双子…………。

 

 

 

この時代、『双子』という存在は、不吉な凶兆だと見なされていた。

 

 

 

当時、室町時代から戦国時代へと続く武家社会において、家の存続と後継者の構図は、家そのものの運命を決める最重要問題だった。

 

 

 

通常であれば、当然、長男が家業を継ぐのが原則だった。だが双子は、ほとんど同時に生まれるため、『どちらが本当の兄であり嫡長子なのか』を巡り、激しい暗闘が起きやすかった。

 

 

 

さらに家臣たちが二人の子供を巡って派閥へ分かれ争い始めれば、下手をすれば家そのものが空中分解しかねない。

 

 

 

そのため武家では、双子が生まれると片方を存在しない者として扱ったり、寺へ送り僧侶にしたり、遠い親戚の養子へ出し、家の外へ隔離することさえあった時代だった。

 

 

 

そうした政治的理由とは別に、宗教的には『畜生腹(ちくしょうばら)』という、実に忌まわしい迷信まで存在した。

 

 

 

その内容は、犬や豚のような畜生は一度に複数の子を産むが、人間は一度に一人だけ子を産むのが自然の理である、というものだった。

 

 

 

ゆえに人間が一度に二人以上の子を産むのは、『前世が獣であったか、獣と変わらぬ不浄を犯したからだ』という、侮辱的な烙印を押す、馬鹿げた時代でもあった。

 

 

 

そのため双子を産んだ母親さえ、家の中で立場を失い、追い出される屈辱を味わうことがあった。自分と縁壱の母が置かれた状況を考えれば、巌勝は五臓六腑が捩れるような痛みを覚えた。

 

 

 

さらにこうした迷信や宗教の影響から、当時の人々は、人へ与えられる魂や神聖な才能、生命力は、一人の人間へ完全に集中されるべきだと考えていた。

 

 

 

しかし双子は、一つの生命力が半分へ分かれて生まれるため、不完全な存在だと見なされた。

 

 

 

皮肉なことに、今では憎悪しか抱けないが、前世で鬼舞辻無惨によって、彼の趣味でもあった西洋の文物や学問へ多少触れていた黒死牟…………。

 

 

 

いや、今こうして回帰した巌勝の立場からすれば、そんな迷信や呪いが当然、何の根拠もない戯言だということを知っていた。

 

 

 

薄れかけていた無惨との記憶を脇へ置き、巌勝は今へ集中することを決めると、縁壱の小さな手を両手で包み、前世の業を断ち切るような切実な口調で言った。

 

 

 

「縁壱。私の言葉を、しっかり胸へ刻んでほしい。もう、この家で人の顔色を窺う必要も、自分の存在を消して隠れて生きる必要もない」

 

 

 

「お前は、天が私へ授けてくださった、たった一人の大切な弟だ。だから私の前では、苦しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、憎いことも、寂しいということまで……」

 

 

 

「人ならば実にさまざまな感情を抱きながら生きるものだ。これからは……どのような感情であろうと、感じたのなら隠さず、すべて話してほしい」

 

 

 

「まだ足りぬところばかりの愚かな兄だが、それでも当主の後継者という立場にある。この兄が、全部聞き、全部守る」

 

 

 

「今日からは……せめて私の前だけでも、そうした気持ちを表してくれれば嬉しい。私の言っている意味が、分かるか?」

 

 

 

自分へ尽くし切れなかった愛を注ごうとする兄の口から出た『弟』という言葉が、縁壱の脳裏を強く打った。

 

 

 

これまで縁壱は、誰にも見せたことのない……いや、見せたくなかった心の奥深くで、いつも傷を抱えて生きていた。

 

 

 

自分と同じく、捨てられたも同然の母を常に傍らで支え、

 

 

 

それなりに自分を気にかけてくれていた兄の周囲へ近づくことさえ、堂々たる若当主である兄の地位を脅かしたり、父を怒らせて家へ争いを起こすのではないかと、いつも怯えて生きてきた。

 

 

 

その罪悪感が少しずつ薄れていくのを感じた縁壱は、俯いたまま、ずっと堪えていた一粒の涙を畳へぽとりと落とし、生まれて初めて、自分の孤独な胸の内を正直に告白した。

 

 

 

彼にとっては、それさえ非常に難しいことだった。

 

 

 

生まれた瞬間から透き通る世界によって、人の筋肉や血流だけでなく、自分へ向けられる不快感や恐れまで鮮明に読み取ってしまっていた縁壱は、口を開かなければ誰かを困らせず、気配を消せば

 

 

 

父の目へつきにくくなり、空腹や痛みを訴えなければ母や兄の負担にならずに済むと信じた末、沈黙そのものを生き延びるための習慣として身につけてしまっていた。

 

 

 

だからこそ巌勝が、これからは苦しさや寂しさまで隠さなくてよいと許したことは、縁壱にとって単なる優しさ以上の意味を持っていた。

 

 

 

長い間身についた習慣のせいで、唇が何度も開いては閉じる間、巌勝も弟を急かさず、自分の速度で心を開けるよう静かに待った。

 

 

 

そして、その待つ時間の末に、縁壱はついに胸の内を言葉へし始めた。

 

 

 

「私は……自分が生まれたこと自体が、兄上の重荷になっているのだと思っていました」

 

 

 

「父上は、いつも兄上を正しい後継者だと仰る一方、私には目を向けることすらなく、むしろ腹立ち紛れに私を打ち……母上を放置なさいましたが……」

 

 

 

「そうした姿を見て育った私は、ある意味、怒り、恨むより先に、諦めていたのかもしれません」

 

 

 

「そこまでは、まだ大丈夫でした。双子として生まれた運命へ従うこと自体には、問題がありませんでしたから」

 

 

 

「ですが、あの時、兄上が私のために父上の鞭を受けてくださったことで、『私』という存在が、尊敬し愛している兄上の邪魔になってしまったのではないかと……それが怖くて、ただじっと気配を消していたのです」

 

 

 

「『私』という存在のせいで、誰かが打たれ、悲しむことには、どうしても耐えられぬほどの罪悪感と自責を抱いてしまいます。その相手が……私が敬愛し、慕っている兄上であるなら、なおさらです」

 

 

 

静かに泣く弟の胸を抉る告白へ、巌勝は唇を噛み締めた。

 

 

 

これほど聡く、兄を思い、いつも母を気遣い、支えていた子供を、前世の自分は傲慢と嫉妬へ目を曇らせ、死地へ追いやったのだ。

 

 

 

巌勝は縁壱の全身を細かく見た。古びた武服の下から覗く手首と足首は、棘の枝のように痩せ細っていた。

 

 

 

七歳でありながら、若当主として飢えを知らず育った自分と比べると、弟の身体はあまりにも貧弱で、明らかな栄養失調へ蝕まれていた。

 

 

 

一日に、冷えて固くなった麦飯の塊一つと、塩漬けの大根一切れだけで命を繋ぐという、卑しいとされた庶女や奴婢よりも酷い食事のせいだった。

 

 

 

そんな弟の痛ましい姿へ、これ以上耐えられなくなった巌勝の眼に、雷のような鋭い光が走った。彼は部屋の外の廊下へ向かって声を張り上げた。

 

 

 

「外に誰かおらぬか! すぐに私の部屋へ来い!」

 

 

 

突然の若当主の怒号に、中庭で雑用をしていた使用人たちは顔色を失い、扉の前まで駆けつけ、膝をついた。

 

 

 

「は、はい、若当主様! お呼びでしょうか!」

 

 

 

「今は、どのくらいの刻だ?」

 

 

 

「巳時三刻ほどにございます」

 

 

 

巌勝は若当主特有の威圧を込めて、彼らを押さえつけるように言った。

 

 

 

「今すぐ腹が減った。台所へ行き、もっとも滋養があり、上等な菓子を持ってこい。ただし、この後に食事を取る。量は少なめに用意せよ!」

 

 

 

「弟の縁壱と共に食べる。少しでも遅れるか、膳を粗末に整えたなら、私は決して見過ごさぬ!」

 

 

 

使用人たちは、鬼の出る部屋の『痴れ者』と呼ばれていた縁壱の名が若当主の口から出たことへ驚きを隠せなかったが、巌勝の剣呑な気迫へ押され、尻餅をつくようにして台所へ走っていった。

 

 

 

しかし巌勝は彼らを送り出しても、しばらく廊下の先を見つめ、硬い表情を崩さなかった。

 

 

 

前世の自分にとって、若当主という地位は、弟より上にいるという証であり、いつか家を継ぐ『資格』の象徴だった。

 

 

 

だから縁壱が自分より優れた才を見せた時、その地位を奪われるかもしれないという恐怖と羞恥によって、自らを食い潰した。

 

 

 

しかし今は、まったく違う考えが浮かんだ。

 

 

 

『この地位がまだ私の手にあるのなら……これは優越を証明する飾りではなく、私が守るべき者たちのために振るう盾だ』

 

 

 

巌勝は、小さく幼い自分の手を見下ろした。

 

 

 

『父上が縁壱を迷信で踏みにじろうとするなら、私は若当主の権限で止める』

 

 

 

『使用人たちが父上の顔色を窺い、弟を虐げるなら、私を恐れさせてでも、その手を止めさせる』

 

 

 

『母上が治療を受けられないのなら、家の蔵を開けてでも薬材を引き出す』

 

 

 

しばらくすると、継国家の広い台所で若当主の突然の命令を受け、慌ただしく用意が進められた末、

 

 

 

巌勝を担当する比較的若い従者が、最高級の滋養菓子を載せた漆器の膳を両手で支え、巌勝の部屋へ入ってきた。

 

 

 

膳を置くと、また叱られることを恐れたのか、深く頭を下げ、そのまま素早く後退して逃げるように去った。

 

 

 

縁壱は、兄が持ってこさせた膳へ並ぶ菓子を見て、言葉を失った。

 

 

 

一四三〇年代、室町時代中期。この時代、それも関東の相模国にある由緒正しい名門武家・継国家で、若当主ほどの地位を持つ者へ許される茶菓の格式は、

 

 

 

当時の庶民には想像すら許されぬほど貴重で、贅沢なものだった。

 

 

 

一つ目の菓子は、米粉で作り、炭火で焼いた丸い餅へ、煮詰めた蜂蜜をたっぷり塗った団子だった。

 

 

 

二つ目は、上級武家が茶を飲む時に添えるという羊羹――精製した小豆を砂糖と寒天で固めた赤い羹――が、紫がかった艶を放ちながら端正に切り分けられていた。

 

 

 

最後には、見た目は素朴ながら中へ小豆餡が詰まった饅頭と、菓子と合わせやすいよう苦味を利かせた抹茶まで、隙なく揃えられていた。

 

 

 

「縁壱、早く箸を取れ。これはすべて、お前に食べさせるため用意させた菓子だ」

 

 

 

巌勝は食べ物を無駄にせぬよう、自ら膳の前へ座った。

 

 

 

続いて巌勝は、職人が檜を削り、赤みを帯びた天然漆を何十度も塗り重ねて仕上げた最高級の漆箸を取り、紫の光を帯びて固く整えられた羊羹を、一口大へ慣れた手つきで精緻に切り分けた。

 

 

 

すっ――、とん。

 

 

 

淡い艶を纏う甘い小豆の羹を丁寧に摘み上げた巌勝は、それを縁壱の口元へ優しく差し出した。

 

 

 

あまりにも分不相応なもてなしに、最初は断ろうとした縁壱だった。

 

 

 

しかし生まれて初めて見る、芳しく甘い菓子の香りと、自分へ限りなく柔らかな眼差しを向ける兄の手に目を奪われ、ただじっと座っていた。

 

 

 

幼い胃の中では、長い飢えに疲れ切った臓腑が動き、きゅるる、と小さな音を立てた。

 

 

 

「兄上……私が、このような貴重な菓子を、父上の許しもなく口にしてよいのでしょうか?」

 

 

 

縁壱が慎重に兄の顔色を窺いながら尋ねると、巌勝は柔らかく笑い、弟の肩を軽く叩いた。

 

 

 

「この家の後継者は私だ。私の権限で弟へ食べさせるのだから、この家の誰にも、お前を責めることはできぬ。何も心配せず、早く口へ入れよ」

 

 

 

兄の確かな保証を得た縁壱は、そっと口を開き、兄が差し出した羊羹一切れを受け入れた。

 

 

 

歯が柔らかく沈む、重みがありながらも滑らかな食感と共に、純粋で穏やかな甘味が、長い間、固い麦飯と塩漬けの大根一片で命を繋いできた子供の、まだ幼い味覚を刺激した。

 

 

 

続いて蜂蜜を煮詰めて塗った団子の香ばしさが口いっぱいに温かく広がると、縁壱の透明な両眼が丸く見開かれた。

 

 

 

「……まことに甘いです、兄上。口の中が、まるで雪が溶けるように温かく、優しいです。生まれてこの方、このように貴重で美味しい菓子は初めてです」

 

 

 

縁壱は口をもぐもぐ動かし、嬉しそうに団子を噛んで呑み込みながら、何度も感嘆した。

 

 

 

巌勝は、弟が生まれて初めて、まともな食べ物を十分に口へし、子供らしい幸福を味わっている姿を見つめた。

 

 

 

甘い小豆餡が僅かについた弟の小さな頬を見るだけで、前世で数百年もの間、自分を苦しめ続けた魂の飢えと空虚が、跡形もなく満たされていくような、心地よい精神の満腹感が押し寄せた。

 

 

 

その後、二人の兄弟は、春の日差しが差し込む部屋の中で、ゆっくり互いに菓子を分け合いながら、凍りついていた誤解と傷を温かく溶かしていった。

 

 

 

やがて午時の頃となり、太陽が空高く中央へ上がった頃。話し込んで再び腹が空いた巌勝は、廊下で待っていた使用人をもう一度呼んだ。

 

 

 

ガララッ!

 

 

 

「若当主様、お呼びでしょうか?」

 

 

 

巌勝は本来なら、自家でもっとも基本でありながら、権力の象徴でもあった本膳料理の形式で、最大四の膳まで華やかに整えよと命じるつもりだった。

 

 

 

しかし食事の前に、すでに十分な菓子を口にした縁壱は、かえって首を横へ振り、兄の厚意を切実に断った。

 

 

 

「もう兄上のご厚意によって、本来の私なら死んでも経験できなかったようなものまで十分いただきました」

 

 

 

「それに、このような料理を整えようとすれば、兄上の下で働く方々の負担も、あまりに大きいと思います」

 

 

 

「簡単な飯と汁だけでも命を繋ぐことはできます。簡素な食事になさってはいかがでしょうか。兄上が、あまりにも弟のために無理をなさっているようで心配になり、こう申し上げました」

 

 

 

すでに午前の菓子で幸せに満足していた縁壱は、これ以上の厚意を受ければ、かえって兄の立場へ傷がつくのではないかと心配していた。

 

 

 

その姿を見て、巌勝は溜息を吐きながら首を横へ振った。

 

 

 

「はあ……そこまで言われれば仕方あるまい。ならば膳は一の膳だけにしよう。ただし、本膳へ肉料理を加える。お前の身体のためだ。この点だけは、受け入れてほしい」

 

 

 

本来の本膳料理は、家の財政事情によって多少違いはあるものの、一の膳に当たる本膳は、基本的な飯と汁、最低限の菜だけで構成される形式だった。

 

 

 

しかし巌勝の権限で、例外として本膳へいくつか肉料理を足すという強い言葉に、縁壱は溜息を吐きながらも、

 

 

 

ただ自分のために嫌われる覚悟まで持つ兄へ、尊敬と痛ましさが入り混じった表情を向け、苦しそうに頷いた。

 

 

 

「……これほど心から私のためにしてくださることを、なお断り続ければ、兄上――いえ、若当主様の名声にも傷がつくかもしれません……。兄上のその願いの前では、ただ感謝するばかりです」

 

 

 

ようやく弟の頑固さを折れたと思った巌勝は、先ほどより柔らかな声で使用人へ、自分が言った通りに食事を用意させた。

 

 

 

しばらくすると、普段より少し大きな膳が兄弟の前へ並べられた。

 

 

 

まず、蒸籠で柔らかく蒸した白米と、大きな蛤を入れ、塩と清酒で澄んだ味へ仕上げた汁が置かれていた。

 

 

 

その周囲には、薄く切った茹で蛸と野菜を塩と酢で爽やかに和えた前菜、味噌と酒粕で深く漬けた大根と茄子の漬物が並んでいた。

 

 

 

さらに加えられたのは肉料理だった。これまで蔑まれ、軽んじられてきた縁壱のために、兄が用意させたものだった。

 

 

 

大きく二種類あり、一つ目は野生の雉肉を薄く切り、炭火で香ばしく焼いた料理。

 

 

 

もう一つは上質な塩を振って焼き上げた鯛の塩焼きだった。

 

 

 

「縁壱、早く食べなさい。全部、お前のために用意したものだ」

 

 

 

巌勝は、もっとも大きく身の厚い鯛の塩焼きから、自ら丁寧に骨を外し、縁壱の膳へ載せてやった。

 

 

 

縁壱は、生まれて初めて見る脂が乗った柔らかな料理の香りへ、思わず唾を呑み込みながらも、なかなか手をつけられずにいた。

 

 

 

しかし巌勝が何度も勧めると、ようやく小さな箸を取り、鯛の身を口へ運んだ。

 

 

 

ぱりっとした皮の内側から溢れる香ばしい魚の脂と、ほどよい塩気が子供の舌を刺激した。

 

 

 

「本当に……美味しいです、兄上。兄上も一度、召し上がってください」

 

 

 

眼を丸くしながらも兄を気遣い、箸で魚の身を取って渡そうとする、いじらしい弟の姿を微笑ましく見ていた巌勝は、静かに首を振った。

 

 

 

「私は、このようなものを恥ずかしいほど毎日のように食べていた。この膳は、ひたすらお前のためのものだ。兄のことは気にしなくてよい」

 

 

 

「ですが……」

 

 

 

「こら。兄の切なる頼みを、またそうして断るつもりなら、堅苦しく『若当主の命だ』とまで言わねば聞けぬのか?」

 

 

 

「大丈夫だ。兄としては、お前に何の遠慮もせず、ゆっくり、十分に食べてほしいのだ」

 

 

 

「……分かりました。それでは、引き続きいただきます」

 

 

 

縁壱は兄への感謝を忘れず、静かに食べ物を口へ運び続けた。

 

 

 

巌勝はその姿を見ながら、生涯味わったことのない奇妙な満腹感と幸福を覚えた。

 

 

 

二人の兄弟はそうして、広い部屋の中で静かに会話を交わしながら、空腹を温かく満たしていった。

 

 

 

巌勝は食事の最中も、弟が食べる速度を細かく見ていた。

 

 

 

最初は縁壱が空腹のあまり急いで食べるのではないかと心配したが、むしろ正反対だった。

 

 

 

縁壱は一口を口へ入れるたび、ゆっくり長く噛み、次の食べ物を取る前に、少しずつ箸を置いた。

 

 

 

普段食べる物が足りなかった子が食事へ飛びつく姿ではない。

 

 

 

目の前の良い食事さえ、自分が食べ過ぎれば誰かへ迷惑をかけるのではないかと心配しているような、慎重さだった。

 

 

 

「縁壱、腹はいっぱいか?」

 

 

 

「まだです」

 

 

 

「ならば、なぜ何度も箸を置く?」

 

 

 

縁壱はしばらく答えを躊躇した。

 

 

 

「……私が食べ過ぎれば、台所で用意したものが足りなくなるのではないかと思ったのです」

 

 

 

巌勝は一瞬、言葉を失った。

 

 

 

自分にとっては、『足りない』という概念さえほとんどなかった膳だった。

 

 

 

望めばいくらでも追加で出せと命じられ、残せば使用人が片づけることが当然だった。

 

 

 

しかし縁壱は、自分へ与えられた一食さえ、誰かの取り分を奪うことのように考えていた。

 

 

 

巌勝は無理に笑みを作り、弟の茶碗へ雉肉を一切れ、さらに載せた。

 

 

 

「心配するな。お前が腹いっぱい食べたからといって、この家の米蔵が空になることはない」

 

 

 

「むしろ、今までお前が食べられなかった分を考えれば、今日のこれでも足りぬくらいだ」

 

 

 

「ですが……」

 

 

 

「それに、健康を取り戻すことも、お前がせねばならぬことだ」

 

 

 

縁壱の眼差しが兄へ向いた。

 

 

 

「母上を守りたいと言っていただろう。お前が倒れたら、誰が母上の傍らへいる?」

 

 

 

「だから食べることも孝行だと思いなさい」

 

 

 

その言葉に、縁壱はしばらく考えた後、ゆっくり頷いた。

 

 

 

「そう仰るのであれば……食べます」

 

 

 

「そうだ。それでよい」

 

 

 

その時になってようやく、縁壱は少し前より気楽に箸を動かし始めた。

 

 

 

巌勝はそんな弟を見ながら、自分も飯を一口食べた。不思議なことに、生涯食べ慣れてきた白米なのに、今日は味がまったく違った。

 

 

 

前世で鬼となった後、人の食べ物を口にすることはできなくなった。

 

 

 

数百年もの間、人の血と肉で飢えを満たした。

 

 

 

その頃は、強くなるために食うという行為さえ手段に過ぎなかった。

 

 

 

味を楽しんだり、同じ膳へ座る者の表情を見ることなど、とうの昔に忘れていた。

 

 

 

しかし今は違った。

 

 

 

向かいで弟が慎重に汁を口へ運ぶ姿。

 

 

 

熱い汁で口の中を火傷しないよう、小さくふうふうと冷ます姿。

 

 

 

魚の身が美味しかったのか、瞳がほんの僅かに明るくなる様子まで、一つ一つ眼へ入ってきた。

 

 

 

巌勝は、その平凡さがどれほど尊いものかを、ようやく知った。

 

 

 

誰かと同じ膳へ座り、同じものを食べること。

 

 

 

腹が満ちれば満足し、美味しいものがあれば互いへ分け、次の食事が当然あると期待できる暮らし。

 

 

 

前世の自分が、強さのために捨てたものは、立派な名誉や理想だけではなかった。

 

 

 

まさに、このような些細な日常だった。

 

 

 

彼はふと思った。

 

 

 

これから縁壱に食べたいものができたら、できる限り食べさせてやりたい。

 

 

 

市場で見て不思議に思ったものがあれば一緒に見て、同年代の子供たちの遊びを羨ましがれば、自ら連れて行き、やらせてやりたい。

 

 

 

そうして一つずつ……前世の縁壱が十分に味わえなかった幼少期を、返してやりたかった。

 

 

 

それは、地獄でどのような刑罰へ耐えるよりも、自分にとって難しく、同時に大切な贖罪になるのかもしれない。

 

 

 

長い間、弟と深く話を交わしながら愛情を満たしていた巌勝は、ふと、自分が正確にどの時点へ戻ったのかを確かめる必要があると気づいた。

 

 

 

前世の記憶があまりにも膨大で、おおよその年齢以外、正確な季節を確かめるためだった。

 

 

 

巌勝は茶の膳を片づけに入ってきた老いた使用人へ、重い声で尋ねた。

 

 

 

「そなた。久しぶりに弟との話へ夢中になり、節気を忘れてしまった。今は何年の何月頃なのか、正確に申せ」

 

 

 

老いた使用人は、突然時期を尋ねる若当主の奇妙な質問へ首を傾げたものの、すぐに室町幕府の元号を思い浮かべ、丁重に腰を折った。

 

 

 

「若当主様、今は永享六年、万物が咲き誇る春の四月頃にございます。日の高さも真上となりましたので、午時の頃かと存じます」

 

 

 

使用人が退くと、巌勝は頭の中で素早く年を計算した。

 

 

 

使用人が言った時代を、自分が鬼として最後の生を終えた時代から逆算すれば、一四三四年の四月だった。

 

 

 

すべての悲劇を根元から断ち切り、設計を始めるには、これ以上ないほど完璧な時期だった。

 

 

 

「よし。まだ時間は十分にある」

 

 

 

巌勝は内心で安堵の息を吐いた。

 

 

 

しかしその安堵は、ごく短かった。

 

 

 

『十分にある』という言葉は、決して悠長に構えてよいという意味ではない。

 

 

 

母の病は、すでに進行している。

 

 

 

縁壱はまだ幼いが、このままなら、遠からず家を出る運命へ近づいていく。

 

 

 

そして遥か未来には、無惨と鬼殺隊、自分が再び鬼となる因果まで待っている。

 

 

 

すべてを一度に変えることはできない。

 

 

 

ならば、もっとも近いところから、一つずつ断ち切るしかない。

 

 

 

巌勝は食事が終わった後、膳を片づけに来た使用人たちを外へ出し、もっとも年嵩で口の堅い従者一人だけを別に呼び、廊下の角まで連れていった。

 

 

 

「これから私が言うことを、必要もなく父上へ言い触らすな。だが知られた時は、私が直接命じたと言えばよい」

 

 

 

老従者は、幼い若当主の突然低くなった声へ背筋を強張らせ、深く頭を垂れた。

 

 

 

「はい、若当主様」

 

 

 

「家でもっとも医術に優れ、口の堅い医師を二人、母上の部屋へ送れ。今日から最低でも一日二度、状態を診させ、少しでも病状に変化があれば、ただちに私へ報告させよ」

 

 

 

従者の眼が、ほんの僅かに揺れた。

 

 

 

これまで当主が、事実上放置していたも同然の正室の病へ、若当主が直接手を入れるという意味だったからだ。

 

 

 

巌勝は止まらなかった。

 

 

 

「私の個人の蔵にある薬材の目録も、すべて持ってこい。西域から入ったものと、朝鮮半島の商人が持ち込んだ薬材まで分けて医師へ見せ、」

 

 

 

「母上へ使えるものは、値を問わずすべて使わせろ。台所にも伝えよ。冷えて固い飯や薄い汁で済ませず、消化しやすい白米粥と肉の汁物を作り、体力を補わせよ」

 

 

 

「で、ですが若当主様。当主様がお知りになれば……」

 

 

 

「私が責任を取る」

 

 

 

短い一言だった。

 

 

 

しかしそこには、七歳の子供が口にできるとは思えぬほどの固さがあった。

 

 

 

巌勝は少し考え、言葉を加えた。

 

 

 

「父上が理由を問われたなら、私の健康を定期的に診るついでに、母上の病も一緒に診るよう、私が命じたと伝えろ」

 

 

 

「家の後継者である私が、母上の病によって家の体面が揺らぐことを懸念した、と言えば、父上も今すぐ強くは反論できまい」

 

 

 

「承知いたしました」

 

 

 

使用人が退くと、巌勝は静かに息を吐いた。

 

 

 

命令を出すこと自体は難しくない。

 

 

 

本当の問題は、その命令をこれからも守り通すことだった。

 

 

 

父は、この変化を快く思わないだろう。

 

 

 

縁壱の待遇を少し引き上げるだけでも、家の古い慣習へ逆らうと考える可能性が高い。

 

 

 

病に伏す朱乃へ、より多くの薬材と人員を使うことも、無駄だと切り捨てるかもしれない。

 

 

 

巌勝は、その反発まで、すでに計算していた。

 

 

 

自分はまだ七歳だった。

 

 

 

数百年の精神と経験を持っていても、形式上は父の命を受けねばならぬ幼い若当主だ。

 

 

 

家の中のすべての権限を好き勝手に振るえるわけではないからこそ、なお慎重でなければならなかった。

 

 

 

最初から感情だけを前へ出し、父と正面衝突すれば、かえって縁壱と母へ火の粉が飛ぶ可能性もある。

 

 

 

『まずは、私が持つ権限の範囲で動く』

 

 

 

家の食糧と衣服の配分、個人の蔵の薬材、自分を補佐する使用人と従者、若当主の健康と教育に関わる名目まで……。

 

 

 

これらをすべて使えば、今すぐ必要な最低限の変化は作れる。

 

 

 

そして父がその線すら越え、縁壱を再び虐待したり、母の治療を妨げようとするなら、その時は退かぬつもりだった。

 

 

 

巌勝の心の中で、すでに一本の線が引かれた。

 

 

 

家の慣習と父の権威より、家族の命と尊厳が先だ。

 

 

 

その線を越えた瞬間、自分は若当主という地位まで賭ける覚悟ができていた。

 

 

 

前世では、家を得るため弟を押しやった。

 

 

 

今度は弟を守るためなら、家を手放すことすらできる。

 

 

 

そう考えると、むしろ心は穏やかになった。

 

 

 

何十年も自分を縛りつけた『後継者』という言葉が、もう首を締める縄には思えなかった。

 

 

 

必要なら、手放せばよい。

 

 

 

守るべき人より大切な地位など、この世にはない。

 

 

 

『若当主の権威が母上と縁壱を守れぬのなら、そんな権威には何の価値もない』

 

 

 

彼は振り返り、何も知らぬ様子で自分を待っている縁壱へ、再び普段より柔らかな顔を向けた。

 

 

 

昼食を終えた後も、縁壱は兄から受けたあまりに過分な温情と恩義へ負担を感じていた。

 

 

 

別れの礼をして、自分の陰気な小部屋へ戻ろうとしたその時、巌勝は弟の痩せた手首を優しく掴んだ。

 

 

 

「あの小部屋で埃を吸いながら時を潰すな。ひとまず今日は、私と一緒に市場へ行こう。若当主として領民の暮らしを見回るついでに、私がお前へ広い世界を見せてやる」

 

 

 

「ですが、兄上……このように厚く接しているところを下の者たちに見られれば、兄上の威厳が立たなくなるのではありませんか」

 

 

 

「そうではない。むしろ下の者たちまで、お前を軽んじようとしていたからこそ、若当主である私がお前を遇し、守る姿を見せれば、彼らはかえって私の威厳を感じ、お前へあのような卑しい真似をできなくなる」

 

 

 

「それに、同じことを何度も言いたくはないが……お前は私の弟だ。誰からも侮辱され、後ろ指を差される理由など、欠片もない。自信を持ち、胸を張って堂々と生きてほしい」

 

 

 

そう言うと巌勝は、縁壱へ家の中でもっとも柔らかい最高級の絹の羽織を着せた。

 

 

 

そして護衛の兵を連れていくよう勧める使用人たちの言葉を無視しようとした。

 

 

 

だが兄を守りたいと願う縁壱の切実な頼みにより、最低限の使用人だけを伴い、相模国の活気ある市場へ出ることになった。

 

 

 

屋敷の正門を出る直前、縁壱の足がほんの一瞬止まった。

 

 

 

巌勝は、その微かな躊躇を見逃さなかった。

 

 

 

「どうした?」

 

 

 

「いいえ」

 

 

 

縁壱は習慣のように首を横へ振ろうとしたが、少し前に兄から言われた言葉を思い出したのか、再び口を開いた。

 

 

 

「……私がこのように兄上と並んで門を出てもよいのか、少し心配になりました」

 

 

 

巌勝の眼が細くなった。

 

 

 

「誰が駄目だと言った?」

 

 

 

「父上は以前から、私はできる限り人の目へつかぬほうがよいと仰っていました。家の凶兆が外の者へ知られれば、体面が傷つくと……」

 

 

 

その言葉を聞いた瞬間、巌勝の内側へ冷たい怒りが湧き上がった。

 

 

 

しかし彼は、弟の前で感情を爆発させなかった。

 

 

 

代わりに縁壱の手を、少し強く握った。

 

 

 

「よく聞け。お前が外へ出ることは、家の体面を傷つけることではない」

 

 

 

そして先に正門の外へ一歩を踏み出し、縁壱へ手を差し出した。

 

 

 

「むしろ、自分の血を分けた家族を恥じて隠すほうが、よほど恥ずべきことだ」

 

 

 

縁壱は兄の手と、開いた門の向こうを交互に見た。

 

 

 

その門の外は、彼にとってほとんど未知の世界だった。

 

 

 

母の部屋と自分の小さな部屋、時折許可を得て通る廊下。それが、縁壱の知る世界のほとんどだった。

 

 

 

遠くから市場の音を聞いたことはあっても、人々の中を歩いた記憶はほとんどない。

 

 

 

巌勝は急かさなかった。

 

 

 

静かに弟の反応を待ちながら、ゆっくりと手を差し出したまま待った。

 

 

 

しばらくすると、縁壱の小さな手が慎重に、その掌へ重なった。

 

 

 

「行こう」

 

 

 

二人の兄弟は、並んで門を越えた。

 

 

 

その瞬間、正門を守っていた兵士や使用人たちの間から、小さいながらも明らかなざわめきが起きた。

 

 

 

普段なら若当主の遥か後ろですら目にすることの難しかった次男が、今日は若当主の絹の羽織を纏い、兄と手を繋いで並んで歩いていたからだ。

 

 

 

何人かは反射的に縁壱の顔にある痣へ目を向け、何人かは互いに視線を交わした。

 

 

 

そのすべての反応を、巌勝は知っていた。

 

 

 

そして、わざと縁壱の手を離さなかった。

 

 

 

むしろ、さらに堂々と歩いた。

 

 

 

『見ておけ』

 

 

 

口には出さなかったが、その態度そのものが、そう宣言していた。

 

 

 

『この子は、私が隠すべき家の恥ではない。同じ血を分けた継国の子であり、私が守る弟だ』

 

 

 

縁壱もまた、周囲の者たちの視線を感じていた。

 

 

 

普段なら俯き、自分の存在感を消そうとしただろう。

 

 

 

しかし掌から伝わる兄の温もりが、その習慣をほんの少しだけ止めた。

 

 

 

完全に顔を上げることはできなかったが、少なくとも身体を縮こまらせることはなかった。

 

 

 

二人の兄弟が並んで踏み出す一歩一歩は、外から見れば、ただ市場へ遊びに出る幼い子供たちの平凡な外出に過ぎなかった。

 

 

 

だが縁壱にとっては、初めて家の塀の外で、自分の存在を隠さず歩く時間だった。

 

 

 

そして巌勝にとっては、前世の過ちを、人々の眼の前からひっくり返していく、最初の公然たる行動だった。

 

 

 

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一四三四年、関東の市場は、素朴でありながら活気に満ちた独特の気配で溢れていた。

 

 

 

四方から、商人たちの威勢のよい声が響き渡っていた。

 

 

 

縁壱は、生まれて初めて目にする広い世界と、人々の生き生きした姿へ心を奪われ、あちらこちらを見回した。

 

 

 

彼の眼には『透き通る世界』を通じて、自分に分かるものも、あるいは分からぬものも含め、あらゆる色の感情が、人々の間で調和しながら混ざり合う様子が映っていた。

 

 

 

値を交渉する商人と客。

 

 

 

子供の手を引く母親。

 

 

 

荷車を引く農夫と、長い旅の途中で休む行商人。

 

 

 

市場には疲労と喜び、苛立ちと温かさが入り混じった、無数の感情が生きて動いていた。

 

 

 

家の塀の中で、いつも沈黙し、気配を消してきた縁壱にとって、その複雑な喧騒は、むしろ世界が生きている証のように、不思議に感じられた。

 

 

 

そんな弟の眼差しへ、感動と興味、そして畏敬にも似た前向きな感情が混ざっていることへ気づいた巌勝は、新たな経験をする弟の傍らで、静かにその姿を見守った。

 

 

 

最初のしばらく、縁壱はどこへ眼を置けばよいのかさえ分からなかった。

 

 

 

魚屋の店先では銀色の鱗が日差しを受けて輝き、少し離れた場所では、鍛冶屋が真っ赤に熱した鉄を槌で打つたび、火花が小さな星のように飛び散った。

 

 

 

布を売る店の前では、藍色、赤、淡い草色へ染められた反物が風に揺れ、

 

 

 

子供たちはその下を走り回りながら、独楽を回したり、木の棒を手に悪戯めいた剣術の真似をしたりしていた。

 

 

 

縁壱の視線は、とりわけ同年代の子供たちへ長く留まった。

 

 

 

一人の子供が独楽へ紐を巻き、力いっぱい投げると、独楽は地面の上で勢いよく回った。

 

 

 

隣の子供が自分の独楽をぶつけ、相手の独楽を外へ弾き出すと、周囲から歓声が上がった。

 

 

 

別の子供たちは、紙と竹骨で作った凧を抱え、風のよく通る道へ向かって走っていった。

 

 

 

縁壱は、その姿をじっと見つめた。

 

 

 

顔には相変わらず大きな感情の変化はなかった。

 

 

 

だが巌勝は、弟の視線がほんの少しだけ長く留まることへ気づいた。

 

 

 

前世の記憶が蘇った。

 

 

 

初めて刀を握った日、縁壱は自分へ、剣術よりも双六や凧揚げをしたいと言った。

 

 

 

あの頃の自分には、その言葉が理解できなかった。

 

 

 

天下に二人といない才を持つ子供が、なぜ武を磨かず、くだらぬ遊びをしたがるのかと、もどかしく思うだけだった。

 

 

 

しかし今は分かった。

 

 

 

縁壱にとって、それはくだらぬ遊びなどではなかった。

 

 

 

平凡な子供になりたいという願いだったのだ。

 

 

 

兄弟でふざけ合い、友と勝負し、転んで膝へ土をつけ、日が暮れれば母へ叱られながら家へ帰る暮らし。

 

 

 

縁壱は、武神になることよりも、そんな素朴な日常のほうを欲していたのかもしれない。

 

 

 

「縁壱」

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「あの独楽は、面白そうに見えるか?」

 

 

 

縁壱はすぐ首を横へ振ろうとしたが、途中で止まった。

 

 

 

兄と眼が合った。

 

 

 

隠さず話してほしいと言われたことを思い出したのか、しばらく迷った末に、とても小さな声で答えた。

 

 

 

「……少し、やってみたいです」

 

 

 

その一言に、巌勝は笑った。

 

 

 

「よし。ならば買おう」

 

 

 

「え?」

 

 

 

「独楽だけでは物足りぬ。紐も予備を買い、双六盤も一つ見よう。凧は今日すぐ揚げる時間が足りぬかもしれぬが、気に入ったものがあれば買い、次に揚げればよい」

 

 

 

「兄上、そこまでしていただかなくても……」

 

 

 

「また、負担になると言うつもりか?」

 

 

 

巌勝がわざと眉を上げると、縁壱は口を閉じた。

 

 

 

兄は近くの雑貨屋へ行き、大きさの違う木の独楽を二つと、丈夫な紐、幼い子供が使いやすい小さな双六盤を選んだ。

 

 

 

凧の前では、むしろ縁壱のほうが長く迷った。

 

 

 

華やかな赤い龍が描かれた凧もあれば、武士の絵が描かれた凧もあった。

 

 

 

だが縁壱が最後まで見つめていたのは、これといった飾りもなく、白い紙の上へ小さな鳥が一羽だけ描かれた、素朴な凧だった。

 

 

 

「それがよいのか?」

 

 

 

「はい。空で、いちばん楽に飛べそうです」

 

 

 

巌勝は理由をそれ以上尋ねず、その凧も買った。

 

 

 

使用人が品物を受け取ると、縁壱はしばらく、それらを見つめたまま、どうしてよいか分からぬ様子だった。

 

 

 

生まれて初めて、誰かが自分のために玩具を買ってくれたのだ。

 

 

 

「兄上……」

 

 

 

「どうした?」

 

 

 

「私も、いつか兄上へ何か差し上げたいです」

 

 

 

その言葉に、巌勝は足を止めた。

 

 

 

「わざわざ返さなくてよい」

 

 

 

「ですが、いただいてばかりでは心苦しいです」

 

 

 

「ならば、いつか一緒に凧を揚げてくれ」

 

 

 

縁壱の眼が、少し大きくなった。

 

 

 

「それだけでよいのですか?」

 

 

 

「ああ。十分すぎるほどだ」

 

 

 

巌勝はそう言いながら、自分でも気づかぬまま笑っていた。

 

 

 

数百年の間、数え切れぬほどの武器と宝を見た。

 

 

 

鬼となった後には、人間が一生触れることさえできないような力まで手へ入れた。

 

 

 

それなのに今、自分がもっとも楽しみにしているのは、たかが弟と凧を揚げることだった。

 

 

 

その事実が、不思議なほど嫌ではなかった。

 

 

 

むしろ胸が温かくなった。

 

 

 

そして巌勝は、心の中で静かに誓った。

 

 

 

今度こそ、必ずその約束を守ると。

 

 

 

彼はその場で、買ったばかりの独楽の一つを使用人から受け取った。

 

 

 

「少し、やってみるか?」

 

 

 

縁壱は周囲を見回した。

 

 

 

市場の真ん中で、武家の子供が幼子のように独楽で遊んでもよいのかと心配している様子だった。

 

 

 

巌勝は、そんな弟の心を読んだように、人の通行を妨げない空き地を指した。

 

 

 

「あれほどの場所があれば、誰にも迷惑をかけぬ。それに、遊びにも最初は必要だ」

 

 

 

巌勝は自分も幼い頃以来、ほとんど手にしたことのない独楽の紐をしばらく眺め、曖昧な記憶を辿りながら胴へ巻きつけた。

 

 

 

数百年、刀を扱った指先の感覚があろうと、独楽を上手く回す方法まで勝手に身につくわけではない。

 

 

 

少し不格好に独楽を投げると、木の独楽は地面へ触れた途端に横へ傾き、何度かふらついた末、力なく倒れた。

 

 

 

「……」

 

 

 

縁壱が、独楽と兄の顔を交互に見た。

 

 

 

巌勝の耳先が、ほんの僅かに赤くなった。

 

 

 

「久しぶりだからだ」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「……笑いたければ、笑ってよい」

 

 

 

その言葉を聞き、縁壱の口元が、ごく僅かに上がった。

 

 

 

最初は声を出さぬよう堪えているようだった。

 

 

 

だが兄が、わざともう一度紐を巻こうとして指へ絡ませてしまうと、ついに小さな笑い声が漏れた。

 

 

 

「ふふ……」

 

 

 

巌勝は、その瞬間、手を止めた。

 

 

 

縁壱が笑った。

 

 

 

自分の前で。

 

 

 

誰かへ気を遣うために作った笑みでも、母を安心させるための表情でもない。

 

 

 

本当に面白くてこぼれた、七歳の子供の笑いだった。

 

 

 

その短い音は、巌勝にとって、どのような剣鳴よりも鮮明に聞こえた。

 

 

 

その瞬間、巌勝は、自分が縁壱へ返したいものは、良い部屋や食事だけではないと、はっきり悟った。

 

 

 

誰の顔色も窺わずに笑い、何の責任もなく遊び、転んでもまた立ち上がればよい、平凡な幼少期そのものだった。

 

 

 

病の母の杖となり、家の顔色を窺うため、あまりにも早く大人になってしまった弟へ、今日の独楽や、次の凧、双六のような、些細で温かな記憶を一つずつ積み重ねてやりたい。

 

 

 

いつか刀を握ることになっても、自分の人生すべてが戦いと責任だけでできていたとは思わぬように。

 

 

 

それもまた、前世の運命と戦い、自分がもう一度、兄になっていく方法なのだと考えた。

 

 

 

「そうだ。そのように笑えばよい」

 

 

 

縁壱は、自分が声を出したことへ遅れて気づき、少し戸惑った。

 

 

 

しかし巌勝は何事もなかったように、二つ目の独楽を差し出した。

 

 

 

「今度は、お前がやってみなさい」

 

 

 

縁壱は兄が巻いた紐の形を一度見て、そのまま真似た。

 

 

 

驚くべきことに、初めての試みにもかかわらず、指と手首の動きは過剰なほど正確だった。

 

 

 

紐を巻く間隔は一定で、独楽を投げる瞬間も、力が片側へ偏らなかった。

 

 

 

とん。

 

 

 

独楽は地面へ触れるや真っ直ぐに軸を保ち、澄んだ音を立てながら回り始めた。

 

 

 

巌勝の眉が、ぴくりと動いた。

 

 

 

『はは……こやつ、独楽まで初めてで上手いのか』

 

 

 

前世なら、その事実さえ劣等感の火種になったのかもしれない。

 

 

 

しかし今は、思わず笑いが漏れた。

 

 

 

剣術であれ独楽であれ、縁壱が上手いからといって、それを自分の敗北だと受け取る理由などない。

 

 

 

「上手いな」

 

 

 

巌勝が純粋に褒めると、縁壱はむしろ、その言葉へさらに驚いた。

 

 

 

兄は、自分の才を見ても冷たくならなかった。

 

 

 

眼差しも固くならなかった。

 

 

 

ただ、上手いと褒めてくれた。

 

 

 

その些細な違いが、縁壱の心へ残っていた恐れを、さらに一枚剥がした。

 

 

 

「兄上も、もう一度やってみれば、きっと上手くできます」

 

 

 

「そうか? なら、もう一度やってみよう」

 

 

 

二人の兄弟はしばらく、人通りの少ない空き地で、交互に独楽を投げた。

 

 

 

巌勝は二度目には少し上達し、三度目にはかなり真っ直ぐ回せるようになった。

 

 

 

縁壱は、兄の独楽が自分のものより長く回ると、初めて、勝負欲のような感情をほんの少しだけ見せた。

 

 

 

「もう一度、してもよいですか?」

 

 

 

「いくらでも」

 

 

 

何の意味もない遊びだった。

 

 

 

誰が勝っても何かを得るわけではなく、負けても失うものなどない遊び。

 

 

 

だからこそ、巌勝はこの時間が好きだった。

 

 

 

前世の自分と縁壱の間では、勝敗がいつも、あまりにも多くの意味を持っていた。

 

 

 

どちらが強いのか……。

 

 

 

どちらが優れているのか……。

 

 

 

誰が認められるのか……。

 

 

 

誰が家の名を継ぐのか。

 

 

 

すべての比較が、人の価値まで決める刃へ変わっていた。

 

 

 

しかし今、二つの独楽が地面の上でぶつかる間の勝敗には、何の意味もなかった。

 

 

 

負ければ、またやればよい。

 

 

 

勝てば、笑えばよい。

 

 

 

巌勝は、縁壱が望んでいたのが、まさにこのような関係だったのだと、今になって完全に理解できた。

 

 

 

兄弟は必ず、互いを越えねばならぬ競争相手ではない。

 

 

 

時には何の意味もない遊び一つを巡って笑い、負けたと文句を言い、次は勝つと口にするだけで、それで十分なのだ。

 

 

 

短い遊びを終えた後、縁壱は独楽を大切そうに使用人へ預けた。

 

 

 

その顔には、初めて屋敷を出た時よりも、明らかに子供らしい生気が増していた。

 

 

 

その時、巌勝は弟の視線が留まった先を、鋭い眼で捉えた。

 

 

 

縁壱の眼が向いていたのは、市場の片隅で甘い水飴の香りを漂わせながら、炭火で団子を焼く露店だった。

 

 

 

庶民は甘草や干し柿の甘味で満足せねばならぬ時代だったが、そこでは貴重な水飴を煮詰め、香ばしく焼いた米団子の上へたっぷり塗っていた。

 

 

 

しかし上流武家の子弟であっても、体面上、気軽に市場の食べ物へ口をつけることはできない。

 

 

 

それでも華やかに作られた色とりどりの餅と、甘い香りは、幼い弟の視線を繋ぎ止めるには十分だった。

 

 

 

「これ。ここにある菓子の中で、もっとも甘く柔らかなものを、三箱出せ」

 

 

 

巌勝は弟の願いを叶えるため、体面などまったく気にせず、使用人へ銀銭を渡し、菓子を買わせた。

 

 

 

しばらくすると、使用人が持ってきた柔らかな串へ刺された三色団子には、甘い水飴がたっぷり塗られていた。

 

 

 

巌勝は団子の串一本を取り、縁壱の口元へ差し出した。

 

 

 

「さあ、一口食べてみなさい。市場の人々が食べる菓子だが、口へすれば素朴で、飾り気がないながら、思った以上に美味いと感じるだろう」

 

 

 

縁壱は慎重に、団子を一口齧った。

 

 

 

もちもちとした餅の食感と共に、口いっぱいへ強く広がる水飴の甘味に、縁壱の両眼がきらきらと透明に輝いた。

 

 

 

巌勝は弟が生まれて初めて、『七歳の子供』らしい純粋な楽しさを感じながら、団子を美味しそうに食べる姿を見つめた。

 

 

 

それを見るだけで、数百年もの間、地獄の底で凍りついていた巌勝の胸に傷痕として残ったしこりが、温かな春風に触れ、少しずつ癒やされていくように感じられた。

 

 

 

ところが二本目の団子を取ろうとした縁壱の手が、ふと止まった。

 

 

 

子供は何も言わず、包まれた団子の箱一つを見つめた後、慎重に兄へ顔を向けた。

 

 

 

「兄上」

 

 

 

「どうした?」

 

 

 

「もし……この箱一つは食べずに、母上へ持って帰ってもよいでしょうか?」

 

 

 

巌勝の表情がほんの一瞬固まり、すぐ柔らかくほどけた。

 

 

 

「母上へ?」

 

 

 

「はい。母上は甘いものをたくさん召し上がることはできませんが、お身体の具合がよい時には、温かな茶と一緒に、ほんの少しずつ口にすることを好んでおられました」

 

 

 

「もちろん、病のため召し上がってはいけないものであれば、無理に勧めたりはしません。ただ今日、私が初めてこのように美味しいものを食べたので……母上にも、お見せしたいのです」

 

 

 

縁壱は言葉の最後を弱めながら、団子の箱を胸へ大切そうに抱いた。

 

 

 

生まれて初めて食べた貴重な菓子を惜しまず、真っ先に病の母を思う弟の態度へ、巌勝はしばらく何も言えなかった。

 

 

 

前世の自分は、どれほど多くのものを、自分一人のものにしようとしただろう。

 

 

 

当主の座も。

 

 

 

武芸の名誉も。

 

 

 

強さも。

 

 

 

そして、弟を越えたという評価さえも。

 

 

 

しかし縁壱は、初めて味わった甘味すら、自分が愛する者と分けることを最初に考えていた。

 

 

 

「ああ。そうしよう」

 

 

 

巌勝は、ゆっくり頷いた。

 

 

 

「ただし、母上の病を診る医師へ先に確認し、口にしても大丈夫だと言われたなら、お前自身の手で持って行きなさい」

 

 

 

「もし今は召し上がるのが難しいと言われたなら、身体が少し良くなった時に口にできるよう、きちんと保管しておけばよい」

 

 

 

「ありがとうございます、兄上」

 

 

 

縁壱の顔へ、小さな笑みが咲いた。

 

 

 

その笑みを見た瞬間、巌勝は、先ほど自分が下した命令が遅すぎなかったことを、心の底から願った。

 

 

 

市場の華やかな景色と、賑やかな人々の中で、長い間兄に世話を焼かれ、甘いものを食べていた縁壱だった。

 

 

 

だがいつの間にか時は大きく過ぎ、太陽が西の山へ傾き始め、空が赤い夕焼けへ染まり始める。

 

 

 

すると縁壱の澄んだ瞳へ、名残惜しさと共に、またあの冷たい小部屋へ戻らねばならぬという諦めの感情が浮かんだ。

 

 

 

しかしすぐに感情を整えた縁壱は、手に残った団子の箱をしっかり握り、袖へ指を添えながら、巌勝の周囲にいる使用人たちを見た。

 

 

 

そして彼らへ、そっと団子の箱を渡そうとした。

 

 

 

使用人たちは驚いて手を振った。

 

 

 

巌勝は、自分の菓子を下の者たちへ分けようとする縁壱の健気な心を理解し、落ち着いて諭した。

 

 

 

「縁壱。わざわざ使用人たちへ渡す必要はない」

 

 

 

「もちろん、彼らが私の頼みで午後遅くまで働いたことについては、後で私から追加の褒美を与えるつもりだ」

 

 

 

「だから、その菓子は全部、お前が食べればよい」

 

 

 

「私は、もう十分に腹が満ちています。それに、この方々がいなければ、私も兄上も、このように安全を守られながら楽しく遊び、菓子を食べることができたでしょうか?」

 

 

 

「さらに、この方々は、家の雑事を黙々と担ってくださっている方々です」

 

 

 

「だからこそ、兄上が先ほど仰った褒美もそうですが、私も僅かながら、このような貴重な菓子でも皆へ分けることが、家の品格を高め、皆も心から継国家へ忠義を尽くしてくださることに繋がると信じています」

 

 

 

「ですから、私のこの行いを、兄上にはどうか喜んで許していただきたいのです」

 

 

 

実際、縁壱は、彼らが父の命令によって、好き嫌いにかかわらず自分へ向けていた陰口や、暗に行ってきた振る舞いを、それほど大きく気にしてはいなかった。

 

 

 

むしろ継国家を支える彼らの献身と労苦へ、心から『感謝』を抱いていた。

 

 

 

ゆえに、こうした行いは、縁壱の性格からして決して偽りでできるものではなかった。

 

 

 

だからこそ巌勝も、弟のこの性分には、両手両足を上げて降参するしかなかった。

 

 

 

「ふう……そうだな。その心を持ち、実際に行動へ移すことは、書物だけを読み、口先だけで語るどの君子より、遥かに立派だ」

 

 

 

「私個人としても、弟がこのような性質を持っていることを兄として誇らしく思う」

 

 

 

「そして公の立場では、若当主として、弟が下の者たちへこのような模範を示してくれることを、まことに恵まれたことだと思う」

 

 

 

感心した巌勝は弟の頭を撫でた。

 

 

 

続いて、縁壱が差し出した団子の箱を受け取り、自分の周囲にいた使用人たちへ渡しながら声を張った。

 

 

 

「今日は、そなたらの務めとはいえ、私的な用で午後遅くまで時間を使わせた。その分は、後に金銭であれ他の形であれ、褒美を与えるつもりだ」

 

 

 

「この菓子を受け取ることについては、私へ感謝する必要はない。弟へ感謝せよ」

 

 

 

「弟のこの行いに報いるためにも、そなたらが今後さらに我が家の務めへ励むものと、私は信じて疑わぬ」

 

 

 

「これほどの恩を受けてなお、また私の耳へ弟への悪い噂が入るようなことがあれば……その時は、私がそなたらを守るなどという考えは捨てよ」

 

 

 

使用人たちの労を労いながら、縁壱の面目を高める巌勝の威厳ある言葉に、彼らは二人の兄弟へ感謝の礼をした。

 

 

 

この時を境に、彼らの間で縁壱へ向ける視線と噂が少しずつ変わり始めるのは、それからある程度の時間が経ってからのことだった。

 

 

 

「では……今日はもう帰ってよい。本当にご苦労だった」

 

 

 

淡々としていながらも、使用人を気遣って、短く解散を告げるような巌勝の言葉へ、彼らは心から頭を下げ、それぞれ自分の家へ散っていった。

 

 

 

短い沈黙の後、巌勝は突然、縁壱の手を取り、冷たい気が漂う、縁壱の小さな一間へ向かった。

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

市場から戻るまで、縁壱は兄が自分を先に兄の部屋へ連れていこうとしているのだと思っていた。

 

 

 

しかし巌勝は本館を通り過ぎ、自分が普段ほとんど足を踏み入れたことさえなかった、屋敷の片隅へと進路を変えた。

 

 

 

華やかな廊下の柱と、よく磨かれた床板が一つ、また一つと消えていき、人の出入りが少ない端へ入るほど、周囲の空気は目に見えて変わっていった。

 

 

 

壁には長い間手入れされていない痕跡が残り、軒の下には湿気を吸った木の臭いが濃く漂っていた。

 

 

 

屋敷の内側の部屋とは違い、風を防ぐ障子は古び、床は昼間に十分な陽を浴びていないせいで、夕暮れ前からすでに冷気を帯びていた。

 

 

 

巌勝はその道を歩きながら、自分の歩みが少しずつ遅くなっていくのを感じた。

 

 

 

自分は、確かに同じ家で暮らしてきた。

 

 

 

ほんの数度、廊下を曲がり、塀一枚を越えれば届く距離だった。

 

 

 

それなのに前世の自分は、ここがどれほど寒いのか、どのような臭いがするのか、夜になればどれほど暗くなるのかさえ、まともに知らなかった。

 

 

 

「兄上?」

 

 

 

縁壱が振り返ると、巌勝は努めて平静を保ちながら尋ねた。

 

 

 

「お前の部屋は……ここだったのか?」

 

 

 

その問いを聞いた縁壱は、むしろ当然のことのように頷いた。

 

 

 

「はい。私はいつも、ここで暮らしていました」

 

 

 

いつも。

 

 

 

その一言が、巌勝の胸を深く刺した。

 

 

 

ついに縁壱が、古びた襖をそっと開いた。

 

 

 

すうっ――。

 

 

 

部屋の中から、冷たく淀んだ空気が静かに流れ出した。

 

 

 

巌勝は中へ一歩踏み込み、そのまま立ち止まった。

 

 

 

部屋と呼ぶことさえ憚られるほど、狭かった。

 

 

 

大人一人が両腕を伸ばせば、両方の壁へ指先が触れそうなほどの空間。

 

 

 

畳は古び、ところどころ目がほつれ、縁には湿気を吸って黒く変色した跡が残っていた。

 

 

 

壁には冬の風が入り込んだのか、紙を何重にも貼り重ねて塞いだ跡があった。

 

 

 

隅に置かれた火鉢はあまりに小さく、部屋全体を暖めるどころか、指先を温める程度しかできそうになかった。

 

 

 

布団は薄かった。いや、薄いという言葉さえ優しすぎた。

 

 

 

古びた布の中から綿がほとんど抜け、ところどころ床の硬さがそのまま伝わるほどだった。

 

 

 

枕は長い間押し潰されたせいで、ほとんど平らになっていた。

 

 

 

子供の部屋ならあるはずの玩具も、本も、綺麗な服もなかった。

 

 

 

小さな木箱一つと、水鉢。

 

 

 

繕いながら着てきた武服が数着……。

 

 

 

そして母の部屋へ行き来する時に履いていたであろう、古びた草鞋…………。

 

 

 

それが、縁壱の持つほとんどすべてだった。

 

 

 

巌勝は部屋の中をゆっくり見回し、何も言えなかった。

 

 

 

今日一日、自分は弟へ良いものを食べさせた。

 

 

 

絹の羽織を着せた。

 

 

 

初めて見る世界を見せた。

 

 

 

しかし、この部屋は静かに語っていた。

 

 

 

たった一日の厚意だけでは、縁壱が耐えてきたこれまでの日々は消えないのだと。

 

 

 

この子が今日笑ったからといって、昨日までの寒さと飢えが、無かったことになるわけではないのだと。

 

 

 

『私は……いったい、何を見て生きていたのだ』

 

 

 

巌勝の指先が、細かく震えた。

 

 

 

前世の自分は、縁壱の才能だけを見ていた。

 

 

 

刀を一度握っただけで武士を倒した才能。

 

 

 

自分が生涯辿り着けなかった透き通る世界。

 

 

 

日の呼吸。

 

 

 

そして最後には、自分が越えることのできなかった武神の境地。

 

 

 

だが今、目の前にあるのは、そうしたものではなかった。

 

 

 

そのすべての才を持つ子供が、毎夜横になっていた古びた布団だった。

 

 

 

空腹のまま身体を丸めた、冷たい畳だった。

 

 

 

誰からも愛される資格などないと、自分自身を低くしながら生きてきた、七歳の弟の暮らしだった。

 

 

 

巌勝は何も言わず部屋へ入り、掌を畳へついた。

 

 

 

冷たかった。

 

 

 

太陽が完全に沈んでもいないのに、掌を通して伝わる冷気は、はっきりと感じられた。

 

 

 

冬がどれほどだったのか、想像する必要さえなかった。

 

 

 

「縁壱」

 

 

 

「はい、兄上」

 

 

 

「冬も……ここで寝ていたのか?」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「火鉢は?」

 

 

 

縁壱は、部屋の隅の小さな火鉢を見た。

 

 

 

「父上が、火をたくさん使えば贅沢だと仰ったので、ひどく寒い日にだけ、少し焚きました」

 

 

 

巌勝は眼を閉じた。

 

 

 

少しでも気を抜けば、また泣き出してしまいそうだった。

 

 

 

だが今回は、泣くより先に、するべきことがあった。

 

 

 

『これは、必ず変える』

 

 

 

彼は心の中で、断固として結論を下した。

 

 

 

『今日一日、よくして終わりにはしない。食事も、部屋も、衣服も、治療も、すべて変える』

 

 

 

『母上と縁壱が、この家の中で人として生きられるようにする。その過程で父上と衝突せねばならぬなら……その時は、衝突する』

 

 

 

巌勝が部屋をさらに詳しく見ていくと、古びた武服の袖には、色の違う布が不揃いに縫いつけられていた。

 

 

 

誰が繕ったのかと尋ねると、縁壱は、病の母へ負担をかけたくなくて、自分で縫ったのだと答えた。

 

 

 

部屋の片隅、小さな盆へ置かれた薬草と水鉢も、夜ごと咳き込む母へ持っていくためのものだと説明した。

 

 

 

その時になってようやく巌勝は、自分が温かな部屋で眠っていた夜ごと、七歳の縁壱が一人で母を支え、水と薬を用意していたという事実を、目の前の痕跡から実感し始めた。

 

 

 

前世では、その姿を見てむしろ母の愛を独り占めしていると妬んだ自分を、骨身へ染みるほど責めた。

 

 

 

そしてこれからは、看病を弟一人へ背負わせず、侍女と医師をつけ、自分も共にすると、きっぱり約束した。

 

 

 

孝行とは、幼い身体が先に倒れるまで自分を酷使することではない。

 

 

 

そう兄から言われ、さらに――

 

 

 

「私は、お前に長く生きてほしい」

 

 

 

という低い声を聞いた縁壱は、しばらく何も言わず、兄を見つめた。

 

 

 

巌勝は、いつか自分が再び強さや使命へ埋没しそうになった時には、今日見たこの冷たい部屋と、古びた衣へ残る縫い目を必ず思い出そうと、心へ刻み込んだ。

 

 

 

前世では、父から認められなくなることを恐れ、沈黙した。

 

 

 

今度は、その沈黙から捨てるつもりだった。

 

 

 

そして巌勝は、もう一つ悟った。

 

 

 

地獄で幾度となく口にした『贖罪』とは、遥かな未来の巨大な戦いだけを意味するものではない。

 

 

 

目の前の弟が飢えぬようにし、病の母がきちんと治療を受けられるようにする。

 

 

 

そうした小さな選択から変わってこそ、自分は本当に変わったと言えるのだ。

 

 

 

巌勝はゆっくり立ち上がり、部屋の障子を調べた。

 

 

 

穴の空いたところと、隙間のあるところを、眼で一つずつ確かめた。

 

 

 

畳の状態と、布団の厚さも記憶した。

 

 

 

明日になれば、大工と使用人を呼び、この部屋を直させるつもりだった。

 

 

 

いや、できることなら、この部屋そのものを使わせないつもりだった。

 

 

 

母の近くへ、縁壱が暮らせるまともな部屋を用意し、食事と衣服も自分と変わらぬよう支給させる。

 

 

 

そしてそのすべてが父との衝突へ繋がるのなら、逃げるつもりはなかった。

 

 

 

『どうせ、いつかはぶつからねばならない』

 

 

 

巌勝は静かに考えた。

 

 

 

『ならば、今ぶつかるほうがよい。縁壱がさらに傷つき、母上がさらに衰えてからでは、遅い』

 

 

 

その時だった。

 

 

 

部屋の片隅の小さな木箱の上へ置かれた、見覚えのある一つの物が、巌勝の眼に入った。

 

 

 

最初は、自分の見間違いだと思った。

 

 

 

あまりにも見栄えが悪かった。

 

 

 

長さも短く、穴の間隔も揃わず、幼い子供の手で不器用に削ったため、表面のあちこちへ小刀の跡が荒く残っていた。

 

 

 

それでも、彼はそれが何なのか、一瞬で分かった。

 

 

 

「……」

 

 

 

巌勝の呼吸が止まった。

 

 

 

笛だった。

 

 

 

遠い昔、幼い縁壱へ自分が作ってやった、世にも不格好で拙い木の笛。

 

 

 

巌勝の視界が、一瞬にして揺れた。

 

 

 

今いる冷たい部屋が消え、前世の最後の記憶が重なった。

 

 

 

老い、皺だらけになった縁壱。

 

 

 

八十を越える身体でありながら、自分の前へ現れ、刀を構えた弟。

 

 

 

寿命が尽きる寸前まで、自分を完全に斬り切ることができぬまま、立ったまま死んだ、その人。

 

 

 

そして、その死んだ身体から、自分が見つけた古い笛。

 

 

 

何十年もの歳月を経ても捨てず、懐へ抱き続けていた、まさにそれ。

 

 

 

前世の黒死牟は、その笛を見て初めて悟った。

 

 

 

自分にとっては幼少期の取るに足らぬ記憶の一つに過ぎなかったものが、縁壱にとっては生涯、胸へ抱いて生きるほど大切な兄弟愛の証だったということを。

 

 

 

その笛を見て、自分がどれほど醜く生きたのかを、初めて直視した。

 

 

 

そして今、その笛が、また眼の前にある。

 

 

 

まだ割れてもいない。

 

 

 

まだ八十年分の手垢にも染まっていない。

 

 

 

巌勝は、自分でも気づかぬまま、その前へ膝をついた。

 

 

 

手を伸ばしかけ、止めた。

 

 

 

軽々しく触れることさえ、恐ろしかった。

 

 

 

「縁壱……」

 

 

 

普段より遥かに沈んだ声へ、縁壱が兄の傍らへ寄った。

 

 

 

「はい、兄上」

 

 

 

「この笛を……まだ持っていたのか?」

 

 

 

縁壱は、兄がなぜそれほど驚いているのか分からぬように、眼を瞬かせた。

 

 

 

そして、あまりにも自然に答えた。

 

 

 

「もちろんです」

 

 

 

その一言で、巌勝の胸は崩れ落ちた。

 

 

 

「なぜ……?」

 

 

 

問いを口へ出した後で、自分でも愚かな質問だと思った。

 

 

 

縁壱はしばらく笛を見つめ、ほんの小さく微笑んだ。

 

 

 

「兄上から、いただいたものだからです」

 

 

 

「……」

 

 

 

「兄上は、何かあれば、これを吹けと仰いました。どれほど遠くても、どのような時でも駆けつけると、約束してくださったではありませんか」

 

 

 

縁壱は、笛を両手で大切そうに持ち上げた。

 

 

 

「私はその後、一度も笛を吹くことはできませんでしたが……それでも、これを見ていると、以前、兄上が私を守ってくださった時を思い出します」

 

 

 

巌勝は顔を伏せた。

 

 

 

『一度も吹けなかった』。

 

 

 

その言葉の意味を、彼は知っていた。

 

 

 

笛を吹いて自分を呼べば、兄へ迷惑がかかると恐れたのだろう。

 

 

 

父が怒るのではないかと心配したのだろう。

 

 

 

自分が存在すること自体、兄の負担になると信じていたから、助けを求めることさえ罪のように感じたのだろう。

 

 

 

それでも、笛だけは捨てなかった。

 

 

 

前世では、八十を越えるまで。

 

 

 

今世では、まだ七歳の今も。

 

 

 

巌勝は両手を強く握った。

 

 

 

爪が、小さな掌へ食い込んだ。

 

 

 

数百年もの歳月、自分が追い求めた名刀、名誉、地位、強さが、一瞬であまりにも取るに足らぬものへ思えた。

 

 

 

この世で、自分が作ったものの中で、誰かが一生抱き続けたものは、精妙な剣術でも、偉大な名でもなかった。

 

 

 

幼い不器用な手で削った、不格好な笛一つだった。

 

 

 

そして、それは力ではなく、愛で作ったものだった。

 

 

 

巌勝の眼へ、また涙が溜まった。

 

 

 

しかし今回は、声を上げて泣かなかった。

 

 

 

それを必死に呑み込みながら、縁壱の手と笛を一緒に包み込んだ。

 

 

 

「縁壱」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「これからは……本当に、呼んでくれ」

 

 

 

縁壱は静かに兄を見つめた。

 

 

 

巌勝の淡紫色の瞳は少し濡れていたが、その内側にある意志は揺らいでいなかった。

 

 

 

「以前の私は、この笛を渡しておきながら、その約束を守れなかった。お前が私を呼んでもよい人間だという信頼を与えられなかったのだから、結局、お前が笛を吹けなくなったのも私のせいだ」

 

 

 

縁壱が何か言おうとしたが、巌勝はゆっくり首を横へ振った。

 

 

 

「今度は違う」

 

 

 

「怖いなら、吹け」

 

 

 

「痛いなら、吹け」

 

 

 

「寂しいなら、吹け」

 

 

 

「母上へ何かあった時も、吹け」

 

 

 

「父上がまたお前を打とうとした時も吹け。誰かがお前を侮辱した時も吹け。私が遠くにいても、吹け」

 

 

 

「私が眠っていようと、鍛錬の最中であろうと、家の務めをしていようと、構わぬ」

 

 

 

「この笛の音が聞こえたなら……今度は本当に、駆けつける」

 

 

 

巌勝は笛を見つめ、ひどく低い声で付け加えた。

 

 

 

「今世では、必ず」

 

 

 

最後の言葉はあまりにも小さく、縁壱には完全には聞き取れなかった。

 

 

 

それでも、兄の手から伝わる真心だけは、十分に感じ取ることができた。

 

 

 

縁壱はしばらく何も言わず、笛を胸へ大切に抱いた。

 

 

 

そして、ごく小さく頷いた。

 

 

 

「分かりました、兄上」

 

 

 

その短い返事の後、二人の間から言葉が消えた。

 

 

 

巌勝は、これ以上部屋の中をまともに見回す自信がなかった。

 

 

 

古びた布団も。

 

 

 

冷たい畳も。

 

 

 

繕われた服も。

 

 

 

小さな火鉢も。

 

 

 

そのすべてが、自分が見て見ぬふりをしてきた時間の証に思えた。

 

 

 

縁壱もまた、今日一日だけで、あまりにも多くの出来事を経験した。

 

 

 

自分を遠ざけていた兄が突然、抱き締めて泣いた。

 

 

 

良い食事を食べさせてくれた。

 

 

 

市場へ連れて行ってくれた。

 

 

 

人々の前で、自分を弟だと堂々と呼んでくれた。

 

 

 

そして今は、自分が一生大切にしようと思っていた笛の前で、また申し訳ないと話している。

 

 

 

言葉では表し切れぬほど、多くの感情が、二人の幼い胸の中を行き交った。

 

 

 

巌勝は、部屋の中央へ静かに座った。

 

 

 

縁壱も、その向かいへ座った。

 

 

 

二人の間には、笛が置かれていた。

 

 

 

昼の間、あれほど多くの言葉を交わしたというのに、不思議と今は、言葉より沈黙のほうが多くを伝えていた。

 

 

 

巌勝は、縁壱の顔をゆっくり見つめた。

 

 

 

少し前、市場で独楽を回しながら笑った子と、同じ顔だった。

 

 

 

しかし、この部屋の冷たい空気の中へ座らせると、現実が再び鮮明になった。

 

 

 

眼元へ残る青痣。

 

 

 

頬の薄い傷。

 

 

 

長い間、まともに食べられなかったため肉のついていない頬。

 

 

 

絹の羽織の下へ隠れた、古びた武服。

 

 

 

それらは、今日一日の幸福だけでは消えなかった。

 

 

 

巌勝は、その事実からあえて眼を背けなかった。

 

 

 

むしろ、長く見つめた。

 

 

 

自分が犯した過ちと、見て見ぬふりをした結果を、忘れないためだった。

 

 

 

人は楽になれば、過去を簡単に忘れる。

 

 

 

状況が良くなれば、最初に何が間違っていたのかも薄れていく。

 

 

 

自分は、それが怖かった。

 

 

 

いつか母の病が落ち着き、縁壱が良い服を着て笑う日が訪れた時、今日のこの部屋の寒さを忘れてしまうのではないか。

 

 

 

また家の務めや鍛錬を言い訳に、家族を後回しへしてしまうのではないか。

 

 

 

だから巌勝は、この光景を一つずつ心へ刻んだ。

 

 

 

割れた畳の目。

 

 

 

風が入り込む障子の隙間。

 

 

 

火を惜しんだため黒く冷えた、小さな火鉢。

 

 

 

継ぎ当てられた布の色がばらばらな縁壱の服。

 

 

 

そして、そのすべての貧しさの中でも、もっとも綺麗に保管されていた笛。

 

 

 

『忘れるな』

 

 

 

巌勝は、自分自身へ命じた。

 

 

 

『お前がどこまで強くなろうと、どれほど高い地位へ上ろうと、いつか何百年をさらに生きることになろうと、この部屋を忘れるな』

 

 

 

力の目的を忘れた瞬間、人は再び怪物になり得る。

 

 

 

前世の自分こそ、その証だった。

 

 

 

巌勝は、自分がこれからどのような形で再び鬼へなるのかを知っていた。

 

 

 

地蔵菩薩が言った通り、因果は容易には避けられない。

 

 

 

ならばなおさら、人間である今から、心の基準をはっきり定めておかねばならない。

 

 

 

いつか再び人の肉体を失ったとしても、人を守る心まで失わぬために。

 

 

 

縁壱は、そんな兄を静かに見つめていた。

 

 

 

透き通る世界で見える兄の心臓は、少し前から何度も速く打ち、また落ち着くことを繰り返していた。

 

 

 

部屋を見回すたびに筋肉が小さく強張り、自分を見るたび、眼の縁へ涙が溜まった。

 

 

 

縁壱には、兄がなぜそこまで悲しんでいるのか、正確な理由までは分からなかった。

 

 

 

今日より前のことを後悔しているのだと考えるには、その感情の深さがあまりにも大きかった。

 

 

 

まるで自分が、ひどく長い間、兄の傍らから消えていて、ようやく再会した者のように見えた。

 

 

 

しかし縁壱は、尋ねなかった。

 

 

 

兄が話したくなる時が来れば、話してくれるだろうと思った。

 

 

 

今日、兄は自分を待ってくれた。

 

 

 

ならば自分も、兄を待っていたかった。

 

 

 

その小さな思いやりが、二人の兄弟の間へ、新しい形の信頼を作り始めた。

 

 

 

部屋の外では、夕方の風が軒先を撫でて通り、古びた障子がごく小さく震えた。

 

 

 

少し前まで市場の騒がしい声と、温かな食べ物の匂いに包まれていた二人の兄弟は、今や縁壱が一人で耐えてきた冷たい部屋の中で、互いへ向かい合っていた。

 

 

 

どちらも、先に言葉を口へできなかった。

 

 

 

それでも不思議なことに、その沈黙は、過去の冷え切った沈黙とはまるで違った。

 

 

 

以前は互いへ近づけぬために生まれた壁だった。

 

 

 

今の沈黙は、あまりにも多くの思いが一度に溢れ、何から言葉へすればよいのか分からず生まれたものだった。

 

 

 

そして、その静かな時間の中で、巌勝はもう一つ、心へ刻んだ。

 

 

 

二度目の人生を与えられたからといって、過去の罪が消えるわけではない。

 

 

 

一度の抱擁と優しい言葉だけで、縁壱が生涯抱いてきた恐れが、すべて消えるはずもない。

 

 

 

だから巌勝は、急がないことにした。

 

 

 

弟が自ら近づける時まで待つ。

 

 

 

自分がまた間違えたなら謝り、直す。

 

 

 

そして一日一日の行いによって、変わったことを見せ続けるつもりだった。

 

 

 

完璧な兄になるより、最後まで傍らを守る兄になることのほうが、大切だった。

 

 

 

今日一日だけ、弟へ良い兄になるだけでは足りない。

 

 

 

明日も……。

 

 

 

その次の日も……。

 

 

 

何年が過ぎても。

 

 

 

自分が生きている限り、ずっとこの子の兄でなければならない。

 

 

 

それこそが、数百年もの間破った約束を、もう一度始める唯一の方法だった。

 

 

 

 

 

 

 




───

【後書き】

以前から、あの二人の兄弟はあまりにも交流が少なすぎるのではないかと感じており、少々感情移入(?)が行き過ぎた結果、兄上ならしてあげられたであろう待遇をこれでもかと縁壱に注いでしまいました。

かなりの長編ということもあり、このエピソードも二つの回に分けてお届けしております。(韓国の小説サイトである『ノベルピア』では、文字数が最大3万字を超えると連載システム上、投稿が難しくなるようでして……。今回のエピソードも文字数を計測してみたところ、ゆうに3万字を超えてしまったため、やむを得ず二分割いたしました)

この作品を執筆していると、昔の時間を測る単位や室町時代の生活様式について、半ば強制的に勉強させられることになります……。この時代の人々も格差や二極化が激しかったのだろうとはある程度予測していましたが、調べてみればみるほど凄まじい実態が見えてきました。二次創作を執筆する中で、こうした時代背景を自然と学び、知ることができるのは本当に興味深く、楽しい経験です。今後連載を続けていく上でも、こうした時代考証については……もちろん代替歴史(架空歴史)小説ではないので完璧な考証は難しいでしょう。しかし……それでも原作が日本で生まれた作品である以上、少しでも寄り添えるよう「努力」はしていきたいと考えております。

あ、それから母親である朱乃(あけの)の巫女に関するお話ですが、こちらは二次創作におけるオリジナル設定として、少し急ごしらえで盛り込んだものになります。
原作の基準では、母上は単純に日の神を信仰していたとされています。また、父親の名前も原作には表記されていないため、やむえずこちらで任意に名付けさせていただきました。それから、やはり韓国で執筆するよりは、こちらのサイトの性質上、日本語への翻訳や校正の確認を挟まねばならないため、当然ながら更新にお時間をいただく点についてはご容赦いただけますと幸いです。

……長々とした文章ではありますが、長編として末永く、たくさんのエピソードをお見せしたいという思いゆえに時間がかかってしまうのだと、どうかご理解いただけますと嬉しく思います。

改めて、このような長大な小説を読んでくださる読者の皆様に、いつも感謝しております。どれほど辛いことがあり、疲れ果てて泣きたくなるような夜があろうとも、常に屈することなく、自信を持って前へと歩みを進めながら、微笑みと愛する心を忘れない──そんな優しく、ハツラツとした皆様であられますよう、心から応援しております。それでは、今回はこの辺りで筆を置かせていただきます。

【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!

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