誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意)   作:つねお あきら

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第3話 回帰、慟哭した二人の兄弟、そして母……彼女との初めての出会い 第2編(完)

「…………」

 

 

 

言葉もなく向かい合って座る二人のいる部屋へ、夕暮れの光が長く差し込んでいた。市場から戻った後も、笛を間に置いたまましばらく言葉を継げずにいた兄弟のうち、先に沈黙を破ったのは縁壱だった。

 

 

 

つい先ほどまで自分の掌の上に置かれていた、不格好な木の笛を見つめながら、

 

 

 

それが遠い昔、兄が自分へ渡してくれた約束の証であることを改めて噛み締めていた縁壱は、胸の片隅が温かく溶けていくような喜びを感じる一方で、

 

 

 

昼から自分の帰りを待っているであろう母の姿が、絶えず脳裏へ浮かぶのを止めることができなかった。

 

 

 

今日初めて兄と共に市場を歩き回り、普段なら口にすることさえ難しい甘く貴重な食べ物を味わい、

 

 

 

同年代の子供たちが遊ぶような玩具まで胸に抱いて過ごした半日は、縁壱にとって、生まれて初めてと言ってもよいほど幸福な時間だった。

 

 

 

そして縁壱の懐には、市場で自分の分として受け取った菓子の中から、母へ渡すために最後まで食べず、別に包んでおいた小さな包みが、今も大切に収められていた。

 

 

 

楽しい時間を過ごしている間も、それだけは一度たりとも忘れなかった。だからこそ、懐の中で感じる小さな包みの感触は、むしろ部屋で一人待っている母への心配を、さらに鮮明なものにしていた。

 

 

 

だが、幸福であればあるほど、その分だけ、今この瞬間にも冷たい部屋へ一人横たわり、自分の帰りを待っている母を、あまりにも長く一人にしてしまったという罪悪感も大きくなっていった。

 

 

 

「兄上……今日は、私には身に余るほど多くのものを与えてくださいました。兄上と共に市場を歩いて過ごした半日が、どれほど幸せだったのか、何からお話しすればよいのか分かりません。

 

ですが……お部屋に一人横になっておられる母上が心配です。お身体が悪いまま、私が戻るのを待っておられるはずなのに、楽しいからという理由で、あまりにも長く席を外してしまったのではないかと気にかかります」

 

 

 

母・朱乃へ向ける縁壱の孝心は、幼い頃からきわめて深いものだった。

 

 

 

前世でも、母の左半身が麻痺していることを知ると、母が倒れぬよう常に身体を寄せ、揺るぎない杖となって傍らを支え続けた子供だった。

 

 

 

誰かに褒められるためでもなければ、父や家へ自分の存在価値を証明するためでもない。

 

 

 

ただ、自分を産み、愛してくれた母が病に苦しんでいる――その単純な理由一つだけで、小さな身体を喜んで杖の代わりへ差し出した子供だった。

 

 

 

巌勝は、そんな弟の健気でありながら切ない心を見つめ、縁壱の頭を優しく撫でた。

 

 

 

今はもう、前世のように、その行いを父と母の歓心を買うための卑劣な策だと誤解することはなかった。

 

 

 

むしろ、あれほど純粋な孝心を、自分はいかに残酷に捻じ曲げて見ていたのかを思い出し、胸の片隅が冷たく疼いた。

 

 

 

「心配するな、縁壱。市場へ出る前に、医師たちへ母上のご容体を診るよう頼んでおいた。

 

私たちがいない間は侍女に傍らを守らせていたゆえ、母上を一人残して出てきたわけではない」

 

 

 

「私がいない間も、傍らにいてくださる方を用意してくださったのですか? 医師の方々も、母上を診に来てくださったのですか……?」

 

 

 

縁壱が澄んだ瞳を瞬かせながら尋ねると、巌勝は弟が安心できるよう、自分が手配しておいたことを一つずつ説明した。

 

 

 

「家の中でも慎重な診立てで知られる医師を二人、お招きした。父上には、私の身体を定期的に診るついでに、母上のご気力も併せて診ていただくのだと伝えてある。

 

まずは、私に許されている財と人手でできることから始めた。私の分として保管されていた薬材や、朝鮮、西域から渡ってきたものも、医師たちに調べていただくよう頼んだ。

 

母上のご病気に合うものがあれば惜しまず使う。ただし、薬を選び煎じることは、あの方々の判断へ任せてある。

 

台所には、母上がお飲み込みになりやすい粥や汁物を用意するよう命じた。何をどれほど召し上がれるかも見ながら整えるゆえ、お前一人が食事や薬まですべて心配せずともよい」

 

 

 

縁壱は懐に抱いていた包みを見下ろした。市場にいる間も、何度となく母のもとへ戻らなければと思っていた。誰かが代わりに守ってくれていると聞いても、長く自分が担ってきた役目を突然手放すことはできなかった。

 

 

 

巌勝は、その躊躇いを見て取った。若当主に許された財で人と薬材を手配したからといって、それだけで弟がすぐに心を休められると思ったのは早計だった。

 

 

 

昼に何を頼んでおいたのか先に話してやっていれば、市場でも、もう少し心配せずに済んだのかもしれない。

 

 

 

「先に知らせておくべきだったのに、私が遅かったな。母上に必要なものがあれば、お前とも相談しよう。

 

傍らで見ていて気づいたことは、私よりお前の方が多いだろう。私が用意したものに足りぬものがあれば、その時も教えてくれ」

 

 

 

父がその世話まで取り上げようとするなら、正面から立ち向かうつもりだった。しかし今は、まだ起きてもいない争いよりも、弟へ伝えられていなかったことを一つずつ話す方が先だった。

 

 

 

縁壱は、兄も自分と同じように母の病状を気遣い、自分には持てなかった権限まで使って世話を整えてくれたという事実に、深く胸を打たれた。

 

 

 

母を一人にしてしまったという心配は少し軽くなったが、同時に、ただでさえ忙しい兄へ自分の役目まで背負わせてしまったような申し訳なさが込み上げてきた。縁壱は膝の上で両手を固く組み、さらに決意を宿した眼差しで兄を見つめた。

 

 

 

「兄上がそこまでお考えくださっていたとは……私と母上のためにお力を尽くしてくださり、ありがとうございます。それならば、私はなおさら母上のお傍を守らなければなりません。

 

左半身をお支えすることは、私がいつもしてきたことです。そのことまで兄上にお任せするわけにはまいりません。

 

兄上は、これからこの家を率いていかれるお方です。私たちの世話のために学問や武芸を学ぶ時間を失えば、父上にお叱りを受けてしまいます。

 

母上のお傍は私へお任せになり、兄上に必要なことへお力を注いでいただきたいのです」

 

 

 

いつも病の母を思い、兄の将来まで案じている縁壱の肩へ載せられた義務の重さは、年齢を考えればあまりにも大きすぎた。

 

 

 

普通の子供なら、母が病気だと泣いて縋ったり、自分もつらいと駄々をこねたりする方が、むしろ自然な年頃だった。

 

 

 

だが縁壱はすでに、自分の欲求を後回しにして誰かを世話することを、当たり前のこととして受け入れていた。

 

 

 

それは間違いなく美しい孝心だったが、巌勝の目には一方で、あまりにも早く大人になってしまった弟の傷のようにも映った。

 

 

 

巌勝は弟の固い決意を聞きながら、その心を見抜けなかった前世の自分を思い出した。

 

 

 

病む母を支える小さな手を見ても、自分の居場所を奪おうとする企みだと思っていた。

 

 

 

本当は縁壱が望んでいたのは、兄の時間を奪わず、母を転ばせぬようにすることだけだったのだという事実が、目の前で握られた弟の手を通して、改めて鮮明に迫ってきた。

 

 

 

巌勝は縁壱と目線を合わせるため、冷たい畳の上へ膝をついた。

 

 

 

そして弟の痩せた両肩をそっと抱き、低く、けれど心のこもった声で語り始めた。

 

 

 

「縁壱、その務めはお前一人だけのものではない。母上にお仕えし、お世話することは、この家の長男であり兄でもある私が、まず背負うべき務めなのだ。

 

これまで……私は長男であるという驕りに酔い、幼稚にも鍛錬ばかりへ夢中になって、母上のお身体が麻痺し、苦しんでおられることに気づけなかった。

 

そんな未熟な兄のために、お前はその幼い身体で母上の杖となり、一人で重い荷を背負ってきたのだな。これからは、私が見落としてきたことをお前へ尋ね、共に見ていきたい。

 

もう一度、この兄が心から詫びよう、縁壱。こんな不甲斐ない兄を、どうか許してくれ」

 

 

 

巌勝の目元には、再び悔恨の雫が滲んだ。

 

 

 

いつか家のことを整理し、より多くの人を守る道へ進まなければならないという使命を胸に抱いていた。

 

 

 

弟へ降りかかる悲劇を防ぐためなら、恐怖に退くまいと、地獄で数え切れぬほど誓ってきた。

 

 

 

前世の妻と子供たちへ犯した過ちが心に残り、二度と家庭を築くまいとさえ思っていたにもかかわらず、

 

 

 

七歳の身体へ戻り、大切な者たちと再び向き合うと、固めてきたはずの心とは裏腹に、涙はあまりにも容易く流れた。

 

 

 

鬼の身体を持っていた頃は、数え切れぬ殺戮と惨劇を見ても氷のように固まっていた感情が、人間の幼い身体へ戻った途端、これまで積み重ねてきた数百年分の後悔と悲しみを一度に吐き出しているかのようだった。

 

 

 

涙を抑えなければと思いながらも、今だけは、それを無理に塞ぎ込むことの方が、また別の嘘であるように感じられた。

 

 

 

縁壱には、兄の心のさらに深いところまでは分からなかった。けれど、自分と目線を合わせて謝る兄を見ていると、傍へ寄りかかりたいと思いながらも、迷惑ではないかと縮こまっていた心が少し和らいだ。

 

 

 

『兄上も……申し訳ないと仰ることが、こんなにもおつらかったのだな』

 

 

 

縁壱は巌勝の胸へ頬を擦り寄せながら、静かに首を横へ振った。

 

 

 

「いいえ、兄上……私のためにこれほどまで心を砕いてくださっているのに、何をこれ以上責められましょう。母上も、兄上がお傍へ来てくだされば喜ばれるはずです。

 

ですから、あまり悲しまないでください。今日、兄上と共にしたことは、すべて私の大切で嬉しい思い出として残ります」

 

 

 

ほおおおお……。

 

 

 

巌勝は腕の中でいつしかすすり泣いていた弟を宥めながら、前世で月の呼吸を修めていた時のように、まず自分の呼吸からゆっくりと整えた。

 

 

 

幼い肺と筋肉では、前世の剣術を完全に再現することはできなかったが、呼吸が乱れていることに気づき、それを正すことには慣れていた。震えていた指先が少し落ち着くと、彼は急かすことなく、弟の背を静かに叩いた。

 

 

 

「今夜は、私の部屋で眠りなさい。この部屋は日が落ちると風が冷たい。母上とお前が、もっと楽に過ごせる部屋も用意するつもりだが、その前に、今日からでも温かな場所で休んでほしいのだ」

 

 

 

「ですが兄上は、どちらでお休みになるのですか? 今日も私を連れて歩いてお疲れでしょうに、寝床まで譲っていただいては、私が安心して休んでもよいものか分かりません」

 

 

 

巌勝は弟が話し終えるまで待ってから、額にかかった髪を優しく払った。

 

 

 

「私は母上のお傍で休めばよい。もし何か必要なものがあれば、私が侍女か医師を呼ぶ。お前が一晩中、物音へ耳を澄ませながら待たずともよいということだ。

 

お前がいつもしてきたことを、今日くらいは兄にも任せてはくれぬか? 縁壱、身体が疲れているなら休んでよいのだ。

 

母上へお仕えする力を養うためでも、私の頼みを聞くためでもない。今日、楽しく歩き、走ったお前が、疲れた目を無理に開けていてほしくないのだ。

 

お前が安心して眠ったからといって、誰かを見捨てることにはならぬ。母上がお前をお探しになったなら、どこで休んでいるか私がお伝えしよう。

 

朝になれば、一緒にご挨拶へ伺おう。その時には、今日市場で何を見たのかも、お前の口からお話しすればよい」

 

 

 

「分かりました。あ、兄上……こちらも母上へお渡しいただけますか?

 

市場で私の分としていただいたお菓子なのですが、母上にも少しでも召し上がっていただきたくて、残しておきました」

 

 

 

縁壱が懐から小さな包みを取り出して差し出すと、巌勝はそれを慎重に受け取った。

 

 

 

あれほど楽しい時間を過ごしている間も、最後まで母を忘れなかった弟の心がそのまま伝わってきて、巌勝は何も言わず、縁壱の頭をもう一度撫でた。

 

 

 

そうして巌勝は弟を自分の部屋へ連れていった。侍女に簡素な夕餉を頼み、共に空腹を満たした後、柔らかな絹の布団を敷き、縁壱を枕の上へ寝かせた。

 

 

 

その部屋は、縁壱がこれまで暮らしてきた冷たく狭い部屋とは、あまりにも違っていた。

 

 

 

壁と建具の隙間から入る風は、厚い目張りと重ねた布に遮られ、ほとんど感じられなかった。

 

 

 

昼の陽射しを十分に取り込んだ部屋には、湿った冷気の代わりに乾いた畳と布団の香りが残り、淡い香の匂いが、見慣れぬ寝床への緊張を少し和らげていた。

 

 

 

縁壱は横になったまま、しばらく天井と布団、枕を交互に見つめていた。その姿はまるで、自分が本当にここへ横になっていてよいのか、何度も確かめているようだった。

 

 

 

巌勝はそんな弟の視線に気づき、布団の端を整えながら、わざと何でもないことのように言った。

 

 

 

「今日は一日市場を歩き回って疲れただろう。もう目を閉じ、ゆっくり休みなさい。

 

今度は私が母上のお部屋へ行き、夜通しお傍にいる。お前は何も心配せず、ぐっすり眠るとよい」

 

 

 

巌勝は、横になったまま疲れた瞳で自分を見つめる弟の傍らへ座ると、前世の記憶の彼方――数百年前、母・朱乃が自分たちが赤子だった頃に歌ってくれた『絹繭の歌』を低い声で歌い始めた。

 

 

 

「春の日の 静かな水面に

月の光が満ちるなら

哀れな子よ 柔らかな絹の繭の中で

息を整えおやすみ。

 

東の夜風が冷たく吹いても

蚕の糸で命の緒を結んだから

黄泉の使いよ この部屋を見ずに

通り過ぎておくれ。

 

暗い夜空の烏の鳴き声

我が子の魂を呼ぶ声なのか

木の葉が散るように この手を離さず

目を閉じておくれ。

 

この夜が無事に過ぎ 朝が来れば

真白き繭を破り 蝶となり羽ばたくだろう

だから我が子よ 冥途の川音へ耳を閉ざし

この腕の中で眠りなさい」

 

 

 

巌勝の優しい子守歌を聞いているうちに、見慣れぬ布団の中にいた縁壱の強張った身体も、少しずつ力が抜けていった。

 

 

 

巌勝にとっても、この歌はただの子守歌ではなかった。

 

 

 

遥か昔、まだ人間だった自分が、母の腕の中で眠る幼子だった頃に聞いた声であり、それ以降、数百年の間、誰からも二度と聞くことのできなかった、失われた記憶の一部だった。

 

 

 

自分がその歌を覚えていたということすら、地獄に落ちてからようやく思い出した。そして今は、自分が母からもらった温もりを、弟へ渡し直す側になっていた。

 

 

 

巌勝は、いつしか睡魔に負けて眠りへ落ちたように見える弟の頭を優しく撫でながら、不意に込み上げてくる感情を抑えた。

 

 

 

「縁壱、お前がこうして安らかに横になっている姿を見ると、ようやく安心できる。お前が眠る間、兄として何をしてやればよいのかすら分からなかった日々が、あまりにも長かった。

 

これからは、母上のお傍へももっと頻繁に伺うつもりだ。若当主として果たすべきことを整えるだけではなく、お前がいつもしてきたように、今日は何を召し上がったのか、どんなお話をしたいのかを母上へ尋ねてみたい。

 

お前と母上が、どれほど長く私の傍にいてくださるのか、その時間を私が勝手に約束することはできぬだろう。だが、傍にいられる今日を、もう二度と逃しはしない。

 

どうか明日もこうして安らかに目を覚まし、今日よりも少しだけ楽しいことを一緒にできればよいな」

 

 

 

巌勝はその場を離れずにいたが、やがて部屋へ入る際に侍女へ頼んでおいた膏薬を受け取った。縁壱の小さな傷にも使ってよいものか医師へ尋ねた上で、持ってきてもらったものだった。

 

 

 

そして縁壱の武服を慎重に捲り上げた。

 

 

 

痩せ細った脛や腕のあちこちには、青痣や擦り傷が残っていた。昼に身体を洗わせた時にも気になった痕だったが、灯りの近くで改めて見ると、その時には気づかなかった小さな傷まで目に入った。

 

 

 

一つ一つは命を脅かすほどの傷ではなかった。だが、だからこそ巌勝には余計につらかった。

 

 

 

いつ、どこでできたものなのか、弟へすべて尋ねることさえできていなかった。部屋の中でぶつけたり、転んだりしたものかもしれない。誰かに乱暴に掴まれたものもあるかもしれない。ただ、その傷が治るまで、きちんと手当てしてくれる手がほとんどなかったということだけは分かった。

 

 

 

巌勝は指先へ膏薬を少し取り、弟の傷へ丁寧に塗った。

 

 

 

手が触れると、縁壱の腕がほんの僅かに震えた。巌勝は眠っていても痛むのだろうと思い、一度手を止めた。そして弟の呼吸が規則正しく続いていることを確かめながら、さらに慎重に手を動かした。

 

 

 

実のところ、縁壱はまだ眠っていなかった。

 

 

 

兄が無意識に漏らした言葉と、自分の傷を包むように手当てしてくれるその手つきに涙が込み上げていたが、目を開けば兄がまた心配するだろうと思い、そのまま閉じていた。

 

 

 

生まれた時から自然に見えていた『透き通る世界』は、呼吸や筋肉の細かな動きを読み取ることにも慣れさせていた。

 

 

 

縁壱は上下しようとする胸を鎮め、瞼へ入る力を抜きながら、先ほどまでと同じように安らかに横になっていようと努めた。

 

 

 

傷へ手が触れるたび、その平静は一瞬ずつ揺らいだが、巌勝は弟が自分を欺いているなどとは考えなかった。

 

 

 

眠っていると信じ、目の前の子供を疑って気配を探るのではなく、痛くないよう薬を塗ることへ心を傾けていた。

 

 

 

巌勝は眠ったふりをしている縁壱の額へ軽く口づけすると、布団を首元までかけてやった。

 

 

 

「ありがとう、縁壱。よく眠りなさい……私の大切な、愛しい弟よ」

 

 

 

ふぅ~。

 

 

 

巌勝は低く別れの言葉を残すと、部屋の蝋燭を吹き消し、夜の帳が降りた母の部屋へ向かって、一人歩き始めた。

 

 

 

すうっ――。

 

 

 

障子が閉まり、兄の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった瞬間、温かな布団へ横たわっていた縁壱の両眼が、ぱっと開いた。

 

 

 

澄んだ瞳には、兄へ向ける心配と、深い絆がいっぱいに満ちていた。

 

 

 

「兄上…………」

 

 

 

縁壱は布団を捲り、音を立てずに起き上がった。

 

 

 

兄は今日、何度も自分のために膝を折った。そして今は、一人で母の部屋へ向かっている。

 

 

 

厳しい父がそこで兄を見つけ、叱責するのではないか。家の誰かが、母を訪ねたことをまた問題にするのではないかと心配だった。

 

 

 

休んでよいという兄の言葉を信じたかった。けれど目を閉じると、先ほど肩を震わせていた姿が浮かんできた。縁壱はしばらく戸口の前で迷った末、ついにそっと障子を開いた。

 

 

 

呼吸を抑え、床板を鳴らさぬよう足を置いて廊下へ出た。軒の影の下で、兄が向こうの角を曲がるのを待ってから、数歩の距離を空けて静かに後を追った。

 

 

 

一方、巌勝は弟が自分の後をつけていることへまったく気づかぬまま、屋敷の西側へ向かって歩いていた。

 

 

 

昼には見慣れていた廊下と庭も、夜になると、まるで別の場所のように感じられた。

 

 

 

軒先へ吊るされた小さな灯りが風に揺れるたび、長く細い影が床を撫でていった。

 

 

 

巌勝は数百年の間、数え切れぬほどの夜道や戦場を歩いてきた。それでも今ほど、一歩を踏み出すことに緊張したことは滅多になかった。

 

 

 

数多の強敵を前にしてさえ揺れなかった指先が、今はほんの僅かに震えている理由は単純だった。

 

 

 

あの扉の向こうに、母が生きている。

 

 

 

前世の自分にとって、母はあまりにも遠い昔に死んでしまった人だった。

 

 

 

顔を思い出そうとしても、時が過ぎるほど少しずつ霞み、声すら完全には思い出せなくなった。最後に抱かれた時の感触がどのようなものだったかさえ、もう分からなかった。

 

 

 

黒死牟となって数百年を生きた後には、母の墓がどこにあったのかということさえ、意味のない情報へ変わっていた。

 

 

 

自分はその喪失を認める代わりに、より強い剣と、より多くの勝利だけへ執着して生きてきた。

 

 

 

だが、今は違う。廊下の先にある障子を一枚開けば、二度と会えないと思っていた人が、生きて息をしている。

 

 

 

巌勝は部屋の前で、しばらく足を止めた。

 

 

 

手を伸ばせばすぐに開けられる扉だった。それでも何度も指を握り、また開きながら、なかなか障子を動かすことができなかった。

 

 

 

本当のところ、怖かったのだ。

 

 

 

それは、母が自分を見て失望するのではないかという恐れではなかった。

 

 

 

あまりにも遅く帰ってきた自分が、この短い機会さえ、もう一度失ってしまうのではないかという恐怖だった。

 

 

 

巌勝は長く息を吐き、引き手へ手を置いた。だが、すぐには動かせなかった。

 

 

 

その僅かな躊躇いの間に、前世の古い記憶が断片となって蘇った。

 

 

 

幼い頃、熱を出して寝込んだ自分の額へ一晩中濡れた布を載せてくれた手。剣術の稽古で掌を破って帰ってきた時、何も言わず薬を塗ってくれた手。

 

 

 

まだまともに言葉すら覚えていなかった頃に聞いた子守歌の旋律まで、もう霞んだと思っていた記憶が、手を伸ばすたび一つずつ蘇っていった。

 

 

 

当時の自分は、それらをあまりにも当然のものとして受け取っていた。家の長男なのだから、愛されるのも当然だと思っていた。

 

 

 

いつかその手が、永遠に消えてしまうかもしれないなどとは考えもしなかった。

 

 

 

だが、数百年を生き、死を迎え、地獄まで通ってきた今は違った。

 

 

 

一人の声、一度の手の温もり、同じ部屋で共に息をする時間一つが、どれほど容易く消え去り、二度とは取り戻せぬものになるのかを、あまりにもよく知っていた。

 

 

 

だから巌勝は、障子を開く前に、自分自身へ固く誓った。

 

 

 

今度こそ、母が生きている間に愛しているという言葉を惜しまないこと。孝行という名の務めを、いつかの未来へ先送りしないこと。

 

 

 

まだ時間はあるという傲慢な思い込みの中で、もう二度と、大切な者の最期を逃さないこと。

 

 

 

その誓いを終えて初めて、扉を開こうとする指先の震えが少し収まった。

 

 

 

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継国家の奥方にして、双子の兄弟の母である継国朱乃が暮らす部屋は、屋敷の最も奥深く、陰鬱な西側の隅にあった。

 

 

 

病弱な女が暮らすには、あまりにも冷え、湿気の多い場所だった。他の家族の部屋と比べても灯りは少なく、人の往来もほとんどなかった。

 

 

 

巌勝が部屋の障子を慎重に開いて中へ入ると、淡い煎じ薬の匂いと共に、かすかな灯りの下へ横たわる母の痩せた身体が目に入った。

 

 

 

枕元には空になった薬の器と水が置かれ、痩せた母の顔へ灯火の淡い光が差していた。巌勝は、その僅かな血色を見るだけで安心したいと願った。

 

 

 

一四三四年の朱乃は、すでに病魔の毒気が左半身全体を蝕み、本来ならば自力でまともに座ることさえできないほど重い状態だった。そして今の彼女は、まだ二十二歳にすぎなかった。

 

 

 

僅か、二十二歳……。

 

 

 

前世では「母」という存在であるがゆえに、あまりにも遠く、大きな大人のようにしか感じられなかった。だが数百年を生きた今の巌勝から見れば、信じられぬほど若かった。

 

 

 

自分と縁壱を産み、苛烈な武家の秩序の中で二人の子を守ろうとし、まともに花開く暇もないまま病に蝕まれてゆく一人の若い女が、目の前にいた。

 

 

 

巌勝はまず、母の呼吸が続いているという事実に安堵した。煎じ薬を飲み、顔にも僅かな血色は戻っていたが、それだけで病が軽くなったと考えることはできなかった。

 

 

 

彼は世話をしていた者を部屋の外へ下がらせ、必要があれば呼ぶと低く告げた。障子が閉じると、部屋には母の細い呼吸と、まだ整えきれない自分の息だけが残った。

 

 

 

そして、横たわる母へ挨拶をした。

 

 

 

「母上……継国巌勝、御機嫌伺いに参りました」

 

 

 

「巌勝……どうしてお前がここへ来たの? 何かあったのかい? うっ……」

 

 

 

「……母上、そのまま横になっていてください。お身体を起こされれば、さらに悪くなってしまうかもしれません」

 

 

 

ほとんど一度も訪ねてこなかった長男の来訪に、朱乃の胸は驚きと疑問で満ちていた。

 

 

 

それでも、初めてと言ってよいほど久しく自分の部屋へ来てくれた長男の姿があまりにも嬉しく、本能的に身体を起こそうとした。

 

 

 

しかし左半身は思うように動かず、上体を僅かに起こしただけでも呼吸が荒くなったため、多くの名残惜しさを抱いたまま、巌勝の挨拶へ頷くことしかできなかった。

 

 

 

巌勝は、縁壱が母へ渡すため市場から大切に持ち帰ってきた小さな菓子の包みも、寝床の傍らへ慎重に置いた。

 

 

 

巌勝は衣の裾を整え、母の寝床のすぐ傍へ膝をついた。目線を下げると、布団の外へ出た痩せた手が真っ先に目に入り、その手へもう一度縋ることすらできぬまま母を失った記憶が、喉の奥を塞いだ。

 

 

 

見舞いに来たと言ったものの、本当に口にしたかった言葉は別にあった。巌勝は母の顔を見上げ、唇を震わせると、両手を畳へつき、深く身体を伏せた。

 

 

 

ドンッ――!

 

 

 

小さな額が床へぶつかる音が、静かな部屋へ響いた。朱乃が驚いて名を呼ぶより先に、巌勝は一度頭を僅かに上げ、再び打ちつけた。二度目の鈍い音の後、額から滲んだ血が畳の目へ染み込んでいった。

 

 

 

母へ寄りかかる弟を疑ったこと。最後には家族を捨て、数え切れぬ命を奪ったこと。それらが一度に押し寄せた。母はその歳月を知らない。だが自分は、そのどれ一つとして「忘れた」の一言で済ませることはできなかった。

 

 

 

頭を上げれば、この顔で母の目を見なければならない。つい先ほどまで、医師や薬材を用意しただけで長男としての務めを果たしたかのように語っていた自分が恥ずかしかった。そして長い間背を向けてきた手を、今さら求めているという事実に喉が詰まった。

 

 

 

「巌勝、もうやめなさい! 早く顔を上げて、この母を見ておくれ。お前が何を間違えたのだとしても、こうして血を流す姿を見るために待っていたのではないのよ。お願いだから……もっとこちらへおいで。私の手がお前へ届くところまで来ておくれ」

 

 

 

朱乃は身体を起こそうとしたものの、麻痺した左半身がついてこないと悟ると、布団を掴んでいた右手を息子へ伸ばした。巌勝は、もう一度身体を伏せようとしていた姿勢のまま止まった。

 

 

 

震える指先が自分の額へ届こうとして、空中で止まっているのを目にして初めて、巌勝は泣き声の中でも母の切迫した息遣いを聞いた。

 

 

 

彼は膝を動かし、その手の下へ近づいた。朱乃の掌が、血に濡れた額の端をそっと包む。巌勝はもう頭を下げることができず、母を見上げた。

 

 

 

自分を叱るより先に、傷んだところを確かめる目だった。その眼差しの前では、用意していた謝罪の言葉さえ崩れ、巌勝はまともに息を継げぬまま、母を呼んだ。

 

 

 

「母上……この愚かな不孝者を、どうかお叱りください。私は若当主という立場へ甘え、自分が学ぶべきこと、果たすべきことばかりを優先してきました。

 

弟が冷たい部屋で暮らしていると知っていながら、自分が時折会いに行くだけで、するべきことはすべてしているのだと思っていました。

 

母上が縁壱へ寄りかかって歩かれている時にも、なぜそうなさるのか、一度もきちんとお尋ねしませんでした。母上のお身体が悪いことを、私が先に気づくべきだったのに、それすらできませんでした。

 

縁壱の心を分かってやるどころか、勝手に決めつけていた自分が、あまりにも恥ずかしいのです。二度と繰り返さないと申し上げたいのに、

 

その言葉だけで、私が目を背けてきた時間まで消えるわけではないことも分かっています。母上……本当に、申し訳ありません」

 

 

 

巌勝は膝の上で握り締めた手を解くこともできぬまま、嗚咽した。前世で最後までできなかった謝罪をしながらも、自分が泣くせいで母がまた身体を起こそうとするのではないかと恐れ、寝床のすぐ傍から離れなかった。

 

 

 

あれほど長い年月、恋い焦がれてきた胸が、手を伸ばせば届く場所にある。その事実だけで、小さな声さえまともに出せなくなった。

 

 

 

口にしている内容は、今の幼い自分が犯した過ちに限られていた。

 

 

 

だが実際に、その涙へ込められた罪悪感は、数百年の歳月を貫いていた。

 

 

 

朱乃に、そのすべての事情を知ることはできなかった。それでも幼い息子の泣き声に、単なる駄々や一時の後悔だけでは説明できぬほど深い絶望が込められていることだけは感じ取れた。

 

 

 

朱乃は長男の告白を聞きながら、熱い涙を流した。それでも枕元へ置いていた清潔な布を右手で取り、息子の額へ当てた。

 

 

 

巌勝は、母が長く腕を上げずとも済むよう、自分から顔を近づけた。

 

 

 

「か……母上……」

 

 

 

「巌勝、お前が何を間違えたのか話してくれたから、この母もきちんと聞きました。弟の置かれていた状況へ目を向けなかったことは、これからお前自身が正していかなければならないでしょう。けれど、そのために自分の身体を傷つける必要はありません。

 

家の長男だからといって、自分の過ちを認めることは恥ずかしいことではないのよ。それどころか、お前は自分が何を見落としていたのかに気づいて、もう一度手を差し伸べようとしてくれた。縁壱も、お前の傍で少しずつ安心できるようになるでしょう。

 

だから顔を上げて、この母を見ておくれ。お前は若当主だから大切なのではありません。私の息子だから大切なのです。自分の過ちを悔いるのと同じように、自分自身が痛んでいることにも、目を背けないでほしいのです」

 

 

 

朱乃は息子の手へ布を握らせた後、右腕でその肩を抱いた。巌勝が寝床のすぐ傍まで寄り、身体を預けると、彼女は小さな身体を胸へ抱き、震える背をゆっくりと撫でた。

 

 

 

巌勝は数十年――いや、数百年ぶりに感じる母の温かな胸の中で、実に半茶頃を超える時間、幼子のように再び声を上げて泣き続けた。

 

 

 

朱乃はしばらくの間、腕の中で震える長男を何も言わず抱き締めていた。そして巌勝の背を撫でる手へ、ほんの少しだけ力を込めた。

 

 

 

彼女にとって巌勝は、家の若当主である前に、自分が十月十日腹に宿して産んだ七歳の息子だった。

 

 

 

周囲の者たちは、長男なのだからいつも立派で強くあらねばならないと言った。

 

 

 

当主である正紀さえ、まだ幼い子供へ、いずれ数多くの命を背負う者なのだからと、失敗を容易には許さなかった。

 

 

 

朱乃にも、その期待から息子を完全には守ってやれなかったという罪悪感があった。

 

 

 

朱乃は息子の血に汚れた手へ、自分の手を重ねた。すでに起きてしまったことを戻せず苦しんでいる気持ちは分かる。だが、その苦しみをどう扱えばよいのかさえ分からぬ子を、一人にはしたくなかった。

 

 

 

「巌勝、誰かへ申し訳なく思い、その人のために何かしてあげたいと思う時には、まずその人が何を望んでいるのか聞いてごらんなさい。

 

お前が良い服や食べ物を用意してあげても、縁壱はそれより、お前の隣へ少し座っていたいと思うこともあるでしょう。

 

お前が心のすべてを見せたからといって、弟がすぐに不安を手放せるとは限りません。そんな時、自分の誠意が足りないのだと焦ったり、また自分の身体を罰したりしてはいけませんよ。

 

あの子が言葉を選び、お前の手を取ってくれるまで待ってあげることも、兄としてしてあげられることなのです」

 

 

 

巌勝は母の衣の裾を離せぬまま、口を開いた。

 

 

 

「もし私が、また相手の気持ちを取り違えてしまったら……その時は、どうすればよいのでしょう。守ってやりたいと思ってしたことが、かえって弟を苦しめることになるのではないかと怖いのです」

 

 

 

「その時は、自分が何を見落としたのかを尋ねて、直せばよいのです。分からぬことを尋ねたからといって、お前が兄でなくなるわけではありません。お前も縁壱から学ぶことができるし、あの子へ寄りかかって少し休むことだってできるのよ。

 

間違えたことを忘れなさいという意味ではありません。ただ、申し訳ない気持ちだけを残そうとして、楽しい日まで押し退けてしまわないでおくれ。お前に傍で一緒に笑ってほしいと願う心もあるのだということを、今日、この母の顔を見て覚えていてほしいのです」

 

 

 

巌勝は唇を動かしかけ、額へ当てていた布を少し下ろした。

 

 

 

「待っているうちに、手遅れになってしまうのが怖いのです。今日できることを明日へ延ばして、その人に二度としてあげられなくなったら、どうすればよいのでしょう。だから私は、何かをもっとしていなければと思ってしまうのです」

 

 

 

その言葉には、母へ明かすことのできない歳月が込められていた。生きているうちに訪ねなかった部屋、呼ばなかった名前が浮かんだが、朱乃はその涙の由来を問いただすことなく、息子の手を包んだ。

 

 

 

「待つというのは、傍を空けておきなさいという意味ではありません。何をしてあげればよいのか分からない時でも、同じ場所へ座っていることはできるでしょう。

 

今日のように訪ねてきて手を握ってあげれば、その人がゆっくり自分の気持ちを話してくれることだってあります。

 

お前がその人の痛む心をすべて理解できなくても、会いに来たその足まで無駄になることはありません。

 

この母も、お前が入ってきた時、何か珍しく高価なものを持ってきたのかなど、最初には見ませんでした。お前が扉の前へ立っている、それだけで嬉しかった。お前の声を、もう少し聞いていたいと思ったのです」

 

 

 

巌勝は母が掴んでいる自分の手を見下ろした。つい先ほどまで床へついて震えていたその手を、今は母が離したがっていなかった。彼は手を引いて再び頭を下げるのではなく、朱乃の指へそっと自分の指を重ねた。

 

 

 

巌勝は布を持った手で額を静かに押さえた。母の手を離さずに息を整える間、外では夜風が軒を撫でていた。

 

 

 

母の胸からは、淡い煎じ薬の匂いと、古い絹の衣の香り、そして幼い頃の自分が覚えていた温かな体の匂いが混じり合っていた。

 

 

 

そのすべてが巌勝には、世界のどんな香りよりも尊く感じられた。

 

 

 

巌勝は母の衣の裾を固く握った。これからは差し出せるものを惜しまず、今日のように母へ会いに来ることも、決して後回しにしないと誓った。

 

 

 

泣き声が少し収まると、巌勝は母の背の後ろで傾いていた支えを直した。朱乃はそこへ身体を預けると、息子へ額を見せておくれと言い、布を新しく折って、残っていた血を丁寧に拭ってくれた。

 

 

 

巌勝は母が手を伸ばすたび、頭を低くした。ひりつく場所へ布が触れ、眉が動くと、朱乃の手も一度止まった。

 

 

 

彼は「大丈夫です」という言葉を飲み込み、少し痛むけれど、母上に拭いていただきたいと小さく答えた。

 

 

 

つい先ほど、自分が縁壱へ膏薬を塗ってやったことが思い出された。今度は自分が痛む場所を見せ、母から心配してもらっている。誰かを世話することばかりへ心を注いでいた巌勝には、その順序が不思議でありながら、胸を満たすものでもあった。

 

 

 

しばらく沈黙が続いた後、朱乃は枕元の引き出しを指し、小さな箱を取ってほしいと頼んだ。巌勝が取り出して蓋を開けると、漆塗りの木箱の内側から、長い間大切に保管されてきた二組の耳飾りの護符が姿を現した。

 

 

 

そのうち一組には、赤い陽光を纏った女神の姿が描かれていた。華やかな衣装と明るい光が調和した護符を吊るす糸には、手で丹念に編み上げた跡が残っていた。

 

 

 

「母上、これは何でしょうか?」

 

 

 

巌勝が涙を拭いながら尋ねると、朱乃は耳飾りを指先で撫で、愛情に満ちた声で説明し始めた。

 

 

 

「巌勝。もともと私は、呪術を伝える巫女の血筋だったの。

 

お腹の中に双子がいると知った瞬間、私の乏しい神力でも、この子たちが並ではない神の気を宿して生まれるのだと直感した。

 

その頃から、二種類の耳飾りの護符を心を込めて用意し始めたのよ。

 

一つは、太陽神『天照大御神』の力強い赤い陽光を描いた護符。

 

これは、いつか縁壱へ渡すつもりだった。

 

縁壱が生まれてから、耳が聞こえないように思えたから、太陽神の力を借りて、あの子の耳が聞こえるようになってほしいという願いも込めたの」

 

 

 

「世を平和へ導き、その人ならぬほどの力を、善良な人々のために使ってほしいという願いも込めたわ。その護符は、私たちがつけた『縁壱』という名の意味とも通じる、神の証なのよ。

 

まだ渡せてはいないけれど、時が来たら、この手で直接つけてやりたいと思っているの。あの子が私の声をどのように受け取るとしても、傍で愛しているという気持ちだけは伝わってほしいわ」

 

 

 

巌勝は、母がまだ縁壱の声を聞いたことがないのだと気づいた。あの子が沈黙している理由を代わりに説明したいと思いながらも、ようやく自分へ言葉を向け始めた弟の顔が浮かび、すぐには口を開かなかった。

 

 

 

何も知らぬまま待たせておくことにも胸が痛んだ。彼は寝床の傍らへ置いていた菓子の包みを手に取り、朱乃から見える場所で慎重に開いた。

 

 

 

「母上、この菓子は縁壱が自分の分から残しておいたものです。食べずに別に包み、私の手へしっかりと握らせてくれました。

 

母上へ差し上げるものだと思い、持ってまいりました。あの子がどれほど母上を思っているのか、今日、傍にいた私も何度も感じました」

 

 

 

朱乃の視線が、小さく包まれた菓子へ留まった。自分のために残してくれたという言葉に口元が静かに緩み、彼女は右手の指先で包みの折り目をそっと撫でた。

 

 

 

「あの子は……自分の分は全部食べたのかしら? 楽しく出かけられたと聞けて嬉しいけれど、私の分を残すために、お腹を空かせてはいないか心配だわ」

 

 

 

巌勝は、弟も十分に食べたと答え、残った菓子をもう一度包み直した。明日、縁壱と共に召し上がればよいと付け加えると、朱乃も「そうしましょう」と頷いた。

 

 

 

その短い約束を前に、巌勝は、弟の沈黙を自分が代わりに暴かずとも、母へ近づける場所を共に用意することはできるのだと思った。明日の見舞いを弟が恐れずに済むよう、傍にいてやるつもりだった。

 

 

 

朱乃は、箱の中に残っていたもう一組の耳飾りへ視線を移した。

 

 

 

太陽神の護符と共に用意されていたもう一組には、銀白色と淡い紫が重なり合う月の神、『月読命』の姿が描かれていた。華やかな太陽の護符の隣で、その控えめな光は、かえって静かに目へ留まった。

 

 

 

朱乃は右手で耳飾りを持ち上げ、息子へ近くに来るよう言った。巌勝が掌で護符を支えながら耳を差し出すと、彼女は息子の手を借りて耳飾りをつけてやった。巌勝は急かすことなく頭を反対へ向け、もう片方も母へ委ねた。

 

 

 

「この月の神、月読命を描いた耳飾りは、お前へ渡そうと思って用意していたものなの。二人の子を身籠った時には、お前たちがどんな顔で育つのか分からなかったけれど、それぞれ違う光を持ちながら、互いの傍を守ってほしいと願っていたわ」

 

 

 

「母上……私のために月の神を描いた護符を用意してくださった理由を、お尋ねしてもよろしいでしょうか。どのような思いを込められたのか、知りたいのです」

 

 

 

耳に触れる見慣れぬ重みを感じながら巌勝が尋ねると、朱乃は息子の手を自分の右手で静かに包んだ。

 

 

 

彼女は武家へ嫁いでから、数多くの武士や家臣たちが、勝利や体面、家の名誉という名のもと、人の命をあまりにも容易く秤へ掛ける姿を見てきた。

 

 

 

夫である正紀もまた、長男へ幼い頃から、敗北を恥とし、常に最も強い者でなければならないという苛烈な価値観を、繰り返し植えつける姿を見てきた。

 

 

 

幼い巌勝が父の期待を嬉しく受け止めながらも、失敗するたび人一倍激しく自分を追い込む姿を見たこともあった。

 

 

 

弟へ心を向けながらも父の前ではそれを隠し、褒められなかった日にはひどく口を閉ざしてしまう息子の姿も、母の目は見落とさなかった。

 

 

 

だからこそ今から伝えようとする言葉は、遠い未来を見通した予言というより、ずっと前から息子へ聞かせたかった心配と願いに近いものだった。

 

 

 

「月は、太陽が沈んだ後も、道を歩く人へ光を届ける空の灯なのよ。先が見えず怖がっている人には、その淡い光だけでも、一歩を踏み出す勇気が生まれるでしょう。

 

お前がこれから剣を学び、多くの人の前へ立つようになれば、お前より弱い者たちが、お前の力を頼るようになるでしょう。その時、その人たちを見下したり、勝つために押し退けたりせず、その力を誰が必要としているのか、まず見てあげてほしいの。

 

お前は父上に認めてもらいたい気持ちが強く、何でも上手にやろうと一生懸命な子でしょう。その気持ちは、この母も分かっています。でも、できなかったことが一つあるからといって、お前が大切ではない人になるわけではないのよ。

 

剣を握っても、強さだけを追いかけて自分の心を失わないで。弟や傍にいる人たちを守りながら、お前自身も、その人たちと共に生きていく一人の人間なのだということを、どうか長く覚えていてほしいのです」

 

 

 

巌勝の呼吸が、ごく僅かに止まった。母は目の前の子供へ語りかけていた。だが彼がその言葉を聞く間には、強さを追い求めた末に捨ててしまった、数多くの顔が浮かんだ。何も知るはずのない母の前でさえ、耳飾りを握る手を隠したくなった。

 

 

 

朱乃は耳飾りへ触れる息子を見ながら、言葉を続けた。

 

 

 

「巌勝。武家に生まれ、剣を学ぶ以上、自分の力を競わなければならない日も来るでしょう。

 

父上は、いつでも勝たなければならないと仰るけれど、その言葉を聞くたび、お前がどれほど自分を追い詰めているか、この母も見てきました。

 

人に後れを取って悔しい気持ちまで、隠す必要はありません。ただ、そんな気持ちになった時、お前が大切にしてきた人にまで、冷たく背を向けないでほしいの。

 

上手くなりたいと思って握った剣のために、傍に残ってくれる人をみな失ってしまったら、勝った後、その喜びを誰と分かち合うの?」

 

 

 

朱乃は長男の固く結ばれた唇を見ながら、手の甲を静かに撫でた。剣を捨てなさいという意味に受け取られぬよう、息子が顔を上げ、自分を見るまで少し待った。

 

 

 

「私たちの先祖が語ってきた強さには、敵を打ち倒す力だけがあったのではないのよ。

 

真の武とは、自らの力が生む驕りを戒め、他人の涙を拭ってあげられる優しさから始まるものなのです。

 

太陽が明るいからといって、月が照らす道までなくなるわけではないでしょう。お前が得意とすることを長く磨きながら、その力を待っている人にも目を向けてほしいの。

 

この母は、お前が何人に勝ったかより、その道を歩きながら、どんな人として生きていくのかの方が、ずっと知りたいのです」

 

 

 

巌勝は耳に触れる護符をそっと包んだ。前世では、三日月を放つ自分の剣が、弟の太陽へどれほど近づいたかばかりを数えていた。だが母が語る月は、太陽が沈んだ後も道に残る人々を照らしていた。

 

 

 

『母上……今生の月は、闇の中に取り残された人々のために在るべきなのでしょうね』

 

 

 

彼は護符の縁を指先でなぞった。自分が作り上げた剣の軌跡は何一つ変わっていないのに、月を見つめる母の言葉一つで、その剣を思い浮かべる時に共に見える顔が変わり始めていた。

 

 

 

朱乃の言葉を聞くうち、巌勝は、自分が勝利と「愛される資格」を、どれほど長く同じものとして扱ってきたのかにも気づいた。

 

 

 

幼い頃、父に褒められた日には安心して笑うことができた。そうでない日には、弟へ差し伸べるはずの手まで、なぜか固くなった。

 

 

 

縁壱の方が優れていると知ってからは、あの子が何一つ悪いことをしていないにもかかわらず、自分の居場所を奪われたように感じた。

 

 

 

その狭量な心が、一度の教えですべて消えたとは言えなかった。今でさえ、耳飾りを与えられた理由が、自分の才ゆえではないのかと尋ねたくなった瞬間があった。

 

 

 

だが母は、彼の剣を見せてほしいとは言わなかった。どの型を修めたのかも尋ねなかった。

 

 

 

ただ、額が痛くないか、右手に持った布を取り替えた方がよくないかと見ていた。目の前にある、そのささやかな心配こそが、今、巌勝が受け止めようとしている言葉を何よりもはっきり示していた。

 

 

 

前世で、一人剣を磨いていた夜を思い出した。新しい動きを完成させても、その喜びを分かち合う相手はおらず、自分自身でさえ、その成果を愛することはなかった。

 

 

 

弟との距離が十分に縮まっていないと思えば、たった今身につけた剣さえ無価値なものへ変えた。

 

 

 

巌勝は耳飾りを握っていた手を下ろした。これから稽古を終えた日には、何が難しかったのか、どの動きが昨日より上手くなったのか、母へ話して聞かせたいと思った。するとふと、今日も話せることが一つあると気づいた。

 

 

 

「母上……今日、市場で縁壱と独楽を回しました。

 

久しぶりだから上手くできないと言っておきながら、もう一度紐を巻こうとして、自分の指まで一緒に巻いてしまいました。

 

弟の前で知ったふうな顔をしていたのに、結局、紐を解くところから随分時間がかかりました」

 

 

 

朱乃の口元が少し上がった。家の仕事でも、稽古の成果でもない話が息子の口から出ると、彼女は土のついた独楽の前へ並んで座る二人の子供を思い浮かべるように、ゆっくりと瞬きをした。

 

 

 

「そうだったの。お前がどれほど真剣な顔で紐を解いていたのか、少し分かる気がするわ。何かを手に取ると、最後までじっくり見る子だったもの。縁壱も、その姿を一緒に見ていたのね」

 

 

 

「はい。笑おうとして、私の顔色を窺っているように見えました。実際に弟が笑うと、耳が熱くなりましたが……。

 

そのうち、私も一緒に笑いました。明日は縁壱と共に来て、母上へ独楽もお見せしたいです」

 

 

 

巌勝は話し終えると、母の様子を窺った。自慢にもならない失敗を長々と話しすぎたかと思ったが、朱乃はまだ続きを待っているような顔をしていた。彼はその眼差しから逃げず、微かに笑った。

 

 

 

「そうやって、お前が過ごした一日を、この母にも聞かせておくれ。嬉しいことだけを選ぼうとしなくてもよいし、つらかった日には、その話もしてくれてよいのよ。

 

お前はこの母の誇らしい息子であり、上手くできなかった日にも変わらず愛している、大切な子なのだから」

 

 

 

朱乃は近くへ寄りかかった長男の背を、右手で優しく撫でた。巌勝はその胸へもう少し身体を預け、微笑んだ。

 

 

 

地獄で数え切れぬほど念仏と懺悔の言葉を繰り返しても満たされなかった胸の一角が、母の掌が背を数度叩くという、あまりにも些細な行いだけで少しずつ満たされていくようだった。

 

 

 

「うっ!」

 

 

 

たらり……。

 

 

 

だが話を続けていた朱乃が、突然、咳のあとに血を吐いた瞬間、巌勝は動揺を隠すことができなかった。昼に診察を受け、煎じ薬も飲んだという事実だけで安心していた自分が、どれほど性急だったのかを思い知った。

 

 

 

つい先ほどまで自分を抱き締めてくれていた母の唇の間から赤い血が流れ出す光景は、数百年の間に数え切れぬほど血を見てきた巌勝にとってさえ、恐怖そのものだった。

 

 

 

巌勝は母が支えへ楽に身体を預けられるよう、抱えていた腕の力を緩めると、戸口へ向かって急いで人を呼んだ。

 

 

 

「医師をお連れしろ!! 昼に母上を診てくださった方へ、また咳をされ、血が出たと伝えよ!

 

母上、少しだけお待ちください。私がここにおります」

 

 

 

廊下から返事と共に足音が遠ざかっていった。朱乃は息子がそのまま後を追ってしまうのではないかと、衣の袖を軽く掴んだ。巌勝はその手の傍へ、もう一度身体を低くした。

 

 

 

「巌勝、この母が驚かせてしまったのね。医師たちから、お前が縁壱の世話をしているという話も聞きました。

 

お前たち兄弟が仲良くしていると聞いて、どれほど嬉しかったか分からないわ。だから少し、長く話しすぎてしまったのかもしれないわね……ごほっ」

 

 

 

巌勝は手拭いで口元についた血を慎重に拭い、母の右手を握った。その指先の冷たさは、まだ取り戻していない何らかの境地に頼らずとも、はっきりと感じられた。

 

 

 

巌勝は一瞬、地獄ですら味わったことのない無力感に襲われた。

 

 

 

剣であれば解決できた。敵がいるなら斬ればよい。自分より強い相手なら、さらに鍛錬すればよかった。身体が弱いなら鍛えればよかった。

 

 

 

だが母の身体の内側で、静かに命を蝕んでいく病へは、剣を向けることも、月の呼吸を振るって斬り払うこともできなかった。

 

 

 

前世の数百年分の経験と、武芸の心得をすべて持って帰ってきたというのに、今すぐ母のためにできることは、より良い医師を呼び、薬を求め、温かな食事を取らせ、その手を握ることだけだった。

 

 

 

「母上……これほどおつらかったのに、私はきちんとお尋ねすることさえしませんでした。もう少し頻繁にお傍へ来ていれば、今日どこがおつらいのかくらいは聞くことができたはずなのに、いつも大丈夫なのだと思い、自分のことばかりを優先していました。

 

これからは医師の言葉を聞き、必要なものを整えます。ここで治療が難しいのなら、他の土地の助けも求めます。母上には、費用や私の稽古を心配なさって、痛いという言葉まで我慢してほしくありません」

 

 

 

母は巌勝の言葉を遮ろうとするように、その手を握った。

 

 

 

「お前にまで荷を背負わせたくなかったのよ、巌勝。お前たち二人が育っていく姿を見ていると、これだけで十分だと思えたの。縁壱が傍へ来て寄り添ってくれる日は、痛みも少しの間、忘れることができたわ。

 

けれど、お前の言う通り、この母が『大丈夫』とばかり言っていたら、お前たちをかえって怖がらせてしまうこともあるのでしょうね。私がいつまで一緒にいられるのかは分からないけれど……まだ傍にいられるうちは、お前たちに心配だけを残したくはないわ」

 

 

 

母がまるで自分の最期を準備するような言葉を口にするたび、巌勝の喉の奥が熱くなった。先ほどのように大声で縋りつきたい衝動を抑えながら、手拭いを握っていた手をゆっくり開いた。

 

 

 

「私たちにとって、母上は重荷ではありません。笑っておられる日だけ、母上にお会いしたいのでもありません。

 

おつらければ、つらいと。お一人でいるのが嫌なら、傍にいてほしいと仰ってください。私が守らなければならない人の中には、母上もおられるのです」

 

 

 

朱乃はしばらく答えられず、やがて右手で息子の手の甲を撫でた。残していく者たちのことばかり考えるうちに、自分が何を望むのかを口にすることへ、どれほど不慣れになっていたのか。そのことを、幼い息子の方から問いかけられていた。

 

 

 

巌勝は、手拭いへ赤く滲んだ部分を内側へ折り込んだ。母の微笑みを見ると、もう一度「大丈夫」と言ってほしくなった。だが、つい先ほど自分が「痛みを我慢しないでください」と頼んだことを思い出した。

 

 

 

「縁壱は、私が守ります。あの子の持つ才を呪いと呼ぶ者がいたとしても、

 

家の意向だからという理由で、もう二度と目を背けません。母上がお一人で立ちはだからなければならなかったことも、これからは私も共に背負います」

 

 

 

彼は、母には弟の元服を見る日まで傍にいてほしいと言いかけて、唇を閉ざした。そう約束してもらえれば、自分は少しだけ安心できるだろう。だが、今まさに母が吐いている一息一息へ、未来の約束まで載せたくはなかった。

 

 

 

巌勝は頭を下げる代わりに、手拭いの清潔な面を母の口元へ当てた。朱乃が懸命に掴んでいた衣の袖から手を離すと、彼はもう一度握りやすいよう、自分の手を布団の上へ置いた。母はその手を探し、そっと包んだ。

 

 

 

その温もりを感じながら、巌勝は寝床の傍らに置かれた菓子の包みへ目を向けた。

 

 

 

「母上……縁壱は、自分が何を望んでいるかを言うより先に、他人の気持ちを気遣う子です。

 

今日も自分の分の菓子を残して母上へ差し上げると言い、休んでよいと言えば、母上のお傍は誰が守るのかと先に心配しました。

 

しっかりして見えても、まだ私と同じ七歳なのです。傍で母上が笑っておられる顔を見たいでしょうし、おつらい時には怖くもなるでしょう。

 

あの子が、母上をお世話するために来ることばかりへ心を使うのではなく、『愛されるために会いに来てもよいのだ』ということを、共に教えてあげてほしいのです。

 

明日は私も縁壱と一緒に参ります。あの菓子を分けながら市場の話を聞いてくださってもよいし、おつらければ、三人で何も言わず座っているだけでもよいのです。どうか、そういう日がこれからもっと増えてほしいと思っています」

 

 

 

朱乃は包みを見つめたまま、しばらく唇を閉ざしていた。いつも自分の傍に寄り添っていた次男の小さな手が浮かんだのか、布団の上に置かれていた右手が、ゆっくりと動いた。

 

 

 

「あの子には、いつも『ありがとう』という気持ちが先に立っていたわ。傍へ来てくれてありがとうと言いながら、肝心のお前が言ったような、『何もしないで休んでいてよいのよ』という言葉を、私はどれほどかけてやれたのかしら。

 

明日は、まずこちらへ来て座りなさいと言ってあげなければね。お前も一緒に来ておくれ」

 

 

 

その時、医師が入ってきた。巌勝は寝床の傍を空け、自分が見たことを伝えた。医師は朱乃を診た後、会話を控え、休ませるよう言いつけた。そして巌勝の額も診てから部屋を出ていった。

 

 

 

夜中でも呼べば来るという言葉を聞いた巌勝は、再び母の傍へ座った。朱乃が自分を慰めるために無理をしないよう、布団の端を整えているうちに、戸の外の足音もやがて遠ざかっていった。

 

 

 

「母上、今夜は私がお傍におります。苦しくなれば、すぐに人を呼びます。お一人で耐えようとはなさらないでください。残りのお話は、明日でも構いません。私は明日も、母上へご挨拶に参りますから」

 

 

 

「縁壱は……」

 

 

 

「愛しい弟なら、すでに暖かく柔らかな私の部屋へ寝かせてあります。今夜だけは、長男である私を信じて、どうかゆっくりお休みください」

 

 

 

朱乃は、いつの間にか頼もしくなった巌勝を見つめ、微笑みながら頷いた。

 

 

 

そうしてしばらくの間、月明かりの下で母と子は互いの手を握り、何も言わず温もりを分け合った。

 

 

 

巌勝は、母の手が少しでも温かくなってほしいと願う者のように両手で包み込み、朱乃はそんな息子の手の甲を右手の親指でゆっくりと撫でた。

 

 

 

朱乃は息子の手を握ったまま、少しずつ目を閉じていった。巌勝は母の身体を支えていた布団を整え、楽に寄りかかれるようにしてから、ずり落ちた布団の端を肩までかけ直した。

 

 

 

部屋の中には、もう言葉も泣き声も残っていなかった。母の整った呼吸を聞きながら、巌勝は手を抜かず、その傍へ座り続けた。

 

 

 

長い間、慎重に母の顔色を見守っていた巌勝は、今日感じた母の温もりを、生涯忘れまいと誓った。

 

 

 

そうして母が眠りについた後も、巌勝はしばらくその場から立ち上がることができなかった。

 

 

 

数え切れぬ夜を明かし、地獄では時間の感覚さえ失ったことがあった。それでも今、母が吐く細い一息と、指先に残る僅かな温もりは、どんな長い歳月よりも尊く思えた。

 

 

 

母がどれほど長く傍にいてくれるのかは分からなかった。だからといって、その恐れのために、再び得られた今日という日まで流してしまいたくはなかった。

 

 

 

共に食べる一度の食事、見舞いに来るひと時、手を握りながら交わす他愛ない話から、心へ刻んでおきたかった。巌勝は眠る母の手を包みながら、傍にいられるうちは、その時間を先へ延ばさないと静かに誓った。

 

 

 

夜が更けきる前、彼は侍女を静かに呼び、医師へ伝えてほしいことを言いつけた。咳が出た時刻、薬を飲んだ後にどのような変化があったのか、食事と眠りはどうだったのかも、共に書き留めてほしいという頼みだった。

 

 

 

自分が席を外している間に何が変わったのかを、見落とさぬためだった。

 

 

 

侍女はまず、昼に朱乃が粥をどれほど口にしたかから慎重に話した。巌勝は知らないことが出れば改めて尋ね、侍女が記憶を辿っている間も急かさなかった。

 

 

 

記録を頼むと言いながら、失敗を探して叱りつける者のように振る舞えば、次からは小さな変化ほど隠されてしまうかもしれない。

 

 

 

侍女は少し迷った後、朱乃が時折、戸の外の足音へ耳を澄ませているという話も付け加えた。疲れたと言って目を閉じていても、子供たちの足音のように聞こえれば、また目を開くことがあるという。

 

 

 

「私がご挨拶へ伺える時刻を、あらかじめお伝えしておこう。稽古が遅くなる時には人を寄越して知らせるゆえ、私を待つために眠るのを遅らせないようにして差し上げてくれ。

 

ただし、今のように安らかに眠っておられる時は、『来て帰った』と伝えるためだけに起こさなくてよい」

 

 

 

巌勝は戸口の方を振り返った。母は、自分が部屋を出た後も、あの戸を見つめていたのだろう。明日の稽古が終わる頃合いを考える時、剣をどれほど振るうかより先に、見舞いへ戻ってくる時刻を心の中で確かめた。

 

 

 

朝鮮や西域から入った薬材についても、医師が必要だと判断するものは整えるつもりだった。他の土地の助けが必要なら、人を遣わして求めればよい。

 

 

 

剣を学んできた歳月だけで母の病まで見抜くことはできない。自分にできるのは、必要な人が、その人の役目を果たせるよう支えることだった。

 

 

 

侍女の足音が遠ざかると、母の呼吸が再び聞こえた。彼はその音に合わせるように、固まっていた肩を少し下ろした。

 

 

 

『いつかは、この家を離れなければならぬ時が来るでしょう。けれど、その日の使命ばかりを考えて、まだ私の手を握ってくださる今日を、見過ごすことはいたしません』

 

 

 

巌勝は眠る母の傍へ正座し、これからするべきことを考えた。家を離れる計画を今話せば、ただ心配を増やしてしまうと分かっていた。まずは目の前の世話を整えることが先だった。

 

 

 

家を守ることと、人を守ることが、いつまでも同じ道であり続けるとは限らない。

 

 

 

自分はいずれ無惨と再び相まみえる。そして運命と因果が、自分をもう一度鬼の道へ引き寄せる可能性があることも、すでに知っていた。

 

 

 

だからこそ、人として家へ繋がれているこの時間の中で、何を変え、誰を救うのかが、何より重要だった。

 

 

 

だが、そのすべての大きな計画よりも、今この瞬間は、母が穏やかに息をしており、縁壱が暖かな部屋で眠っているという事実の方が大切だった。

 

 

 

戸のわずかな隙間から差し込む月明かりが軒先を照らし、遠くから聞こえる虫の声が、なぜかいつもより鮮明に感じられた。

 

 

 

一方、朱乃が眠る部屋の裏口の隙間には、小さな影が一つ留まっていた。兄の部屋で眠ったふりをした後、静かについてきた縁壱だった。

 

 

 

彼は、兄が母へ謝る声と、額を傷つけた息子を心配する母の言葉を聞いていた。太陽と月の耳飾りへ込められた意味も、強さだけを追って心を失わぬようにという教えも、戸の向こうで静かに胸へ刻んだ。

 

 

 

中でも縁壱の心へ最も深く残ったのは、兄も自分と同じように、母を失うことを恐れているという事実だった。

 

 

 

巌勝は普段、自分よりずっと強く、堂々として見えた。家の大勢の者たちの前でも揺らぐことなく命令を下す若当主だった。

 

 

 

だから縁壱は、心のどこかで、兄なら何でも耐えられるのだと思っていたのかもしれない。

 

 

 

だが戸の向こうから聞こえた泣き声は違っていた。

 

 

 

兄もまた、母の血を見て恐怖を感じ、母が死んでしまうかもしれないという言葉の前では、幼子のように声を震わせていた。

 

 

 

縁壱はそこで初めて、怖いのは自分だけではないのだと気づいた。

 

 

 

そしてまた……兄が遅ればせながら手を尽くしたにもかかわらず、血を吐いてしまった母の苦しげな声と、兄の痛切な悲しみを聞いた縁壱は、自分の目にもいつの間にか涙がいっぱいに溜まっていることへ、遅れて気づいた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

縁壱の頬を、澄んだ涙が次々と流れ落ちた。

 

 

 

兄が医師を呼び、母の傍を守っていても、病が一度に治るわけではない。自分に見える身体の内側の動きも、この先どんな日が訪れるのかまで教えてはくれない。縁壱には、そのことが怖かった。

 

 

 

彼は戸の前で目を閉じ、両手を合わせた。医師が部屋を出入りする音を聞くたび胸が沈んだが、今回は母の傍に兄がいることを思い出し、息を整えた。

 

 

 

『天におられる神よ……どうか母上が、明日も私たちを呼んでくださいますように。兄上が用意してくださった薬と、医師の方々のお世話が、母上のお力になりますように。

 

母上のように苦しんでいる他の人たちにも、誰かが傍にいてくれますように。私にはどう助ければよいのか分からないその方々にも、どうか少しでも苦しみの少ない夜をお許しください』

 

 

 

縁壱は涙を拭いかけて、手を止めた。市場で自分の横を通り過ぎていった人々の中にも、病む家族を待っている者がいるかもしれないと思った。その家の戸口にも、今の自分のように行き来する子供がいるのだろうか。

 

 

 

兄に気づかれぬよう息を殺しながらも、祈りだけは途中でやめることができなかった。母が明日、自分の名を呼んでくれたなら、今度こそ、自分も答えたいと思った。

 

 

 

声を出したことで何かが起こるのではないかという恐れは、まだ消えてはいなかった。けれど、今日聞いた兄の約束を思い返すと、その恐れの傍らへ、別の願いも少しずつ居場所を得始めていた。

 

 

 

相模国の夜空にかかった銀色の三日月が、軒先と庭を静かに照らしていた。縁壱は涙を拭い、その光をしばらく見つめた。母が兄へ語った月の話が、まだ耳元へ残っていた。

 

 

 

長い間祈りを捧げた縁壱は、部屋の中からもう会話が聞こえず、母の整った呼吸と、兄がその場を守る小さな動きだけが続いていることを確かめてから、ようやく慎重に身体を返した。

 

 

 

兄へ気づかれぬよう、来た道をそのまま辿って巌勝の部屋へ戻る間も、胸の中では先ほど聞いた言葉が何度も巡り続けた。

 

 

 

とりわけ、兄が自分を命懸けで守ると母の前で誓った声と、母がそんな兄へ、月のように人を守る者であってほしいと願った声が、不思議なほど温かく胸へ残った。

 

 

 

再び障子を開け、兄が譲ってくれた布団へ横になった縁壱は、枕へ染みついた馴染みのある香りを感じながら天井を見つめた。肩まで布団を引き上げると、つい先ほど兄が端を整えてくれた手つきが思い出された。

 

 

 

今日一日、兄と共に食べたもの。市場で見た景色。自分へ何度も「すまなかった」と泣いた顔。傷へ膏薬を塗ってくれた手。そして少し前、母を抱きながら泣いていた声まで、一つずつ思い返した。

 

 

 

もちろん、母の病が完全に治ったわけではない。父の考えが一日で変わったわけでもなく、自分を取り巻く世間の視線が今も冷たいことも分かっていた。

 

 

 

それでも、少なくとも今夜だけは、明日目を覚ませば、母と兄が二人とも同じ屋敷の中で生きていて、また顔を見ることができる――そんなあまりにも当たり前の事実が、初めて大きな幸福のように感じられた。

 

 

 

縁壱は自分でも気づかぬまま、布団の端を両手で少し強く握った。明日も兄と母が無事でいてくれますようにと、心の中でもう一度祈ってから、ようやく緊張の解けた幼子のように、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

その日まで、縁壱にとって夜とは、冷たい狭い部屋で母の咳の回数を数えながら、次の息が続かなくなるのではないかと怯える時間だった。

 

 

 

だが、その夜だけは、同じ夜が初めて、「待つことのできる明日」を抱いている時間のように思えた。

 

 

 

それはほんの小さな違いにすぎなかったが、幼い縁壱にとっては、それだけでも十分に大きな変化だった。

 

 

 

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その日の劇的な和解と、母との再会を境に、継国家の空気は急速に変わり始めた。

 

 

 

翌日、巌勝は自分に許されている財と人手を、どこへ使うのか改めて整理した。そして蔵、台所、部屋の世話を任されている家臣たちを稽古場へ集め、はっきりとした声で命じた。

 

 

 

「これからは、母上と縁壱のお世話に必要な衣服、食事、薬を決して疎かにするな。私の部屋へ入れる布や布団を惜しまぬのであれば、お二人のものにも同じだけ心を尽くせ。

 

母上の食事と薬は医師の指示へ従い、縁壱には年齢に合った食事と寝床を用意せよ。

 

これまでの過ちは、実際に何があったのかを調べた上で問う。今日以降も故意に食べ物を抜き取り、侮辱し、手を上げる者がいるなら、その者から役目を取り上げ、家の規律に従って厳しく責任を問う。

 

これからは、必要なものが足りず仕事を果たせなかったことと、人を見下して世話をしなかったことを、明確に分けて扱う」

 

 

 

家臣たちは、『うつけ』と呼ばれていた次男へ、若当主に準ずるほどの待遇を与えるという異例の命令に、大きくざわめいた。

 

 

 

しかし、耳に月読命の耳飾りをつけ、幼子とは思えぬほど、いつの間にか自然と放つようになった若当主の気迫に押され、ひれ伏すしかなかった。

 

 

 

巌勝は、怯えて頭を下げる者たちの前で、一度言葉を止めた。前世の自分であれば、最も恐ろしい罰から口にして、その沈黙を長く支配しようとしただろう。

 

 

 

だが今回は、蔵を預かる家臣へ、実際に出すことのできる品を尋ねた。費用をどこから出すのかも示さず結果だけを求めれば、当主と若当主の双方の顔色を窺わなければならない彼らへ、また責任を押しつけることになる。

 

 

 

まずは自分の持ち分の蔵から用意し、それで足りぬものは自分へ報告するよう命じた。そして縁壱が助けを求められる相手も、あらかじめ決めてやった。

 

 

 

弟に必要なのは、毎日、自分が大声で威厳を示さなければ手に入らない優しさではない。兄がその場を離れていても続く世話でなければならなかった。

 

 

 

だが、この報せを聞いた家の最高権力者にして父、継国正紀が黙っているはずもなかった。

 

 

 

ドンッ!

 

 

 

政庁の上座へ座っていた正紀は、巌勝が入ってくるなり、傍らへ立ててあった長刀の鞘尻を床へ叩きつけ、怒りを爆発させた。

 

 

 

「巌勝! この馬鹿者め、若当主という立場が、すでにお前の勝手で家の掟を揺るがせるほど軽いものに見えるのか!

 

縁壱のあれは、生まれた時から醜い痣をつけてきた、家へ呪いを招く不吉な存在だ!

 

あのうつけ同然の者へ、後継者であるお前と同じような絹の衣を着せ、貴重な薬材まで浪費するなど、今すぐその愚かな命令を取り消さぬか!」

 

 

 

父は今なお、武家の掟と「不吉だ」という噂を持ち出し、頑なに威圧した。

 

 

 

前世の巌勝であれば、父の苛烈な権威と規律に怯え、従順に頭を下げていただろう。

 

 

 

父に認められることは、そのまま自分の価値だった。後継者の座を失うことは、世界が崩れるのと同じほどのことに思えたからだ。

 

 

 

だが今の巌勝は、五百年近い前世と、果てしなく長く最悪だった地獄を経験して帰ってきた回帰者だった。

 

 

 

家一つの後継者という立場が、数百年の罪業や、愛する弟の命より重いはずがなかった。

 

 

 

むしろ前世の自分を破滅させた執着の一つこそ、『自分が後継者でなければならない』という欲望だったことを、痛いほど理解していた。

 

 

 

巌勝は腰へ差していた後継者の刀へ手をかけた。抜刀する意思と受け取られぬよう柄から手を離し、鞘ごと帯から解くと、両手で自分の前へ置いた。

 

 

 

畳へ置かれた刀を目にした瞬間、家臣たちのざわめきが収まった。巌勝は膝を正し、父を正面から見据えた。

 

 

 

「父上。私が命じたのは、弟を飢えさせず、病んだ母上をきちんとお世話せよということです。縁壱へ後継者の座を与えよと申したわけでもない。それが、なぜ家を滅ぼすことになるのですか。

 

生まれた時の姿だけを理由に、血を分けた者を閉じ込め、飢えさせる命令へ従うことはできません。くだらぬ迷信のために身内を捨てる家に、何の大義があるというのです!

 

どうしても、そのような掟を守らねばならぬというのなら……こんな腐りきった家の若当主の座など、この刀と共に今すぐお返しします! 私を家から追放してください。母上が治療を受けられる道を探し、縁壱は私が連れて出ます!

 

家の外での暮らしが楽だから申し上げているのではありません。ここで血を分けた者が飢えるのを見ているくらいなら、最低限の荷だけを持ってでも、共に生きていく道を探します。

 

二人の息子が去り、家督の継承まで揺らいだ後でも、その掟が家を守ったと仰ることができますか。

 

お選びください、父上! 私たちに家の名を継がせるおつもりなら、まず、その名の中で共に生きる道をお許しください!」

 

 

 

その場の家臣たちは、畳へ置かれた刀と巌勝の顔を交互に見つめ、言葉を失った。正紀もまた、長男が自ら後継者の証を手放すとは思っていなかった。

 

 

 

「な、何だと……?! お前、自分が今何を口にしているのか分かっているのか!

 

長子相続の原則を、自ら拒むというのか! それは、お前が持つべき権限を自分の手で捨てるということだぞ!

 

そんな愚かな手を打つ者が、どこにいるというのだ!」

 

 

 

正紀は、生涯自分の意向へ従ってきた長男が、後継者の座を捨てると口にしたことへ、大きな動揺を覚えた。しかも、その言葉は、怒り任せに背を向ける子供の癇癪には聞こえなかった。刀を置いた手は、少しも震えていなかった。

 

 

 

一瞬、激しい怒りが込み上げた。だが、その直後には、当主としての計算があまりにも速く頭を駆け巡った。

 

 

 

もし巌勝が本当に家を出れば、単に言うことを聞かない長男一人を失うだけではない。

 

 

 

正式な後継者が消える。それだけではない。巌勝は縁壱まで連れて出ると言った。

 

 

 

自分が次男を不吉な存在だと思っているとしても、あの子も間違いなく継国の直系の血を引いている。

 

 

 

双子の息子が二人とも一度に去れば、自分が定めていた家督継承の先行きから立て直さねばならない。それだけで家がすぐ消えるわけではなくとも、長男と決裂したという噂は、親族や家臣たちの心を揺らすには十分だった。

 

 

 

外の勢力がその隙を狙うかもしれず、自分が信じて育ててきた後継者の座を誰へ任せるのかも、改めて考え直さなければならない。

 

 

 

正紀は、自分が築き上げてきた秩序を、息子の一言のためにもう一度計算し直さねばならないことが、ひどく不愉快だった。

 

 

 

その現実に、正紀の顔が赤く染まった。

 

 

 

息子が自分へ反旗を翻したことへの怒りと、その息子の言葉が、単なる幼子の虚勢ではなく、実際に実行可能な脅しであることへの動揺が、同時に込み上げた。

 

 

 

正紀は家臣たちの視線を感じ、歯を食いしばった。世話を命じた長男を公の場で叩き潰せば、自分の権威は保てるかもしれない。だが将来、その息子の命へ従うことになる者たちの前で、後継者としての権威まで一緒に壊すことになる。

 

 

 

家の継承が揺らぐという話は、領地の仕事を任される家臣や、兵を率いる者たちにとっても軽くは聞こえないだろう。正紀は目の前の息子だけではなく、その後ろで息を殺している顔々まで意識した。

 

 

 

正紀が巌勝へ期待していたのは、まさに人を動かし、自分の判断を守り抜けるだけの強さだった。その強さが、初めて自分へ向けられていた。

 

 

 

彼は今も、息子の頑固さが正しいとは思っていなかった。ただ、その意志を力で折った後にも、自分が望んでいた後継者を、そのまま残せるのかどうかだけは、簡単に断言できなかった。

 

 

 

「お前は、家の外で何ができると思っている! 幼いお前が縁壱の責任を負い、母の薬代まで用意できると思っているのか。世の中がそれほど甘いのなら、なぜ今までこの家の庇護の下で暮らしてきたのだ!」

 

 

 

「容易にできるとは思っておりません。だからこそ、まず父上から私へ許された権限の中で医師を招き、必要な品を用意しました。

 

それすら取り上げられるのであれば、別の道を探すと申し上げているのです。弟を世話することが、なぜ父上へ逆らうことにならなければならないのか。その理由を、私は受け入れることができません」

 

 

 

巌勝は声を荒げなかった。だが、目の前へ置いた刀を戻そうともしなかった。正紀の手が膝の上で拳へ変わるのを見ても、今回だけは、叱責を避けるために言葉を変えることはできなかった。

 

 

 

正紀は息子の額に残る傷を見た。昨夜、妻のもとを訪ね、泣いていたという報告まで思い出すと、数日前まで自分を見上げていた子供が、いつから別の考えを抱くようになったのか分からず、さらに怒りが込み上げた。

 

 

 

正紀の手が膝の上で止まった。最も近くへ座る家臣さえ、目を伏せ、次の命令を待っていた。ここで刀を戻してやるなら、なぜその刀を置かせることになったのかという問題にも、答えを出さなければならない。

 

 

 

「今日、お前が口にしたことを、軽く流すと思うな。自分の意思で人を動かしたのであれば、その後に起こることも、お前自身が背負わねばならぬ。母と弟のためという言葉を理由に、自分へ任された務めを疎かにすることは許さん」

 

 

 

「私に任された務めも、疎かにはいたしません。費用と品をどこへ使ったのかも記してお出しし、さらに何が必要なのかもご相談いたします。

 

ただし、母上と縁壱を世話することは、どうか続けさせてください。それだけはやめぬという言葉を、取り消すつもりはありません」

 

 

 

正紀はしばらく息子を睨みつけていたが、やがて家臣たちへ低く命じた。若当主の持ち分から使った財は帳面へ記し、治療と部屋のことを報告せよ、という内容だった。そして刀を戻せと言い残し、席を立った。

 

 

 

息子の考えをすべて受け入れ、縁壱を見る目まで変えたわけではなかった。彼は今も、次男が不吉な存在だという考えを捨てきれず、長男が自分の意向へ逆らった怒りも飲み込めてはいなかった。

 

 

 

ただ、その場で世話を取り消せという命令を、もう一度出すことはなかった。家臣たちはその意思を確認して初めて息をつき、巌勝は自分の前へ置いていた刀を、ゆっくりと取り上げた。

 

 

 

これですべてが解決したと考えることはできなかった。だが少なくとも、医師と侍女を下がらせずに済み、弟へ用意した寝床と食事を、今日また奪われることもなくなった。

 

 

 

巌勝にとっても、今回の衝突は一つの小さな確認となった。

 

 

 

かつての自分は、権力を人の上へ立つための証だと考えていた。だが今、手にしている若当主の権限は、初めて誰かを守るための盾となることができた。

 

 

 

その力で用意した場所の中で、母が休み、弟が食事を取ることができる。父が最後まで差し出さなかった優しい言葉まで、無理に得ることはできない。だが、今すぐ必要なものを守ることから、もう目を離したくはなかった。

 

 

 

いつか本当に自分が家を去ることになったとしても、その日が来るまでは、自分へ与えられた地位と財、人を動かせる力を、できる限り正しく使い、一人でも多く守るのだと、胸の内で改めて誓った。

 

 

 

実際、命令が下された翌日から、屋敷の中の景色は目に見えて変わり始めた。

 

 

 

縁壱の食事には、巌勝の膳と同じ質の米と料理が並び、擦り切れ、継ぎの当たった衣の代わりに、身体へ合った新しい武服が用意された。

 

 

 

朱乃の部屋には、決まった時刻に医師と侍女が出入りし、薬をどれほど飲んだか、咳の様子、食事と眠りを見守った。

 

 

 

何より、それまでは縁壱が廊下を通ると目を逸らしたり、後ろで囁き合ったりしていた使用人たちが、今では少なくとも表向きには、丁寧に腰を折るようになった。

 

 

 

巌勝は身近な従者たちへ、縁壱が何を好むのか無理に聞き出したり、過度に持ち上げたりせず、ごく普通の次男坊を扱うよう、自然に世話をするよう別に命じた。

 

 

 

突然、過剰な親切を浴びせられることさえ、生涯無視されてきた弟には別の負担になり得る。そのことを、市場での反応からすでに悟っていたからだ。

 

 

 

縁壱は最初の数日、誰かが先に温かな湯を持ってきたり、衣を整えたりしてくれるだけでも、何度も断ろうとした。

 

 

 

むしろ、自分の分として出された果物や菓子を、母や使用人たちへ分けようとした。

 

 

 

巌勝は、そんな姿を無理に直そうとはせず、むしろ少しずつ受け入れられるよう見守った。

 

 

 

自分が人へ何かを与えるのと同じように、誰かが自分のために差し出してくれる好意を受け取ることも、関係の一つなのだということ。

 

 

 

愛されることを、借りのように考えなくてもよいのだということを、いつか弟が自然に学んでほしかったからだ。

 

 

 

そうして屋敷の変化は、たった一度の命令で終わるのではなく、ごく小さな一度の食事、一度の挨拶、一枚の温かな布団から、ゆっくりと日々の暮らしへ根を張り始めた。

 

 

 

あの日の衝突を境に、父・正紀との関係は氷のように冷たく、疎遠なものとなった。それでも巌勝は一片の後悔も抱かず、黙々と縁壱と母のために、自分のできるすべてを注ぎ続けた。

 

 

 

そして同時に、自らの未来へ備えることもやめなかった。

 

 

 

巌勝は毎朝、家の厳しい教育と鍛錬を終えた後、一人で奥深い竹林へ向かい、前世で積み上げた五百年近い心得をもとに、

 

 

 

『月の呼吸』の型を、まずは七歳の身体へ合うよう精密に調整しながら鍛錬した。問題は、頭と身体の差があまりにも大きいことだった。

 

 

 

頭の中では、剣が通るべき軌道を、指の節一つよりもさらに細かな誤差まで理解していた。

 

 

 

どの瞬間に息を吸い、どこで足裏へ力を乗せるのか。腰と肩をどの拍子で回せば最も効率のよい斬撃になるのかまで、すべて覚えていた。

 

 

 

しかし、いざ木剣を振れば手首が耐えきれず、ごく僅かに揺れた。前世であれば一呼吸のうちにあまりにも自然に連なっていた動きも、今は肺と筋肉の限界によって途中で途切れた。

 

 

 

ほおおおおお――。

 

 

 

深く息を吸いながら剣を振るうと、幼い巌勝の足元から土埃が舞い上がった。だが、思い描いていた軌道より、剣先がほんの僅かに下へ落ちた。

 

 

 

巌勝は足を踏み直し、同じ動きを繰り返した。数十回続けるうちに掌へ水膨れができ、小さな腕が震え始めた。それでも、剣先が落ちる瞬間へ気づく速さだけは、少しずつ増していった。

 

 

 

前世の自分であれば、この程度の未熟さには耐えられなかっただろう。もっと速く、もっと強く、もっと完璧にできない自分の身体を憎み、限界を越えるまで無理やり追い込んだはずだ。

 

 

 

だが、今生では違った。

 

 

 

巌勝は震える腕を見つめ、木剣をゆっくりと下ろした。

 

 

 

『身体がついてこないのは当然だ。私は今、七歳なのだから』

 

 

 

知っていることと、できることは違う。

 

 

 

数百年分の心得があるからといって、まだ育っていない骨と筋肉が、一日で大人の力を得るわけではない。痣や赫刀、『透き通る世界』へ到達した記憶があるからといって、今の身体がその状態へ耐えられるという意味でもなかった。

 

 

 

どこへ進めばよいのかを知っていることは、間違いなく大きな利点だった。だが、その道を知っているからこそ、今日無理をして、明日の鍛錬まで失うことは避けなければならない。

 

 

 

『過去のように焦らない。強さが、私の価値のすべてではない』

 

 

 

母の言葉が浮かんだ。

 

 

 

月は、太陽の眩さを妬まない。

 

 

 

巌勝は目を閉じ、しばらく呼吸を整えた。

 

 

 

今、自分がするべきなのは、幼い身体を壊しながら前世の境地へ無理に辿り着くことではない。きちんと食べ、眠り、成長しながら、身体が心得へ追いつけるよう、一歩ずつ道を整えることだった。

 

 

 

いつかは再び痣を開き、『透き通る世界』へ到達し、赫刀までも取り戻すだろう。

 

 

 

だが、その過程で、人を守るために与えられた二度目の人生を、自ら壊す理由などなかった。

 

 

 

巌勝は、弟へまで守るべき責任や義務を急いで教え込みたいとは思わなかった。縁壱が自分と遊ぶ時間を大切にしていることを知ったからこそ、わざわざ刀を握らせ、鍛錬へ引き込むこともしなかった。

 

 

 

代わりに、家で買い求めた華やかな双六の賽や独楽、凧揚げの道具をたくさん持ってきて、縁壱が同年代の子供たちのように思う存分遊び、幼少期の幸福を味わえるよう細やかに気を配った。

 

 

 

しかし、屋敷の中で待遇を変えたからといって、塀の向こうへ広がった偏見まで消すことはできなかった。双子を不吉とする言葉と、縁壱の痣を巡る噂は、相模国の領内に暮らす大人たちの間から、その子供たちへも移っていった。

 

 

 

見知らぬ人の前では言葉を控え、静かに身を引く縁壱を、何人かの子供は、反抗できない扱いやすい相手だと思った。

 

 

 

市場へ出かけた日から数日が過ぎたある午後、巌勝は稽古場で鍛錬を終え、自室へ向かっていた。

 

 

 

その日は人目のある場所だったため、月の呼吸に属する型を見せるのではなく、慣れた基本動作に合わせて、足と腰の動きを整えていた。

 

 

 

汗に濡れた袖を直しながらも、どの瞬間に剣先が落ちたのかを思い返していた。頭の中にある軌道を、今の小さな身体でなぞるには、まだもう少し時間が必要だった。

 

 

 

前世で会得していた痣と赫刀、『透き通る世界』は、もう一度、身体と感覚を磨き直して辿り着かなければならない境地だった。まして今は人の身体だ。鬼であった頃、血鬼術によって生み出していた斬撃までを、呼吸だけで蘇らせることはできない。

 

 

 

巌勝は焦りを押さえ、まずは今日身につけた動きを覚えておこうとした。竹林で一人鍛錬する時に改めて確かめようと考えながら歩いていた、その時だった。息を切らして駆けてきた使用人が、青ざめた顔で彼の前へ立ちはだかった。

 

 

 

「若当主様! 次男様が、市場の裏手にある竹林の道で、子供たちに囲まれているとのことでございます!

 

先ほど市場から戻った者が知らせてまいりました。何人もの子供が、次男様を突き飛ばし、殴っているところを見たと!」

 

 

 

「何だと……私はすぐに竹林へ向かう。父上へ知らせ、戻り次第、傷を診てもらえるよう医師にも伝えておけ。誰が何をしたのかは、私が確かめて戻り、ご報告すると申せ」

 

 

 

巌勝は使用人の肩の横を抜け、足を速めた。相手が後を追おうとすると、手を上げて屋敷の方を指し、最後の言葉を背後へ投げた。

 

 

 

「確かめてもいない話だけで、誰かを罰することはするな。まずは医師を用意してくれ!」

 

 

 

巌勝の両眼へ一瞬、鬼の心を抱えたまま数百年を生きた、凶暴な殺気が閃いた。

 

 

 

巌勝は手にしていた白樫の木剣を、強く握り直した。前世の刀と比べれば軽い木にすぎなかったが、幼い手にはずしりと重い武器だった。

 

 

 

彼は先に呼吸が乱れぬよう整えながら、市場の裏手にある竹林へ向かって走った。

 

 

 

『どれほど殴られた。どこを傷つけられたから、見た者がそのまま戻ってきたというのだ。弟へ手を出した者が、まだあそこにいるなら、二度と近づこうなどと思えぬように……』

 

 

 

そんな考えが頭を過ぎった瞬間、巌勝は走りながら歯を食いしばった。前世の思考が、まだ完全に消えたわけではなかった。

 

 

 

愛する者へ手を出した相手へ、恐怖と痛みを刻みつけ、二度と同じことをできぬようにする――そんな考えは、あまりにも自然に浮かび上がった。

 

 

 

だが同時に、母の言葉も思い出した。

 

 

 

力を誤って扱えば、まず自分自身の心を斬ることになる。

 

 

 

巌勝は木剣を握る手の力を、少しだけ抜いた。

 

 

 

『まず縁壱のところへ行く。あの子たちを追うために弟を置き去りにしてはならない。何があったのか確かめ、過ちには責任を問う。だが、自分の怒りを晴らすために剣を振るってはならぬ』

 

 

 

そう自分へ言い聞かせながらも、走る速さだけはまったく緩めなかった。

 

 

 

巌勝が息を切らしながら竹林へ到着すると、予想とは違い、まず彼を迎えたのは子供たちの泣き声と、逃げていく足音だった。

 

 

 

「うわああああん! あの化け物みたいな女が! 助けてくれ!」

 

 

 

バキッ! バキッ! バキッ!

 

 

 

「逃げろ! このままだと、あの女に腕を折られるぞ!」

 

 

 

縁壱を虐めていた身体の大きな男の子たちが、あちこちへ青い痣を作ったまま泣き、竹林の向こうへ逃げていった。

 

 

 

巌勝は、痛々しいほど泣きながら逃げていく子供たちを見て、木剣を少し下げた。予想とは違う光景に一瞬足が遅れたが、視線はすぐに、その中から弟の姿を探した。

 

 

 

彼らが逃げ去ったその先、春風に竹の葉が擦れ合う林道へ、一人の少女が立っていた。

 

 

 

その少女は、この土地の武服とは襟や合わせの形が違う、純白の武服をきちんと身につけていた。裾には土がつき、袖も少し乱れていたが、見慣れぬ衣の線ははっきりと目へ入った。

 

 

 

同年代の子供たちの中でも背は高い方で、武芸を学んでいるらしく姿勢もまっすぐだった。巌勝と近い目線の高さで少女が呼吸を整えている間も、その足は、背後にいる縁壱を隠す位置から離れなかった。

 

 

 

後ろで縁壱が足を動かすと、少女のつま先も僅かに動いた。相手から目を離さぬまま、守る者の位置を確かめる癖だった。巌勝は、その小さな動きから、長く繰り返してきた鍛錬の跡を見抜いた。

 

 

 

巌勝の視線は、その整った構えから、ゆっくりと少女の顔へ移っていった。

 

 

 

漆黒のように深く、艶のある長い髪は高い位置で結い上げられ、淡く美しい印象を漂わせていた。

 

 

 

澄んだはっきりとした目元には、まだ消えきらぬ怒りが残っていた。だが背後の縁壱を振り返る時だけは、その目元の緊張が少し和らいだ。

 

 

 

巌勝は、その小さな変化を無意識のうちに見つめていた。見知らぬ少女の美しさへ目を奪われながらも、何より弟の無事を確かめるその眼差しの中に、自分と似た心配を読み取ることができた。

 

 

 

少女の両手には、鍔がほとんどなく、柄の末端へ丸い輪がついた木剣が一本ずつ握られていた。日本で見慣れている刀とは形が違っていたが、巌勝にはまだ、その武器の名や由来までは分からなかった。

 

 

 

少女は、自分より遥かに小さく痩せた縁壱を背後へしっかりと庇いながら立ち、逃げていく子供たちへ二本の木剣を向けると、竹林中へ響き渡るほどの大声で一喝した。

 

 

 

「あなたたちは、何人もで一人の子を囲んで殴るのが、そんなに楽しいの? やめなさいと言っても聞かず、石まで投げておいて、今になって自分たちが痛いって泣くのね! あなたたちに殴られたこの子は、どれほど痛かったと思うの。

 

誰かが嫌いだからって、勝手に殴っていいわけじゃない。もう一度戻ってきて、この子を虐めようなんて考えないで。まだ言いたいことがあるなら、この子には手を出さず、私の前で言いなさい。それができないなら、もう行って!」

 

 

 

少女の叫びに、逃げていた子供の一人が一度だけ振り返ったが、すぐにまた前を向いた。その足音が遠ざかるまで、少女は木剣を下ろさなかった。

 

 

 

縁壱もまた、もう自分へ向かって飛んでくるものがないと分かって初めて、固まっていた肩を少し下ろした。

 

 

 

巌勝も、一瞬何も言うことができなかった。

 

 

 

あの少女がどれほど強いのかは、まだ詳しく分からない。なぜここにいるのか、どのような家に育ち、どんな武芸を学んでいるのかも何一つ知らなかった。だが、一つだけは一目で分かった。

 

 

 

強い力を持つ子供が、自分より弱い者を守るために、その力を使った。

 

 

 

ほんの数日前、母が自分へ話した言葉が、あまりにも鮮明に蘇った。

 

 

 

強さとは、他人の涙を拭ってやれる優しさから始まるのだと。

 

 

 

そして今、目の前にいる見知らぬ少女は、自分が誰なのかさえ知らない縁壱のために怒り、大勢の子供たちの前へ一人で立った。

 

 

 

トッ――。

 

 

 

その時、怒りを鎮めながら木剣を下ろしていた異国の少女が顔を上げた。そしてちょうど竹林の入口へ立っていた巌勝と、正面から視線が重なった。

 

 

 

「あなたも、もしかしてこの子を虐めに来たの? だったら、それ以上近づかないで。もう怪我をしているんだから、これ以上は手を出させない」

 

 

 

少女が警戒しながら問いかける間、巌勝の視線が彼女の瞳と重なった。弟が無事かと尋ね、すぐに駆け寄ろうとしていた言葉が、唇の端で一瞬止まった。

 

 

 

胸の真ん中が、見慣れぬ感覚に痺れた。息が上がっているのは、ここまで走ってきたからだと思った。だが少女から目を離そうとするほど、脈の音はかえってはっきりした。

 

 

 

数百年の記憶のどこを探しても、簡単には当てはめられない感情だった。弟を守ってくれた感謝に加え、長く知っていた者と、思いがけぬ場所で再会したかのような懐かしい喜びまで混じっている。名も知らぬ子供へ、なぜそんな心が湧くのか、巌勝には説明できなかった。

 

 

 

少女もまた、巌勝の淡い紫色の瞳と、耳に揺れる月の護符を目にした途端、言葉を継げなくなった。真っ直ぐ張っていた肩が僅かに固まり、まだ戦いの熱が残っていた頬へ、別の種類の赤みが差した。

 

 

 

つい先ほどまでは彼を阻むつもりで構えていた。それなのに、近づいてくる顔を見ると、手へどれほど力を込めていたのかさえ、急に分からなくなった。少女は一度瞬きをし、木剣を少し下げながら、巌勝の返事を待った。

 

 

 

「そのようなはずがない。私は、お前の後ろにいる子の兄だ。弟が危ないと聞いて、迎えに来た。お前が、あの子たちを止めてくれたのか?」

 

 

 

巌勝はどうにか言葉を終え、少女の背後へ視線を移した。縁壱は自分の足で立ち、兄が来たことにも気づいていた。その事実にまず安堵してから、遠くからでは見えなかった額と頬の赤い痕が、ようやく目へ入った。

 

 

 

「兄……? そうなんだ。二人は似ていると思っていたけれど、木剣を持って走ってきたから、私もちょっと驚いた。この子は怪我をしているから、近くへ来て見てあげて。立ってはいられるけど、痛いところを我慢しているみたい」

 

 

 

少女はそう言いながらも、巌勝と再び目が合うと、一瞬視線を伏せた。巌勝も「ありがとう」という言葉をすぐに続けられず、木剣を握る手を持ち直した。その短い沈黙は、二人にとって不思議なほど長く感じられた。

 

 

 

二人の間に生まれた、見慣れぬ気まずさへ気づいたのは、彼らだけではなかった。

 

 

 

縁壱は『透き通る世界』を通して、兄と少女の身体へ起きている変化を見ていた。互いに顔を見合わせるたび、呼吸が少し変わり、顔へ熱が上がっていく様子が、よく似ていた。

 

 

 

それだけで心の中のすべてを知ることはできなかった。それでも、自分へ向けられていた心配とは違う何かが、二人の間へ生まれたような気がした。縁壱は、何度も合っては逸らされる二人の視線を見つめながら、静かに瞬きをした。

 

 

 

『お二人とも、お互いのことが気に入ったのかな。だったら、このお姉さんとは、これからも会えるだろうか。兄上がずっとあのように立っておられたら、お姉さんも恥ずかしいだろうに……』

 

 

 

縁壱は兄と少女を交互に見た後、小さな手で少女の武服の裾へそっと触れた。二人を急かしてよいものか迷うように、一度唇を閉じてから、ようやく低い声で口を開いた。

 

 

 

「お姉さん、あの方は私の兄上です。私を助けてくださったことへ、お礼を申し上げようとしているのだと思います。

 

兄上も、こちらへ来てください。お姉さんが先ほど私を守ってくださいました。私は、ここにおります」

 

 

 

縁壱が武服の裾をそっと引くと、少女はそこでようやく身体を横へずらした。手にしていた二本の木剣を足元へ置き、兄が弟へ近づける場所を空けた。それでも、顔に差した赤みはなかなか消えなかった。

 

 

 

「そうか、縁壱。兄が来たぞ。まず、どこを怪我したのか見せてくれ。それから……弟を守ってくれて、ありがとう。何があったのか、お前の話も聞かせてほしい」

 

 

 

巌勝は少女へ視線を向け、感謝を伝えてから、弟の前まで歩み寄った。近くで名を尋ね、言葉を交わせる距離になっても、少女の顔を見るたび胸が妙に高鳴る理由だけは、まだ分からなかった。

 

 

 

春風が竹林を長く撫でて通り過ぎた。まだ少女の名を知らない兄弟と、自分が守った少年の兄へ初めて出会った少女の頭上で、若緑の葉が揺れた。

 

 

 

一四三四年、春の日だった。つい先ほどまで暴力と嘲りが続いていた林道で、三人は互いの息遣いが聞こえるほど近くへ立っていた。




───

【後書き】

この彼女との出会いによって起こる出来事が、頭の中で常にまとまらずごちゃごちゃになってしまうため、執筆というものはいつでも難しいものだと感じております。

次回からは彼女の一族に関する逸話や、彼女の一族の……と言い過ぎては面白くありませんので、このくらいにしておきます。

ただ……この物語のプロットをどのように組むべきか、草案は練ったものの未だに完成度が低いため、次回の更新にはさらに時間がかかりそうです。
特に私自身、男女間の恋愛やその手前の甘酸っぱい雰囲気(サム)を描写するのが非常に苦手なため、二人が結ばれていく過程での不自然さにつきましては、どうか温かい目でご容赦いただけますと幸いです。

いつもこの物語を読んでくださる皆様が、常に幸せでありますようにと心から願っております。
疲れた時や辛い時に、私の物語をご覧になって少しでも心が癒やされれば嬉しい限りです。

追記といたしまして、先月「花言葉」について現在連載中の『鬼滅の刃』二次創作を舞台に執筆した小説に関する補足事項がございます。途中で翻訳が不自然な部分がございましたので、こちらはコンテストの審査とは関係なく、改めて翻訳をやり直して修正する予定です。
さらに、この短編小説は韓国の小説サイトの一つである「ノベルピア(Novelpia)」で連載するにはあまりにも時間がかかることを考慮し、この小説のすぐ下に韓国語版として掲載するつもりでおります。

長くなりましたが、後書きまでお付き合いいただきありがとうございました。

次回は本当に……お時間をいただくことになりそうです。彼女の家柄に関する物語や、彼女を護ろうとする十三神についての話を紐解くには……実に多くの調べものと時間が必要となりますので……。
ともあれ……今回はこのあたりで筆を置かせていただきます。

もしこの小説をお読みになる中で気になった点などがございましたら、コメント欄にお寄せいただければ可能な限りお答えいたします。ありがとうございました!




ある読者様から「序盤から設定を詰め込みすぎて情報量が多く、読者の読む気が失われてしまわないか心配だ。最初から全てを見せるより、エピソードを進めながら少しずつ情報を足していく方が、読者としても理解しやすく物語に没入できると思う」という貴重なフィードバックをいただきました。

そのため、もう少しじっくり考えてみて、その方のご指摘通りだと判断した場合は、これまで投稿した1〜17番の設定集を一度全て取り下げて本編からスタートすることも視野に入れております。

もしこのフィードバックに対して共感される方や、他に良いアイデアをお持ちの方がいらっしゃいましたら、コメントやメッセージでご意見をいただけますと幸いです。

非常にありがたいアドバイスですので、しっかりと悩みながら今後の方向性を決めていきたいと思います。

【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!

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