誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意)   作:つねお あきら

4 / 5
第3話 回帰、慟哭した二人の兄弟、そして母……彼女との初めての出会い 第2編(完)

「…………………」

 

 

 

互いに向き合ったまま、長い沈黙が流れていた部屋の中で、先にその静寂を破ったのは縁壱だった。

 

 

 

少し前まで自分の掌の上に置かれていた、不格好な木の笛を見つめ、

 

 

 

それが遠い昔、兄が自分へ渡してくれた約束の証であることを改めて噛み締めていた縁壱は、胸の片隅が温かく溶けていくような喜びを感じながらも、

 

 

 

一方では、朝から自分の帰りを待っているであろう母の姿が、何度も脳裏へ浮かぶのを止めることができなかった。

 

 

 

今日初めて兄と共に市場を歩き、普段なら口にすることさえ難しい甘く貴重な食べ物を味わい、

 

 

 

同年代の子供たちが遊ぶような玩具まで胸に抱いて過ごした半日は、縁壱にとって、生まれて初めてと言ってもよいほど幸福な時間だった。

 

 

 

そして縁壱の懐には、市場で自分の分として受け取った菓子の中から、母へ渡すため最後まで食べずに包んでおいた小さな包みが、今も大切に収められていた。

 

 

 

楽しい時間を過ごしている間も、それだけは一度たりとも忘れなかった。だからこそ、懐の中で感じる小さな包みの感触は、むしろ部屋で一人待っている母への心配を、さらに鮮明なものにしていた。

 

 

 

だが幸福であればあるほど、その分だけ、今この瞬間にも冷たい部屋へ一人横たわり、自分の帰りを待っている母を、あまりに長く一人にしてしまったという罪悪感も膨らんでいた。

 

 

 

「兄上……今日、私が受けたご厚意は、まことに身に余るものでした。とても幸福な半日を過ごすことができました。

 

 

 

ですが……お部屋に一人横になっておられる母上が心配です。

 

 

 

お身体の悪いまま、私が戻るのを寝ても覚めても(寤寐不忘)待っておられるはずなのに、兄上と共に、あまりにも長い間、席を外してしまいました」

 

 

 

母・朱乃へ向ける縁壱の孝心は、幼い頃からきわめて深いものだった。

 

 

 

前世でも、母の左半身が麻痺していることを知ると、母が倒れぬよう常に身体を寄せ、揺るぎない杖となって傍らを支え続けた子供だった。

 

 

 

誰かに褒められるためでもなければ、父や家へ自分の価値を示すためでもない。

 

 

 

ただ、自分を産み、愛してくれた母が病に苦しんでいる――その単純な理由一つだけで、小さな身体を喜んで杖の代わりへ差し出した子供だった。

 

 

 

巌勝は、そんな弟の健気でありながら切ない心を見つめ、縁壱の頭を優しく撫でた。

 

 

 

今はもう、前世のように、その行いを父と母の歓心を買うための卑劣な策だと誤解することはなかった。

 

 

 

むしろ、あれほど純粋な孝心を、自分はいかに残酷に捻じ曲げて見ていたのかを思い出し、胸の一角が冷たく疼いた。

 

 

 

「心配するな、縁壱。お前が私と市場へ出る前に、若当主の権限を使い、母上のお部屋にはすでに厳重で徹底した手を打ってある」

 

 

 

「手を打った……とは、どういうことでしょうか?」

 

 

 

縁壱が澄んだ気配を宿した眼を瞬かせながら尋ねると、巌勝は胸を張り、堂々と答えた。

 

 

 

「家の中でもっとも医術に長け、口の堅い医師を二人、母上のお部屋へ急ぎ向かわせた。

 

 

 

父上には、若当主の健康を定期的に診るついでに、母上の気力も共に診させるのだと名目を立ててある。そう言えば、さすがに阻むことはできまい。

 

 

 

さらに、私の個人の蔵へ保管されていた西域から渡ってきた貴重な薬材と、朝鮮半島の朝鮮人が伝えたという霊薬も、すべて母上の煎じ薬へ使えと命じた。

 

 

 

台所の者たちにも、これから母上の膳には毎朝、滋養のある雉肉の汁物と柔らかな白米粥を出すよう、厳しく言いつけてある。お前が心配しているような悲劇は、決して起こさせぬ」

 

 

 

巌勝の言葉は事実だった。

 

 

 

昼食を終え、弟と市場へ出るより先に、彼が真っ先に行ったことは、母の死を防ぐため、家の財と人員を組み替えることだった。

 

 

 

まだ父が生きており、自分も正式な当主ではない以上、家の全財産を好き勝手に動かすことはできない。

 

 

 

だが若当主という地位には、将来家を継ぐ後継者であるという理由から、相当な水準の独立した財と命令権が認められていた。

 

 

 

巌勝は、前世では生涯、人を殺すためだけに用いてきた冷静な判断力と、数百年にわたる経験を、今度は人を生かすために使うことを選んだ。

 

 

 

どの医師が金に揺らがず口が堅いのか。どの蔵に貴重な薬材が保管されているのか。どの家臣へ命じれば、父の反発を最小限へ抑えながら母の治療をすぐ始められるのか。

 

 

 

幼い子供とは思えぬ速さで、それらをすべて計算した。そして、どのような名目も通じぬのなら、若当主の権限を巡って父と正面から衝突する覚悟さえしていた。

 

 

 

縁壱は、兄がいつの間にか自分と同じように母の病状へ気づき、自らの権限を使って、ここまで細やかな生活上の配慮と治療を整えてくれていた事実に、深く心を動かされた。

 

 

 

兄の気遣いによって、自分と母の扱いが公然と認められ、これほど良くなったのだと思うと、縁壱の胸には兄へ向ける限りない尊敬と信頼が、深く根を下ろし始めた。

 

 

 

それでも、兄の思い切った配慮によって部屋の厳重な監視が解かれ、滋養のある煎じ薬を煮る匂いが、母の部屋のほうへまで漂っていると聞いてなお、縁壱の眼差しは、かえって強い決意を帯びた。

 

 

 

「兄上の限りないご恩のおかげで、私と母上は、ようやく息をつけるようになりました。

 

 

 

だからこそ私は、受けたご恩の何倍も、これからますます母上の傍らを黙って守らねばなりません。

 

 

 

父上の目を避けながら、母上の左半身を支えることは、次男である私だけの務めです。

 

 

 

兄上は、もう私や母上のことを気にかけず、家を継ぐ者として学問と武芸へ集中なさってください。

 

 

 

そうしてこそ、完全な家の主となることができます」

 

 

 

常に病の母を案じ、兄の将来まで心配する縁壱の肩へ載せられた責務は、その年齢を考えれば、あまりにも重すぎた。

 

 

 

普通の子供であれば、母が病に伏せば泣いて縋り、自分もつらいと駄々をこねるほうが、むしろ自然な年頃だった。

 

 

 

だが縁壱は、すでに自分の望みを後へ押しやり、誰かを世話することを当然のこととして受け入れていた。

 

 

 

それは確かに美しい孝心だった。だが巌勝の眼には一方で、あまりにも早く大人になってしまった弟の傷にも見えた。

 

 

 

巌勝は、そんな弟の揺るがぬ決意を見つめながら前世の記憶が重なり、胸の奥が鋭く痛んだ。

 

 

 

前世の自分は、その健気な行いを『後継者の座を狙い、父上と母上の歓心を買うための卑劣な策』だと疑った。

 

 

 

母の病状にすら気づけなかった自分の情けなさを認めたくないという理由で、その責任を弟へ押しつけ、憎んだ。

 

 

 

今振り返れば笑ってしまうほど狭量な自己欺瞞だった。だが当時の自分は、それこそが真実だと信じ、その歪んだ感情一つが、ついには数百年の破滅へ繋がった。

 

 

 

巌勝は縁壱と目線を合わせるため、冷たい畳へ膝をついて座った。

 

 

 

そして痩せた弟の両肩を、そっと包むように抱き、低く、それでも心からの声で語り始めた。

 

 

 

「縁壱。その務めは、お前一人のものではない。母上をお仕えし、お世話することは、当然、この家の長男であり兄である私が、真っ先に背負うべき務めだ。

 

 

 

これまで私は……長男だという傲慢さに酔い、未熟にも鍛錬ばかりへ没頭し、母上のお身体が麻痺して苦しんでおられることさえ気づけなかった。

 

 

 

いや……気づいていても、恐ろしくて目を背けていたのかもしれない。そんな未熟な兄のせいで、お前のような幼い身体を母上の杖にし、一人で重い荷を背負わせた……。

 

 

 

もう一度、この兄から心から詫びよう、縁壱。この不甲斐ない兄を、どうか許してくれ」

 

 

 

巌勝の目元へ、再び悔恨の雫が滲んだ。

 

 

 

自分は家を率いながらも、時が来ればいつか、その家を解体せねばならぬという苛酷な運命へ従うことになる。

 

 

 

それでも弟の悲劇を止めるためなら、どのような手段も選ばぬと、心を冷たく固めた。

 

 

 

人間であれば当然とされた婚姻や子孫さえ放棄し、ただ人を守る道だけを歩くと、地獄で数え切れぬほど誓った。

 

 

 

それなのに、なぜか七歳の身体へ戻ってからは、涙があまりにも容易く零れた。

 

 

 

鬼の肉体を持っていた頃は、数多の殺戮と惨状を見ても氷のように凍りついていた感情が、人間の幼い身体へ戻った途端、これまで積み重ねてきた数百年分の後悔と悲しみを、一度に吐き出しているようだった。

 

 

 

涙を抑えねばならぬと思いながらも、今だけはそれを無理やり塞ぐことのほうが、また別の嘘のように感じられた。

 

 

 

一方、縁壱は兄の心の奥底にあるすべてを知ることはできなかった。

 

 

 

ただ自分へ向けて、真心のこもった涙と謝罪を見せる兄を見つめながら、胸のどこかへ無意識に残っていた最後の防壁までも、完全に崩れていくのを感じた。

 

 

 

『ああ……兄上は、未熟だったのではなく……ただ、怖かっただけなのだ』

 

 

 

縁壱は巌勝の胸へ頬を寄せ、静かに首を横へ振った。

 

 

 

「違います、兄上……許すだなんて。兄上は、この家の立派な若当主でいらっしゃいます。

 

 

 

そんな兄上が、お忙しい中でも卑しい私のために泣いてくださり、人に悪く言われる覚悟をしてまで母上を守ってくださる。私はもう、何も望むものはありません」

 

 

 

ホオオオオ…………。

 

 

 

巌勝は、抱き合ったまま、いつしかすすり泣く弟を宥めながら、前世で狂おしいほど研鑽した月の呼吸を、無意識のうちに吐いた。

 

 

 

まだ七歳の小さな肺と筋肉では、前世の境地を完全に再現することはできない。

 

 

 

だが呼吸の原理を身体へ刻み込む速度だけは、誰よりも速かった。そして回帰後、少しずつ積み上がっている柔らかな内力を指先へ乗せ、嬉しさの中で泣く縁壱の背を、静かに叩いてやった。

 

 

 

「今日は、そのまま私の部屋で眠りなさい。ここで眠るには、畳の床があまりにも冷たい。近いうちに、この部屋より広い部屋で、母上と共に暮らせるよう手配するつもりだ」

 

 

 

「ですが兄上は、どちらでお休みになるのですか? 兄上は、この尊い家の長男です。ここまでしていただくと、私は申し訳なくて眠れません……」

 

 

 

だが巌勝は、弟の言葉を静かに遮った。

 

 

 

「今の身体は、いろいろと貴重な飯や菓子を食べ、市場で走り、歩いて疲れているだろう? こういう時こそ、休まねばならぬ。

 

 

 

それに私の部屋は、いつも温かく、寝具も柔らかい。そのような場所で眠ってこそ、より健康な身体を得られる。

 

 

 

健康になれば、私とも一緒に遊べる。そして母上の看病もできるようになるだろう?

 

 

 

お前のその気持ちは、すでに十分に理解している。それでも、こういう頼みくらいは黙って聞いてほしい。それもまた、この兄からの願いだ。

 

 

 

今は兄の心遣いを負担に思うかもしれぬが……お前も時が流れ、大人になれば、この兄の配慮が何を意味していたのか、また分かるようになるだろう」

 

 

 

「兄上…………」

 

 

 

「あ、兄上……これも母上へ渡していただけますか? 市場で私の分としていただいた菓子なのですが、母上にも少しだけ味わっていただきたくて、残しておきました」

 

 

 

縁壱が懐から小さな包みを取り出して差し出すと、巌勝はそれを慎重に受け取った。

 

 

 

あれほど楽しい時間を過ごしながらも、最後まで母を忘れなかった弟の心が、その包みからそのまま伝わってくるようで、巌勝は何も言わず、もう一度縁壱の頭を撫でた。

 

 

 

そうして巌勝は、感動している弟を自分の部屋へ連れていき、家でもっとも柔らかな絹を詰めた最高級の布団と、ふかふかの枕へ横たえた。

 

 

 

その部屋は、縁壱がこれまで暮らしてきた、冷たく狭い部屋とは、あまりにも違っていた。

 

 

 

壁と障子の隙間から入る風は、厚い目張りと重ねた布に遮られ、ほとんど感じられなかった。

 

 

 

床には温かな熱が残り、香炉から淡く立ち昇る香りは、人の心を落ち着かせるほど柔らかかった。

 

 

 

縁壱は横になったまま、しばらく天井と布団、枕を交互に眺めていた。まるで、自分が本当にここへ寝てもよいのか、何度も確かめているようだった。

 

 

 

巌勝はそんな弟の眼差しへ気づき、布団の端を整えながら、わざと何でもないことのような声で言った。

 

 

 

「今日は一日、市場を歩き回って疲れただろう。もう眼を閉じ、ゆっくり休みなさい。

 

 

 

今夜は私が母上のお部屋へ行き、一晩中お傍らへいる。だからお前は何も心配せず、よく眠りなさい」

 

 

 

巌勝は、横になったまま疲れた眼差しで自分を見ている弟の傍らへ座った。

 

 

 

そして前世の記憶の彼方、数百年前、母・朱乃が二人を赤子だった頃に寝かしつけながら歌ってくれた、この時代の口伝の子守歌――『絹繭の歌』を、低い声で歌い始めた。

 

 

 

「春の日の静かな水面へ

月の光が満ちるなら

哀れな子よ、柔らかな絹の繭の中で

息を整えなさい。

 

東の夜風が冷たく吹こうとも

蚕の糸で命の緒を結んだから

冥途の使いよ、この部屋を見ずに

通り過ぎておくれ。

 

暗い夜空、烏の鳴き声

我が子の魂を呼ぶ声なのだろうか

木の葉が落ちるように、この手を離さず

眼を閉じなさい。

 

この夜が無事に過ぎ、朝が来たなら

真っ白な繭を破り、蝶となって咲くだろう

だから我が子よ、冥途の川の音へ耳を閉ざし

この胸の中で眠りなさい」

 

 

 

巌勝の優しい子守歌と、部屋いっぱいへ漂う温かな畳の香ばしい匂いに、緊張していた縁壱の身体は、少しずつ力を抜き始めた。

 

 

 

巌勝にとっても、この歌はただの子守歌ではなかった。

 

 

 

遥か昔、人間だった自分が、まだ母の胸で眠っていた幼子の頃に聞いた声だった。

 

 

 

それ以降、数百年もの間、誰からも二度と聞くことのできなかった、失われた記憶の一部でもあった。

 

 

 

自分がこの歌を覚えているという事実さえ、地獄でようやく思い出した。

 

 

 

そして今は、自分が母から受け取った温もりを、弟へもう一度渡す者になっていた。

 

 

 

巌勝は、いつしか睡魔に負けて眠りへ落ちたように見える弟の頭を優しく撫でながら、妙に込み上げてくる感情を押し鎮めた。

 

 

 

「縁壱。お前がこうして安らかに休むことで、これまで父上の冷たい眼差しと放置、そして下の者たちから受けた無視と侮辱の中で、無意識に負った心の傷も、早く癒えていく。

 

 

 

若当主として義務だけを果たし、外面を整えるために母上を気遣っているのではない。私は心から、母上へお仕えしたいと思っている。

 

 

 

お前と私が力を合わせ、一つの心で孝を尽くせば、恐ろしい病の毒気さえ追い払い、母上の命を数年、数十年でも伸ばせるかもしれぬ。

 

 

 

私はこれまで、短い時間ではあったが、お前にも母上にも、してはならぬ罪を多く犯したと思っている…………。

 

 

 

どうか、この乱れた世の中でも、お前と母上が天寿を全うできるよう、この兄が心のすべてを尽くして努力する……」

 

 

 

巌勝はその場を離れず、部屋へ着いた後、使用人へ持ってこさせておいた、家でよく使われる地黄(じおう)の膏薬を取り出した。

 

 

 

そして、縁壱の武服を慎重に捲り上げた。

 

 

 

痩せ細った脛や腕のあちこちには、狭い部屋の家具の角へぶつけたり、冷たい床で暮らしたりする中でできた痣や擦り傷が、無数に残っていた。

 

 

 

一つ一つは命を脅かすほどの傷ではなかった。

 

 

 

だからこそ、巌勝には余計につらかった。

 

 

 

誰か一人が激しく殴ってできた傷なら、怒りを向ける相手だけは明確だ。

 

 

 

だがこの小さな痣は、長い間まともに世話を受けられなかったという事実が、身体のあちこちへ少しずつ積み重なった痕跡だったからだ。

 

 

 

巌勝は指先へ冷たい膏薬をつけ、弟の傷へ、極めて丁寧に、優しく塗っていった。

 

 

 

膏薬が傷へ染み込むたび、縁壱は少し痛むのか、身体をほんの僅かに震わせた。

 

 

 

だが兄の温かな手つきに触れているうち、やがて静かになった。

 

 

 

………………実のところ、縁壱は眠ってはいなかった。

 

 

 

兄が無意識に零した言葉と、自分の傷を包み込むように手当てしてくれる行動によって、込み上げてくる涙を気づかれたくなかった。

 

 

 

そのため縁壱は、生まれた時からあまりにも自然に見続けてきた『透き通る世界』を使い、自分の身体を極めて精密に制御していた。

 

 

 

それは、単純に存在そのものを消す別種の隠形能力ではない。

 

 

 

自分の肺がどれほど動いているのか、心臓がどの拍子で脈打っているのか、

 

 

 

指先や瞼へどれほどの力が入っているのかを、本人があまりにも鮮明に把握できるからこそ可能な、身体制御だった。

 

 

 

呼吸を深く一定に保ち、眼球の微細な動きを止め、兄の指が傷へ触れた時、反射的に固くなろうとする筋肉まで抑え込む。

 

 

 

そうすると寝床の上の縁壱は、本当に深い眠りへ落ちた子供のように見えた。

 

 

 

このように極意へ達した縁壱の完璧な身体制御による演技のおかげで、たとえ前世の心得を持つ巌勝であっても、

 

 

 

まだ武人として完全な『透き通る世界』を開花させていない七歳の身体では、弟が完全に熟睡しているものと、すっかり騙されてしまった。

 

 

 

巌勝は眠ったふりをしている縁壱の額へ軽く口づけすると、布団を首元までかけてやった。

 

 

 

「ありがとう、縁壱。よく眠りなさい……私の大切な、愛しい弟よ」

 

 

 

ふう~。

 

 

 

巌勝は低く別れの言葉を残すと、部屋の蝋燭を吹き消し、夜の帳が降りた母の部屋へ向かって、一人歩き始めた。

 

 

 

すうっ――。

 

 

 

障子が閉まり、兄の足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった瞬間、温かな布団へ横たわっていた縁壱の両眼が、ぱっと開いた。

 

 

 

澄んだ瞳には、兄へ向ける心配と、深い絆がいっぱいに満ちていた。

 

 

 

「兄上…………」

 

 

 

縁壱は布団を捲り、音を立てずに起き上がった。

 

 

 

兄は自分のために若当主の威厳を捨て、膝をついた。

 

 

 

そして今は、病に苦しみ一人でいる母の部屋へ向かっている。

 

 

 

厳しい父上が、母上のお部屋で兄を見つけ、打ち据えることはないだろうか。

 

 

 

あるいは父でなくとも、家の誰かが兄と母の間へ割って入ることはないだろうか。

 

 

 

そんな心配に、幼い縁壱の心臓は激しく脈打った。

 

 

 

彼は少し前、眠ったふりをしていた時と同じように、自らの呼吸と足裏へ乗る力を細かく調整した。

 

 

 

そして巌勝へ気づかれぬ、絶妙で曖昧な距離を保ちながら、兄の暗い影の後ろを、音もなく追い始めた。

 

 

 

一方、巌勝は弟が自分の後をつけていることへまったく気づかぬまま、屋敷の西側へ向かって歩いていた。

 

 

 

昼には見慣れていた廊下と庭も、夜になると、まるで別の場所のように感じられた。

 

 

 

軒先へ吊るされた小さな灯りが風に揺れるたび、長く細い影が床を撫でていった。

 

 

 

巌勝は数百年もの間、数え切れぬ夜道と戦場を歩いてきた。

 

 

 

それでも今のように、一歩踏み出すだけで、ここまで緊張したことは滅多になかった。

 

 

 

数多の強敵と相対した時ですら揺らがなかった指先が、ほんの僅かに震えている理由は、単純だった。

 

 

 

あの扉の向こうで、母が生きている。

 

 

 

前世の自分にとって、母はあまりにも昔に死んでしまった人だった。

 

 

 

顔を思い浮かべようとしても、時が流れるほど輪郭は薄れ、声も完全には思い出せなかった。

 

 

 

最後に抱かれた時の温もりが、どのようなものだったかさえ、もう分からなかった。

 

 

 

黒死牟となり数百年を生きた後には、母の墓がどこにあったのかさえ、意味のない情報へ変わっていた。

 

 

 

そして自分は、その喪失を認める代わりに、より強い剣と、より多くの勝利だけへ執着して生きてきた。

 

 

 

だが今は違う。

 

 

 

廊下の果てにある障子一枚を開けば、二度と会えないと思っていた人が、今も生きて息をしている。

 

 

 

巌勝は部屋の前で、しばらく足を止めた。

 

 

 

手を伸ばせば、すぐ開ける扉だった。

 

 

 

それでも何度も指を握り、また開き、なかなか扉へ触れることができなかった。

 

 

 

本当のところは、怖かったのだ。

 

 

 

母が自分へ失望することが怖いのではない。

 

 

 

あまりにも遅く戻ってきた自分が、この短い機会さえ、また失ってしまうのではないか――それが怖かった。

 

 

 

結局、巌勝は長く息を吐き、心を整えると、慎重に扉を開いた。

 

 

 

その短い瞬間、巌勝の脳裏へ、前世の古い記憶が欠片となって蘇った。

 

 

 

幼い頃、熱を出して寝込んだ自分の額へ、一晩中濡れた布を載せてくれた手。

 

 

 

剣術の鍛錬で掌が裂け、血を流して戻った時、黙って薬を塗ってくれた手。

 

 

 

そして自分と縁壱が、まだまともに言葉さえ話せなかった頃、二人を交互に抱き上げ、寝かしつけていた若い母の姿が、ようやく一つずつ戻ってきた。

 

 

 

当時の自分は、そのすべてをあまりにも当然のこととして受け取っていた。

 

 

 

家の長男なのだから愛されるのも当然なのだ、と考えていた。

 

 

 

いつかその手が、永遠に消えてしまうかもしれないなど、想像したことさえなかった。

 

 

 

だが死と地獄を越え、数百年を生きた今は違う。

 

 

 

人の声一つ。

 

 

 

手の温もり一つ。

 

 

 

同じ部屋で、共に息をする時間一つ。

 

 

 

それらがどれほど簡単に消え、二度と取り戻せぬものになってしまうのかを、あまりにもよく知っていた。

 

 

 

だから巌勝は、扉を開く前に、自分自身へ固く約束した。

 

 

 

今度は、母が生きている間に、愛しているという言葉を惜しまない。

 

 

 

孝行という名の行いを、未来へ先延ばしにはしない。

 

 

 

時間はいくらでも残っているという傲慢な思い込みの中で、もう二度と、大切な人の最後を見失わない。

 

 

 

その誓いを終えて、ようやく扉を開く指先の震えが、少しだけ収まった。

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

継国家の女主人であり、双子の兄弟の母でもある継国朱乃が暮らす部屋は、屋敷のもっとも奥深く、陰気な西の隅へ置かれていた。

 

 

 

病弱な女が住むには、あまりにも冷たく湿った場所だった。

 

 

 

他の家族の部屋と比べれば、明かりも少なく、人の行き来もほとんどなかった。

 

 

 

巌勝が部屋の障子を慎重に開き、中へ入ると、淡い煎じ薬の匂いと共に、弱い灯りの下へ横たわる、母の痩せた身体が見えた。

 

 

 

身体が苦しい中でも、薬はすべて飲んだのだろう。薬の器は綺麗に空になっていた。

 

 

 

そして自分が施した手当ての効果なのか、前世の記憶にある姿より、ほんの僅かに血色が戻っているようにも見えた。

 

 

 

一四三四年の朱乃は、すでに病の毒が左半身全体を蝕み、本来なら自力でまともに座ることさえできぬほど、重い状態だった。

 

 

 

そして彼女の年齢は、まだ二十二歳に過ぎなかった。

 

 

 

たった、二十二歳…………。

 

 

 

前世では『母』という言葉のせいで、あまりにも遠く、大きな大人にしか見えなかった。

 

 

 

だが数百年を生きた今の巌勝にとって、その年齢は、信じられぬほど若かった。

 

 

 

自分と縁壱を産み、苛酷な武家の秩序の中で二人の子を守ろうとし、

 

 

 

まともに花開く暇もないまま、病に蝕まれていく一人の若い女が、眼の前にいた。

 

 

 

それでも治療と薬、そして無理のない範囲で栄養を与えたことで、今すぐ死へ転がり落ちるほどの状態ではないと確かめると、巌勝は胸の中で大きく安堵の息を吐いた。

 

 

 

そして、横たわっている母へ向かい、礼をした。

 

 

 

「母上……継国巌勝が、ご機嫌を伺いに参りました」

 

 

 

「巌勝……お前が、どうして……? うっ!」

 

 

 

「……母上、そのまま横になっていてください。お身体を起こせば、病が悪くなります」

 

 

 

ほとんど一度も訪ねてこなかった長男が、自分の部屋へ来た。

 

 

 

朱乃は驚きと戸惑いに満ちていた。

 

 

 

それでも、初めてと言ってよいほど、自分のもとを訪ねてきた長男があまりにも嬉しく、反射的に身体を起こそうとした。

 

 

 

だが左半身は思うように動かず、上体を少し持ち上げるだけでも呼吸が荒くなった。

 

 

 

結局、多くの名残惜しさを残しながらも、巌勝の挨拶へ頷くだけに留めた。

 

 

 

巌勝は、縁壱が母へ渡すため、市場から大切に持ち帰ってきた小さな菓子の包みも、寝床の傍らへ慎重に置いた。

 

 

 

挨拶を終えると、巌勝はすぐ母の前へ立ち、衣の裾を整えた。

 

 

 

そして前世のすべての罪業と未熟さを洗い流すかのように、自分の手配によって温かくなった畳へ向かい、全身を折った。

 

 

 

ドン――!

 

 

 

部屋全体が大きく震えるほどの鈍い音と共に、巌勝は自分の額を、畳へ強く打ちつけ始めた。

 

 

 

ぽたり…………ぽたり…………。

 

 

 

あまりにも強く打ちつけたため、七歳の子供の柔らかな額の皮膚が裂け、鮮やかな赤い血が、床へぽたぽたと落ちた。

 

 

 

それは、ただ礼を尽くした謝罪ではなかった。

 

 

 

巌勝自身にとって、数百年もの間、一度もまともにできなかった懺悔の礼だった。

 

 

 

母が生きている間、目を背けた罪。

 

 

 

母の病を、弟の野心だと誤解した罪……。

 

 

 

母の愛を理解できぬまま、家族を捨てた罪……。

 

 

 

そして最後には、人ならぬ鬼となり、数え切れぬ命を殺した罪まで……。

 

 

 

今この場で、すべてを打ち明けたい。

 

 

 

だが、そのすべてを言葉にすることはできない。

 

 

 

だからこそ、言葉では表せぬ重みを、小さな身体一つへ無理やり詰め込み、額が割れるほど床へ叩きつけていた。

 

 

 

朱乃は、巌勝の突然の自傷と、あまりにも異例な行動へ驚き、病の身体でありながら右手を伸ばし、寝床の傍らの引き出しへどうにか手をかけ、身体を起こそうともがいた。

 

 

 

「巌勝! 何という無謀なことをしているの!

 

 

 

家を率い、家族や使用人たちの命を背負い、守らなければならない大切な身体で、どうしてこの母の前へ跪き、血を流しているの!」

 

 

 

巌勝は額から流れる血を拭うこともなく顔を上げ、驚愕する母へ向かって、大声で泣き崩れ始めた。

 

 

 

悔恨の涙が血と混ざり合い、その顔を異様な色へ染めた。

 

 

 

「母上! この愚かな不孝者を、どうか容赦なく叱ってください!

 

 

 

私は……私は『若当主(少家主)』などという見栄えだけの誇りに酔い、弟・縁壱の天才的な才と、高潔な心を、とっくに知っていながら……。

 

 

 

ほんの一時の醜い嫉妬と憎しみに眼を曇らせ、あの哀れな子を、冷たい小部屋へ放置しました!

 

 

 

母上が病の身体で一人苦しみ、縁壱へ寄りかかっておられた時でさえ、私は自分の安泰ばかりを守り、弟の尊い行いを幼稚だと…………、

 

 

 

そして臆病だと蔑み、罵りました!

 

 

 

母上、どうか……どうか、この卑劣で不甲斐ない長男を、絶対に許さないでください!

 

 

 

弟の心を踏みにじった私へ、天罰を与えてください! どのような罵りでも! どのような鞭でも! 甘んじて受けます!」

 

 

 

巌勝は部屋の床を掻き毟り、声が枯れるまで叫び続けた。

 

 

 

前世では、ついに母の胸へまともに一度も抱かれることなく、人ではない怪物へ堕ちた長男の、恨みと悔恨に満ちた懺悔だった。

 

 

 

口へ出している内容は、今の幼い自分が犯した過ちに限られていた。

 

 

 

だが実際に、その涙へ込められた罪悪感は、数百年の歳月を貫いていた。

 

 

 

朱乃に、そのすべての事情を知ることはできない。

 

 

 

それでも幼い息子の泣き声へ、単なる駄々や、一時の後悔だけでは説明できぬ、深い絶望が込められていることだけは感じ取れた。

 

 

 

長男の口から溢れた痛切な告白。

 

 

 

弟への心からの愛と懺悔。

 

 

 

それを聞きながら、朱乃の頬からも熱い涙が流れ落ちた。

 

 

 

彼女は麻痺した左半身を無理やり引きずり、寝床から降りた。

 

 

 

そして血と涙で濡れた巌勝の小さな身体を、壊してしまいそうなほど、強く抱き締めた。

 

 

 

「お……母上…………」

 

 

 

「巌勝……私の可哀想な子…………。

 

 

 

この家の若当主たる者が、こうして簡単に膝をつき、許しを請うようなことを、軽々しくしてはいけないのよ。

 

 

 

父上がお知りになれば、どれほど怒られるか……。

 

 

 

それでも……お前が若当主としての権威と誇りをすべて下ろし、弟への嫉妬と未熟さを、ここまで正直に告白し、反省しているのなら……。

 

 

 

この母は、お前があまりにも哀れで、それでいて健気で……許すしかないわ。

 

 

 

ありがとう、巌勝。お前はようやく、本当の兄になったのね」

 

 

 

朱乃は長男の裂けた額を、自分の衣の裾で丁寧に拭きながら、優しく慰めた。

 

 

 

巌勝は、数十年――いや、数百年ぶりに感じる母の温かな胸の中で、実に半茶頃を越える長い間、子供のように、また声を上げて泣き続けた。

 

 

 

朱乃はしばらく、胸の中で震える長男を何も言わず抱き締めていた。

 

 

 

やがて巌勝の背を撫でる手へ、ほんの少し力を込めた。

 

 

 

朱乃にとって巌勝は、家の若当主である以前に、十月十日を腹へ宿して産んだ、七歳の息子だった。

 

 

 

周囲の者は、長男だからという理由だけで、いつも立派で、強くなければならないと言った。

 

 

 

当主である正紀でさえ、まだ幼い子供へ、やがて数多くの命を背負う者なのだからと、失敗を容易には許さなかった。

 

 

 

朱乃にも、その期待を完全に遮ってやれなかったという罪悪感があった。

 

 

 

だからこそ今、血の流れる額で、自分を罰してほしいと泣き叫ぶ息子を見ると、健気だと思うより先に、胸が痛んだ。

 

 

 

過ちへ気づき、反省することは大切だ。

 

 

 

だが反省するという理由で、自分自身を果てしなく憎み続けることもまた、母が望む道ではなかった。

 

 

 

過去の過ちへ縋り、自分自身を毎日斬り刻むような者が、どうして他人の傷を長く包み続けられるだろう。

 

 

 

朱乃は、まだそのすべてを長い説教として口へ出すことはしなかった。

 

 

 

ただ今日だけは、息子が自分の胸で、思う存分泣けるように、背を撫で続けた。

 

 

 

今日は若当主でも、長男でも、未来の当主でもない。

 

 

 

ただ、怖くて、申し訳なくて、愛されたかった一人の子供でいてよいのだ――その言葉を、手の温もりだけで伝えるように。

 

 

 

巌勝は、その意味を完全に理解したわけではない。

 

 

 

それでも、自分を押し返さず最後まで抱き締める母の体温の中で、初めて『許されたから、もう罪はない』ではなく、

 

 

 

『許されたからこそ、これから違う生き方をしなければならない』ということを、少しずつ受け入れ始めた。

 

 

 

母の胸には、淡い煎じ薬の匂いと、古い絹衣の香り、そしてごく幼い頃に覚えていた温かな体臭が混ざり合っていた。

 

 

 

そのすべてが、巌勝には、この世のどの香りよりも尊く感じられた。

 

 

 

前世の自分が、どれほど無神経で残酷だったのか。

 

 

 

今度は若当主としての権力をすべて使い、必ず母の命を伸ばし、幸福に暮らせるようにする。

 

 

 

巌勝は、何度も何度も、心の中で誓った。

 

 

 

やがて泣き声が収まり、部屋の空気へ少しばかり気まずさが流れると、朱乃は柔らかく微笑み、座り直した。

 

 

 

まず朱乃は何も言わず、部屋の傍らへ置かれていた膏薬を取り出し、血が止まりかけている巌勝の額へ塗った。

 

 

 

少し前までは巌勝が、縁壱の痣だらけの身体へ地黄の膏薬を塗っていた。

 

 

 

今度は母が、自分の額へ薬を塗っている。

 

 

 

あまりにも平凡な母子の行いが、巌勝には、不思議なほど胸をいっぱいにする出来事だった。

 

 

 

母と子の間へ、ある程度の沈黙が流れた後、朱乃は寝床の枕元、その奥深い引き出しから、漆で精緻に作られた小さな箱を一つ取り出し、蓋を開けた。

 

 

 

中には、家へ代々伝わる百年ものの絹糸で編まれた、美しく華やかな耳飾りの護符が収められていた。

 

 

 

赤と白金が交じり合う豪華な衣を纏った、美しい女神の姿が描かれている。

 

 

 

「母上、これは何でしょうか?」

 

 

 

涙を拭いながら尋ねる巌勝へ、朱乃は耳飾りへ触れながら、愛情に満ちた声で説明し始めた。

 

 

 

「巌勝。もともと私は、呪術を伝える巫女の血筋だったの。

 

 

 

お腹の中に双子がいると知った瞬間、私の乏しい神力でも、この子たちが並ではない神の気を宿して生まれるのだと直感した。

 

 

 

だから二種類の耳飾りの護符を、一晩かけて心を込め、用意したのよ。

 

 

 

一つは、太陽神『天照大御神』の力強い赤い陽光を描いた護符。

 

 

 

これは、いつか縁壱へ渡すつもりだった。

 

 

 

あの子は耳が聞こえないようだから、太陽神の力を借り、大切な息子の耳を癒やすこと。

 

 

 

そして世を平和へ導き、その超人的な力を、ただ善良な人々のためだけに使ってほしいという願いを込めたの。

 

 

 

『縁壱』という名の意味とも通じる、神の証なのよ。

 

 

 

いずれ縁壱の耳へつけてやる、大切なもの。

 

 

 

もし、いつか私が…………死んだなら、遺したものとして、あの子の耳へつけてやろうと思っている」

 

 

 

どうやら母は、まだ縁壱の本当の状態を知らないようだった。

 

 

 

実際には、弟は自分と母、さらに他人へ迷惑をかけぬために口を閉ざし、耳が聞こえない『愚鈍な子』のふりをしているだけなのに。

 

 

 

巌勝は、その事実を今すぐ母へ教えたい衝動へ駆られた。

 

 

 

だが縁壱自身が隠している理由と、まだすべての人の前で、自分の力を明かす準備ができていないことを思い、口を閉ざした。

 

 

 

いつか弟自身が、自分の声と本心を母へ見せる日が来るだろう。

 

 

 

それまでは、自分があの子の選択を尊重することこそ正しいのだと判断した。

 

 

 

朱乃は続いて、箱の中からもう一つの耳飾りを取り出した。

 

 

 

それは太陽神の護符とは対照的に、同じ歳月を経ながらも、銀白色と眩い淡紫色の絹糸で精緻に縫い上げられていた。

 

 

 

女神よりは比較的質素な衣を纏う、一人の男神が描かれている。

 

 

 

その正体は、夜空を司る月の神であり、太陽神の弟でもある『月読命』を描いた耳飾りの護符だった。

 

 

 

朱乃は、まだ身体がつらいのか手を震わせながらも、神秘的な力を感じさせる耳飾りを、巌勝の両耳へ慎重につけてやった。

 

 

 

「そして、この月の神『月読』を描いた耳飾りは……今、この家の正統な後継者であり、若当主である巌勝へ渡します」

 

 

 

「私に……月の神が描かれた、これほど貴重なものをくださるのは、なぜなのですか?」

 

 

 

護符の耳飾りをつけたまま尋ねる巌勝へ、朱乃は両手を取り、まっすぐ眼を合わせた。

 

 

 

朱乃がこの話を始めた理由は、未来を正確に予言したからではない。

 

 

 

武家へ嫁いだ後、数多の武士と家臣たちが、勝利と体面、家の名誉という言葉の下で、人の命をあまりにも軽く秤へ載せる姿を見てきた。

 

 

 

夫・正紀もまた、長男へ幼い頃から、敗北を恥と考え、常にもっとも強い者でなければならぬという、苛酷な価値観を繰り返し叩き込んでいた。

 

 

 

幼い巌勝が、父の期待を嬉しく受け止めながらも、失敗するたび、異様なほど激しく自分を追い詰める姿も見てきた。

 

 

 

双子の弟へ、心の底では愛情を抱いていながら、いつしか互いを比べられる状況へ、敏感になり始めていることも、母の眼には微かに見えていた。

 

 

 

だからこそ、今、朱乃が息子へ伝えようとしている言葉は、不思議な未来の予言というより、一人の母が長い間、胸の中へ抱いてきた心配と願いに近かった。

 

 

 

「…………月は、太陽が沈んだ後、闇が訪れた人の世の夜を、一人で照らす高潔な空の灯なの。

 

 

 

私がお前へこの耳飾りを渡すのは、いつか世を濁らせ、罪もない人々を壊そうとする大きな悪意を持つ人間や魔物たちが、昼夜を問わず蔓延る時、

 

 

 

弟よりも強く、堅い兄が月の力を受け、弱い者たちのために立つ立派な侍となり、戦ってほしいから。

 

 

 

剣を握っても、決して勝負や勝利だけへ拘り、ただ『強い』ということへ執着して、怪物になってはいけない。

 

 

 

誰かの才能や力を妬み、殺し、奪おうとすることも、武人の正しい道ではない。

 

 

 

生まれ持った、人ならぬほどの力を、できる限り正しい場所で使うため、絶えず努めなさい。

 

 

 

そして何より大切なのは、自分が『人』であることを、決して忘れないこと……。

 

 

 

弟の縁壱をはじめ、この世にいる善良で優しい人々を、夜の闇の中で悪しき存在から守り、月の光を届ける『高潔な守護者』になってちょうだい」

 

 

 

巌勝の呼吸が、ほんの僅かに止まった。

 

 

 

母は知らなかった。

 

 

 

今、自分が口にしている一つ一つの言葉が、遥かな未来で長男が実際に犯した過ちを、まるで正確に見抜いているかのようであることを。

 

 

 

強さへ執着し、怪物になるな。

 

 

 

他人の才を妬み、殺し、奪おうとするな。

 

 

 

人であることを忘れるな。

 

 

 

その言葉は、前世の黒死牟へ下された判決文のようにも聞こえた。

 

 

 

同時に、この生の巌勝へ与えられる、新しい人生の指針のようでもあった。

 

 

 

朱乃は、自分の言葉を静かに聞いている巌勝の眼を見ながら、さらに続けた。

 

 

 

「巌勝。もちろん……武家へ生まれ、刀を握り、戦へ出ることは、この地で避けられぬ宿命なのでしょう。

 

 

 

父上は、いつもお前へ天下を号令し、常に勝ち続ける強く揺るぎない武人となれと、あまりにも強く求めてこられた。

 

 

 

でも、よく覚えておきなさい。

 

 

 

刀というものは、誰かを斬り倒す前に、扱いを誤れば、自分自身の心を先に斬ってしまう、鋭く割れた鏡の欠片のようなもの。

 

 

 

この地へ生きた、私たちの祖先が語った『強さ』とは何でしょう。

 

 

 

ただ眼の前の敵を一合で斬り捨てることだけが、強さではない。

 

 

 

本当の武とは、自分の力が生み出す傲慢さを警戒し、他人の涙を拭うことのできる優しさから始まるものなの」

 

 

 

朱乃は長男の固く結ばれた唇を見つめながら、静かに言葉を加えた。

 

 

 

「いつかお前が剣の道を歩き、世へ名を知られるようになれば、世の多くの者がお前の力を妬むでしょう。

 

 

 

あるいは、お前自身も、誰かの才を仰ぎ見ながら、心の中へ炎のような嫉妬を抱く日が来るかもしれない。

 

 

 

それは、人であるからこそ持つことのできる、あまりにも当然で、弱い感情。

 

 

 

でも巌勝。その嫉妬の炎で、自分の魂まで焼いてはいけない。

 

 

 

他人の光を妬み、自分の剣を汚した瞬間、武人は人の道を失い、悪鬼の道へ染まっていく。

 

 

 

月は太陽の眩しさを妬まないからこそ、夜空で一人、淡く、高潔な光を放てるの。

 

 

 

その月の心を持つお前の剣は、誰かへ勝つためだけの殺戮の道具になってはいけない。

 

 

 

焦らず、自分の力を信じ、どれほど時間がかかっても正道を歩こうと、自分の心を一度立ち止まって確かめる習慣を身につけなさい。

 

 

 

それこそが、私の誇りである息子が歩くべき、高潔な侍の道なのよ」

 

 

 

母の限りなく優しく、それでいて鋭い教えが、巌勝の胸の奥底を、もう一度根こそぎ揺さぶった。

 

 

 

前世の黒死牟は、月の呼吸を、ただ弟へ勝つための『殺戮の道具』として振るった。

 

 

 

三日月を降らせる自分の剣を見るたび、それが縁壱の太陽へ少しでも近づいた証だと考え、自分自身を欺いた。

 

 

 

だが母が語る月は、まったく違う。

 

 

 

太陽が沈んだ後、闇へ残された人々へ光を渡す存在。

 

 

 

太陽と自分の明るさを比べず、自分がいるべき場所で、黙って夜を照らす存在だった。

 

 

 

巌勝の手は、無意識のうちに、耳へかかった月読の耳飾りへ触れていた。

 

 

 

『母上……ならば今生の月は、縁壱の太陽を追うために存在するのではなく、闇へ残された人々を照らすために存在しなければならないのですね』

 

 

 

その考えが、心の中で完全な形を持った瞬間、巌勝は、自分の月の呼吸が、前世とはまったく違う道へ進まなければならないことを悟った。

 

 

 

型の名や、刀の軌跡だけを変える問題ではない。

 

 

 

剣を振るう目的そのものが、変わらねばならない。

 

 

 

誰かへ勝つため。

 

 

 

自らの優越を証明するため。

 

 

 

縁壱を越えたという虚しい証を得るために振るう月ではなく、

 

 

 

弟と母、そしてこれから出会う多くの人々を守るため、夜を斬り拓く月でなければならなかった。

 

 

 

そして朱乃の言葉は、巌勝へ、もう一つの気づきを与えた。

 

 

 

自分が前世で犯した過ちの始まりは、単に縁壱より弱いという事実へ耐えられなかったことだけにあったのではない。

 

 

 

誰かより後れているという事実を、そのまま自分の存在価値が失われることだと受け取り、

 

 

 

勝てなければ愛される資格も、認められる資格もないという歪んだ基準を、自らの心へ築いてしまった。

 

 

 

そして最後には、その基準で自分だけでなく、世界まで裁いた。

 

 

 

縁壱が自分より強いことは、何の罪でもなかった。

 

 

 

それでもあの光を見るたび、自分の影が濃くなるのだと錯覚し、

 

 

 

ついには、その影を消すためには、相手の光を消さなければならないとさえ考えた。

 

 

 

だが、母が語る月は、そんな存在ではなかった。

 

 

 

太陽があまりにも明るいからといって、夜空の月が消えるわけではない。

 

 

 

月光が淡いからといって、その価値が低くなるわけでもない。

 

 

 

太陽は太陽の場所で世を照らし、月は月の場所で夜を照らせばよい。

 

 

 

巌勝は、あまりにも単純なその真実を、数百年が過ぎてようやく理解した。

 

 

 

今生で、縁壱がどれほど自分より強かったとしても、それは自分の敗北ではない。

 

 

 

自分が縁壱とは別の道を歩くからといって、劣った存在になるわけでもない。

 

 

 

むしろ兄弟は、互いに異なる光で、同じ人々を守ることができる。

 

 

 

その事実を受け入れた瞬間、心の奥深くで長い間、自分を縛り続けてきた比較と競争の鎖が、ほんの僅かに緩んだように感じられた。

 

 

 

その言葉が胸の底へ沈むと、巌勝は前世で、一人剣を磨き続けた数多の夜を思い出した。

 

 

 

人の身体で生きていた頃も、鬼となって眠りすら必要としない肉体を得た後も、月が昇る夜には何度も同じ剣路を繰り返した。

 

 

 

岩や木が斬撃で裂け、自分の身体が以前より速く、強くなったと確かめても、心から満足できたことは一度もなかった。

 

 

 

新たな動きを完成させた瞬間でさえ、喜びより先に、いつも縁壱が浮かんだ。

 

 

 

自分の剣がどれほど進歩したかではなく、その進歩によって弟との距離がどれほど縮んだのかを測った。

 

 

 

少しでも足りないと思えば、たった今成し遂げた成果さえ、自分の手で無価値なものへ変えてしまった。

 

 

 

だから強くなればなるほど、心はかえって空虚になった。

 

 

 

自分だけの剣を磨きながら、肝心のその剣を、自分自身のものとして愛することさえできなかった。

 

 

 

今になって思えば、あれほど長い歳月をかけ完成させた月の呼吸を、最初にもっとも蔑んだ者は、他の誰でもない巌勝自身だったのかもしれない。

 

 

 

母の言う通り、月は太陽と明るさを競うため、夜空へ昇るわけではない。

 

 

 

ならば自分も、これから新しい型を一つ学び、剣が少し強くなるたび、縁壱と比べ、その価値を決めたりはしない。

 

 

 

その剣によって、今日誰を守れるようになったのか。

 

 

 

昨日の自分より、どれほど正しく力を扱えるようになったのか。

 

 

 

まずそこを振り返ると決めた。

 

 

 

それこそが、前世でついに学べなかった、剣を自分自身の人生として受け入れる、最初の一歩なのだと感じた。

 

 

 

巌勝は耳飾りへ触れながら、母の胸の中で、さらに研鑽し、人として弟と人々を守るのだと、幼い自分の意志を涙で誓った。

 

 

 

「負担に思わず、ゆっくりと、一歩ずつ立派に進みなさい。私の誇りである息子よ。そして、私の愛しい息子よ…………そして、頼もしい息子よ…………」

 

 

 

朱乃は長男を優しく抱き、背を撫でた。

 

 

 

巌勝は母の胸の中で、心が浄化されるような深い救いを感じ、微笑んだ。

 

 

 

地獄で数え切れぬほど念仏と懺悔の言葉を繰り返しても埋まらなかった心の一角が、母の掌が背を数度撫でるという、あまりにも些細な行いだけで、少しずつ満たされていくようだった。

 

 

 

だが、二人の温かく穏やかな空気が崩れるのは、一瞬だった。

 

 

 

「うっ……!」

 

 

 

つううっ…………。

 

 

 

急いで医師の診察を受け、煎じ薬による治療も行った。

 

 

 

それでも身体が薬の力を完全には受け止められなかったのか、朱乃は血を吐いた。

 

 

 

少し前まで自分を抱いていた母の唇から、赤い血が流れ出す。

 

 

 

数百年もの間、数え切れぬほど多くの血を見てきた巌勝にとっても、その光景は恐怖そのものだった。

 

 

 

戦場で敵の血が噴き出すことなら、何の感情もなく見ていられた。

 

 

 

だが今、眼の前へ流れ落ちる数滴の血は、どのような惨状よりも恐ろしかった。

 

 

 

長男の真心にもかかわらず、今にも夜明けの霧のように消えてしまいそうなほど急速に弱っていく母を見つめ、巌勝は改めて、昔の自分を果てしなく悔いた。

 

 

 

「母上、大丈夫なのですか! いっそ、もう一度医師を呼びます!」

 

 

 

だが、その言葉を遮り、止める姿勢を見せたのは朱乃だった。

 

 

 

「巌勝。少し前、お前の手配で医師たちに診てもらった時、あの方たちから、お前が弟を世話し、扱いを改めさせたという話まで聞いたわ。

 

 

 

この母は、本当に誇らしい……ごほっ! 今のお前たち兄弟が仲良くしている姿を見られただけでも、もう望むものはないの。

 

 

 

死んであの世へ行ったとしても、これならご先祖様へ顔向けができるわ」

 

 

 

再び血を吐く母を見ながら、巌勝はあらかじめ懐へ入れておいた手拭いを左手で取り、母の口元へ当てた。

 

 

 

同時に右手で、母の痩せた手を握った。

 

 

 

まだ自分が『透き通る世界』の深い領域へ至るには、遥かに遠い状態だった。

 

 

 

それでも、その手はすでに生命の温もりが抜け落ちたかのように、氷のように冷たかった。

 

 

 

巌勝はその瞬間、地獄ですら味わわなかった無力感へ襲われた。

 

 

 

剣なら、どうにかできた。

 

 

 

敵がいるなら斬ればよい。

 

 

 

自分より強い相手なら、さらに鍛えればよかった。

 

 

 

身体が弱いなら、鍛えればよかった。

 

 

 

だが母の身体の中で静かに命を削る病へ、刀を向けることはできない。

 

 

 

月の呼吸を振るい、それを斬り落とすこともできない。

 

 

 

前世の数百年に及ぶ経験と武の心得を、すべて持って戻った。

 

 

 

それでも今、母へしてやれることは、より良い医師を呼び、薬を探し、温かな食事を与え、手を握ることだけだった。

 

 

 

「母上、なぜ……これほど苦しいお身体を、ここまで放っておき、私や父上へ何もおっしゃらなかったのですか?

 

 

 

もっと早く知っていれば、私が何としてでも方法を探したのに……!

 

 

 

少しでも早く手を打ち、たとえ家の財を半分使うことになっても、もっと優れた医師と薬を探すべきでした。

 

 

 

父上を説得してでも、母上を療養へお送りするべきだったのです!」

 

 

 

朱乃は巌勝の言葉を止めるように、その手を握った。

 

 

 

「家の重荷を減らしたかったのよ、巌勝。

 

 

 

お前たち二人が育つ姿を見られるだけで、私は十分だった。

 

 

 

お前たち二人が、健やかに育つ。それだけで、私は十分なの。

 

 

 

縁壱が毎夜、私の傍らへいて祈ってくれる。それだけでも、私はもう癒やされていたわ。

 

 

 

あの子の祈りと孝心が、ある意味では、もっと早く尽きていたかもしれない私の寿命を、少しでも伸ばしてくれていたのでしょう。

 

 

 

でも…………天からいただいた寿命が、あまりにも短いのかもしれない。

 

 

 

私は、そう長くは生きられない気がするの。

 

 

 

高価な薬や医師でも治せないのだということは、私自身、よく分かっているわ」

 

 

 

母を看病できなかったことへ、あまりにも強く自分を責めた巌勝は、唇から血が滲むほど強く噛み締め、同時に叫んだ。

 

 

 

「いったい!!! どうして、ご自分のことを考えないのですか……なぜ!!」

 

 

 

激しく怒る巌勝の顔を見ながら、朱乃は慈愛に満ちた笑みで、その頬を撫でた。

 

 

 

そして、そのまま彼を抱き寄せ、宥めるように言った。

 

 

 

「お前は……この家の長男であり、この家を率いていく人。

 

 

 

お前の肩には、弟をはじめ、家へ属する数多の者たちの安否がかかっているのよ」

 

 

 

『母上。あなたは前世でも、今生でも、変わらないのですね。

 

 

 

頑ななほどに、子のことばかりを思う方。

 

 

 

私の狭量な心が、この尊い愛を見えなくしていたのですね。

 

 

 

長男という権威の下で私が享受してきたすべてのものは、あるいはあなたの犠牲の上へ築かれた城壁だったのだと……今になって、ようやく分かりました』

 

 

 

込み上げる思いの中でも、巌勝は首を横へ振り、唇を震わせながら言った。

 

 

 

「母上。長男として、約束いたします。縁壱は私が命を懸けて守ります。

 

 

 

あの子の持つ才が、呪いにならぬよう、私が盾となります。

 

 

 

家があの子を捨てようとするのなら、私が家を捨ててでも、徹底して守ります。

 

 

 

ですから母上……どうか、もう少しだけ気力を保ってください。

 

 

 

縁壱が成長し、成人の儀を迎える姿くらいは、見届けていただかなければなりません」

 

 

 

悲しむ巌勝の言葉へ、母は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、青白くなった顔にも温かな色を宿した。

 

 

 

その手へ込められた愛情が、あまりにも深い。

 

 

 

巌勝の眼は、また赤くなった。

 

 

 

「母上……あなたがいなければ、私たち兄弟は、この世へ生まれることさえありませんでした。

 

 

 

長男として、どうしてもお願いしたいことがあります。

 

 

 

私の双子の弟、縁壱を、どうかたくさん愛してやってください。

 

 

 

縁壱は、まことに天の才を授かった子です。

 

 

 

ですが、それ以上に温かな心を持っているからこそ、争うことを恐れることもあります。

 

 

 

ひょっとすれば私よりも、なお大きな武神の才を持っているかもしれません。

 

 

 

それでも世へ名を残したいという大きな野望もない。

 

 

 

財を得たいという、ほんの一欠片の欲もない。

 

 

 

ささやかで慎ましい暮らしを好みながら、それでも人々と交わりたいと願う、純粋な子なのです。

 

 

 

あの子へ、どうか勇気を与えてください。

 

 

 

立派で、大人びてはいますが、まだ七歳の子供です。

 

 

 

あまりにも幼い年齢で…………とりわけ、母上の愛に飢えている子なのです」

 

 

 

「この母は、縁壱へあまりにも申し訳ないわ…………努力してみるから……」

 

 

 

切なげな朱乃の言葉へ、巌勝は身体を気遣いながら、ゆっくり抱き締めた。

 

 

 

「そのようなことをおっしゃらないでください。

 

 

 

私が家の後継者として、そして兄として、縁壱を守ります。

 

 

 

母上は、どうか私の言葉を聞き、しばらくは温かな汁物と粥を召し上がり、時間がある時には医師の言葉へ従い、治療と薬も必ず受けてください。

 

 

 

今日は…………私が、母上のお傍らにおります」

 

 

 

「縁壱は…………」

 

 

 

「愛しい弟なら、もう温かく柔らかな私の部屋で、私が寝かせました。

 

 

 

今日だけは、長男である私を信じて、どうかゆっくりお休みください」

 

 

 

朱乃は、いつの間にか頼もしくなった巌勝を見つめ、微笑みながら頷いた。

 

 

 

そうして長い間、月明かりの下で、母と子は互いの手を握り、何も言わず、温もりを分かち合った。

 

 

 

巌勝は、母の手が少しでも温かくなるよう願う者のように、両手で包み込んだ。

 

 

 

朱乃はそんな息子の手の甲を、右手の親指でゆっくり撫でた。

 

 

 

そして、その微笑みを残したまま、ゆっくりと巌勝の胸へ寄りかかった。

 

 

 

薬の力と、今日一日の出来事による疲労が重なり、朱乃は少しずつ眠りへ落ちていった。

 

 

 

巌勝は、彼女の身体を慎重に抱え、最高級のものへ替えられた温かな寝具へ、静かに横たえた。

 

 

 

長い間、母の顔色を慎重に確かめ続けた巌勝は、今日感じた母の温もりを、一生忘れないと誓った。

 

 

 

母が眠った後も、巌勝はしばらく、その場から立ち上がることができなかった。

 

 

 

前世では、数え切れぬ夜を徹して剣を磨いた。

 

 

 

人の寿命を遥かに越える歳月、季節が変わり、国が興り、滅びる姿まで見てきた。

 

 

 

地獄では、時間という感覚そのものが意味を失うほど、長い刑罰へ耐えた。

 

 

 

それなのに、今この小さな部屋の中で、母が吐く細い息一つ。

 

 

 

指先へ少しずつ戻ってくる、微かな温もり一つ。

 

 

 

それらが、どのような歳月よりも尊いものに感じられた。

 

 

 

母が、この先どれほど生きてくれるのか、自分にも分からない。

 

 

 

どれほど家の財を注ぎ込み、名高い医師を集めたとしても、人の病と寿命まで、剣で斬り落とすことはできない。

 

 

 

その事実は、骨へ染みるほど痛かった。

 

 

 

だが、まだ訪れてもいない別れを恐れ、今の時間を流してしまうつもりもなかった。

 

 

 

これから共に食べる一度の食事。

 

 

 

短い見舞いの言葉。

 

 

 

手を取り合い交わす、些細な会話。

 

 

 

母が縁壱を呼ぶ声。

 

 

 

自分を叱り、あるいは褒める表情。

 

 

 

その一つたりとも、取りこぼさず、心へ刻む。

 

 

 

どのような運命が将来自分を待っていようと、少なくとも今生では、『あの時、もう少し傍にいればよかった』という後悔だけは残さない。

 

 

 

巌勝は、眠る朱乃の手を慎重に包みながら、心の中で何度も誓った。

 

 

 

それでも巌勝は、感情だけで母を繋ぎ止めようとはしなかった。

 

 

 

自分の知らぬ病を、意志と財力だけで治せると信じることもまた、別の傲慢になり得る。

 

 

 

夜が明けたら、医師たちへ、朱乃の脈と呼吸、食事量と睡眠時間、

 

 

 

吐血が起きた時刻と、煎じ薬を飲んだ後の反応まで、一つ残らず記録させる。

 

 

 

自分も毎日、その変化を確かめる。

 

 

 

西域や朝鮮半島から渡ってきた薬材だからといって、貴重であるという理由だけで、何でも混ぜて使わせたりはしない。

 

 

 

薬性が互いに反するものはないか、医師たちへ何度も確かめさせる。

 

 

 

必要なら家の体面など捨て、さらに優れた医師がいるという場所なら、どこへでも人を送り、助けを求める。

 

 

 

自分には数百年の剣術と戦闘の経験がある。

 

 

 

だが、それがそのまま医術の達人だという意味ではない。

 

 

 

今回ばかりは、自分より詳しい者の判断を信じ、学ぶこともまた、母を守るために必要な『強さ』なのだと、巌勝は受け入れた。

 

 

 

『そして……あなたが亡くなれば、私もこの家を出ます…………。そうしなければ、私の使命を果たすまで、あまりにも時間がかかりすぎるから……』

 

 

 

そんな本心まで母へ話せば、さらに心配し、むしろ怒って止めるであろうことは分かっていた。

 

 

 

だから深い眠りへ落ちた母の傍らで正座し、これから訪れる未来について考え始めた。

 

 

 

家を守ることと、人を守ることが、いつまでも同じ道であるとは限らない。

 

 

 

自分は、いつか再び無惨と相対する。

 

 

 

運命と因果が、自分を再び鬼の道へ引き戻す可能性も、すでに知っていた。

 

 

 

ならば、人間として家へ縛られている時間の中で、何を変え、誰を救うのか。

 

 

 

それが何より重要だった。

 

 

 

だが、そのすべての巨大な計画より、今この瞬間、母が安らかに息をしており、縁壱が温かな部屋で眠っているという事実のほうが、遥かに大切だった。

 

 

 

扉の僅かな隙間から月光が軒先を照らし、遠くで鳴く虫の音が、妙に鮮明に聞こえた。

 

 

 

一方、薬の力で再び眠った朱乃の傍らで、静かに未来へ思いを巡らせる巌勝がいる部屋。

 

 

 

その暗い裏口の格子の隙間から、一人の少年の小さな影が、庭の地面へ落ちていた。

 

 

 

その影こそ、兄の寝床で眠ったふりをした後、密かに気配を落とし、後を追ってきた縁壱だった。

 

 

 

縁壱は扉の隙間越しに、兄が母の前で額が裂けるほど頭を下げ、

 

 

 

自分を放置した過去を痛切に懺悔し、声を上げて泣き叫ぶ、そのすべての声を、最初から最後まで聞いていた。

 

 

 

そして母が二人のため用意した、太陽と月の耳飾りの由来も。

 

 

 

兄へ『弟と弱い者たちを守る月の守護者になりなさい』と授けた、尊い教えも。

 

 

 

一言たりとも聞き漏らさず、心へ刻んだ。

 

 

 

とりわけ縁壱の胸へ深く残ったのは、兄も自分と同じように、母を失うことを恐れているという事実だった。

 

 

 

巌勝はいつも、自分より遥かに強く、堂々として見えた。

 

 

 

家の数多の者たちの前でも、一度も揺らがず命令を下す若当主だった。

 

 

 

だから縁壱は無意識のうちに、兄なら何でも耐えられるのだと思っていたのかもしれない。

 

 

 

だが扉の向こうから聞こえた泣き声は、違った。

 

 

 

兄もまた、母の血を見て恐怖を覚えた。

 

 

 

母が死ぬかもしれぬという言葉を前にすれば、幼い子供のように声を震わせた。

 

 

 

縁壱は、そこで初めて、自分一人だけが怖いのではないと悟った。

 

 

 

そしてもう一つ…………。

 

 

 

兄が遅れて手を打ったにもかかわらず、血を吐いてしまった母の苦しい声。

 

 

 

そして兄の痛ましい悲しみを聞き、縁壱は、自分の眼へいつの間にか涙がいっぱいに溜まっていたことへ、遅れて気づいた。

 

 

 

「…………」

 

 

 

縁壱の頬を、澄んだ涙が次々と流れ落ちた。

 

 

 

兄と自分がどれほど努力しても、母の命が多少伸びることはあっても、

 

 

 

結局、自分が予想していた時より、そう長くは生きられないのだろうか。

 

 

 

兄弟が努めても、母の病は容易に治る兆しを見せない。

 

 

 

すると縁壱の胸の中でも、表面では大人びて見えながら、内側へ強く押し込めていた幼い子供の感情が、一気に爆発した。

 

 

 

『どうすればよいのだろう…………。

 

 

 

誰かが、あれほど子供たちへ尽くす母の命を、ほんの少しでも伸ばしてくれればよいのに…………。

 

 

 

天におられる神よ。

 

 

 

なぜ善い人は、こんなにも早く天へ連れていかれてしまうのでしょう…………。

 

 

 

どうか、あなたの慈悲で、母だけではなく、このように病へ苦しむ人々のためにも、少しでも憐れみをお与えください…………』

 

 

 

縁壱は流れる涙を、古びた袖で必死に拭い、夜空を仰いだ。

 

 

 

そして両手を合わせ、母の安寧を願って祈った。

 

 

 

だが、その祈りは、いつしか自分の母一人だけを越えていった。

 

 

 

母と同じ病に苦しむ者。

 

 

 

治療の金がなく、医師を呼べない者。

 

 

 

戦で傷を負いながら、薬一服すら得られない者。

 

 

 

そして自分のように、何の罪もなく生まれた姿一つだけで、憎まれている子供たち。

 

 

 

そのすべてが、少しでも痛みを減らし、長く、幸せに生きられるように。

 

 

 

幼い心の中で、願いは止まることなく続いていった。

 

 

 

それは世界を救いたいという大きな野望から生まれた祈りではない。

 

 

 

自分が眼の前で見た苦しみを、他の誰にも味わってほしくないという、あまりにも単純で、純粋な心から生まれた祈りだった。

 

 

 

相模国の夜空へかかる、銀色の三日月。

 

 

 

その光が今日は、いつにも増して眩しく、優しく、祈る自分たちを照らしているように思えた。

 

 

 

縁壱は涙を止め、長い間、静かにその三日月を見つめた。

 

 

 

しばらく祈り続けた後、部屋の中からもう会話が聞こえず、母の穏やかな寝息と、兄がその場を守る小さな動きだけが続いていることを確かめてから、縁壱は慎重に身体を返した。

 

 

 

兄へ気づかれぬよう、来た道をそのまま戻り、巌勝の部屋へ向かう間も、胸の中では少し前に聞いた言葉が、何度も繰り返し響いていた。

 

 

 

とりわけ兄が、命を懸けて自分を守ると、母の前で約束した声。

 

 

 

そして母が、そんな兄へ、月の守護者となるよう諭した声。

 

 

 

その二つが、不思議なほど温かく、胸の中へ残っていた。

 

 

 

再び障子を開け、兄が自分へ譲ってくれた柔らかな布団へ身体を横たえた縁壱は、枕と布団へまだ残る、巌勝の微かな体温を感じながら、天井を見上げた。

 

 

 

今日一日、兄と共に食べたもの。

 

 

 

市場で見た景色。

 

 

 

自分へ何度も謝りながら泣いた顔。

 

 

 

傷へ膏薬を塗ってくれた手。

 

 

 

そして少し前、母を胸へ抱き、泣いていた声まで。

 

 

 

一つずつ、思い返した。

 

 

 

もちろん、母の病が完全に治ったわけではない。

 

 

 

父の考えが一日で変わったわけでもない。

 

 

 

自分を取り巻く世の眼差しも、今なお冷たい。

 

 

 

それでも今日の夜だけは、明日、眼を覚ました時に、母と兄が同じ屋敷の中で生きており、また顔を見ることができるという、

 

 

 

あまりにも平凡な事実が、初めて、大きな幸福のように感じられた。

 

 

 

縁壱は無意識のうちに、布団の端を両手で少し強く握った。

 

 

 

明日も兄と母が無事でありますように、と心の中でもう一度祈ってから、

 

 

 

ようやく緊張が解けた幼い子供のように、ゆっくり眼を閉じた。

 

 

 

その日以前、縁壱にとって夜とは、冷たい小部屋で母の咳の回数を数え、次の息が続かなかったらどうしようと怯える時間だった。

 

 

 

だが、その夜だけは違った。

 

 

 

同じ夜が、初めて、待つことのできる明日を抱いた時間のように感じられた。

 

 

 

それは、ほんの小さな違いだった。

 

 

 

それでも幼い縁壱にとっては、それだけで十分に大きな変化だった。

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

.

 

 

 

その日の劇的な和解と、母との再会を境に、継国家の空気は急激に変わり始めた。

 

 

 

巌勝は、家の正統な後継者であり若当主として持つ、あらゆる行政上の権限を一気に行使した。

 

 

 

彼は家臣と使用人を全員、稽古場へ集めると、雷鳴のような声で命を下した。

 

 

 

「今日この時より、私の母・朱乃様と、弟・縁壱の部屋と待遇を、後継者である私と、序列上『完全に同等の扱い』へ引き上げる!

 

 

 

二人の膳に上がる食事、衣服、煎じ薬、そして護衛の人数に至るまで、ほんの僅かでも差別や怠慢があれば、

 

 

 

家の規律に基づき、若当主の名において即刻斬首刑へ処すものと心得よ!」

 

 

 

家臣たちは、『愚鈍な子』と呼ばれていた次男へ、若当主に準ずるほどの待遇を与えるという異例の命令へ、大きくざわめいた。

 

 

 

だが月読の耳飾りを耳へ下げ、幼い子供とは思えぬほど、いつの間にか自然に滲み出す若当主の気迫へ押され、皆、平伏するしかなかった。

 

 

 

巌勝自身も、今、自分が口にした『斬首刑』という言葉が、どれほど重いものかは分かっていた。

 

 

 

当然、新たな人生では人の命を軽々しく奪わぬと誓った自分が、差別一つを理由に、本当に使用人たちを片端から処刑するつもりなどなかった。

 

 

 

だが数年もの間、家の主が次男を不吉な存在として扱ってきた以上、ただ『これからは優しくしてやれ』と穏やかに頼むだけで、根深い侮蔑が一日で止まるはずもないことも、分かっていた。

 

 

 

だからこそ幼い若当主が、今すぐ使えるもっとも強い権威の言葉を、あえて口にしたのだ。

 

 

 

巌勝が望んでいたのは、彼らが恐れるものを刀そのものではなく、これから縁壱を粗末に扱う行為自体が、家の正式な秩序へ背くことなのだと理解することだった。

 

 

 

しかし、この知らせを聞いた家の最高権力者であり、父でもある継国正紀が、黙っているはずもなかった。

 

 

 

ドン!

 

 

 

正紀は、厳粛な政務の間の上座へ座り、少しの恐れも見せず堂々と入ってきた巌勝へ向かい、長刀の柄を音高く打ちつけ、怒りを爆発させた。

 

 

 

「巌勝! 貴様、若当主という座が、もう家の掟を好き勝手に揺るがせるほど軽く見えるのか!

 

 

 

縁壱の奴は、生まれた時から不気味な痣をつけて生まれ、家へ呪いを呼び込む不吉な存在だ!

 

 

 

あんな愚鈍な奴へ、後継者である貴様と同じ絹衣を与え、貴重な薬材まで浪費するなど……今すぐ、その愚かな命を取り消さぬか!」

 

 

 

父はなお、戦国の武家特有の、頑なで息苦しいほどの執念へしがみつき、威圧した。

 

 

 

前世の巌勝なら、父の苛酷な権威と規律へ怯え、従順に頭を下げただろう。

 

 

 

父に認められることは、そのまま自分の価値だった。

 

 

 

後継者の座を失うことは、世界が崩れることのように感じていたからだ。

 

 

 

だが今の巌勝は、五百年近い前世と、果てしなく長い最悪の地獄を経験して戻った回帰者だった。

 

 

 

一つの家の後継者の座が、数百年の罪業や、愛する弟の命より重いはずがない。

 

 

 

むしろ前世の自分を滅ぼした執着の一つが、まさしく『自分が後継者でなければならない』という欲だったことを、あまりにもよく知っていた。

 

 

 

もはや恐れるものなどなくなった巌勝は、ほんの一瞬も躊躇せず、腰へ差した木刀の柄を強く握り締め、父を真っ直ぐ貫くような強い眼差しで言い放った。

 

 

 

そしてついに、自分が後継者であることを象徴する家伝の刀を、畳へ強く置き、衝撃的な宣言を口にした。

 

 

 

「父上。もしこの家が、弟であるという理由だけで、血を分けた家族を閉じ込め、飢えさせ、死へ追いやるような、非人道的で理にも適わぬ醜い掟へ拘るというのなら……、

 

 

 

私は!! このような腐り切った家の若当主の座など、今すぐ土倉へ投げ捨てるように手放します!

 

 

 

ただちに若当主の地位を剥奪し、私を家から追放してください! そして父上がそれほど憎み、嫌っておられる縁壱は、私が連れていきます!

 

 

 

私たち兄弟の力だけでも、生きていくことに困りはしません! このような卑劣で低俗な家を維持するくらいなら!!

 

 

 

弟と最低限の荷だけを持ち、新しい夢を探すため、家を出ます!

 

 

 

後継者が一人もいなくなった武家が、そのまま崩壊する結末を迎えようと…………あるいは周囲の武家へ吸収されようと!

 

 

 

もう、私が気にかける理由は、何一つありません!

 

 

 

選んでください、父上!

 

 

 

この事態を正す意志が、少しでもおありなのですか!

 

 

 

そのようなくだらぬ迷信と呪いを信じる当主の下で、どうして下の者たちを正しく扱い、共に暮らせるというのですか!!!」

 

 

 

長男の衝撃的な発言へ、座にいた家臣たちは互いの顔を見ながら、当主・正紀の反応だけを窺った。

 

 

 

何より、この言葉を眼前で聞いた正紀自身の衝撃は、並のものではなかった。

 

 

 

「な、何だと……?! 貴様、自分が今、何を言っているのか分かっているのか!!!!

 

 

 

長子相続の原則を自ら拒むだと! それはつまり、貴様が持つべき権限を、自分から捨てるということだ!

 

 

 

そんな愚かな手を打つ者が、どこにいるというのだ!!」

 

 

 

正紀は、生涯、自分の言葉へ絶対に従い、受け入れるだけだった長男・巌勝の口から飛び出した、あまりにも異例な『後継者辞退と、家の崩壊を盾にした脅し』へ、心臓が止まりそうなほどの動揺を覚えた。

 

 

 

一瞬、怒りが頭へ上った。

 

 

 

だが、その直後には、当主としての計算が、あまりにも速く脳裏を駆け巡った。

 

 

 

もし巌勝が本当に家を出れば、単に言うことを聞かぬ長男一人を失うだけではない。

 

 

 

正式な後継者が消える。

 

 

 

しかも巌勝は、縁壱まで連れていくと言っている。

 

 

 

自分が次男を不吉な存在だと考えていようと、あの子も間違いなく継国の直系の血を引く。

 

 

 

双子の息子が二人とも家の外へ消えれば、当主の直系継承そのものが断たれる可能性がある。

 

 

 

周囲の武家は、その隙を決して見逃さないだろう。

 

 

 

家臣たちの忠誠も揺らぐ。

 

 

 

大義名分を得た親族や、外部の勢力が家の財や領地を狙う可能性もある。

 

 

 

最悪の場合、自分が生涯守ろうとしてきた『継国』という名そのものが、次代で消えることさえあり得る。

 

 

 

その現実を前に、正紀の顔は赤く染まった。

 

 

 

息子が自分へ反旗を翻したという怒り。

 

 

 

そしてその息子の言葉が、ただの子供の虚勢ではなく、実際に実行できる脅しであるという動揺。

 

 

 

その二つが同時に込み上げた。

 

 

 

さらに正紀は、自分の怒りとは別に、家臣たちの視線まで計算せずにはいられなかった。

 

 

 

若当主が公然と母と弟の保護を命じた直後、当主が力でその命を覆し、長男へ鞭まで振るえば、

 

 

 

家臣たちの間では、ただの父子の躾を越え、後継の仕組みそのものが揺らいでいるという噂が広がりかねない。

 

 

 

戦国の武家において、後継者の安定は、そのまま領地と兵力の安定へ繋がる。

 

 

 

内部が揺れているという噂は、常に外の野心家にとって格好の餌となった。

 

 

 

巌勝がまだ七歳であるという事実は、むしろ問題をさらに複雑にした。

 

 

 

その幼子が、今のように家臣の前で自分の意思を明確に示し、実際に財と人員を動かす能力まで見せている。

 

 

 

それは、将来家を率いる後継者として、すでに相当な信頼と期待を集め始めているということでもあった。

 

 

 

そんな子を公の場で踏みにじれば、その場では当主の威を示せるかもしれない。

 

 

 

だが長い目で見れば、自分の後を継ぐ者の権威まで、一緒に壊すことになる。

 

 

 

正紀は、それを誰よりよく理解していたからこそ、余計に腹を立てた。

 

 

 

息子の主張が正しいからではない。

 

 

 

自分が作り上げた家の構造と、長子相続の原則が、今や逆に自分の手を縛っている。

 

 

 

その事実が、耐え難いほど不愉快だった。

 

 

 

だから彼は巌勝を睨みつけながらも、最後の一線を越えることができなかった。

 

 

 

その躊躇そのものが、すでにこの争いの中で、自分が完全に自由ではないという証となっていた。

 

 

 

「家の外で、貴様に何ができると思っている!

 

 

 

幼い貴様一人が、縁壱まで背負うだと? 世の中が、それほど甘く見えるのか!」

 

 

 

「少なくとも、家の中で弟が飢え、打たれ、蔑まれているのを眺めているよりは、ましです」

 

 

 

「巌勝!」

 

 

 

「そして、私は虚言を口にしません」

 

 

 

巌勝の答えは短かったが、断固としていた。

 

 

 

その眼差しへ一欠片の揺らぎも見えない事実が、むしろ正紀をさらに動揺させた。

 

 

 

父は、今すぐ込み上げる怒りと屈辱のまま、巌勝へ暴力を振るおうと、拳を細かく震わせた。

 

 

 

だが周囲では、多くの家臣と使用人が見ている。

 

 

 

強い意志で自分へ声を上げる後継者へ、公然と暴力を振るう醜態を晒すわけにはいかなかった。

 

 

 

何より、今ここで巌勝を力で屈服させれば、本当にあの子が後継者の座を捨て、出ていくかもしれない――そんな不吉な確信さえ芽生えていた。

 

 

 

「……今日、貴様が口にした言葉を、必ず後悔することになるぞ」

 

 

 

正紀は歯を食い縛り、低く吐き捨てた。

 

 

 

巌勝は頭を下げなかった。

 

 

 

「その後悔が、弟を守った代償であるなら、受け入れます」

 

 

 

結局、正紀はそれ以上言葉を続けられず、荒い息を吐きながら、席を蹴るようにして去っていった。

 

 

 

それは、息子の主張へ心を動かされ、自らの過ちを認めた後退ではない。

 

 

 

正紀はなお、自分の縁壱への判断が間違っているとは考えていなかった。

 

 

 

長男が突然、妙な考えへ取り憑かれたのだと思っていた。

 

 

 

ただ、当主として家の存続を計算すれば、今すぐ巌勝の命令を力で覆すことのほうが、大きな危険を招きかねない。

 

 

 

その事実だけは、認めざるを得なかった。

 

 

 

その結果、巌勝が主張した縁壱への待遇改善は、家の中で、誰にも覆すことのできぬ鉄壁の規則となった。

 

 

 

巌勝にとっても、今回の衝突は、一つの小さな確認になった。

 

 

 

過去の自分は、権力を、人の上へ立つための証と考えていた。

 

 

 

だが今、手の中にある若当主の権限は、初めて、誰かを守るための盾になり得た。

 

 

 

もちろん、権威だけで人の心まで変えることはできない。

 

 

 

力で口を閉ざさせることと、偏見そのものを消すことは、まったく別の問題だった。

 

 

 

それでも、少なくとも縁壱と母が、今日の夜を温かな部屋で過ごし、明日の朝、飢えずに済むようにするためには、現実の力が必要だった。

 

 

 

だからこそ巌勝は、権力そのものを捨てることが善い道だとは思わなかった。

 

 

 

大切なのは、それを何のために使うのかだった。

 

 

 

いつか本当に自分が家を出る日が来たとしても、

 

 

 

その日までは、自分へ与えられた地位と財、そして人を動かす力を、できる限り正しく使い、一人でも多く守る。

 

 

 

巌勝は心の中で、改めてそう誓った。

 

 

 

実際、命令が下された翌日から、屋敷の景色は目に見えて変わった。

 

 

 

縁壱の食事には、巌勝の膳と同じ質の米と菜が並べられた。

 

 

 

擦り切れ、継ぎ当てだらけだった服の代わりに、身体に合う新しい武服が用意された。

 

 

 

朱乃の部屋には、一定の刻ごとに医師と侍女が出入りし、薬の量、体温、食事量を記録するようになった。

 

 

 

何より、以前は縁壱が廊下を歩けば眼を逸らしたり、後ろで囁いたりしていた使用人たちも、少なくとも表面上は、丁寧に腰を折るようになった。

 

 

 

もちろん巌勝は、一日で彼らの胸の内にある偏見まですべて消えたなどとは、考えなかった。

 

 

 

恐ろしさから口を閉ざしたことと、心から一人の人間を尊重するようになったことは、まったく別の問題だった。

 

 

 

巌勝は身近な従者たちへ、縁壱が何を好むのかを無理やり聞き出したり、過剰に持ち上げたりせず、ただ普通の次男へ接するよう、自然に世話せよと、別に命じた。

 

 

 

突然、度を越した親切を浴びせることも、これまで生涯無視されてきた弟にとっては、別の負担になり得る。

 

 

 

市場での反応を見て、すでにそのことへ気づいていたからだ。

 

 

 

縁壱は最初の数日、誰かが先に温かな水を持ってきたり、衣を整えてくれたりするだけでも、何度も遠慮した。

 

 

 

むしろ自分の分として出された果物や菓子を、母や使用人へ分けようとした。

 

 

 

巌勝は、そんな行いを無理やり直そうとはしなかった。

 

 

 

自分が誰かへ何かを与えることと同じように、誰かが自分のためへ向けた好意を受け取ることもまた、人と人との関係の一つなのだと。

 

 

 

愛されることを、借りだと考える必要はないのだと。

 

 

 

いつか弟が、それを自然に学んでくれればよいと思った。

 

 

 

そうして屋敷の変化は、命令一つで終わるのではなく、

 

 

 

ほんの小さな一度の食事。

 

 

 

一度の挨拶。

 

 

 

温かな布団一枚から、少しずつ日常へ根を張り始めた。

 

 

 

あの日の激突以来、父・正紀との関係は、氷のように冷たく、遠くなった。

 

 

 

それでも巌勝には、ほんの一欠片の後悔もなかった。

 

 

 

ただ黙々と、縁壱と母へ、持てるものすべてを注いだ。

 

 

 

そして同時に、自分自身の未来へ備えることも、止めなかった。

 

 

 

巌勝は毎朝、家の厳しい教育と鍛錬を終えると、一人で奥深い竹林へ向かった。

 

 

 

そこで前世の五百年近い心得を基に、『月の呼吸』の型を、ひとまず七歳の肉体へ合わせ、精密に修正しながら鍛錬した。

 

 

 

問題は、頭と身体の差が、あまりにも大きいことだった。

 

 

 

頭では、剣が通るべき軌跡を、指一節よりさらに小さな誤差まで知っていた。

 

 

 

どの瞬間に息を吸い、どこで足裏へ力を乗せるのか。

 

 

 

腰と肩を、何拍で回せばもっとも効率のよい斬撃が生まれるのか。

 

 

 

そのすべてを覚えていた。

 

 

 

だが実際に木刀を振れば、手首が耐えきれず、微かにぶれた。

 

 

 

前世なら一呼吸のうちに、あまりにも自然に繋がった動作も、今は肺と筋肉の限界によって、途中で途切れた。

 

 

 

ホオオオオ――。

 

 

 

深く息を吸い込み、剣を振るうと、幼い巌勝の足元から土埃が舞った。

 

 

 

だが予想していた軌道より、剣先がほんの僅かに下へ落ちた。

 

 

 

「……もう一度」

 

 

 

もう一度。

 

 

 

そして、また。

 

 

 

数十回を繰り返すと、掌へ水膨れができ、小さな腕が震え始めた。

 

 

 

前世の自分なら、この程度の未熟さを耐えられなかっただろう。

 

 

 

もっと速く。

 

 

 

もっと強く。

 

 

 

もっと完璧に。

 

 

 

そうできない自分の身体を憎み、限界を越えるまで無理やり追い込んだはずだ。

 

 

 

だが今生は違った。

 

 

 

巌勝は震える腕を見つめ、木刀をゆっくり下ろした。

 

 

 

『身体がついてこないのは当然だ。私は、今は七歳なのだから』

 

 

 

知っていることと、できることは違う。

 

 

 

数百年の心得があろうと、まだ育っていない骨と筋肉が、一日で大人の力を得ることはない。

 

 

 

痣も、赫刀も、透き通る世界も、覚えているというだけで、自動的に身体へ戻るものではない。

 

 

 

その境地へどう辿り着いたのかを知っていることは、確かに大きな利点だ。

 

 

 

だが過程そのものを、完全に無視することはできない。

 

 

 

『過去のように、焦らない。強さが私の価値のすべてではない』

 

 

 

母の言葉が蘇った。

 

 

 

月は、太陽の眩しさを妬まない。

 

 

 

巌勝は眼を閉じ、しばらく呼吸を整えた。

 

 

 

今、自分がすべきことは、幼い身体を壊しながら前世の境地へ無理やり辿り着くことではない。

 

 

 

きちんと食べ、眠り、成長し、身体が心得へ追いつけるよう、少しずつ道を整えることだった。

 

 

 

いつかはまた痣を開き、透き通る世界へ至り、赫刀も取り戻す。

 

 

 

だが、その過程で、人を守るために与えられた二度目の人生を、自ら壊す理由などない。

 

 

 

そしてまだ、縁壱へ年齢に見合わぬ『守る責任と義務』を、あまりにも早く背負わせたくはなかった。

 

 

 

自分と一緒に、ただ純粋に遊びたいという弟の気持ちを尊重した巌勝は、わざわざ刀を握らせ、剣術を教えるような無理をしなかった。

 

 

 

代わりに家へ買わせた華やかな賽子や独楽、凧揚げの道具をたくさん用意し、

 

 

 

縁壱が同年代の子供たちのように、思う存分遊び、幼い時だけの幸福を味わえるよう、細かく気を配った。

 

 

 

だが武家特有の『双子は家を滅ぼす呪い』という凶悪な風潮は、屋敷の内側だけのものではなかった。

 

 

 

塀の外、相模国の領地に暮らす民や、他の土地の子供たちへまで、根深く広がっていた。

 

 

 

普段、兄と母以外には、ほとんど口を開かず、黙って気配を消して歩く縁壱は、

 

 

 

一人で独楽を回して遊んでいたところを、領内で幅を利かせる、年齢に似合わぬ大柄な悪童たちと、乱暴な農民の子供たちから、格好の『いじめの標的』だと思われてしまった。

 

 

 

ある日の午後。

 

 

 

巌勝は稽古場で、全身が汗に濡れるまで、月の呼吸に関わる技の鍛錬と、身体を連動させる練習を終え、自室へ戻ろうとしていた。

 

 

 

まだ月の呼吸を『使える』と呼べる段階へすら達しておらず、身体の成長も、まったく足りていないことは、自分で分かっていた。

 

 

 

まして、かつて成人した鬼殺隊士だった頃へ到達した痣、赫刀、そして『透き通る世界』も、まだ開花していない。

 

 

 

血鬼術と融合した斬撃など、出せるはずもなかった。

 

 

 

それでも巌勝は、できる限り自分を焦らせぬよう、頻繁に瞑想を行い、精神の鍛錬へ繋げていた。

 

 

 

回帰によって得た数百年の心得がある。

 

 

 

あとは時間の問題であり、前世よりは遥かに早く辿り着ける。

 

 

 

そう自分へ言い聞かせるように、心を固め、自室へ戻ろうとしていた、その時だった。

 

 

 

慌ただしく走ってきた使用人が、顔色を失いながら報告した。

 

 

 

「若当主様! 大変でございます!

 

 

 

次男様が、市場の裏手の竹林道で独楽遊びをしていたところ、

 

 

 

領内の、その年頃には似つかわしくないほど大柄で乱暴な子供たちの集まりに囲まれ、いじめられているとのことです!」

 

 

 

「……何だと?! 私が直接行く!

 

 

 

よくも武家の子へ手を出すという、愚かな真似を……。

 

 

 

私が直接、始末をつける。

 

 

 

お前は、このことを父上へ伝えろ。

 

 

 

父上が、今なお縁壱を憎み、信じられず、嫌っているとしても、

 

 

 

家の威信を落とす真似を、平民の家の子供たちがしたのであれば……。

 

 

 

その責任は、彼らの親が負うのが道理だ。

 

 

 

そう伝え、すぐ父上へ報告しに行け!」

 

 

 

巌勝の両眼へ、その瞬間、鬼の心を抱いたまま数百年を生きた者特有の、凶暴な殺気が鋭く走った。

 

 

 

彼は、その場へ置かれていた、硬いシラカシ(白樫)で作られた、幼い子供が扱うには重く、頑丈に見える木刀を掴んだ。

 

 

 

そして全身へ全集中の呼吸の波を爆発させ、市場の裏手にある竹林へ向かい、雷のように走り出した。

 

 

 

『私の弟の身体へ、ほんの一つでも傷をつけた者がいるなら、殺しはしないが……、

 

 

 

死ぬほうが楽だと思えるほど、木刀を振るう……。

 

 

 

そのような過ちは、幼い頃から正さなければ、大人になった時には獣へなってしまう』

 

 

 

そんな考えが脳裏を過った瞬間、巌勝は走りながら歯を食い縛った。

 

 

 

前世の思考が、まだ完全に消えたわけではない。

 

 

 

愛する者へ手を出した相手へ、恐怖と苦痛を刻み込み、二度と同じ行いができぬようにする。

 

 

 

そんな考えが、あまりにも自然に浮かんだ。

 

 

 

だが同時に、母が言った言葉も蘇った。

 

 

 

力を誤って使えば、まず自分の心を斬る。

 

 

 

巌勝は木刀を握る手から、少しだけ力を抜いた。

 

 

 

『まず縁壱の状態を見る。

 

 

 

相手が子供なら、殺したり、身体を壊したりする理由はない。

 

 

 

過ちは必ず責任を取らせる。

 

 

 

だが私がまた怪物へ戻るようなやり方で、解決してはならない』

 

 

 

そう自分を律しながらも、走る速さだけは、まったく落とさなかった。

 

 

 

だが巌勝が息を切らしながら竹林へ辿り着いた時、眼前へ広がったのは、想像を遥かに越える光景だった。

 

 

 

「うわあああん! あの化け物みたいな女が! 誰か助けてくれ!」

 

 

 

ドカッ! バキッ! ゴンッ!

 

 

 

縁壱をいじめていた三、四人の大柄な少年たちが、全身を黒い痣と打撃の跡だらけにし、鼻水と涙を垂らしながら、竹林の四方へ散り散りに逃げていた。

 

 

 

巌勝は、思いもしなかったほど徹底的に打ちのめされて逃げる子供たちを見て、状況が理解できぬという顔で呆然とし、手にしていた木刀を、そっと下ろした。

 

 

 

怒りで熱くなっていた頭が、一瞬で冷えるほど、予想外の光景だった。

 

 

 

そして子供たちがいた竹林の中央。

 

 

 

冷たい春風に、竹の葉がさわさわと舞う、その中心に、一人の少女が立っていた。

 

 

 

その少女は、この時代の日本では到底見かけることのできない、ひどく異国的で格調高い、純白の朝鮮式武服を端正に纏っていた。

 

 

 

この時代の関東の並の少年たちより、頭一つは高い、すらりとした長身。

 

 

 

一目見ただけでも武術を学んでいると分かる、均整の取れた身体。

 

 

 

まだ幼い子供の身体でありながら、立ち姿一つにさえ、長い時間をかけて繰り返し鍛えてきた痕跡が感じられた。

 

 

 

そして背後にいる縁壱を隠すような位置取りも、偶然そこへ立っているのではない。

 

 

 

また危険が迫れば、自分が先に受け止める――そんな意志が、自然と表れている位置だった。

 

 

 

…………まるで、毎日武を磨いている自分のように。

 

 

 

背丈も、ざっと見ただけで自分とほとんど変わらない。

 

 

 

そう思いながら慎重に少女を見る巌勝の眼は、続く姿へ、さらに驚きを隠せなくなった。

 

 

 

漆黒のように深く、艶やかな長い髪は、高い位置で結い上げられ、清らかで美しい印象を与えていた。

 

 

 

澄み切り、まっすぐに吊り上がった眼差しは、幼い年齢でありながら、ほんの僅かな弱さも卑怯さも許さぬとでもいうような、絶世の美しさを宿していた。

 

 

 

きりりと結ばれた唇と、滑らかで揺るぎない顎の線。

 

 

 

まだ育ち切っていない七歳の少年の眼から見ても、あまりにも威圧的でありながら、美しい姿だった。

 

 

 

少女の両手には、朝鮮伝統様式の鍔を持たない、重厚な二刀流の木剣が一本ずつ握られていた。

 

 

 

環頭大刀の形を模した二振りだった。

 

 

 

柄頭の丸い輪と、日本の刀とは明らかに異なる輪郭が眼を引いた。

 

 

 

だが巌勝には、まだその武器の正体までは分からなかった。

 

 

 

少女は、自分より遥かに小柄な縁壱を背後へしっかり隠したまま、逃げていく子供たちへ二本の木刀を向け、竹林が震えるほど大声で一喝した。

 

 

 

「この卑怯で悪い奴ら!

 

 

 

こんなに大人しくて可哀想な子を、人数で囲んでからかい、殴ることを遊びにするなんて!

 

 

 

天が怖くないの?

 

 

 

どれだけ嫌いだからって、それを暴力で表すような、心根の悪い奴らは大嫌い!

 

 

 

あんたたちと仲良くなるなんて、私が一生でいちばん嫌なことだよ!!

 

 

 

今すぐ、私の眼の前から消えて!!」

 

 

 

少女の力強く、それでも善良な叫びが、竹林の空気を変えた。

 

 

 

普通の家で育った、か弱い少女というより、まるで戦場へ出る将軍のように凛々しく、高潔な背中。

 

 

 

その背後に立っていた縁壱は、ただ驚きに満ちたまま、澄んだ眼を瞬かせていた。

 

 

 

巌勝もまた、一瞬、何も言うことができなかった。

 

 

 

あの少女がどれほど強いのかは、まだ詳しく分からない。

 

 

 

なぜここにいるのか。

 

 

 

どの家で育ち、どのような武を学んでいるのか。

 

 

 

何一つ知らない。

 

 

 

だが一つだけは、初めて見た瞬間に分かった。

 

 

 

強い力を持つ子供が、自分より弱い者を守るため、その力を使った。

 

 

 

ほんの数日前、母が自分へ言った言葉が、あまりにも鮮明に蘇った。

 

 

 

強さとは、他人の涙を拭うことのできる優しさから始まる。

 

 

 

そして今、眼の前の見知らぬ少女は、自分が誰なのかさえ知らない縁壱のために怒り、

 

 

 

大勢の子供を相手に、一人で前へ立った。

 

 

 

とん――。

 

 

 

その瞬間、怒りを鎮めながら木刀を下ろしていた異国の少女が顔を上げ、竹林の入口に立つ巌勝と、まっすぐ視線を合わせた。

 

 

 

「何よ! あんたも、もしかして私の後ろにいるこの子を…………え?」

 

 

 

「いや、それは誤解……え?」

 

 

 

ズズズズン――!

 

 

 

二人の瞳が空中でぶつかった、その刹那。

 

 

 

巌勝の胸の奥深くにある魂が、大きく震えた。

 

 

 

生涯一度も感じたことのない感覚。

 

 

 

心臓が痺れるように疼き、脳の中にあるすべての神経が、大きく噴き上がる火山のように熱を帯びていく。

 

 

 

感情そのものの共鳴が、一気に爆発した。

 

 

 

それは前世、鬼として数百年を生きる中で、強さへ執着するあまり諦め、手放したもの。

 

 

 

だが結局一度も出会えなかった、誰かへ初めて巡り会ったかのような、人としての本能的な引力だった。

 

 

 

理由は分からない。

 

 

 

名も知らない。

 

 

 

性格も、家も、どこから来たのかも、何も知らない。

 

 

 

それなのに、眼を逸らすことができなかった。

 

 

 

驚くべきことに、純白の武服を纏った少女もまた、巌勝の顔へ宿る淡紫色の瞳と、耳へ揺れる月の神の姿を描いた耳飾りを見た瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けていた。

 

 

 

全身の筋肉が一度に収縮し、心臓が激しく脈打ち始めた。

 

 

 

顔は熟した柿のように、真っ赤に染まった。

 

 

 

彼女もまた、頭の中が真っ白に焼けていくような、強烈な引力を感じていた。

 

 

 

二人の子供は、互いへ剣を向けたわけでも、殺気を放ったわけでもない。

 

 

 

それでも春の竹林道の真ん中で、互いに顔を赤くし、荒い呼吸を繰り返しながら、一言も交わせぬまま、呆然と向き合っていた。

 

 

 

…………俗に言う、『互いに一目惚れした』という状況が、起きてしまったのである。

 

 

 

「……えっと……あなた、まさか……私の後ろにいるこの子を、いじめに別の土地から来たわけじゃないよね?」

 

 

 

この状況でも少女は、自分が初めて味わう感情へ戸惑いながら、なお背後の縁壱を守るため、慎重に尋ねた。

 

 

 

巌勝は当然、首を横へ振って答えた。

 

 

 

「……そんなはずはない。私は、お前の後ろにいる弟を迎えに来たんだ」

 

 

 

「……そ、そうなの?」

 

 

 

「……ああ」

 

 

 

だが、このような状況を初めて経験する二人には、その後どう会話を続ければよいのか分からず、完全に迷っていた。

 

 

 

巌勝には、数百年を生きた記憶がある。

 

 

 

それでも、この感情だけは初めてだった。

 

 

 

少女もまた、少し前に何人もの子供を二本の木刀で叩き伏せた時より、今の沈黙のほうを、遥かに難しく感じているようだった。

 

 

 

そして二人が一目惚れしたという事実は、本人たちだけが知るものではなかった。

 

 

 

『…………兄上も……この方も…………驚くほど、同じ身体の状態になっている……ただただ、不思議だ』

 

 

 

少女の背後にいた縁壱は、『透き通る世界』で見た兄と少女の身体が、不思議なほどよく似た変化を示していることへ、すでに気づいていた。

 

 

 

とはいえ、今この場で、その変化を一つ一つ分析し、口へ出すつもりはない。

 

 

 

兄の顔が赤い。

 

 

 

自分を助けてくれた少女の顔も、同じように赤い。

 

 

 

そして二人とも、普段より心臓が速く脈打っている。

 

 

 

幼い縁壱にとっては、それだけで十分だった。

 

 

 

『これが…………互いに惹かれる、ということなのだろうか。

 

 

 

私を助けてくれたこの少女…………いや、お姉さんと呼ぶべきなのかな?

 

 

 

それとも…………未来に兄上と結ばれる方…………?

 

 

 

どうお呼びすればよいのか、分からない』

 

 

 

ひとまず、あまりにも気まずくなった空気を解こうと、黙ったまま兄の顔と少女の顔を交互に見ていた縁壱は、ついに小さな手で少女の武服の裾を、ちょんと引いた。

 

 

 

そして静かに口を開いた。

 

 

 

「……お姉さん? あの方は、私の大切な兄上です。その……お互いに名乗れるよう、お手伝いします……」

 

 

 

縁壱の静かな言葉に、少女はびくりと驚いた。

 

 

 

そして二本の木刀を地面へ置き、熱くなった顔を冷まそうと、手でぱたぱたと扇ぎながら答えた。

 

 

 

「あ! う、うん……!」

 

 

 

「……兄上も、いつまでもぼんやりしていないで、こちらへ来てください。

 

 

 

それでも私を救ってくださった恩人なのですから……。

 

 

 

そんなふうにじっとしていると、ここにいるお姉さんが、恥ずかしくなってしまいます」

 

 

 

「……あ! そうだな。

 

 

 

互いに話をする必要がある。

 

 

 

誤解があるのなら、すぐ解けばよいのだから」

 

 

 

縁壱の静かだが少し鋭い一言に、少女の顔を見てしばらく呆けていた巌勝も、ようやく固まっていた身体を解き、少女と縁壱のほうへ歩き出した。

 

 

 

そして、その瞬間。

 

 

 

春の風が、竹林を長く撫でながら吹き抜けた。

 

 

 

まだ互いの名さえ知らぬ三人の子供たちの頭上で、若草色の竹の葉が光を受け、眩しく揺れた。

 

 

 

少し前まで暴力と嘲笑で満ちていた竹林は、嘘のように静まり返っていた。

 

 

 

そうして弟の呼びかけと共に、一四三四年、花々が咲き誇る春の日。

 

 

 

竹の葉は三人の頭上で、煌めく銀河のように舞い散り、音もなく地へ降り積もった。

 




───

【後書き】

この彼女との出会いによって起こる出来事が、頭の中で常にまとまらずごちゃごちゃになってしまうため、執筆というものはいつでも難しいものだと感じております。

次回からは彼女の一族に関する逸話や、彼女の一族の……と言い過ぎては面白くありませんので、このくらいにしておきます。

ただ……この物語のプロットをどのように組むべきか、草案は練ったものの未だに完成度が低いため、次回の更新にはさらに時間がかかりそうです。
特に私自身、男女間の恋愛やその手前の甘酸っぱい雰囲気(サム)を描写するのが非常に苦手なため、二人が結ばれていく過程での不自然さにつきましては、どうか温かい目でご容赦いただけますと幸いです。

いつもこの物語を読んでくださる皆様が、常に幸せでありますようにと心から願っております。
疲れた時や辛い時に、私の物語をご覧になって少しでも心が癒やされれば嬉しい限りです。

追記といたしまして、先月「花言葉」について現在連載中の『鬼滅の刃』二次創作を舞台に執筆した小説に関する補足事項がございます。途中で翻訳が不自然な部分がございましたので、こちらはコンテストの審査とは関係なく、改めて翻訳をやり直して修正する予定です。
さらに、この短編小説は韓国の小説サイトの一つである「ノベルピア(Novelpia)」で連載するにはあまりにも時間がかかることを考慮し、この小説のすぐ下に韓国語版として掲載するつもりでおります。

長くなりましたが、後書きまでお付き合いいただきありがとうございました。

次回は本当に……お時間をいただくことになりそうです。彼女の家柄に関する物語や、彼女を護ろうとする十三神についての話を紐解くには……実に多くの調べものと時間が必要となりますので……。
ともあれ……今回はこのあたりで筆を置かせていただきます。

もしこの小説をお読みになる中で気になった点などがございましたら、コメント欄にお寄せいただければ可能な限りお答えいたします。ありがとうございました!




ある読者様から「序盤から設定を詰め込みすぎて情報量が多く、読者の読む気が失われてしまわないか心配だ。最初から全てを見せるより、エピソードを進めながら少しずつ情報を足していく方が、読者としても理解しやすく物語に没入できると思う」という貴重なフィードバックをいただきました。

そのため、もう少しじっくり考えてみて、その方のご指摘通りだと判断した場合は、これまで投稿した1〜17番の設定集を一度全て取り下げて本編からスタートすることも視野に入れております。

もしこのフィードバックに対して共感される方や、他に良いアイデアをお持ちの方がいらっしゃいましたら、コメントやメッセージでご意見をいただけますと幸いです。

非常にありがたいアドバイスですので、しっかりと悩みながら今後の方向性を決めていきたいと思います。

【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!

  • 1. 削除する
  • 2. 残してほしい
  • 3. その他
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。