誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意)   作:つねお あきら

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第5話 両家の初対面……続く縁と運命、最初の結び目

三日前。

 

 

 

相模国の山裾には、正午を過ぎた春の日差しが差し込んでいた。山の麓では暖かかった風も、木々が密生する峠道へ入るとひんやりと冷たくなった。正紀は先頭を歩いていた兵卒が足を止めるのを見ると、手を上げて後続の隊列を止めた。

 

 

 

道の片側には、壊れた車輪が打ち捨てられていた。数日前、商人たちが襲われた場所だった。車輪の内側へ絡みついた藁は、雨に濡れては乾くことを繰り返し、黒くこびりついていた。

 

 

 

この道が塞がれてから、市へ下りていた荷車の往来が途絶えた。穀物を売りに行く農民も、塩や生活必需品を運び込む商人も、より遠い峠を迂回していた。継国家の当主である正紀が兵卒を率い、自ら山へ入ったのはそのためだった。

 

 

 

主君を失った敗残兵や、田畑を追われた者たちが山へ集まっているという報告は以前からあった。初めは食べ物を奪う程度だったが、最近では荷を渡した商人まで傷を負って帰ってくるようになった。これ以上、放置することはできなかった。

 

 

 

ただし、今回は以前とは違う命令が一つあった。

 

 

 

可能ならば、殺さない。

 

 

 

それはつい先日、若当主である巌勝が家の評定で最後まで一歩も退かず主張し、正紀に認めさせた新たな方針だった。

 

 

 

盗みを働いたことが罪であるのは確かだった。他人の財を奪い、人を傷つけたのなら、当然その責任は負わねばならない。だが巌勝は、彼ら全員が初めから悪人として生まれたわけではないと主張した。

 

 

 

戦で家族と住まいを失った者。飢え死にしかけた家族を養うため、誤った道を選んだ者。仕えていた主君が死に、帰る場所を失った敗残兵。田畑を奪われ、山へ入るほかなかった者。

 

 

 

そうした者たちが降伏した後まで、ことごとく首を刎ねてしまえば、残された家族は再び飢え、やがてまた別の賊が生まれるかもしれない。それが巌勝の考えだった。

 

 

 

だからこそ、降伏した者についてはまず罪の重さを見極め、労役で償える者には一定の期間、家のもとで働かせようと提案した。人を殺した者と、飢えのために穀物を盗んだ者を、同じように扱うべきではなかった。

 

 

 

壊れた道を直し、洪水で崩れた堤を築き直し、捨てられた農地を開墾する。犯した罪に応じた責任を果たした後には、再び平民として生きる機会を与えようというものだった。

 

 

 

正紀はその話を初めて聞いた時、世の現実を知らぬ子供の理想論だと思った。

 

 

 

「賊はすでに他人の物を奪い、人を傷つけた者どもだ! 命を助けたからといって、二度と同じことをせぬという保証がどこにある!」

 

 

 

彼は評定の席で声を荒らげ、息子を叱りつけた。だが巌勝は退かなかった。

 

 

 

「だからこそ、罪の償いをさせるのです。過ちをなかったことにしようという意味ではありません。

 

しかし、降伏した者まで全員殺してしまえば、その妻や子供までも生きる場所を失い、その中の誰かが再び同じ道を選ぶことになるでしょう」

 

 

 

「世の中が、お前の言うように美しくばかり動くと思うのか?」

 

 

 

「美しく動かないからこそ、少しでも変えようとしているのです」

 

 

 

その返答が正紀の腹をどれほど煮えくり返らせたかは、あの時、政庁にいた家臣たち全員が知っていた。

 

 

 

それでも長男の頑固さはあまりにも強く、家臣や兵の間からも、ただ人を殺していくよりはよいかもしれないという意見が、慎重ながら出始めた。

 

 

 

結局、正紀は条件を付けたうえで、巌勝の方針を一部受け入れた。

 

 

 

降伏せず、最後まで兵卒や民の命を狙う者には必要なだけ剣を使う。ただし武器を捨て、抵抗をやめた者は殺さず捕らえる。

 

 

 

今回の討伐は、その方針を決めてから初めて多数の兵を動かす場だった。

 

 

 

正紀は、その方針を初めから気に入ってはいなかった。だからといって、自分が認めた命令を始める前から覆すつもりもなかった。

 

 

 

当主が一度口にした命令は、兵にとってそのまま秩序となる。自分が気に入らぬからという理由で、その秩序を真っ先に壊すようでは、若当主へ法度と責任を説く資格まで失うことになる。

 

 

 

「武器を捨てる者は縛れ。抵抗をやめた者を斬るな」

 

 

 

正紀は山へ入る直前、兵卒たちへ何度も命じた。

 

 

 

「だが、まず守るべきは我らの者の命だ。最後まで刃を持って襲いかかる奴にまで、背を向けろという意味ではない」

 

 

 

「はっ! 当主様!」

 

 

 

最初に報告を受けた賊の数は、三十人ほどだった。正紀は自ら連れてきた訓練済みの兵卒たちなら、十分に相手ができると判断していた。

 

 

 

山道の中腹で初めて賊を見つけた時も、報告と大きく違うようには見えなかった。正面の道を塞ぐ一団の後ろには細い脇道が一本あり、正紀は兵の一部にその入口を守らせると、刀を抜いた。

 

 

 

「武器を捨てろ! 今ここで降伏すれば、命は保証する!」

 

 

 

賊の何人かは互いの顔を見合わせた後、本当に刀や棍棒を地面へ置いた。長い間、山中を逃げ回りながら生きてきた者たちにとって、家が命を保証するという申し出は、確かに魅力的だった。

 

 

 

しかし、その瞬間だった。

 

 

 

山の上方から鋭い口笛が響いた。

 

 

 

ピイイイイ――!

 

 

 

正紀が顔を上げた瞬間、木々と茂みの間が一斉に揺れた。

 

 

 

「当主様! 後ろにもおります!」

 

 

 

兵卒の一人が切迫した声を上げると同時に、隠れていた者たちが四方から雪崩れ込んできた。最初に報告された数の二倍。しばらくすると、三倍近い人数が山道を埋め尽くした。

 

 

 

商隊を狙うために合流していた賊の集団だった。麓で目撃された三十人だけを数えた報告には、斜面の向こう側へ潜んでいた者たちまでは含まれていなかった。

 

 

 

そのうえ、彼らは山道をよく知り尽くしていた。狭い道へ兵卒たちが集まった瞬間、上の斜面から石が転がり落ち、木の陰からは矢が飛んできた。

 

 

 

ドスッ!

 

 

 

「ぐっ!」

 

 

 

兵卒の一人の肩へ矢が突き刺さった。隣の兵が彼を引き下がらせる間に、賊二人が刀を持って駆け込んできた。

 

 

 

傍らを守っていた兵卒が、最初の刀を受け止めた。賊が一瞬怯み、刀先を下げたため、降伏しようとしているのか見極めようとした分、次の攻撃が遅れた。

 

 

 

だが男は刀を手放さぬまま、再び身体を跳ねさせた。兵卒が慌てて剣を返した瞬間、脇腹が開いた。

 

 

 

そこへ別の賊の棍棒が叩き込まれた。

 

 

 

ドスッ!

 

 

 

「ぐはっ!」

 

 

 

兵卒が膝をついた。正紀がすぐに飛び込み、賊の刀を受け止めた。

 

 

 

ガァン!

 

 

 

火花が散った。

 

 

 

「当主様!」

 

 

 

「早く立て! 後ろへ下がって、まず傷を縛れ!」

 

 

 

正紀は兵卒を背後へ下がらせたまま、二人の攻撃を受け止めた。狭い道では刀を大きく振れば、後ろにいる味方まで傷つけかねない。

 

 

 

彼は短く刀を返して一人目の賊の手の甲を斬り、続けて飛び込んできた二人目の太腿を裂いた。一振りの刀が土の上へ落ち、もう一人の男は脚を抱えながら崩れ落ちた。

 

 

 

正紀は二人が武器を手放したことを確認するため、足を止めざるを得なかった。彼らを縛って後方へ渡すはずの兵卒は、負傷者を支えていた。倒れた者と襲いかかる者が入り乱れる中、斜面からはさらに別の賊が下りてきた。

 

 

 

「あいつら、俺たちを殺せねえぞ!」

 

 

 

誰かが叫んだ。正紀が倒れた者へ追い討ちをかけない姿を、勝手にそう解釈したのだ。

 

 

 

しかし、その言葉が広がると、躊躇していた者たちまで前へ出始めた。自分たちも刃を免れられるという浅はかな思い込みが、恐怖を押し退けた。

 

 

 

「押し込め!」

 

 

 

「当主さえ捕まえれば終わりだ!」

 

 

 

賊たちはますます荒々しく襲いかかった。槍先と刃が兵卒の盾を叩き、山の上からは絶えず矢が降ってくる。正紀は荒い息を吐きながら刀を振るった。

 

 

 

まだ死者は出ていなかった。だが、負傷者は急速に増えていた。腕を傷めた者。太腿を斬られた者。矢に肩を貫かれた者。狭い山道で数まで押され始めると、少し前まで保っていた陣形も徐々に崩れていった。

 

 

 

正紀の頭に、一つの考えがよぎった。

 

 

 

『巌勝の言葉など聞かなければよかったのか』

 

 

 

生け捕りにしろという命令さえなければ、兵卒たちもこれほど迷わなかったのではないか。目の前で血を流す者たちを見ていると、複雑な失敗を息子の一言へ押しつけたくなった。

 

 

 

『こんな奴らは首を刎ね、市場へ晒しておくべきだったのか』

 

 

 

だが正紀はすぐに歯を食いしばった。伏兵を見落としたまま兵卒たちをこの狭い道へ率いたのは、自分だ。背後まで十分に探らせなかった責任まで、息子へ押しつけるわけにはいかない。

 

 

 

息子が残してほしいと言ったのは、降伏した者が生き直す道だった。兵卒が命を差し出してまで、すべての敵を捕らえろという意味ではない。言葉で下した命令が乱戦の中で通じないのなら、今ここで隊列を立て直すのも、当主である自分の役目だった。

 

 

 

「武器を捨てた者は斬るな!」

 

 

 

正紀はもう一度、大声で叫んだ。

 

 

 

「まだ襲ってくる奴は斬って構わん! 盾を集めろ! 負傷者を中央へ入れろ!」

 

 

 

「はっ!」

 

 

 

兵卒たちは歯を食いしばり、再び構えを整えた。だが賊の数は、なお多かった。

 

 

 

その頃、山の中腹で薬草を採っていた一組の夫婦が、遠くから響く金属音と悲鳴を耳にした。深雪は薬草を選んで小さな籠へ入れていた手を止め、顔を上げた。

 

 

 

「あなた」

 

 

 

祈鉉も、すでに音のする方向を見ていた。

 

 

 

「下で争いが起きたようだ」

 

 

 

「怪我をしている方もいそうですね」

 

 

 

祈鉉は背負っていた薬草籠をゆっくり下ろした。長い間、人の悲鳴や武器のぶつかる音を聞いてきた彼には、それがただの喧嘩ではないことがすぐに分かった。

 

 

 

「少し行ってくる。君はここで待っていなさい」

 

 

 

だが深雪は、夫の言葉を聞くや否や、治療用の薬材と清潔な布が入った鞄を手に取った。

 

 

 

「私も行きます」

 

 

 

「深雪。下がどんな状況なのか、まだ分からぬ。戦場では、どこから飛んでくるか分からぬ一本の矢が、人の命を奪うこともある」

 

 

 

「あなたが道を開いてくれれば、私はその後ろで怪我をした方々を診ます」

 

 

 

深雪は鞄の紐をしっかり締め直した。夫が何を心配しているかは分かっていた。考えもなく先に下りれば、救おうとした者たちへ、さらに一つ荷物を増やすだけだ。

 

 

 

「あなたより前には出ません。私が待つ場所を先に決めてください。怪我をした方をそこへ運んでもらえれば、戦いが終わる前から手当てできます」

 

 

 

祈鉉はしばらく妻を見つめた後、とうとう仕方がないというように、ごく小さく笑った。

 

 

 

「……分かった。下へ着いたら、まず木の陰へ身を隠しなさい。兵卒たちが君の方の道を守れるようになってから呼ぼう」

 

 

 

「あなたも、あまり無理はしないでくださいね」

 

 

 

二人はすぐに、音の聞こえる方へ下り始めた。そしてほどなく、木々の隙間から戦場の様子が見えた。

 

 

 

数で押される兵卒たちが、狭い山道の真ん中で背中を合わせながら踏みとどまり、その周囲を数十人の賊が取り囲んでいた。

 

 

 

兵卒たちが負傷者を中央へ集める間にも、刃は絶えず襲いかかっていた。祈鉉は近くの相手へ視線を絞った。荒い呼吸を静めると、絡み合って見えた動きの中から、槍を突き込もうとする一つの肩が先に目へ入った。

 

 

 

誰が肩へ余計な力を入れているか。誰が足を踏み出す前から剣を振り上げているか。視線を留めた相手の身体の内側で、筋肉の収縮と血流の変化が一瞬だけ浮かび上がった。

 

 

 

祈鉉が到達した『透き通る世界』の第一の境地――明鏡止水だった。まだその視界を常に保つことはできず、一度に全員を見渡すこともできなかった。

 

 

 

しかも、調和心法で内功を引き上げてすらいない。長い年月をかけて鍛えた身体と、実戦で身につけた判断だけでも、今必要な動きは十分に引き出せた。

 

 

 

祈鉉は明鏡止水によって捉えた短い兆しを追い、まず助けるべき者の方へ足を運んだ。

 

 

 

「殺気は強いが、きちんと鍛えられた者は多くないな」

 

 

 

祈鉉が低く呟いた。深雪は戦いそのものより先に、負傷した兵卒たちの状態を見た。

 

 

 

「あのままでは、血を流しすぎて危なくなる方が出ます」

 

 

 

祈鉉の眼差しが、固く沈んだ。

 

 

 

「左の太い木の後ろで待っていなさい。あの兵卒たちが守っている側へ道を作る」

 

 

 

「はい。鞄を開いて待っています」

 

 

 

その瞬間、戦場の中央では、正紀がまた一人の兵卒を後ろへ押しやり、救っていた。

 

 

 

賊の槍が兵卒の胸へ迫った瞬間、正紀は自らの刀で槍の柄を弾き飛ばし、続いて駆け込んできた男の刀をどうにか受け止めた。

 

 

 

ガァン!

 

 

 

手首が痺れた。長い戦いで、腕には疲労が溜まっていた。それでも正紀は退かなかった。

 

 

 

「当主様、後ろへお下がりください!」

 

 

 

「私が下がれば、お前たちが死ぬ! 隊列を立て直せ!」

 

 

 

彼は息を切らしながら周囲を見回した。その時、遠くの斜面の上、木々の間へ隠れていた賊の一人が、ゆっくりと弓を持ち上げた。その男は先ほどから、戦場の中心にいる正紀を狙っていた。

 

 

 

周囲の兵卒が絶えず動くため視界を遮られていたが、今まさに、正紀が一人を救うため前へ出た瞬間、胸から頭にかけてが完全に晒された。賊は息を殺した。指が弓弦を限界まで引き絞る。

 

 

 

ビュン――!

 

 

 

矢が森の空気を裂いて飛んだ。兵卒の一人が遅れてそれに気づいた。

 

 

 

「当主様――!!」

 

 

 

正紀が振り向いた。もう遅かった。自分へ飛んでくる鏃が、目の前で瞬く間に大きくなる。刀は別の賊の刃を受け止めており、身を避けようにも左には倒れた兵卒が、右には相手の槍があった。

 

 

 

そのわずかな間に、病に伏す朱乃と、二人の息子の顔が浮かんだ。今朝も長男へ自分から声をかけることができなかった。下がれと命じる声が、喉の奥で詰まった。

 

 

 

『巌勝……』

 

 

 

息子へ現実を見せてやるのだという意地など、跡形もなかった。妻にも、二人の息子にも、まだ言えずに残っている言葉があった。握り締めた刀の柄が、掌へ食い込んだ。

 

 

 

「当主さまあああ――!!」

 

 

 

祈鉉は、弓兵が弦を放つ前から動いていた。指にかかっていた力が抜け、武士を狙う鏃の揺れが止まるのを見ていた。正紀が遅れて身を引こうとしても、傍の兵卒まで共に避けるには間に合わない。

 

 

 

深雪が木の後ろへ身を隠すのと同時に、祈鉉の足が地面を蹴った。

 

 

 

ドンッ!

 

 

 

乾いた土が短く弾け上がった。数十歩も離れていた男が、山道を一気に横切った。片手は腰の剣を押さえ、もう片方の手はすでに前へ伸びていた。

 

 

 

正紀は鏃が顔へ届く直前、誰かが肩のそばを掠めて通り過ぎるのを感じた。それが人だと認識するには速すぎた。顔を向けるより前に、見知らぬ手が自分と矢の間へ差し込まれた。

 

 

 

タッ――。

 

 

 

つい先ほどまで、継国正紀の顔をそのまま貫く勢いで飛んできた矢が、彼の目の前で嘘のように止まっていた。

 

 

 

見覚えのない異国の男が、正紀のすぐ前へ立っていた。前へ伸ばした右手には、微かな震えすらない。

 

 

 

鋭い鉄の鏃をつけた矢柄は、その人差し指と中指の間へ挟み込まれていた。ほんの少し前まで命へ向かって疾走していたそれが、指の間で一寸たりとも動かない。

 

 

 

正紀は思わず息を止めた。自分の命を狙った矢がどこから飛んできたのかは、遅れて分かった。だが目の前の男が、いつ動いたのかは見えなかった。

 

 

 

近くで戦っていた賊二人も腕を止めた。一人は祈鉉の手を見つめ、もう一人は斜面の上にいる弓兵を見上げた。

 

 

 

遠くの斜面から実際に矢を放った男は、弓を持つ手をゆっくり下ろしながら、自分の目がおかしくなったのではないかと確かめるように、何度も強く瞬きをした。

 

 

 

「あの矢を……掴んだだと?」

 

 

 

信じられぬという声で男が呟いた。身を避ける暇さえない瞬間を狙った一撃が、素手で捕まえられていた。

 

 

 

「後ろへ下がってください」

 

 

 

祈鉉はまず正紀へ言った。掴んでいた矢を足元へ捨て、再び刀を構えようとする賊との間へ身体を入れた。正紀はそこでようやく、横へ倒れていた兵卒を自分の側へ引き寄せた。

 

 

 

鏃が石へぶつかり、短い音を立てた。死を免れた安堵より、見知らぬ男がいったいどこから現れたのかという疑問の方が先に湧いた。

 

 

 

「そなたは……いったい何者だ?」

 

 

 

祈鉉は振り返らず、短く答えた。

 

 

 

「薬草を採っていたところ、音が聞こえたので参りました。話は後ほどにいたしましょう」

 

 

 

そうして、ゆっくり腰へ佩いた剣の柄に手を置いた。

 

 

 

スルルン――。

 

 

 

鞘を離れた刀身が、午後の日差しを受けて短く煌めいた。

 

 

 

その姿を見ていた賊の何人かが、本能的に一歩後ろへ下がった。先ほどの動きを自分の目で見た者なら当然の反応だった。だが人数が多いという事実から再び勇気を得た何人かは、すぐに罵声を上げた。

 

 

 

「たかが一人増えただけだ!」

 

 

 

「あいつからやれ!」

 

 

 

「さっきのは運がよかっただけだ!」

 

 

 

祈鉉はそんな言葉を聞いても怒らなかった。むしろ剣先を地面へ向けたまま賊たちをゆっくり見回し、最後の機会を与えるように言った。

 

 

 

「武器を置きなさい。降伏した者は斬らぬと、そう仰っていたではありませんか」

 

 

 

祈鉉は耳にした当主の命令をなぞりながら、剣を低く構えた。ただし後方の兵卒へ一歩でも近づこうとする者からは、視線を外さなかった。

 

 

 

「ふざけるな!」

 

 

 

最も近くにいた男が刀を持って飛び込んできた。その瞬間、祈鉉の目には、相手の身体が少し違って見え始めた。

 

 

 

相手の肩が上がり、前腕の筋肉が収縮した。腰が回り、体重が前足へ乗る変化が続いた。

 

 

 

実際に刀が動き出すより先に、それを振るう身体の方が進む方向を示していた。祈鉉は相手の眼差しに惑わされず、その変化を追った。

 

 

 

賊の刀が振り下ろされるより先に、祈鉉の身体が動いた。

 

 

 

ガァン!

 

 

 

剣の側面が相手の刃を斜めに受け、滑らせた。刀を落とすまいと指と手首へ力を込めた、まさにその瞬間、祈鉉の左手が相手の肘の内側を短く突いた。

 

 

 

「ぐっ!?」

 

 

 

指先が痺れ、刀の柄を手放した瞬間、祈鉉は男の腕を掴んで外側へ回した。落ちた刀を足で遠くへ押しやり、前へ崩れた肩を押して膝をつかせる。

 

 

 

男は空いた手で地面をついた。祈鉉は彼が立ち直る前に背後の兵卒へ引き渡し、身体を返した。これで戦っている者と、武器を捨てた者とが同じ場所へ入り混じらずに済んだ。

 

 

 

ほぼ同時に、左から槍が突き込まれた。祈鉉は完全に振り返りもしなかった。槍を持つ男の後ろ足が地面を押し、腰と肩が前へ出た瞬間から、すでに突きの軌道を読んでいたからだ。

 

 

 

半歩だけ横へ移り、槍先を脇の外へ流す。そのまま槍の柄を腕の下へ挟み、一度ひねった。

 

 

 

「えっ!?」

 

 

 

相手の身体が槍ごと前へ引き込まれた。祈鉉は自分の力で男を投げ飛ばしたのではない。相手自身が前へ注ぎ込んでいた力をそのまま利用し、方向だけを少し変えたのだ。

 

 

 

槍を持っていた賊は、横から駆け込んできた別の男と肩からぶつかり、そのまま二人一緒に地面へ倒れた。

 

 

 

「何してる! 一斉にかかれ!」

 

 

 

後方で怒鳴り声が上がると、今度は五人が同時に飛び込んできた。刀、槍、棍棒がそれぞれ違う方向から一度に襲いかかったが、祈鉉は彼らと真正面から力をぶつけ合おうとはしなかった。

 

 

 

最初の刃の下へ身体を沈め、剣の柄頭で手の甲を打って武器を落とす。続いて入ってきた二本目の刀は、攻撃者の腕を外へ流し、何もない空を斬らせた。

 

 

 

右から突かれた槍は柄を下へ押して土へ突き立て、そのまま足で踏んだ。賊が槍を取り戻そうと引いた瞬間に祈鉉が力を抜くと、男は自分の力へ耐えきれず後ろへよろめいた。

 

 

 

左から来た棍棒には内側へ入り込み、肘を押して軌道を外した。石を拾い上げた最後の男には、わざわざ手を出す必要すらなかった。いつの間にか自分の手首の前まで迫っていた刃先を見て、男の身体が固まったからだ。

 

 

 

「放しなさい」

 

 

 

「……くっ!」

 

 

 

ぽとり。

 

 

 

石が土の上を転がった。ほんの数度の動きの間に、五人は武器を失うか、その場へ座り込み、誰一人として致命傷は負っていなかった。

 

 

 

正紀はその動きを見逃さなかった。祈鉉から引き渡された男へ兵卒が縄を巻く間、別の兵卒が盾を持ってその前を守った。正紀は手振りでその二人を同じ場所へ残し、残りの者を負傷者の周囲へ集めた。

 

 

 

祈鉉の剣が、もう一度動いた。今度は、兵卒一人の首へ振り下ろされようとしていた刀を横から弾いた。

 

 

 

ガァン!

 

 

 

刃がぶつかった瞬間、祈鉉は相手の刀を力で押し返さず、斜めへ流した。賊の腕が本人の意図以上に大きく外へ開き、脇と脇腹が晒された瞬間、柄頭がそこを短く叩いた。

 

 

 

賊は悲鳴を上げ、身体を丸めた。祈鉉は倒れかけた相手の襟を掴み、頭が岩へぶつからぬよう向きまで変えてから、すぐ次の相手へ動いた。その姿を見た正紀の瞳が揺れた。

 

 

 

『殺せるのに……殺さぬのか』

 

 

 

その時、斜面の上で再び弓弦が鳴った。

 

 

 

ビュン! ビュン! ビュン!

 

 

 

先ほど最初の矢を放った男だけでなく、別の二人まで同時に下へ向けて矢を放った。

 

 

 

三本の矢が、それぞれ違う高さと方向から飛んでくる。祈鉉の視線がごく短く動いた。一本目は自分の左肩、二本目は背後にいる兵卒の胸、三本目はさらに遠くへ下がった正紀の太腿を狙っていた。

 

 

 

自分一人の身体だけを避けるなら難しくはなかった。だが祈鉉は避けず、まず最初に飛んできた矢柄を左手で横から叩き、軌道を変えた。

 

 

 

二本目は剣面を斜めに立てて受けた。

 

 

 

キィン!

 

 

 

鉄の鏃が剣面を擦りながら上へ跳ねた。祈鉉は剣を左手へ持ち替えた。三本目の矢が自分の横を通り抜けようとした瞬間には、右手が再び伸びる。

 

 

 

親指と人差し指の間が、矢柄の後方を正確に掴んだ。飛んできた力を真正面から無理に受け止めるのではなく、手首を回して円を描くように流し、そのまま土へ突き刺した。

 

 

 

タッ!

 

 

 

矢がことごとく阻まれるのを見た前列の賊たちが、足を止めた。後方ではまだ刃のぶつかる音が響いていたが、誰も先ほどまでのように祈鉉へ向かって駆け込めなくなった。

 

 

 

「あ……あれが人間かよ……?」

 

 

 

誰もその言葉へ答えられなかった。祈鉉はむしろ、斜面の上でまだ弓を手放せずにいる弓兵たちを見つめながら、長く息を吐いた。

 

 

 

「弓を置きなさい」

 

 

 

祈鉉は剣を右手へ持ち直し、足元を見下ろした。山道には、人々の足で蹴られた小石が散らばっていた。彼は左手で三つ拾い、指の間へ挟んだ。

 

 

 

弓兵たちは、その行動が何を意味するのか分からなかった。一番右の男が再び弦を引き始め、中央の者も祈鉉の胸へ鏃を向けた。

 

 

 

だが弦が引き絞られるより前に、祈鉉の手首が短く三度動いた。

 

 

 

ヒュッ! ヒュッ! ヒュッ!

 

 

 

最初の小石は、右側の弓兵の手の甲を正確に打った。

 

 

 

パシッ!

 

 

 

「うあっ!」

 

 

 

指が開き、矢が弦から外れて地面へ落ちた。

 

 

 

二つ目の小石は中央の弓兵の肘の外側へ当たり、すでに引き絞っていた腕の向きを変えた。見当違いに放たれた矢は、人ではなく遠くの木の幹へ突き刺さった。

 

 

 

ドスッ!

 

 

 

最後の小石は、三人目の弓兵が持つ弓の上部へ正面から当たった。折るほどの力ではなかったが、弓が大きく揺れて狙いは完全に崩れ、男は驚いて二歩も後ろへ下がった。

 

 

 

祈鉉はそこで初めて、斜面へ向かって動いた。一気に高所へ跳び上がったのではない。岩や木の根を短く踏みながら、相手が次の行動を決める前に距離を詰めていった。

 

 

 

手の甲を打たれた最初の弓兵は恐怖に駆られ、腰の短刀を抜こうとした。だが鞘から半分も出る前に、祈鉉の掌が手の甲を押さえた。

 

 

 

「それも抜かぬ方がよいでしょう」

 

 

 

低い声と共に視線が重なった。男はそのまま手を離した。肘を打たれた二人目の弓兵も、もう弓を持ち上げる気にはなれず、その場へ座り込んだ。

 

 

 

だが、弓を打たれて後退した最後の弓兵は、腰から再び矢を抜いた。斜面を塞ぐ祈鉉と、下方の兵卒たちを交互に見ていた目が、険しく歪んだ。

 

 

 

「そこまでです。弓を下ろしなさい」

 

 

 

男が矢を弦へかけるより前に、祈鉉の剣の柄頭が手首を掠めた。

 

 

 

パシッ!

 

 

 

「うあっ!」

 

 

 

指から矢が落ちた。祈鉉はすぐに足先で膝裏を押して座らせると、腕を無理に捻る代わりに、肩関節がそれ以上動かぬ角度までだけ押さえた。

 

 

 

「動かぬことです」

 

 

 

「こ、この……化け物め……!」

 

 

 

祈鉉は答えなかった。男が反対の手で土を掴もうとすると、その手首も押さえて止めた。下から上がってきた兵卒へ腕を引き渡して、ようやく斜面の下へ視線を戻した。

 

 

 

弓兵たちが縛られている間、正紀は盾を持った兵卒を大木の方へ移して並べた。祈鉉は上の道を守る者が上がってくるのを確認し、山道へ戻った。

 

 

 

弓と矢筒は、縛られた者たちの手が届かぬ岩の裏へ片づけられた。だが山道に残っていた賊たち全員が、降伏したわけではなかった。

 

 

 

むしろ弓兵まで瞬く間に制圧されたことで、追い詰められたと思った何人かは、さらに荒々しくなった。

 

 

 

一人の男が、倒れていた継国家の兵卒の襟首を掴んで無理やり起こすと、短刀をその首へ当てて叫んだ。

 

 

 

「近づいたら、こいつから殺すぞ!」

 

 

 

その瞬間、祈鉉の表情から残っていた穏やかさが、ほんの少し消えた。相手の命を残そうとすることは、他人の命を脅かす行為まで、いつも素手だけで止めるという意味ではなかった。

 

 

 

「その手を放しなさい」

 

 

 

「黙れ! まず剣を捨てろ!」

 

 

 

男が兵卒の首をさらに強く引き寄せた。祈鉉の視線が、短刀を持つ手と肘の間へ留まった。相手の肩が固まった瞬間、彼は刀を持つ腕が露出する側へ足を運び、間合いを詰めた。

 

 

 

ザシュッ!

 

 

 

今度は、明らかに刃が肉を裂いた。祈鉉の剣が短い銀の線を描き、男の短刀を握る前腕の外側を通り過ぎ、赤い血が長く飛び散った。

 

 

 

「うああっ!」

 

 

 

祈鉉は深く斬り込む代わりに、傷ついた腕を横へ弾いた。男が痛みに手をすくめ、兵卒の首から離れた短刀が地面へ落ちた。

 

 

 

祈鉉は兵卒を自分の側へ引き寄せ、味方の後ろへ押しやった。続けて男が落とした短刀を足で遠くへ蹴り飛ばし、左手で肩を押してうつ伏せにさせた。

 

 

 

「負傷した者へ手を出してはなりません。次も止めます」

 

 

 

その警告が終わるより先に、後ろから別の賊が、倒れた仲間を盾のように押し出しながら槍を突いてきた。

 

 

 

祈鉉は押し出された賊の身体を斬らぬよう槍先を逸らし、その横から抜けてきた男の肩の外側を、刃先で短く裂いた。

 

 

 

ザシュッ!

 

 

 

今回も致命傷ではなかった。だが腕を上げ、再び槍を突くには十分に痛い傷だった。男は血の流れる肩を押さえ、その場へ座り込んだ。

 

 

 

正紀は、血の流れる賊の腕と、安全な場所へ下がった兵卒を交互に見た。祈鉉は刃を使わねばならぬ瞬間にも迷わなかった。ただし相手の動きが止まると、それ以上深く斬らず、剣を引いた。

 

 

 

『斬らねばならぬ時にも……どこで止めればよいかを知っているのか』

 

 

 

だが、戦いが完全に終わったわけではなかった。賊の中には、他の者とは違って鎧の一部を身につけ、きちんと刀を構えている者が数人残っていた。

 

 

 

戦で主君を失い、流浪するうちに賊へ堕ちた敗残兵たちだった。その中の肩幅の広い男が一人、地面へ唾を吐き、祈鉉を睨みつけた。

 

 

 

「雑魚を何人か転がしたくらいで、調子に乗るなよ」

 

 

 

男は刀を両手で握った。立ち方からして、先ほどまでの賊とは違っていた。足を無闇に開かず、肩にも必要以上の力が入っていない。祈鉉はその姿を見て、初めて僅かに眼差しを変えた。

 

 

 

「剣を学んだ方のようだ」

 

 

 

「戦場で俺が斬った首は、てめえなんかよりずっと多い!」

 

 

 

「ならば分かるはずです。これ以上戦っても、勝ち目はない」

 

 

 

男の顔が歪んだ。

 

 

 

「黙れ!」

 

 

 

地面を蹴った。今度の攻撃は、先ほどまでより明らかに速い。刃が上から下へ落ちるように見せながら、途中で手首を返し、脇腹を狙った。

 

 

 

普通の者が最初の動きだけを見て避ければ、そのまま腹を斬られていたかもしれない。だが祈鉉の視界には、剣より先に身体が映っていた。

 

 

 

相手に上から叩き斬るつもりがないことは、刀が向きを変える前から、手首、肘、脇腹の筋肉の動きですでに現れていた。

 

 

 

祈鉉は半歩、前へ踏み込んだ。あまりにも近く、むしろ刃へ十分な力を乗せられない距離だった。

 

 

 

男の目が見開かれた。

 

 

 

祈鉉の柄頭が、その手首の骨のすぐ下を打った。刀は落ちなかった。相手にも経験があり、歯を食いしばって耐えたのだ。

 

 

 

男は痺れた手首を胸元へ引きつけ、右足を半歩引いた。驚いて腕だけを伸ばしていた他の賊とは違い、乱れた刃を身体の前へ立て、まず祈鉉の剣が入る道を塞いだ。

 

 

 

右手の力が抜けた分だけ左手へ力を足す動きには、戦場で身体へ染みついた癖が残っていた。

 

 

 

祈鉉の剣が再び迫ると、男は刃を斜めに立てて受けた。そのまま噛み合った剣を外へ押し出そうと肩を回すように見せながら、手首へ込めた力を抜き、刀先を祈鉉の喉元へ真っ直ぐ押し込んだ。

 

 

 

相手の剣を押し返すことだけへ意識を向けていれば、首を差し出しかねない短い突きだった。

 

 

 

ガァン――!

 

 

 

だが祈鉉の剣は、初めから深く噛み合わせてはいなかった。相手の左手の指が柄を強く締めた瞬間から突きを読んでいた彼は、上体を横へ捻りながら、自分の剣面を相手の刃へ添わせ、外側へ流した。

 

 

 

男が腕を伸ばし切った時には、すでに祈鉉がその肩の横へ入り込んでいた。

 

 

 

男は伸ばした刀を急いで引き戻し、左肩で祈鉉を押し退けようとした。刃が届かない距離でも、身体で隙間を作ろうとする動きだった。祈鉉はその力を正面から受けなかった。

 

 

 

身体を横へ回して肩を流し、相手が前へもう一歩踏み出すことになった瞬間、自分の足を男の踵のすぐ後ろへ置いた。

 

 

 

重心が崩れた。それでも男は倒れまいと腰と太腿へ力を入れた。祈鉉はその動きまで待っていたかのように掌を相手の肘へ当て、ほんの少し下へ押した。

 

 

 

ドンッ!

 

 

 

ついに片膝が地面へついた。刃が首のすぐ横を通った。正紀は一瞬、祈鉉がそのまま首を斬るのだと思った。

 

 

 

だが剣は止まった。刃は男の首から指一本ほどの距離を空けたところで、静かに留まっていた。

 

 

 

「……負けた」

 

 

 

男は歯を食いしばったまま敗北を認めた。祈鉉はその目を見つめ、淡々と言った。

 

 

 

「刀を置きなさい」

 

 

 

男の手から刀が落ちた。その光景を見た残りの賊たちの気勢が、完全に折れた。誰かが先に武器を下ろした。槍が地面へ落ちた。

 

 

 

別の者も刀を置いた。一人が武器を捨てると、そこから先は早かった。つい先ほどまで互いを煽り立てて飛び込んできた者たちが、一人、また一人と頭を下げた。

 

 

 

やがて山道には、刀や槍、棍棒が土へ落ちる音だけが続けて響いた。祈鉉は彼らへ、もう剣を向けなかった。

 

 

 

「武器を遠くへ押しやり、座りなさい。一人ずつ縛ります」

 

 

 

そう言うと、剣へついた血を布で拭い、ゆっくりと鞘へ収めた。

 

 

 

カチン!

 

 

 

その音を聞いて初めて、正紀は戦いが本当に終わったのだと実感した。

 

 

 

正紀は自分の刃を拭うより先に、兵卒たちの顔を数えた。呼んでも返事のない名があるたび背筋が冷えたが、すぐに負傷者を支える場所や、賊を縛っている場所から声が返ってきた。幸い、命を失った者はいなかった。

 

 

 

大木の後ろでは、深雪が布を取り替えていた。祈鉉が弓兵を相手にしている間、正紀が送った兵卒たちが負傷者をそこへ運び、彼女は傷から流れる血を押さえながら、それ以来ずっと手当てを続けていた。

 

 

 

「ここをそのまま押さえていてください。布が濡れても、手を離してはいけません」

 

 

 

兵卒の一人が唇を噛み、頷いた。深雪はその隣の男が肩へ刺さった矢を抜こうとするのを見ると、手を添えて止めた。負傷した腕が動かぬよう支えてから、担架を用意してほしいと頼んだ。

 

 

 

戦いが止まったからといって、傷ついた者の痛みまで消えるわけではなかった。震える手を隠せぬ者もいれば、こぼれた水筒を拾おうとして、その場へ座り込む者もいた。

 

 

 

深雪は歩ける者には少しずつ水を分けるよう頼み、自分で動くことのできない者たちを先に見て回った。

 

 

 

捕らえられた賊の中にも、多くの血を流している者がいた。彼女は兵卒へ、武器を持っていないか、縄は外れないかを確かめてもらってから、その前へ膝をついた。

 

 

 

その姿を見た継国家の兵卒の一人が、理解できぬというように尋ねた。

 

 

 

「先生、こいつらはつい先ほどまで、我らを殺そうとしていた者どもです。こいつらまで治療する必要があるのですか?」

 

 

 

深雪は負傷した賊の腕へ布を巻きながら、しばらくその兵卒を見た。

 

 

 

「傷を診ておかないと、山の下まで連れて行けません」

 

 

 

深雪は血の染みてくる布の上へ新しい布を重ね、兵卒の手を取り、押さえる場所を教えた。

 

 

 

「罰が決まるまでは、生きていなければならないでしょう? 皆さんの治療を後回しにはしませんから、ここを少し押さえていてください」

 

 

 

祈鉉もその言葉を聞き、静かに頷いた。

 

 

 

「武器は取り上げました。治療は受けさせましょう。私が傍におります」

 

 

 

祈鉉が近づくと、深雪は別の負傷者の方へ移った。兵卒は少し迷ったが、結局、言われた場所を押さえた。賊は目を逸らし、歯を食いしばった。礼も言い訳も、簡単には口へ出せなかった。

 

 

 

祈鉉は、男が隠していた掌を開かせ、何も持っていないことを確認した。傷を手当てする間も、警戒を解くことはなかった。深雪が戻ってきて結び目を新しく締め直してから、ようやく兵卒の強張った肩が少し下がった。

 

 

 

兵卒たちが縛られた賊を一か所へ集め始めた頃、正紀は自分の刀を鞘へ収めた。

 

 

 

掌は長い戦いの汗で濡れ、鎧のあちこちには土と細かく砕けた木の葉が貼りついていた。

 

 

 

普段なら、家の兵卒たちの前でそのような乱れた姿を簡単には見せなかっただろう。だが今ばかりは、体面を気にする余裕などなかった。

 

 

 

正紀はゆっくり祈鉉と深雪の前まで歩くと、二人へ向かって深く腰を折った。

 

 

 

「命を救ってくださり、感謝する。今日、お二人がいなければ、私だけでなく、私の者たちのうち少なからぬ者が、この山から下りられなかっただろう」

 

 

 

祈鉉はむしろ慌てたように、正紀がそれ以上深く頭を下げぬよう腕を支えた。

 

 

 

「そこまで頭を下げられる必要はありません。危険に遭っている人を見て、手を貸しただけです」

 

 

 

「そなたにとっては、ただ人を助けただけのことかもしれぬ。だが助けられた側にとっては、命のかかった恩だ。その違いが分からぬほど、私は愚かではない」

 

 

 

正紀は顔を上げ、祈鉉を真っ直ぐ見た。先ほど矢を素手で掴み、数十人を殺さずに制圧したその手には、長年の修練でできた固い胼胝と、小さな傷がいくつも残っていた。

 

 

 

剣を握ってきた手は荒れていたが、祈鉉はその手で正紀の腕をそっと放した。自分の武芸に驚く眼差しを何度も受けてきた者のように、自ら長々と語ろうとはしなかった。

 

 

 

「私はこの辺りを治める継国家の当主、継国正紀という。失礼でなければ、お二人の名を聞かせてもらえるか」

 

 

 

祈鉉と深雪は一度、互いの顔を見てから礼を取った。

 

 

 

「常善祈鉉と申します」

 

 

 

「私は常善深雪と申します」

 

 

 

聞き慣れぬ姓だった。身に着けた衣の形も、祈鉉が剣を扱う方法も、深雪が薬材を使う様子も、この土地でよく目にするものとは違う。正紀は二人の装いをもう一度見てから尋ねた。

 

 

 

「この土地の生まれではなさそうだな」

 

 

 

「はい。海を渡り、朝鮮から参りました」

 

 

 

祈鉉の答えに、正紀は納得したように頷いた。

 

 

 

「なるほど。この辺りへ住みついてからは長いのか?」

 

 

 

「この近くへ来てからは、それほど経っておりません。故郷で共に暮らしていた者たちの中に海を渡った者がおりまして、私たちも彼らと志を同じくし、この地へ参りました。ただ、皆が一か所で暮らせたわけではありません」

 

 

 

「散り散りになったということか」

 

 

 

「はい。それぞれ家族を連れ、暮らせる土地を探さねばなりませんでした。今も便りの届く者もおりますし、まだ再会できていない者もおります」

 

 

 

正紀はその話を聞きながら、再び祈鉉の剣へ目をやった。

 

 

 

「そなたが属していたのは、武家なのか?」

 

 

 

祈鉉は少し考えた後、首を横へ振った。

 

 

 

「この地の武家とは、少し性質が違います。故郷には、司冥剣霊会と呼ばれる古い集団がありました。

 

力のない民を略奪する悪人や外敵を防ぎ、普通の者では相手にできぬ怪異と戦いながら生きてきた者たちです。

 

私はそこで、前に立って戦う役目を担っていました」

 

 

 

「前に立つ役を任されるだけのことはある。だが、先ほどのような武芸は初めて見た」

 

 

 

正紀は心からそう言った。

 

 

 

「私は自分が武の極みに達したなどと自惚れる者ではない。だが、一家の兵を率い、生涯刀を握ってきた。

 

先ほどそなたが見せたものが、どれほどのものかさえ分からぬほど、見る目がないつもりもない。

 

特に……矢を手で掴んだことは、今も自分が本当に見たのかと疑うほどだ」

 

 

 

祈鉉は褒められるのが苦手なように笑った。

 

 

 

「弦を放つ前から見えていました。飛んでから気づいたのなら、後ろの兵卒まで守るのは難しかったでしょう」

 

 

 

「見えたからといって、誰にでもできることではない。私が褒めている言葉まで辞退せぬでくれ」

 

 

 

祈鉉は一瞬、返す言葉を失い、それから礼を述べて頭を下げた。深雪は清潔な布を取り出していた手を止め、その様子を見て笑った。

 

 

 

「この人、褒められると何を言えばいいか分からなくなるんです。故郷でもいつもそうでした」

 

 

 

「深雪」

 

 

 

「本当のことでしょう?」

 

 

 

あまりにも自然に言葉を交わす夫婦を見て、正紀は思わず僅かに笑った。戦いが終わった直後とは思えないほど、どこにでもいる夫婦の姿だった。

 

 

 

だが正紀の視線が、地面へ落ちていた一本の矢へ向いた瞬間、その笑みはゆっくり消えた。その矢は少し前、自分の命を終わらせかけたものだった。

 

 

 

矢が止まってからの戦いが、何度も脳裏へ蘇った。祈鉉と同じ技量を兵卒たちへ求めることはできない。ならば息子の考えを受け入れた自分は、何をさらに準備すべきだったのか。正紀は立ち去ろうとした祈鉉を呼び止めた。

 

 

 

「……一つ、尋ねてもよいか」

 

 

 

「どうぞ」

 

 

 

「そなたは、なぜあの者たちを殺さなかった?」

 

 

 

祈鉉の表情に、特別な変化はなかった。正紀は、もう少し詳しく言葉を続けた。

 

 

 

「そなたの腕ならば、相手を殺す方がずっと楽だったはずだ。それでも最後まで力を加減していた。倒れる賊の頭が岩へぶつからぬよう、支えてやるところまで私は見た。その理由を聞きたい」

 

 

 

正紀は、自分の兵卒たちと、縛られた賊たちを交互に見た。

 

 

 

「私は今日、自分の者たちへ、できる限り賊を殺すなと命じた。

 

だが正直に言えば、少し前までは、それが誤った判断だったのかもしれぬと思っていた。

 

こちらに死者こそ出ておらぬが、負傷者は何人もいる。相手は、我々が殺そうとしないと知ると、かえって荒々しく攻め込んできたからだ」

 

 

 

祈鉉は、兵卒が賊へ水を渡している姿をしばらく見た。

 

 

 

「当主様の命令は聞こえておりました。私も、これ以上人を殺さずに争いを終えられるなら、そうしたいと思いました。私の手が届く前に誰かの首が落ちてしまえば、もう戻せませんから」

 

 

 

彼は正紀へ視線を向けた。

 

 

 

「ただ、私は途中から入った者です。その命令を出された理由があるのでしょうか」

 

 

 

正紀は短く息を吐いた。

 

 

 

「私の息子のせいだ」

 

 

 

「ご子息ですか?」

 

 

 

「巌勝という、七歳になったばかりの長男がいる。家の跡継ぎとして育てている子だ。このところ、あの子とはよく衝突していてな。今回の方針も、その末に決まったものだ」

 

 

 

正紀はそれ以上話そうとして、口を閉じた。兵卒たちが聞いている前で、息子との争いを並べ立てたくはなかった。

 

 

 

ちょうどその時、担架を作っていた男が近づき、布がもう少し必要だと報告した。正紀は自分の上衣を脱いで渡し、まずは負傷者を運ぶ準備を見た。

 

 

 

応急の止血は終わっていたが、すぐに全員を立たせることはできなかった。深雪は担架へ寝かせるべき者が何人もいると言い、枝をしっかり縛る間、もう少し待ってほしいと頼んだ。

 

 

 

祈鉉も、折れた槍の柄から使えそうな部分を選び、兵卒へ渡した。

 

 

 

残った兵卒たちが周囲の警戒を引き受けてから、ようやく正紀は道端の岩へ腰を下ろした。祈鉉は、まだ尋ねたいことがあるのではなかったかと言いながら、その傍へ来た。互いの声が届くほど近くなったところで、正紀は再び長男の名を口にした。

 

 

 

「もともと優れた子ではあった。幼い頃から家の跡継ぎとして育ててきたから、学問も礼法も教えた。刀を持たせれば、同じ年頃の子よりずっと早く覚えた。

 

私が命じることにも、ほとんど口答えはしなかった。正直に言えば……私は、そういうあの子が気に入っていた。

 

長男が父の命に従い、家の法度を尊び、いずれ自分が受け継ぐもののために一日たりとも怠けぬのは当然だと思っていたからだ」

 

 

 

その言葉には誇らしさと共に、あまりにも長く当然だと思い込んできたものが混じっていた。

 

 

 

「だが、最近は変わった」

 

 

 

正紀は無意識に眉間を寄せた。

 

 

 

「突然、私の言うことを聞かなくなった。いや、それも正確ではないな。私が何を言っているかは、以前よりよく理解しているように見える。

 

それでも、自分が正しくないと思ったことには絶対に頭を下げぬ。病んでいる母親へ貴重な薬を使うと言って、私の許しも待たずに医師まで呼んだ。

 

私が次男を以前と同じように扱おうとすると、真正面から私を止めた。挙げ句、私があの子を家族として認めぬままなら、若当主の座まで捨て、弟を連れて家を出ると言い出した」

 

 

 

祈鉉の眼差しが、ごく僅かに変わった。

 

 

 

「七歳の子供が、そのようなことを?」

 

 

 

「そうだ」

 

 

 

正紀は苦い笑いを浮かべ、掌を見下ろした。長男が目を逸らさず、自分へ立ち向かっていた顔が浮かぶ。あの時は、家臣たちの前で自分の命令に逆らったことしか考えていなかった。

 

 

 

だが息子は退かなかった。自分が縁壱へ手を上げた時にもそうだった。正紀は口を開きかけ、止めた。息子は頑固だという一言だけでは、あの日のことを祈鉉へ説明できなかった。

 

 

 

「私には、双子の息子がいる」

 

 

 

祈鉉は黙って続きを待った。少し離れた場所で治療道具を片づけていた深雪も、手をゆっくり止めた。

 

 

 

「次男は生まれた時から額へ奇妙な痣があり、ほとんど口も利かなかった。この国では、双子そのものを不吉とする家も少なくないうえ、そんな姿まで重なって……。

 

私はあの子を、家へ災いを呼ぶ存在だと思った。人前へもほとんど出さず、離れた場所へ住まわせ、言うことを聞かぬと鞭を振るったこともある」

 

 

 

深雪の表情が、ほんの僅かに硬くなった。祈鉉も先ほどよりずっと真剣な眼差しで正紀を見た。正紀はその目から逃げなかった。

 

 

 

「ところが長男が、私の前へ立ちはだかった。次男がいったい何を悪いことをしたのかと尋ねてきた。その場では、生意気だと叱った。

 

今あらためて答えろと言われても……同じ言葉しか浮かばぬ。家では、そう考えられてきたという言葉だけだ」

 

 

 

正紀は言い終えると、祈鉉の目から視線を外した。命を救ってくれた相手へ家の話をしているうちに、自分が子供へ手を上げたことを弁明していた。彼は岩の上へ置いていた兜を直した。手を動かす何かが必要だった。

 

 

 

「巌勝は以前から、あの子を気にかけていた。私が近づくなと言っても隠れて会いに行き、自分の物を分け与えていた。

 

次男が罰を受ければ、自分にも一緒に悪いところがあったと言って前へ出た。私はそれを、長男らしくない弱い行いだと思っていた。

 

跡継ぎが家の法を破ってまで、呪われた子へ情をかけるべきではないと言った」

 

 

 

正紀の声が少し低くなった。

 

 

 

「だが、あの子をただ頭ごなしに叱るのも難しかった」

 

 

 

「ご子息が言われたことが理由ですか?」

 

 

 

「私は跡継ぎたる者、自分の者を捨てるなと教えた。兵卒や民を守れとも言った。

 

その一方で、弟へ情をかけるなと言った。巌勝に、その二つがなぜ違うのかと尋ねられた。私は何と答えればよかったのだ」

 

 

 

祈鉉はすぐには言葉を足さなかった。正紀も答えを急かさず、兜の縁を掴んでいた手を緩めた。

 

 

 

正紀は兜を岩の上へ置いた。

 

 

 

「数日前から、巌勝はその矛盾を私の顔へ突きつけている。そして今日の賊の件も同じだ」

 

 

 

正紀は、縛られた者たちを見た。

 

 

 

「あの子が言った通り、降伏した者には、罪を償った後にもう一度生きる道を残してみようとした」

 

 

 

「それで今日、殺さぬよう命令を出されたのですか?」

 

 

 

「そうだ」

 

 

 

正紀は率直に認めた。

 

 

 

「初めは、実際にやってみれば、あの子も難しさが分かるだろうと思っていた。私が間違っていたと言われるのが嫌だったのだろうな。だからといって、兵卒を傷つけるつもりで来たわけではない。

 

だが敵の数を読み違えて入り、命令を実行する準備も足りなかった。それでようやく、息子の言葉のせいで物事が狂ったのだと責めたくなった」

 

 

 

彼はしばらく祈鉉を見た。

 

 

 

「そこへ、そなたが現れた」

 

 

 

祈鉉は何も言わなかった。

 

 

 

「そなたは私の目の前で、双方の命を残した」

 

 

 

正紀は先ほどより、さらに真剣に言った。

 

 

 

「私の兵を救いながらも、賊の首を斬らなかった。それを見ていると、不可能なことを言っていると息子を責め立てた私は、あまりにも性急だったように思えてきた。難しいということと、試す価値さえないということは、同じではないのにな」

 

 

 

彼は縛られた者たちを見てから、再び祈鉉へ目を戻した。

 

 

 

「だから尋ねたい。どうすれば今日のようなことを避けられる? 討伐へ出るたび、そなたが現れてくれるのを待つわけにはいかぬだろう」

 

 

 

祈鉉はしばらく黙った後、ゆっくり口を開いた。

 

 

 

「当主様。一つ、はっきり申し上げておくべきことがございます」

 

 

 

「言ってみよ」

 

 

 

「まず今日の結果と、私の武芸とは分けて考えてください。兵卒たちへ、私と同じように戦えと命じることはできませんから」

 

 

 

正紀が怪訝な顔をした。祈鉉は自分の掌を開いて見せた。長い修練で荒れた手だった。

 

 

 

「兵卒たちは狭い道で伏兵に遭いました。退く場所もないまま、負傷者を守らなければならなかった。

 

そこへ、降伏を受け入れることと、襲いかかる相手を制圧することが同時に起きました。

 

剣を止めた後、誰が捕らえ、誰がその背後を守るのかまで決めておく必要があると思います」

 

 

 

正紀はゆっくり頷いた。

 

 

 

「その話は分かる」

 

 

 

「生け捕りにするのなら、それに合わせた訓練も必要です。武器を捨てさせた後、どう近づくのか。縛る者の背中をどう守るのか。降伏した者を、まだ戦っている者たちからどう引き離すのかまでです。

 

人を生かしたいという意図だけ伝え、残りを兵卒へ任せてしまえば、切迫した瞬間にどの命令を先に守るべきか、迷うでしょう」

 

 

 

正紀は、先ほど倒れた賊と負傷者の間で右往左往していた兵卒を思い出した。山を下りたら、見落とした斥候のことから見直し、生きて戻った者たちの話も聞かなければならない。

 

 

 

息子へ方針を撤回しろと求めるだけで、終わらせるべきことではなかった。

 

 

 

「……その話を、私と息子が一緒に聞ければよいのだが」

 

 

 

祈鉉が正紀を見た。

 

 

 

「ご子息とも話し合われるおつもりですか?」

 

 

 

正紀は答えようとして、少し迷った。息子の頑固さを折ってほしいという意味に聞こえただろうか。少し前までの自分なら、本当にそう頼んでいたかもしれない。

 

 

 

「あの子は討伐を見てもいないのだから、すべての事情を知れるはずもない。私が見落としたこともあるが、戻って伝えるべきこともある。今度は最後まで話をしてみたい」

 

 

 

彼は声を低くした。

 

 

 

「巌勝が間違ったことばかり言っているわけではないと、私も分かっている。だが何か一言話そうとしても、あの子の顔を見ると、先に叱る言葉が出る時がある。自分の考えがはっきりしている顔をしているものだから……」

 

 

 

正紀は山の下方を見た。

 

 

 

「巌勝は、人を大切にする子だ。内心では感心していても、私より先に答えを決めてしまったように見えると腹が立つ。これもおかしな話だ。私はいつも、あの子へ自分の判断を他人任せにするなと教えてきたのに」

 

 

 

彼はふっと笑った。

 

 

 

「帰ったら伝えたいことは多い。だが、いざとなると何から話せばよいのか分からぬ」

 

 

 

祈鉉も、ごく小さく笑った。

 

 

 

「無事に戻られたと、まずそう仰ればよいのではありませんか」

 

 

 

「……そんな言葉も、言うべきだったのだな」

 

 

 

短い笑いが過ぎると、正紀の顔は再び重くなった。

 

 

 

「だが時折、あの子のことが心配になる」

 

 

 

「どのようなところがですか?」

 

 

 

「まだ七歳なのに、あまりにも多くのことをしようとする。私も、それを当然のことだと思っていた」

 

 

 

正紀は岩の下へ落ちていた細い枝を見た。子供の年齢を口に出してみると、いつも『跡継ぎ』という言葉で覆っていた小さな身体が、妙に目へ浮かんだ。

 

 

 

「母親の病状を医師へ尋ね、薬の費用まで計算する。家臣へ仕事を任せる時も、大人のように話す。

 

初めは、よく教えた甲斐があったとしか思っていなかった。だが、いつの頃からか、稽古が終わっても子供らしく歩き回っている姿を見ることがなくなった」

 

 

 

彼はしばらく、手で顔を撫で下ろした。

 

 

 

「あの子にどれだけ時間が残っているのか、考えたことがなかった。稽古をさらにしたかと尋ね、書物はどこまで読んだかと尋ねてはいた。だが……それが終わった後、何をしたいのかとは聞かなかった」

 

 

 

祈鉉は黙って聞いていた。

 

 

 

「稽古を一日休めと言っても、別の勉強をさらにせよという意味に受け取る気がする。私がいつも、そういうふうに一日を埋めてやったから……」

 

 

 

正紀の声は、さらに低くなった。

 

 

 

「あの子が何を食べれば喜ぶのかさえ、よく知らぬ。膳へ出されたものを残さなかったから、嫌いなものはないのだと思っていた。妻へ聞けばすぐ答えるだろうに、私はそんなこと一つ、すぐには思い浮かばぬ」

 

 

 

祈鉉が答えようとした時、深雪が正紀を呼んだ。前腕を覆う鎧の紐の下から、血が滲んでいた。正紀が他の者を先に見てくれと言うと、彼女は担架を縛っている間に診られるからと、清潔な布を広げた。

 

 

 

「いつ怪我をなさいましたか?」

 

 

 

「刀を受けた時に掠めたらしい。大して痛くはない」

 

 

 

深雪は腕を調べ、傷を拭いた。布が触れると、正紀は思わず手を引いた。痛くないと何度も言おうとして、今まさに息子の話をしていたことへ気づいた。

 

 

 

「……少し、沁みはするな」

 

 

 

「そうやって言ってくださればいいんです。動かしにくければ、それも教えてください」

 

 

 

彼女は布を巻くと、担架の方へ戻っていった。正紀が包帯を巻かれた腕を見下ろしている間に、祈鉉が先ほどの問いへ答えた。

 

 

 

「戻られたら、直接お尋ねください。何が好きなのかを」

 

 

 

「それほど簡単なことであればよいのだがな。私が尋ねたという理由で、心にもない答えをするのではないかと思う」

 

 

 

「そういうこともあるでしょう。ならば、別の日にまた尋ねればよいのです。一度ですべて聞こうとなさらずに」

 

 

 

正紀は手についた乾いた土を払った。命令を繰り返すことには慣れている。答えを決めずに、もう一度尋ねることは、それとは違っていた。

 

 

 

正紀はしばらく口を閉ざし、普段なら誰にも言わないようなことを、もう一つ付け加えた。

 

 

 

「頼み事がある時も、許しを求める前に帳面から差し出してくる。自分の取り分からこれだけ使うので、家には損がないとな。

 

まだ私が嫌だとも言っていないのに、断られる理由から一つずつ潰して持ってくる。昔は、準備が徹底していると褒めた。

 

だが最近は、あの子が私へ期待できることは、それしかないのかと思う。自分一人ではできぬと言われた記憶がないからな」

 

 

 

祈鉉はすぐには答えられなかった。自分にも、心へ引っかかっていることがあった。

 

 

 

「私の娘も、怪我を隠したことがあります。稽古を休ませられると思ったのでしょう、腕を後ろへ隠していました。私はその日、次に覚えさせる動きのことばかり考えていた。あの子が指をまともに伸ばせないことにも、気づくのが遅れました」

 

 

 

「その時は、どうした?」

 

 

 

「私が先に木剣を置きました。今日はもうやらない、と。休んでよいと言いながら私が剣を持ち続けていては、あの子も手放せなかったのです」

 

 

 

祈鉉は膝へ置いていた手を開いて見せた。長く剣の柄に圧されてできた跡が、掌へ残っていた。

 

 

 

「ご子息も、当主様ご自身が引き受けてくださることが増えれば、少しずつ変わるのではないでしょうか。母上を看ることも、家のことを見回ることも、ご子息一人だけが担う役目ではないはずですから」

 

 

 

祈鉉はしばらく正紀を見てから、ゆっくり言葉を続けた。

 

 

 

「それでも次の稽古では、私がまた休ませることを忘れました。その日は娘の方が先に木剣を置き、私の顔色を窺っていました。私もよく忘れ、見落とします」

 

 

 

正紀が少し驚いたように彼を見た。

 

 

 

「娘は七歳です。ご子息と同い年ですよ」

 

 

 

祈鉉は娘を思い浮かべ、笑みを浮かべた。

 

 

 

「初華と申します。私の目には、この世で何より大切な子ですが、それでも私が望む通りにばかり育ってくれるわけではありません。

 

危険だからするなと止めたことを、人を助けるためだと言ってしてしまう時もありますし、稽古を終えろと言っても、自分が納得するところまで続けようとします」

 

 

 

ちょうど担架へ寝かせた兵卒の様子をもう一度見て戻ってきた深雪が、夫の言葉を聞いて小さく笑った。

 

 

 

「誰に似たんでしょうね」

 

 

 

祈鉉は妻をしばらく見てから、再び正紀へ目を戻した。

 

 

 

「あの子がどこまで耐えられるのか、何を望んでいるのかを、私がいつも正しく分かっているわけでもありません。先に尋ねるべき時にも、教えたいことから口にしてしまうことがあります」

 

 

 

正紀は黙って聞いた。

 

 

 

「ご子息へ討伐の話をなさる時も、まず今日、何が難しかったのかからお話しになってはいかがでしょう」

 

 

 

祈鉉は山道へ残された盾を見た。一本の矢が木板を貫き、突き刺さっていた。

 

 

 

「なぜ間違っていたのかを教えようとすることだけに気を取られれば、ご子息もまた、自分の言葉が正しいことから証明しようとするでしょう。

 

斥候で何を見落としたのか、捕らえた者を引き受ける人間がどれだけ必要だったのか、一緒に考えてみてください。そうしていけば、ご子息の方から当主様へ尋ねたいことも出てくるでしょう」

 

 

 

「息子にも、なぜ思い通りにいかなかったのかを考えさせろということか?」

 

 

 

「はい。今回必要なのは、兵卒たちが安全に遂行できる命令です。ご子息へ、自分の意見を押し通した罰を与えることではありません」

 

 

 

祈鉉の声が少し低くなった。

 

 

 

「私も今日は勝てました。ですが、いつでも全員を生かして終えられるとは断言できません。だからこそ、できる準備はもっとしておくべきです。力が足りなかったという一言だけで終わらせれば、次も同じ場所で誰かが傷つくことになりますから」

 

 

 

「今日、私が見落としたことは、まず私が確かめるべきだな」

 

 

 

「そのように、ご子息へもお話しください」

 

 

 

正紀はしばらく答えなかった。息子の方針を試すために出てきたという話より先に、自分が敵の数を読み違えたと、口にできるだろうか。

 

 

 

兵卒たちへ、斥候で何を見落としたのか調べろと命じることと、長男の前で自分の過ちを言葉にすることは違っていた。

 

 

 

彼は溜息を吐いた。難しいという理由で、また息子にだけ答えを求めるわけにはいかなかった。

 

 

 

「……それから、次男殿についても、一つ申し上げてもよろしいでしょうか」

 

 

 

祈鉉の言葉に、正紀の表情が少し硬くなった。

 

 

 

「言ってみよ」

 

 

 

「私はまだ、その子に会ったことがありません。ですから、どのような人なのかを軽々しく判断することはできません」

 

 

 

祈鉉は、あえてゆっくりと言った。

 

 

 

「痣があり、言葉数が少ないことが、他人を害した証になることはありません。

 

私が故郷で守ってきた人々の中にも、見た目を理由に村から追い出されかけた者がいました。

 

近くで暮らしてみれば、その人のせいだと言われていた不幸が、まったく別のところから起きたものだったことも少なくありません」

 

 

 

正紀は唇を固く結んだ。祈鉉はその反応を見ても、言葉を引っ込めなかった。

 

 

 

「次男殿も、当主様のお子です。長男殿が大切になさっているからというだけではなく、その子自身のためにも、接し方を変えていただくべきではないでしょうか。

 

痣を持って生まれたことは、その子が犯した過ちではありません。当主様が、もう知っていると思っておられた次男殿を、一度は最初から見直していただければと思います」

 

 

 

正紀はすぐには返事をしなかった。初対面の相手に子供の育て方を指摘され、少しも自尊心を傷つけられなかったと言えば嘘になる。

 

 

 

祈鉉は、自分は次男を見たことすらないと先に言った。知らぬことを、知っているふりで決めつける態度ではなかった。

 

 

 

それでも正紀は、なぜ幼い子へ手を上げたのかという問いだけは避けられなかった。家の法度だと繰り返したところで、殴られた子供に罪が生まれるわけではない。

 

 

 

「……そなたの言葉は、ひどく痛いな」

 

 

 

「お聞きになるのがつらい言葉だということは分かっています。それでも、申し上げるべきだと思いました」

 

 

 

「痛いからといって、間違っているという意味ではない。おそらく私が聞きたくなかった言葉だから、なおさら痛むのであろう」

 

 

 

しばらくして、彼は立ち上がった。

 

 

 

「それでも今日すぐに、すべてが変わると約束することはできぬ。私は、それほど立派な人間ではない。

 

自分が正しいと信じて生きてきた年月がある。家の古い法度も、一朝一夕に消えるものではないからな」

 

 

 

祈鉉は頷いた。

 

 

 

「長く抱いてきた考えが、簡単に変わることはないでしょう。ただ、子供へ手を上げることだけは、考えがすべて変わるまで待つことはできません。

 

今すぐやめられることから、やめてください。その子が父親を信じられるようになるかは、その後の日々へかかっています」

 

 

 

正紀は答える代わりに、袖口を握ってから放した。過ちを口へ出したからといって、それを消してくれる言葉が返ってくるわけではなかった。少しして、彼は祈鉉夫妻をもう一度見た。

 

 

 

「……三日後の夕方、我が家へ来てもらえぬか」

 

 

 

突然の頼みに、祈鉉が顔を上げた。

 

 

 

「お屋敷へ、ということでしょうか?」

 

 

 

「討伐の後始末を終えたら、お二人をきちんともてなしたい。この山道で数言の礼だけを述べ、帰してしまうには、受けた恩が大きすぎる」

 

 

 

「……食事ですか?」

 

 

 

「そうだ。私の命だけでなく、あの兵卒たちまで救ってくださった。皆で生きて帰れたことを祝う席くらい、設けさせてもらいたい」

 

 

 

祈鉉は困ったように深雪を見た。深雪はしばらく考えてから、ごく小さく笑った。

 

 

 

「一度のお食事でしたら、ありがたくお受けしてもよいと思います。今日、皆さんが無事に山を下りられたことを覚えておく席として」

 

 

 

「君まで……」

 

 

 

「今日はあちらも片づけることが多いでしょう。三日後なら、お互い落ち着いてご挨拶できます」

 

 

 

祈鉉は結局、溜息をつきながら頷いた。

 

 

 

「分かりました。三日後の夕方に伺います。娘も連れて参ります」

 

 

 

「酉の刻の初め頃がよい。門へ人を立たせておくゆえ、道を尋ねて来られればよい」

 

 

 

「娘にも、遅れぬよう支度するよう伝えておきます」

 

 

 

祈鉉が約束を確かめるように答えた。深雪も、その日に必要なことを考えながら頷いた。

 

 

 

「娘というのは、先ほど話していた七歳の子か?」

 

 

 

「はい。そうです」

 

 

 

正紀の目へ、僅かな興味が浮かんだ。

 

 

 

「ならば二人の息子も同じ席へ座らせよう。同じ年頃の子が来るなら、大人の話ばかり聞いているよりよいだろう」

 

 

 

「お話を伺っているうちに、私も巌勝殿へ会ってみたくなりました。子供たちには、気楽に遊んでもよいと伝えておいてください」

 

 

 

「そうしよう。我が家ではむしろ、その言葉を信じさせるまでに時間がかかるかもしれぬがな」

 

 

 

祈鉉は思わず笑った。

 

 

 

「娘も一緒に遊べる相手ができれば喜ぶでしょう。人と付き合うのを嫌う子ではありませんが、

 

海を渡ってきた家の子ということもあり、同じ年頃の子たちと近づく機会があまりありませんでした。

 

着るものも、学んでいることも少し違うので、子供たちの目には珍しく映るようです」

 

 

 

隣で聞いていた深雪が、夫の言葉を受けるように静かに付け加えた。

 

 

 

「時々、市へ行って子供たちの傍まで行ったのに、一人で戻ってくるんです。自分から声をかけたという日でも、一緒に遊んだのかと尋ねれば、次はそうすると言うばかりで」

 

 

 

正紀は何気なく、自分の長男を思い浮かべた。同じ年頃の子を呼べば、その父親の方が先に訪ねてきて頭を下げた。遊んでこいと送り出しても、実際にうまく交われたかを尋ねたことはなかった。

 

 

 

「巌勝は、若当主という立場が、かえって同年代との距離を作ることがある。あの子が先に声をかけても、相手は一緒にふざけるより礼を整えようとする。家の跡継ぎという名は、よいものばかりを与えるわけではないらしい」

 

 

 

祈鉉はゆっくり頷いた。

 

 

 

「食事の時、挨拶をあまり長くさせないでいただけると助かります。私の娘も、知らない大人の前で立派にしなさいと言われると、普段より言葉が出なくなるのです」

 

 

 

「仲良くしなさい、という言葉も控えろということか?」

 

 

 

「その一言で親しくなれるのなら、私もとっくに言っています。隣へ座って何を話すかは、子供たちへ任せましょう」

 

 

 

正紀は少し考え、それから薄く笑った。

 

 

 

「それもそうだな。とはいえ、気が合えば子供同士、よい縁になるかもしれぬ」

 

 

 

食事の約束を決めた後、正紀は夫婦の家がどこにあるのか尋ねた。人を送り道案内をさせるつもりなのだと思い、祈鉉が答えると、

 

 

 

今度は屋敷の近くにある空き地の話を出した。そこへ家を建てて移ってきてはどうか、という意味だった。祈鉉と深雪は同時に手を振った。

 

 

 

「空き地があるから言っているのだ。これからも時々お会いしたいし、今日受けた恩を返す方法も探したい」

 

 

 

「お気持ちだけでもありがたく存じます。ただ、住まいを移すことは私たちも十分に考えなければなりません。今日この場で受けるとはお答えできません」

 

 

 

正紀は木材も人手も用意できると付け加えたが、祈鉉は同じ答えを穏やかに繰り返した。深雪が、まずは食事の席でまた会いましょうと言って、ようやく話が止まった。正紀は名残惜しそうな顔で頷いた。

 

 

 

「……ひとまず今日は、そのくらいにしておこう」

 

 

 

その言葉に含まれた『今日は』が、妙に気にかかったが、祈鉉はわざわざ聞き返さなかった。

 

 

 

そうして約束を終えると、正紀は祈鉉と深雪へ何度も感謝を伝え、残った兵卒たちへは、賊を縛って領地へ連れ帰ること、ただし降伏した者を勝手に殴ったり殺したりしないことを、あらためて命じた。

 

 

 

そして山を下りる前、最後に、先ほど自分を殺しかけた矢が落ちている場所を見た。

 

 

 

『巌勝……』

 

 

 

数日前、自分の前で一寸も退かなかった息子の目が浮かんだ。

 

 

 

『お前の言うことも、まるきり間違いではなかったようだな』

 

 

 

もちろん、その言葉を屋敷へ戻るや否や、すぐ息子へ言えるほどの覚悟まで生まれたわけではなかった。父としても、当主としても、長年積み重ねてきた自尊心は、一度死にかけたからといって突然消えるものではない。

 

 

 

だが少なくとも、以前のように、子供の言葉を聞きもしないうちから空虚な理想だと決めつけることは、もうできそうになかった。

 

 

 

三日後には、息子たちと共にこの者たちを迎えることになる。祈鉉ならば、巌勝の言葉を理解できるように思えた。

 

 

 

だからといって、自分が言えないことをすべて代わりに言ってほしいと頼むわけにはいかない。正紀は屋敷へ戻る道すがら、何から息子へ伝えるべきか、もう一度考えた。

 

 

 

命を救ってくれた者へ食事を振る舞うという招待は、こうして二つの家の運命を、これから長い年月にわたり結びつける最初の約束となった。

 

 

 

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「……それで今夜、うちの家族があなたたちの家へ招かれたの。お父さんは食事だけいただけば十分だって言ったらしいけど、あなたのお父さんはそれでは足りないって仰ったんだって」

 

 

 

初華は、両親から聞いた話を語り終えた。彼女が知っていたのは、武士たちを助けたことと、食事へ招かれたことだった。

 

 

 

山道で大人たちが交わしていた言葉のすべてまで聞いたわけではない。竹の葉が擦れ合う音の間に、巌勝の短い吐息が混じった。

 

 

 

巌勝はしばらく何も言わなかった。三日前に父が帰ってきた時のことを思い返したが、命を失いかけたという話など聞いたことはなかった。

 

 

 

近頃は、顔を合わせても必要な言葉だけを交わして別れることが多かった。その日だけ違ったはずもない。

 

 

 

「父上も、お怪我をされたのか?」

 

 

 

「大きな怪我じゃなかったって。ご一緒だった人たちはたくさん怪我をして、お母さんが治療したって言ってた。家へ帰る時には、あなたのお父さんも自分で歩いてたって」

 

 

 

そこでようやく、巌勝は息を吐いた。父へ抱いているわだかまりとは別に、もし生きて戻れなかったのだと考えると、胸の一角が冷たくなった。

 

 

 

縁壱も兄を見上げた。巌勝は弟の固く結ばれた口元を見て、『よかっただろう』と軽々しく言うことはできなかった。

 

 

 

「ご両親へ、礼を申し上げねばならぬな。今夜いらしたら、私から直接お伝えしたい」

 

 

 

「うん。そう言ったら、お父さんも喜ぶと思う。それから……あなたのことも話したんだって」

 

 

 

「私のことを?」

 

 

 

「あなたのお父さんが、巌勝は人を大切にする子だって仰ったんだって。うちのお父さんは、どんな子なのか会ってみたいって言ってた」

 

 

 

巌勝は初華の顔をもう一度見た。からかうために作った話には見えない。剣が上手いという褒め言葉でも、跡継ぎとして非の打ち所がないという評価でもなかった。自分のいない場所で父がそのように言ったということが、妙に馴染まなかった。

 

 

 

「……そのようなことも仰っていたのか」

 

 

 

「あなたには言わなかったの?」

 

 

 

「私の前では、頑固だと仰ることの方が多いな」

 

 

 

答えてから、少し可笑しくなった。父から受けていた叱言を、今日初めて会った少女へ話している。初華は笑いかけたが、巌勝の表情を見て口を閉じた。彼の方が先に薄く笑うと、そこでようやく彼女も笑った。

 

 

 

しかし弟の痣だらけの顔を見ると、その褒め言葉だけを喜んでもいられなかった。今夜は、父が縁壱へどう接するのか、自分の目で見たかった。

 

 

 

縁壱が傷ついた腕を身体の近くへ引き寄せた。巌勝は竹へ立てかけていた白樫の木剣を取り、腰へ差すと、置いていた凧を拾った。

 

 

 

「そろそろ戻ろう。医師に腕を診ていただかねばならない」

 

 

 

「はい、兄上」

 

 

 

初華も立ち上がり、二振りの木剣を腰へ結び直した。草へ引っかかっていた薬草袋を外してから、自分の家へ続く道を振り返った。

 

 

 

「私も帰らなきゃ。夕方に出る支度をしなさいって言われてるの。薬草を探しに行くって出てきたのに遅くなったら、また心配されちゃう」

 

 

 

「屋敷の方へ下りる道も、お前の家へ続いているのか?」

 

 

 

「うん。下の分かれ道で横へ曲がればいいの。こっちから行くより少し遠回りだけど、そんなに遠くないよ」

 

 

 

「それなら……分かれ道までは、一緒に行かぬか?」

 

 

 

巌勝は凧糸を巻くふりをしながら返事を待った。一緒に行こうという、ただそれだけの言葉が、必要以上に慎重になった。

 

 

 

「うん。私も一緒に行きたいと思ってた」

 

 

 

初華は目を合わせて笑った。巌勝は手の中の糸をもう一度巻こうとして、すでに最後まで巻き終わっていることへ気づいた。何も言わず、糸の端を骨組みへ挟み込んだ。

 

 

 

縁壱はその手を見て小さく笑い、兄がこちらを見ると、自分の独楽を懐へ入れようとした。

 

 

 

「それも兄が持っていこう」

 

 

 

「凧もお持ちではありませんか?」

 

 

 

「二つとも持てる。お前の腕が治ったら、また返そう」

 

 

 

巌勝は凧と独楽を一度置き、弟が身体を起こすのを支えた。縁壱は何歩か歩いてみてから、怪我をしていない手を腕の下へ当てた。巌勝が尋ねると、揺れると引っ張られるように痛むと答えた。

 

 

 

初華が残っていた清潔な布を差し出した。巌勝が腕の揺れを抑えるよう支えている間、彼女は水筒と紐をまとめた。

 

 

 

「こうして歩けばどうだ?」

 

 

 

「先ほどより楽です。ゆっくりなら歩けそうです」

 

 

 

巌勝は凧と独楽を片腕へまとめて抱え、空いた手を差し出した。縁壱がその手を握った。

 

 

 

初華は二人より半歩前へ出て、道を確かめながら歩いた。低い枝が垂れているところでは枝を持ち上げ、道が広くなると再び横へ並んだ。

 

 

 

初華は縁壱へ、痛んだらすぐ言うよう念を押した。医師へ行くと聞いてからは、彼女も少し安心したようだった。

 

 

 

竹の間を抜けながら、巌勝は父の顔をまた思い浮かべていた。ふと、初華が笑いを堪えているのに気づき、理由を尋ねた。

 

 

 

「うちのお父さんが、あなたのお父さんから家までいただくことになりそうだって言ってたのを思い出したの。食事だけしに行っても、またその話をされそうだって」

 

 

 

「あり得るな。父上は一度、与えると言い出したものを簡単には忘れぬ」

 

 

 

そう言って巌勝が腕の中の独楽を抱え直した。凧まで重ねて持っていたため、糸が何度も手首へ絡んだ。

 

 

 

「凧は私が持とうか?」

 

 

 

「大丈夫だ。重くはない」

 

 

 

「重いから言ってるんじゃないよ。ずっと糸が引っかかってるでしょう」

 

 

 

そこでようやく巌勝は自分の手首を見た。初華が凧を受け取り、糸の端を骨組みへ巻きつけてくれた。

 

 

 

「こうすればいいよ」

 

 

 

「……ありがとう」

 

 

 

手が軽くなり、弟の方へ身体を向けるのも楽になった。巌勝は凧を潰さぬよう気をつけろ、とまで言いかけて飲み込んだ。少し前まで一緒に飛ばしていた凧だ。初華はすでに丁寧に支えて持っていた。

 

 

 

縁壱が道の石を避けて歩くと、巌勝も歩調を落とした。背負おうかと尋ねると、弟はもう少し歩いてみたいと言った。つらくなればすぐ言うという返事を聞き、巌勝は歩幅を小さくした。

 

 

 

初華も何も言わず傍へ戻った。凧の長い尾が縁壱の足へ触れぬよう、少し高く持ち上げた。

 

 

 

「お前は、怪我をしていないのか?」

 

 

 

巌勝が尋ねると、初華は首を横へ振った。

 

 

 

「してないよ。少し走って息が切れたくらい」

 

 

 

「石を投げる子もいたのだろう。お前まで当たっていたら、どうするつもりだったのだ」

 

 

 

「だから近くまで行ったの。遠くから投げられたら、縁壱へ飛んでくるものを全部止められるか分からなかったから」

 

 

 

彼女は腰に差した木剣を見下ろした。独楽を回して笑う顔ばかりを見ていた巌勝は、今になって、その前にあった緊張を思い出した。

 

 

 

「怪我がなくてよかった。もっと早く尋ねるべきだったな」

 

 

 

「今、聞いてくれたからいいよ。縁壱の方がたくさん怪我してたでしょう」

 

 

 

初華はしばらく彼を見てから、付け加えた。

 

 

 

「でも、心配してくれるのは嬉しい」

 

 

 

巌勝は何と返せばよいか分からず、前の道へ視線を向けた。彼女が無事だと分かった途端、今度は自分の笑みを隠す方が難しかった。

 

 

 

「家へ帰ったら、お父さんにも全部話すつもり。私一人で何人もの間へ入ったって聞いたら、心配するだろうな」

 

 

 

「人を助けたこと自体は、よくやったと仰るのではないか?」

 

 

 

「その後にまた言うよ。お前が怪我をしたらどうするつもりだったんだ、って。お父さんだって三日前に同じことしたのに」

 

 

 

彼女は父の声を低く真似してから笑った。巌勝もつられて笑いながら、叱られると分かっていても今日のことを隠そうとはしない少女を、不思議な気持ちで見た。

 

 

 

「それでも、どう動いたのかはきちんと話しておけ。次はもっと安全に助ける方法を教えてくださるだろう」

 

 

 

「うん。私もそれを聞いてみたい」

 

 

 

『次』という言葉に、縁壱の指が固くなった。巌勝が振り返ると、弟が慎重に尋ねた。

 

 

 

「もし、あの子たちがまた来たら、どうすればよいのでしょうか」

 

 

 

初華の笑みが消えた。巌勝も歩みを緩めたが、立ち止まりはしなかった。弟が恐れているのは、剣術の手順ではない。

 

 

 

「まず今日のことを大人たちへ知らせる。誰がしたのか、どこで何があったのか、残さず伝える。お前がまた一人であの者たちと向き合うようなことにはさせぬ」

 

 

 

「近くの使用人にも知らせておこう。兄が稽古場にいる時は、そこへ来てもよい。誰へ助けを求めればよいのかから、きちんと決めておこう」

 

 

 

縁壱は頷いた。初華も隣から言葉を足した。

 

 

 

「私はお父さんへ話しておくね。あの道で、あんなことがあったって。薬草を採りに行く時、お父さんもあの近くを通るから」

 

 

 

「そうしてくれると助かる」

 

 

 

縁壱は道端へ落ちていた竹の葉を踏みながら歩いた。先ほどのように後ろを振り返ることはなかった。巌勝は屋敷へ着き次第、今日の出来事を伝えようと思った。

 

 

 

その時、初華が巌勝の耳元で揺れる護符を見つめた。

 

 

 

「巌勝、少しだけ顔を横へ向けてくれる? 耳飾りに描かれている方がよく見えなくて。縁壱のと形は似てるけど、絵は違うみたい」

 

 

 

巌勝が顔を向けると、初華は銀白色と淡い紫が混じり合う護符を覗き込んだ。

 

 

 

「私のものには、月の神である月読命が描かれている。縁壱のものは太陽の神だ。どちらも母上が私たちのために用意してくださった」

 

 

 

縁壱も耳飾りを見せようと顔を傾けた。傷ついた腕が動くと、初華はもう見えるからと手を振った。

 

 

 

巌勝は弟を見ながら、自分が月の耳飾りを受け取った翌朝を思い出した。約束通り、縁壱と共に母へ挨拶へ伺った時のことだった。

 

 

 

母は箱に残しておいた太陽神の耳飾りを取り出した。巌勝が護符を支える間、母は右手で縁壱へ一つずつ着けてやり、弟はその手の動きに合わせて静かに顔を傾けていた。

 

 

 

「お前の兄のものと一緒に用意していたのよ。お前がどこにいても、この母がお前を思っていることを忘れないでおくれ」

 

 

 

縁壱は頷き、母の手へ頬を寄せた。母は並んで座る二人の息子を見ながら、笑っていた。

 

 

 

「二人でいると、太陽と月が一緒にいるみたい。あなたたちのお母さんも、ご覧になったら喜びそうね」

 

 

 

初華の言葉に、巌勝は弟と目を合わせ、笑った。

 

 

 

「そう仰っていた。自ら着けてくださった後、私たちを長いこと眺めておられた」

 

 

 

「その月には、どんな意味があるの? うちのお母さんは護符をくれる時、何を願ったのかも話してくれるの。あなたも聞いた?」

 

 

 

「月は、日が沈んだ後にも道を歩く人を照らしてくれると仰った。私が剣を学ぶのなら、人に勝つことだけへ心を向けず、

 

暗い場所へ残された人にも目を向けるように、と。弟や傍にいる人々を守りながら、生きてほしいと仰った」

 

 

 

初華は一度、縁壱へ目を向けてから、再び巌勝を見て言った。

 

 

 

「あなたも、縁壱が心配で走ってきたんでしょう」

 

 

 

「……今日は、お前が先に守ってくれた。私は遅れて来た。お前がいなければ……」

 

 

 

「それでも来たでしょう。今だって、一緒に帰ってるし」

 

 

 

巌勝は弟と繋いだ手を見下ろした。まずは無事に屋敷へ連れ帰り、傷を手当てしてもらわなければならない。

 

 

 

「戻ったら母上へお話ししよう。縁壱にも話したいことがあるだろうからな」

 

 

 

「私も、お姉さんのことをお話ししたいです」

 

 

 

縁壱が言った。初華は意外そうに彼を見た。

 

 

 

「私のこと?」

 

 

 

「はい。今日、助けてくださったことと、一緒に独楽を回したことです。母上がお聞きになれば、喜ばれると思います」

 

 

 

「じゃあ、縁壱が独楽の紐の巻き方を教えてくれたことも話してね。私、最初は全然うまくできなかったでしょう」

 

 

 

縁壱は恥ずかしそうに笑った。だがすぐに傷ついた腕を見下ろすと、兄の手をそっと引いた。

 

 

 

「母上が腕をご覧になれば、驚かれますよね?」

 

 

 

「そうだろう。だからまず医師に診ていただき、どのように手当てすればよいかも聞いてから行こう。母上へは、兄も隣で一緒に話す」

 

 

 

「外へ遊びに行っておいでと言ってくださったのに、こんな姿で帰って……」

 

 

 

巌勝は弟の手を握り直した。

 

 

 

「お前が遊びに出たことは、悪いことではない。母上も、まずお前の話を聞きたいはずだ。先ほど楽しかったことも、一緒にお話しするのだぞ」

 

 

 

縁壱は少し考えてから頷いた。兄と一緒ならば、何から話すべきかを一人で長く迷わずに済む気がした。

 

 

 

巌勝も、母へ少女の名を伝えようと思った。弟を救ってくれた子。二刀を使う子。そこへ、笑った顔が何度も浮かぶということまで付け加えるのは、できそうになかった。

 

 

 

「あなたのお母さんも、今夜一緒に食事をされるの?」

 

 

 

「お身体がよくないから、長く座っておられるのは難しいと思う。まず伺ってみなければならぬな」

 

 

 

「そっか。じゃあ、ご挨拶はお身体が楽な時にするね。今夜会えるからって、長くお話ししたら駄目だね」

 

 

 

巌勝は頷いた。道が狭くなると、初華は少し前へ出た。

 

 

 

二人の兄弟が後ろを歩く間、初華は凧の長い尾が土へ擦れぬよう持ち上げた。巌勝が礼を言うと、少女が横へ顔を向けた。

 

 

 

「今日、その言葉、本当にたくさん言うね」

 

 

 

「それだけ、礼を言いたいことが多かったからだ」

 

 

 

「じゃあ次は、独楽を上手く回して見せて。私はその方が見たいな」

 

 

 

巌勝が瞬きをした。隣で縁壱の肩が小さく動いた。

 

 

 

「……まだ、そのことを覚えていたのか」

 

 

 

「さっきのことなのに、もう忘れるわけないでしょう? 紐を巻いてる時は、すごく上手にできそうな顔だったのに」

 

 

 

「上手く回すには、まず紐を正しく巻かねばならぬ」

 

 

 

「うん。でも地面の石は見てなかったでしょう」

 

 

 

縁壱が笑い声を漏らした。巌勝も、もっともらしく説明しておきながら石へ独楽をぶつけたことを思い出すと、笑わずにはいられなかった。

 

 

 

「次は、長く回してみせよう」

 

 

 

「どれくらい?」

 

 

 

「少なくとも、お前の独楽より先には倒れぬように」

 

 

 

「じゃあ私も頑張って回さないとね。後で、わざと手加減したなんて言ったら駄目だよ」

 

 

 

「よい。今日のように石へ引っかかることもないだろう」

 

 

 

「私はまず、紐をちゃんと巻かなきゃ。さっき縁壱に教えてもらうまでは、途中でほどけちゃったから」

 

 

 

「それは、もう一度やったらすぐ直せたではないか」

 

 

 

「次もできるかは分からないよ。もしまたほどけたら、縁壱に聞かなくちゃ」

 

 

 

初華は笑いながら弟を見た。縁壱は、必要なら自分が持って手伝うと答えた。巌勝も、その日はまず平らな地面から探そうと言うと、彼女がまた振り返った。

 

 

 

「それでも倒れたら、またやればいいよ。私、次も一緒に遊びたい」

 

 

 

巌勝の返事が少し遅れた。すでに失敗した姿まで見た子が、『次』のことを話している。

 

 

 

「……私も、そうしたい」

 

 

 

初華は答える代わりに笑った。巌勝は凧の尾の先へ視線を移した。何言も交わしていないのに、顔へ熱が上がった。

 

 

 

その時、少女の腰で二振りの木剣が軽くぶつかった。道端の石を避けようと身体を捻ったからだった。巌勝はその音に目を下ろし、先ほど自分が握ってみた剣を思い出した。

 

 

 

「一人で稽古する時も、いつも二振りを一緒に使うのか?」

 

 

 

「いつもじゃないよ。片方ずつ練習することもある。どうしたの? さっき握ってみて気になった?」

 

 

 

「ああ。一振りを受けに使った後、もう一振りがどこへ動くのか、自分の目で見てみたい。お前が戦っていた時は、私は遅れて着いたから、よく見られなかったのでな」

 

 

 

「じゃあ今度、うちへ来て私と手合わせしてみる?」

 

 

 

初華の方から尋ねた。巌勝はすぐに『よい』と答えかけ、弟を振り返った。縁壱は、二人が一緒に手合わせする姿をすでに想像しているように、木剣を見ていた。

 

 

 

「ご両親がお許しくださるなら。私も木剣を持っていこう」

 

 

 

初華が彼の腰を指差した。

 

 

 

「今持ってるそれで?」

 

 

 

「ああ。お前の剣より、少し長かったな」

 

 

 

「うん。さっき持ってみた時、柄も違った。両手で握るからだね」

 

 

 

巌勝が頷いた。少女は剣を返す前、手を開いて握り直していた感覚を思い出しているようだった。彼もまた、初華の木剣を持った時に感じた短い柄と重さを思い返した。

 

 

 

「お前の剣は、片手を空けたまま動きやすそうだった。二本を交互へ出せば、間合いの取り方も変わるのだろう」

 

 

 

「そう。でも遠すぎたら、どっちも届かないよ。お父さんとやる時は、私から近づこうとして止められることが多いんだ」

 

 

 

「だからこそ、お前の動きを見てみたいのだ」

 

 

 

初華は凧を抱えたまま頷いた。今すぐ見せたそうだったが、隣で腕を支えながら歩く縁壱を見ると、次の機会へ回した。

 

 

 

「お父さんがいる時なら大丈夫だと思う。怪我しないよう見ててって頼むね。ただ、お父さんは始める前に、いろいろ長く聞くかもしれないよ」

 

 

 

「何を聞かれるのだ?」

 

 

 

「どこか痛くないか、ご飯は食べたか、昨夜遅くまで起きてなかったか。私は早く始めたいのに、足を一度踏み出してみろとかも言うんだよ」

 

 

 

祈鉉は手合わせの前に、まず娘の状態を確かめる人だった。巌勝は今夜会えたら、剣術のことも尋ねてみたいと思った。

 

 

 

「それなら、私も答えることは多くなさそうだ。よく食べ、よく眠ってから行けばよい」

 

 

 

「じゃあ、いつやるかは今夜お父さんへ聞いてみよう」

 

 

 

「ああ」

 

 

 

初華は、もう日取りまで決まったように楽しそうな顔をしていた。

 

 

 

幼い身体へ戻ってから、修練にはいつも焦りがつきまとった。だが今は、少女が二本の剣をどう動かすのか、そのこと自体が純粋に気になった。

 

 

 

縁壱が二人の間から、静かに口を開いた。

 

 

 

「私も見ていてよいでしょうか?」

 

 

 

「もちろん。お父さんの隣へ座れば、よく見えると思うよ」

 

 

 

初華はすぐに答えた。縁壱が安心したように息を吐くと、巌勝もその手を軽く握った。

 

 

 

「その日は兄と一緒に行けばよい」

 

 

 

「はい。お二人がお使いになる剣を見てみたいです」

 

 

 

巌勝は一瞬、弟の澄んだ目を見た。一度見ただけで長い修練を飛び越えてしまう才能のことも、忘れてはいなかった。胸の片隅へ押し込めていた焦りが、僅かに動いた。

 

 

 

だが目の前の弟は、見学する場所をもらえたことを喜んでいるだけだった。縁壱は、ただ一緒に行きたいと口にしたにすぎない。

 

 

 

巌勝は弟へ笑ってみせた。胸を過ったものがすぐに消えたわけではなかったが、そのために弟の居場所をなくすことなどできなかった。

 

 

 

初華は兄弟の話が終わるのを待ってから、巌勝の方へ小指を差し出した。もう片方の手には凧を抱えていた。

 

 

 

「じゃあ約束。独楽もするし、手合わせもする。花を見に行くのもね」

 

 

 

巌勝は独楽を懐の奥へ押し込み、手を伸ばした。

 

 

 

「忘れぬ」

 

 

 

「私も」

 

 

 

小指がしばらく絡み、それから離れた。初華は手を引きながら小さく笑った。巌勝も、その約束が気に入ったように頷いた。

 

 

 

縁壱が前の道を見ながら言った。

 

 

 

「あの木の下を過ぎれば、少し道が広くなります」

 

 

 

初華は礼を言い、先に道幅を確かめた。凧を斜めに傾けなくても通れそうだった。巌勝は弟が教えてくれた木を見上げ、ふと、その下へまとまって生えている小さな葉を見つけた。

 

 

 

「あれも薬草なのか?」

 

 

 

初華は、彼が指した方へ目を向けた。

 

 

 

「あれは、お母さんに聞かないと分からないな。似た葉っぱが多いから、勝手に採ってくるなって言われてるの。今日探してたのは、あんなに丸くないよ」

 

 

 

「私は、お前がこの山の草を全部知っているのかと思っていた」

 

 

 

「私が全部知ってるわけじゃないよ。花が咲けば分かるものもあるけど、葉っぱだけだと迷うの。お母さんは、花がない時でも見分けられないといけないって言うけど」

 

 

 

彼女は薬草袋を軽く押してみた。探しに来たものは、まだ十分に集められていないようだった。巌勝がもう少し採らなくてよいのかと尋ねると、初華は首を横へ振った。

 

 

 

「今日はもう帰らないと。今度お母さんと一緒に来ればいいから。よく分からないものを持って帰るより、その方がいいでしょう」

 

 

 

「お前の母上が、一緒に歩きながら教えてくださるのだな」

 

 

 

「うん。私、つい花を見て違う方へ行っちゃうから、呼ばれることも多いよ。待ってあげるから、どこへ行くのか言ってから行きなさいって」

 

 

 

「どんな花が好きなのだ?」

 

 

 

「小さな青い花が好き。すごく近くまで行かないと、よく見えないような花。一度見つけると、次の日も見に行きたくなるの。もっと咲いたかなって思うから」

 

 

 

初華は山の尾根の下を指差した。日当たりのよい場所から先に咲き始めるのだという。

 

 

 

「今度、見せてくれぬか? 名前まで知らなくともよい。お前がよく見に行く場所なら、それでよい」

 

 

 

初華が振り返った。

 

 

 

「本当に? 花だけ見ながら歩いても、退屈しない?」

 

 

 

「お前が何を見て、あのように足を止めるのか、私も知ってみたい」

 

 

 

言い終えてから、巌勝は自分の言葉がどう聞こえたかを考えた。初華はしばらく彼を見つめ、いつもより小さな声で答えた。

 

 

 

「じゃあ、見せてあげる。遠くまで行かなくてもあるよ」

 

 

 

彼女はまた前を向いた。二人の足音の間で、凧の尾が衣の裾へ触れた。

 

 

 

「その代わり、あなたも一つ教えて」

 

 

 

初華が言った。

 

 

 

「何をだ?」

 

 

 

「巌勝が好きなもの。独楽とか凧以外に、何かないの? 稽古をしない時は何をしてる?」

 

 

 

巌勝は少し考えた。毎日している勉強から答えかけて、『何が好きか』と聞かれたことを思い出した。

 

 

 

「字を書くのは嫌いではない。墨を磨り、紙を広げていると心が静かになる。一画でも歪むと、直そうとして長くかかってしまうが」

 

 

 

「じゃあ、心が静かにならない日もあるんだね」

 

 

 

「……そうだな。考えてみれば、そういう日も多かった」

 

 

 

巌勝は笑った。どれほど身につけたかではなく、している間にどんな気持ちになるのかを話すことは初めてだった。

 

 

 

「読むものの中には、山や水辺について書かれたものもある。水辺の景色を記した文を読むと、一度行ってみたいと思うことがある」

 

 

 

「どこにある水辺なの?」

 

 

 

「遠くの場所もあるし、正確にどこなのか分からぬものもある。その文を書いた人が見ていた景色を、想像してみるのだ」

 

 

 

「じゃあ今度、一つ読んで聞かせて。その人が見た花も出てくる?」

 

 

 

「そのような文も探してみよう。ただ、お前が知っている花と同じかは分からぬが」

 

 

 

「違ってもいいよ。お父さんが故郷の山の話をしてくれる時も、知らない花が出てくるけど面白いもの。聞いたら、今度似た花を探して見せてくれるって言うし」

 

 

 

巌勝は、次に読んで聞かせる文章を思い浮かべた。意味を覚えるためだけに暗唱した文を、もう一度開いてみたくなった。

 

 

 

縁壱が二人を交互に見てから、慎重に口を開いた。

 

 

 

「花が咲くところには、小川もありますか?」

 

 

 

「うん。丘の下にあるよ。石が多いから、すぐ近くまで行く時は気をつけないといけないけど」

 

 

 

「私は、水の音も聞いてみたいです」

 

 

 

巌勝は弟を見下ろした。許可を求める前に、自分がしたいことを口にしていた。縁壱は言い終えた後、兄の目を確かめはしたが、すぐに間違ったことを言ったかのように頭を下げたりはしなかった。

 

 

 

「それなら、小川の方へも行ってみよう」

 

 

 

「はい」

 

 

 

初華が丘の下へ下りる道を教えた。三人は天気のよい日に一緒に行くことにした。その頃には、縁壱の腕も治っているだろう。

 

 

 

「花の名が分かったら、書き留めておくのもよいな」

 

 

 

巌勝が独り言のように呟くと、初華がすぐ振り返った。

 

 

 

「どこで見たのかも書いてね。後でまた見たくなった時、どこへ行けばいいか分かるでしょう」

 

 

 

「そうしよう。姿まで描いておけば、なおよいのだが、私は絵はあまり得意ではない」

 

 

 

「私も上手じゃないよ。でも私が描く。あなたが字を書いて」

 

 

 

まだ紙一枚広げてもいないのに、もう役割が決まった。巌勝が頷くと、初華は急に慎重な顔をした。

 

 

 

「でも、変に描けたからって、すぐ描き直せとは言わないでね。私、花びらがいつも違う方向へ傾いちゃうの」

 

 

 

「どれほど傾くというのだ?」

 

 

 

「絵を見たら分かるよ。お父さんには、風が強い日に描いたのかって言われた」

 

 

 

巌勝は吹き出した。初華は、やはり笑うと思ったというように唇を尖らせ、それから一緒に笑った。縁壱も兄の顔を見上げながら笑った。巌勝はどうにか笑いを収めて答えた。

 

 

 

「それなら、『風に揺れる花』と書いておこう」

 

 

 

「本当にそう書いたら駄目だからね」

 

 

 

「ならば先に、お前が何の花を描いたのか聞くことにしよう」

 

 

 

「うん。形が少しくらい違っても、何の花かは説明できるから」

 

 

 

「縁壱は、何を描いてみたい?」

 

 

 

弟は少し考えた。

 

 

 

「小川にある石を描いてもよいでしょうか?」

 

 

 

「もちろん。私が花を描いて、縁壱が石を描けば、小川の景色になるね」

 

 

 

巌勝は、その横へ場所と名前を書こうと言った。縁壱は二人の話を聞き、頷いた。

 

 

 

絵の話を続けているうちに、屋敷の塀が木々の間から少しずつ見えるようになった。初華の家へ向かう道は、その下の分かれ道から横へ曲がっていた。三人はそこへ着いて初めて、並んで歩いていた足を止めた。

 

 

 

「もうここなんだ」

 

 

 

初華は下りてきた道を少し振り返った。話しながら歩くと、一人で通る時とは違って感じられた。巌勝も次の言葉を口にしかけ、彼女が帰らなければならないことを思い出した。

 

 

 

「ここから、そちらへ行けばよいのか?」

 

 

 

「うん。少し行けば、うちだから」

 

 

 

縁壱が、木々の上から差す陽光を見上げた。

 

 

 

「日がずいぶん傾きました」

 

 

 

初華はそこでようやく西を見て、薬草袋を結び直した。両親と共に屋敷を訪ねる約束は、酉の刻の初め頃だった。戻って身なりも整え、集めてきた薬草を母へ見せなければならない。

 

 

 

「もう本当に帰らなきゃ。お母さん、門の前で待ってるかもしれない」

 

 

 

「遅くまで引き止めてしまったな」

 

 

 

「私が一緒に行きたいって言ったんでしょう。あなたも縁壱と、すぐ医師のところへ行ってね。今夜会ったら、どうだったか教えて」

 

 

 

「分かった」

 

 

 

初華が凧を返した。巌勝は一度弟の手を離し、凧を受け取った。独楽は懐へきちんと収まっていた。

 

 

 

夕方になればまた会えると分かっているのに、別れの言葉がなかなか出てこなかった。初華も袋の紐へ手を置いたまま、少し躊躇した。

 

 

 

「巌勝」

 

 

 

「どうした?」

 

 

 

「今日、会えてよかった。最初は縁壱を助けて、そのまま帰るつもりだったけど……一緒に遊んだら楽しかった」

 

 

 

巌勝は彼女を見てから、ゆっくり頷いた。

 

 

 

「私も楽しかった。分かれ道まで一緒に来てくれて、ありがとう」

 

 

 

彼が笑うと、初華もつられて笑った。

 

 

 

縁壱が初華へ頭を下げた。

 

 

 

「私も、お姉さんと一緒にいられて嬉しかったです。今夜またお会いしましょう」

 

 

 

「うん。縁壱も、気をつけて行ってきてね。痛いところは、全部お医者様へ話すんだよ」

 

 

 

「そういたします」

 

 

 

初華はもう一度、巌勝を見た。

 

 

 

「さっきの約束、忘れちゃ駄目だよ。独楽も、手合わせも。花を見に行くことも」

 

 

 

「覚えている。絵に使う紙も用意しておこう」

 

 

 

「それはゆっくりでいいよ。今夜、全部持ってくるつもりじゃないよね?」

 

 

 

「そこまで急ぎはせぬ」

 

 

 

答えはきっぱりしていたが、巌勝はすでに、絵に使えそうな紙がどれほど残っていたかを数え始めていた。初華はそれ以上からかわず、手を上げた。

 

 

 

「じゃあ、今夜ね」

 

 

 

「ああ。気をつけて帰れ」

 

 

 

初華は自分の家へ続く道を歩いていった。最初の数歩は速かったが、すぐに振り返った。巌勝はまだそこから見ていた。彼女が笑って手を振ると、彼も凧を抱えた腕を避け、空いている手を少し上げた。

 

 

 

曲がった道の向こうへ少女が消えるまで、長くはかからなかった。巌勝はもう足音が聞こえなくなると、弟へ身体を向けた。縁壱は兄を見ながら、小さく笑っていた。

 

 

 

「今夜、またいらっしゃると仰っていました」

 

 

 

「分かっている」

 

 

 

巌勝は短く答え、咳払いをした。弟へ差し出した手を、縁壱がもう一度握った。

 

 

 

「さあ、我々は医師のところへ行こう」

 

 

 

兄弟は、屋敷へ続く残りの道を歩いた。巌勝は弟の歩幅に合わせて足を進めた。夕方にまた会ったら、まず医師から聞いたことを伝えなければならない。

 

 

 

その後は深雪と祈鉉へ礼を述べ、母にも今日あったことを落ち着いて話したかった。

 

 

 

考えることはいくつもあるのに、少し前の少女の笑顔ばかりが先に浮かんだ。

 

 

 

ほんの少しすれば、また会える相手だった。

 

 

 

それが分かっているのに、もう会いたくなっていた。





───

【後書き】

最近は仕事が忙しく、なかなか執筆の時間を取れなかったため、第5話をようやく投稿することになりました。

これからは、巌勝と初華を結ぶ縁や奇縁についての物語を、少しずつ紐解いていこうと思っています。

初華を選んだ十三柱の神々にまつわる物語や、太陽と月の縁――そして、そこに絡み合う愛憎についても描いていく予定です。

いつも読んでくださっている読者の皆様、本当にありがとうございます。

あ、それから設定集の内容についてですが、現在は意図的に非公開にしています。

「すべて読もうとすると、読者側の負担がかなり大きくなってしまうのではないか」という、ある読者の方からのご意見をいただいたこともあり、

pixivではマイピク限定にし、ハーメルンでは本編とは別に設定集を作り、そちらへ封印してあります。

pixivではマイピクになっていただければ一応読むことはできますが……何しろ設定集にはかなり多くのネタバレが含まれているため、むしろ読まずに本編を楽しんでいただいたほうがいいのではないか、と私自身も思うよう。になりました。

ともあれ…………今回はこの辺りで筆を置こうと思います

皆様に、いつも幸せで、笑顔になれる日々が訪れることを願っています。

【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!

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