誰かを守ることさえできれば……(鬼滅の刃:互いの決意) 作:つねお あきら
門をくぐると、まず焼き魚の匂いが鼻先に届いた。
台所では水桶を抱えた使用人たちが忙しく行き交い、蔵にしまってあった漆塗りの膳まで長屋の外へ運び出されていた。巌勝は持ち帰った凧と独楽を使用人に預けると、弟の手を握り直した。
「医師はどこにいる?」
出迎えた使用人の目が、縁壱の腫れた頬で止まった。
「奥の部屋で奥方様のお薬を診ておられます。すぐにお呼びいたします」
「こちらから行く。清い水と布を持ってこい。……父上には、縁壱が怪我をして戻ったと伝えておけ」
縁壱が、繋いだ手を少し引いた。
「母上が驚かれませんか」
「先に傷を診てもらってから話そう。兄が一緒にいる」
敷居の前で弟の足が遅くなった。巌勝も立ち止まる。家まで歩いて来られたからといって、身体が平気なわけではない。腕を支える布が揺れるたび、縁壱が唇を引き結ぶのが見えた。
「ここからは背負おう」
今度は弟も遠慮しなかった。巌勝が背を向けると、使用人が怪我をした腕を圧迫しないよう手を貸した。背中に触れた身体は軽かったが、数歩進むあいだにも、弟が息を整える音だけは妙に近く聞こえた。
医師は二人の子供を見るなり、薬草の包みを先に閉じた。巌勝が事情を説明するあいだ、縁壱を明るい場所へ座らせ、痛むところを尋ねる。縁壱は、目眩や吐き気はないが、腕と頬が痛むと答えた。
襟の下から覗く痣を見て、巌勝の手が強張った。
「若君。少し手の力を抜いてくださいませ」
そこで初めて、弟の手を強く握りすぎていたことに気づいた。
「……すまない」
指を緩めると、縁壱は兄の掌へもう一度、自分の手を重ねた。
「離してほしいという意味ではありません」
「そうか。離さぬ」
今度は力を込めなかった。医師が腕を診ているあいだも隣に座り、弟が水を欲しがると杯を近づけた。
診察を終えた医師は、骨が明らかにずれている様子はないものの、経過を見る必要があると言った。頭を打っているので今夜も様子を見て、急にぐったりしたり痛みが強くなったりしたら、すぐ呼ぶよう念を押した。
「しばらくは、腕に力をかける遊びはお休みになってください」
縁壱の視線が、使用人が戸口に置いた凧と独楽へ向かった。
「独楽も駄目ですか」
「今日は休んでください」
少年の肩が落ちた。縁壱にとって今日は、殴られて帰ってきた日であると同時に、一緒に独楽を回してくれる友達ができた日でもあった。
巌勝は身を屈めた。
「治ったらまた持って出よう。初華にも、夕方会ったら伝えておく」
「遊べないという意味ではないと、言ってください」
「そう伝えよう」
医師が傷を洗い、新しい布を当てた。着替えが届くと、巌勝は弟の袖が怪我した場所へ触れないよう手伝った。そのとき戸外の使用人が、手当てが済んだら書院へ来るようにとの言葉を伝えた。
縁壱は兄について行くと言った。
「私が見たことも、お話ししなければなりませんから」
「……つらければ、すぐ言うのだぞ」
医師も、長く座らせないようにと念を押した。巌勝はその言葉も伝えるよう言いつけてから、弟の襟元を整えた。
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マサトシの前には文書が広げられていた。
彼は長男の後ろから入ってきた縁壱を見ると、筆を置いた。清潔な衣へ着替えていても、顔の腫れは隠しきれない。
「座れ。誰がやった」
「森道までついてきた子供たちです。何人もで石を投げ、殴りました。縁壱が倒れたあともやめませんでした」
「……名は?」
「全員は分かりません。顔立ちと、互いに呼び合っていた名は縁壱が覚えています。市で見た者もいるはずです」
「お前はどこにいた」
「稽古を終えて戻る途中でした。私が着く前に、常善初華という子が止めてくれました」
マサトシの眉が動いた。
「常善? 祈鉉殿の娘か」
「はい」
父は次男を直接見た。
「その子がお前を連れ出したのか」
「はい。前に立ってくださいました」
「お前から先に喧嘩を売ったのではないな?」
「一緒に遊んでもよいかと聞きました。嫌だと言われたので、別の場所へ行きました。ですが、ついてきました」
縁壱は答え終えると目を伏せた。巌勝が言葉を継いだ。
「あの子たちが弟に何を言ったのかも、お聞きください。家からも捨てられた子だと。呪われた子だとも言いました。大人から聞いた言葉だとも」
マサトシの顎が固くなった。戸口の使用人も目を伏せる。屋敷の中ですら似た言葉を聞いていた子供が、今、二人の前に座っている。
「その家々を調べさせる。親を呼んで問い質せばよい」
「その後は?」
「どういう意味だ」
「縁壱がまたあの子たちに会ったら、誰に助けを求めればよいのですか」
マサトシは長男を正面から見た。
「では、子供同士のことで兵を出し、家々を罰せよと申すのか」
「そのようなことは申しておりません。事実を確かめ、悪かった子供たちには謝らせてください。
大人たちにも、そのような言葉を教えぬよう言ってください。そして、弟が助けを求めたとき、応じてくれる者が必要です」
「家の名にかけて注意すると言ったではないか」
「親たちへ注意していただいても、弟がすぐ安心できるとは思いません。屋敷へ戻って助けを求めたとき、使用人たちも目を背けないようにしてください」
巌勝の声が低くなった。縁壱が怪我した腕の位置を直すと、彼は言葉を止め、布が緩んでいないか確かめた。
マサトシの目も、その腕へ落ちた。
戸口の使用人が医師の言いつけをもう一度伝えた。マサトシはしばらく唇を閉ざしてから命じた。
「市と森道にいた者を調べろ。名が分かったら、明日その親へ人を遣わせ。確かめもせず、罪のない家まで巻き込むな」
「はっ、当主様」
「非が確かなら、子供たち本人に謝らせろ。同じことが繰り返されれば、今度は今回のような問い質しだけでは済ませぬとも伝えよ」
彼は一度言葉を切り、さらに付け加えた。
「門番と外回りを任せている者たちへも言っておけ。縁壱が追われていたり、助けを求めてきたりしたら、まず中へ入れろ。奥向きにも知らせておけ」
巌勝は父を見た。その命令が本当に守られるかも、確かめなければならない。
「ありがとうございます。どのように処置されたのか、私にもお知らせください」
「当主の仕事を、お前が確かめるというのか」
「弟へ説明するためです」
マサトシは長男を見つめ、それから視線を外した。
「……分かった。もうすぐ客人が来る。お前たちも迎える支度をしろ」
「そのことは今日、初華から聞きました」
少し緩んでいた空気が、また張り詰めた。
「伝えるつもりだった」
「私たちも同席させるおつもりだったのなら、先に知らせていただきたかったです」
「お前に報告せねば招けぬわけでもあるまい」
「招くなと申しているのではありません。私たちの帰りが遅かったら、どうなさったのですか。父上が大変な目に遭われたという話も、私は他人から先に聞きました」
マサトシは筆のそばに置いていた手を引いた。
三日前、山を下りながら息子へ何を話すか考えなかったわけではない。だが、怪我人と捕らえた賊、片づけねばならない事柄が待っていた。
長男の部屋の前まで行き、引き返したこともあった。結局、その言葉を口にすることはなかった。
「今日、話そうとしていたところだ。まず客人を迎えるのが筋だろう」
巌勝はさらに言おうとして弟を見た。この場で父が隠している胸の内まで引き出そうとすれば、縁壱を長く待たせることになる。
「その話は、あとで改めていたします。今日いらっしゃる方々の前で、気まずい様子を見せたくはありません」
マサトシは文書を閉じ、立ち上がった。
「お前の母には先に伝えた。少しの間でも席に出ると言っている。行って挨拶してこい」
「医師にはお尋ねになりましたか」
「……長く座らせるなとは言われた。隣の部屋も空けてある」
巌勝はそれ以上問わず、頭を下げた。
戸を開けたとき、父が次男を呼んだ。
「縁壱。今日は腕に力を入れるな」
「……はい、父上」
短い返事のあと、戸が閉じた。廊下を数歩進んでから、ようやく縁壱が兄を見上げた。
「父上にも、痛いと申し上げてよいのでしょうか。明日も痛かったら」
巌勝は足を止めた。
「よい。明日まで待たずともよい。今でも、食事の途中でも言いなさい」
弟が頷くと、巌勝はもう一度手を差し出した。
アケノは子供たちの足音を聞き、戸口へ顔を向けた。
いつもの寝間着の上に、きちんとした上衣を羽織っていた。髪を整えていた侍女が一歩脇へ下がる。肩の後ろには身体を支える布が重ねられ、動かない左腕は衣の中へ楽に収められていた。
「帰ってきたのね」
微笑みは、縁壱の顔を見た瞬間に消えた。
アケノの右手が膝から離れた。縁壱は敷居を越えかけて歩みを緩める。巌勝は弟を前に立たせ、一人で説明させはしなかった。
「先に医師のところへ行ってまいりました。傷を洗い、腕も診てもらいました。今夜はさらに様子を見たほうがよいとのことです」
アケノは黙って手を差し出した。
縁壱が近づき膝元へ座ると、その手が怪我をしていないほうの頬を包んだ。傷に触れまいとする指先が、ほんの一瞬震えた。縁壱はその手へ顔を寄せたまま、小さな声で言った。
「一人で独楽を回していました」
「それで怪我をしたの?」
少年は頷いた。
「次からは……」
その先がすぐには出てこなかった。巌勝は弟が何を言おうとしているのか察したが、代わりに答えなかった。アケノが子供の頭を静かに撫でた。
「外へ出ないなんて言わなくていいのよ。遊びたかったことは、あなたの悪いことではないわ」
縁壱の瞼がゆっくり動いた。
「母上が心配なさると思いました」
「そうね。今だって心配しているわ。だから、どこが痛いのか聞かせてちょうだい。一人で我慢したら、母はもっと遅く知ることになるでしょう……」
心配する母の言葉に、縁壱は先ほど医師へ話したことをもう一度伝えた。腕が痛むこと、頬もひりひりすること、歩くと衣が擦れて肩が痛むこと。
アケノは、その一つ一つを聞いた。
巌勝も隣に座った。母が弟の言葉を落ち着いて受け止めてくれると、書院にいた頃から強張っていた肩が少し緩んだ。
「助けてくれた子がいると聞いたわ」
「初華お姉さんです」
今度は縁壱の返事が早かった。巌勝は、父が門番と使用人たちへ、弟の助けを求める声を無視しないよう命じたことも母へ伝えた。
「その子が今夜来るお客様なの?」
「はい。父上と母上と一緒に来ると言っていました」
縁壱は、初華がどのように自分を庇ってくれたかを説明した。自分が倒れていた場所まで入ってきて前に立ったという話になると、アケノの手が子供の肩の上で止まった。
続いて、一緒に独楽を回し、兄もそこにいたという話が出ると、彼女は巌勝を見た。
「あなたも一緒に遊んだのね」
「……少しだけ、ご一緒しました」
「凧も揚げました」
縁壱が付け加えた。
巌勝は弟を振り返った。縁壱は抜けていたことをさらに思い出そうとするようだったが、静かに口を閉じた。
アケノの口元がほんの少し上がった。
「どんな子なのか、気になるわね」
「母上が長く座っておられるのは難しいだろうと話してあります。お楽なときにご挨拶したいと言っていました」
「私が出ると言ったのが気になるの?」
アケノの問いに、巌勝はすぐ「いいえ」とは言えなかった。
アケノは息子のためらいを見ると、手を差し出した。巌勝がそばへ座ると、彼女は手の甲を二度、軽く叩いた。
「つらくなったら戻って休むことにしたの。医師にもそう話したわ。今日は私も、あなたたちと一緒にお客様に会いたいのよ」
「分かりました。そばにおります」
「そばに座って、あなたもご飯を食べなさい」
巌勝が返事をしないので、アケノは侍女を見た。
「若君が今夜も自分の膳は放っておいて、ほかの人ばかり気にしていたら、私に知らせてちょうだい」
侍女が笑いを堪えながら頭を下げた。
「はい、奥方様」
「……母上」
「どうしたの~。医師の言うことはきちんと聞きなさいって、あなたがいつも言っているでしょう?」
反論の言葉がなかった。
縁壱が小さく笑った。巌勝は弟の笑い声に、それ以上言葉を続けられず頭を下げた。医師のところから戻って以来、初めて聞く安らかな笑いだった。
侍女がアケノの襟元を最後に整えているあいだ、巌勝は室内を見回した。
水杯と薬の器、身体を移すときに必要な支えまで、すでに用意されていた。巌勝は水杯へ手を伸ばしかけ、引っ込めた。中にはもう温かな湯が満たされていた。
そのとき、戸外から客人が正門へ到着したとの知らせが入った。
アケノは二人に先へ行くよう言った。侍女と一緒にゆっくり出ると聞いて、ようやく巌勝は立ち上がった。
廊下の端では、マサトシが待っていた。
彼は息子たちへ特に声をかけなかった。ただ、縁壱が階段を下りるあいだは歩みを止め、三人が並んで庭へ入ると、また前へ進んだ。
正門の向こうに三人の姿が見えた。
最初に目へ入ったのは初華だった。森で着ていた服より少し整った装いで、乱れていた髪もきれいに整えられている。二本の木剣の代わりに、小さな包みを抱えていた。
巌勝を見つけた少女は手を上げかけて止めた。両親とともに挨拶へ来たことを、遅れて思い出したらしい。抱えた包みを持ち直し、つま先を揃えた。
その後ろで、祈鉉が頭を下げた。
「お招きいただき、ありがとうございます。お聞きした刻限に合わせて参りました」
「よく来てくださった。お待ちしていた」
マサトシの声は、書院で聞いたものとは違っていた。巌勝はその差に気づいたが、顔には出さなかった。
祈鉉は近くで見ると、さらに大柄な男だった。歩いても身体はぶれず、腰の刀も揺れない。巌勝が姿勢を見ていると、男の視線もこちらへ向いた。
「こちらが長男の巌勝。そして次男の縁壱だ」
巌勝は礼を尽くして頭を下げた。
「父上と兵たちを救ってくださったと聞きました。直接お礼を申し上げたかったのです」
「ご無事にお戻りになられ、私どもも何よりと存じます。若君のお話は、お父上から伺っております」
巌勝は、男が自分にまで丁寧に頭を下げる様子を見た。大きな肩が下がると、腰の刀も静かに傾いた。
「祈鉉先生。私には、もう少し気楽に話してくださって構いません」
「そういうわけには参りません。この家の若君でいらっしゃるのですから」
「『論語』には、人にして仁ならずんば、礼を如何せん、とあります」
祈鉉の目が少年へ留まった。巌勝は一息置いて言葉を続けた。
「礼を軽んじてよいという意味で申し上げているのではありません。ただ、父上を救ってくださった年長者をお招きしておきながら、まず私の身分を前へ出したくはないのです。
お礼を申し上げに出てきたのに、先生が私に気を遣われては……かえって私のほうが恐縮いたします」
巌勝は父の意向もうかがった。
「祈鉉殿は、私が大切にお迎えした客人だ。子供が先に頼んだのだ、そうしてやってくだされ」
マサトシは、長男が引用した言葉については何も付け足さなかった。代わりに祈鉉が視線を向けると、短く頷いた。
巌勝がもう一度言った。
「初華に話されるように、私にも話していただければ嬉しいです。私が知らぬことがあれば、教えてください」
祈鉉はしばらく少年を見つめ、笑った。
「幼いのに、言葉の意味をきれいに汲み取るものだな。気持ちは分かった。頼みを受けよう。私も娘の友達へ挨拶に来たのだから」
「ありがとうございます」
「ただし、知らぬことを教えてくれと言ったのだから、間違えれば耳の痛いことも言うぞ。そのときになって、敬語をやめてくれなどと言わなければよかったと後悔せぬか?」
「私に非があるなら、聞きます」
「その答えも覚えておこう」
祈鉉の語尾には笑みが残った。巌勝も口元を少し緩める。祈鉉は膝を折り、二人の子供と目線の高さを合わせた。
祈鉉は縁壱へも視線を移した。
「縁壱、お前にもこんなふうに話して構わないか?」
「はい、先生」
縁壱が小さく頷いた。祈鉉は腫れた頬を見ても、子供の前で驚きの声を上げなかった。
「初華から聞いた。医師には診てもらったか?」
「医師が傷を診た。今夜もさらに様子を見ることになっている。詳しい話は中でしよう」
マサトシが奥を示した。
深雪は縁壱へ向けて少し身を屈めた。
「歩くのは大丈夫?」
「はい。ゆっくりなら歩けます」
「では、私たちもゆっくり行きましょう」
彼女が歩調を合わせると、縁壱も急がなかった。巌勝は弟の隣へ立とうとして、初華と目が合った。
少女は大人たちから少し離れてから、声を潜めて尋ねた。
「ひどく怪我したって?」
「今夜も様子を見たほうがいいと言われた。腕もしばらく休ませねばならない」
「独楽は?」
「今日は駄目だそうだ」
初華が縁壱の顔を見た。少年は、姉のような少女が何を言うのか待つ目をしていた。
「じゃあ、治ったらまたやろう! お姉さんは逃げないから!」
縁壱の口元が緩んだ。
「私が治る前に、お二人で先に遊んでも構いません」
「じゃあ、少し練習しておこうかな? 治ったら見せてあげる! 今度はもっと長く回すんだから」
「もう、お姉さんも上手に巻けます」
「あなたがゆっくり教えてくれたからだよ! 次は石のないところでやろう。さっき巌勝が回した独楽、石に引っかかったでしょう」
思いがけず自分へ返ってきた言葉に、巌勝は少女を見た。
「そうだな。まず地面を見たほうがよい」
「私も一緒に見る。三人で選べばすぐ終わるよね?」
初華は軽やかに足を運んだ。門でつま先を揃えて立っていたときとは違い、話を聞くうち歩みが遅れると、すぐ二人のそばへ追いついてくる。
「その包みは何だ?」
「母上が用意した薬草。こちらのお医者様に渡すんだって」
「重くないか?」
「これくらい軽いよ。木剣だって二本ずつ持って歩いてるんだから!」
巌勝が手を差し出しかけると、少女は笑った。
「私が持っていく! 母上が私に任せてくださったんだもの」
「……そうか」
先を歩いていた深雪が振り返った。娘の表情を確かめると、祈鉉の袖へ触れる。二人の視線が一瞬だけ交わった。
遠くにあった台所の匂いが、廊下の中ではさらに濃くなった。
マサトシは宴席の部屋の前で客人たちを一度止めた。中にはアケノが先に来ていた。二人の侍女が背と左側を支えて座らせると、静かに下がった。
アケノは祈鉉と深雪を見て頭を下げた。
「夫を無事に帰してくださり、ありがとうございます。私から直接ご挨拶に伺えなかったことが、ずっと心にかかっておりました」
「こうしてお目にかかれたのですから、十分でございます。ご無理をしてお出ましになったのではありませんか?」
深雪の問いに、アケノは微笑んだ。
「私が出たいと申したのです。今日は聞きたいお話がたくさんありますから」
彼女の目が初華へ移った。
少女は包みを母へ渡し、両手を揃えた。先ほど廊下で巌勝と話していた顔とは違い、今度は肩が少し上がっている。
「常善初華です。お招きいただき、ありがとうございます!」
「ええ。縁壱からあなたの話を聞いたわ。うちの子を助けてくれて、ありがとう」
「ただ見ていることができなかったんです」
用意して覚えてきた挨拶は、そこで尽きたらしい。初華は続く言葉を探しながら、アケノの右手を見た。その手が、こちらへ来るよう招いていた。
少女が膝を進めると、アケノはその手の甲へそっと手を重ねた。
「あなたは怪我をしなかった?」
「はい。私は大丈夫です」
「よかった。あなたも……怖かったでしょうに」
初華の目が大きくなった。自分の母と同じように、怪我したところや怖かったことを先に尋ねてくれる手に触れ、覚えてきた返事が出てこなかった。
少女は少し遅れて答えた。
「大きな石を持ち上げたときは……早く止めなきゃ、と思いました」
アケノの手に少し力が入った。
「……うちの子のそばにいてくれて、ありがとう。あなたも怪我をしなかったなんて、本当によかったわ」
初華はアケノの手を握り返した。先ほどより肩が下がっていた。
戸外から、支度が整ったとの知らせが入った。
マサトシは客人たちへ席を勧めた。
「まずは召し上がってくだされ! 今日は命の恩人を我が家へお迎えした席だ。あまり作法に縛られずに参ろう。杯を交わす礼だけ済ませ、料理は温かいうちにいただくとしよう!」
部屋の中には、一人ずつ座る場所が設けられていた。
席に沿って並ぶ膳のあいだには料理を運ぶための道が空けられ、客人側には脇膳をさらに置ける余地も残されている。障子戸の近くに座った子供たちからも、大人たちの顔が見えた。
アケノの席は隣室に近かった。身体を動かす邪魔にならないよう膳を少しずらし、背後には支えが用意されていた。巌勝がその席を確かめると、マサトシが顎で子供たちのほうを示した。
「お前はそこへ座れ。縁壱がお前の隣でよかろう」
障子を背にした一列へ、初華、巌勝、縁壱の順に座った。三人の膳も同じ向きへ並べられた。
少し顔を向ければ、真ん中の巌勝を挟んで互いの顔が見える。深雪とアケノはその向かいへ、祈鉉とマサトシは上座側へ座った。
初華は隣の巌勝を見てから、その向こうの縁壱へも小さく手を振った。縁壱は怪我をしていない手を膝から少し上げて応じた。
そのとき巌勝は、二人の視線を遮らぬよう、身体をわずかに後ろへ引いた。
最初の料理が運ばれてきた。
低い漆塗りの膳へ、白い器と木皿が一つずつ置かれた。長い柄の付いた酒器から、小さな盃へ酒が注がれる。
その脇には、薄く長く整えた打鮑と、殻を剥いた勝栗が載っていた。海藻も少し添えられている。
打鮑と勝栗だった。塩と梅干しを添えた皿は小さいが、すっきりと整っていた。
祈鉉は膳を見下ろしてから、マサトシを見た。
「ふむ……食事を一度、と伺っておりましたが」
「一度に違いない。二度分を並べたわけではないからな」
マサトシは平然と答えた。
深雪がわずかに頭を下げた。笑いを隠しているようだった。祈鉉は妻を見て、ため息のように息を吐いた。
「こうなると思ったから、あらかじめ辞退したのです」
「だからこそ、あらかじめ聞かせなかったのだ」
巌勝は盃を持つ父を見た。書院で自分と言い争っていた人物が、客人には気兼ねなく冗談を投げている。安堵しながらも、胸の片隅には苦いものが残った。
祈鉉が先に盃を両手で受けた。
「あの日、一緒におられた方々はいかがですか。山を下りるまで意識がはっきりしなかった者がおりました」
「目を覚ました。まだ起き上がれはせぬが、医師がそばで診ている」
深雪も少し姿勢を正した。
「水を飲み込むのに支障はないと聞いておられますか?」
「少しずつ飲んでいると聞いた。奥方が残してくださった言葉も、そのまま伝えた」
「それならよかったです。帰る前に必要なことがあれば、医師へお伝えしていきます」
マサトシは盃を持ったまま、しばらく目を伏せた。
「今日、家族まで同席させた理由がまさにそれだ。私だけがこの家へ帰れていたのなら、こうして気楽に盃を持つことなどできなかった」
部屋に残っていた笑いの気配が、静かに引いた。
「お二人は私の命と人々を返してくださった。私一人の礼だけでは足りぬゆえ、妻と息子たちにも一緒に挨拶させた。どうか今日は、気兼ねなく受け取ってくだされ」
祈鉉はもう辞退しなかった。
盃が上がった。マサトシと祈鉉が杯を空けるあいだ、子供たちの前には温かな湯の入った杯が置かれた。アケノも酒ではなく湯呑みを手にした。
祈鉉は鮑をゆっくり噛み、味を確かめた。塩味のあとに甘みが残ると言うと、マサトシの顔にも満足そうな色が浮かんだ。
初華は勝栗を見下ろし、母へ小さな声で尋ねた。
「これ、食べてもいいですか?」
「あなたの前に置かれているのだから、食べていいのよ。ただ硬いから、少しずつ食べなさい」
少女は栗を一つ手に取りかけて、また戻した。横目に縁壱の腫れた頬を見たからだった。
「あっ、縁壱! これは硬いんだって。あなたの分はあとにしよう。おいしいもの、また出てくるよ!」
縁壱は皿へ伸ばしていた手を引いた。巌勝は使用人へ、弟の分は柔らかいものを頼んだ。
次に、小皿へ盛った魚が運ばれてきた。
さばいたばかりの鯉の身を細く薄く引き、その脇に生姜と酢を別々に置いてある。葉の上の白身には瑞々しい艶があった。
「鯉を薄く引かせた。生姜と酢を添えて召し上がれ」
マサトシに勧められ、祈鉉はまず何も付けずに一切れ味わった。次には生姜と酢を少し添えた。
「……歯ごたえがよいですね」
「鯉を扱える者を呼んだ。むやみに多く切って乾かすなとも言いつけてある」
巌勝は、父が恩人のために腕のよい者までわざわざ呼んだのだと知った。
祈鉉は箸をしばらく置いた。
「三日間、お忙しかったでしょう」
「台所のほうが忙しかっただろう。私は、これもあるか、あれは手に入るかと聞いていただけだ」
「その問いが一番恐ろしかったでしょうね」
深雪が低い声で言った。
アケノが声を立てて笑った。
「今回は私も、台所で何が起きているか聞かされました。もう十分ではないかと言ったら、今日だけは口を挟まないでくれと言われまして」
「客人の前でそこまで言う必要はなかろう」
「お客様にも、何があったか知っていただかなくては」
とうとう祈鉉も笑った。その笑いで初華も緊張を解き、箸を取った。
少女は鯉の一切れへ酢をつけ、少し目を細めた。巌勝がそれを見ると、少女が声を落として言った。
「思ったよりいっぱい付いた」
「少しだけでよい」
「今わかった~」
初華は湯を一口飲んだ。巌勝は笑いそうになったところで、少女と目が合った。
「笑ったでしょう? 私、見たよ! 次はあなたが先に付けてみて。どれくらい付くのか見たい」
少女が笑い出すと、巌勝ももう堪えられなかった。魚の端へ酢をほんの少し付け、見せてやる。初華はその量をじっと見てから、今度は慎重に真似をした。
縁壱は自分用に頼んでもらった火を通した魚を待ちながら、二人を交互に見ていた。
三度目の酒を勧める頃、小さな器へわた煎りが運ばれてきた。鯉の内臓を酒と味噌で煮た料理だった。
生姜の香りの下に、濃く香ばしい匂いが染みている。マサトシは祈鉉へ勧めながら、自分も少し取った。
子供たちの膳へ同じものを無理に置くことはなかった。代わりに、温かく火を通した白身魚が小さな器へ盛られて出てきた。縁壱は箸で身をほぐそうとして、片腕へ力が入るのを感じ、止めた。
巌勝が器を押さえようとしたところ、給仕していた使用人が先に台を直した。
「若様、こちらへ置き直します」
縁壱は一瞬、その男を見た。
「ありがとうございます」
使用人は頭を下げて退いた。巌勝は手を引いた。父の命令はもう伝わっているらしい。
マサトシは子供たちのほうを見ないふりをしながら、盃を置いた。
「酒はこのくらいにしよう。子供たちの腹のほうが先に空いておるだろう」
その言葉で、待機していた者たちが本膳を運び込んだ。
蓋を開けると、白米から湯気が立った。雑穀を混ぜず、丁寧に搗いた米だった。均等に炊き上がった飯粒から甘い香りが立つ。
脇には、雉肉と大根を入れてじっくり煮た汁物が置かれた。柔らかく煮えた大根のあいだから肉が覗き、椀を持ち上げると香ばしい湯気が顔へ触れた。
別の器には、柔らかく煮た里芋と、繊維を残した牛蒡が並んでいた。
酢で和えた菜と漬物も添えられている。濃い料理のあいだで口を変えるものだった。
二の膳には、干したものを戻して柔らかく煮た鮑と、焼いた海老が置かれた。赤く焼けた海老の殻から香ばしい匂いがする。
最後に、鯛の焼き物が入った。
頭と尾を付けたままの鯛が、皿をほとんど埋めていた。運ぶため塩をしてあったので、さらに味を付けず焼いたという。きつね色の皮の下から、厚い身がほぐれている。
海老は塩で保存して運び、蛤は道中で遅れないよう専用の者を付けて持ってこさせたという。荷を受け取る日を合わせる手間も必要だった。
巌勝は本で見ていた土地の道筋を思い浮かべながら、膳の上の料理を一つずつ改めて見た。
祈鉉は三の膳まで運ばれてくるのを見て、とうとう両手を膝へ置いた。
「ご当主」
「なんだ」
「まだあるのですか?」
「少しある」
マサトシの返事は平然としていた。
すると初華が母を見て、深雪は娘へ笑いながら、ゆっくり食べなさいと言った。アケノは夫のほうへ顔を向けた。
「その『少し』がどれほどなのか、私も聞いておりません」
マサトシは聞こえなかったふりをして、祈鉉の皿を示した。
「冷めぬうちに召し上がれ。今日は形式より客人の口に合うかを先に見よと命じてある」
祈鉉は頭を下げた。
「では、ありがたく頂戴します」
今度は語尾に笑いが混じっていた。
巌勝は自分の前の膳を見下ろした。前世の幼い頃は、器を持つ手や箸を置く順番から意識していた。
父が同席する日は、噛む速さまで気にした。一度注意されたことは次の食事でも思い出し、料理がどんな味だったか覚えていないことすらあった。
今、目の前にある膳も十分に格式を備えていた。けれど隣では初華が何から食べるか悩んでおり、縁壱は雉汁から大根を一切れ選んで口に入れている。
「巌勝、大根が汁をいっぱい吸ってる。これ、おいしい!」
初華が小声で言った。巌勝は少女の箸先を見てから、自分の汁椀からも大根を一切れ探した。
「お前は何から食べた?」
「お汁から! 熱いから、ちょっと吹いて食べてね」
巌勝は飯椀を手にした。
温かな白米を口へ運び、ゆっくり噛む。添えた汁から肉の旨味が広がった。一口飲み込むと、忘れていた空腹が一気に押し寄せた。
初華は海老の殻を剥きながら、次は何を食べようか考えている顔をしていた。巌勝も自分の前の皿を見回した。
二口目の飯は、最初より多めに取った。
祈鉉は海老を味わったあと、温かな湯で口を湿らせた。そのあいだにマサトシが給仕の者へ目配せする。戸口に新しい皿が見えると、祈鉉の眉が上がった。
「先ほどおっしゃった『少し』が、今出てくるのですか?」
「料理が冷めてはならぬからな。まだ腹はいっぱいではあるまい?」
「腹より先に、目がいっぱいになりました」
マサトシは笑いながら皿を勧めた。雉肉を薄く引き、塩で味を付けて焼いたものだった。縁はきつね色に焼け、身の内側にはしっとりした脂が残っている。祈鉉は一切れ噛んで頷いた。
「よく焼けていますね。これほど薄いと、下手をすれば乾きやすいでしょうに」
「台所へ伝えれば喜ぶだろう。私が味見をしに行ったときは、まだ出せぬと言って戸の外へ追い出された」
「ご当主にもそのようなことができる者がいるのですか?」
「火の前にいるときは、私の言葉より自分の言葉を先に聞かせる者だ。おかげで今日は面目を保てておるのだろう」
祈鉉は声を抑えて笑った。マサトシはその笑いが収まるのを待ち、盃へ触れていた手を止めた。
「ところで、一つ聞きたかったことがある」
「どうぞ」
「あの日、あなたは倒れる賊まで受け止めた。頭を石へぶつけぬように。すぐ後ろから別の者が斬りかかっていたにもかかわらず」
祈鉉はしばらく考えてから頷いた。マサトシが言う瞬間を思い出したようだった。
「ご覧になっていたのですね」
「目の前で起きたことだからな。最初は、いったい何をしているのかと思った。その手を伸ばした瞬間に、あなたまで斬られるのではないかと」
マサトシは自分の掌を見下ろした。
「私は人を倒したら、まずそいつがまた立つかを見る。あなたは倒れる方向まで見ていた。いつもそう戦うのか?」
「いつもそうできればよいのですが、そうではありません。あの日は手を伸ばす余裕がありました」
「私には余裕には見えなかった」
「相手が刀を手放したのが見えました。後ろから来る者は、まだ足を運んでいる途中でした。その短いあいだならできると判断したのです」
マサトシは箸で取った肉を下ろし、尋ねた。
「刀を落としたからといって、また人を傷つける意思まで捨てたわけではあるまい」
「その通りです。ですから兵たちへ渡しました。私の後ろで受け取ってくれる者がいなければ、別の方法を取るしかなかったでしょう」
祈鉉はマサトシをまっすぐ見た。
「ご当主が怪我人をまとめ、人々を下げてくださった。おかげで、どちらを守るべきかがはっきりしました。私一人ですべてを止めたわけではありません」
マサトシの指が、箸の上で止まった。
マサトシは、目の前で止まった矢ばかりを何度も思い返していた。だが祈鉉は、その後ろで自分が出した指示まで覚えていた。
「もっと早く人をまとめるべきだった。前が詰まると後ろからも押してきた。互いに退けと叫び合い、どちらの声へ従えばよいかすら曖昧になった」
「道が狭かったのです。馬を返す場所もありませんでしたから」
「道のせいだけにはできぬ。私が前で動けぬから、後ろも止まった。誰が代わりに命令するか、あらかじめ決めておくべきだった」
祈鉉は軽々しく「違います」と慰めなかった。
マサトシは盃を持ち上げかけ、また置いた。
「怪我人の傷が治れば、まず刀を持たせ直そうと思っていた。今は順番を変えねばならぬ気がする」
「どのような順に?」
「先頭の者が倒れたとき、残った者がどこへ動くか。怪我人を運ぶあいだ、誰が後ろを見るか。まずそこから覚えさせねばなるまい。私も含めてな」
最後の言葉は小さかったが、祈鉉にははっきり聞こえた。
「その稽古は平素からしておくほうが役に立ちます。実際に誰かが倒れると、近くにいた者が皆そちらへ走ってしまうこともあります。同じ助けたい気持ちでも、互いに道を塞いでしまうのです」
「あなたにも、そういうことがあったのか?」
「ありました。私が先に走っていって、後から来た者とぶつかったこともあります。あとで妻に二人まとめて叱られました」
「あなたも叱られることがあるのか?」
「血を流している人を前にして、互いに自分が担ぐと言い張ったのです。妻から見れば、さぞもどかしかったでしょう」
少し離れた席で、深雪が顔を上げた。
「担架を持ってきてと言ったのに、二人とも手ぶらで戻ってきたんです。どちらが先に背負うか言い争って、私の言葉を聞いていなかったんですよ」
マサトシが吹き出した。祈鉉は言い訳せず、妻へ少し頭を下げた。
「今日はその話はしないつもりだったのだが」
「あなたが先に始めたんです」
祈鉉はそれ以上言い返せず、汁椀を持ち上げて口元を隠した。マサトシの笑いはしばらく止まらなかった。
笑いが収まってからも、マサトシは祈鉉を見ていた。山で見た武人の手で器を支えている姿が、改めて不思議に見えた。
「力が強ければ、人の手を借りることも少ないのだと思っていた」
「荷を一つ運ぶだけなら、そういうこともあるでしょう。ですが、私が前で持てば後ろは見えません。娘を背負い、籠まで持った日には、妻が私の草鞋の紐まで結んでくれます」
「その姿は少し見てみたいものだ」
「次は全部結んでからお伺いします」
祈鉉は笑いが引いてから、話を続けた。
「刀を教えるときも、一人でできることだけを覚えさせるわけではありません。私の身体が速いからといって、隣にいる者まで同じ速さで動けるわけではありませんから」
「娘御にも、そう教えておられるのか?」
「まだ一緒に歩くところからです。初華は、私がどこまでついて来ているか確かめず、先に登ってしまうことがあります。道を全部知っているような顔で戻ってきて、分かれ道ではどちらだったかと聞くのです」
初華が父のほうを見た。
「この前は戻ってきたもん!」
「そうだな。そのときは後ろを振り返った」
「父上の籠が枝に引っかかってたでしょう。自分じゃ取れないのかと思ったの」
「だから私を助けに戻ってきたのだな。よくやった」
初華は褒められて少し笑い、それからまた子供たちのほうへ身体を向けた。マサトシは少女をしばらく見てから、祈鉉へ言った。
「今日は、うちの次男を置いて背を向けることもしなかった。父御から学んだことが、身についているようだな」
「娘から話を聞きました。帰ってきてから、少し手が震えていました」
マサトシの顔から笑みが減った。
「怪我はなかったか?」
「ありませんでした。ただ、止められたからといって、驚かなかったわけではないでしょう」
「そうだろうな」
マサトシはもう一度、初華を呼んだ。少女は口の中のものを飲み込んでから、きちんと座り直した。
「縁壱を助けてくれてありがとう。お前が助けたことで、また嫌な目に遭わぬよう見ておく」
「ありがとうございます。縁壱も次には、一人で外に出て遊べるようになったらいいです」
マサトシは答える前に次男を見た。縁壱はその視線を受け、怪我をしていない手を膝の上へ置いた。
「まず怪我を治さねばな。その後のことも考えよう」
巌勝が顔を上げた。父は長男と目が合ったが、その言葉を取り消さなかった。
「今は食べろ。私が調べておく」
縁壱は小さく答え、また汁椀を持った。祈鉉もそのことをこれ以上は尋ねなかった。そのとき給仕していた者が、二人の男のあいだへ新しい椀を運んできた。
雁肉を入れて煮た熱い汁だった。
塩漬けにして保存した肉を水へ浸して塩気を抜き、じっくり煮たという。雉より濃い肉色が見え、汁の表面には脂が薄く浮いている。葱を添えて飲むと、濃い肉の味のあとにぴりりとした香りが残った。
「これまで用意されたのですね」
「この汁も味わってほしかった。旅をしていると、こうして熱いものをゆっくり食べるのも難しかろう」
「そうですね。日が落ちる前に峠を越えようとすれば、噛んでいるものまで包んで持って行かねばならぬことがあります」
「この辺りの道は、もう慣れたか?」
祈鉉は椀を置き、指で膝の上へ道を描くように動かした。
「大きな道はいくつか知っています。それでも雨が降れば、初めて来た者と変わりません。
渡れた瀬が塞がり、何でもなかった土道がえぐれますから。三日前のあの道でも、倒木のせいで馬を避けさせるのが難しかったでしょう」
「そこは人をやって切り払わせようと思っている。捕らえた者のうち、働ける者も送る」
「木を扱う者も一緒に送ってください。倒れた木でも、支えている枝が切れればまた転がることがあります。むやみに斧だけ持たせれば、また怪我人が出ます」
「逃げぬよう見張ることばかり考えていたな」
マサトシはしばらく考えた。
「山の下で炭を焼いている者たちへ聞いてみよう。あの辺りの木もよく知っているだろう。だが木を片づけても、次は別の場所を塞ぐこともあるのではないか?」
「あり得ます。ですから、道を行き来する者の話を頻繁に聞く必要があります。昨日まではなかった石積みができていないか、荷を下ろせと呼び止める見知らぬ者がいないか、といったことです」
「何も言わず通り過ぎる者も多い。下手に関わって捕まるのを嫌がるからな」
「私も道を尋ねに行って、誰の配下から来た者かと先に答えねばならなかったことがあります。ただ雨を避けられる場所を探していただけなのですが。そうなれば、口数は減るものです」
祈鉉の声は変わらなかった。しかしマサトシは汁椀を置いた。
「ここでも、そのような扱いを受けたのか?」
「最初は見知らぬ者でしたから。話し方も違いましたし、背負っているものが薬草なのか別の何かなのか、分からぬ人もいたでしょう」
「今はあなたを知る者も増えただろう」
「妻に治療してもらった人が、道を教えてくれることもあります。その中には、初めて会ったとき戸を閉じた家もあります」
「恨めしくはないのか?」
祈鉉はしばらく戸口を見た。使用人が空いた皿を受け取り、下がっていくところだった。
「子供が病気だと訪ねてきた顔を見ると、以前何を言われたかを問い質すより先に、妻が立ち上がります。
私はその後ろで必要なものを揃えます。だからといって、聞いた言葉を全部忘れたわけではありません」
「そうだろうな」
マサトシは短く答えた。祈鉉が汁を飲むあいだ、空になった自分の盃を見た。
「道を見て帰った者の話を、まず最後まで聞かせることにしよう。商人が来ても、品の値段だけ話して帰すのでは足りぬな」
彼は子供たちのほうへ目を向けた。
「巌勝。お前も聞いていたか?」
「はい、父上」
「近頃、帳面を見ると道の名がよく出てくるな。その道を何が行き来しているかも知っているか?」
巌勝は膳の上の蛤を見た。口を開いた殻の中で、身から湯気が立っていた。料理人は、殻を閉じたまま届いたものを選んでさばいたと言っていた。
「米や薪、塩などは見ました。今日この貝を運んできた者へも尋ねてみるとよいと思います。いつも往来している者なら、雨が降る前にどこから急ぐのかも知っているでしょう」
「明日はお前も一緒に聞け。帳面に書かれていることと、実際に行き来することがどう違うのかをな」
「分かりました」
巌勝は答えたあともしばらく父を見た。これまでは、本で覚えた答えを問われる席にばかり座らされていた。
祈鉉がその様子を見て微笑んだ。
「私にも知らぬ道が出たら教えてください。娘と歩いて迷ったと、小言を言われぬように」
「父上、私、いつ小言を言いました? 道が違うって言っただけでしょう!」
「正しいことでも三度聞けば、なかなか長く感じるものだよ」
初華が笑い出した。マサトシも一緒に笑った。子供たちの膳の汁が少しずつ減っていくあいだ、二人の男は今度は天気が悪い日に馬へどれだけ荷を分けて積むかを話した。
マサトシは道の名を挙げながら、さらにいくつか尋ねた。新しい酒の代わりに湯が足されても、二人の話は続いた。
アケノは部屋に笑いが残っているあいだ、右手で湯呑みを持った。隣に座る深雪が、その手を見た。侍女が手伝おうとしたが、アケノはゆっくり首を振った。
「これくらいは、自分でしたいのです」
「では、皿だけ少し動かしてもよろしいでしょうか。手を伸ばされたとき、袖が触れそうですので」
「お願いします」
深雪が小皿を横へ押した。湯を飲んだアケノは杯を置き、少し照れくさそうに笑った。
「頑固に無理ばかりする人に見えたでしょうね」
「私に頼むところは、きちんと頼んでくださったではありませんか。本当に意地だけ張っておられたなら、皿すら動かさせてくださらなかったでしょう」
「そう言っていただけて安心しました。長男が私に似ていると言われるたび、少し胸が痛むものですから」
深雪の視線が巌勝へ向いた。少年は、初華が海老の殻をどこから剥いたか説明するのを真剣に聞いていた。
「頑固なのですか?」
「自分がやると決めたことは、なかなか手放しません。幼い頃は、私が髪を整えているあいだにも読書の支度をしていました。本を遠くへ置けば、口で暗唱していましたし」
「今もそうなのでしょうね」
「最近は私の薬の器まで確認します。誰かが先に見てくれていても、自分でもう一度確かめなければ落ち着かない目をしています」
アケノは話しながら息子をちらりと見た。少年が母のほうを振り返る前に、目を逸らした。
「ありがたくないわけではありません。子供が優しく手を差し伸べてくれるのに受け取らなければ、きっと寂しがるでしょう。ただ、ときどき……私が眠ってから、ようやく自分のことを始めるのではないかと心配になります」
深雪はすぐには答えなかった。アケノが息を整えるあいだ、湯呑みを手の届くところへ置いた。
「今日初めて会った子なのに、弟さんを何度も確かめていました。食べながらでも、腕がつらくないか見ていましたよ」
「そうでしょうね。今日はとくにそうだと思います。自分がもっと早く行っていれば、と考えているでしょうから」
「奥方も、同じことを考えられましたか?」
アケノの手が杯のそばで止まった。
深雪はさらに声を落とした。
「もし娘が怪我をしていたら、私もそう考えると思ったのです。その時間に私がそばにいれば、と」
「……あの子が外へ出ると言ったとき、引き止めるべきだったのかと思いました。それから、目の前に座るあの子へ、外へ出たことが悪いわけではないと言ったのです」
アケノは小さく笑ったが、今度の笑いは嬉しさから出たものではなかった。
「子供へ言った言葉を、まず私自身が信じなければいけないのでしょうね。部屋の中だけにいれば怪我はしないでしょう。でも今日のように、友達と出会うこともなくなってしまう」
深雪は頷いた。
「初華が初めて一人で使いへ出たとき、私は曲がり角までついて行きました。どの家の戸が開くかまで見ていました。帰り道で見つかってしまいましたが」
「どうなったのです?」
「私を見るなり、母上も大根を買いに来たのか、と聞かれました。心配でついて来たと言うと、ずいぶん笑われました」
アケノは口元を隠した。
「うちの子なら、なぜ隠れていたのですか、と聞きそうです」
「そうだったら、もっと困ったでしょうね。初華が私の手を取って帰ってくれたので、言い訳も少なくて済みました。母上が道に迷ったらいけないから、と」
二人の小さな笑いが重なった。笑いが収まってからも、アケノは深雪の顔を見ていた。
「お嬢さんは、人へ手を差し出すことがとても自然なのですね。さっき私が近くへおいでと手招きしたときも、少し迷ってから、すぐ来てくれました」
「見知らぬ場所では緊張もします。今日こちらへ来る道中、挨拶を何度も言い直していました。練習しすぎると最初の一言を忘れそうだから、もうやめてよいと言ったほどです」
「私を怖がっていたのでしょうか?」
「怖いというより、巌勝のお母様へよく思われたかったようです」
深雪は言い終えると娘を見た。初華が縁壱へ何か尋ねようと、膳のほうへ身体を傾けている。真ん中の巌勝が少し後ろへ座り直すと、二人の子供の顔が互いに見えた。
「家でも今日は、あの子の話をたくさんしていました。名前を呼べば振り向いてくれて、自分が話しているあいだ最後まで聞いてくれた、と」
アケノは少し意外そうに深雪を見た。
「そんなことを話していたのですか」
「初華には、心に残ったようです」
深雪は少し言葉を選んだ。
「ほかの子と遊びたくて、自分から近づくことがあります。その子がいいよと言っても、一度家へ入ったきり、二度と出てこない日もあって。
帰ってくると、何か手伝うことがあるのだろう、と言います。それでも次の日には、その家のほうへ行こうとはしません」
アケノは、縁壱が一人で背を向けた姿を思い出した。何を言い添えればよいのか、すぐには思いつかなかった。
「そういうときは、何とおっしゃるのです?」
「まず話を聞きます。本当に用事があったのかもしれませんから。でも、娘が自分の話し方や顔のせいなのかと尋ねたら、聞こえぬふりはできません」
深雪の指が、自分の衣を軽く押さえた。
「友達になるために、あなたが先に別の子にならなくてはいけないわけではない、と言いました。でも、そう言ってやるだけで次の日が楽になるわけではありません」
「だから、今日はなおさら嬉しかったのですね」
「はい。あの子が帰ってきて、次にやりたいことをあれほどたくさん話したのは久しぶりでした」
アケノは子供たちを見た。
三人は、最初より近くに座っていた。誰が先に身を寄せたのかも分からないほど自然に。
「うちの長男は、友達を紹介されることには慣れています」
アケノが言った。
「でも帰ってきて、誰と何をしたのと聞くと、その家の名から話すことがあるのです。遊んでいて何がおかしかったかより、誰の息子だったかが先に残るのでしょうね」
「今日は違ったのでしょう」
「凧を揚げて、独楽も回したと言いました。長男は少し一緒にしただけだと言ったのですが、次男が一つずつ付け足してくれました」
アケノはまた笑った。
「あんなに縁壱の口数が増えたのも、久しぶりに見ました」
深雪は縁壱の器を見た。柔らかい大根が少しずつ減っている。少年は姉のような少女と兄の会話へすぐ割って入ることはなかったが、問いが自分へ向けば顔を上げた。
「口数は少なくても、聞けば必ず答えてくれました。初華がうるさいほど話しかけたでしょうに」
「ええ。私の前では、もう少し長く話します。ただ、人が多いといつ口を開けばよいのか見ているようでした」
「今日は初華が何度も話しかけてくれそうですね」
「はい。兄も何度も振り返ってくれていますし」
二人の母は、しばらく黙って子供たちを見た。巌勝が縁壱の低い声を聞き逃したのか、耳を寄せた。
初華も答えを急かさず待っていた。少し遅れて言葉を聞き取った巌勝が笑うと、すぐ三人の笑いが重なった。
何を話したのかは、ここまでは聞こえなかった。
アケノは何の話なの、と尋ねる代わりに、子供たちが笑う姿をもうしばらく眺めた。
「初華は、剣を習うのが好きなのですか?」
「好きですよ。父親が外へ出る支度をすると、自分も木剣を持ってきます。ただ、長く同じ姿勢を取れと言われると、日の光がどれだけ動いたか数え始めます」
「巌勝は逆です。もう一度やってもよいかと聞きます。それから身体が疲れていないか尋ねると、まだ大丈夫だと答えます」
「では、二人が一緒に習えば、お互いに不思議に思うでしょうね」
「そうなってくれればと思います。うちの子には、いつも上手くやらなければならないとばかり思ってほしくありません」
深雪が目を上げた。アケノは、自分の言葉の意味をゆっくり付け足した。
「誰かへ尋ねたり、上手くできなくても一緒に笑えたりしてほしい、という意味です。
少し前に筆を置く姿を見たのですが、指を何度も開いたり閉じたりしていました。
痛いのかと聞いたら、稽古が足りないからだと言ったのです」
「休まなくてよいとは、言わなかったのですか?」
「はい」
深雪はしばらく考えてから言った。
「初華は、父親よりできないと、自分が小さいからだと言います。
それがいつも正しい答えとは限りませんが、その次にはまたやってみると言うので、私は少し安心しています。
できなかったことを全部、自分のせいだとは思っていないようですから」
アケノはしばらく考え込んだ。
「その言葉を、うちの子にも聞かせたいものです」
「一緒に遊んでいれば、そのうち耳にするのではありませんか。うちの娘は、そういうことを隠せないので。ただ、うちへ遊びに来て、初華があまりに騒がしいと驚かれないか心配ですが」
「あの子が静かに座っているだけの子だったなら、巌勝は今日も凧を眺めているだけだったでしょう」
アケノが笑った。深雪もその言葉で安心したのか、娘を見る目が柔らかくなった。
しばらくして、彼女は祈鉉のいるほうを見ながら付け加えた。
「夫は娘へ剣を教えていても、どこかで転んだと聞けば、まず土を払ってやります。
そのあとで、足をどこへ置いたのかと聞くのです。私はときどき、まず服を全部洗わなければと思ってしまって、あとになってから怪我したところをもう一度見ることもあります。
二人でいるから、見落とさずに済むこともあるのでしょうね」
「私たちも、そうできればよいですね」
アケノの目が夫へ一瞬向いた。マサトシは祈鉉の話を聞きながら、掌で自分の膝を押さえ、身体を向ける方向を示していた。
「夫が今日、子供へ言ったことは聞きました。助けを求めたら門の中へ入れろ、と。必要なことですが、縁壱がすぐ信じて門を叩けるかは分かりません」
深雪は答えを急がなかった。
「しばらくは、門の前でためらっていないかも見ておかなければなりませんね。私たちも行き来する道で気をつけます」
「はい」
アケノは杯を持ち上げようとして、手を下ろした。長いあいだ背を起こして座っていたせいで、肩の下あたりが重くなっていた。さらに背筋を伸ばそうとしても、力が入らない。
深雪がその変化に気づいた。
「私が長くお引き止めしてしまいましたね」
「いいえ。私が何度もお尋ねしたのです。こうしてお話ししていると、時間を忘れてしまいました」
「少し楽に寄りかかられますか?」
アケノは今度は、大丈夫だとは言わなかった。右手を上げると、近くにいた侍女が寄ってきた。巌勝もすぐに立ち上がった。
「母上」
「少し休まないといけないわね。すぐ隣の部屋へ行くから、あなたたちは食べていなさい」
深雪が立ち上がり、侍女とともにアケノを支えた。左側をしっかり支えてから、ゆっくり身体を移す。巌勝は母の上衣が敷居へ引っかからないよう、裾を持ち上げた。
マサトシが使用人へ目配せすると、隣室の灯りが先に明るくなった。彼は妻へ、もっと座っていろとは言わなかった。
「医師を呼ぼうか?」
「休めば大丈夫です。少ししたら一度見てください、と伝えてください」
「分かった」
アケノが支えへ身体を横たえると、堪えていた息が長く漏れた。巌勝は布団の端を整えながらも、母の顔から目を離せなかった。
「かなりおつらかったのですか?」
「少し疲れたの。でも、お客様に会えてよかったわ」
深雪は戸口近くで少し待ってから、アケノの侍女へ言葉を伝えた。
「お飲みになっている薬と、今日のお身体の状態については、まずこちらの医師へ伺います。新しい薬を足す話は、そのあとでも遅くありません」
アケノは礼の意味を込めて頷いた。
「今日は薬より、お嬢さんの話をたくさんお願いしたようですね」
「その話なら長くできます。夫まで加わり始めたら夜が短くなりますので、今日は私が先に切り上げましょう」
アケノが笑った。巌勝はその笑いが収まってから、湯呑みを手の近くへ置いた。
「母上、今度は初華の家へも一緒に行けたらと思います」
深雪が少年を見た。
「薬草畑に花もあると聞きました。お身体の具合がよい日に、医師へも伺って。長く歩かなくて済むよう、私が道を見ておきます」
アケノは戸口に立つ深雪を見てから、息子へ尋ねた。
「あなたはもう行ったの?」
「まだです。初華が見せてくれることになっています」
「では、あなたが先に見てきて聞かせてちょうだい。母も行ける道なのか」
深雪が静かに言い添えた。
「座ったままでも見られる場所があります。いらっしゃる日が決まれば、私が先に用意しておきます」
「そうしてくださいますか?」
「はい。花だけご覧になってお帰りになってもよいですし、お楽でしたら、そのとき今日の続きもお話ししましょう」
アケノは右手で息子の手の甲を覆った。
「では、お願いしようかしら。今日は、その約束をしておけただけでも嬉しいわ」
巌勝は母の手を握り返した。薬草畑で見たものを話すときには、花の形もよく覚えてこようと思った。
「さあ、戻りなさい。初華と弟が待っているでしょう」
「戸は開けておいても構いませんか?」
「少しだけ開けておきましょう。話し声が聞こえるほうがいいわ」
深雪が先に部屋を出た。巌勝はその後ろで戸を閉めながら、手一つが通るほどの隙間を残した。アケノの目は、その隙間の向こうへ留まった。
子供たちの笑い声がまた聞こえた。
巌勝が戻ると、縁壱のほうへ身体を傾けていた初華が姿勢を正した。縁壱も兄の膝へ触れぬよう、衣の裾を引いた。
「お母様、どうだった?」
「横になっておられる。少し休めば大丈夫だ」
初華は開いた戸の隙間を見て、声を落とした。
「じゃあ、ここでは少しだけ笑わなきゃ。縁壱が何度もおかしなこと言うんだもの!」
縁壱が静かに目を上げた。
「私は、手に付いていたと申し上げただけです」
「何がだ?」
「海老のひげ! 殻は全部剥いたのに、手にくっついてたのを知らなかったの。その手で顔を触るところだったんだよ~」
少女はきれいに拭いた指を顎の下へ当てた。ひげの長い顔を真似すると、縁壱の口元がまた動いた。
「こうしたら父上みたい?」
巌勝は上座に座る祈鉉を一度見て、答えた。
「祈鉉先生は、そのように顎を突き出されない」
「父上の真似、難しい!」
初華はすぐ手を下ろし、笑いを飲み込んだ。向かいの深雪が視線を送ると、何事もなかったように箸を取る。ただ、笑いの残った目までは隠せなかった。
巌勝は膳を引き寄せた。飯はまだ半分以上残っている。給仕の者が冷めた汁を温かなものへ替えてくれると、ようやく礼を言って箸を取った。
「あなたは、どれが一番おいしかった?」
初華が尋ねた。
「まだ全部は食べていない」
「私は海老だったんだけど、あれを食べてからは分からなくなった」
少女の視線が鯛の焼き物へ移った。巌勝もぱりっとした皮の下から身を少しほぐし、味わった。塩気が先に触れ、噛むほど魚の甘みが残る。
「こちらがよいな」
「そうでしょう? でも海老ももう一回食べたら、また変わるかも!」
「両方よいと言ってもよいのではないか?」
初華はしばらく箸を止め、それから笑った。
「それでいいんだ! 私、なんで絶対一つに決めようとしてたんだろ?」
縁壱は二人がまた料理へ手を伸ばしてから、自分の汁椀を少し持ち上げた。
「私は大根が好きです」
「お汁がしみてるでしょう?」
「はい。柔らかいです」
少年は腫れた頬へ触れないよう、小さく口を動かした。初華は自分の汁椀に残った大根を見て、給仕の使用人へ縁壱の分をもう少し頼んだ。しばらくすると、小さな器が新しく置かれた。
「もう少し食べるか?」
巌勝の問いに、縁壱は頷いた。
「お姉さんの分も残してください」
「私のはここにあるよ! 全部食べたら私ももっとくださいって言うから」
初華が自分の器を指した。縁壱はそこでようやく安心し、新しくもらった大根を取った。巌勝も弟の器をそれ以上見ず、自分の食事を続けた。
子供たちの前へ、蛤を入れた澄まし汁が少しずつ出された。初華は身を食べ終えた殻を、皿の端へきちんと並べる。内側は滑らかで白かったが、外側には細い筋が幾重にも重なっていた。
「縁壱、あなたが好きな石も、こんなふうに中と外が違うの?」
「石の中は見たことがありません。割れたものは見ましたが」
「あ、そうか。貝みたいに開けられないもんね」
初華は殻を置いた。巌勝は、白い内側へしばらく留まっていた弟の視線を見た。縁壱には、他人には開けて見ることのできないものが見えている。けれど少年はそのことを口へ出さず、貝殻の筋を見ていた。
「うちには大きな巻貝の殻もあるよ。耳に当てると風の音がするの! 今度来たら聞かせてあげる」
「海で拾ってきたのか?」
「うん。最初は中に小さい海が入ってると思ったの。母上に見せたくて、家までずっと抱いて帰ったんだ。父上は、お腹が空いたときの音みたいだって言ったけど」
縁壱が自分の腹へ目を落としてから、少女を見た。
「それほど大きな音がするのですか?」
「違うよ! 父上が冗談を言ったの。あなたまでそう言うなら、また聞いてみないといけないじゃない~」
少女は笑いながら口元を隠した。巌勝も笑みを含んだまま汁椀を置いた。
「どこへ置いてある? 割れたら惜しいだろう」
「戸の横の棚。最初は木剣と一緒に置いてたんだけど、母上が動かしてくれたの。私が木剣を出すとき当てちゃって。すぐ受け止めたから割れなかったよ!」
「木剣を二本まとめて出そうとしたのだな」
初華が見抜かれたというように肩をすくめた。
「一度に持ったほうが早いでしょう」
「落ちる巻貝まで受け止めるなら、手が足りぬのではないか?」
「そのときは膝で受けたの。父上もびっくりしてた!」
得意そうに話していた少女は、向かいの母を見て、少し声を小さくして付け加えた。
「母上は、そんなことしてたら私まで転ぶって言ったけど。だから今は一つずつ出してるよ」
巌勝は、少女が木剣二本を抱えて慌てている姿を思い浮かべた。森で弟を守っていた、あのしっかりした背中とはずいぶん違う。自分の知らない初華の一日には、そんな出来事もあるのだ。
「習うときも、いつも二本使うのか?」
「父上に一本だけ使いなさいって言われるときもある。でも私は二本が好き。こっちで防いで、あっちで打てるから!」
少女は膝の上で、両手の人差し指を交互に動かした。真似をしているだけなのに、二つの手が向かう方向ははっきりしている。
「ときどき左手で防いでるのに、右手の木剣を叩いちゃうの。カンッて鳴ると、父上にすぐばれる」
「手同士が近すぎたのか?」
「そういうときもあるし、私が先に打ちたくて右手が速くなるときもあるんだって」
初華は今度、右手の人差し指をじっと止め、左手のあとに動かした。
「でも待ってると、父上はもう別のところに行ってるの。難しいでしょう?」
「先生がどれほど近くにおられたかを見なければ分からぬな」
巌勝は少女の手だけを見て決めつけなかった。木剣の長さも、身体を動かす場所も見なければならない。初華は長い説明を求める代わりに、先に次の約束を決めた。
「じゃあ、うちに来たら見て! 私がいつも間違えるところ、見せるから」
「そうしよう」
「あなたも二本でやってみる? あなたがやったらどうなるか気になる」
「貸してくれるのか?」
「うん! 父上のじゃなくて、私ので。父上の木剣は長くて地面に当たるの。腕をこう上げないといけないんだから」
両腕を上げようとした少女は、料理の載った膳を見て途中で止めた。巌勝はその小さな動きだけで、何を言いたいのか分かった。
「お前に合わせたものを使うほうがよいだろう」
「あなたも、私のくらい短いのを使うほうが楽?」
「今はな」
前世の刀を思えば、手にする木剣はいつも軽すぎ、短すぎた。だからといって長いものを握った瞬間、昔の身体へ戻るわけではない。少女はそんな当たり前のことを、父の木剣は地面へ当たる、という一言で簡単に説明した。
初華は、木剣を貸すことを考えるだけでも楽しそうだった。
「私は父上の袖を当てる練習が一番好き。最初は届かないけど、ずっと追いかけてると端をかすめるときがあるの!」
「当てたら、先生はどうなさる?」
「笑うよ。その次は、ちょっともっと速く避けるの。昨日はたしかこっちにいたのに、私が振り向いたらあっちにいた。だからまた外した」
「お前が追いつける分だけ動いてくださるのだな」
「うん。最初から速くされたら見えない。でも私が前より早く追いかけたら、父上も速くなるの。それを見ると嬉しい!」
巌勝は箸を握り直した。
相手が力を落としているという事実は、かつて彼には耐え難いものだった。自分が最後まで届かない距離を、相手は好きに縮めてくれるという意味だった。笑って受け入れられなかった幾つもの瞬間が、少女の一言の後ろで蘇った。
「あなたは、そういう練習しないの?」
「……似たようなことをしたことはある」
「楽しくなかった?」
少年の短い沈黙に、少女が首を傾げた。巌勝は彼女へ自分の前世を説明することはできない。だからといって、楽しかったと嘘をつきたくもなかった。
「手加減されていると思って、嫌だった」
「私は速すぎたら、ゆっくりしてくださいって言うけど。練習ならいいでしょう? 見えないまま通り過ぎたら、次も当てられないよ」
初華は膝の上の指をもぞもぞ動かした。
「その代わり、私が全部覚えたら本気でやるの。それまでずっと手加減されたら私も嫌。父上の袖をちゃんと掴んでみたいんだもの!」
「そうか」
巌勝は少女の言葉を考えた。初華は、加減してくれる手の向こうに、いつか自分の力で掴む袖を見ている。
「お前が速く動くときは、私ももう一度見せてくれと言おう」
「いいよ! 私も分からなかったら聞く。知ったふりしてやって、木剣同士がぶつかったらばれるから」
少女が少し笑った。巌勝も短く笑い、弟へ目を向けた。
「お前はどうだ? 腕が治ったら、一緒にやってみたいか?」
「最初は、お二人がされるところを見たいです」
「そうか。お前の楽なようにしよう」
縁壱は膝の上の怪我をしていない手を開いた。少し指先を見てから、初華へ尋ねた。
「お姉さんは、木剣を動かす前に足を先に動かしますか?」
「え? さっき森で見てたの?」
「はい。前の足を動かしたとき、後ろにあった足もついてきました」
「父上にいつも言われるの。手だけ先に行かせるなって! 私はちゃんとできたと思っても、足が後ろに残ってるときがあるんだ」
少女は自分の足を見てから、また縁壱を見た。
「森でもちゃんとついてきてた?」
「私が見たときは」
「よかった! それ、父上に言わなくちゃ。ずっと練習してたんだもの」
初華の目が輝いた。縁壱は、自分の言葉がそれほど嬉しい知らせになるとは思わなかった顔で少女を見た。初華は兄の向こうへ、少し身体を傾けた。
「次も見てくれる? 私は動きながら、自分の後ろまで見られないから。間違ってたら言ってね」
「はい」
「でも一つずつ! 一度に聞くと、最初に何を直せって言われたか忘れちゃう」
「一つだけ先に申し上げます」
巌勝は、弟が少しはっきりした声で答えるのを聞いた。誰かに教わらずとも、見える子。かつての自分は、その目の前で刀を握ることすら怖かった。
彼は口を開く前に、一度ゆっくり息を吐いた。
「兄にも教えてくれ。足の置き方を誤っているのが見えたら」
縁壱が彼を見た。
「……はい、兄上」
返事は静かだった。巌勝は弟の顔を長く見ず、飯椀を持った。頼んだ言葉を急いで別の言葉で覆い隠すこともしなかった。次に二人が向かい合ったとき、自分のほうが先に覚えておくべき言葉だった。
使用人が皿を下げると、初華は袖を内側へまとめた。巌勝も箸を置いた。そのとき少女の目へ、少年の掌が入った。指の下に硬い胼胝ができている。
「木剣をいっぱい握ると、ここも痛くなる?」
少女は自分の指の付け根を示した。
「長く握れば、そういうこともある」
「父上は痛くなる前にやめなさいって言うの。私は上手くできないと、あと少しだけやりたくなるんだけど」
「お前もそうなのか? 先生に休めと言われても?」
「ただ立ってるのは退屈だけど、あと一回やればできそうってときは違うでしょう! 絶対そういうときに終わりって言われるんだもの」
巌勝はすぐ分かったというように目を上げた。初華もその表情を見て嬉しそうになった。
「あなたもそうでしょう?」
「そういうときは、やめるのが難しい」
「そう! それで上手くできたら、母上に見せに行くの。でも母上が患者さんを診てたら、待たないといけない」
「待っているあいだは?」
「忘れそうだから、もう一回やってみる」
少女は言い終えると、自分の額へそっと触れた。
「じゃあ、手がまた痛くなるな」
巌勝の口元が緩んだ。
「先生がなぜやめろと言われるのか、分かる気がする」
「あなたも父上と同じこと言う~。でも私が上手くできたら、一回は見てよ!」
「それは見る」
「縁壱も?」
「はい。お姉さんが呼んでくだされば行きます」
初華は満足そうに笑った。巌勝は少女の掌を見てから、自分の手へ目を落とした。休めと言われても木剣を置けなかった日は、自分にもあった。
子供たちの膳へ、干し栗を戻して煮たものが小皿で出てきた。最初の勝栗と違い、箸で押せば柔らかく割れる。初華は黄色い中身を見て口を開いた。
「花の芯もこんな色だったら綺麗だね」
「今度描くと言っていた花か?」
「うん。花びらは白くて、真ん中は黄色。うちで咲いたら見せてあげる。でも私、花びらを描くとすぐ丸くなっちゃう。ほんとは細長いのに」
「長く見ながら描けばよいだろう」
「花が待ってくれるかな? 私が描き終わる前に下を向いたらどうしよう?」
縁壱が栗を飲み込んでから、静かに言った。
「石は待ってくれます」
初華は少年を見て、吹き出しそうになった。慌てて口を隠し、アケノが休んでいる部屋の戸の隙間を確かめた。
「それはそうだね! じゃあ花を先に描いて、あなたの石を描こう」
巌勝も手で口元を隠しながら、少し頭を下げた。縁壱は二人がなぜ笑うのか考えてから、少女につられて少し笑った。
「私は両方とも、ゆっくり見たいです」
「そうしよう! 大きな紙があったら、一枚に一緒に描いてもいいね。あなたが選んだ石の隣に、私が花を描くの」
「花を隠さないよう、小さな石を選びます」
「大きくてもいいよ。花を横へ移して描けばいいから。巌勝はどこに名前を書いてくれる?」
「絵を見て、空いているところへ書こう。どこで見たのかも書いておくとよいな」
「じゃあ三人で描いた絵だね! あなたのお母様にも持っていこう。私たちが直接見せるの」
「母上も待っておられるだろう」
巌勝は隣室の戸の隙間を見た。母を連れて初華の家へ行く日が、まだ決まったわけではない。まず絵を持っていき、話を聞かせることならできる。
「紙が風で飛びそうなら、石で押さえます」
縁壱が付け加えた。
「あ、その石もあなたが選んで! 絵に描く石と、紙を押さえる石は別にしないとね」
「はい。二つ探します」
少年は、本当に二つを覚えておこうとするように指を軽く曲げた。初華はそれを見ながら少し足を動かし、眉を寄せた。
「あ、足が痺れた。長く座りすぎたのかな」
少女は母を見て、小声で尋ねた。深雪が、膳へ触れないよう少し脚を伸ばしてよいと言うと、片脚を衣の下からゆっくり伸ばした。
「あなたたちは平気? さっきからずっと同じように座ってたでしょう」
「私は少し前に姿勢を変えた」
「いつ? 見てなかった!」
「お前が海老の殻を剥いているとき」
初華は巌勝を睨む真似をした。
「じゃあ私にも言ってよ。私だけずっと我慢してたじゃない~」
巌勝は謝るべき言葉なのか少し考えた。少女の目尻に笑いが残っているのを見て、ようやく一緒に口元を緩めた。縁壱も怪我した腕へ力がかからぬよう、少し姿勢を直した。
祈鉉の視線が、姿勢を直す巌勝へ留まった。少年の呼吸へ、ふと意識が向く。
先ほど母を送って戻ってきたときにも感じていた。身体を屈め、起こすあいだ。言葉を話し、食べ物を飲み込むあいだでさえ、息の流れが容易には乱れない。今のように友の言葉へ笑い、姿勢を変えるときも同じだった。
無理に呼吸を整えている様子はない。
祈鉉は湯呑みを膝のそばへ置いた。マサトシから聞いていた長男の話を思い出す。学問と武芸に真面目で、教えたことを身につける速さが同年代とは違う、と言っていた。
息子を誇る父親の言葉なら、多少は膨らませたところもあるだろうと思っていた。
だが目の前の少年を見ると、むしろ説明のほうが足りない。
祈鉉は一度、視線を伏せた。
衣の下へ続く筋肉の動きと関節の噛み合わせ、息を吸い吐きする胸の変化が鮮明になった。明鏡止水の眼を長く保つことはできない。その短いあいだに見えたものだけで、男の手が杯の上で止まった。
まだ力も持久力も育たなければならない身体だった。巌勝は、その小さな身体の限界を知ったうえで使っているように見えた。
不要に力を入れてから抜く動きが少なく、笑いながら顔を向けるあいだでさえ、身体の中心は自然に繋がっている。
娘に見てきたものと似ているが、同じではない。
初華は、見慣れない動きでも身体が先に受け入れることがあった。説明を終える前に真似をし、祈鉉がもう一度教えようとしていた部分まで、自分で直したこともある。
だが、なぜそうしたのかと尋ねれば、よく分からないと笑った。身体に生まれついたものがどれほど優れていても、まだそれを知っていく途中の子供だった。
巌勝からは、長く身につけてきた者が余分なものを削ぎ落とした動きが見えた。
『この歳で、ここまで……』
少年が生きてきた年月を、男は知らない。七歳の節度とは、とても信じ難かった。
巌勝は、祈鉉の眼が何を見ているかまでは気づかなかった。縁壱の湯呑みを近くへ移してやるあいだ、男の視線が一瞬、自分へ留まったことを感じただけだった。
全集中の呼吸を日常まで続ける「常中」は、すでに長年の習慣のように身体へ馴染んでいた。
前世で得た心得によって、今の身体へ無理がかかる箇所を避け、可能な動きだけを選んで繋げているのだ。
そのとき、祈鉉の視線が縁壱へ向いた。
怪我した腕の周りに残る腫れと痣が先に見えた。子供は痛みの少ない方向へ身体を支えている。十分に食べて育てられなかった細い手足も見えた。祈鉉の目は傷へ留まり、それから少年の怪我をしていない手へ移った。
小さな手が器へ向かうあいだ、身体が動きを受け入れるあり方があまりにも自然だった。兄に見た細やかな制御さえ、この子には別のものとして浮かんでこない。直して合わせた痕跡を探す前から、すでに合っていた。
子供が顔を上げた。
二人の視線が正確にぶつかった。
縁壱は驚くこともなく、静かに頭を下げた。今、自分が見られていると気づいた反応ではなかった。兄を見ているときから分かっていたかのようだった。
祈鉉は息を吐き、眼の集中を解いた。
「祈鉉殿?」
マサトシの呼び声が聞こえた。
「……少し考え事をしていました。失礼いたしました」
「料理が口に合わぬか?」
「よくいただいております。もう何皿空けたのかも分からぬほどです」
祈鉉は話を逸らし、湯を飲んだ。深雪が、夫の一瞬固くなった表情を見て目を合わせた。
祈鉉は心配することではないというように、小さく首を振った。もっと見てみたい気持ちはあったが、再び眼を開くことはしなかった。気になるからというだけで、他人の子をいつまでも覗き見るわけにはいかない。
しばらくして、彼はマサトシへ断った。
「少し厠へ行ってまいります」
案内役が立ち上がった。祈鉉が部屋の外へ出ると、縁壱はそちらを一度見た。兄と姉のような少女は、絵に使う石の話を続けている。
「小さい石でいいよね?」
「濡れていないものを選ぶとよいだろう」
縁壱は二人の言葉が終わるのを待ち、兄の袖へそっと触れた。
「兄上。私も少し厠へ行ってまいります」
巌勝はすぐ身体を向けた。
「一緒に行こう」
「案内してくださる方がいれば大丈夫です。兄上は続きを召し上がってください」
巌勝は弟の顔色を見た。縁壱が立ち上がってもふらつかないことを確かめ、近くの使用人へ付き添うよう言いつけた。
「腕がつらければ、すぐ言え。急ぐな」
「はい」
初華も少年へ小さく手を振った。
「行ってらっしゃい! 戻ってきたら石の話の続き、聞かせて。絵に描くのは平たいのがいい? 丸いのがいい?」
「考えてみます」
縁壱は答え、使用人について行った。
.
.
.
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祈鉉は厠を出て、庭へ向いた廊下の端にしばらく立っていた。案内していた使用人が灯りを持ち、数歩離れて待っている。部屋の熱気を離れると、四月の夕方の冷たさが襟元へ染み込んだ。
先ほど目が合った子供の眼が、なかなか忘れられなかった。
自分が苦労して心を静め、ほんの一時だけ覗ける場所を、あの子は最初から見ていたのだろうか。人の眼が変わった瞬間を見抜くことと、その人が何を見ているのかを知ることは、まったく別の話だった。
後ろから、小さな足音が聞こえた。
縁壱が使用人と一緒に歩いてきていた。男を見つけた子供は数歩手前で止まり、頭を下げた。
「祈鉉先生。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「いいとも。どうした?」
子供はすぐには続けず、一緒に来た使用人を見た。祈鉉は廊下の内側にある低い段差を示した。
「ここへ座って話そう。腕を支えたまま立っているのはつらいだろう」
使用人が薄い座布団を持ってきた。祈鉉は庭からの風を背にできる側へ子供を座らせた。少しここで話すことを兄へも伝えてくれと頼むと、使用人の一人が部屋へ戻った。
残った使用人は灯りを近くへ置き、数歩下がった。
縁壱は座ってから、ようやく口を開いた。
「兄上に、どこか痛いところがありますか?」
祈鉉は予想しなかった問いに、子供を見た。
「お前の兄に?」
「先ほど兄上をご覧になったとき、驚かれていたので。兄上は痛くても、あまりおっしゃいません」
怪我をしていない手が、膝の衣を少し掴んだ。祈鉉はまず、自分が何に驚いたのかを説明した。
「身体の使い方が上手で驚いたのだ。怪我したところを見つけたわけではない」
縁壱の肩が下がった。
「そうなのですか」
「それが気になって、ついてきたのか?」
「はい。兄上へ先にお尋ねしたら、大丈夫だとおっしゃると思いました」
祈鉉は子供の小さな手を見た。自分の眼が変わったことへ気づいた子供が、まず兄の心配をしている。頭の中を満たしていた疑問は、少し後ろへ退いた。
「私がどんな眼で見ていたかも分かったのか?」
「最初は顔をご覧になっていました。そのあと、もっと内側をご覧になっているようでした」
「衣に隠れたところまで?」
「はい。先生にも、そのように見えるのですね」
祈鉉は膝に置いた手を動かさなかった。
「私は、ひどく静かにならねば少ししか見えぬ。長く見るのも難しい」
子供がもう一度、彼の眼を見た。
「今は見えないのですか?」
「今は、お前の顔と衣しか見えぬ。お前はどうだ?」
「人を見れば、そのまま見えます」
縁壱は、当たり前のことを説明している顔だった。
初めて祈鉉にその眼が開いたときは、息の音一つで集中が切れた。もう一度同じ場所を見ようと努めれば努めるほど、肩に力だけが入った。
長い修練の末、ようやく身につけたものを、この子は学ぶ必要すらなかったらしい。子供と目を合わせた祈鉉は、しばらく言葉を継げなかった。
祈鉉は固まった指を開いた。
刀を握らせれば何ができるか想像するのに、一瞬もかからなかった。しかし目の前にいるのは、腕を怪我した子供だった。ついさっきまで友達と遊ぶ話をしていた子供だ。
「急に私の顔が固くなったから、心配したのだな。すまない。お前の兄に悪いことがあったわけではないから、安心しなさい」
「怒っておられるのかとも思いました」
「なぜそう思った?」
「私が見ていると、嫌がる方がいます」
子供は誰の名も口にしなかった。祈鉉は食事の席で、縁壱が人の顔を長く見ないようにしていた姿を思い出した。見えないのではなく、見えていて先に目を伏せていたのだ。
「私は嫌だったのではない。私に上手く見えぬものを、お前が見ていたから驚いたのだ」
「先生にも、見えないものがありますか?」
「たくさんある。初華に聞かれたことを見せようとして、困り果てたこともあるぞ」
「お姉さんは何を尋ねたのですか?」
「大きな石の影へ小さな石を置いたら、小さな石の影はどこへ行くのか、と。
同じ影の中にいるのだと言ったら、どうしても見たいと言って石を動かし始めた。結局、私まで呼び出され、小さい石の影を探してくれと言われた」
縁壱はしばらく庭を見た。低い石と、その脇の木が暗闇に沈んでいた。
「同じ場所に重なれば、見つけにくそうです」
「そうだった。結局、石をあちこち動かしているうちに日が暮れた」
子供が祈鉉を見て笑った。その視線は最初より長く留まった。
「兄上も、お姉さんに聞かれると考えてから笑います」
「どんなことを聞かれた?」
「お姉さんが、一番おいしいものを一つ選ぼうとしていました。兄上は、二つとも好きでもよいとおっしゃいました」
祈鉉は笑いが大きくなりそうなのを抑え、頷いた。
「今日の膳では選びにくかっただろうな」
「はい。でも、お二人が喜んでいたので、私も嬉しかったです」
縁壱は言い終えると、支えている腕の位置を少し変えた。祈鉉が待っていると、子供が先に話を続けた。
「兄上は、私が痛いと言うと手を強く握ります。でも大丈夫だと申し上げても、悲しんでおられるように見えます。私は、どう申し上げればよいのか分かりません」
祈鉉は子供の怪我した腕を長く見なかった。
「今日は兄も、ひどく驚いたのだろう。お前がどれほど怪我をしたのか分からず腹も立ち、もっと早く着けなかったことが悔しかったのかもしれぬ」
「私のせいでですか?」
「お前を心配したから、そうなったのかもしれないという意味だ。お前へ怒っているということではない」
縁壱はゆっくり瞬きをした。祈鉉は指で自分の眉間へ少し触れた。
「前に、妻が眉をひそめていたので、私はまた何か忘れたかと尋ねたことがある。
すると、針の穴に糸が通らなくてそうしていただけだった。お前の眼にも、身体が強張った理由まで全部見えるわけではないだろう?」
「はい。痛いところが見えても、どのように痛むのかは、言葉で聞かなければ分かりません」
「心も同じなのだろう。兄が心配なら、どこかおつらいのですかと尋ねてみなさい。お前も、腕がどう痛むか話してやれ。二人とも大丈夫だとしか言わなければ、ずっと互いに推し量らねばならぬだろう?」
縁壱は怪我をしていない手を開いて見た。掌の真ん中に、兄に握られていた感触がまだ残っているかのようだった。
「医師が兄上へ、手の力を少し抜くよう言いました。兄上は、すまないとおっしゃいました。私は、手を離されなくてもよかったのです」
「そのことも言ったのか?」
「はい。そのあとは、痛くないように握ってくださいました」
祈鉉は頷いた。今この子へ、自分がそれより上手な例を出してやる必要はなかった。
「なら、そのように伝えればよい」
「先生。兄上へも剣を教えてくださるのですか?」
「まだ決めてはいない。お前の兄と父上の考えも聞かねばならぬだろう。なぜだ?」
「兄上が先ほど、足を間違えて置いているのが見えたら教えてくれ、とおっしゃいました。私が申し上げてもよいのか、考えていました」
「兄のほうから頼んだのだな」
「はい」
祈鉉は、幼い身体を隙なく制御していた巌勝を思い出した。そんな子供が弟へ、何が見えたのか教えてほしいと頼んだのだ。
「兄が先に頼んだのなら、言ってやってよい。ただ、見えたことを全部一度に話すより、どの部分から見てほしいか尋ねてみなさい」
「お姉さんは、一つずつ言ってほしいとおっしゃいました」
「娘は自分のことをよく分かっているな。一つ目の動きを直しているうちに次を忘れ、また来て尋ねることがある」
縁壱の口元が動いた。
「兄上は全部覚えられると思います」
「そうかもしれぬ。だが私は、まだお前の兄と一緒に稽古をしたことがない。何を難しいと感じ、どんな言葉を聞きたいのか、自分で知りたい。お前についても同じだ」
「私は、まず見たいと申し上げました」
「なら、一緒に見よう。初華がなぜ間違えたのか私が説明するとき、お前の見えたものとどう違うのか考えてみてもよい」
縁壱はその言葉を聞き、怪我をしていない手を膝から少し上げ、また下ろした。
「見えることと、私ができることは違う場合もありますか?」
「目で道を見たからといって、その道をすでに歩いたことにはならぬだろう。ただ、お前にはほかの者が見落とすものも見える。それがどれほど役に立つのかは、ゆっくり知っていけばよい」
祈鉉はそこで言葉を止めた。子供が手を動かして見せるのを待つこともしなかった。
「腕が治ったあとの話だ。今日は何かやってみようなどと思うな」
器を下げる音が廊下を伝ってきた。縁壱が再び口を開いた。
「お姉さんにも、ありがとうと申し上げました」
「聞いた。独楽の回し方も教えてやったそうだな」
「その前に、森でです。お姉さんが来なかったら、ずっとそこにいたと思います」
祈鉉が慎重に尋ねた。
「石を投げてくるのも見えていたのか?」
「はい」
「それでも、避けるのが難しかったのか?」
縁壱は答える前に、少し息を整えた。
「別の場所へ行っても、ついてきました。また避けたら、もっと怒ると思いました。じっとしていれば、やめると思いました」
何度殴られても、次にはやめるだろうと思っていた子供だった。祈鉉の口元が固くなった。
「やめなかったのだな」
「お姉さんが前へ立つまで」
祈鉉はしばらく庭のほうを見てから、低く言った。
「次からは、やめるのを待たず逃げなさい。この屋敷へ来てもよいし、うちの家が近ければそちらへ来てもよい。ついてくる者がいるなら、門の外で待たず大声で呼びなさい」
「先生がおられなければ?」
「深雪へ言えばよい。初華しかいなければ、二人で人のいるところへ行け」
縁壱は考えるように目を伏せた。
「お姉さんが止めてくださるとしてもですか?」
「……そうだ。今日、お前を守ってくれたのはありがたいことだ。だが次も、あの子一人で止めなければならぬわけではない。私を呼べば、私が行く」
縁壱は、姉のような少女が木剣を握って立っていた姿を思い出した。その背中の後ろでは、石の飛んでくる音が遠ざかり、怒鳴り声ももう自分の顔の前まで届かなかった。
「お姉さんは、怖がっていないと思いました」
「家へ帰って手を洗っているとき、少し震えていた。遅れていたら、お前がもっと怪我をしていたのではないかと怖かったと言っていた」
食事の席では聞かなかった話だった。子供の唇が少し開き、また閉じた。
「知りませんでした」
「お前も痛むなかでは気づきにくかっただろう。初華も、お前たちと遊んでいるときには、その話をしたくなかったのかもしれぬ」
縁壱は、先ほど部屋の中で少女が指を使って木剣の動きを真似ていた姿を思い出した。その手が家へ帰ってから震えたという話は、自分が知っていた少女の姿の隣へ、見慣れないものとして残った。
「次は、お姉さんも怪我をしないでほしいです」
「私もそう思う」
祈鉉は子供の頭へ手を置きかけ、膝へ戻した。縁壱が頭も打ったと聞いていたことを思い出したからだ。代わりに、子供が腕を楽に支えているかを確かめた。
「次に初華がお前を助けてくれたら、あの子にも大丈夫かと一度聞いてやってくれるか?」
「はい。必ずお尋ねします」
祈鉉が頷いた。縁壱は掌を見下ろした。
縁壱が、遠く開いた戸を見た。そこからは兄と初華の声が交互に聞こえてくる。何を言っているのかは聞き取れなかったが、少女の笑い声はすぐ分かった。
「兄上は、お姉さんと一緒だとよく笑います」
祈鉉も、声のするほうを見た。
「初華も楽しそうだな」
「兄上は、お姉さんの前で上手くやりたいのだと思います。独楽を回すときもそうでした。上手くいかなかったのに、お二人とも笑っていました」
「お前も一緒に笑ったか?」
「はい。でも、私がずっとそばにいてもよいのか分かりません」
祈鉉はすぐ、大丈夫だとは答えなかった。縁壱が何を気にしているのか、先に尋ねた。
「誰かに、少し席を外してくれと言われたのか?」
「いいえ。お二人が長く話しておられました。私は聞いていました。それで先に出ました。先生へお尋ねしたいこともありましたから」
「兄へは厠へ行くと言ったのか?」
子供が頭を下げた。
「はい」
「兄には、ここにいると伝えておいた。それでも戻ったら、話していて遅くなったと自分で言いなさい。お前の顔を直接見なければ安心せぬだろうからな」
「そうします」
祈鉉は戸の中から聞こえていた娘の声を思い出した。屋敷へ来る道中も、初華は休まず話していた。今日会った二人の兄弟の名は、その話の中で交互に出てきた。
「初華は家へ帰ってから、お前が独楽の紐をどう巻いたか見せてくれた。手をゆっくり動かしながら、縁壱がこう教えてくれた、と言っていたぞ」
子供が彼を見た。
「私の話もしたのですか?」
「何度もした。巌勝は字を読んでくれることになり、お前は石を選んでくれるのだろう? 二人とも連れてくるとも言っていた」
縁壱の目が自分の膝へ落ちた。両手をどう置いていたか思い出しているようだった。
「二回目は、お姉さんも上手にできました」
「その言葉を聞けば喜ぶだろう。家でも、次はお前たちの前で上手く回さなければと言っていたからな」
「もう一人でも上手にできます。次は私が教えることはないでしょうか?」
祈鉉は小さく笑った。
「上手くできるようになっても、一緒に回せば楽しいだろう? 初華は一人でできる遊びでも、誰かがそばにいるほうを好む。お前たちに教えてもらわなければ呼ばない、というわけではないよ」
縁壱は考えてから尋ねた。
「お二人だけで遊びたいときもありますよね?」
「あるだろう。お前にも、兄と二人でいたい日があるだろう? 一緒に遊びたい日には、お前もそう言ってみなさい。兄も初華も、お前の気持ちは聞かなければ分からぬだろう?」
縁壱はゆっくり頷いた。
「石を二つ選んでほしいと言われました」
「何に使う石だ?」
「一つは絵に入れて、もう一つは紙を押さえます。戻ったら、もっと尋ねなければなりません」
縁壱は言い終え、部屋のほうを見た。祈鉉も子供の視線を追った。
立ち上がろうとした縁壱が、腕を支える布を見下ろした。
「先生、腕が少し痺れます」
男はすぐ姿勢を正した。
「先ほどよりつらいか?」
「はい。少し強く引かれる感じがします」
祈鉉は話を切り上げ、近くの使用人を呼んだ。医師へ腕をもう一度診てもらうよう伝えさせてから、縁壱が立つのを助けた。怪我した腕には触れず、無事な側の掌を下から支えた。
子供は立ち上がってからも、すぐその手を離さなかった。
「先生も、今度独楽を回しますか?」
祈鉉が少年を見下ろした。
「私も仲間へ入れてくれるのか?」
「お姉さんが、覚えてきたことを見せたがると思います」
男はその言葉を聞いて微笑んだ。
「では、私もやってみよう。上手くできなければ、お前が教えてくれるか?」
「はい。紐を巻くところから申し上げます」
「ありがとう。その日は私も一緒に習おう」
祈鉉は子供の歩調へ合わせ、廊下を曲がった。部屋の明かりが近づくと、縁壱は顔を上げた。最初に座っていた兄の隣の席が、そのまま空いていた。
巌勝は弟を見ると、箸を置いた。
「長かったな。大丈夫か?」
縁壱は兄のそばへ座る前に、先に言った。
「祈鉉先生へお尋ねしていて遅くなりました。先に申し上げず、すみません」
「先生と一緒にいるとは聞いた。腕はどうだ?」
巌勝の目が祈鉉へ向いた。男は少し頭を下げた。
「私が子供と長く話しすぎた。今は腕が少し痺れると言うので、医師へ人を遣わした」
巌勝はすぐ、弟がどのように腕を支えているか確かめた。縁壱は兄に尋ねられるのを待たず、どちら側がつらいか話した。
続いて入ってきた医師が布の結び目と腫れをもう一度診ているあいだも、隠さなかった。
初華は聞こうとした言葉を飲み込み、待った。医師の手当てが終わってから、ようやく少女が身体を傾けた。
「さっきより楽?」
「はい。もうあまり引かれません」
「よかった! さっき聞いたの、考えた?」
「丸い石がよいと思います。花の隣へ置けば、よく似合いそうです」
「じゃあ私は花を細長く描かないとね! 今度一緒に探そう」
縁壱が兄を見上げた。
「その日は三人で一緒に行きたいです」
「そうしよう。お前の腕が治ってから、一緒に行こう」
縁壱はまた自分の席へ座った。巌勝は弟の膳を近くへ寄せ、初華が尋ねた石の大きさについての答えも一緒に聞いた。
祈鉉は席へ戻って座った。マサトシは次男のほうから目を戻し、男へ湯を勧めた。
「子供と、何をそんなに長く話しておられた?」
「今度一緒に独楽を回そうと約束しました。娘の話も少し」
「あなたも独楽を回すつもりか?」
「下手なら教えてくれると言われました。口先だけでなければよいのですが」
マサトシが小さく笑った。そのとき、アケノが休んでいる部屋から侍女が出てきた。奥方も子供は大丈夫かと尋ねておられる、との伝言だった。
医師が自分で行き、診たことを伝えると言うと、巌勝も頭を下げた。
部屋の皿が一つずつ片づけられていった。だが、まだ帰り支度を始める者はいない。戸外には、大人たちへ出す茶と菓子が用意されていた。
マサトシは空いた場所ができたのを見ると、近くの使用人を呼んだ。
「書院に置いてあったものを持ってこい。巻いてある紙だ」
祈鉉が彼を見た。マサトシは視線を逸らさなかった。
「三日前に私が申し上げたことを、覚えておられるな。今日の食事の席で、改めて話そうと言われた」
祈鉉の目が妻へ向いた。深雪も、その言葉が何を指すのか分かった。
「ご当主がお忘れになったとは、思っておりませんでした」
「それはよかった。私も、お二人が辞退なさる言葉から用意して来られたと思っていたのでな」
深雪は笑いを堪えられなかった。祈鉉はゆっくり湯呑みを置いた。
「でしたら今度は、こちらの話も最後まで聞いていただきます」
「聞くために、この席を設けたのだ」
使用人が紙を置くと、巻かれていた端が少し解けた。土地の境を示す線が、マサトシの膝元へ現れた。
初華はそれを見て、巌勝へ小さく尋ねた。
「うちの家の話みたいだよね?」
巌勝が頷いた。初華は縁壱とも目を合わせ、それからまた大人たちのほうを見た。
祈鉉が少し座り直した。
夕食は、まだ終わっていなかった。
───
【後書き】
この先の物語では、巌勝と初華をめぐる「奇縁」が続いていく予定です。
その奇縁がいったい何なのか、そしていつ明らかになるのかはまだ分かりませんが、連載を追っていく中で自然と知っていただけると思いますので、どうか楽しみに待っていてください。
いつもこの作品を読んでくださっている読者の皆様、本当にありがとうございます!
【ご意見募集】 『鬼滅の刃』二次創作についてご相談です。「設定が複雑」とのご指摘を受け、1〜17の設定を無くして本文のみで進行するか迷っています。 【期間:1週間】 期日までに多かった方の意見に合わせて決めたいと思います。読者の皆様のご意見をお聞かせください!
-
1. 削除する
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2. 残してほしい
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3. その他