全力回避フラグちゃん! 逃亡フラグ、立ちました! 作:全力投稿ブラフじゃん!
目が覚めた瞬間、まず思ったのは、ここが自分の部屋ではないということだった。
天井は白い。壁も白い。安いワンルームのようにも見えるし、誰かが一時的に用意した隠れ家のようにも見える。けれど、天界の自室ではない。死亡フラグちゃんとしての記憶が、そこだけははっきり否定していた。
一般男性として暮らしていた部屋でもない。ベッドの硬さも、カーテンの色も、机の位置も、何もかも違う。なのに、私はその違和感より先に、自分の声に驚いていた。
「……え?」
高い。軽い。聞き覚えがある。画面の向こうで何度も聞いたことがある声で、同時に、喉の奥から自然に出た自分の声でもあった。
慌てて体を起こす。肩から長い髪がさらりと落ちた。腕は細く、指先は小さい。けれど、動かし方が分からないということはなかった。寝起きの体を伸ばす感覚も、髪を払う仕草も、全部最初から自分のものだったみたいに馴染んでいる。
部屋の隅に、姿見があった。
私はおそるおそる近づいた。鏡に映った少女は、不安そうな顔でこちらを見返している。白い肌。見慣れた髪。見慣れた服。見慣れた、という表現が正しいのか分からないけれど、少なくとも知らない顔ではなかった。
死亡フラグちゃんだった。
死神No.269。死亡フラグが立った人間の魂を回収する見習い死神。優しすぎて仕事がうまくいかず、いつも何かしら失敗して、けれど本当に危ない相手を前にすると放っておけない。
画面越しに見ていたはずの子が、鏡の中で私と同じ顔をしている。
「私……死亡フラグちゃん、ですか?」
口に出してから、私は固まった。言葉遣いも声も自然すぎる。驚いているのに、どこかで「そうでしょうね」と受け入れている自分がいる。
頭の中には、二種類の記憶があった。
一つは、普通の男性として暮らしていた記憶。仕事をして、スマホを見て、動画を眺めて、疲れて寝落ちしていたような、どこにでもある記憶。その中には、死亡フラグちゃんのことをリスナーとして見ていた記憶がある。異宙の世界でカレコレ屋が騒がしく動き回る動画を見た記憶も、ぼんやりと残っている。
もう一つは、死亡フラグちゃんとしての記憶だった。
天界。訓練。神様の声。生存フラグさんの呆れた顔。恋愛フラグさんのにやにやした笑顔。失恋フラグさんの対抗心丸出しの視線。モブ男さんの、困ったような優しい顔。
どちらも他人のものではなかった。頭の中で別の誰かが喋っているわけではない。私の中に、私の記憶として一人分増えている。前世なのか、後から足されたものなのか、何かのバグなのかは分からない。
けれど、不思議と納得できてしまう。
「……変です。でも、私なんですよね」
鏡の中の私は、困ったように眉を下げていた。
怖い。もちろん怖い。けれど、知らない体に閉じ込められた感じではなかった。死亡フラグちゃんの体も、記憶も、口調も、感情の癖も、妙に自分の奥に収まっている。
だから余計に怖かった。
「と、とにかく状況確認です。こういう時に慌てたら負けです。慌てたら……何かしらのフラグです」
自分に言い聞かせて、私は部屋を見回した。
ここは狭い。ベッド、机、小さな冷蔵庫、カーテンの閉まった窓。生活感はあるのに、誰かが暮らしていた匂いが薄い。まるで私が目覚めるためだけに用意された部屋みたいだった。
机の上には、見覚えのあるものが並んでいた。
まず、天界端末。死亡フラグちゃんとしての記憶が即座に名前を教えてくれる。天界との連絡、仕事記録、場合によっては帰還にも使える大事な道具だ。
私はそっと手に取った。画面がつく。
未読通知、三件。
私は無言で画面を伏せた。
「見てません。私は何も見てません」
見たら終わりだ。もし神様からだったらどうする。もし生存フラグさんから「どこにおるのじゃ」と来ていたらどうする。恋愛フラグさんが「しーちゃん、今どこ〜?」なんて軽い文面で送ってきていたら、逆に怖い。
返したら、戻らなければいけない。
戻ったら、説明しなければいけない。
説明したら、たぶん怒られる。
そして、訓練が再開する。
「……いや、まだ決まってません。通知を見ていないので、まだ何も決まってません」
自分でも情けない言い訳だった。
机の上には、他にも道具が置かれていた。赤みがかった小さなリボン。薄手のパーカーのような天界アイテム。それから、必要最低限の小物が入った小さなポーチ。
リボンを手に取ると、名前と効果が自然に浮かんだ。
見落としフラグのリボン。
見つかるはずの場面で、相手がなぜか見落とす。完全に姿を消すわけではない。けれど、視線の端にいても「今は気にしなくていい」と思わせる。天界人相手には完全には効かないが、普通に探されるよりはずっと逃げやすくなる。
便利だった。
ものすごく便利だった。
同時に、使った瞬間に自分が本格的に逃亡者になる気がした。
「これは……逃げる人が使うやつでは?」
逃げる。
その言葉が、胸に刺さる。
戻った方がいい。それは分かっている。私が急にいなくなったら、みんな心配する。死亡フラグちゃんとしての記憶があるからこそ分かる。生存フラグさんは絶対に怒る。恋愛フラグさんは笑っているようで心配する。失恋フラグさんはたぶん、面倒な方向に勘違いして大騒ぎする。
分かっている。
でも、戻るのは怖い。
「違います。これは逃亡ではありません。状況確認です。いきなり戻ると混乱させますし、今の私はちょっと記憶が増えているわけですし、まずは落ち着いてからですね」
私はリボンを結んだ。
鏡の中の自分は、完全に逃げる準備をしている顔だった。
次に、薄手のパーカーを羽織る。認識変換系の天界アイテムだ。周囲から「普通の少女」「近所の子」「通行人」程度に認識されやすくなる。死神としての気配や、大鎌の存在感を薄めるための備品。
鏡に映る姿が、少しだけ曖昧になる。死亡フラグちゃんであることは変わらないのに、目を離せば「まあ、そういう子もいるか」と処理されそうな、不思議な普通さが足された。
「よし。これで私は一般通過少女です」
声に出した瞬間、自分でも無理があると思った。
その時、意識の奥で何かが反応した。
大鎌だ。
出そうと思ったわけではないのに、手元にずしりと現れる。片側がピコピコハンマーのようになった、見慣れた大鎌。室内で出すにはあまりにも大きく、刃の先が照明に当たりそうになった。
「だ、だめです! これは一般通過少女の持ち物ではありません!」
慌てて収納する。光がほどけるように大鎌は消えた。扱い方は分かる。重さも、癖も、出し入れの感覚も、全部体が覚えている。
それが、今の自分には少しだけ重かった。
私はカーテンを開けた。
窓の外には、街が広がっていた。現代日本に見える。道路があり、信号があり、ビルがあり、コンビニらしき店もある。けれど、その合間に見慣れない看板が混じっていた。人間ではない耳や尻尾を持つ通行人が、当たり前のように歩いている。空には、鳥ともドラゴンともつかない影が一瞬横切った。
普通ではない。
でも、どこかで見たことがある。
「……ここ、異宙では?」
声が震えた。
地球が丸ごと異世界へ転生して、ファンタジーと現実が混ざり合った世界。カゲチヨさん、ヒサメさん、シディさんの三人がカレコレ屋として何でも屋をしている場所。
一般男性だった記憶の中で見ていた世界が、窓の外に広がっている。
私はそっとカーテンを閉めた。
「帰りましょう」
即決だった。
異宙はまずい。楽しい時は楽しい。けれど事件が起きる時は本当に危ない。死亡フラグちゃんが逃げ込む場所としては、どう考えても死亡フラグが多すぎる。
私は天界端末を手に取った。帰還機能の場所は分かる。押せば、天界に戻れる。戻れば、説明できる。私の状態も、ここが異宙であることも、きっと誰かが調べてくれる。
指先が、画面の上で止まった。
戻ったら、訓練が始まる。
魂回収訓練。死亡フラグの立った人間を前にして、冷静に仕事をする訓練。大事だ。分かっている。死神として必要なことだ。
でも、私はそれが苦手だった。
一般男性の記憶が増えたからではない。たぶん、元からそうだった。死亡フラグが立った相手を前にして、助けられるかもしれないと思ってしまう。助けたいと思ってしまう。見捨てたくないと思ってしまう。
「……少しだけ」
私は端末をポケットに入れた。
「少しだけ状況確認です。ここが本当に異宙なのか確かめて、落ち着いてから戻ります。決して訓練が嫌だからではありません。いえ、嫌ですけど、それが主な理由ではありません。たぶん」
最後が小さくなった。
部屋の扉を開けると、古いアパートの廊下のような場所に出た。やはり天界ではない。神様の気配も、生存フラグさんの気配もない。誰かが用意したのか、偶然ここに落とされたのかも分からない。
階段を下り、外に出る。
街の空気は、少しだけ甘く、少しだけ鉄っぽかった。人間界の匂いに似ているのに、どこか別物だ。通行人は私を一瞬見ても、すぐに視線を外す。認識変換と見落としフラグのリボンは、今のところ効いているらしい。
「大丈夫です。私は普通です。普通の少女です。どこからどう見ても、普通の……」
その言葉は、途中で止まった。
視界の端に、黒い線が走った。
それは普通の人には見えない。けれど、私には見える。人の足元から伸びる、嫌な予感の形。空気の流れ、車の速度、誰かの不注意、ほんの数秒後に起こる事故。
死亡フラグだ。
横断歩道の向こうで、小さな子どもが母親の手を離した。風に飛ばされた風船を追って、一歩、車道へ出る。信号はまだ赤。右から、大きな車が曲がってくる。
間に合わない。
「……見なかったことに」
できるわけがなかった。
体が勝手に動いた。
私は地面を蹴る。普通の少女として認識されているはずの体が、人間離れした速度で横断歩道へ飛び出す。周囲の音が一瞬遠くなる。車のライトが近づく。子どもはまだ風船だけを見ている。
「危ないです!」
私は子どもの体を抱き寄せ、そのまま歩道側へ転がった。
背後で急ブレーキの音が響く。タイヤが路面を削る音。誰かの悲鳴。抱きしめた子どもの小さな体温。死神なのに、心臓が痛いくらい跳ねていた。
子どもはぽかんと私を見上げた。
「あ、あの、大丈夫ですか? 怪我は? どこか痛いところはありませんか?」
少し遅れて、子どもが泣き出した。母親らしき人が駆け寄ってくる。周囲の人たちもざわざわと集まり始めた。
まずい。
非常にまずい。
私は今、目立った。思い切り目立った。認識変換アイテムを使っているのに、死亡フラグを防ぐために全力で動いてしまった。これでは普通の少女どころか、かなり怪しい少女だ。
「い、いえ、私は一般通過少女なので……!」
自分でも意味の分からないことを言いながら、そっとその場を離れようとする。
その時、背後から声がした。
「待って」
足が止まった。
振り返ると、青い髪の少女がこちらを見ていた。しっかりした目。正義感の強そうな表情。警戒はしている。けれど、子どもを助けた私を、悪いものだと決めつけている顔ではない。
知っている。
私は、その子を知っている。
ヒサメさんだ。
「あなた、今……何をしたの?」
認識変換が、うまく働いていない。見落としフラグのリボンも、完全にはごまかしてくれない。死亡フラグに全力で飛び込んだ時点で、見落とされる方がおかしい。
私は笑おうとした。
口元が引きつった。
「ええと……その……」
ヒサメさんが一歩近づく。
私は一歩下がる。
「あなた、人間じゃないよね?」
まっすぐすぎる言葉が刺さった。
否定したい。否定したいけれど、死神ですとはもっと言えない。しかも今の私は、天界に戻るべきなのに戻っていない。見落としフラグのリボンまで使っている。言い訳できる要素が少なすぎる。
私は胸の前で両手を振った。
「ち、違います。私は怪しい者ではありません。普通の、ええと、近所の……通行人です」
「近所の通行人?」
「はい。一般通過少女です」
「一般通過少女は、車より速く動かないと思うけど」
正論だった。
ヒサメさんがさらに近づく。私はさらに下がる。背中に冷や汗が流れる。死神に汗があるのかは分からないけれど、少なくとも今の私は完全に汗をかいている気分だった。
これはまずい。
非常にまずい。
「……立ちました」
「え?」
「尋問フラグです……!」
言った瞬間、自分でも何を言っているんだと思った。
けれど、足はもう動いていた。
私は踵を返して、全力で走り出した。背後でヒサメさんが「ちょっと待って!」と声を上げる。
待てない。
今待ったら、絶対に詳しく聞かれる。詳しく聞かれたら、ボロが出る。ボロが出たら、カレコレ屋に連れて行かれるかもしれない。いや、それはそれで安全かもしれないけれど、今はまだ心の準備ができていない。
「ごめんなさい! これは逃亡ではありません! 戦略的撤退です!」
誰に向かって叫んでいるのか分からないまま、私は異宙の街を駆け抜けた。
死亡フラグちゃんとしての最初の一日は、目覚めて数十分で、すでに全力逃走になっていた。