窓を叩きつける雨音で目が覚めた。窓の外から僅かに漂う陰鬱な空気にため息を吐くと、横で布団が何かと擦れる音がした。
私ではない。恐る恐る布団をめくった。一糸纏わぬ姿の女性がいた。
ぼんやりとした視界が目の前の情報の衝撃で鮮明になった。
透き通るような白い肌と華奢な体。黒曜石のような色の角と切れ長の目。間違いなく私の生徒だ。
「おはよう先生」
カヨコが少しあくびをした後、宝石のような真っ赤な瞳を私に向けた。
冷や汗が出た。同時に沁みるような痛みが肩や背中に走った。よく見ると爪痕がくっきりと残っていた。
間違いない。一線を超えた。間違いない。致した。何より彼女の滲んだアイラインが昨晩の行為の激しさを物語っていた。
「カヨコ。本当にごめん」
ベッドの上で土下座した。
「いいよ。気にしてない。それに……悪くなかったし」
カヨコが頬を赤くして、口元を掛け布団で隠した。ため息をこぼした。頭を押さえながら、まだアルコールが残る頭を回した。
どうしてこうなった。脳内を巡るアルコールを血流で黙らせて、思考をより鮮明していく。そして、思い出した。
昨日はカヨコの誕生日だった。そして、二十歳になった。彼女の成人を祝して、一緒にバーに足を運んだのだ。落ち着いた空気の中、レコードから流れる音楽を耳にしながら、彼女とカウンター席に腰掛けていた。
いつかの日に着ていたドレス姿で横に座る彼女からは既に妖艶さが漂っていた。
「じゃあカヨコの成人祝いに乾杯」
「うん、乾杯」
彼女とワイングラスを鳴らした。小さな口でゆっくりと赤いワインを流す。
「どう?」
「ん、なんか変な感じ。でも嫌いじゃないかも」
「カヨコは結構、お酒ハマりやすいかもね」
「そうかな?」
「でもなんか不思議だな。カヨコが初めてのお酒だなんて。どこかでさらっと呑んでるかと思った」
「私のことなんだと思ってるの?」
カヨコが不機嫌そうに眉間にシワを寄せる。
「ごめんごめん。カヨコがそれくらい大人びてるってこと。そんなことしないのは知ってるよ」
「そう」
煮え切らないような顔でグラスに口を付けた。
「でもお酒は気をつけないといけないよ。カヨコは大丈夫だろうけど酔いに任せて、一夜の過ちなんて事もあるからね」
「先生はあるの?」
彼女の問いに手が止まった。
「そんなわけないよ。私は」
「先生嘘付くの下手だよね。顔に出てるよ」
「えっ、本当!?」
「やっぱりそうなんだ」
彼女が見透かしたような目で私の目を見る。
「鎌をかけたね」
「さっきのお返し。それで経験あるの?」
彼女の目がさっきよりも少し上向いた。これ以上の言い逃れは出来そうにない。
「こっち来る前に一度だけね」
「そうなんだ。どんな人だったの?」
「えーっと」
「どんな人だったの?」
赤く鋭い瞳が私の目を捉えて離さない。観念したように口を開いた。
「明るくて優しい子だったよ。本当に。一夜の過ちだよ。最初は複数人でお酒飲んで。それとなく仲良くなって。二人で抜けて、そして……ね」
「どうだった?」
「正直、後悔したよ。自分という人間がこうも浅ましいんだなって。向こうは気にしてなかったらしいんだけど。それからお互いに気まずくなったのか。話さなくなったね」
漏れ出るため息を押し戻すようにワインを流し込んだ。若者でワンナイトはよくあることだ。きっとそこまで気にする事でもないんだろう。それでも考えてしまうのだ。自分にとって正しかったのか。
「失望したかい? でもカヨコには同じような目にあって欲しくない。もちろんエゴだっていうのは十分に理解しているよ」
「そう。まあ。でも先生ならいいかも」
「えっ?」
「うそだよ」
「カヨコ!」
「お客様」
バーテンダーの抑揚のない声に思わず小さく頭を下げた。
「でもさ。そういう失敗や過ちが人を成長させるんじゃないの? 失敗の実感っていうのかな。きっとその女の人も先生といるのが楽しいから体を許したんだよ。だから先生に失望なんかしないよ」
カヨコの優しい眼差しが私の心に深く染み込んだ。聡明で心優しい。それが鬼方カヨコという子だ。
「ありがとう」
カヨコに礼を言って、グラスに残ったワインを流し込んだ。
ひとしきり飲んだ後、タクシーでシャーレまで帰った。
初めてのお酒という事もあって、彼女はへべれけになったので背負いながら、歩いた。入室した後、彼女をゆっくりベッドの上に下ろした。
隣の部屋に向かおうとした時、右手を掴まれた。そして、そのまま為す術もなく引っ張られた。私は彼女に覆い被さる態勢になった。
目と鼻の先に彼女の端正な顔がある。陶器のように白い彼女の肌がワインにより、ほんのりと赤くなる。
「どうしたの?」
「ごめん。先生。さっき嘘をついた。私、先生がいい。だから私にも……私にも後悔を教えて」
「えっ?」
彼女の言葉に困惑した。
「過ちで大人になるなら、先生。私が成長するところを見届けてよ」
その赤い瞳は何かを求めるように揺らめいていた。
いつも一歩引いたところにいる彼女が私をこんなにも強く求めている。
彼女は生徒だ。だけどもう大人だ。現にベッドの上に身を投げ出している彼女はあまりにも妖艶だった。
生唾を呑んだ。ダメだ。彼女に手を出してはいけない。アルコールで溶け始めた理性がひ弱に警鐘を鳴らした。
それに反するように彼女との距離が近づいていく。先生と生徒。守る者と守られる者。私と彼女と隔てるものが次々と崩れ去っていく。
そして、境界線は無くなった。ほんのりと葡萄の香りがする。その香りに理性が掻き乱されて、誘われるように舌を絡めあった。
「ごめん」
全てを思い出した後、私はさらに深々と頭を下げた。
「いいよ。前にもあったんでしょ?」
「でも……」
私の言い訳にしばしの沈黙が流れる。雨の音がうるさい。
「先生。後悔するって言ってたよね」
「うん」
「なかったよ」
時が止まった気がした。彼女の方を見ると頬を赤くして、視線を逸らしていた。
そんな彼女を見ていると先ほどまで胸の内で暴れていた罪悪感も動きを止めた。
「言ったでしょ。前の女の人が体を許したのは先生と過ごすことが楽しかったからって。同じだよ。それに私はずっと先生を見てきた。その人よりもきっと」
彼女が蠱惑的な笑みを向けてきた。その目は昨夜、私を強く求めた彼女と同じ目だ。
「もしそれでも後悔が拭えないなら」
彼女がゆっくりと私の元までにじり寄った。そして、静かに耳元に口を寄せた。
「先生。ちょっと時間もらうね」
「……いくらでも」
もう迷いはない。彼女と再び、唇を重ねた。
雨は止んでいた。