境界を抜けた先の山道は、空気が澄んでいた。
舗装もされていない緩やかな斜面を、木漏れ日が斑に照らしている。
人の気配は薄く、遠くで鳥の声だけが落ちていた。
リセは目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
眠っているのか、意識が途切れているのか、それすら曖昧だった。
「あれ……」
やがて、暖かい陽射しを受けてリセが目を開けた。
焦点がゆっくりと合っていく。
まだ完全には覚醒していない。
記憶の断片だけが脳裏に残っていた。
空が裂けていたこと。
誰かが何かと戦っていたこと。
そして――
「わたし……」
リセは目を大きく見開いた。
胸の奥に空白がある。
何か大きな出来事があった。
だが、その続きが抜け落ちている。
「そうだ……」
リセの視線が鋭くなる。
記憶の断片を手繰るように辺りを見渡した。
「鏡巳は!?」
「ちょっと、落ち着きなさいって」
声に気付いたネガイは、興奮するリセを支えた。
「もう戦いは終わったの」
「……終わった?」
リセの眉がわずかに動く。
納得できていない表情。
その横でノゾミが言葉を挟み込む。
「リセさんに憑依した百夜さんが、あの『陽炎の手』を使って処理しました」
一切の迷いがない声だった。
ネガイが一瞬だけノゾミを見る。
だが、すぐに視線を逸らした。
「そ、あの後、アンタが中々起きなくて心配したんだから」
ネガイはわざと軽く言う。
「あの二人にはよろしく言っといたわ。だから大丈夫」
リセはその場で深呼吸をする。
だが表情はまだ晴れない。
記憶の穴だけが、そこに残っている。
何か重要な部分だけが、綺麗に削り取られたように。
「わかった。ありがと」
リセはそれ以上、何も聞かなかった。
◇◇◇
「今日はこの辺りで一泊してもいいかもしれませんね」
「げ、こんな山の中で野宿!? テントでも立てる気?」
「テントって何? なんだか楽しそう!」
三人が話していると、茂みの向こうで小さな気配が揺れた。
「なんか出てきたよ」
「犬?」
「犬ですね」
現れたのは一匹の犬だった。
だが、その色は普通ではなかった。
毛並みは淡い黄緑色。
まるで熟す前の果実のような、不思議な色彩をしている。
現実の風景から一箇所だけ切り取られたような、浮いた存在感。
「メロンーー!」
山道に似つかわしくない、明るい声が響いた。
「メロン! どこ行ったのー!」
声の主は、少し遅れて現れた。
制服姿の少女が息を切らしながら、必死に周囲を見回している。
彼女は一行に気づき、立ち止まった。
「あっ……すみません!」
少女は即座に頭を下げ、一行に向き直る。
「この辺で犬を見ませんでしたか?」
「犬ってこれのこと?」
ネガイが茂みの方を指差す。
「メロンっていうんです。寮で飼ってるんですけど……散歩中にいきなりいなくなっちゃって」
気付いていないのか、少女は焦りながら状況を説明する。
ノゾミは、あえて少女との会話を続けた。
「この辺りで、ですか」
「はい、多分この山道のどこかに……」
そう言ってから、少女は少し考え込むように視線を落とした。
「……変なんです。あの子、こういうとこ絶対一人では来ないのに」
その言葉に、ネガイが怪訝な表情をする。
「犬の気持ちなんか人間には分からないんじゃない?」
「それは! そうなんですけど……」
少女は言いかけて、言葉を飲み込む。
そして再び顔を上げた。
「とにかく、探してるんです。もし見かけたら教えてください!」
少女の視線は、犬のすぐ脇を何度も通り過ぎていた。
「いや、あそこの犬が多分そうなんだけど」
「気づいていないのかな?」
そのまま一行に背を向け、山道を駆けていく。
呼び止める間もなかった。
「行っちゃった……」
リセの言葉は虚空を切った。
「そそっかしいってレベルじゃないでしょ、あれ」
ネガイが呆れながら、犬を撫でる。
茂みの中の犬は、寂しそうに丸くなっていた。
「見つからないんじゃなくて、見つけられないだけなのかもしれませんね」
ノゾミも納得しながら、犬を撫でた。
犬の機嫌は、すっかり直っていた。
「なんでみんな、この犬撫でてんの?」
そう言いつつも、リセも犬を撫でていた。
犬は何故か、リセにだけ懐いていた。
ふと、薄桃色の霞のようなものが揺らいだ気がした。
あまりにも一瞬だったのでリセは気にも留めず、ただ犬を撫で続けた。
◇◇◇
「メロン!」
リセたちが犬を撫でながら待っていると、先ほど山道を駆けていった少女が再び戻ってきた。
当然のように抱き上げられたが、犬は抵抗しない。
むしろ安心したように身を預けている。
その様子はあまりにも自然で、あまりにも正しい。
だからこそ、逆に違和感があった。
意図的に一度、切り離す必要があったかのように。
ネガイは小さく首を傾げる。
「家出してたんじゃないの?……やけに素直」
犬が懐くこと自体は珍しくない。
だが、ネガイが覚えた違和感はそういうものではなかった。
もっと根本的な。
最初からそうであるべきだったかのような整合性。
それに気づかないまま、少女は笑っていた。
「よかった……本当に。皆さん、見つけていただいて本当にありがとうございます!」
三人は、少しだけバツが悪そうな態度で揃えてこう言った。
「どういたしまして」
黄緑色の犬は、その腕の中で安心したように目を細める。
山道の風は穏やかだった。
だが、その犬の色だけが、どうしても現実に馴染んでいなかった。
メロンは少女の腕の中で、落ち着きなく身をよじっていた。
甘えるというより、何かを確かめるような執拗さだった。
何度も、何度も。
そこにいることを執拗に確認するように、身体を寄せる。
「ちょっと、メロン落ち着いてってば」
苦笑しながらも離そうとはしない。
ネガイがその様子を見て、小さく息を吐いた。
「……さっきから思ってたんだけど、その犬ちょっと過剰じゃない?」
メロンは少女の腕の中で、さらに強く身体を寄せていた。
まるで何かを誤魔化すように。
世界は静かだった。
だが、その静けさの裏側で、確かに何かが隠されたまま進んでいた。
「少しよろしいですか?」
「あ、はい!」
ノゾミが話しかけると、少女は慌てて姿勢を正した。
「この近くに、休息できる場所はありますか。山歩きで少し疲れましたので」
(お姉ちゃんの場合は、リセを背負って螺旋階段を上ったせいでしょ……)
話を混乱させるのは明白だったので、ネガイは心の中だけで突っ込んだ。
少女は少し考えたあと、あっさりと頷く。
「それなら、うちの寮が近いです」
「寮?」
ネガイが小さく聞き返す。
「はい。夕張寮っていう学生寮です。空き部屋がいくつかあるので、外部の人でも事情があれば泊まれます」
そう言ってから、慌てて付け足す。
「あっ、私、夕張有紗って言います。司さ……管理人さんには話を付けておきますので、安心してください!」
ノゾミは軽く礼を言い、柔らかく笑みを返す。
「よろしくお願いします。私はノゾミ、こちらはネガイ」
「わたしはリセ! よろしくね」
有紗も安心したように笑う。
メロンはその間も、有紗の横にぴったりと寄り添っていた。
離れる気配はない。
「ちょ、ちょっとメロン!? 今日はどうしたの!?」
有紗が困惑する。
だがメロンは止まらない。
その様子を見て、リセの表情がわずかに変わった。
「……それ、ちょっと変じゃない?」
ネガイも眉をひそめる。
「さっきから思ってたけど、距離感おかしすぎでしょ」
ノゾミは黙ってメロンを見ていた。
次の瞬間。
メロンの輪郭が、揺らいだ。
黄緑の毛並みがほどけるように崩れ、形が変わっていく。
骨格が伸びるのではなく、存在そのものが書き換わるような変化だった。
そこに立っていたのは犬ではなかった。
黄緑の長い髪で、艶のある唇。
犬耳を揺らしたまま、妙に色気のある女性が笑いながら、身体をくねらせた。
「有紗ちゃんとメロンはぁ♡」
甘ったるい声。
「ずーっと一緒じゃなきゃダメなんだからぁ♡」
空気が一瞬で張り詰めた。
リセが半歩引く。
ネガイの指先に力が入る。
ノゾミは無言で距離を測った。
「……敵?」
ネガイが低く呟く。
その言葉を皮切りに、三人が一斉に戦闘態勢へと切り替わる。
「待ってください!」
有紗の声が割って入った。
両手を前に出し、必死に制止する。
「違います! それ敵じゃないです!」
緊迫した雰囲気から脱したものの、三人は警戒を解かない。
有紗は息を整えながら続けた。
「えっと、その……メロンは使い魔なんです」
「使い魔?」
ネガイが怪訝そうに聞き返す。
「はい……私はその、魔法使いで……」
有紗は少し恥ずかしそうに、それでも真面目に言った。
「使い魔は魔法の力を持った、魔法使いのパートナーなんです。魔物とか、そういうわけじゃないんですけど……」
「魔法使いだって、信じられるお姉ちゃん?」
ネガイが即座にノゾミを振り返る。
「あなたがそれを言うのですか」
「魔法少女ネガイかぁ……似合いすぎ」
リセが小さく噴き出す。
「はぁ!? アンタらも人のこと言えないでしょうが!」
「えぇ!? あなたたちも魔法使いだったんですか?」
有紗が目を丸くする。
「違うし」
ネガイが即答した。
「似たようなもんでしょ」
「だから、違うってば!」
ネガイがすかさず返す。
リセは特に深く追及する気もなさそうだった。
ノゾミは少し離れた位置から、そのやり取りを見ている。
その横で犬耳の女性――メロンだった存在は、楽しげに有紗へ寄り添う。
距離感は、親しさというより執着に近い。
離れる気配は毛頭ないようだ。
「メロンは、私の大事な友達なんです。でも……」
メロンに抱き着かれながら、有紗は少しだけ視線を落とした。
「いなくなる前は、こんな感じじゃなかったんです」
リセはメロンを見つめる。
ノゾミは視線を細める。
ネガイは呆れるようにため息をついた。
「これが家出する犬……人には見えないわね」
「そうだね。こんなに引っ付いてるし」
「確かに今の行動と辻褄が合いませんね」
皮肉を述べるネガイに、リセとノゾミが珍しく同調する。
有紗は少し困ったように笑った。
「そう、ですよね……」
メロンはその間も、有紗のそばから離れない。
むしろ距離を詰めるように寄り添い続けている。
それは忠誠というより、執着に近かった。