望却のリセ   作:ひみっち

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第11話「平和な世界に咲く綻び」

 

 境界を抜けた先の山道は、空気が澄んでいた。

 舗装もされていない緩やかな斜面を、木漏れ日が斑に照らしている。

 人の気配は薄く、遠くで鳥の声だけが落ちていた。

 

 リセは目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返している。

 眠っているのか、意識が途切れているのか、それすら曖昧だった。

 

「あれ……」

 

 やがて、暖かい陽射しを受けてリセが目を開けた。

 焦点がゆっくりと合っていく。

 まだ完全には覚醒していない。

 記憶の断片だけが脳裏に残っていた。

 空が裂けていたこと。

 誰かが何かと戦っていたこと。

 

 そして――

 

「わたし……」

 

 リセは目を大きく見開いた。

 胸の奥に空白がある。

 何か大きな出来事があった。

 だが、その続きが抜け落ちている。

 

「そうだ……」

 

 リセの視線が鋭くなる。

 記憶の断片を手繰るように辺りを見渡した。

 

「鏡巳は!?」

「ちょっと、落ち着きなさいって」

 

 声に気付いたネガイは、興奮するリセを支えた。

 

「もう戦いは終わったの」

「……終わった?」

 

 リセの眉がわずかに動く。

 納得できていない表情。

 その横でノゾミが言葉を挟み込む。

 

「リセさんに憑依した百夜さんが、あの『陽炎の手』を使って処理しました」

 

 一切の迷いがない声だった。

 ネガイが一瞬だけノゾミを見る。

 だが、すぐに視線を逸らした。

 

「そ、あの後、アンタが中々起きなくて心配したんだから」

 

 ネガイはわざと軽く言う。

 

「あの二人にはよろしく言っといたわ。だから大丈夫」

 

 リセはその場で深呼吸をする。

 だが表情はまだ晴れない。

 記憶の穴だけが、そこに残っている。

 何か重要な部分だけが、綺麗に削り取られたように。

 

「わかった。ありがと」

 

 リセはそれ以上、何も聞かなかった。

 

 

    ◇◇◇

 

 

「今日はこの辺りで一泊してもいいかもしれませんね」

「げ、こんな山の中で野宿!? テントでも立てる気?」

「テントって何? なんだか楽しそう!」

 

 三人が話していると、茂みの向こうで小さな気配が揺れた。

 

「なんか出てきたよ」

「犬?」

「犬ですね」

 

 現れたのは一匹の犬だった。

 だが、その色は普通ではなかった。

 毛並みは淡い黄緑色。

 まるで熟す前の果実のような、不思議な色彩をしている。

 現実の風景から一箇所だけ切り取られたような、浮いた存在感。

 

「メロンーー!」

 

 山道に似つかわしくない、明るい声が響いた。

 

「メロン! どこ行ったのー!」

 

 声の主は、少し遅れて現れた。

 制服姿の少女が息を切らしながら、必死に周囲を見回している。

 彼女は一行に気づき、立ち止まった。

 

「あっ……すみません!」

 

 少女は即座に頭を下げ、一行に向き直る。

 

「この辺で犬を見ませんでしたか?」

「犬ってこれのこと?」

 

 ネガイが茂みの方を指差す。

 

「メロンっていうんです。寮で飼ってるんですけど……散歩中にいきなりいなくなっちゃって」

 

 気付いていないのか、少女は焦りながら状況を説明する。

 ノゾミは、あえて少女との会話を続けた。

 

「この辺りで、ですか」

「はい、多分この山道のどこかに……」

 

 そう言ってから、少女は少し考え込むように視線を落とした。

 

「……変なんです。あの子、こういうとこ絶対一人では来ないのに」

 

 その言葉に、ネガイが怪訝な表情をする。

 

「犬の気持ちなんか人間には分からないんじゃない?」

「それは! そうなんですけど……」

 

 少女は言いかけて、言葉を飲み込む。

 そして再び顔を上げた。

 

「とにかく、探してるんです。もし見かけたら教えてください!」

 

 少女の視線は、犬のすぐ脇を何度も通り過ぎていた。

 

「いや、あそこの犬が多分そうなんだけど」

「気づいていないのかな?」

 

 そのまま一行に背を向け、山道を駆けていく。

 呼び止める間もなかった。

 

「行っちゃった……」

 

 リセの言葉は虚空を切った。

 

「そそっかしいってレベルじゃないでしょ、あれ」

 

 ネガイが呆れながら、犬を撫でる。

 茂みの中の犬は、寂しそうに丸くなっていた。

 

「見つからないんじゃなくて、見つけられないだけなのかもしれませんね」

 

 ノゾミも納得しながら、犬を撫でた。

 犬の機嫌は、すっかり直っていた。

 

「なんでみんな、この犬撫でてんの?」

 

 そう言いつつも、リセも犬を撫でていた。

 犬は何故か、リセにだけ懐いていた。

 

 ふと、薄桃色の霞のようなものが揺らいだ気がした。

 あまりにも一瞬だったのでリセは気にも留めず、ただ犬を撫で続けた。

 

 

    ◇◇◇

 

 

「メロン!」

 

 リセたちが犬を撫でながら待っていると、先ほど山道を駆けていった少女が再び戻ってきた。

 当然のように抱き上げられたが、犬は抵抗しない。

 むしろ安心したように身を預けている。

 その様子はあまりにも自然で、あまりにも正しい。

 だからこそ、逆に違和感があった。

 意図的に一度、切り離す必要があったかのように。

 

 ネガイは小さく首を傾げる。

 

「家出してたんじゃないの?……やけに素直」

 

 犬が懐くこと自体は珍しくない。

 だが、ネガイが覚えた違和感はそういうものではなかった。

 もっと根本的な。

 最初からそうであるべきだったかのような整合性。

 それに気づかないまま、少女は笑っていた。

 

「よかった……本当に。皆さん、見つけていただいて本当にありがとうございます!」

 

 三人は、少しだけバツが悪そうな態度で揃えてこう言った。

 

「どういたしまして」

 

 黄緑色の犬は、その腕の中で安心したように目を細める。

 山道の風は穏やかだった。

 だが、その犬の色だけが、どうしても現実に馴染んでいなかった。

 

 メロンは少女の腕の中で、落ち着きなく身をよじっていた。

 甘えるというより、何かを確かめるような執拗さだった。

 何度も、何度も。

 そこにいることを執拗に確認するように、身体を寄せる。

 

「ちょっと、メロン落ち着いてってば」

 

 苦笑しながらも離そうとはしない。

 ネガイがその様子を見て、小さく息を吐いた。

 

「……さっきから思ってたんだけど、その犬ちょっと過剰じゃない?」

 

 メロンは少女の腕の中で、さらに強く身体を寄せていた。

 まるで何かを誤魔化すように。

 世界は静かだった。

 だが、その静けさの裏側で、確かに何かが隠されたまま進んでいた。

 

「少しよろしいですか?」

「あ、はい!」

 

 ノゾミが話しかけると、少女は慌てて姿勢を正した。

 

「この近くに、休息できる場所はありますか。山歩きで少し疲れましたので」

 

(お姉ちゃんの場合は、リセを背負って螺旋階段を上ったせいでしょ……)

 

 話を混乱させるのは明白だったので、ネガイは心の中だけで突っ込んだ。

 少女は少し考えたあと、あっさりと頷く。

 

「それなら、うちの寮が近いです」

「寮?」

 

 ネガイが小さく聞き返す。

 

「はい。夕張寮っていう学生寮です。空き部屋がいくつかあるので、外部の人でも事情があれば泊まれます」

 

 そう言ってから、慌てて付け足す。

 

「あっ、私、夕張有紗って言います。司さ……管理人さんには話を付けておきますので、安心してください!」

 

 ノゾミは軽く礼を言い、柔らかく笑みを返す。

 

「よろしくお願いします。私はノゾミ、こちらはネガイ」

「わたしはリセ! よろしくね」

 

 有紗も安心したように笑う。

 メロンはその間も、有紗の横にぴったりと寄り添っていた。

 離れる気配はない。

 

「ちょ、ちょっとメロン!? 今日はどうしたの!?」

 

 有紗が困惑する。

 だがメロンは止まらない。

 その様子を見て、リセの表情がわずかに変わった。

 

「……それ、ちょっと変じゃない?」

 

 ネガイも眉をひそめる。

 

「さっきから思ってたけど、距離感おかしすぎでしょ」

 

 ノゾミは黙ってメロンを見ていた。

 

 次の瞬間。

 メロンの輪郭が、揺らいだ。

 黄緑の毛並みがほどけるように崩れ、形が変わっていく。

 骨格が伸びるのではなく、存在そのものが書き換わるような変化だった。

 

 そこに立っていたのは犬ではなかった。

 黄緑の長い髪で、艶のある唇。

 犬耳を揺らしたまま、妙に色気のある女性が笑いながら、身体をくねらせた。

 

「有紗ちゃんとメロンはぁ♡」

 

 甘ったるい声。

 

「ずーっと一緒じゃなきゃダメなんだからぁ♡」

 

 空気が一瞬で張り詰めた。

 リセが半歩引く。

 ネガイの指先に力が入る。

 ノゾミは無言で距離を測った。

 

「……敵?」

 

 ネガイが低く呟く。

 その言葉を皮切りに、三人が一斉に戦闘態勢へと切り替わる。

 

「待ってください!」

 

 有紗の声が割って入った。

 両手を前に出し、必死に制止する。

 

「違います! それ敵じゃないです!」

 

 緊迫した雰囲気から脱したものの、三人は警戒を解かない。

 有紗は息を整えながら続けた。

 

「えっと、その……メロンは使い魔なんです」

「使い魔?」

 

 ネガイが怪訝そうに聞き返す。

 

「はい……私はその、魔法使いで……」

 

 有紗は少し恥ずかしそうに、それでも真面目に言った。

 

「使い魔は魔法の力を持った、魔法使いのパートナーなんです。魔物とか、そういうわけじゃないんですけど……」

「魔法使いだって、信じられるお姉ちゃん?」

 

 ネガイが即座にノゾミを振り返る。

 

「あなたがそれを言うのですか」

「魔法少女ネガイかぁ……似合いすぎ」

 

 リセが小さく噴き出す。

 

「はぁ!? アンタらも人のこと言えないでしょうが!」

「えぇ!? あなたたちも魔法使いだったんですか?」

 

 有紗が目を丸くする。

 

「違うし」

 

 ネガイが即答した。

 

「似たようなもんでしょ」

「だから、違うってば!」

 

 ネガイがすかさず返す。

 リセは特に深く追及する気もなさそうだった。

 ノゾミは少し離れた位置から、そのやり取りを見ている。

 

 その横で犬耳の女性――メロンだった存在は、楽しげに有紗へ寄り添う。

 距離感は、親しさというより執着に近い。

 離れる気配は毛頭ないようだ。

 

「メロンは、私の大事な友達なんです。でも……」

 

 メロンに抱き着かれながら、有紗は少しだけ視線を落とした。

 

「いなくなる前は、こんな感じじゃなかったんです」

 

 リセはメロンを見つめる。

 ノゾミは視線を細める。

 ネガイは呆れるようにため息をついた。

 

「これが家出する犬……人には見えないわね」

「そうだね。こんなに引っ付いてるし」

「確かに今の行動と辻褄が合いませんね」

 

 皮肉を述べるネガイに、リセとノゾミが珍しく同調する。

 有紗は少し困ったように笑った。

 

「そう、ですよね……」

 

 メロンはその間も、有紗のそばから離れない。

 むしろ距離を詰めるように寄り添い続けている。

 それは忠誠というより、執着に近かった。

 

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