一行は山道を抜けていた。
舗装は途切れ、木々の間に細い獣道のような道が続く。
その先に、それはあった。
山の中腹にぽつりと建つ、一軒の家。
夕張寮と呼ばれていた場所は、想像していた集合住宅とはまるで違う。
木造の古い建物。
けれど手入れだけは行き届いていて、妙に生活の気配が濃かった。
「……ここ?」
ネガイが寮を指差す。
「はい」
有紗は少し誇らしげに頷いた。
「ここが私たちの夕張寮です。山の中ですけど、ちゃんと人も住んでますよ」
リセは一度だけ周囲を見渡した。
人の気配はしていない。
風の音と、木々の擦れる音だけ。
それなのに、なぜか誰かに見られているような感覚だけが残っている。
ノゾミは何も言わず、家を見上げていた。
構造を確認するような、淡い視線。
しかしその金の瞳は、建物そのものではなく、その向こう側を見ているようだった。
「やばぁ♡ あの冷たい目、ちょー推しなんだけどぉ♡」
視線の先で、女の影がくるりと回る。
「もしかしてウチ狙い? いやーん♡」
自分の胸に手を当て、楽しげに身をよじる。
その笑みは明るいのに、どこか噛み合っていない。
まるで、感情の形だけを真似しているようだった。
「いいなぁ……ああいうの、もっと欲しいなぁ♡」
◇◇◇
「司さーん、末莉さーん、あれ、まだ誰も帰ってきてないですね」
玄関からの声が、静かな家の中に落ちた。
返事はない。
山の家特有の、少しだけ湿った静寂だけが残る。
有紗は首を傾げながらリビングへ向かう。
そして、足を止めた。
「……え?」
そこには有紗の知らない女がいた。
リビングの中で異様に目立つ、ピンクのボブカット。
当然のようにソファへ腰掛け、クッションを抱えてくつろいでいる。
まるで最初からそこが自分の場所だったかのように。
「えっ!? 誰ですかあなた!?」
有紗の声が裏返る。
女はゆっくり顔を上げ、口元を吊り上げる。
「やっと気づいたぁ♡」
軽い声だった。
悪びれも、驚きもない。
純粋に待っていたという気持ちが全面に出ている。
「ウチ? ウチはねぇ……」
少しだけ間を置いて、嬉しそうに両手で頬を包む。
「カプンチュル♡」
女は媚びたような声で名乗った。
「……不法侵入?」
ネガイが目を細める。
「えっ泥棒じゃん!?」
リセが即座に反応する。
カプンチュルは、二人の言葉を聞いてぱちくりと瞬きをする。
「あれぇ? ウチ、招かれた感じだったんだけどぉ?」
首を傾げる仕草すら、どこか芝居がかっている。
「誰に?」
リセの声は冷たい。
「空気♡」
「空気は招待状なんか出さない」
「そこツッコむとこじゃないでしょ」
ネガイがため息をつく。
だが緊張は抜けない。
堂々と居座るカプンチュルの態度は、じわじわと不気味さを増していた。
「司さんたちの知り合いかもしれませんし……とりあえず、お客さんとして――」
「どう見ても怪しいでしょ!」
ネガイが食い気味に突っ込む。
「やっぱり泥棒なんじゃない?」
リセは悪人を見るような目付きでカプンチュルを一瞥する。
「盗ったもの返すなら許してあげる。今のうちよ」
「ええ!?」
有紗の声が再び裏返る。
「ちょ、待って待って! いきなり犯罪者扱いするのはやめてあげてください!」
カプンチュルはそのやり取りを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「あれぇ?」
笑っているのに、温度がない。
「おかしいなぁ……普通はもうちょっといい感じの空気になるはずなんだけどぉ?」
指先が、空中でゆっくりと揺れる。
その動きに意味があるのかどうかも分からない。
ただ、薄っすらと甘い空気が入っていくような気がした。
「……ねぇ」
カプンチュルの声が少しだけ軽くなる。
「なんでそこだけズレてるの?」
その視線が、リセへ向く。
次にネガイへ。
まるで計算外の誤差を見つけたように。
ノゾミはその光景を静かに見ていた。
「――は?」
リセとネガイの声が、同時に重なった。
言葉になる前の違和感が、そのまま音になったようなタイミングだった。
カプンチュルはその様子を見て、目を輝かせた。
「これこれぇ♡」
ぱちん、と手を叩く。
「よく見たら金髪と銀髪の組み合わせじゃーん♡ 解釈一致すぎるぅ♡」
身を乗り出すようにして、二人を交互に見つめる。
「金髪ツーサイドアップとぉ♡ 銀髪ショートツインテロリっ子ぉ♡ ちょー推しなんだけど♡♡♡」
リセはきょとんとした表情に、ネガイは真顔になる。
「帰っていい?」
「だめぇ♡ お持ち帰り決定ぃ♡」
それが合図だった。
リセとネガイの足元から、桃色の波紋が広まっていく。。
寮の輪郭が一拍遅れて崩れ、代わりに桃色だけの空間が押し出されるように広がる。
木の壁も、家具の質感も、順番に意味を失っていく。
残るのはただ一つ、この組み合わせが成立している世界という空気だけだった。
「なに……この……なに?」
「こっちが聞きたいわよ!」
ネガイが言い返した途端、足元がわずかに滑る。
リセが反射的に腕を伸ばして支えた。
意図せず、二人の距離が近づく。
何かが起きかけた気配だけが走る。
そして、意味不明なほどキラキラしたエフェクトだけが、空中に残った。
「ノゾミと有紗ちゃんたちはどこいったの?」
「アタシに聞かれても知らないわよ……それより、もうアンタ、早く手を放しなさいよ!」
リセはネガイに急かされ、手を放す。
そのやり取りの一部始終を見ていたカプンチュルは頬を押さえる。
「きゃー、ツンデレちびっ子が素直になれないやつぅ♡」
「誰がツンデレよ!」
ネガイが即座に噛みつく。
「え、違うの?」
リセは、ネガイを見ながら真顔で聞き返す。
「アンタはどっちの味方なのよ!」
リセとネガイの会話を聞いていたカプンチュルの目が輝いた。
「そうそう、これこれぇ♡♡♡」
両手を叩きながら、カプンチュルは嬉しそうに笑っていた。
「否定してるのにそう見えるやつぅ♡ 最高ぉ♡」
◇◇◇
「あの、リセさんとネガイさんでしたっけ? お二人を探しにいかなくて大丈夫なんですか?」
有紗が不安そうに尋ねる。
「問題ありません」
ノゾミは即答した。
視線はすでに別のものへ向いている。
「それより、そこのメロンさんの状態。やはり、あの女性が関係しているようです」
淡々とした声。
だがその金の瞳は、微かに鋭さを増していた。
有紗はその言葉に、思わずメロンを見る。
――犬耳の女は、相変わらず有紗の隣に寄り添うように立っている。
距離が近すぎるほどに。
二人の様子を観察していたノゾミが、メロンの首元にわずかな痕跡を見つける。
「……こちらで治せるかもしれません」
「えっ!? 本当ですか!?」
「はい。有紗さん、少し後ろを向いていてください」
言われるまま、有紗は素直に背を向けた。
その位置からは、ノゾミとメロンの距離がやけに近く見える。
「失礼します」
ノゾミがそっと手を伸ばす。
次の瞬間、痕跡は何事もなかったように消えていた。
同時に、メロンの姿は小さな犬へと戻る。
「な、なにが起きたんですか?」
「魔法、のようなものです」
「すごい……そんな魔法もあるんですね」
有紗は素直に感心する。
ノゾミは小さく頷いた。
それ以上は語らない。
語る必要がないと判断しているからだった。
ノゾミはそのまま、宙に円を描く。
空間がわずかに歪み、裂け目が開いた。
「え……」
突然発生した空間の亀裂に、有紗は困惑しているようだった。
その反応を気にする様子もなく、ノゾミは裂け目の向こうへ声を投げる。
「リセさん、ネガイ。裂け目は用意してあります。こちらに戻れますか?」
しばらく待っていると、返答は裂け目の向こう側から同時に飛んできた。
「ノゾミ!? ごめん、今それどころじゃない! ねぇネガイ、これどうやったら元に戻るの?」
「知らないわよ! アンタがやったんでしょーが!」
どこか遠くで、騒がしい気配。
裂け目の奥は、明らかに戦闘中というより、収拾不能な状況だった。
ノゾミは一度だけ瞬きをする。
「……そうですか」
ノゾミは短くそう言うと、裂け目に手をかざした。
そのまま閉じようとする。
――だが、一瞬だけ。
裂け目の縁に、虹色の光が絡みついた。