望却のリセ   作:ひみっち

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第13話「恋は世界を狭くする」

 

 空間は、カラフルなハートで埋め尽くされていた。

 視界のすべてが虹色に塗り潰され、どこが床でどこが壁なのかすら曖昧になっている。

 

「……なにこれ」

 

 リセが呆然と呟く。

 

「知らないわよ、アタシに聞かないで」

 

 ネガイは腕を組んだまま、露骨に視線を逸らした。

 ついさっきまで存在していた桃色の空間は、もう跡形もない。

 一方その中心で、カプンチュルは頬を押さえていた。

 

「え、ちょ、待って……この増え方は想定外なんだけどぉ……♡」

 

 明らかに余裕を失っている。

 

 きっかけは、ほんの出来心だった。

 

 百夜に憑依されていたときの力の残滓。

 本来なら触れてはいけないはずのものを、軽く試しただけだった。

 

「……あっ、これ便利じゃん」

 

 その一言が、すべての引き金だった。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 ――少し前。

 

 まだ空間が壊れきる前の、歪んだ現実の中。

 リセは、自身の身体の奥にある違和感を拭えなかった。

 

「これ……」

 

 百夜に憑依されていたとき、確かにそこに残っていた何か。

 触れれば壊れそうな、しかし消えてはいない感覚。

 かつて目にした、鏡巳の姿が増えていく光景を思い出す。

 

「あれが百夜の力なら……増やせるのかな」

 

 誰に問うでもなく、リセは左手を伸ばした。

 対象は、桃一色の宙に漂うハートのオブジェ。

 カプンチュルが空間を飾るアクセントとして残したであろう、特に意味のない虚像。

 

「……あっ」

 

 それが、裂けた。

 一つだったものが、二つに。

 

「ちょっと、何してんの?」

「……おお、もっと増やせるかな?」

 

 さらに、三つに増えた。

 ネガイの問いに答えず、リセは目の前の出来事にただ関心を抱く。

 

「うそぉ♡ ハート増やしてくれるのぉ? ありがとう♡」

 

 増えたハートに喜ぶカプンチュルをよそに、リセはさらに手を伸ばした。

 

「まだまだ増えるかな」

「人の話聞いてるぅ?」

 

 リセが意識を向けるたび、ハートが四つ、五つと増殖していく。

 止める方法は、まだ分からない。

 

「……あっ、これ便利じゃん」

 

 けれど、もっと増やせる予感がする。

 リセは、ハートのオブジェがいっぱい浮かぶ光景を思い描く。

 願望ですらない、ただの思いつき。

 その瞬間、世界が跳ねた。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 ――現在。

 

 空間は、なおも増殖を続けていた。

 カラフルなハートは天井も地面も関係なく重なり合い、もはや距離という概念そのものが曖昧になっている。

 

「……やっぱり止まらない、ねぇどうしよう?」

 

 リセが疲れたように呟く。

 

「だから知らないって言ってるでしょ」

 

 ネガイに即座に切り捨てられる。

 リセは小さく肩を落としながら、現実を確認するように周囲を見渡した。

 ほんの出来心。

 ただ一度、触れただけのはずのものが、今もなお世界を上書きし続けている。

 一方その中心で、カプンチュルは両手を広げていた。

 

「いやぁぁぁ♡ この広がり方はむしろ才能なんだけどぉ♡♡♡」

 

 テンションだけは、むしろ上がっている。

 この空間の支配者でありながら、ハートの大群を制御できていないことだけは明らかだった。

 

「ねぇこれ誰の責任? ねぇ?」

 

 ネガイの視線がリセに向く。

 

「え、わたしのせい?」

「当たり前でしょ!」

 

 ネガイの叫びは、異常な空間においても響く。

 相も変わらず、ハートは増え続けていた。

 

「……ねぇ」

 

 ネガイが滅茶苦茶な景色を見渡しながら、うんざりしたように呟く。

 

「これ、お姉ちゃん呼ぶしかなくない?」

「賛成」

 

 リセが即答した。

 迷いはない。

 判断というより、処理の一部のような速さだった。

 一方で、カプンチュルはまだ楽しそうに両手を広げている。

 

「えぇ〜♡ もうちょっと観察してからでもよくなぁい?♡」

「よくない」

「もー♡ ツンデレさんなんだからぁん♡」

「誰がツンデレだっつの!」

 

 ネガイとカプンチュルのやり取りを横目に、リセは空間の端を見上げた。

 

「ノゾミ。聞こえてる?」

 

 返答はない。

 一拍置いて、ほんのわずかに空間のずれが生じ、裂け目が開いた。

 

 ハートで埋め尽くされた異常な空間の中に、わずかな隙間が生まれる。

 そこから、何の前触れもなく一人の少女が現れた。

 ノゾミだった。

 

 周囲を一度だけ見渡す。

 視線は速く、しかし感情はほとんど動かない。

 

「……状況は」

「見れば分かるでしょ!」

 

 ネガイの声がすぐに返る。

 

「言っとくけどハート増やしたの、あの女じゃないからね。このバカが考えなしに触って、勝手に増えてったんだから」

 

 指を向けられたリセは、少しだけ目を逸らす。

 

「まさか、『陽炎の手』ですか?」

「ううん、今度は左手の方。百夜の真似できるかなーって思ったら、こんなことに……」

 

 リセの答えにノゾミは気にした様子もなく、空間を見上げた。

 無数に増殖し続けるハート。

 その中心で、楽しそうに手を広げる異物。

 

「理解しました。『百夜の手』とでも呼んでおきましょうか」

「なんかカッコよくない?」

「名前だけね。やってることはハート量産機だから」

 

 ネガイが指差す先は、ハートまみれのファンシー空間。

 ネガイとリセのやり取りの中、ノゾミが手をかざし、互い違いの裂け目を作った。

 裂け目同士を連結させ、ハートが循環するように細工している。

 増殖し続けていたハートの流れが、徐々に遅くなっていく。

 

「おお、やるじゃんお姉ちゃん」

「……出口を作ります」

 

 ノゾミは来た時の裂け目をもう一度開き、脱出口の準備をしていた。

 その横で、リセはただハートの海を見ている。

 

「……これ、ほんとに出ても大丈夫?」

「あちら側でハートの出現は確認できませんでした。脱出しても問題ないでしょう」

「じゃあ、さっさと出るわよ、こんなところ!」

 

 出口の裂け目に向かう三人の前に、カプンチュルが立ちはだかる。

 

「だめぇ♡ まだ帰っちゃダメでしょぉ♡」

 

 彼女が指先を軽く弾くと、空間の流れがねじれた。

 出口として組み上げられかけていた裂け目が、別の方向へと歪む。

 

「……この空間自体は制御できるというわけですか」

 

 ノゾミの声は普段通りの冷静さを保っていた。

 しかし、手の動きが止まったままだ。

 

「つまり、あれ倒さないと出られない?」

「アタシ、あいつと戦うの嫌なんだけど。なんか変なこと言ってくるし」

「倒す必要はありません」

 

 ノゾミはすぐに否定し、口元にわずかな笑みを浮かべた。

 

「無視できる状態にすれば、通過可能です」

「それもう倒すのと同じじゃない?」

 

 ネガイのツッコミは空間に吸われる。

 リセは一歩だけ、ハートの海を踏んだ。

 

「……じゃあ、通れるようにすればいいんだ」

 

 リセがそう呟いた瞬間だった。

 右腕に、鈍い熱が走る。

 

「え?」

 

 思わず視線を落とす。

 右手の輪郭が曖昧になり、透け始めていた。

 

「『陽炎の手』……制御できたのですか」

「ううん、多分できてない。でも、必要な時には出てくれるようになったみたい」

「本当に大丈夫なの?」

 

 ネガイが露骨に嫌そうな顔をする。

 カプンチュルだけは目を輝かせていた。

 

「きゃー♡ なにそれなにそれ♡ イベント発生の予感♡」

 

「黙って」

「黙れ」

「お静かに」

 

 三人の意見が揃った。

 カプンチュルはしゅんと肩を落とす。

 

「ひどくなぁい?♡」

 

 誰も返事をしなかった。

 

 リセは透け始めた右手を見つめる。

 相変わらず、それが何の力なのかは分からない。

 だが一つだけ確かなことがある。

 この手は、本来触れてはならないものに届く。

 

「……試してみる」

「待ちなさい」

 

 ネガイの制止も聞かず、リセは最も近くにあったハートへ手を伸ばす。

 その指先に接触したハートが揺らいだ。

 まるで水面に落とされた絵の具のように輪郭が崩れていく。

 

「やっぱりこの力、危険かも」

「分かってんなら無暗に試すのはやめなさいよ!」

 

 リセとネガイが目を瞬く。

 崩れたのは一つだけではなかった。

 周囲のハートも連鎖するように揺らぎ始める。

 増殖し続けていた空間に、初めて、綻びが生まれた。

 カプンチュルの表情が固まる。

 

「ちょっ……えっ?」

 

 今までの余裕が消える。

 ノゾミは静かにその変化を観察していた。

 

「なるほど」

「お姉ちゃん、感心してる場合じゃないでしょ!」

 

 ネガイが即座に突っ込む。

 我に返ったノゾミは揺らぐ空間の一点を指差した。

 

「出口です」

 

 そこには虹色のハートに埋もれていたはずの景色が、わずかに覗いていた。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 出口を抜けた三人は、そのまま夕張寮のリビングへと転がり出た。

 虹色のハートが崩れ落ち、桃色の空間は霧のように消失する。

 

「うわっ!」

「っと……ほら、しっかりしなさい!」

 

 リセとネガイが体勢を立て直す。

 見慣れた木造の室内。

 山奥の一軒家特有の落ち着いた空気。

 ノゾミが周囲を見回す。

 

「……ここは、元の空間のようです」

 

 その言葉に、リセがようやく肩の力を抜いた。

 

「よかった……」

 

 直後、玄関の扉が開かれ、リビングに陽射しが差し込む。

 

「有紗ちゃん、ただいま」

 

 穏やかな声が響いた。

 玄関の方から現れたのは、白髪の青年だった。

 

「司さん!」

 

 有紗の顔が明るくなる。

 その後ろから、小柄な少女がひょっこりと顔を出した。

 長い金髪のツインテールが騒がしく左右に揺れている。

 

「た、ただいま。有紗ちゃん」

「末莉さん!」

「べ、別に心配してたわけじゃないんだから」

「末莉ちゃん、留守番中の有紗ちゃんをずっと気にしてたけどね」

「司!」

 

 末莉が顔を真っ赤にして反応すると、司は困ったように笑う。

 そのやり取りを見た途端、カプンチュルの表情が固まった。

 

「……え」

 

 桃色の瞳が見開かれる。

 

「なにこれ」

 

 一歩。

 

「なにこれなにこれ」

 

 二歩。

 

「白髪お兄さんと金髪ロングツインテールぅ?」

 

 三歩。

 

「しかも優しいお兄さんとツンツンしてる女の子とかぁ♡」

 

 四歩、近づいた。

 

「解釈一致すぎるんだけどぉぉぉぉ♡♡♡」

 

 突然の絶叫に、司が目を瞬かせる。

 

「えっと……?」

 

 司の背中に隠れるように、末莉は一歩下がった。

 

「な、何よこの人」

 

 だが、カプンチュルは聞いていない。

 完全に二人しか見えていなかった。

 頬を押さえながら身悶える。

 

「これこれぇ♡」

 

 満面の笑み。

 

「こういうのよぉ♡」

 

 桃色の光が指先に灯る。

 

「これはもう、くっつけなきゃでしょぉ♡」

 

 ぱちん、と指が鳴った。

 空気が揺らぐ。

 桃色の波紋が司と末莉へ向かって広がっていった。

 だが、広がっただけで何も起こらない。

 

「……あれ?」

 

 何かがおかしかった。

 いや、おかしいのは、カプンチュルの方だった。

 司と末莉は何も変わらない。

 末莉は当然のように司の隣に立つ。

 司もまた、当然のように末莉へ視線を向けていた。

 

 そこには最初から――

 

 カプンチュルが見たかった関係が、既に存在していた。

 

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