空間は、カラフルなハートで埋め尽くされていた。
視界のすべてが虹色に塗り潰され、どこが床でどこが壁なのかすら曖昧になっている。
「……なにこれ」
リセが呆然と呟く。
「知らないわよ、アタシに聞かないで」
ネガイは腕を組んだまま、露骨に視線を逸らした。
ついさっきまで存在していた桃色の空間は、もう跡形もない。
一方その中心で、カプンチュルは頬を押さえていた。
「え、ちょ、待って……この増え方は想定外なんだけどぉ……♡」
明らかに余裕を失っている。
きっかけは、ほんの出来心だった。
百夜に憑依されていたときの力の残滓。
本来なら触れてはいけないはずのものを、軽く試しただけだった。
「……あっ、これ便利じゃん」
その一言が、すべての引き金だった。
◇◇◇
――少し前。
まだ空間が壊れきる前の、歪んだ現実の中。
リセは、自身の身体の奥にある違和感を拭えなかった。
「これ……」
百夜に憑依されていたとき、確かにそこに残っていた何か。
触れれば壊れそうな、しかし消えてはいない感覚。
かつて目にした、鏡巳の姿が増えていく光景を思い出す。
「あれが百夜の力なら……増やせるのかな」
誰に問うでもなく、リセは左手を伸ばした。
対象は、桃一色の宙に漂うハートのオブジェ。
カプンチュルが空間を飾るアクセントとして残したであろう、特に意味のない虚像。
「……あっ」
それが、裂けた。
一つだったものが、二つに。
「ちょっと、何してんの?」
「……おお、もっと増やせるかな?」
さらに、三つに増えた。
ネガイの問いに答えず、リセは目の前の出来事にただ関心を抱く。
「うそぉ♡ ハート増やしてくれるのぉ? ありがとう♡」
増えたハートに喜ぶカプンチュルをよそに、リセはさらに手を伸ばした。
「まだまだ増えるかな」
「人の話聞いてるぅ?」
リセが意識を向けるたび、ハートが四つ、五つと増殖していく。
止める方法は、まだ分からない。
「……あっ、これ便利じゃん」
けれど、もっと増やせる予感がする。
リセは、ハートのオブジェがいっぱい浮かぶ光景を思い描く。
願望ですらない、ただの思いつき。
その瞬間、世界が跳ねた。
◇◇◇
――現在。
空間は、なおも増殖を続けていた。
カラフルなハートは天井も地面も関係なく重なり合い、もはや距離という概念そのものが曖昧になっている。
「……やっぱり止まらない、ねぇどうしよう?」
リセが疲れたように呟く。
「だから知らないって言ってるでしょ」
ネガイに即座に切り捨てられる。
リセは小さく肩を落としながら、現実を確認するように周囲を見渡した。
ほんの出来心。
ただ一度、触れただけのはずのものが、今もなお世界を上書きし続けている。
一方その中心で、カプンチュルは両手を広げていた。
「いやぁぁぁ♡ この広がり方はむしろ才能なんだけどぉ♡♡♡」
テンションだけは、むしろ上がっている。
この空間の支配者でありながら、ハートの大群を制御できていないことだけは明らかだった。
「ねぇこれ誰の責任? ねぇ?」
ネガイの視線がリセに向く。
「え、わたしのせい?」
「当たり前でしょ!」
ネガイの叫びは、異常な空間においても響く。
相も変わらず、ハートは増え続けていた。
「……ねぇ」
ネガイが滅茶苦茶な景色を見渡しながら、うんざりしたように呟く。
「これ、お姉ちゃん呼ぶしかなくない?」
「賛成」
リセが即答した。
迷いはない。
判断というより、処理の一部のような速さだった。
一方で、カプンチュルはまだ楽しそうに両手を広げている。
「えぇ〜♡ もうちょっと観察してからでもよくなぁい?♡」
「よくない」
「もー♡ ツンデレさんなんだからぁん♡」
「誰がツンデレだっつの!」
ネガイとカプンチュルのやり取りを横目に、リセは空間の端を見上げた。
「ノゾミ。聞こえてる?」
返答はない。
一拍置いて、ほんのわずかに空間のずれが生じ、裂け目が開いた。
ハートで埋め尽くされた異常な空間の中に、わずかな隙間が生まれる。
そこから、何の前触れもなく一人の少女が現れた。
ノゾミだった。
周囲を一度だけ見渡す。
視線は速く、しかし感情はほとんど動かない。
「……状況は」
「見れば分かるでしょ!」
ネガイの声がすぐに返る。
「言っとくけどハート増やしたの、あの女じゃないからね。このバカが考えなしに触って、勝手に増えてったんだから」
指を向けられたリセは、少しだけ目を逸らす。
「まさか、『陽炎の手』ですか?」
「ううん、今度は左手の方。百夜の真似できるかなーって思ったら、こんなことに……」
リセの答えにノゾミは気にした様子もなく、空間を見上げた。
無数に増殖し続けるハート。
その中心で、楽しそうに手を広げる異物。
「理解しました。『百夜の手』とでも呼んでおきましょうか」
「なんかカッコよくない?」
「名前だけね。やってることはハート量産機だから」
ネガイが指差す先は、ハートまみれのファンシー空間。
ネガイとリセのやり取りの中、ノゾミが手をかざし、互い違いの裂け目を作った。
裂け目同士を連結させ、ハートが循環するように細工している。
増殖し続けていたハートの流れが、徐々に遅くなっていく。
「おお、やるじゃんお姉ちゃん」
「……出口を作ります」
ノゾミは来た時の裂け目をもう一度開き、脱出口の準備をしていた。
その横で、リセはただハートの海を見ている。
「……これ、ほんとに出ても大丈夫?」
「あちら側でハートの出現は確認できませんでした。脱出しても問題ないでしょう」
「じゃあ、さっさと出るわよ、こんなところ!」
出口の裂け目に向かう三人の前に、カプンチュルが立ちはだかる。
「だめぇ♡ まだ帰っちゃダメでしょぉ♡」
彼女が指先を軽く弾くと、空間の流れがねじれた。
出口として組み上げられかけていた裂け目が、別の方向へと歪む。
「……この空間自体は制御できるというわけですか」
ノゾミの声は普段通りの冷静さを保っていた。
しかし、手の動きが止まったままだ。
「つまり、あれ倒さないと出られない?」
「アタシ、あいつと戦うの嫌なんだけど。なんか変なこと言ってくるし」
「倒す必要はありません」
ノゾミはすぐに否定し、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「無視できる状態にすれば、通過可能です」
「それもう倒すのと同じじゃない?」
ネガイのツッコミは空間に吸われる。
リセは一歩だけ、ハートの海を踏んだ。
「……じゃあ、通れるようにすればいいんだ」
リセがそう呟いた瞬間だった。
右腕に、鈍い熱が走る。
「え?」
思わず視線を落とす。
右手の輪郭が曖昧になり、透け始めていた。
「『陽炎の手』……制御できたのですか」
「ううん、多分できてない。でも、必要な時には出てくれるようになったみたい」
「本当に大丈夫なの?」
ネガイが露骨に嫌そうな顔をする。
カプンチュルだけは目を輝かせていた。
「きゃー♡ なにそれなにそれ♡ イベント発生の予感♡」
「黙って」
「黙れ」
「お静かに」
三人の意見が揃った。
カプンチュルはしゅんと肩を落とす。
「ひどくなぁい?♡」
誰も返事をしなかった。
リセは透け始めた右手を見つめる。
相変わらず、それが何の力なのかは分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
この手は、本来触れてはならないものに届く。
「……試してみる」
「待ちなさい」
ネガイの制止も聞かず、リセは最も近くにあったハートへ手を伸ばす。
その指先に接触したハートが揺らいだ。
まるで水面に落とされた絵の具のように輪郭が崩れていく。
「やっぱりこの力、危険かも」
「分かってんなら無暗に試すのはやめなさいよ!」
リセとネガイが目を瞬く。
崩れたのは一つだけではなかった。
周囲のハートも連鎖するように揺らぎ始める。
増殖し続けていた空間に、初めて、綻びが生まれた。
カプンチュルの表情が固まる。
「ちょっ……えっ?」
今までの余裕が消える。
ノゾミは静かにその変化を観察していた。
「なるほど」
「お姉ちゃん、感心してる場合じゃないでしょ!」
ネガイが即座に突っ込む。
我に返ったノゾミは揺らぐ空間の一点を指差した。
「出口です」
そこには虹色のハートに埋もれていたはずの景色が、わずかに覗いていた。
◇◇◇
出口を抜けた三人は、そのまま夕張寮のリビングへと転がり出た。
虹色のハートが崩れ落ち、桃色の空間は霧のように消失する。
「うわっ!」
「っと……ほら、しっかりしなさい!」
リセとネガイが体勢を立て直す。
見慣れた木造の室内。
山奥の一軒家特有の落ち着いた空気。
ノゾミが周囲を見回す。
「……ここは、元の空間のようです」
その言葉に、リセがようやく肩の力を抜いた。
「よかった……」
直後、玄関の扉が開かれ、リビングに陽射しが差し込む。
「有紗ちゃん、ただいま」
穏やかな声が響いた。
玄関の方から現れたのは、白髪の青年だった。
「司さん!」
有紗の顔が明るくなる。
その後ろから、小柄な少女がひょっこりと顔を出した。
長い金髪のツインテールが騒がしく左右に揺れている。
「た、ただいま。有紗ちゃん」
「末莉さん!」
「べ、別に心配してたわけじゃないんだから」
「末莉ちゃん、留守番中の有紗ちゃんをずっと気にしてたけどね」
「司!」
末莉が顔を真っ赤にして反応すると、司は困ったように笑う。
そのやり取りを見た途端、カプンチュルの表情が固まった。
「……え」
桃色の瞳が見開かれる。
「なにこれ」
一歩。
「なにこれなにこれ」
二歩。
「白髪お兄さんと金髪ロングツインテールぅ?」
三歩。
「しかも優しいお兄さんとツンツンしてる女の子とかぁ♡」
四歩、近づいた。
「解釈一致すぎるんだけどぉぉぉぉ♡♡♡」
突然の絶叫に、司が目を瞬かせる。
「えっと……?」
司の背中に隠れるように、末莉は一歩下がった。
「な、何よこの人」
だが、カプンチュルは聞いていない。
完全に二人しか見えていなかった。
頬を押さえながら身悶える。
「これこれぇ♡」
満面の笑み。
「こういうのよぉ♡」
桃色の光が指先に灯る。
「これはもう、くっつけなきゃでしょぉ♡」
ぱちん、と指が鳴った。
空気が揺らぐ。
桃色の波紋が司と末莉へ向かって広がっていった。
だが、広がっただけで何も起こらない。
「……あれ?」
何かがおかしかった。
いや、おかしいのは、カプンチュルの方だった。
司と末莉は何も変わらない。
末莉は当然のように司の隣に立つ。
司もまた、当然のように末莉へ視線を向けていた。
そこには最初から――
カプンチュルが見たかった関係が、既に存在していた。