無数の本棚が果てなく並ぶ空間。
その一角で、司書服をまとった眼鏡の女が一冊の本を静かに読んでいた。
「おや……?」
女は一枚の頁をめくると、興味深そうにその記述へと眼を向ける。
「これはまた――」
女はゆっくりと立ち上がった。
誰もいない通路の奥へ視線を向け、そっと語りかける。
「興味深いお客さんが、いらっしゃったみたいですねぇ」
くすり、と笑う。
その笑いにつられるように、どこかの本棚から一冊の本が音もなく滑り落ちた。
誰も触れていない。
風も吹いていない。
それでも本はひとりでに開き、頁をめくり始める。
まるで誰かを歓迎するように。
女は本を抱え直し、奥の通路へと歩いていく。
「果たして――今回はどんな物語になるのでしょうか」
その笑顔はどこまでも無邪気だった。
◇◇◇
駅のホームを出てすぐの広間には、本棚があった。
正確には、本と本棚しかなかった。
書架が囲む通路は、どこまで続いているのか分からない。
見上げても天井は見えなかった。
「……図書館?」
リセがぽつりと呟く。
「にしては広いわね」
リセの言葉に合わせ、ネガイが返事する。
図書館というには、あまりにも広すぎる。
街一つが収まるどころではない。
むしろ世界そのものが本棚になったような光景だった。
ノゾミは静かに周囲を見回す。
「あちらを見てください」
ただ、この世界が異様なのは図書館だけではなかった。
遠くを歩く人影。
その中へ混ざるように何か動くものがいる。
ずるずると這い寄るように蠢く触手の塊。
人型なのに、どこか形が崩れている存在。
それらが、普通に本を読んでいた。
触手の塊に散りばめられた無数の目が、あちこちを見渡し、リセたちを一斉に凝視する。
しかし、興味が失せたのか、視線はすぐに手元の本へと戻っていく。
「う、うわぁ……なんかいる」
「見りゃ分かるって……あんまり刺激しないで」
声を潜める二人をよそに、背後から声がかかる。
「おやおやぁ……なにかお探しですか?」
「っ!?」
リセとネガイが飛び上がる。
いつの間にか、本棚の間に女が立っていた。
桃色の長髪に丸眼鏡。
人懐っこそうな笑顔は、この空間には不釣り合いなように見えた。
「ゲ……またピンク」
露骨に嫌そうな顔をするネガイ。
「失礼ですねぇ……ピンクがお気に召しませんでしたかぁ?」
女はにこにこしている。
「ごめん、前に会ったピンクがアレだったのよ」
「ああ、カプンチュルさんですか」
予想だにしない名前が出てきたので、ネガイは疑念の目を向ける。
「アンタ、なんでその名前を知ってるの?」
「この図書館に知らないことはあまりありませんので」
女は軽くスカートを摘み、お辞儀する。
「初めまして」
柔らかく微笑む女の表情は、どこか胡散臭かった。
「ワタシは、この無幻図書館の司書です」
所作の美しさと裏腹に、その挨拶は芝居がかっていた。
リセが首を傾げる。
「名前は?」
「ピンクの司書です」
「ふざけてんの?」
「いいえ、これがワタシの名前ですけど?」
さも当然とも言える返しにリセとネガイは、一瞬だけ固まった。
「知らないことはあまりないというのは、本当ですか?」
困惑している二人をよそに、ノゾミは疑問をぶつける。
「はい、本当ですとも。ここは、ありとあらゆる本がある場所なんですよぉ」
彼女が指を鳴らす。
すると、同時に本棚が右往左往に動きだした。
まるで、意志を持つ生き物かのように。
「過去の世界、未来の世界、忘れられて人々の記憶から消えてしまった世界」
ピンクの司書は、その場で楽し気にくるりと回る。
「もちろん、アナタたちの本も、ありますよぉ?」
リセが少し目を瞬かせた。
「わたしのも?」
「ええ、もちろん。この図書館に存在しない記録などありませんから」
ピンクの司書は笑っていた。
だが、その瞳だけは妙に冷たい。
ノゾミは知っている。
あれは、長すぎる時間に心を摩耗させた者の目だ。
かつての自分も、同じ目をしていた。
「じゃあ、早速ネガイの本を探しに行こう!」
「なんでアタシの本からなのよ!」
「わかりましたぁ。ではまず、ネガイさんの赤裸々な秘密を見に行きましょうかぁ」
「なっ、変なこと書いてないでしょうね!?」
「大丈夫ですよぉ」
ネガイに睨まれてもピンクの司書はあっけらかんとして笑う。
「事実しか書かれていませんから」
ピンクの司書が一冊の本を引き抜く。
「こちらですねぇ」
厚みのある装丁。
表紙には銀色の文字が刻まれていた。
『願望のネガイ』
「うわ、本当にある……」
リセが感心したように呟く。
「だからあるって言ったじゃないですかぁ」
ネガイは嫌そうな顔をしながら本を受け取った。
「なんか嫌な予感しかしないんだけど」
恐る恐る頁を開く。
そこには簡潔な文章が並んでいた。
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宇宙の果てを見届ける少女・ノゾミの妹。
この宇宙の根源たるエネルギー「ウィッシュレイ」を星の残滓へ変換し、自在に操ることができる。その変換効率は極めて高く、純粋な火力だけで見れば姉であるノゾミを凌駕する。
棘のある態度を取ることが多いが、根は優しい。
他人に冷たい態度を取りつつも、放っておけず、つい世話を焼いてしまう性格。
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「……」
ネガイの動きが止まった。
「ん?」
リセが横から覗き込む。
「へぇ」
「へぇじゃない!」
ネガイが勢いよく本を閉じた。
「なんで最後に余計なこと書いてあんのよ!!」
声が図書館中に響く。
近くで読書していた触手の塊が一瞬だけ顔を上げた。
だが興味を失ったように再び本へ戻る。
「事実ですのでぇ」
ピンクの司書が悪びれもせず答える。
「事実でも書かなくていいでしょ!」
「えー?」
ピンクの司書は首を傾げる。
「人物紹介としては重要ですよぉ?」
「どこがよ!」
「少なくとも能力説明より重要ですねぇ」
「重要じゃないわよ!」
ネガイが即座に否定する。
リセはうんうんと頷いていた。
「確かに世話焼きだもんね」
「アンタは黙ってなさい!」
ノゾミはじっと本を眺めた後、小さく呟いた。
「概ね正しい記述ですね」
「お姉ちゃんまで!?」
味方がいなかった。
ネガイは頭を抱える。
一方でピンクの司書は満足そうに微笑んでいた。
「では次はノゾミさんの本にしましょうかぁ」
「お姉ちゃんのもあるんだ」
「もちろんですよぉ」
そう言ってピンクの司書が指を鳴らす。
すると遥か高所の本棚から、一冊の本がひとりでに抜け出し、ゆっくりとこちらへ飛んできた。
その表紙を見た瞬間。
ノゾミの目がわずかに細められた。
表紙には金色の文字が刻まれていた。
『希望のノゾミ』
「ノゾミの本!」
「なんか、アタシのより装飾が豪華じゃない?」
リセとネガイが覗き込む。
ノゾミは特に気にした様子もなく、本を開いた。
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宇宙の始まりから終わりを見届ける役目を背負った少女。
その役目は旅という形で果たされ、終着点は宇宙の外側に存在する領域――狭間の回廊である。
この宇宙の根源たるエネルギー「ウィッシュレイ」を利用し、理外の力を操ることができる。
その変換効率は、この宇宙のいかなる存在にも真似できないほど純度が高い。
所有者不在となったセラエノ断章を回収。
その後、無幻図書館への返却を忘れたまま現在に至る。
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「セラエノ断章……って何?」
リセがぽつりと呟いた。
「返却を忘れたって書いてあるわね」
ネガイも続く。
「……あれのことでしょうか?」
ノゾミは一瞬だけ思考を巡らせたが、すぐに何かを思いついたように手を横に広げる。
そのまま宙へ円を描いた。
裂け目が開く。
慣れた手つきで内部を探り、やがて一冊の黒い本を取り出した。
見覚えのある装丁だった。
「あ」
リセが声を漏らす。
「それ……」
「鏡巳たちがいた世界で拾った本じゃない」
ネガイも思い出したように眉をひそめる。
黒い表紙。
不気味な文字列。
エピュロが最後まで手放さなかった本。
それが、セラエノ断章だった。
「おお、それは紛れもなく、盗まれていた写本ですよぉ」
「偶然拾いましたので……お返しします」
ピンクの司書は差し出された本を受け取り、丁寧に表紙を撫でる。
「お帰りなさい」
まるで迷子になった子供を迎えるような口調だった。
すると、どこか遠くで鐘の音が鳴った。
こん。
予想に反して軽快な音だった。
「何今の」
「返却完了の音ですよぉ」
「鳴るんだ」
「鳴りますとも」
ピンクの司書はにこやかに頷く。
「久しぶりでしたので」
「どれくらい?」
リセが聞く。
ピンクの司書は本を抱え直した。
「三百二十七年ぶりですねぇ」
「長っ!?」
ネガイの声が図書館に響いた。
近くで読書していた触手の塊が一斉に顔を上げる。
その視線はリセたちではなく、セラエノ断章へ向いていた。
ピンクの司書が軽く目配せすると、異形たちは何事もなかったように読書へ戻る。
「人気者ですねぇ」
「嬉しくないんだけど」
ピンクの司書は何気ない調子で本を開く。
誰が触れても開かなかった黒い表紙が、まるで最初からそうするべきだったかのように開いた。
「それ、開けられたんだ」
リセが驚く。
「司書ですので」
当然、と言ったような返答だった。
「あら?」
先ほどまで得意気だったピンクの司書が、首を傾げる。
「どうしたの?」
「なんですか、この記述は」
開かれた頁には、たった一行だけ文字が記されていた。
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終わりを求めた果てに、自らの終わりを見つける哀れな存在。
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沈黙が落ちる。
リセだけがきょとんとしている。
「何それ?」
「……さあ」
ネガイはぶっきらぼうに答える。
けれど、その視線は頁から離れなかった。
ノゾミもまた何も言わない。
あの夜。
二人はエピュロが最後に消えていった光景を思い出していた。
「まあ、いいでしょう」
ぱたり、と本が閉じる。
ピンクの司書は特に気にした様子もなかった。
「こういう本にはよくあることですので」
「司書がそんなんでいいの?」
「いいんです」
即答だった。
そしてピンクの司書はセラエノ断章を本棚へ戻す。
黒い本は吸い込まれるように収まった。
最初からそこにあったかのように。
彼女が振り返り、手を合わせる。
「さて」
今度は本当に楽しそうな笑みだった。
「じゃあ最後はリセさんですねぇ」