ピンクの司書が指を鳴らした。
その合図を皮切りに、ゆっくりと本棚が動き出す。
ぎぎぎ、と巨大な書架が左右へ開いていく。
まるで道を譲るように。
「おお、便利」
リセが素直に感心する。
「便利でしょう?」
ピンクの司書は笑顔で答える。
そして迷いなく本棚へ手を伸ばした。
一冊。
二冊。
三冊。
「ふむ」
手が止まる。
「どうしたの?」
「いえ」
リセの問いを軽く流し、彼女は別の本棚へ向かう。
「こちらでしたかねぇ」
今度は十冊ほど引き抜く。
タイトルを見て、そのまま戻す。
さらに別の本棚へ向かう。
「……?」
ネガイが眉をひそめた。
さっきまでとは様子が違う。
ノゾミも静かに観察している。
ピンクの司書の笑顔は変わらない。
だが、歩く速度だけが少しずつ速くなっていた。
「司書さん?」
「少々お待ちくださいねぇ」
返事は軽い。
だが視線は本棚から離れない。
ぱらぱら、ぱらぱらと。
次々と本が開かれていく。
閉じられ、戻される。
また別の棚へ移る。
「……変ですねぇ」
「え?」
リセが首を傾げる。
「何が?」
「いえいえ」
ピンクの司書は誤魔化すように笑う。
「少し探し方を変えましょう」
その瞬間、図書館全体が大きく震えた。
無数の本棚が勝手に動き始める。
遥か遠方にあった書架まで一斉に移動を始めた。
「ちょっと」
ネガイの表情に動揺が浮かぶ。
「大事になってない?」
「なってますねぇ」
「他人事じゃないでしょ!?」
さらに本棚が動く。
本が飛び交い、紙片が舞う。
まるで図書館そのものが何かを探しているようだった。
「おや?」
ピンクの司書は白蛇が書かれた本に目を留める。
勢いよく本を開き、血眼になって中身を確かめた。
「……当てが外れましたか」
それからピンクの司書はいくつかの本を集め、順番に開いていく。
多くの妖怪が書かれた本。
犬耳の少女が青空を駆ける本。
桃色だけで装丁された、不思議な一冊。
リセたちは、それらの本をどこかで見たような感覚に包まれた。
数分後、静寂が訪れる。
ピンクの司書の手が止まった。
初めてだった。
彼女が笑顔のまま固まっているのは。
「……ありません」
ぽつりと呟く。
「え?」
リセが聞き返す。
ピンクの司書はゆっくり振り向いた。
その顔からは笑みが消えていた。
「見つかりません。リセさんの本だけ」
ピンクの司書の静かな声が響き渡る。
誰もすぐには反応できなかった。
ネガイが最初に口を開く。
「管理ミスじゃないの?」
「ありえません」
間髪を入れない否定だった。
「この図書館に収蔵されていない記録など、本来は存在しません」
リセは特に気にした様子もないように、
「でも無い物は無いんじゃない?」
と返した。
「そうですねぇ……本当に、無いのかもしれませんねぇ」
誰にも聞こえないほどの小さな返事。
「……そんなはず、ないのですが」
その声には困惑よりも、別の色が混じっていた。
好奇心、あるいは探究心。
本来なら存在するはずの記録。
本来なら存在しないはずの空白。
その両方が、目の前の少女には同居していた。
ピンクの司書はしばらくリセを見つめる。
「……面白いですねぇ」
くすり、と笑った。
先ほどまでの営業用の笑顔ではない。
心から興味を持った者の笑みだった。
困惑する一同をよそに。
リセだけは本棚を見上げていた。
「じゃあ、わたしの本は、わたしの好きに書いていいってこと?」
「なんでそうなるのよ!」
ネガイが思わず突っ込む。
「でも無いなら仕方なくない?」
「よくないわよ!」
「自伝ですか。旅の記録を書いてみるのも、面白いかもしれませんね」
「お姉ちゃんまで……」
リセは本気で言っているようだった。
ピンクの司書はそんな三人のやり取りを眺めながら、小さく笑う。
「ふふ、ますます興味が湧いてきましたねぇ」
その時だった。
急に、図書館の奥から重い振動が伝わってきた。
床がわずかに震えだす。
「な、何?」
リセが音の方向に目を向けた時、再び低い衝撃音が響いた。
何か巨大なものが倒れたような音だった。
「本棚でも倒れたの?」
静寂を好む異形たちは、一斉に本から顔を上げていた。
無数の目が同じ方向を向き、ざわり、と空気が揺れる。
ピンクの司書の笑みが少しだけ薄くなっていた。
「おや?」
今度は音だけではなかった。
遠くの書架の向こうで、本が何冊も宙へ舞い上がる。
まるで何かに弾き飛ばされたように。
「図書館ではお静かに願いたいものですが……」
ピンクの司書はそう呟きながらも、視線を奥へ向けたままだった。
やがて叫び声が響く。
「だから言ってるじゃないですかァ!!」
図書館中に反響するほど大きな声だった。
静寂の世界にはあまりにも似つかわしくない。
周囲の異形たちが露骨に嫌そうな顔をする。
「うわ、うるさい」
リセが率直な感想を漏らした。
「同感」
ネガイも頷く。
しかし叫び声は止まらない。
「そんな夢みたいな話ばっかり集めて何になるんですかァ!!」
声が近付くたび、本棚が揺れる。
ついには遥か彼方の書架が傾き、本の雪崩を起こしながら崩れ始めた。
書架の列が次々と崩れていく。
異形たちが悲鳴を上げながら、慌てて逃げ出しているのが見える。
「ちょっと、かわいそうでかわいいかも」
「アンタのセンスはどうなってんのよ?」
リセの独特な感想にネガイが呆れた声を出す。
その間にも、本棚は倒れ続けていた。
異形たちは我先に逃げている。
本を抱えて逃げる者。
本だけ守って自分が潰されかけている者。
触手で器用に本棚を支えている者までいた。
やがて、崩れた書架の向こうから一人の少女が姿を現した。
長い髪から覗く不機嫌そうな顔。
腕には何冊もの本を抱えている。
「だから嫌なんですよォ!!」
少女は叫ぶ。
「夢だの願望だの恋愛だの友情だのッ!」
本を振り回しながら続ける。
「そんな都合のいい話ばっかり並べて何になるんですかァ!!」
周囲の異形たちが一斉に距離を取った。
見た目によらず、常識的な判断をするらしい。
「誰?」
「さあ?」
リセの問いに反応したのはピンクの司書だった。
「少なくともワタシは初めて見ますねぇ」
「司書なのに?」
「司書だからですよぉ……本を読むことでしか、物を知りませんのでねぇ」
ピンクの司書は少女を見据える。
先ほどまでの柔らかな笑みは、もう残っていなかった。
「しかし、この図書館には相応しくない……招かれざる方のようです」
「はァ?」
少女がぴたりと動きを止めた。
ぎろり、とピンクの司書を睨む。
「なんですか、その言い方はァ」
抱えていた本を乱暴に積み直す。
「まるで私が不法侵入者みたいじゃないですかァ!」
「違うんですかぁ?」
ピンクの司書は煽るように眼鏡の縁をくいと持ち上げる。
少女の額に青筋が浮かぶ。
「違いますよォ! 私はただ、ここにある本の内容に抗議しているだけですゥ!」
「十分迷惑なんだけど」
ネガイがぼそりと呟く。
「ですよねぇ」
ピンクの司書も頷いた。
「だいたい何なんですか、この図書館はァ!」
少女はさらに苛立った様子で周囲を指差した。
もう片方の手で近くの本棚を叩く。
「恋愛成就ッ!」
別の本棚を叩く。
「友情パワー!」
さらに叩く。
「奇跡の逆転劇ッ!」
ばん、と閉じた本を掲げる。
「ご都合主義の見本市ですかァ!?」
「本に謝って」
真顔のリセを見て、少女は一瞬だけ固まる。
「なんでですかッ!」
「痛そうだから」
「本は痛くないでしょウ!」
即座にツッコミが返ってきた。
様子を見ていたネガイが腕を組みながら、口元を緩める。
「やっぱリセって、ちょっとズレてるのね。アタシがおかしいだけだと思ってたわ」
その一言で少女の視線がこちらへ向いた。
ノゾミ、ネガイを一瞥して、再びリセに視線を戻した時、怒りに満ちた表情が引きつった。
「……アッ」
嫌なものを見つけた顔だった。
「なに? そんなに見られると困るんだけど」
少女はまじまじとリセを観察した後、数秒黙り込んだ。
それから深いため息を吐く。
「あなたが主人公ですかッ……」
「主人公?」
「気付いてないんですかァ」
少女は額を押さえ、気だるそうに声を漏らす。
「面倒ですねェ……」
「初対面で失礼じゃない?」
「失礼なのはそっちですよォ」
「なんで?」
「なんでってッ……」
少女はリセを指差し、まくし立てた。
「あなた、困っている人は見捨てられないタイプでしょウ!」
「だと思う」
「どうせそのうち誰か助けるんでしょウ?」
「助けられるかな」
「どうせ無茶するんでしょウ?」
「それはするかも」
「どうせ最後は何とかなるんでしょウ?」
「分かんない」
予想外の回答に、少女の思考が固まった。
「……はァ?」
「そんなの誰にも分からなくない? 上手くいく時もあるし、失敗する時もあるし」
「じゃあなんでそんな平然としてるんですかァ」
「今考えても仕方ないから?」
少女は頭を抱え、リセを睨みつける。
「普通は、物語の主人公なら何とかするじゃないんですかァ?」
「物語?」
リセは小さく首を傾げる。
「今のこれ、そういうのなの?」
「そういうのなんですッ!」
少女は叫ぶように言った。
「だから嫌なんですよォ!」
「それ以上は無粋ですよぉ。やめておきなさい」
ピンクの司書が鋭い視線を向ける。
少女は一瞬だけ黙って、それから小さく鼻を鳴らした。
「無粋、って便利な言葉ですねェ」
腕に抱えた本を開く。
ぱらり、と頁が落ちる。
その瞬間だった。
本棚の奥で、一冊の童話が勝手に開いた。
――王子は姫を救った。
そう書かれていたはずの一文が、ゆっくりと書き換わる。
――王子は姫を救えなかった。
「……は?」
ネガイが声を漏らす。
別の本が開く。
さっきまで笑って手を取り合って仲良くしていた二人が、仲違いする結末に変わる。
また別の本。
成功したはずの冒険が、最初から失敗していたことになっている。
「何これ」
困惑するリセから漏れ出た声に、少女は勢いよく答えた。
「直してるだけですッ」
ぱちん、と指が鳴る。
本が次々と、元とは異なる結末へ書き換わっていく。
「間違った話は、読みにくいのでッ」
周囲の異形たちがざわつく。
ノゾミの表情から、いつもの笑みは消えていた。
姉の様子から、ネガイも気を引き締める。
ピンクの司書は目を細めながら、納得したように呟く。
「なるほどぉ……そういう存在でしたか」
その声は、珍しいおもちゃを見つけた子供のように無邪気だった。
けれど、その瞳はすでに別の興味を映し始めていた。