崩れた本棚のさらに奥。
そこは図書館というより、閉じた本たちが呼吸だけを続けている場所だった。
頁のように重なった闇の中心に、それはあった。
眠ったまま動かない不規則な肉の塊。
世界そのものが息を潜めているような空白。
ピンクの司書は、その前に立っていた。
「ご主人様」
まるで挨拶のように。
「お目覚めくださいな」
その声に応える者はいない。
「なにをするつもりですか」
ノゾミの声が背後から落ちる。
ピンクの司書は振り返らない。
ただ少しだけ、肩をすくめた。
「見て分かりませんかぁ……」
変わらぬ調子で笑う。
「夢から覚めるんですよ」
「何を言っているのか、わかりません。ここは図書館のはずでしょう」
ピンクの司書は楽しそうに振り返る。
「はず?」
軽く首を傾げる。
「ただの図書館に、あらゆるものを記録するなんて出来ると思ってたんですかぁ」
そして、小さく笑う。
「この宇宙は、最初から夢なんですよぉ」
その瞬間、ノゾミの表情がわずかに変わる。
「……夢?」
ピンクの司書はゆっくりと闇の奥へ視線を向ける。
「宇宙の終わりは、いつでも同じだと思いますかぁ?」
「いいえ、私が観測した限りでは、因果と時期、どれも異なっていました」
「そうでしょう、そうでしょう」
仰々しい態度で納得の意を示すピンクの司書。
ノゾミは彼女が自身と似ていると感じつつも、その存在の不確かさを測りかねていた。
「夢だから、曖昧と?」
「夢だからこそ、図書館なんてものが成立しているんですねぇ……夢だから、自由に記録できる」
「それを証明するものが、あなた自身の存在なのですか?」
ノゾミは最初に会った時からの違和感を投げかける。
彼女は明らかに、この宇宙が始まる前のことを知っている。
「いいえ、違いますよぉ」
ピンクの司書の答えはノゾミが期待するものではなかった。
「ですが、証明などする必要はありませんねぇ。全てなかったことになるのですから」
その言葉と同時に、最深部の空間がわずかに歪んだ。
「宇宙の終わりは今回、たまたま時期が早まった。それだけに過ぎないのですよぉ」
ピンクの司書は、まるで確認するように呼ぶ。
「ご主人様、全部壊されてしまう前にそろそろ覚めましょう」
その声に応じるように、最深部がまた一段と深く沈む。
ノゾミの顔が変わった。
「……まさか」
初めて声に揺らぎが出る。
裂け目を開いて、声を届ける。
「リセさん、ネガイ。聞こえますか」
崩れゆく書架の向こうへ向けて。
ノイズ混じりの声が割り込む。
「ちょっと、何よこれ!」
ネガイの声だった。
「ユメディスが暴れててそれどころじゃ――」
「構いません」
ノゾミは遮る。
「すぐに来てください」
短く、強い命令だった。
「ネガイ……何が起きてるの」
「わかんない。でも、お姉ちゃんがあんなに焦ってるの、初めてかも」
一拍遅れて、裂け目の向こう側が沈黙する。
ノゾミは奥を見た。
「世界の果てに、こんなにも早く到達するとは思っていませんでした……」
珍しい焦りだった。
ピンクの司書は振り返らない。
ただ静かに、その揺れている存在を見つめている。
図書館の最深部で、何かが目を開きかけていた。
◇◇◇
崩壊する本棚の外側。
図書館の構造が歪むにつれて、空間の距離という概念も曖昧になっていた。
遠いはずの通路が、次の瞬間にはすぐ隣にある。
見えていた場所が、もう存在していない。
「――リセ! こっち!!」
ネガイが叫ぶ。
その背後、本棚の間を裂くようにユメディスの姿が見えた。
暴れた跡のように、書架がねじれ、再構成されている。
「だから言ってるじゃないですかァ!」
ユメディスの声が響く。
「全部、壊さなきゃ駄目なんですよォ!」
破壊に合わせて、別の場所の本棚が沈むように崩れていく。
確かに壊しているのに、他の場所も関係なく壊れていく。
「ちょっと待って、これ何が起きてんのよ!」
ネガイが舌打ちする。
一瞬、ノゾミの言葉が頭をよぎる。
(すぐに来てください)
「ネガイ、早くノゾミと合流しよう!」
「わかってる! あの女が邪魔!!」
リセの声に合わせて、ネガイが手を振る。
星の光を何度も撃ち込み、爆炎が弾けた。
視界が一瞬だけ白に潰れる。
しかし――
「効きませんよォ!!」
ユメディスの声は、すぐ背後で鳴った。
ネガイの表情が強張る。
「こいつ、めちゃくちゃタフだわ……!」
リセはネガイの前に踊り出る。
右目が、わずかに揺れた。
金色の瞳が、淡く光り始める。
「なんですかそれはァァァ!!!」
「リセっ!!!」
ここがどこか。
どこに繋がっているのか。
今、繋ぐべきところはどこか。
それを理解した瞬間、リセの右目が強く輝いた。
「なッ!」
ユメディスが咄嗟に後退する。
視界がひび割れるように崩れた。
やがて、輝きが収まる。
空間が変わっていた。
「え?」
ネガイの声が遅れて漏れる。
さっきまで図書館の一角にいたはずの場所が、地下の最深部へと繋がっている。
道はない。
移動した痕跡もない。
ただ、最初からここにいたことになっている。
「なに……これ」
ネガイが息を呑む。
ユメディスも動きを止め、リセたちを睨み続ける。
「場所が……変わってない?」
いや、変わっていないのではない。
変わったという事実ごと、書き換えられている。
リセは何も変わらないまま立っている。
「ここ、入り口じゃなかったんだ」
ぽつり、と。
「本当は、奥に繋がってた」
その言葉と同時に、図書館の奥から明確な異質さが溢れ出す。
圧だけが、こちら側に逆流してくるように。
◇◇◇
「ノゾミ!」
「お姉ちゃん!」
「待ちなさいよォォォ!」
リセとネガイ、ついでにユメディスが駆けながら、ノゾミの元へ向かっていた。
「皆さん、そこで止まってください!」
珍しくノゾミが声を荒げる。
空気が重くなり、一行は立ちすくんだ。
リセとネガイはともかく、ユメディスまでもが気迫に押されて動きを止めている。
「……なんで私まで止まるんですかァ」
ユメディスが苛立たしげに呟く。
「納得してないんですけどォ」
「納得は不要です」
ノゾミの返事にユメディスは舌打ちしそうな顔をしたまま、それ以上踏み込まない。
それどころではなかったからだ。
視線の先にはピンクの司書。
そのさらに奥には巨大な蠢く何か。
今にも瞳を開こうとウトウトしている。
「……あれは、な、何ですか一体ィ?」
ユメディスの声が、初めてわずかに震えた。
「世界そのものですよぉ」
ピンクの司書が楽しそうに笑う。
「そんな設定いらないんですけどォォ!?」
ユメディスが苛立ちを隠さないまま、声を荒げる。
「設定ではありません」
ノゾミの静かな声が割り込む。
「事実です」
その一言で、空気が一段だけ沈む。
「ノゾミ……?」
「お姉ちゃん……?」
リセとネガイが同時に息を呑む。
ユメディスだけが、何かを理解しかけていた。
そして、自分の手が震えていることに気づく。
「……ちょっと待ってくださいよォ」
掠れた声。
「それ、つまり……ッ」
言葉が続かない。
ノゾミは答えない。
ただ奥を見る。
その視線の先の何かは、ゆっくりと変わり始めていた。
ピンクの司書が、楽しそうに笑った。
「さぁ皆さん、そろそろお目覚めの時ですよぉ」
まるで待っていたと言うように。
その瞬間。
蠢く何かの瞼が、ほんのわずかに持ち上がる。
――きしり、と。
そのわずかな動きに呼応するように、周囲の壁が揺らぎ始める。
もはや、空間そのものが、消え去ろうとしていた。
消えるというより――
そこには元々、何もなかったと認識されているようだった。
「残念ながら、手遅れのようです」
「お姉ちゃん……」
気付けば、周りの空間は本の一冊も残っていなかった。
それどころか、壁や床も曖昧で、全てが黒く塗りつぶされている。
そして、ノゾミ、ネガイ、ユメディスの輪郭までもが揺らいでいく。
ただ一人、リセを除いて。