望却のリセ   作:ひみっち

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最終話「望却のリセ」

 

 もはや、空間そのものが、消え去ろうとしていた。

 そこに在ったという事実ごと、無情にも剥がされていく。

 

 図書館も、書架も、言葉も、関係も。

 順番に、存在していたという記録、そのものが失われていく。

 

「リセ、お姉ちゃ……」

 

 ネガイの声が途中で途切れた。

 その輪郭が、崩れるように薄くなる。

 

「ネガイ!」

 

 リセの声が届いた瞬間、その存在は最初から、そこにいなかったものとして処理されるように、世界から外れた。

 理解より先に、結果だけが残る。

 消えた。

 その事実だけが、遅れて胸を刺す。

 

「……ネガイ」

 

 呼んでも、もう返事はない。

 

「リセさん、この世界を、お願いします……」

 

 視線の先で、ノゾミの気配も揺れる。

 

「ノゾミ!」

 

 ネガイと同じように、存在の記録がほどけていく。

 自分に目的を与えてくれた人たちは、もうどこにもいなくなっていた。

 

「……ノゾミ」

 

 ピンクの司書だけが、その場に立っていた。

 消えないまま。

 自らの所業の果てに、ただ、驚いている。

 

「観測者まで消えてしまうとは……ちょっと予想外。ご主人様はこれからどうするおつもりなのでしょうねぇ……」

 

 世界のすべてが、最初からそういう記録ではなかったものへと書き換えられていく中で。

 ただ一人。

 リセだけが残っていた。

 

「どうして……」

 

 ピンクの司書の声が揺れる。

 

「アナタは……消えていないんですか?」

 

 しかし、リセは答えない。

 言葉どころか、姿すら、認識していないようだった。

 リセは周囲を見た。

 声も、温度も、気配も。

 もうほとんどが、存在していたという前提ごと失われている。

 それでも身体だけが、ここに立っている。

 

「……やだ」

 

 小さく、こぼれる。

 その瞬間、理解してしまう。

 

 ネガイも。

 ノゾミも。

 

 いなくなったのではない。

 最初からいなかったことにされている。

 

「……やだよ」

 

 声が震える。

 止められない。

 ここにいたはずなのに。

 

「なんでなの……?」

 

 もう、そのいたという証明が、どこにもない。

 涙が落ちる。

 一粒だけ。

 それがやけに重かった。

 

 リセの中で、何かが決められてしまった。

 

 もう取り戻せない。

 もう誰も証明できない。

 その事実が、厳かに決定される。

 

「……違うよ、こんなの」

 

 しかし、かすれた声が、事実を否定し始める。

 それは、リセの心からの望みでもあり、願いであった。

 

「違う!」

 

 その叫びと共に、左目の視界が揺れる。

 銀の瞳は、崩壊した世界の裏側、別の景色を映し出していた。

 数え切れないほどの、あり得たかもしれない未来が広がり出す。

 

 そこには――

 

 ノゾミもネガイもいなかった。

 

「違う……」

 

 そこには――

 

 ノゾミがいた。

 ネガイはいなかった。

 

「違う……!」

 

 そこには――

 

 ネガイがいた。

 ノゾミはいなかった。

 

「違う!!」

 

 砕けた満天の星に望みを重ね、絶たれた青空を数えてきた。

 叶えたいと焦がれるほど、祈りは歪み胸を刺す。

 

 願いはいつも満ちる前に、諦めの影を連れてくる。

 夢見た形求めて失うたび、心は強く冷えていく。

 

 世界の果てが滅びなら、果ての先を探し続ける。

 渇きに溺れ、望却した未来を拾い集めて。

 

 終わらない繰り返しの中、終焉を選び続ける。

 泣き寝入りも、諦めもしない。

 

 この望みだけは終わらせない。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 そこには――

 

 ノゾミがいた。

 ネガイもいた。

 

 何も失われていない、可能性として成立した世界。

 

「……こんなの」

 

 リセは一切の躊躇もなく、一歩、踏み出す。

 涙を残したまま。

 

「ずるいよ」

 

 溢れる涙と共に、右目の視界が揺らぐ。

 金の瞳に、光が灯った。

 

 存在していた可能性が選ばれる。

 

 失われた“空白”ではなく、

 失われなかった“未来”として上書きされていく。

 

 それは、修復ではない。

 回復でもない。

 ただ、「そうだった」と世界が思い出すだけ。

 

 静寂がほどけ、景色が色づいた。

 空っぽの白が意味を取り戻すように満ちていく。

 

「……リセ?」

 

 すぐ隣で、声がした。

 ネガイだった。

 

「バカ、なにいきなり泣いてんのよ」

 

 その隣に、ノゾミもいる。

 

「大丈夫ですか。リセさん?」

 

 何事もなかったように。

 リセはしばらく動けなかった。

 

「………………よかった」

 

 やっと、それだけ言う。

 両目の光はゆっくりと消えていく。

 世界は元に戻ったのではない。

 

 最初からそうだったことにして、ようやく世界は息をした。

 合わせるように図書館も、再び呼吸を再開する。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 元通りとなった図書館の中で、空気だけが少し遅れて落ち着いていく。

 どこか、薄い膜を隔てたような違和感が残っている。

 その中心に、ユメディスだけが立っていた。

 何も変わっていないように見える。

 

 だが――

 

 最初から、その位置だけがずれているような感覚。

 

「……あレ?」

 

 ユメディスが、自分の手を見る。

 指先が、ほんのわずかに透けていた。

 

「ちょっと、待ってくださいよォ……」

 

 声がかすれる。

 

「私、まだここにィ――」

 

 その言葉は最後まで届かない。

 ページをめくるように、世界が一枚ずつずれていく。

 彼女という存在だけが、記録から外れていく。

 

「さよならユメディスさん」

 

 声がした。

 すぐ近くで。

 ピンクの司書は、いつもと同じ調子でそこに立っていた。

 微笑んでいる。

 けれど、その目だけは笑っていない。

 

「ワタシだけでも、アナタのことは覚えておきますよぉ」

 

 ユメディスが振り返る。

 

「……エ?」

 

 そこにはもう、何かを変える力も、壊す力も届かない。

 ただ、そういう記録として処理された結果だけが残る。

 輪郭がほどける。

 言葉が遅れて崩れる。

 最後に残った表情だけが、わずかに揺れて――

 そして、消えた。

 

「ハッピーエンドも誰かにとってのバッドエンドなんですねぇ……」

 

 図書館には、何事もなかったかのような静けさが戻る。

 ただ一つだけ。

 ピンクの司書の視線だけが、しばらくその“空白”を見つめ続けていた。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 図書館は、静寂に包まれていた。

 何も起きなかったかのように本棚は整っている。

 通路は正しく繋がり、壊れた痕跡さえ残っていない。

 誰も、あの崩壊を語らない。

 誰も、名前を思い出さない。

 何かに襲撃された記憶も、破壊の記憶も、最初から存在しなかったかのように。

 

「……夢、だったのかな」

 

 リセが、ぽつりと呟く。

 けれど、その言葉に自分でも納得できない。

 胸の奥にだけ、消えない重さが残っている。

 誰かの名前を呼びかけそうになって、やめる。

 思い出そうとした瞬間、そこだけがうまく繋がらない。

 まるで、最初からそこだけ“空白”だったみたいに。

 

 リセは旅の記録を残すため、静かにペンを取った。

 

「……書こう」

 

 誰に向けるわけでもない。

 ただ、自分のために。

 ページを開く。

 最初の一行。

 

 ――わたしの名前はリセ。

 

 そこから先は、なぜか自然に言葉が続いた。

 ノゾミのこと。

 ネガイのこと。

 出会った人のこと。

 伝魔のこと。

 新しくできた友達のこと。

 図書館のこと。

 そして、失われた気がする何かのこと。

 書いているうちに、胸の奥の痛みだけが少しずつ形になる。

 それでも、最後まで書き終える。

 ペンを置いた、その瞬間。

 

「……あれ?」

 

 ページの余白が、勝手に増えていた。

 誰も触れていないのに。

 そこに、一行だけが追加されている。

 まるで最初からそこにあったかのように。

 

 ――混沌の目:あらゆる可能性を求め、存在し得る未来を提示する。

 

 リセは、その文字をしばらく見つめた。

 

「……これ、なんだろ」

 

 返事はない。

 ただ、図書館の奥で二人の声がした。

 

「リセさん、準備できましたよ」

「リセ、早く来なさいよ!」

「わかってる!」

 

 日常が、戻ってくる。

 だがそれは、元通りではない。

 

 失われなかったことにされた世界の上に成り立つ日常だった。

 

 ただ一つだけ確かなのは、

 この世界はまだ、書き足される余白を残しているということだった。

 

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