望却のリセ   作:ひみっち

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第3話「蜃気楼に沈む残響の楽園」

 

 試着室から出てきたリセは、くるりとその場で一回転し、新たな装いを得意げに見せつけた。

 

「なーに格好つけてんだか……それより、お姉ちゃんのコートまだ着てんの? さっさと返しなさいよ」

「えっ、着てちゃダメなの?」

 

 リセはコートの裾をぎゅっと握り、小さく身を縮こまらせながらノゾミの顔を伺う。

 

「構いませんよ、リセさん。お気に召したようで何よりです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、リセの表情がぱっと明るくなった。

 

「ありがとうノゾミ!」

「まったく、お姉ちゃんは甘いんだから」

 

 ネガイはそっぽを向いたまま、さらに言葉を続ける。

 

「こいつの服も新調したし、次はどこに行くの?」

「リセ」

「分かってるってば!」

 

 少し考え込んでから、ノゾミは提案した。

 

「それでは、お食事に行きませんか? リセさんも流石にお菓子だけだと物足りないでしょう」

「ご飯? 行く行く!」

「と言っても、こんな誰もいないところじゃ期待できないでしょ……」

「いえ、ご心配には及びません。この施設の動力は通っているようですので、出来合いの料理を提供する環境も整っているはずです」

「だといいけど」

 

「……もし駄目なら私が作りますよ。幸い、この場所には食材が豊富にありますから」

「お姉ちゃんが?」

「ノゾミ、料理作れるの?」

「はい、旅人には必須の技術です」

「まあ、それならいいんじゃない?」

 

 かつて旅を共にしたことのあるネガイは、姉が用意してくれた数々の食事を思い返していた。

 味、量、品数――そのどれにも妥協はなく、いつだってこちらの期待を満たすものばかりだった。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 レストランフロアを一通り見渡した末、三人が足を止めたのは、ひときわ広い面積を占める店舗だった。

 重厚な装飾の施された入口。

 外から見える席数も、他の店とは明らかに規模が違った。

 

「……ここ、たぶん一番大きい店よね」

 

 ネガイが見上げるように店内を覗き込む。

 当然、客の姿はない。

 

「レストラン“AFTERGLOW“。この階のメイン店舗、という扱いなのかもしれませんね」

 

 ノゾミは静かにそう返しながら、整然と並ぶテーブルへ視線を巡らせた。

 不思議なほど清潔で、テーブルクロスひとつ乱れていない。

 磨かれた食器が照明を柔らかく反射し、静まり返った空間だけがゆっくりと広がっている。

 

 リセは物珍しそうに辺りを見回しながら、先頭を切ってレストランの中へ足を踏み入れた。

 

「わぁ……なんかいい匂いがする」

 

 清涼感のある香草の匂い。

 奥には、焼き立てのパンを思わせるような、柔らかな温かみまで混じっていた。

 

「お姉ちゃん、これどういうこと? 誰もいないんじゃなかったの?」

「まだ分かりません。調理場に行ってみましょう」

 

 開かれたままのスイングドア。

 その隙間から、白い光が静かに漏れている。

 三人は自然と顔を見合わせ、そのまま調理場へ足を向けた。

 

 スイングドアを押し開けた瞬間、温かな空気が三人を包み込んだ。

 厨房の照明はすべて点灯している。

 磨き上げられた調理台。整然と吊るされた調理器具。

 大型のオーブンからは低い駆動音まで聞こえていた。

 

 食材は綺麗に下処理され、まな板の上には切り分けられた野菜が整然と並んでいる。

 まるで、“続き”を待っているみたいに。

 

「これ、使っていいってことだよね?」

「バカじゃないの!? どう見たって怪しいでしょうが!」

「食材に不審な点は見当たりません。ちょうど良いですし、この場をお借りして何品か作りましょうか」

「お姉ちゃん本気?」

「はい、冗談は言ってませんよ」

「ネガイは細かいこと気にしすぎだって」

「ぜんっぜん細かくない! 気にしない方がおかしいでしょ!!」

 

 ネガイはなおも何か言いたげにしていたものの、最終的には大人しく席で待つことにした。

 リセも小走りで席へ向かっていく。

 

「ノゾミって結構大胆だね」

「お姉ちゃんはあれでも世界中を旅したことあるからね」

 

 他愛もない話を交わしながら、二人は料理の完成を待っていた。

 静かな店内には、時折リセの笑い声が小さく響く。

 

 やがて厨房の奥から、油の弾ける軽快な音が聞こえてきた。

 

「……お腹空いてきた」

 

 リセがテーブルへ突っ伏すように呟く。

 その瞬間、ふわりと温かな香りが漂ってきた。

 

 溶けたバターの濃厚な風味に、爽やかな香草の香り。

 さらに、焼き立ての肉を思わせる食欲を誘う匂いまで混じっている。

 二人はほとんど同時に厨房の方を振り向いた。

 

「お待たせしました」

 

 穏やかな声とともに、ノゾミがワゴンを押しながら厨房から姿を現した。

 

 湯気を立てるスープに、香草を添えた肉料理。

 焼き立てのパンの隣には、彩り豊かなサラダまで並べられている。

 

「すごい……美味しそう」

 

 料理がテーブルへ並べられるたび、食欲を誘う香りが静かな店内へ広がっていく。

 ネガイは整然と並んだ皿を見渡し、感心したように小さく息を漏らした。

 

「流石、お姉ちゃんね」

「お口に合えばよいのですが」

 

 ノゾミは柔らかく微笑みながら、最後の皿をテーブルへ置いた。

 その瞬間、リセの腹が小さく鳴る。

 短い沈黙の後、店内に笑い声が広がった。

 

「いただきます」

 

 三人の声が、静かなレストランへ小さく溶けていく。

 リセは待ちきれない様子でナイフとフォークを手に取ると、真っ先に肉料理へ視線を向けた。

 

 香草を散らした肉は、表面にこんがりと焼き色がついている。

 切り分けた瞬間、じゅわりと肉汁が滲み出した。

 

「……絶対おいしい」

 

 たまらずといった様子で、リセは肉を大きく頬張った。

 

「んっ……!」

 

 思わず声が漏れる。

 

 噛むたびに肉汁が広がり、香草の風味とバターのコクが後から追いかけてくる。

 熱々のまま飲み込むと、空っぽだった身体へじんわり熱が戻ってくるようだった。

 

「すご……これ、なんて言ったらわかんないくらい……おいしい」

 

 目を輝かせながら、リセは再びフォークを伸ばす。

 ノゾミはその様子を見守りながら、柔らかな笑みを零した。

 

「お気に召したようで何よりです」

 

 ネガイも静かにスープへ口をつける。

 温かな湯気とともに、爽やかな香草の香りが鼻腔をくすぐった。

 

 誰もいない百貨店のレストラン。

 それでもその食卓だけは、不思議なほど穏やかな時間に満ちていた。

 

 心地よさに包まれていた一行は、店内の奥から景色がゆっくり滲み始めていることに気づかなかった。

 最奥のテーブル席に並ぶ食器類は、すでに陽炎のごとく揺らいでいた。

 

 

    ◇◇◇

 

 

「ごちそうさま、ノゾミ。とっても美味しかった」

「どういたしまして」

「やっぱりお姉ちゃんの料理は最高ね」

「何よネガイ、最初は乗り気じゃなかったくせに」

「うるさいわね、それとこれとは話が別よ!」

 

 レストランを出た三人は、一階の食品売り場を回っていた。

 照明は変わらず明るい。

 無人とは思えないほど綺麗に整えられた売り場には、色とりどりの商品が静かに並んでいる。

 

「お菓子見ていい?」

「はい、お好きにどうぞ」

「まったく、子供ね……」

「ネガイには言われたくない」

「なんですって!」

 

 軽口を交わしながらも、ネガイの足取りはどこか浮ついていた。

 冷静を装ってはいるものの、その表情には隠しきれない高揚が滲んでいる。

 

「……あ、これ」

 

 菓子売り場へ向かう途中、リセがふと足を止める。

 色鮮やかな装飾。

 各国をイメージした色合いの看板。

 そして、山積みにされた鮮やかな食品や菓子類。

 頭上には大きく、

 

 ――ワールドフェア開催中。

 

 そう記された垂れ幕が吊り下げられている。

 

「ワールドフェア……そういえば、アナウンスが流れてたっけ」

 

 リセは興味津々といった様子で売り場を覗き込んだ。

 

 深い青を閉じ込めた瓶入りの炭酸飲料。

 星形の焼き菓子に、天体を模したスナック。

 どの菓子も、思わず手を伸ばしたくなる魅力を放っていた。

 

「これにしよーっと」

 

 リセが箱菓子へ手を伸ばした、その瞬間だった。

 

「あれ……?」

 

 伸ばした指先が、ぴたりと宙で止まる。

 棚に整然と並んでいたはずの菓子箱が、ゆらりと輪郭を崩していく。

 まるで熱の揺らぎ越しに覗いた景色のように、売り場そのものが歪んでいた。

 

「リセ、なにか気になるお菓子でもあった?」

 

 ネガイが声を掛ける。

 だが次の瞬間、別の棚でも同じ現象が起きた。

 色鮮やかだった包装が滲み、文字がぼやけ、瓶詰めのキャンディが陽炎の中へ溶けていく。

 

「お姉ちゃん、これってまさか……」

「……蜃気楼。外の景色と同じですね」

 

 ノゾミが小さく呟く。

 照明は確かに灯っている。

 商品も、先ほどまでと変わらず整然と並んでいる。

 それでも、売り場そのものの“実在感”だけが、静かに薄れていくようだった。

 

「リセ、逃げるよ!」

「えっ、でもお菓子……」

「バカっ、なに言ってんの! はやく、こっち!!」

 

 ネガイの声に押されるように、リセは名残惜しそうに棚へ視線を向けた。

 それと同時に、照明が明滅し始める。

 

「――出口を作ります」

 

 ノゾミが一歩前へ出て、静かに手をかざした。

 空間に、淡い継ぎ目のような線が浮かび上がる。

 それは壁でも扉でもない。

 こちらの世界へ来た時と同じ、宇宙の裂け目であった。

 

 背後では、菓子売り場がゆっくりと歪み始めていた。

 箱の輪郭がずれ、棚の奥行きが崩れ、甘い匂いだけが濃く残る。

 

「リセさん、ネガイ、こちらに飛び込んでください!」

 

 既に裂け目は開かれており、見知らぬ世界の光景がおぼろげに映し出されている。

 ネガイがリセの手を強く引いた。

 

「いいから行くよ!」

「ちょっと、あんまり引っ張らないで!」

 

 三人の姿が境界に消えた後、繋ぎ目はゆっくりと閉じられる。

 

「ナミリをご利用いただき、ありがとうございました」

 

 どこからか、遅れて届くようにアナウンスが響いた。

 

「本日をもちまして、ナミリは営業を終了いたしました。皆様のご利用に、心より感謝を申し……」

 

 その声は途中で途切れ、残響だけが静かに残る。

 床も、棚も、天井も、輪郭を失い、遠ざかるように滲んでいく。

 音が遅れて溶け、匂いだけが最後まで残って、それすらも薄れていった……

 

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