境界を抜けた先に広がっていたのは、どこか古びた和の街並みだった。
赤提灯の並ぶ通り。
木造建築が立ち並び、遠くには瓦屋根まで見えている。
夕暮れ色の空の下、石畳だけが静かに続いていた。
「まったく、ひどい目にあったわ」
「うう、わたしのお菓子……」
「無事に抜けられたようですね」
ノゾミが辺りを一通り見回しながら呟く。
「あれ……?」
その横で、リセはふと違和感に眉を寄せた。
自分の右手が、わずかに揺らいで見える。
それは、つい先ほどまで眼前にあった陽炎と酷似していた。
「アンタ、それ!」
ネガイに指摘され、リセはようやく事の重大さに気づいた。
「わ、わたしの手が……ど、どうしよう!?」
「お、落ち着きなさいリセ! お姉ちゃんがなんとかしてくれる……はずだから!」
「助けてよネガイぃ……」
今にも抱きついてきそうな勢いで迫るリセに、ネガイは慌てて距離を取る。
「わあああっ! こっち来ないでって!!」
「リセさん。お手を拝借します」
取り乱すネガイをよそに、ノゾミは陽炎のように揺らぐリセの手をそっと取る。
そして祈るように瞳を閉じた。
「お姉ちゃん!?」
ネガイが思わず声を上げる。
だが次第に、薄れていたリセの右手がゆっくり輪郭を取り戻していった。
その変化に気づいたネガイは、息を呑んだまま口を閉ざす。
あとはただ、不安げに二人を見守ることしかできなかった。
「……間違いなく、先ほどの世界の影響を受けていますね」
ノゾミは、わずかに揺らぐリセの右手を見つめながら静かに呟いた。
「な、なにそれ……」
リセが不安げに身を縮める。
ネガイも警戒した様子で口を開いた。
「つまり、どういうことなの?」
ノゾミは一度言葉を整理するように間を置き、それからゆっくり説明した。
「先ほどの百貨店を満たしていた陽炎――あれはあの世界を構成している力のようなものです」
「あのお店がなくなっちゃった原因だよね……?」
「はい、境界を抜ける際、そのような力は元の世界へと戻っていきます。通常、外に持ち出されることはありません。ですが……」
ネガイが小さく息を呑む。
「じゃあ、リセのそれって……」
「リセさんは、あの百貨店の陽炎を身体へ残したまま、こちらへ来ています」
リセは恐る恐る、自分の右手を見下ろした。
すると指先が、ゆらりと揺らいだ。
「え、えぇぇ……!?」
◇◇◇
「――というわけで、しばらく右手は封じておきます」
ノゾミは、陽炎の残る右手をそっと握り締めた。
すると、境界を作る時と似た淡い線が手首へ浮かび、そのまま静かに沈んでいった。
陽炎のように揺らいでいた右手の輪郭が、ぴたりと安定する。
「……戻った?」
リセは恐る恐る手を握ったり開いたりする。
「ひとまず問題ありません。封が機能している間は、普段通り使えるはずです」
ノゾミの説明に、リセは胸を撫で下ろすように息を吐く。
「まったく、冷や冷やさせるわね……」
呆れたように肩を落とすネガイだったが、その表情には安堵の色が滲んでいた。
「その右手には、あの世界の陽炎が今も息づいています。扱い方次第では、実体を持たないものへ触れたり、あらゆる存在を消し去ることができるかもしれません」
「それって……なんかめちゃくちゃ危なくない?」
「危ないに決まっているでしょ! あのお店みたいになっちゃうのよ?」
「もっとも、必要とあればすぐにでも封は解除できます」
「そんな簡単に解除できて、大丈夫なの!?」
ネガイが引き気味に声を上げる。
「……制御できない状態で解放させるつもりはありません」
ノゾミは落ち着いたまま答えた。
「必要になった時は、迷わず望んでください。リセさん自身の意思が引き金になります」
「わたしの……意思?」
「はい。必要だと心から願った時、封は自然に解けるはずですよ」
リセは、自分の右手をまじまじと見つめる。
今はもう、輪郭の揺らぎも収まっていた。
見た目だけなら、普段と何も変わらない。
けれど指先へ意識を向けるたび、手の奥に微かな熱が残っている気がした。
◇◇◇
人混みに紛れながら、三人は屋台が立ち並ぶ通りへ足を向ける。
夕暮れの商店街は、妙に活気づいていた。
提灯の灯り。
漂う香ばしい匂い。
飛び交う笑い声。
その一角で、屋台のおじさんが気さくに声を張り上げる。
「お、そこの嬢ちゃんたち! 伝魔焼き食ってくか?」
「でまやき?」
リセが首を傾げる。
「ああ。この街じゃ、妖怪や化け物の類を“伝魔”って呼ぶんだよ」
おじさんは、鉄板の上で動物を模した丸い生地を返しながら笑った。
漂ってきた香ばしい匂いに、リセの目があからさまに輝く。
「“デマ”みてえな怪談話から来てるって説もあってな。見たやつはいるけど、誰も本当か分からねえ。噂だけで伝わっている魔物、だから伝魔」
「なるほど……」
ノゾミが静かに頷く。
「で、そんな縁起の悪いもんを、逆に食っちまって追い払おうって出来たのが、この伝魔焼きってわけだ!」
おじさんは得意げに笑う。
「ま、本当にいるかどうかも分からねえけどな。なにせ“デマ”だからよ! ガハハハ!」
その豪快な笑い声が、夕暮れの賑わいへ溶けていった。
「お姉ちゃん……」
呆れたようにネガイが指差した先では、リセが鉄板に釘付けになっている。
くるくる転がる伝魔焼きから、まるで目が離せないらしい。
ノゾミは小さく笑いながら、財布へ手を伸ばした。
「……伝魔焼き、三つお願いします」
「はいよ、毎度!」
軽快な返事とともに、こんがり焼き上がった伝魔焼きが手渡される。
湯気と一緒に香ばしい匂いが立ち上り、リセの表情がぱっと明るくなった。
その様子を見た屋台のおじさんは、ふと思い出したように声を潜める。
「あぁ、そうだ。嬢ちゃんたち、夜道には気をつけな」
「夜道?」
「この辺り、“蛇女”が出るんだよ」
隣で聞いていたネガイが、わずかに眉をひそめた。
「赤い目をした化け物さ。見つめられたら最後、呪われるって話だ」
夕暮れの賑わいの中、おじさんの声だけが妙に生々しく響く。
だが――。
「それって伝魔?」
リセはむしろ興味津々だった。
「たぶんな!」
おじさんは豪快に笑いながら、鉄板を叩く。
「ほら、冷める前に食いな!」
◇◇◇
「ん〜っ、おいひい……!」
焼き立ての伝魔焼きを頬張りながら、リセは幸せそうに頬を緩める。
外はこんがり、中はとろり。噛むたびに熱々の具材が口いっぱいへ広がっていった。
「ちょ、食べながら喋らない!」
ネガイが慌てて声を上げる。
「ふぁい」
「『ふぁい』じゃない!」
リセはむぐむぐと口を動かしながら、残りの伝魔焼きを飲み込んだ。
その様子に、ノゾミは小さく苦笑する。
「確かに、美味しいですね」
「でしょ!」
すっかり機嫌を良くしたリセは、串を片手にくるりと振り返った。
「それで、どうするの?」
「どうするって?」
「蛇女。夜に出るんでしょ?」
ネガイは露骨に嫌そうな顔をする。
「……まさか探す気?」
「うん。だって気になるし」
即答だった。
屋台街の向こうでは、夕暮れがゆっくり夜へ沈み始めている。
提灯の灯りも、先ほどより赤みを増していた。
ノゾミは少し考えるように目を伏せた。
「……確かに、気になりますね。あの噂も、まったくの作り話というわけではなさそうです」
「お姉ちゃんまで!?」
ネガイの悲鳴じみた声が響く。
――結局。
三人は、そのまま夜を待つことになった。
◇◇◇
夜の帳が落ちる頃には、商店街の賑わいも少しずつ静まり始めていた。
提灯の赤い灯りだけが、石畳へぼんやり滲んでいる。
「見つからないね」
リセは両手を頭の後ろで組みながら、退屈そうに空を見上げた。
「そんな簡単に見つかるわけない。どっちにしても、見つけられない方がいいに決まってるでしょ……」
「ネガイ、もしかして怖いの?」
「はぁ!? ち、違うし。別に怖がってるわけじゃ――」
ネガイは言葉を濁し、周囲へ視線を走らせる。
その時だった。
――ことり。
どこか高い場所で、小さな音が鳴った。
ノゾミが静かに視線を上げる。
路地裏へ続く細い通路。
その頭上、古びた屋根の上に、一人の少女が立っていた。
白い髪が夜風に揺れている。
巫女装束にも似た白衣。
小柄な体格。
その中で赤い瞳だけが、暗がりの中でも異様なほど鮮明だった。
少女の鋭い眼光が、リセたちを静かに捉えていた。
ネガイが息を呑む。
「ねぇ、リセ……あれ」
言いかけた声だけが、夜に落ちる。
少女は縁へと歩み出た。
足音はない。重さもない。
まるで最初から、そこに“線”だけが引かれていたような動きだった。
やがて少女は、ほんのわずかに口を開く。
「――ここは、お前たちが来るべき場所ではない」
その言葉を残して、少女の姿がふっと掻き消える。
静まり返った路地裏で。
リセの右手だけが、消えたはずの気配を掴むように熱を帯びていた。