望却のリセ   作:ひみっち

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第4話「噂は、夜に影を産む」

 

 境界を抜けた先に広がっていたのは、どこか古びた和の街並みだった。

 

 赤提灯の並ぶ通り。

 木造建築が立ち並び、遠くには瓦屋根まで見えている。

 夕暮れ色の空の下、石畳だけが静かに続いていた。

 

「まったく、ひどい目にあったわ」

「うう、わたしのお菓子……」

「無事に抜けられたようですね」

 

 ノゾミが辺りを一通り見回しながら呟く。

 

「あれ……?」

 

 その横で、リセはふと違和感に眉を寄せた。

 自分の右手が、わずかに揺らいで見える。

 それは、つい先ほどまで眼前にあった陽炎と酷似していた。

 

「アンタ、それ!」

 

 ネガイに指摘され、リセはようやく事の重大さに気づいた。

 

「わ、わたしの手が……ど、どうしよう!?」

「お、落ち着きなさいリセ! お姉ちゃんがなんとかしてくれる……はずだから!」

「助けてよネガイぃ……」

 

 今にも抱きついてきそうな勢いで迫るリセに、ネガイは慌てて距離を取る。

 

「わあああっ! こっち来ないでって!!」

「リセさん。お手を拝借します」

 

 取り乱すネガイをよそに、ノゾミは陽炎のように揺らぐリセの手をそっと取る。

 そして祈るように瞳を閉じた。

 

「お姉ちゃん!?」

 

 ネガイが思わず声を上げる。

 だが次第に、薄れていたリセの右手がゆっくり輪郭を取り戻していった。

 その変化に気づいたネガイは、息を呑んだまま口を閉ざす。

 あとはただ、不安げに二人を見守ることしかできなかった。

 

「……間違いなく、先ほどの世界の影響を受けていますね」

 

 ノゾミは、わずかに揺らぐリセの右手を見つめながら静かに呟いた。

 

「な、なにそれ……」

 

 リセが不安げに身を縮める。

 ネガイも警戒した様子で口を開いた。

 

「つまり、どういうことなの?」

 

 ノゾミは一度言葉を整理するように間を置き、それからゆっくり説明した。

 

「先ほどの百貨店を満たしていた陽炎――あれはあの世界を構成している力のようなものです」

「あのお店がなくなっちゃった原因だよね……?」

「はい、境界を抜ける際、そのような力は元の世界へと戻っていきます。通常、外に持ち出されることはありません。ですが……」

 

 ネガイが小さく息を呑む。

 

「じゃあ、リセのそれって……」

「リセさんは、あの百貨店の陽炎を身体へ残したまま、こちらへ来ています」

 

 リセは恐る恐る、自分の右手を見下ろした。

 すると指先が、ゆらりと揺らいだ。

 

「え、えぇぇ……!?」

 

 

    ◇◇◇

 

 

「――というわけで、しばらく右手は封じておきます」

 

 ノゾミは、陽炎の残る右手をそっと握り締めた。

 すると、境界を作る時と似た淡い線が手首へ浮かび、そのまま静かに沈んでいった。

 陽炎のように揺らいでいた右手の輪郭が、ぴたりと安定する。

 

「……戻った?」

 

 リセは恐る恐る手を握ったり開いたりする。

 

「ひとまず問題ありません。封が機能している間は、普段通り使えるはずです」

 

 ノゾミの説明に、リセは胸を撫で下ろすように息を吐く。

 

「まったく、冷や冷やさせるわね……」

 

 呆れたように肩を落とすネガイだったが、その表情には安堵の色が滲んでいた。

 

「その右手には、あの世界の陽炎が今も息づいています。扱い方次第では、実体を持たないものへ触れたり、あらゆる存在を消し去ることができるかもしれません」

「それって……なんかめちゃくちゃ危なくない?」

「危ないに決まっているでしょ! あのお店みたいになっちゃうのよ?」

「もっとも、必要とあればすぐにでも封は解除できます」

「そんな簡単に解除できて、大丈夫なの!?」

 

 ネガイが引き気味に声を上げる。

 

「……制御できない状態で解放させるつもりはありません」

 

 ノゾミは落ち着いたまま答えた。

 

「必要になった時は、迷わず望んでください。リセさん自身の意思が引き金になります」

「わたしの……意思?」

「はい。必要だと心から願った時、封は自然に解けるはずですよ」

 

 リセは、自分の右手をまじまじと見つめる。

 今はもう、輪郭の揺らぎも収まっていた。

 見た目だけなら、普段と何も変わらない。

 けれど指先へ意識を向けるたび、手の奥に微かな熱が残っている気がした。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 人混みに紛れながら、三人は屋台が立ち並ぶ通りへ足を向ける。

 

 夕暮れの商店街は、妙に活気づいていた。

 提灯の灯り。

 漂う香ばしい匂い。

 飛び交う笑い声。

 

 その一角で、屋台のおじさんが気さくに声を張り上げる。

 

「お、そこの嬢ちゃんたち! 伝魔焼き食ってくか?」

「でまやき?」

 

 リセが首を傾げる。

 

「ああ。この街じゃ、妖怪や化け物の類を“伝魔”って呼ぶんだよ」

 

 おじさんは、鉄板の上で動物を模した丸い生地を返しながら笑った。

 漂ってきた香ばしい匂いに、リセの目があからさまに輝く。

 

「“デマ”みてえな怪談話から来てるって説もあってな。見たやつはいるけど、誰も本当か分からねえ。噂だけで伝わっている魔物、だから伝魔」

「なるほど……」

 

 ノゾミが静かに頷く。

 

「で、そんな縁起の悪いもんを、逆に食っちまって追い払おうって出来たのが、この伝魔焼きってわけだ!」

 

 おじさんは得意げに笑う。

 

「ま、本当にいるかどうかも分からねえけどな。なにせ“デマ”だからよ! ガハハハ!」

 

 その豪快な笑い声が、夕暮れの賑わいへ溶けていった。

 

「お姉ちゃん……」

 

 呆れたようにネガイが指差した先では、リセが鉄板に釘付けになっている。

 くるくる転がる伝魔焼きから、まるで目が離せないらしい。

 

 ノゾミは小さく笑いながら、財布へ手を伸ばした。

 

「……伝魔焼き、三つお願いします」

「はいよ、毎度!」

 

 軽快な返事とともに、こんがり焼き上がった伝魔焼きが手渡される。

 湯気と一緒に香ばしい匂いが立ち上り、リセの表情がぱっと明るくなった。

 その様子を見た屋台のおじさんは、ふと思い出したように声を潜める。

 

「あぁ、そうだ。嬢ちゃんたち、夜道には気をつけな」

「夜道?」

「この辺り、“蛇女”が出るんだよ」

 

 隣で聞いていたネガイが、わずかに眉をひそめた。

 

「赤い目をした化け物さ。見つめられたら最後、呪われるって話だ」

 

 夕暮れの賑わいの中、おじさんの声だけが妙に生々しく響く。

 だが――。

 

「それって伝魔?」

 

 リセはむしろ興味津々だった。

 

「たぶんな!」

 

 おじさんは豪快に笑いながら、鉄板を叩く。

 

「ほら、冷める前に食いな!」

 

 

    ◇◇◇

 

 

「ん〜っ、おいひい……!」

 

 焼き立ての伝魔焼きを頬張りながら、リセは幸せそうに頬を緩める。

 外はこんがり、中はとろり。噛むたびに熱々の具材が口いっぱいへ広がっていった。

 

「ちょ、食べながら喋らない!」

 

 ネガイが慌てて声を上げる。

 

「ふぁい」

「『ふぁい』じゃない!」

 

 リセはむぐむぐと口を動かしながら、残りの伝魔焼きを飲み込んだ。

 その様子に、ノゾミは小さく苦笑する。

 

「確かに、美味しいですね」

「でしょ!」

 

 すっかり機嫌を良くしたリセは、串を片手にくるりと振り返った。

 

「それで、どうするの?」

「どうするって?」

「蛇女。夜に出るんでしょ?」

 

 ネガイは露骨に嫌そうな顔をする。

 

「……まさか探す気?」

「うん。だって気になるし」

 

 即答だった。

 

 屋台街の向こうでは、夕暮れがゆっくり夜へ沈み始めている。

 提灯の灯りも、先ほどより赤みを増していた。

 

 ノゾミは少し考えるように目を伏せた。

 

「……確かに、気になりますね。あの噂も、まったくの作り話というわけではなさそうです」

「お姉ちゃんまで!?」

 

 ネガイの悲鳴じみた声が響く。

 

 ――結局。

 

 三人は、そのまま夜を待つことになった。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 夜の帳が落ちる頃には、商店街の賑わいも少しずつ静まり始めていた。

 提灯の赤い灯りだけが、石畳へぼんやり滲んでいる。

 

「見つからないね」

 

 リセは両手を頭の後ろで組みながら、退屈そうに空を見上げた。

 

「そんな簡単に見つかるわけない。どっちにしても、見つけられない方がいいに決まってるでしょ……」

「ネガイ、もしかして怖いの?」

「はぁ!? ち、違うし。別に怖がってるわけじゃ――」

 

 ネガイは言葉を濁し、周囲へ視線を走らせる。

 その時だった。

 

 ――ことり。

 

 どこか高い場所で、小さな音が鳴った。

 ノゾミが静かに視線を上げる。

 

 路地裏へ続く細い通路。

 その頭上、古びた屋根の上に、一人の少女が立っていた。

 

 白い髪が夜風に揺れている。

 巫女装束にも似た白衣。

 小柄な体格。

 その中で赤い瞳だけが、暗がりの中でも異様なほど鮮明だった。

 

 少女の鋭い眼光が、リセたちを静かに捉えていた。

 ネガイが息を呑む。

 

「ねぇ、リセ……あれ」

 

 言いかけた声だけが、夜に落ちる。

 

 少女は縁へと歩み出た。

 足音はない。重さもない。

 まるで最初から、そこに“線”だけが引かれていたような動きだった。

 

 やがて少女は、ほんのわずかに口を開く。

 

「――ここは、お前たちが来るべき場所ではない」

 

 その言葉を残して、少女の姿がふっと掻き消える。

 静まり返った路地裏で。

 リセの右手だけが、消えたはずの気配を掴むように熱を帯びていた。

 

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