「なんで普通に探す流れになってるのよ……」
翌朝。
商店街から少し外れた路地を歩きながら、ネガイはげんなりした声を漏らした。
一方、隣を歩くリセは、上機嫌な足取りで歩いている。
「蛇女っていうから、もっとこう……ぬらぬらした感じかと思ってた」
「どんな想像してんのよ……」
「それにしても昨日の人の眼、綺麗だったよねぇ」
「アンタ、ちょっと呑気すぎない? もう少し危機感持ちなさいよ」
「でも、『ここは来る場所じゃない』って教えてくれたし」
「バカっ! どう考えたって、これ以上関わるなって意味でしょ!」
二人のやり取りをよそに、ノゾミは路地の片隅へ視線を向けた。
「昨夜の反応は、この辺りで途切れていますね」
路地裏は、昨夜と同じ景色のはずだった。
けれど奥へ目を向けるたび、距離感だけがわずかに曖昧になる。
「リセさん。少し、手を貸してください」
「いいよ。何か見つけたの?」
リセがノゾミの隣へ歩み寄る。
ノゾミは静かにその右手を取り、路地の奥へ向けた。
「……ノゾミ?」
次の瞬間。
リセの右手が、淡く光を帯びる。
「えっ……!?」
ネガイが目を見開いた。
右手の表面が陽炎みたいに揺らぎ、その内側へ見知らぬ景色が浮かび上がる。
「これ……神社?」
鬱蒼とした森。
その奥に佇む、古びた社。
見覚えのない景色が、揺らめく水面みたいにリセの右手へ映し出されていた。
「……やはり。この先に、別の空間が隠されているようです」
「普通には入れないよね? どうするの?」
「ここへ来た時と同じです。裂け目を作ってみましょう」
ノゾミは路地の前へ進み、慣れた手つきで空中に円を描く。
「いやいや、なんで普通に進めようとしてんの!?」
「ネガイ、落ち着きなって!」
「アンタはその右手でよく落ち着いてられるわね!?」
やがて、空中に描かれた円の内側がゆらりと揺らぐ。
「これ、ほんとにその景色が映ってたんだ……」
路地の奥にあるはずのない石段と、薄暗い森。
右手へ映っていた光景が、そのまま裂け目の向こうへ続いている。
「……繋がりましたね。行きましょう」
「昨日の人、いるかな」
「はぁ……もう好きにしなさいよ」
◇◇◇
裂け目を抜けた瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂い。
揺れる木々のざわめき。
さっきまでいた商店街の気配など、もうどこにも残っていない。
「うわ……いきなり夜になっちゃった」
リセが思わず辺りを見回す。
眩い朝の陽ざしは、夜を照らす月光に変わっていた。
「お姉ちゃん。ここ、もしかして別の世界?」
「そこまで離れてはいませんよ。こちらも、先ほどの世界の一部ですね」
ノゾミは静かに周囲を見渡すと、背後の裂け目へ指を滑らせた。
すると、空中に残っていた歪みがゆっくりと閉じていく。
「空間そのものが歪められています。誰かが意図的に隠しているのでしょう」
薄暗い森の中には、細い石段が奥へ奥へと続いている。
その先には、古びた鳥居がぼんやりと浮かんでいた。
「なんか、秘密の隠れ家みたいだね!」
「なんでそんな楽しそうなのアンタは……」
軽口を叩きながらも、三人は石段を登っていく。
やがて鳥居の前まで辿り着いた、その時だった。
「――止まれ」
空から声が落ちる。
気づけば、鳥居の上に少女が立っていた。
白い長髪が夜風に揺れる。
赤い瞳だけが、薄闇の中で静かにこちらを見下ろしていた。
「……蛇女」
ネガイが息を呑むと同時に、白髪の少女は感情の見えない声で告げる。
「ここは手前たちの領域。人が踏み込んでよい場所ではない」
そして、わずかに目を細めた。
「……お前たち、どうやってここへ来た」
赤い瞳が、三人を値踏みするように見据える。
ノゾミは静かに答えた。
「自力で道を開けました。いけませんでしたか?」
「本気で言っているのか、それは」
少女の赤い眼が鈍く光った。
「あー、信じてないな、その顔」
リセはそう言いながら、両手で円を描く。
「すごいんだよ? ノゾミがこうやって、ぱーって道を開けると、一瞬で入口ができちゃうの」
「そんな説明で信じられるわけないでしょ! 余計話ややこしくなるからやめなさいよ!」
その時だった。
森の奥から、木々を揺らす音が響く。
次第に、音だけが大きくなり、暗がりの向こうで何かが蠢いた。
「……けた」
何かを絞り出すような小さな声と共に、音の正体は姿を現す。
最初に見えたのは、腕だった。
細長い腕が、木の幹へ絡みつくように伸びている。
次に、逆さまの顔。
「っ――!?」
リセが思わず息を呑む。
それから、何本もの白い腕が、蜘蛛みたいに地面や木へ絡みつきながら這い回っていた。
その中心に、人の顔がある。
貼り付けたみたいな笑顔。
裂けるほど吊り上がった口元だけが、異様に目立っていた。
「見ぃつけた」
ぐしゃり、と湿った音が鳴り、腕の一本が千切れ落ちる。
だが次の瞬間には、別の場所からずるりと新しい腕が伸びていた。
「なんなのよ、あれ……!」
ネガイが鳥居の前で身構えた。
対して、白髪の少女は、一歩も動かない。
赤い瞳だけが、冷たく異形を見据えていた。
「……また現れたか」
低い声には、露骨な嫌悪が滲んでいる。
異形は、ゆっくりと首を傾けた。
ぎち、ぎち、と骨の軋む音が鳴る。
だがその視線の先は、リセたちではない。
鳥居の上に立つ彼女だけを見ていた。
「古いの、みぃつけた」
ぞわり、と空気が軋む。
発せられた威圧に空間が軋み、白髪が音もなく、なびいた。
「……手前を喰らうつもりか」
異形の笑みが、さらに裂ける。
間髪を入れずに無数の腕が、一斉に鳥居の上へ伸びた。
「遅い」
少女の姿が、ふっと掻き消えた。
次の瞬間には、鳥居の上から地面へ降り立っている。
伸びた腕だけが空を掴み損ね、鳥居へ絡みついた。
みしり、と木が軋む。
「うわっ……!」
リセは反射的に石段の脇へ飛び退いた。
獲物を取り逃がしてもなお、異形は愉快そうに口元を歪めていた。
腕を蠢かせながら、馳走を前にした獣のように白髪の少女を見つめている。
「逃げるの、はやいねぇ……白蛇様ぁ」
「気色の悪い」
少女は低く吐き捨てる。
その赤い瞳には、怒りよりも強い嫌悪が滲んでいた。
「お前のような出来損ないが、手前たちを喰らおうなどと」
異形の首が、ぐるりと傾く。
「だってぇ、古いのって、おいしいんでしょ? 白蛇様ぁ……いや、今はただの蛇女ァァァ」
異形の腕が地面を叩いた。
爆ぜるように土が跳ね、無数の腕が一斉に森の中を駆ける。
そのうちの一本が、リセの眼前へと迫った。
「リセ、避けて!」
ネガイの叫び声を聞き、反射的に右手を上げる。
リセの右手が、陽炎みたいに揺らぐ。
気付けば、その掌は異形の腕に触れている。
「えっ……?」
異形の腕の先端が、溶けるみたいに崩れ落ちた。
不快な笑い声が、ぴたりと止まる。
森が静まった。
そして、異形の顔だけが、ゆっくりとリセを向く。
「……なぁに、それ」
異形の腕が、四方から一斉に襲いかかる。
「っ……!」
リセは咄嗟に右手を振るった。
陽炎のように揺らぐ右手が、迫った腕へ触れる。
触れた部分から、腕の輪郭が崩れ落ちた。
どろり、と熱に溶けたみたいに形が消えていく。
「ぎ、ぁぁぁ――ッ!?」
異形が耳障りな悲鳴を上げる。
その一方で、崩れたはずの腕の断面から、すぐに新しい腕がずるりと生え始めた。
「うわっ……気持ち悪い!!」
「再生してる!?」
リセとネガイが顔を引きつらせる。
その刹那。
緋色の閃きが空を裂いた。
――斬。
異形が弾けた。
無数の腕ごと断ち切られ、肉片が森へばら撒かれる。
少女は静かに刀を振り払い、吐き捨てるように言った。
「散れ」
地に落ちた肉片が蠢く。
森の奥へ逃げるように、一斉に這い始めた。
「まだ動くの!?」
「……あの手の輩は、そう簡単には消えぬ」
少女の赤い眼が、鋭く細められる。
「……リセさん」
唐突にノゾミの静かな声が響く。
リセが振り向いた。
「右手の封が、解けています」
「えっ――」
そこで初めて気づいた。
右手が、熱い。
じわじわと、陽炎みたいな揺らぎが、指先から滲み出している。
胸の奥がざわついた。
(――扱い方次第では、実体を持たないものへ触れたり、あらゆる存在を消し去ることができるかもしれません)
ふと、以前ノゾミに告げられた言葉が脳裏をよぎる。
その言葉を反芻するように、リセは右手をぎゅっと握り返した。
逃げようとしていた肉片も、何かを感じ取ったのか、一斉に震え始める。
「いや」
異形が、初めて怯えた声を漏らす。
「いや、いやだいやだいやだいやだ!」
癇癪を起こす異形とは対照的に、リセは静かに右手を伸ばす。
ただ、それだけだった。
異形の身体が音もなく欠ける。
「や、め――」
言葉は最後まで続かなかった。
肉が崩れたのではない。
消し飛んだのでもない。
そこに存在していたという事実ごと、境界の彼方へ零れ落ちていく。
再生しようと蠢く肉片さえ、そのまま静かに揺らぎ薄まっていく。
気づけば、異形は跡形もなく消えていた。
森が、静まり返る。
「……これ、わたしがやったの……?」
揺れていた陽炎も、ゆっくりと右手へ収束していく。
リセは呆然と、自分の右手を見つめていた。