異形が消えたあとも、森はしばらく静まり返っていた。
風の音だけが、木々の間を抜けていく。
リセは、自分の右手を見つめた。
もう陽炎は消えている。
けれど、触れたものが跡形もなく消えていく感覚だけが、まだ手の奥に残っていた。
「……」
喉が乾く。
怖かった。
さっきまで、そこにいたものを、あっという間に自分が消してしまった。
「リセさん、身体の具合はどうですか?」
ノゾミが身を案じるように歩み寄る。
その瞬間。
リセは反射的に一歩後ずさった。
「っ、来ないで!」
思ったより大きな声が響いた。
ノゾミが足を止める。
ネガイも、驚いたように目を見開く。
「リセ……?」
「だ、だって……!」
右手を押さえる。
熱はまだ消えていない。
「わたし、さっき……あれを消して……っ」
声が震える。
「もし、触ったら……二人まで消えちゃったら……」
森に沈黙が落ちた。
ノゾミは何も言わずにリセを見つめている。
やがて、小さく呟いた。
「それでも」
一歩。
また一歩と、ゆっくり近づいてくる。
「ノゾミ、だめ――」
リセが言い切る前に。
ノゾミは、そっとリセの右手を包み込んだ。
「……あ」
温かかった。
本当に何も起きない。
信じられず、何度も右手を見つめ返した。
陽炎も溢れない。
消えたりなんて、しない。
ノゾミは優しく微笑んだ。
「私はここにいます。大丈夫ですよ」
その穏やかな声に、強張っていた肩から少しだけ力が抜ける。
「いっだ!?」
突然、ぐいっと頬を引っ張られた。
ネガイだった。
「な、なにすんの!?」
「バカみたいなこと言ってるから!」
ネガイは頬をつねったまま、じろりと睨む。
「勝手に一人で抱え込んでんじゃないわよ。消えるなら、とっくに消えてるっての」
「でも……」
「でもじゃない!」
ネガイはようやく手を離し、小さくため息をつく。
「まったく……アンタがアンタなのは変わんないでしょ」
その言葉に、リセはしばらく黙っていた。
やがて、絞り出すように声を漏らす。
「……ありがと」
今にも泣きそうな声だった。
その様子を少し離れた場所から、白髪の少女は静かに見つめていた。
◇◇◇
境内には、静かな夜気が満ちていた。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、木々は穏やかに揺れている。
石段へ腰を下ろしたリセは、ようやく呼吸を落ち着かせていた。
ネガイは、腕を組んだまま周囲を警戒している。
ノゾミは、社の方へ目を向けていた。
そんな三人へ向けて、白髪の少女が、ゆっくりと口を開く。
「……手前は
夜風が白い髪を揺らした。
「人間からは、“伝魔”と呼ばれている者だ」
血のように赤い瞳がリセたちを見据える。
「先ほどは助かった。礼を言う」
そう言って、鏡巳は小さく頭を下げた。
リセは少しだけ困ったように笑う。
「でも、白蛇様って呼ばれてたんだよね?」
鏡巳はわずかに目を伏せ、自嘲気味に口元を緩めた。
「……昔の話だ」
そう言ったきり、鏡巳は視線を上げなかった。
「今ここにいるのは、人々に忘れられた哀れな蛇女だ」
リセには、その言葉が妙に寂しく聞こえた。
ネガイも、思わず口を閉ざす。
ノゾミは、静かに目を伏せた。
境内に沈黙が落ちる。
やがて鏡巳は、その空気を断ち切るように視線を上げた。
「……それで」
赤い瞳が、再び、三人を見据える。
「お前たちは何者だ」
リセは少し考えるように視線を泳がせたあと、へらっと笑った。
「ただの旅人だよ」
鏡巳は、しばらく無言でリセを見つめる。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そういうことにしておいてやろう」
鏡巳はそれ以上追及せず、そっと視線を外した。
ネガイはそこで、ようやく張っていた肩の力を少し抜く。
だが、すぐに思い出したように眉をひそめた。
「で、さっきのバケモノはいったい何なの?」
境内の空気が、わずかに冷える。
鏡巳は鳥居の向こう――暗い森へ目を向けた。
「奴らは、つい最近現れ始めた異形。手前とは相容れない者だ」
わずかに侮蔑を孕んだ低い声が、夜の境内へ重くのしかかる。
リセは首を傾げた。
「そういえば、鏡巳も伝魔でしょ。あれは伝魔じゃないの?」
「違う。伝魔は、人の噂や恐れから形を得る存在だ」
鏡巳は、自分の白い髪を指先で弄びながら続ける。
「忘れられれば薄れ、語られれば強くなる。良くも悪くも、人の認識から逃れられぬ」
その赤い瞳が少し揺らいだのを、リセは感じ取っていた。
「だが、奴らは違う。どういう原理かは分からぬが、誰に噂されずとも、そこにいる」
「それ、ズルいじゃん」
「ズルいって……もっとマシな言い方ないの?」
ネガイが茶化しながら、リセの言葉に苦笑する。
「だって、ズルいじゃん。伝魔と違って、噂を食べなくてもいいんでしょ?」
気にせずリセは、素朴な疑問をそのまま口にする。
「……奴らは、噂ではなく他の伝魔を糧とする」
「えっ、伝魔を食べてるってこと?」
「だから伝魔ではなく異形と呼んでいる」
驚くリセをよそに、鏡巳は淡々と返した。
空気が張り詰める中、そのまま話を続ける。
「消えた伝魔は、本来、
「百夜って?」
「伝魔の生みの親。その名を、百鬼夜行」
鏡巳は、夜の森へ視線を向けたまま続ける。
「ありとあらゆる伝魔は、最後にはあれへ還っていく」
その声音には、どこか遠いものを語る響きがあった。
「だが」
赤い瞳がわずかに細まる。
「奴らに喰われた伝魔は、どういうわけか百夜へ帰っていないようだ」
ネガイが訝しげに問いかける。
「帰ってないって……どういうことよ?」
「消えたまま、痕跡ごと途切れている。まるで、別の場所へ持ち去られているようにな」
鏡巳の表情に、わずかな陰りが見え始めていた。
「もっとも、百夜と直接連絡がつかぬ以上、本当のところは分からんがな……」
白い髪が風に揺れる。
「手前は百夜に会いに行く」
そして、三人に向き直る。
「お前たちは、これ以上関わらず旅を進めるがいい」
しばらく沈黙が落ちる。
やがて、リセは少し困ったように、それでもはっきりと笑った。
「心配してくれてるんだよね。でも、やだ」
鏡巳の赤い瞳が向けられる。
それに対して、にっと笑って返す。
「あんなの見て、ほっとけないじゃん」
ネガイが「はぁ……」と頭を抱える。
「アンタねぇ……」
「だって、伝魔が消えてるってことは、鏡巳も危ないでしょ?」
真っ直ぐ見つめられ、鏡巳は少しだけ視線を逸らした。
「そんな顔してる人を放っとけないし」
「……」
「一人で行くなんて言わないでね、鏡巳」
その言葉に、鏡巳はしばらく黙っていた。
木々を揺らす風と共に、ようやく声を絞り出す。
「……甘いな」
口元を緩めながら、小さく呟く鏡巳。
しかし、その目は笑っていなかった。
「この先は、命を落とすだけでは済まぬかもしれぬぞ」
「それでも」
リセが右手を、ぎゅっと握る。
「わたし、ちゃんと知りたい」
自分の右手のことも。
異形のことも。
この世界で起きていることも。
鏡巳は、その瞳をまっすぐに見つめ返していた。
しばらく黙っていたノゾミが、静かに口を開いた。
「鏡巳さん、少しよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「あの異形を見かけるようになったのは、いつ頃ですか?」
鏡巳はわずかに眉を寄せる。
「……最近なのは覚えているが、正確な時期は思い出せん」
「思い出せない?」
ネガイが怪訝そうに聞き返す。
鏡巳は小さく頷いた。
「妙なのだ。気づけば奴らは存在していた。まるで最初から、この世界にいたかのようにな」
その言葉に、ノゾミの表情がわずかに険しくなる。
「……やはり」
納得するように呟くノゾミの姿に、リセが不思議そうに首を傾げた。
「ノゾミ、何かわかったの?」
ノゾミは少し考えるように目を伏せる。
やがて、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。
「可能性の話ですが……何者かの干渉によって、この世界そのものが書き換えられたのかもしれません」
空気が、しんと静まる。
ネガイが顔を引きつらせた。
「……世界を書き換えるって、そんな模様替えでもするみたいに言わないでくれる?」
「ネガイの言う通り、気軽にできるようなものではありません。ですが……」
ノゾミは淡々と続ける。
「伝魔は人々の噂や信仰を糧とする。ですが、異形は“誰にも噂されず存在している”。おかしいと思いませんか?」
「じゃあ、やっぱりさっきのって、伝魔でもなんでもなかったってこと?」
「この世界の法則に逆らう不自然な存在……少なくとも、既存の伝魔とは別系統の存在と考えるべきでしょう」
ノゾミは改めて境内を見回した。
木々のざわめき。
辺り一面に漂う気配。
(もし推測通りなら、この世界だけの問題では済まないかもしれません)
胸中でそう呟き、ノゾミは再び鏡巳へ向き直った。
「鏡巳さん。もう一つ確認したいことがあります」
「なんだ?」
「伝魔は、この世界にとってどれほど重要な存在なのですか」
「切り離すことの出来ぬ存在」
鏡巳は夜空を見上げる。
「人の世には常に伝魔が関わってきた。時に神として敬われ、鬼として恐れられながらな」
「もし伝魔がいなくなった場合、この世界はどうなりますか?」
鏡巳は少しの間、黙っていた。
夜風だけが境内を抜けていく。
やがて。
「滅ぶ」
低い声が響く。
「人も、土地も、何もかもな」