望却のリセ   作:ひみっち

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第6話「赤い瞳の白蛇」

 

 異形が消えたあとも、森はしばらく静まり返っていた。

 風の音だけが、木々の間を抜けていく。

 

 リセは、自分の右手を見つめた。

 もう陽炎は消えている。

 けれど、触れたものが跡形もなく消えていく感覚だけが、まだ手の奥に残っていた。

 

「……」

 

 喉が乾く。

 怖かった。

 さっきまで、そこにいたものを、あっという間に自分が消してしまった。

 

「リセさん、身体の具合はどうですか?」

 

 ノゾミが身を案じるように歩み寄る。

 その瞬間。

 リセは反射的に一歩後ずさった。

 

「っ、来ないで!」

 

 思ったより大きな声が響いた。

 ノゾミが足を止める。

 ネガイも、驚いたように目を見開く。

 

「リセ……?」

「だ、だって……!」

 

 右手を押さえる。

 熱はまだ消えていない。

 

「わたし、さっき……あれを消して……っ」

 

 声が震える。

 

「もし、触ったら……二人まで消えちゃったら……」

 

 森に沈黙が落ちた。

 ノゾミは何も言わずにリセを見つめている。

 やがて、小さく呟いた。

 

「それでも」

 

 一歩。

 また一歩と、ゆっくり近づいてくる。

 

「ノゾミ、だめ――」

 

 リセが言い切る前に。

 ノゾミは、そっとリセの右手を包み込んだ。

 

「……あ」

 

 温かかった。

 本当に何も起きない。

 信じられず、何度も右手を見つめ返した。

 陽炎も溢れない。

 消えたりなんて、しない。

 ノゾミは優しく微笑んだ。

 

「私はここにいます。大丈夫ですよ」

 

 その穏やかな声に、強張っていた肩から少しだけ力が抜ける。

 

「いっだ!?」

 

 突然、ぐいっと頬を引っ張られた。

 ネガイだった。

 

「な、なにすんの!?」

「バカみたいなこと言ってるから!」

 

 ネガイは頬をつねったまま、じろりと睨む。

 

「勝手に一人で抱え込んでんじゃないわよ。消えるなら、とっくに消えてるっての」

「でも……」

「でもじゃない!」

 

 ネガイはようやく手を離し、小さくため息をつく。

 

「まったく……アンタがアンタなのは変わんないでしょ」

 

 その言葉に、リセはしばらく黙っていた。

 やがて、絞り出すように声を漏らす。

 

「……ありがと」

 

 今にも泣きそうな声だった。

 その様子を少し離れた場所から、白髪の少女は静かに見つめていた。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 境内には、静かな夜気が満ちていた。

 先ほどまでの騒ぎが嘘のように、木々は穏やかに揺れている。

 

 石段へ腰を下ろしたリセは、ようやく呼吸を落ち着かせていた。

 ネガイは、腕を組んだまま周囲を警戒している。

 ノゾミは、社の方へ目を向けていた。

 

 そんな三人へ向けて、白髪の少女が、ゆっくりと口を開く。

 

「……手前は鏡巳(かがみ)

 

 夜風が白い髪を揺らした。

 

「人間からは、“伝魔”と呼ばれている者だ」

 

 血のように赤い瞳がリセたちを見据える。

 

「先ほどは助かった。礼を言う」

 

 そう言って、鏡巳は小さく頭を下げた。

 リセは少しだけ困ったように笑う。

 

「でも、白蛇様って呼ばれてたんだよね?」

 

 鏡巳はわずかに目を伏せ、自嘲気味に口元を緩めた。

 

「……昔の話だ」

 

 そう言ったきり、鏡巳は視線を上げなかった。

 

「今ここにいるのは、人々に忘れられた哀れな蛇女だ」

 

 リセには、その言葉が妙に寂しく聞こえた。

 ネガイも、思わず口を閉ざす。

 ノゾミは、静かに目を伏せた。

 境内に沈黙が落ちる。

 やがて鏡巳は、その空気を断ち切るように視線を上げた。

 

「……それで」

 

 赤い瞳が、再び、三人を見据える。

 

「お前たちは何者だ」

 

 リセは少し考えるように視線を泳がせたあと、へらっと笑った。

 

「ただの旅人だよ」

 

 鏡巳は、しばらく無言でリセを見つめる。

 やがて、小さく息を吐いた。

 

「……そういうことにしておいてやろう」

 

 鏡巳はそれ以上追及せず、そっと視線を外した。

 ネガイはそこで、ようやく張っていた肩の力を少し抜く。

 

 だが、すぐに思い出したように眉をひそめた。

 

「で、さっきのバケモノはいったい何なの?」

 

 境内の空気が、わずかに冷える。

 鏡巳は鳥居の向こう――暗い森へ目を向けた。

 

「奴らは、つい最近現れ始めた異形。手前とは相容れない者だ」

 

 わずかに侮蔑を孕んだ低い声が、夜の境内へ重くのしかかる。

 リセは首を傾げた。

 

「そういえば、鏡巳も伝魔でしょ。あれは伝魔じゃないの?」

「違う。伝魔は、人の噂や恐れから形を得る存在だ」

 

 鏡巳は、自分の白い髪を指先で弄びながら続ける。

 

「忘れられれば薄れ、語られれば強くなる。良くも悪くも、人の認識から逃れられぬ」

 

 その赤い瞳が少し揺らいだのを、リセは感じ取っていた。

 

「だが、奴らは違う。どういう原理かは分からぬが、誰に噂されずとも、そこにいる」

「それ、ズルいじゃん」

「ズルいって……もっとマシな言い方ないの?」

 

 ネガイが茶化しながら、リセの言葉に苦笑する。

 

「だって、ズルいじゃん。伝魔と違って、噂を食べなくてもいいんでしょ?」

 

 気にせずリセは、素朴な疑問をそのまま口にする。

 

「……奴らは、噂ではなく他の伝魔を糧とする」

「えっ、伝魔を食べてるってこと?」

「だから伝魔ではなく異形と呼んでいる」

 

 驚くリセをよそに、鏡巳は淡々と返した。

 空気が張り詰める中、そのまま話を続ける。

 

「消えた伝魔は、本来、百夜(びゃくや)へと返る」

「百夜って?」

「伝魔の生みの親。その名を、百鬼夜行」

 

 鏡巳は、夜の森へ視線を向けたまま続ける。

 

「ありとあらゆる伝魔は、最後にはあれへ還っていく」

 

 その声音には、どこか遠いものを語る響きがあった。

 

「だが」

 

 赤い瞳がわずかに細まる。

 

「奴らに喰われた伝魔は、どういうわけか百夜へ帰っていないようだ」

 

 ネガイが訝しげに問いかける。

 

「帰ってないって……どういうことよ?」

「消えたまま、痕跡ごと途切れている。まるで、別の場所へ持ち去られているようにな」

 

 鏡巳の表情に、わずかな陰りが見え始めていた。

 

「もっとも、百夜と直接連絡がつかぬ以上、本当のところは分からんがな……」

 

 白い髪が風に揺れる。

 

「手前は百夜に会いに行く」

 

 そして、三人に向き直る。

 

「お前たちは、これ以上関わらず旅を進めるがいい」

 

 しばらく沈黙が落ちる。

 やがて、リセは少し困ったように、それでもはっきりと笑った。

 

「心配してくれてるんだよね。でも、やだ」

 

 鏡巳の赤い瞳が向けられる。

 それに対して、にっと笑って返す。

 

「あんなの見て、ほっとけないじゃん」

 

 ネガイが「はぁ……」と頭を抱える。

 

「アンタねぇ……」

「だって、伝魔が消えてるってことは、鏡巳も危ないでしょ?」

 

 真っ直ぐ見つめられ、鏡巳は少しだけ視線を逸らした。

 

「そんな顔してる人を放っとけないし」

「……」

「一人で行くなんて言わないでね、鏡巳」

 

 その言葉に、鏡巳はしばらく黙っていた。

 木々を揺らす風と共に、ようやく声を絞り出す。

 

「……甘いな」

 

 口元を緩めながら、小さく呟く鏡巳。

 しかし、その目は笑っていなかった。

 

「この先は、命を落とすだけでは済まぬかもしれぬぞ」

「それでも」

 

 リセが右手を、ぎゅっと握る。

 

「わたし、ちゃんと知りたい」

 

 自分の右手のことも。

 異形のことも。

 この世界で起きていることも。

 鏡巳は、その瞳をまっすぐに見つめ返していた。

 

 しばらく黙っていたノゾミが、静かに口を開いた。

 

「鏡巳さん、少しよろしいでしょうか?」

「なんだ?」

「あの異形を見かけるようになったのは、いつ頃ですか?」

 

 鏡巳はわずかに眉を寄せる。

 

「……最近なのは覚えているが、正確な時期は思い出せん」

「思い出せない?」

 

 ネガイが怪訝そうに聞き返す。

 鏡巳は小さく頷いた。

 

「妙なのだ。気づけば奴らは存在していた。まるで最初から、この世界にいたかのようにな」

 

 その言葉に、ノゾミの表情がわずかに険しくなる。

 

「……やはり」

 

 納得するように呟くノゾミの姿に、リセが不思議そうに首を傾げた。

 

「ノゾミ、何かわかったの?」

 

 ノゾミは少し考えるように目を伏せる。

 やがて、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

 

「可能性の話ですが……何者かの干渉によって、この世界そのものが書き換えられたのかもしれません」

 

 空気が、しんと静まる。

 ネガイが顔を引きつらせた。

 

「……世界を書き換えるって、そんな模様替えでもするみたいに言わないでくれる?」

「ネガイの言う通り、気軽にできるようなものではありません。ですが……」

 

 ノゾミは淡々と続ける。

 

「伝魔は人々の噂や信仰を糧とする。ですが、異形は“誰にも噂されず存在している”。おかしいと思いませんか?」

「じゃあ、やっぱりさっきのって、伝魔でもなんでもなかったってこと?」

「この世界の法則に逆らう不自然な存在……少なくとも、既存の伝魔とは別系統の存在と考えるべきでしょう」

 

 ノゾミは改めて境内を見回した。

 木々のざわめき。

 辺り一面に漂う気配。

 

(もし推測通りなら、この世界だけの問題では済まないかもしれません)

 

 胸中でそう呟き、ノゾミは再び鏡巳へ向き直った。

 

「鏡巳さん。もう一つ確認したいことがあります」

「なんだ?」

「伝魔は、この世界にとってどれほど重要な存在なのですか」

「切り離すことの出来ぬ存在」

 

 鏡巳は夜空を見上げる。

 

「人の世には常に伝魔が関わってきた。時に神として敬われ、鬼として恐れられながらな」

「もし伝魔がいなくなった場合、この世界はどうなりますか?」

 

 鏡巳は少しの間、黙っていた。

 夜風だけが境内を抜けていく。

 やがて。

 

「滅ぶ」

 

 低い声が響く。

 

「人も、土地も、何もかもな」

 

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