森を埋め尽くすほどの異形が、百夜を目指す。
「来るぞ!」
鏡巳が刀を抜き、白刃が夜を裂いた。
一閃。
最前列の異形がまとめて両断される。
だが、数が多すぎた。
斬っても斬っても後ろから湧いてくる。
「面倒ね」
ネガイが苛立ちながら、手を掲げる。
その指先に再び星光が集まった。
「だったらまとめて吹き飛ばす! 《シューティングスター》!」
夜空に無数の光点が生まれ、流星群が降り注いだ。
無数の星が異形を貫き、森を白く染め上げる。
地面が抉れ、木々が揺れる。
異形たちは悲鳴すら上げられず砕け散った。
それでも、辺りには黒一面の影が、濃く残っている。
「数が減らんな」
鏡巳が眉をひそめる。
その時。
百夜の鈴が鳴った。
ちりん、ちりん、と夜気が揺らぐ。
すると鏡巳の影が伸びた。
一つ。
二つ。
三つ。
――いや、それだけでは終わらない。
次々と影が立ち上がる。
やがて、それらは鏡巳と同じ姿を取った。
「これって……」
リセが息を呑む。
百夜が喉の奥で笑った。
「ククク」
鈴が鳴る。
「ただの影遊びよ」
そう言う百夜の声とは裏腹に、立ち上がった影たちからは鏡巳と寸分違わぬ気配が漂っていた。
鏡巳は小さく舌打ちする。
「勝手な真似を」
「何を今さら」
百夜は愉快そうに笑う。
「存分に暴れろ、白蛇。手足は多い方が良かろう?」
百夜の言葉を皮切りに、影の鏡巳たちが一斉に駆けた。
白い残像が森を走り、その内の一体が異形を両断する。
もう一体が跳躍し、木々の上から群れへ斬り込む。
三体目は着地と同時に刀を薙ぎ払い、周囲の異形をまとめて吹き飛ばした。
その動きは本物と変わらない。
むしろ、数が増えた分だけ厄介だった。
ネガイが口元を吊り上げる。
「なら、遠慮なくいくわよ」
再び流星群が降り注ぐ。
白蛇たちが切り開いた隙間へ。
寸分違わず、星々が叩き込まれた。
異形の群れが次々と砕け散る。
逃げ場はない。
前には白蛇の大群。
上からは流星の嵐。
残った異形たちは為す術もなく消し飛ばされていった。
最後の一体が斬り伏せられると共に、多くの鏡巳の影も散っていく。
鏡巳は刀を振り、付着した黒い霧を払った。
「片付いたか」
「往生際が悪いのね」
エピュロが小さく息を吐く。
「終わりを受け入れた方が楽なのに」
「生憎と、そういう性分でな」
百夜が喉の奥で笑った。
ちりん。
鈴が鳴る。
「聞こえているか、不届き者よ」
白い影が揺れる。
「この程度で終わると思われては困る」
エピュロは微笑む。
「聞こえてるよ。だから困ってるんじゃない」
ぱらり。
抱えた本のページがひとりでにめくれた。
その瞬間。
ノゾミが顔を上げる。
「上を見てください」
全員の視線が夜空へ向く。
空が軋んでいた。
夜空の一点が歪む。
そして、空間そのものに亀裂が走った。
「なっ――」
ネガイが言葉を失う。
裂け目の向こうから、巨大な影が這い出てくる。
腐った皮膜のような黒い翼。
異様に長い首。
鳥とも爬虫類ともつかない頭部。
そして、人を見下ろす知性だけを宿した瞳。
それが翼を広げると、瞬く間に暴風が吹き荒んだ。
木々が大きくしなり、葉が千切れるように舞い散る。
リセは思わず腕で顔を庇った。
「今度は何よ、あれ……!」
ネガイが叫びに、誰も答えない。
鏡巳の表情が険しくなっていた。
百夜が沈黙している。
目の前の存在は、先ほどまでの異形とは別格だと理解するのに十分だった。
「どう、素敵でしょう?」
エピュロだけが微笑んでいた。
うっとりと目を細め、本を胸に抱き締める。
「お願いね。そこにいるの、食べていいから」
人語を理解しているのか、その合図と同時に異形は裂け目から完全に姿を現す。
巨大な異形が奇怪な叫び声を上げる。
再び暴風が、森を揺らした。
「これ以上の勝手は、許さぬ!」
鏡巳が地を蹴る。
一瞬で間合いを詰めると、白刃が夜を裂いた。
鋭い一閃。
本来ならば、山一つ断ち切っていてもおかしくない斬撃だった。
だが、斬れない。
刃は翼に阻まれた。
「ちっ――」
鏡巳が次の一撃を入れるよりも早く。
異形の首が、あり得ない角度でこちらを向いた。
鏡巳の表情が変わる。
「何っ!?」
回避が間に合わず、巨大な翼が振り抜かれる。
巨体に叩きつけられた白い影が、森の奥へと消えた。
「鏡巳!」
リセが叫ぶ。
異形は追わない。
最初から眼中になかったかのように。
その視線は別の獲物へ移っていた。
「やってくれるわね……だったらこっちも遠慮しないわよ!」
ネガイが右手を掲げ、星光を集める。
手を鳴らそうとした、その瞬間。
異形が消えた。
「え?」
違う。
速すぎて見えなかっただけだ。
気づいた時には、巨大な影が目の前まで迫っていた。
「ネガイ!」
リセが駆け出す前に、景色が揺れていく。
一陣の風が吹くと共に、ネガイの身体が横へ引き寄せられる。
気付けばネガイの立っていた場所を、異形が通り過ぎていた。
「大丈夫ですか?」
聞き覚えのある優しい声に、ネガイは目を瞬く。
自分を抱きかかえるように支えていたのは、ノゾミだった。
ネガイは、ぽかんと口を開いた。
「ありがとう……お姉ちゃん!?」
ノゾミの胸元は深く裂かれ、ベージュ色のコートが朱く染まっていた。
「平気です……それより…………お怪我はありませんか?」
「な、何言っているの、お姉ちゃん! すぐに手当てしないと!!」
力なく笑うノゾミにネガイは取り乱す。
異形は、その隙を見逃さなかった。
巨大な翼が持ち上がり、二人を目がけて突進する。
「ノゾミ!」
リセが叫んだ時、世界は止まっていた。
風は止み、揺れていた木々も静止している。
舞い上がっていた土埃は、空中に張り付いたままだ。
一瞬……本当に一瞬だけ。
何もかもが凍り付いた。
「――え?」
リセは目を見開く。
今、何かが、確かにおかしかった。
そう思った時にはもう終わっていた。
異形の巨体がわずかに傾く。
本来ならネガイたちを捉えていたはずの軌道が、ほんの少しだけ逸れていた。
異形は制御を失い、そのまま地面へ突っ込む。
土と木片が吹き上がった。
「なっ……」
ネガイが息を呑む。
誰も何が起きたのか分からない。
ただ一人。
百夜だけが鈴を揺らした。
ちりん。
「ほう」
白い影が小さく笑う。
その視線は異形ではなく、ノゾミへ向けられていた。
だがノゾミ自身は気付いていない。
ただ不思議そうに異形を見ているだけだった。
「ノゾミ、今なにしたの……?」
思わず口をついて出た。
ノゾミはきょとんとした顔をする。
「何、とは?」
「ううん……何でもない」
リセは言葉に詰まり、曖昧な返事を返す。
説明できない。
異形が迫る直前、ほんの一瞬だけ、世界の色が変わった気がした。
だが、その感覚はもう消えている。
気のせいだったのかもしれない。
そう思った時。
ちりん。
百夜の鈴が鳴った。
白い影は何も言わない。
ただ、じっとリセを見ていた。
「忘れてもらっては困るぞ……!」
地面に伏したままの異形に向かって、鏡巳が飛びかかる。
白刃が首元を掠めた。
黒い血が散る。
異形が翼を振るい、鋭い爪が鏡巳の肩口を裂く。
だが、鏡巳は退かない。
「どうした。その程度で、手前の刃は避けられんぞ!」
一歩。
さらに一歩。
刃が何度も同じ箇所を刻む。
異形が苛立つように首を振った。
その隙を見逃さず、鏡巳は再び踏み込む。
「……このままでは……勝負はつきそうにありませんね」
「お姉ちゃん、安静にしてなきゃ駄目だってば!」
ノゾミは、ネガイに介抱されながら、空を見上げていた。
傷口は裂け目の力で塞がりつつあるが、まだ自由に動くことは叶わない。
「悔しいけど、ノゾミの言う通りかも……」
鏡巳の戦いを間近で見ていたリセは、歯噛みする。
異形の首元には傷が増えている。
だが、致命傷には程遠い。
鏡巳も食らいついてはいるが、決定打がない。
百夜が鈴を鳴らした。
ちりん。
「白蛇のやつも頑張ってはいるが、あれはどうにもならん」
リセは唇を噛む。
確かに鏡巳は押されてはいない。
だが勝ってもいない。
このまま消耗戦になれば不利なのはこちらだ。
唐突に、ネガイが何かを思い出したように振り向いた。
「リセ、あれ出せない?」
「あれって――」
一瞬だけ考え。
すぐに答えへ辿り着く。
「そうか! 『陽炎の手』」
リセは両手を打った。
「それそれ!」
合わせるように、ネガイが指を鳴らす。
「何か分からないけど、あれだけは異様だったじゃない」
リセは自分の右手を見る。
あの力。
再生する異形すら消滅させた、陽炎のように揺らめく右手。
だが。
「ごめん、出なかった!」
「はぁ!?」
「出し方が分からないんだから!」
ネガイが頭を抱えた。
「肝心なところで使えない!」
「わたしだって困ってるの!」
リセの声を掻き消すように、轟音が上空から降ってきた。
異形の翼が鏡巳を弾き飛ばしたのだ。
鏡巳は空中で体勢を立て直しながら舌打ちする。
「何かするなら早くしろ! 隙は手前が作ってやろう」
「ありがとう、やってみる!」
リセは再び右手を見つめる。
何も起きない。
焦れば焦るほど分からなくなる。
「なんで出ないの!? 今が必要な時なんだから、早く出て来てよ!!!」
右手を握り、開き直す。
何度試しても、あの陽炎は現れない。
焦りだけが募っていく。
その様子を見ていた百夜が、ふっと笑った。
「娘」
鈴が鳴る。
「力というものはな」
白い影がゆらりと揺れる。
「出そうとして出るものではない」
その言葉に。
リセは思わず顔を上げた。
白い影が揺らぐ。
「百夜?」
「少し借りるぞ、娘」
「え――」
返事をする間もなかった。
白い光が流れ込む。
視界がぐらりと揺れた。
身体から力が抜けていく。
意識が沈み、遠ざかる。
百夜は迷いなく、リセの内側へと踏み込んだ。
伝魔ではない人間への憑依は、本来なら避けるべきだった。
だが、今はそんなことを言っていられない。
この均衡を崩す必要があった。
やがて、深層へと到達する――そのはずだった。
「……何だ、これは」
百夜が初めて困惑した声を漏らす。
そこは人の内側ではなかった。
果てのない暗闇。
いや、暗闇ですらない。
星々のような光が遥か彼方まで広がっている。
理解できない景色だった。
「娘、お前は一体……」
そして。
その奥に何かがいた。
百夜は目を細める。
見えない。
輪郭すら掴めない。
それなのに。
見てはいけないと本能が告げていた。
「貴様――」
言葉は最後まで続かなかった。
圧倒的な拒絶。
百夜の意識が弾き飛ばされる。
「なっ!?」
白い影が地面を転がった。
ネガイが目を見開く。
「百夜!?」
鏡巳も思わず振り返る。
本人が一番信じられなかった。
百夜が吹き飛ばされた。
それも、自分から入っていったはずのリセによって。
ただ、リセは答えない。
俯いたまま、動かない。
「リセさん?」
「リセ!」
ノゾミとネガイが呼びかけるも、返事はない。
ゆっくりと、リセの両腕が持ち上がる。
その手元へ光が集まり始めた。
夜空を溶かしたような光だった。
無数の星々が瞬き、宇宙そのものが凝縮されていく。
やがて二振りの刃が形を成す。
「何、あの剣は!?」
「リセさん、今のあなたは一体……」
異形が危険を察したように咆哮する。
巨大な翼が振り上げられた。
逃げるべきか、迎え撃つべきか。
その知性すら迷ったように見えた。
だが遅い。
リセが一歩踏み出した途端、足元の土が遅れて吹き飛んだ。
音どころか光すらも置き去りにして。
「――っ!?」
皆一様に、リセの姿を見失う。
異形の瞳が見開かれる。
リセは既に異形の背後を取っていた。
異形の間合いに入っていた鏡巳ですら、驚きを隠せない。
静寂。
翼が滑り落ちる。
続いて首が落ちた。
巨体が崩れる。
あれほど苦戦していた異形は、一太刀で絶命していた。
誰も動けなかった。
鏡巳も。
ネガイも。
ノゾミも。
ただ目の前で起きた光景を見つめることしかできない。
「……リセ?」
ネガイが戸惑うように名を呼ぶ。
返事はない。
背後で異形の巨体が塵となってほどけていく。
それすら届いていないように。
リセは歩き続ける。
その金と銀の二色の瞳は、エピュロだけを見据えていた。
まるで、そこへ至ることだけが目的であるかのように。