望却のリセ   作:ひみっち

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第9話「記されなかった結末」

 

 リセがただ歩く。

 二対の剣を握りながら。

 そこには怒りや殺意は感じられない。

 エピュロは初めて微笑みを消し、リセの姿を見据える。

 

「……なんですか君は」

 

 震える問いにリセは答えず、歩みを止めない。

 金と銀の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。

 その視線に、エピュロは本能的な恐怖を覚えた。

 

「なるべく、この手は使いたくありませんでしたが、仕方ないですね!」

 

 黒い本を開く。

 ページが乱暴にめくられる。

 ぱらぱらと。

 まるで本の方が続きを急かすように。

 エピュロは空中へ指を走らせた。

 

 線。

 線。

 さらに線。

 複雑に重なる幾何学模様が宙へ刻まれていく。

 見覚えのない記号。

 目を向けているだけで、思考が掻き乱される。

 

 百夜が珍しく笑みを消す。

 

「おい、不届き者!」

 

 ちりん。

 鈴が鳴る。

 

「わしの世界に何をするつもりだ」

「君には関係ない」

 

 今までずっと視線を向けていた百夜には目もくれず、エピュロは叫ぶ。

 

「天より来たれ!」

 

 夜空が赤く染まる。

 遠いはずの星々が近づいてくる。

 焼けつくような痛みが、周りを覆いつくす。

 世界そのものが何かを拒絶しているようだった。

 

「なんだ、この熱は……」

「あいつ、一体何する気なの!?」

 

 鏡巳とネガイは、途方もない存在に気圧されていた。

 その一方で、ノゾミと百夜は、リセをじっと見つめている。

 

「災厄が世界を滅ぼす!」

 

 エピュロが笑う。

 だが、その笑みは先ほどまでの余裕を失っていた。

 炎とも恒星ともつかない何か。

 それは、まだ完全には現れていない。

 

「この燃え盛るような叫び、ああ、美しい!」

 

 エピュロの声が歓喜に震える。

 世界が軋み、悲鳴を上げていた。

 

「少々品位に欠けますが、終わりとは突然やってくる。そういうものです」

 

 エピュロが高説を垂れた、その瞬間だった。

 リセが剣を振るう。

 音も光もない一閃だった。

 何かを斬ったようには見えない。

 

 空に走っていた赤い模様が、割けて砕けた。

 その向こうで蠢いていた災厄ごと。

 一筋の線を境に断ち切られる。

 

「な――」

 

 エピュロが息を呑む。

 音もなく、抵抗もなく。

 ただ、そこにあったはずのものが、切断されたという事実だけが残る。

 赤い空が崩れ、裂け目が閉じた。

 呼び出されようとしていた何かもまた、最初から存在しなかったかのように消えていく。

 

「……え?」

 

 エピュロが呟く。

 理解できなかった。

 何が起きたのか分からない。

 術式は完成していた。

 呼び声は届いていた。

 裂け目も開いていた。

 全ては正しく進んでいたはずだった。

 

「そんな」

 

 本が手から滑り落ちる。

 

「そんなはずがない。なら、もう一度……!」

 

 リセは何も言わず、もう片方の手で剣を振るう。

 狙ったのはエピュロではない。

 その背後で開かれた本。

 誰にも読めない文字で埋め尽くされた一頁だった。

 刃が走る。

 頁が裂ける。

 ただ、それだけだった。

 それだけのはずだった。

 

「まさか……」

 

 裂けたのは紙ではない。

 そこに記されていたものだ。

 

「やめて……やめろ」

 

 初めて懇願するような声だった。

 その声は震えていた。

 

「それだけは――」

 

 無情にも、剣は止まらない。

 裂かれた頁の向こう。

 そこに記されていた終わりへ向かって。

 一閃が走る。

 

 そして。

 世界を生きる者たちの意思が積み重なった先で。

 その終末は、切り開かれた。

 裂かれた頁に刻まれていた文字が、ゆっくりと崩れ始める。

 墨が水に溶けるように。

 記述そのものがほどけていく。

 

「やめろ……」

 

 エピュロが手を伸ばす。

 だが届かない。

 文字は消える。

 一行ずつ。

 一文字ずつ。

 丁寧に削り取られていく。

 

 やがて。

 頁は真っ白になった。

 

「そんな……」

 

 掠れた声が漏れると同時に、真白だった頁へ、新たな文字が刻まれ始める。

 誰も筆を取っていないにも関わらず。

 まるで最初からそこに記される運命だったかのように。

 

 エピュロの顔が引きつった。

 

「やめろ、やめろ、やめろ……!」

 

 拒絶の言葉を繰り返しながら、錯乱する。

 だが、文字は止まらない。

 

 そこに記されていたのは世界の終わりではなかった。

 ある一人の末路。

 終末を求め続けた者の結末。

 エピュロ自身の物語だった。

 

「わたしがいなくなったら、誰が終わりを――」

 

 縋るような必死の叫び。

 しかし、頁は淡々と続きを綴る。

 その姿が揺らぐ。

 輪郭が崩れる。

 指先から。

 腕から。

 身体から。

 文字となって零れ落ちていく。

 

「わたしは――」

 

 声が途切れ、文字になる。

 

「終わりを――?」

 

 頭の中で思い描いていたもの。

 それすらも頁へ吸い込まれていく。

 

「はは……そうかそうか、そうだったのかぁ」

 

 最後に残ったのは、驚愕に見開かれた瞳だけだった。

 それすらも一文字となって消えた。

 後には何も残らない。

 

 開かれた本だけがそこにあった。

 ぱたり、と本がひとりでに閉じる。

 まるで全てを書き終えたかのように。

 

 森に沈黙が戻った。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 誰もすぐには言葉を発せなかった。

 エピュロは消えた。

 残されたのは、閉じられた黒い本だけだった。

 

 本が沈黙すると同時に、リセの手から光が消える。

 二振りの剣は夜空へ溶けるように失われた。

 力の抜けたリセは、眠るように倒れ込む。

 

「リセ!」

 

 ネガイが駆け寄る。

 倒れかけた身体をノゾミが支えた。

 呼吸はある。

 傷もない。

 ただ目を閉じているだけだった。

 

「案ずるな、娘は無事だ」

 

 百夜が言う。

 その声にはいつもの余裕がなかった。

 鏡巳が百夜を見る。

 

「何が起きた」

「知らん」

 

 不自然なほどの即答。

 誰も信じなかった。

 百夜自身が何かを隠しているのは明らかだったからだ。

 しばらく沈黙が続く。

 

「一つ、提案があります」

 

 静寂を破るように、ノゾミが静かに口を開く。

 全員の視線が集まる。

 

「今日、リセさんの身に起きたことですが……」

 

 そこで一度言葉を切る。

 

「百夜さんの仕業ということにしませんか」

 

 ネガイが目を見開いた。

 

「はぁ!?」

 

 即座に反発する。

 

「そんなの嘘じゃない!」

「ええ、嘘です」

 

 ノゾミはあっさり頷いた。

 

「だったら――」

「ですが」

 

 ノゾミは眠るリセを見下ろした。

 

「今の出来事を説明できますか?」

 

 ネガイが言葉を失う。

 説明など、できるはずがない。

 この場の誰もが理解していないことは明白だった。

 あの剣も。

 あの力も。

 百夜が吹き飛ばされたことも。

 何一つ。

 

「リセさんが目を覚ました時、自分が何をしたのか知ったらどう思うでしょう」

 

 静かな声だった。

 

「少なくとも、良い気分にはならないと思います」

 

 ネガイは唇を噛む。

 すぐにでも反論したいが、悔しいほどにノゾミの言葉が理解できていた。

 

「……リセのため?」

「はい」

 

 ノゾミは頷く。

 

「少なくとも今は」

 

 百夜が小さく笑った。

 ちりん。

 鈴が鳴る。

 

「高くつくぞ」

「今にお釣りが来ますよ」

 

 ノゾミは平然と返した。

 百夜はそれ以上何も言わなかった。

 鏡巳もまた異論はないらしい。

 ネガイはしばらく黙り込んだ後、大きく息を吐く。

 

「……分かったわよ」

 

 不承不承、といった様子だった。

 

「でも、あいつ結構頭いいから、いつか絶対気付かれるわ」

「そうかもしれませんね」

 

 ノゾミは小さく頷いた。

 そのまま視線を落とす。

 閉じられた黒い本へ。

 

「これは、どうしましょうか」

 

 黒一色の見た目からして禍々しく、不気味な本だった。

 ノゾミが拾い上げようと手を伸ばす。

 

 その動きに呼応するように、眠ったままのリセの身体がわずかに跳ねた。

 ノゾミの腕の中で身をよじる。

 まるで何かを避けるように。

 無意識のまま。

 本から遠ざかろうとする。

 

「……リセ?」

 

 ネガイが不安げに声をかける。

 目を覚ます気配はない。

 ただ、本能的に拒絶しているようだった。

 

 ノゾミはしばらく閉じられた表紙を見つめる。

 黒い表紙は冷たかった。

 そして抱え上げた本を、自身が作った裂け目へと沈める。

 

「私が預かります」

 

 その後、誰が試しても、何をしても。

 本が再び開くことはなかった。

 まるで役目を終えたかのように。

 

 

    ◇◇◇

 

 

 森に静けさが戻っていた。

 あれほど騒がしかった気配が、嘘のように消えている。

 風が枝を揺らす音だけが、遠くにあった。

 

「行きましょう」

 

 その一言で、一行は動き始めた。

 リセはまだ眠ったままだった。

 ノゾミがリセを背負い、ゆっくりと歩いていく。

 

「ほんとに、これでいいの?」

 

 ネガイが小さく呟く。

 ノゾミは振り返らないまま答えた。

 

「はい。これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」

 

 その背中が森の奥へ消えていく。

 境界を越えるように。

 鏡巳は最後まで見送っていた。

 刀はすでに鞘に収まっている。

 

 血の跡も、戦いの気配も薄れていく。

 

「……終わったな」

 

 ぽつりと呟く。

 その隣で、百夜が鈴を鳴らした。

 ちりん。

 

「終わり、か」

 

 どこか納得していない声だった。

 鏡巳が横目で見る。

 

「違うのか」

「さあな」

 

 百夜は曖昧に笑う。

 

「終わりなど、そう簡単に決まるものではない」

 

 その言葉に、鏡巳は何も返さなかった。

 ただ、森の奥を見続けていた。

 やがて足音は完全に消える。

 二人だけが残る。

 百夜が最後に一度だけ鈴を鳴らした。

 

 ちりん。

 

「さて……次はどんな噂を流してやろうか」

 

 その声は、風に溶けていった。

 

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