リセがただ歩く。
二対の剣を握りながら。
そこには怒りや殺意は感じられない。
エピュロは初めて微笑みを消し、リセの姿を見据える。
「……なんですか君は」
震える問いにリセは答えず、歩みを止めない。
金と銀の瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
その視線に、エピュロは本能的な恐怖を覚えた。
「なるべく、この手は使いたくありませんでしたが、仕方ないですね!」
黒い本を開く。
ページが乱暴にめくられる。
ぱらぱらと。
まるで本の方が続きを急かすように。
エピュロは空中へ指を走らせた。
線。
線。
さらに線。
複雑に重なる幾何学模様が宙へ刻まれていく。
見覚えのない記号。
目を向けているだけで、思考が掻き乱される。
百夜が珍しく笑みを消す。
「おい、不届き者!」
ちりん。
鈴が鳴る。
「わしの世界に何をするつもりだ」
「君には関係ない」
今までずっと視線を向けていた百夜には目もくれず、エピュロは叫ぶ。
「天より来たれ!」
夜空が赤く染まる。
遠いはずの星々が近づいてくる。
焼けつくような痛みが、周りを覆いつくす。
世界そのものが何かを拒絶しているようだった。
「なんだ、この熱は……」
「あいつ、一体何する気なの!?」
鏡巳とネガイは、途方もない存在に気圧されていた。
その一方で、ノゾミと百夜は、リセをじっと見つめている。
「災厄が世界を滅ぼす!」
エピュロが笑う。
だが、その笑みは先ほどまでの余裕を失っていた。
炎とも恒星ともつかない何か。
それは、まだ完全には現れていない。
「この燃え盛るような叫び、ああ、美しい!」
エピュロの声が歓喜に震える。
世界が軋み、悲鳴を上げていた。
「少々品位に欠けますが、終わりとは突然やってくる。そういうものです」
エピュロが高説を垂れた、その瞬間だった。
リセが剣を振るう。
音も光もない一閃だった。
何かを斬ったようには見えない。
空に走っていた赤い模様が、割けて砕けた。
その向こうで蠢いていた災厄ごと。
一筋の線を境に断ち切られる。
「な――」
エピュロが息を呑む。
音もなく、抵抗もなく。
ただ、そこにあったはずのものが、切断されたという事実だけが残る。
赤い空が崩れ、裂け目が閉じた。
呼び出されようとしていた何かもまた、最初から存在しなかったかのように消えていく。
「……え?」
エピュロが呟く。
理解できなかった。
何が起きたのか分からない。
術式は完成していた。
呼び声は届いていた。
裂け目も開いていた。
全ては正しく進んでいたはずだった。
「そんな」
本が手から滑り落ちる。
「そんなはずがない。なら、もう一度……!」
リセは何も言わず、もう片方の手で剣を振るう。
狙ったのはエピュロではない。
その背後で開かれた本。
誰にも読めない文字で埋め尽くされた一頁だった。
刃が走る。
頁が裂ける。
ただ、それだけだった。
それだけのはずだった。
「まさか……」
裂けたのは紙ではない。
そこに記されていたものだ。
「やめて……やめろ」
初めて懇願するような声だった。
その声は震えていた。
「それだけは――」
無情にも、剣は止まらない。
裂かれた頁の向こう。
そこに記されていた終わりへ向かって。
一閃が走る。
そして。
世界を生きる者たちの意思が積み重なった先で。
その終末は、切り開かれた。
裂かれた頁に刻まれていた文字が、ゆっくりと崩れ始める。
墨が水に溶けるように。
記述そのものがほどけていく。
「やめろ……」
エピュロが手を伸ばす。
だが届かない。
文字は消える。
一行ずつ。
一文字ずつ。
丁寧に削り取られていく。
やがて。
頁は真っ白になった。
「そんな……」
掠れた声が漏れると同時に、真白だった頁へ、新たな文字が刻まれ始める。
誰も筆を取っていないにも関わらず。
まるで最初からそこに記される運命だったかのように。
エピュロの顔が引きつった。
「やめろ、やめろ、やめろ……!」
拒絶の言葉を繰り返しながら、錯乱する。
だが、文字は止まらない。
そこに記されていたのは世界の終わりではなかった。
ある一人の末路。
終末を求め続けた者の結末。
エピュロ自身の物語だった。
「わたしがいなくなったら、誰が終わりを――」
縋るような必死の叫び。
しかし、頁は淡々と続きを綴る。
その姿が揺らぐ。
輪郭が崩れる。
指先から。
腕から。
身体から。
文字となって零れ落ちていく。
「わたしは――」
声が途切れ、文字になる。
「終わりを――?」
頭の中で思い描いていたもの。
それすらも頁へ吸い込まれていく。
「はは……そうかそうか、そうだったのかぁ」
最後に残ったのは、驚愕に見開かれた瞳だけだった。
それすらも一文字となって消えた。
後には何も残らない。
開かれた本だけがそこにあった。
ぱたり、と本がひとりでに閉じる。
まるで全てを書き終えたかのように。
森に沈黙が戻った。
◇◇◇
誰もすぐには言葉を発せなかった。
エピュロは消えた。
残されたのは、閉じられた黒い本だけだった。
本が沈黙すると同時に、リセの手から光が消える。
二振りの剣は夜空へ溶けるように失われた。
力の抜けたリセは、眠るように倒れ込む。
「リセ!」
ネガイが駆け寄る。
倒れかけた身体をノゾミが支えた。
呼吸はある。
傷もない。
ただ目を閉じているだけだった。
「案ずるな、娘は無事だ」
百夜が言う。
その声にはいつもの余裕がなかった。
鏡巳が百夜を見る。
「何が起きた」
「知らん」
不自然なほどの即答。
誰も信じなかった。
百夜自身が何かを隠しているのは明らかだったからだ。
しばらく沈黙が続く。
「一つ、提案があります」
静寂を破るように、ノゾミが静かに口を開く。
全員の視線が集まる。
「今日、リセさんの身に起きたことですが……」
そこで一度言葉を切る。
「百夜さんの仕業ということにしませんか」
ネガイが目を見開いた。
「はぁ!?」
即座に反発する。
「そんなの嘘じゃない!」
「ええ、嘘です」
ノゾミはあっさり頷いた。
「だったら――」
「ですが」
ノゾミは眠るリセを見下ろした。
「今の出来事を説明できますか?」
ネガイが言葉を失う。
説明など、できるはずがない。
この場の誰もが理解していないことは明白だった。
あの剣も。
あの力も。
百夜が吹き飛ばされたことも。
何一つ。
「リセさんが目を覚ました時、自分が何をしたのか知ったらどう思うでしょう」
静かな声だった。
「少なくとも、良い気分にはならないと思います」
ネガイは唇を噛む。
すぐにでも反論したいが、悔しいほどにノゾミの言葉が理解できていた。
「……リセのため?」
「はい」
ノゾミは頷く。
「少なくとも今は」
百夜が小さく笑った。
ちりん。
鈴が鳴る。
「高くつくぞ」
「今にお釣りが来ますよ」
ノゾミは平然と返した。
百夜はそれ以上何も言わなかった。
鏡巳もまた異論はないらしい。
ネガイはしばらく黙り込んだ後、大きく息を吐く。
「……分かったわよ」
不承不承、といった様子だった。
「でも、あいつ結構頭いいから、いつか絶対気付かれるわ」
「そうかもしれませんね」
ノゾミは小さく頷いた。
そのまま視線を落とす。
閉じられた黒い本へ。
「これは、どうしましょうか」
黒一色の見た目からして禍々しく、不気味な本だった。
ノゾミが拾い上げようと手を伸ばす。
その動きに呼応するように、眠ったままのリセの身体がわずかに跳ねた。
ノゾミの腕の中で身をよじる。
まるで何かを避けるように。
無意識のまま。
本から遠ざかろうとする。
「……リセ?」
ネガイが不安げに声をかける。
目を覚ます気配はない。
ただ、本能的に拒絶しているようだった。
ノゾミはしばらく閉じられた表紙を見つめる。
黒い表紙は冷たかった。
そして抱え上げた本を、自身が作った裂け目へと沈める。
「私が預かります」
その後、誰が試しても、何をしても。
本が再び開くことはなかった。
まるで役目を終えたかのように。
◇◇◇
森に静けさが戻っていた。
あれほど騒がしかった気配が、嘘のように消えている。
風が枝を揺らす音だけが、遠くにあった。
「行きましょう」
その一言で、一行は動き始めた。
リセはまだ眠ったままだった。
ノゾミがリセを背負い、ゆっくりと歩いていく。
「ほんとに、これでいいの?」
ネガイが小さく呟く。
ノゾミは振り返らないまま答えた。
「はい。これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
その背中が森の奥へ消えていく。
境界を越えるように。
鏡巳は最後まで見送っていた。
刀はすでに鞘に収まっている。
血の跡も、戦いの気配も薄れていく。
「……終わったな」
ぽつりと呟く。
その隣で、百夜が鈴を鳴らした。
ちりん。
「終わり、か」
どこか納得していない声だった。
鏡巳が横目で見る。
「違うのか」
「さあな」
百夜は曖昧に笑う。
「終わりなど、そう簡単に決まるものではない」
その言葉に、鏡巳は何も返さなかった。
ただ、森の奥を見続けていた。
やがて足音は完全に消える。
二人だけが残る。
百夜が最後に一度だけ鈴を鳴らした。
ちりん。
「さて……次はどんな噂を流してやろうか」
その声は、風に溶けていった。