影が去った湖は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
だが、美鈴の胸の奥には、まだ冷たい余韻が残っている。
――あれは、ただの来訪者じゃない。
その確信だけが、妙に重くのしかかっていた。
「美鈴。お嬢様がお呼びよ」
咲夜が現れた。
いつも通りの落ち着いた声だが、その瞳にはわずかな緊張が宿っている。
「……やっぱり、さっきの“影”のことですか?」
「ええ。お嬢様は、あなたに話があるそうよ」
美鈴はうなずき、紅魔館の中へと足を踏み入れた。
廊下は静かだった。
――館全体が、息を潜めている。
そんな気配だった。
レミリアの部屋の前に立つと、咲夜が軽くノックした。
「お嬢様。美鈴をお連れしました」
「入って」
扉が開く。
レミリアは窓辺に立ち、外の湖を見つめていた。
その横顔は、いつもの気まぐれな少女ではなく――
“何かを背負う者”の表情だった。
「来たわね、美鈴」
「はい。お嬢様、さっきの……」
レミリアは振り返り、静かに微笑んだ。
「怖かったでしょう?」
美鈴は少しだけ目を見開いた。
その言葉は、叱責でも報告の要求でもなく――
ただの“気遣い”だったからだ。
「……はい。でも、なんとか」
レミリアはゆっくりと歩み寄り、美鈴の前に立つ。
「ありがとう。あなたが門を守ってくれたおかげで、紅魔館は無事よ」
その声は柔らかい。
だが、美鈴は気づいた。
――お嬢様は、何かを隠している。
影の気配を知っていたような、そんな目だった。
「お嬢様。あれは……何者だったんですか?」
レミリアは一瞬だけ目を伏せた。
その沈黙は、答えを探しているのではなく――
“どこまで話すか”を選んでいる沈黙だった。
「……あれは、運命の外側から来た存在よ」
「運命の……外側?」
「そう。私の能力――“運命を操る程度の能力”を監視する者たち」
美鈴は息をのんだ。
レミリアは続ける。
「私は、紅魔館を守るために運命に干渉している。
でも、それをよく思わない存在もいるのよ」
「紅魔館を……守るため?」
レミリアは微笑んだ。
その笑みは、どこか寂しげだった。
「ええ。紅魔館には“未来に関わる秘密”がある。
でも、それはまだ話せないわ」
美鈴は胸がざわついた。
――まだ話せない。
つまり、話すべき“何か”が確かにある。
「お嬢様。私は門番です。
紅魔館を守るためなら、どんなことでも――」
レミリアはそっと美鈴の言葉を遮った。
「だからこそ、話せないのよ」
美鈴は言葉を失った。
レミリアは、美鈴の手を取る。
その手は小さく、しかし驚くほど冷たかった。
「あなたは、紅魔館の“平和”そのもの。
あなたがいるだけで、館の空気が柔らかくなる。
それは、私たちにとって何より大切なことなの」
美鈴は目を伏せた。
――私は、守られている?
そんな感覚が胸に広がる。
「だから、美鈴。
あなたには“知らないままでいてほしい”ことがあるの」
その言葉は優しい。
だが、美鈴の胸には小さな痛みが走った。
「……私では、力不足だからですか?」
レミリアは首を振った。
「違うわ。
あなたは強い。
でも――優しすぎるの」
美鈴は息を呑んだ。
レミリアは続ける。
「もし真実を知れば、あなたは自分を犠牲にしてでも紅魔館を守ろうとする。
私は、それが怖いのよ」
美鈴は何も言えなかった。
レミリアはそっと手を離し、窓の外を見つめる。
「……影は、また来るわ。
紅魔館の“運命の歪み”に気づいたから」
美鈴の背筋が震えた。
「だから、美鈴。
あなたには――」
レミリアは振り返り、静かに告げた。
「“門を守り続けてほしい”。
それだけでいいの」
美鈴はゆっくりとうなずいた。
だが胸の奥では、別の感情が芽生えていた。
――私は、本当に“知らないままで”いいのだろうか。
その疑問は、春の風よりも冷たく、美鈴の心に残った。