86-エイティシックス-DIE NEUE THESE 作:ふそう
番外編:北海道戦争史 Ⅰ
〈ミニ・ヒストリカル・ドキュメンタリー〉
"フランクリン・デラノ・ローズヴェルト米国大統領、蒋介石大元帥、ウィンストン・チャーチル英国内閣総理大臣は、各自国の軍及び外交顧問と共に、北アフリカにおける会議を終了し、次の通り一般声明を発表された"
"数軍の使節は、日本国に対する将来の軍事作戦に関し合意した"
"三大同盟は海路、陸路および空路により、この蒙昧かつ野蛮な敵国に容赦ない圧力を加える決意を表明した。この圧力は既に増大しつつある"
"この同盟の目的は、日本国の太平洋における一切の島嶼を剥奪せねばならないということである"
"これら島嶼は本州、九州、四国島を含む連合国の決定する諸島嶼を除き、近代法(国際法・近代国内法)のもとで日本国が1854年よりも後に組み込んだ、奪取した、占領したものである"
"また、日本国が清国人から盗取した一切の地域を、中華民国に返還することにある"
"日本国は、暴力及び貪欲により日本国が略取した他の一切の地域から排除されなければならない"
"前述の三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、全て朝鮮を自由かつ独立のものとなす決意を有する"
"上の目的をもち、この三同盟は、日本国と交戦中の国際連合諸国と協調し、日本国の無条件降伏を獲得するために要する重大かつ長期的な行動を継続しなければならない"
"日本国外務省現代語訳「カイロ宣言」より"
北海道。
国後島から占守島に至る千島列島を含む総面積九.三万平方キロ、人口一千三百万人を誇る、日本皇国にある五十五の都道府県の中で最も広い広域地方公共団体。
だがしかし、実際に日本皇国の統治下にある面積は四万七千キロ。
人口は八百万人で、其の内半分近くが札幌都市圏に住む。
無論、其れでも北海道が日本一広い都道府県である事に変わりはないが。
残りの部分、即ち北緯四十三.四〇分線より北側の土地と其処に住まう五百万人は、樺太島の豊原都を首都とする社会主義共和制国家〈新日本民主共和国〉の統治下にあり、日本皇国は此れを〈北部北海道不法占領区〉、略して"北北不占区"と称している。
先の大戦末期に米国とソ連が話し合った結果、北緯四十三.四〇分線上に敷かれた〈ポツダム線〉。
三年近くに渡って続いた〈北海道戦争〉の結果、国連がポツダム線を中心に南北五キロ離れた地点に沿って設定した〈ブルーライン緩衝地帯〉。
此の二つの線によって、北海道の島は分断され続けてきた。
完全にという訳ではない。
公式の外交ルートは整えられ、空には東京と豊原を結ぶ旅客機が飛び、海には貨物船が行き交う。
言うまでもなく陸にも、樺太島北部やオホーツク海で産出される石油や天然ガスを皇国に輸出するパイプライン、豊かな海産物、その他工業製品を輸出する為の鉄道や道路が敷かれ、ビジネスマンや観光客、諜報員も乗っているであろう札幌発豊原行き国際寝台列車の他、貨物列車やトラックが日々行き交っている。
許可無しでの出入域が厳しく禁止される緩衝地帯内には、南の標津町や北の訓子府町(北見縣)の様に戦前からある町村に今も住民が住んでいる。
彼らはポツダム線警備の為に駐留する南の〈内国安全保障省国家憲兵隊〉や〈北海道警察分界線警備隊〉、北の〈国家保安省国境軍〉、戦合意の履行状況監視の為に南北双方に駐留する、計一万人規模の中立国の軍隊で編成される〈国連北海道平和維持軍〉相手の飲食店や、両国共同の自然観光ツアーや登山ツアー、ダークツーリーズムでやって来る国内外からの観光客相手の商売。
神楽・東神楽・東川(上川縣)と妹背牛(空知縣)の計四ヵ所ある工業団地に立地する、〈友愛自動車〉等に代表される合弁企業の工場で働く等して生計を立てている。
工業団地に繋がる、ポツダム線上に三ヵ所だけ設けられた検問所では、双方の国境警備当局が毎朝六時の国旗掲揚式と毎夕六時の国旗降納式で音楽隊演舞のクオリティを競い合い、検問所の責任者同士が形式的かつ儀礼的に手早く一回の握手と二回の敬礼を交わす様が国内外からの観光客の人気を集めている。
韓国と北朝鮮とは異なり、"印パ又は南北中国と同等"と言える程度には交流がある日本皇国と新日本民主共和国。
だがその一方で、皇国は国産の一〇式戦車と九〇式戦車に、アグレッサー部隊向けに配備された少数の米国製のエイブラムス戦車の。
共和国は七二型戦車に八〇型戦車に九〇型戦車という何れも旧ソ連又はロシア製戦車の。
更に皇国側には在日米陸軍第八軍の戦車隊を、共和国側には駐留ロシア軍の戦車隊を含めた、合わせて二千両近い戦車が北海道の大地に展開され、互いに砲口を向けあっているのも事実である。
一体、何故に此の様な状況が生じたのか?
◇
西暦一九四五年七月二十六日に、連合国占領下のドイツの都市ポツダムから発せられた〈日本への降伏要求の最終宣言〉、所謂〈ポツダム宣言〉。
此の中で連合国は、戦後日本の領土方針について、カイロ宣言から引き続き日米和親条約が締結された西暦一八五四年の状態を基準に次の通り記している。
"日本国の主権は、本州、四国、九州、並びに吾等が決定する諸島に局限せらるべし"
此れに先立つ事五ヶ月前の西暦一九四五年二月に、ソ連構成国の一つクリミアSSR(現在のクリミア人民共和国)の都市ヤルタで開催された連合国首脳会談、所謂〈ヤルタ会談〉の最中、時の米国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトとソ連首相ヨシフ・スターリンが秘密会談の場を設けた。
此の会談の場で両者はソ連対日参戦の見返りとして、〈ポーツマス条約〉で割譲された樺太島の返還や〈樺太千島交換条約〉で割譲された北得撫水道以北の北千島の引き渡し。
〈南満州鉄道〉や日本が西暦一九四三年に設立した国策会社〈北満州石油〉をはじめとする満州の権益について等、幾つかの合意を取り決めた。
"米ソ航空戦力による日本本土空襲の合同作戦"
"北海道本島と南千島を含む附属島嶼からなる北海道地域の米ソ共同管理"も其の一つである。
「〈シベリア出兵〉で日本軍による極東占領を経験した記憶を持つソ連国民の世論は、もしソ連軍が日本の主要な領土に占領地域を持たないならば大いに憤慨する事でしょう」
此れは秘密会談の場でのヨシフ・スターリン首相の発言と伝えられるもので、此れにルーズベルト大統領はスターリンの言葉に真剣に耳を傾け、「全くその通りです」と同意を示す様に大きく頷いたとも伝えられる。
斯くして北海道地方の米ソ共同管理が決定された訳であるが、具体的な内容は此の時点では決められなかった。
◇
〈ポツダム線〉。
北海道本島の北緯四十三度.四〇分線上に定められた米ソ南北分割境界線の名称である。
北海道分割占領に際して両軍の占領担当地域を分ける役割を果たすものとして設定された此の分割案は、ポツダム会談と同時に行われた米ソ両軍の参謀長会議の場で合意された。
何故、北緯四十三度.四〇分線という中途半端な感の否めない線が分界線となったのか。
事実として、他の案がなかった訳ではない。
例えばアントノフ参謀総長を代表とするソ連軍側からは、増毛町から白糠村(現:白糠町)を結んだ線を分界線とする案や、旧北海道庁(当時北海道では都府県と異なり、「北海道庁官制」に基づく内務省の直接統治が行われていた)内の支庁区分を利用する案が提示されていた。
だが、道東には大型船舶が入港可能な設備の整った港湾が釧路港以外に存在しなかった事。
何よりも、病死したルーズベルト大統領の後任で大統領に就任したハリー・トルーマン大統領が、ソ連にとっては念願の不凍港となり得る北海道太平洋岸の港をソ連軍が占領する事を激しく嫌っていた事等の理由から、其の意向を受けた米軍のウィリアム・リーヒ海軍元帥や合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング海軍元帥の反対で支庁区分や増毛・白糠線に基づくソ連軍提案の分割案は廃案。
続いて提案された北緯四十三度.三〇分線案についても、占領中の兵員や物資輸送の観点から陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル陸軍元帥の反対で廃案となった。
石勝線が存在しなかった当時、札幌から帯広・釧路・根室方面への鉄道路線は滝川駅からの根室本線が唯一の幹線だったのだが、此の案では滝川駅がある滝川町(現在の滝川市)と其の一帯がソ連軍占領地域に入ってしまう為である。
こうした経緯を経て、道都札幌市を筆頭に、函館市・室蘭市・釧路市等の主要都市が米軍占領下に。
留萌市・旭川市・網走市がソ連占領下に収まる北緯四十三度.四〇分線を北海道本島の米ソ分界線とする事。
南千島・利尻島・礼文島等はソ連軍の、奥尻島・歯舞群島・色丹島等は米軍の占領区域に含むという妥協的な合意が米ソ両軍間に成立。
米国大統領トルーマンとソ連スターリン首相の承認を得た。
◇
西暦一九四五年八月六日、月曜日。
ナチ・ドイツの無条件降伏から三ヶ月が経過したこの日、遂にソ連は、前々に更新の意向を示していた筈の日ソ中立条約〉を一方的に破棄して大日本帝国に宣戦布告。
ソ連成立初期からの衛星国であったモンゴル人民共和国(当時)とトゥヴァ人民共和国(当時)からの軍を合わせて二百三十万に達する大軍を以て満州の関東軍を包囲殲滅し、華北の支那派遣軍を黄河以南に追いやるべく侵攻を開始。
樺太北部から南部へと伸びるパイプラインと、石油貯蔵施設、強粘結炭を使う製鉄所を爆撃した。
同日の昼には、西暦一九三八年から七年の年月を費やした原爆研究開発の総仕上げとして、七月十六日月曜日に行ったセミパラチンスクでの核実験成功によって遂に原爆を完成させたソ連軍が、京都府京都市伏見区の深草藤森町一帯の市街地を臨機目標としてソ連初となる実戦での原爆投下を実行した。
尤も、日本が原爆攻撃を受けたのは此れが初めてではない。
三ヶ月前の西暦一九四五年四月十六日月曜日にニューメキシコ州アラモゴード砂漠で人類史上初の核実験、所謂〈トリニティ実験〉を成功させた米国の手によって、既に六発の原爆が日本の各都市に投下されていた。
◇
トリニティ実験の二ヶ月前から、米軍は東から順に神奈川県川崎市・広島県広島市・福岡県小倉市(現:北九州市)の計三都市を対象に、原爆の爆風や熱線による被害効果を正確に測定するため、焼夷弾や通常爆弾を用いての爆撃を禁止する命令を出していた。
最初の一発目となるウラン型原子爆弾、所謂〈リトルボーイ〉がB-29爆撃機(機体名:ストレート・フラッシュ)から投下されたのは五月七日月曜日の川崎市だった。
南武線の線路沿いに位置する東京芝浦電気柳町事業所(現在の川崎市平和公園)を照準点とする、世界初の実戦での原爆投下だった。
当時、日本陸軍第十飛行師団(当時日本に空軍は存在していなかった)の調布飛行場(現在の在日中華民国陸軍東京基地)には、量産開始から未だ間も無い日本初の国産ジェット戦闘機だった「火龍」二十機で編成された飛行中隊二個とロケット戦闘機「秋水」十機で編成された飛行中隊一個。
神奈川県の厚木飛行場(現在の厚木海軍飛行場・神奈川空港)には、先述の火龍戦闘機と同時進行で量産開始された海軍のジェット戦闘攻撃機「橘花」十六機で編成された飛行隊が駐屯していたが、件のB-29を偵察任務での飛来と誤認した等の理由からか出撃命令は出なかった。
◇
米国によって投下された二発目以降の原爆は全てプルトニウム型原子爆弾であった。
五月十日、B-29爆撃機(機体名:エノラ・ゲイ)が広島県広島市上空に飛来。
当初の爆撃照準は広島市内を流れる元安川に掛かる元安橋だったが、呉鎮守府を防衛する海軍高角砲陣地から対空砲火を受けて機体に損傷が生じた他、視界不良が原因で元安橋を目視確認出来ないまま、広島市南区霞町の広島陸軍兵器補給廠を臨機目標として原爆投下を実行に移したのが〈広島原爆〉である。
尚、広島市上空から離脱した原爆搭載機は損傷の為に天寧島への帰還を断念せざるを得ず、中国内陸部の都市成都の飛行場に着陸。
現地の中国人将兵は歓呼と共に此れを出迎えた。
五月二十日、B-29爆撃機(機体名:ボックス・カー)が福岡県小倉市上空に飛来。
爆撃照準である小倉陸軍造兵廠上空に到達するも視界不良の上に日本軍の対空砲火激しく、当時東京以外で唯一配備されていた数少ないジェット戦闘機「火龍」飛行中隊が芦屋飛行場から迎撃に向かって来た為、投下を断念。
第二目標の福岡市への投下も断念した機長は、第三目標の岡山市へボックス・カーを転進。
市中心部の柳川交差点を爆撃照準とする三発目の原爆を投下した。
六月二日、B-29爆撃機(機体名:フルハウス)が熊本県熊本市上空に飛来。
市内を流れる白川に掛かる大甲橋を爆撃照準とする四発目の原爆を投下した。
六月十日:B-29爆撃機(機体名:ストレンジ・カーゴ)が宮城県仙台市上空に飛来。
新伝馬町と東三番丁を爆撃照準点とする五発目の原爆を投下した。
六月二十日、B-29爆撃機(機体名:グレート・アーティスト)が静岡県静岡市上空に飛来。
駿府城跡を爆撃照準とする六発目の原爆を投下した。
ソ連による原爆投下は、これ等に続く形で、尚且つ米国にとっても全く想定外の形で実行されたものだった。
当時米国政府と軍内部では、ソ連が原爆を開発するには更に後十年は必要だと見積もっていたからだ。
◇
此の任務に当たったのはTU-4爆撃機三機とPe-8爆撃機からなる混成爆撃機部隊である。
前者三機について、当時ソ連は"ボーイングスキー"の異名で知られる"TU4爆撃機の先行生産型"と説明していたが、ソ連崩壊後の機密開示によって、実際には前年の七月から十二月にかけてソ連領内に不時着したB29爆撃機四機の内三機をTU4だと言い繕って米国に無断で使用していた事実が明らかになっている。
また本来の爆撃照準も中心市街地に位置する梅小路機関区(現在の京都鉄道博物館)であったが、視界不良が原因で三回に渡る爆撃航行を経ても目標を目視確認出来ず、やむ無く先述の地域を臨機目標としてソ連初の原爆投下を実行したのだった。
此の〈京都原爆〉は、原爆が投下された伏見区がかつては伏見市だったという歴史的背景に因んで別名〈伏見原爆〉とも呼ばれる。
東海道本線以南から桂川以東に拡がる市街地と、其処で生活していた九万人の市民達が瞬時に死に追いやられた。
第十六師団司令部も壊滅。
桓武天皇、明治天皇、昭憲皇太后が眠り、乃木希典将軍と静子夫人を祀る乃木神社を囲う桃山丘陵の森。
神功皇后によって創建された藤森神社、伏見稲荷大社、東寺、東福寺といった、数百年或いは千年を超す歴史を持つ建物も、全てが原爆の炎によって焼け落ちた。
現在我々が見る其の姿は、いずれも戦後に再建されたものだ。
京都への原爆投下から三日後の八月九日には、ソ連軍は新潟県新潟市の万代橋を爆撃照準とする二発目の原爆を投下した。
◇
米ソ両軍による原爆使用という事態に、日本陸海軍は全く手をこまねいていた訳ではない。
六月二十四日に米軍占領下の北真理亜納諸島は天寧島と彩帆島と米領グアム島を標的としたB-29爆撃機の焼き討ち作戦と硫黄島への大空襲・空挺作戦。
所謂〈義号作戦〉、〈剣号作戦〉、〈烈作戦〉で日本軍は久方ぶりにして予想以上の大戦果を挙げ、B-29爆撃機複数機の鹵獲さえも成功していた。
此れと同様の空挺強襲作戦をソ連に対しても行えないかどうかの検討が京都への原爆投下間も無く開始されていたのだが、西暦一九四五年八月十二日の御前会議で裕人天皇(昭和天皇)が「御聖断」を降した事によりポツダム宣言の受諾が決定し、実際に詳細な作戦計画立案には至らなかった。
翌八月十三日月曜日の正午に、NHKのラジオ放送が天皇自ら朗読した「大東亜戦争終結ノ詔書」の録音を全国に放送。
此処に、真珠湾攻撃以来三年と八ヶ月、〈日華戦争〉を合わせて八年に及ぶ戦争に幕が降ろされたかに思われたが、日本がポツダム宣言を受託した後もソ連軍は侵攻を継続。
終戦から九日後の八月二十二日には長崎県長崎市の三菱重工業長崎兵器製作所大橋工場を爆撃照準とする三発目の原爆を投下した。
支那派遣軍と第十七方面軍に対し、局地的自衛戦闘を除く武力行使の一切が停止される大陸命が出たのも此の日であった。
日本が東京湾に停泊した米国戦艦ミズーリ号の甲板上で降伏文章に署名した翌日の九月三日。
ニコラエフスク・ナ・アムーレ、ウラジオストク、ソビエツカヤ・ガヴァニ、ペトロパブロフスク・カムチャツキーを出港した輸送船団に乗ったソ連軍が、ポツダム合意に基づいて千島列島・樺太島・北海道北部に進駐を開始。
北樺太湾、真岡、大泊、稚内、留萌、網走の港から続々上陸し、現地の日本軍部隊の降伏と武装解除を受け入れた。
ソ連軍に遅れる事四日、今度は米国軍が、小樽と釧路から北海道に上陸。
北海道南部最大の都市である札幌市に入った。
朝鮮半島と同様、北海道では、北緯四十三度四〇分線に敷かれたポツダム線を境に、米国とソ連による直接軍政が始まった。