※Fate/Zeroの原作再構成IFです。
※遠坂時臣中心。ギルガメッシュとの関係性に独自解釈があります。
※桜救済要素、大聖杯・間桐・御三家に関する独自解釈があります。
※言峰綺礼の死亡など、原作から大きく分岐します。
※時臣を善人化する話ではありません。
刃が沈む寸前、遠坂時臣の左手が動いた。
それは反射というより、作法に近かった。盃を置くときの手つき。礼を返すときの角度。長年、身につけた優雅さの中に、ただ一つだけ殺意への備えが混じっていた。
アゾット剣の切っ先は、時臣の胸ではなく、脇腹を浅く裂いた。血が散った。だが、それだけだった。
言峰綺礼の目が、わずかに見開かれる。
時臣の外套の内側で、赤い宝石が砕けた。炎ではない。衝撃でもない。もっと細く、もっと冷たい、魔力の楔が、綺礼の右腕を一瞬だけ縫い止めた。
「……師よ」
綺礼の声には驚きがあった。
黄金の椅子に身を預けていたアーチャーは、その響きを聞いて、口元を歪めた。
ほう。
面白い。
時臣は、刺された箇所を押さえなかった。血は流れている。だが彼はそれを、服に染みた葡萄酒でも見るように一瞥しただけだった。
「綺礼」
声は静かだった。
「お前が、私にすべてを語っていなかったように」
時臣の指先が、懐からもう一つの宝石を摘み出す。
「私も、お前にすべてを見せていたわけではない」
綺礼の腕を縫い止めていた魔力が弾けた。同時に、綺礼は後ろへ跳んだ。跳ばされたのではない。自ら距離を取ったのだ。さすがにただの魔術師なら、今の一撃で右腕の腱を焼かれ、終わっていた。だが言峰綺礼は魔術師ではない。代行者であり、鍛え上げられた肉体を持つ神の犬だった。
ギルガメッシュは、低く笑った。
「はは」
時臣がちらりとアーチャーを見る。
その目は、助けを求めてはいなかった。
それもまた、面白い。
時臣は理解していた。アーチャーは助けない。助けを乞えば、それだけでこの王の興は冷める。ならば、遠坂時臣は己の力でこの場を収めるしかない。
そして、言峰綺礼も理解していた。不意打ちは失敗した。だが致命傷にはならなかっただけで、傷は与えた。距離を詰め、呼吸を潰し、魔術を組み上げる前に殺せばいい。
綺礼は、剣を捨てた。
床に落ちたアゾット剣の音が、やけに澄んで響いた。
「見誤っていたのは、お互いだったようです」
綺礼が言った。
時臣はうなずいた。
「そのようだな」
次の瞬間、綺礼が踏み込んだ。
速い。
人間の動きとしては、あまりにも速い。床を蹴った音よりも先に、拳が時臣の間合いへ入っている。八極の歩法。短く、鋭く、逃げ道を潰す踏み込み。魔術師の結界を壊すには、遠くから撃ち合う必要などない。ただ懐へ入り、骨と内臓を砕けばいい。
時臣の右手が上がる。炎が生まれる。
綺礼はそれを避けなかった。片腕を焼かせ、肩で受け、なお前に出る。魔術師の火は恐ろしい。だが、恐ろしいからこそ、覚悟して踏み抜く者には一瞬だけ隙が生まれる。
その一瞬を、綺礼は狙った。
だが。
「甘いな、綺礼」
時臣の靴底が、床に軽く触れた。床板の下で、青い宝石が砕けた。
綺礼の足場が沈んだ。それは罠ではなかった。少なくとも、言峰綺礼を殺すためだけに置かれたものではない。遠坂の魔術師が、自らの工房に備えていた防御機構。侵入者を鈍らせ、間合いを狂わせ、魔力の流れを一瞬だけ乱すためのもの。
綺礼は姿勢を崩さない。崩さなかった。
だが、拳の到達が半歩遅れた。その半歩で、時臣は充分だった。
炎が、今度は綺礼の正面からではなく、横から噴き上がった。壁に仕込まれた宝石。燭台の下に隠された刻印。絨毯の模様に溶かされた魔術式。
部屋そのものが、遠坂時臣の手だった。
ギルガメッシュは、そこで初めて声を上げて笑った。
「よいぞ、時臣」
実に愉快だった。
この男は、つまらぬ臣下だと思っていた。礼を尽くし、形式を守り、王の前で自らを小さく見せるだけの魔術師だと思っていた。
だが違う。
この部屋は、時臣の礼節と同じだった。外から見れば整っている。静かで、美しく、乱れがない。だが一枚めくれば、すべてが敵を焼くために配置されている。
優雅とは、無力の飾りではない。
遠坂時臣にとって、優雅とは殺し方の様式だった。
綺礼が炎の隙間を抜けた。
まだ来る。右腕は焼けている。脇腹も裂けている。片足の感覚も鈍らされている。それでも綺礼は止まらない。拳が時臣の胸へ向かう。
時臣は退かなかった。指先の宝石を砕く。赤ではなく、黒に近い深い紫。
綺礼の拳が時臣の胸に届く直前、二人の間に薄い障壁が生じた。分厚い壁ではない。拳を止めるほどの強度もない。だが、軌道をずらすには足りた。綺礼の拳が時臣の肩をかすめる。骨が軋む音がした。時臣の顔が苦痛に歪む。それでも、左手は正確に綺礼の胸元へ向けられていた。
「正面から来るなら」
時臣の声は、わずかに震えていた。恐怖ではない。痛みでもない。怒りでもない。
長年、弟子として傍に置いた男を、今ここで殺すことへの、最後の確認のようだった。
「私の方が強い」
宝石が砕けた。炎ではなかった。圧縮された魔力が、槍のように綺礼の胸を貫いた。
綺礼の身体が後方へ飛ぶ。壁に叩きつけられ、木材が割れた。呼吸が潰れ、肋骨が折れ、血が口から溢れる。
それでも、言峰綺礼は即死しなかった。
ギルガメッシュはそれを見て、目を細めた。
たいしたものだ。人としては、しぶとい。犬としては、よく鍛えられている。
だが、王の興を満たすには、わずかに足りない。
綺礼は壁にもたれたまま、時臣を見た。
「……師よ」
その声は、先ほどよりも低かった。
「あなたは、私を信じていたのではなかったのですか」
時臣は乱れた呼吸を整えた。肩から血が流れている。脇腹も浅くない。だが立っている。背筋を伸ばし、遠坂の当主として立っている。
「信じていた」
時臣は答えた。
「だからこそ、備えていた」
ギルガメッシュは、また笑った。
その答えはよい。信頼と警戒を矛盾としない。愛弟子と見なしながら、裏切りの可能性を切り捨てない。優雅な顔をしながら、工房の床下に殺意を埋める。
時臣。
貴様、なかなかどうして。
綺礼は立とうとした。
だが、膝が崩れた。先ほど胸を貫いた魔力は、ただ肉を焼いたのではない。体内の魔力流路を乱している。八極の踏み込みも、呼吸も、もはや戻らない。
時臣は床に落ちたアゾット剣を見た。
それから綺礼を見た。
「綺礼。最後に聞く」
時臣の声は静かだった。
「お前は、何を求めた」
言峰綺礼は、しばらく答えなかった。血に濡れた唇が、かすかに動く。
「……分かりません」
その答えに、時臣は目を伏せた。
ギルガメッシュは、退屈そうに頬杖をついた。そこがつまらぬのだ、綺礼。
死ぬ間際でなお、己の欲を名づけられぬとは。
時臣が右手を上げる。
最後の宝石が、指先で淡く光った。
綺礼は抵抗しなかった。
抵抗できなかったのではない。抵抗の理由を、最後まで見つけられなかった。
「さらばだ、綺礼」
炎が落ちた。それは怒りの火ではなかった。復讐でもない。遠坂時臣が、遠坂の当主として、裏切った弟子を処理するための火だった。
言峰綺礼は燃えた。
短く、静かに。
燃え尽きた後、部屋には焦げた匂いと血の匂いだけが残った。
時臣はしばらく動かなかった。
やがて、深く息を吐き、アーチャーへ向き直る。肩は震えていた。だが、礼は崩さなかった。
「お見苦しいところをお見せしました、王よ」
ギルガメッシュは立ち上がらなかった。
ただ、黄金の瞳で時臣を見下ろし、愉快そうに笑った。
「見苦しい?」
王は笑う。
「愚か者め。今宵初めて、貴様は見物に値したのだ」
時臣の眉が、ほんのわずか動いた。
それすら、ギルガメッシュには愉快だった。
「喜べ、時臣。貴様は己の弟子に見誤られていた。貴様もまた、弟子を見誤っていた。ならば、この結末は双方の不明によるものだ」
ギルガメッシュは、空になった酒杯を指で弾いた。
「だが、最後に立っていたのは貴様だ」
時臣は何も言わなかった。
言えば、何かが崩れると知っていたのかもしれない。
ギルガメッシュはそれも見抜き、満足げに目を細めた。
「さて、時臣」
王の声が、少しだけ低くなる。
「次は貴様の番だ」
時臣が顔を上げる。
「私の、とは」
「決まっておろう」
ギルガメッシュは笑った。
「貴様が求める杯とやらが、貴様の望むものかどうか。今度はそれを見せてもらおうではないか」