間桐邸を出たあと、ギルガメッシュはなおも上機嫌だった。
「真夜中に親子で散歩か。暢気なものよな、時臣」
時臣は、桜の手を引いたまま答えた。
「散歩で済むなら、どれほどよかったことか」
ギルガメッシュが笑った。
「言うではないか」
桜は何も言わない。
小さな手は冷えていた。握り返す力も弱い。だが、離そうとはしなかった。
時臣はその感触を、意識の奥へ押し込めた。今は父親として立ち止まるべき時ではない。
「王よ」
「何だ」
「遠坂邸に戻る前に、外部干渉の遮断を行います。桜を屋敷の中枢へ入れるわけにはいきません」
「当然だ」
ギルガメッシュは、まるで最初から分かっていたように言った。
「そのまま連れ帰れば、虫を巣ごと招き入れることになるぞ」
時臣は足を止めた。
ギルガメッシュの背後に、黄金の波紋が開く。現れたのは、剣でも槍でもなかった。小さな鏡、細い環、古びた香炉、指先ほどの楔、薄い布のような封具。用途は見ただけでは分からない。
だが、時臣には分かった。
これは戦うための宝具ではない。
遮るためのものだ。内と外を分けるもの。命令と対象を切り離すもの。
器に混じった異物を、暴れさせずに眠らせるもの。
「持て」
ギルガメッシュは、細い環を一つ時臣へ投げた。
時臣は受け取った。
「これは」
「虫の声を遮るものだ。完全に取り除くわけではない。暴れさせず、聞かせず、呼ばせぬ」
「……なぜ、それが必要だと」
ギルガメッシュは、退屈そうに時臣を見た。
「まだ分からぬか」
時臣は、答えられなかった。
分かっていた。
分かってしまった。
臓硯は、桜を手放すつもりなど初めからなかった。
たとえ正式な契約のもとで遠坂から間桐へ移したとしても、桜本人を一人の後継者として扱う気などなかった。
いつでも命じられるように。
いつでも戻せるように。
いつでも壊せるように。
そういう仕込みをしているから、英雄王がこの種の宝具を出した。
「……あの方は」
時臣は、言葉を選ぼうとした。
だが、その言葉は選びきれなかった。
「契約を守る気など、初めからなかったのですな」
「ようやくその顔になったか」
ギルガメッシュは愉快そうに笑った。
「老蟲に契約を語った時の貴様も悪くはなかった。だが、今の顔の方がよい」
「王よ」
「何だ」
「今は、そのような」
「余計なことを言うな、か。聞き飽きたわ」
ギルガメッシュは桜を見た。
桜は、王を見返さない。
目を伏せたままだった。
「その小娘は、まだ器として残っている。だから貴様は持ち帰れた。だが、あと十年もあの巣に置けば、虫の巣が人の形をしているだけになったであろうな」
時臣の手に、力が入った。
桜が小さく震える。
時臣はすぐに力を緩めた。
「……失礼しました、桜」
桜は答えなかった。
ただ、ほんのわずかに首を振った。
それが「痛くない」という意味なのか、「謝らないで」という意味なのか、時臣には分からなかった。
遠坂邸の離れに着くと、時臣は桜を生活空間へは入れなかった。
母屋ではなく、結界の張られた小工房へ向かう。
葵や凛に会わせる前に、まず確認しなければならない。
父としては残酷だった。
だが、責任者としては必要だった。
「桜。ここで少し待ちなさい」
「……はい」
従順な返事。
時臣は、その従順さにまた胸の奥を刺された。
工房の中央に桜を立たせ、時臣は宝石を三つ並べた。
赤。青。透明。
遠坂の簡易検査術式。
魔術回路、外部干渉、霊的接続を見るためのもの。
起動した瞬間、反応が出た。
一つではない。
桜の足元。
髪の端。
胸元。
背中。
影。
魔力回路の周縁。
呼吸に混じるような微細な呪詛。
遠くへ伸びようとする細い糸。
時臣は、声を失った。
「多すぎる」
思わず漏れた言葉だった。
ギルガメッシュが、工房の入口にもたれたまま笑った。
「驚くほどか?」
「これは、適応処置ではありません」
時臣の声は低かった。
「一部は適応のための術式と解釈できる。間桐の魔術体系に合わせるための干渉。そこまでは、まだ理解できる」
「ほう」
「ですが、これは違う。監視、抑制、追跡、遠隔命令、再接続。いくつかは……桜の意思や生命維持より、術式の維持を優先している」
言ってから、時臣は自分の声が冷えすぎていることに気づいた。
怒鳴ることすらできなかった。
あまりにも明白だった。
これは契約違反などという言葉で収まるものではない。
それでも、今の時臣には、そこから始めるしかない。
「王よ。先ほどの封具をお借りしても」
「使え」
ギルガメッシュは即答した。
「ただし、取り除こうとはするな。今の貴様では無理だ」
「承知しています」
「分かっている顔ではないな」
時臣は黙った。
ギルガメッシュは続けた。
「怒りに任せて虫を焼けば、その小娘の回路ごと焼く。父親面をしたいなら勝手にしろ。だが、救いたいなら眠らせろ」
時臣は深く息を吐いた。
「停止と封鎖を優先します」
「それでよい」
ギルガメッシュが小さな香炉を指で弾いた。
香炉は桜の足元へ滑るように進み、白い煙を吐いた。
反応が、少しずつ鈍る。
完全に消えはしない。
しかし、外へ伸びていた糸のいくつかが途中で止まった。影に潜ろうとしていた黒い反応も、動きを弱める。
時臣は、それを見て確信した。
臓硯は、桜を一時的に遠坂へ預けるつもりなどなかった。
屋敷を出た後も、取り戻すつもりだった。
場合によっては、遠坂邸の中で反応させるつもりだった。
時臣は目を伏せた。
「……契約を守る気がなかった相手に、私は契約を語っていたわけですか」
「違うな」
ギルガメッシュが言った。
時臣は顔を上げた。
「契約を守る気がない相手だからこそ、貴様は契約を語るしかなかったのだ。己が何を破ったかを、老蟲に突きつけるためにな」
時臣は何も言えなかった。
ギルガメッシュは、上機嫌に笑っている。
「よいぞ、時臣。父として怒鳴るより、魔術師として目を逸らすより、その方がよほど面白い」
「……面白い話ではありません」
「貴様にとってはな」
時臣は、再び桜を見た。
桜は立っている。
何も分かっていないわけではない。
だが、すべて分かっているわけでもない。
ただ、父が何かをしていることだけは分かっているようだった。
「桜」
「……はい」
「少し苦しいかもしれません。ですが、今は動かないでください」
「はい」
その返事もまた従順だった。
時臣は、宝石に魔力を通した。
治療ではない。救済でもない。
まずは封鎖、停止、記録、証拠保全。
父親としては、抱きしめるべきだったのかもしれない。
だが今、桜を守るために必要なのは、父親の腕ではなく、契約違反を証明する記録と、臓硯の干渉を遮る結界だった。
ギルガメッシュは、その背中を見て、満足そうに笑った。
「娘を連れ帰った夜に、まず証文と封印か」
「それがなければ、守れません」
「そうだな」
珍しく、王は否定しなかった。
「だから、見ていて飽きぬのだ」
時臣は答えなかった。
工房の中で、桜の周囲に浮かぶ黒い反応が、ひとつずつ記録されていった。
その数が増えるたびに、時臣の中で、間桐臓硯という名に残っていた最後の信頼が削れていった。
記録が一段落した頃、時臣は机の端に置いていた小さな銀の函へ手を伸ばした。
遠坂と禅城のあいだにだけ通じる、古い連絡用の礼装だった。
本来なら、葵と凛は冬木から遠ざけておくべきだった。聖杯戦争に臨む遠坂の当主としては、それが正しい。実際、そうしていた。
だが、桜を連れ帰った以上、もうそれだけでは済まない。
母と姉に知らせぬまま、桜を工房の奥に隠すことはできた。安全だけを考えるなら、その方が正しいのかもしれない。
しかし、それはもはや保護ではなく、逃避だった。
「ほう」
ギルガメッシュが、愉快そうに目を細めた。
「家族を戦場へ招き入れるか、時臣」
時臣の指が、銀の函の上でわずかに止まった。
「招き入れるのではありません」
「では何だ」
「彼女たちは、すでに巻き込まれていました。私が、それを遠ざけていたつもりでいただけです」
ギルガメッシュは笑った。
「言うではないか。遠ざけていたのは家族か、それとも貴様自身の目か」
時臣は答えなかった。
答える必要がなかった。
その問いの答えは、工房の中央に眠る桜の周囲に、黒い反応としてすでに並んでいた。
「王よ」
「何だ」
「私は、桜を連れ帰りました。ですが、それだけでは足りません」
「ふむ」
「葵にも、凛にも、見せなければなりません。私が何をしたのか。桜に何が起きたのか。そして、これから何を守らなければならないのか」
「それで妻と娘に裁かれるか」
「必要ならば」
時臣は銀の函へ魔力を通した。
ためらいはあった。
だが、指は止めなかった。
「私も、覚悟する必要があります」
その言葉に、ギルガメッシュは声を立てて笑った。
「よい。実によいぞ、時臣。老蟲相手に契約を語った時より、今の方がよほど見物に値する」
銀の函の中で、淡い光が灯る。
遠く離れた禅城の家へ、細い魔力の糸が伸びていく。
夜半に妻へ送るには、あまりに遅すぎる連絡だった。
父としては遅すぎる。
夫としても遅すぎる。
だが、それでも送らなければならなかった。
時臣は短く息を吸い、言葉を整えた。
「葵。私です」
光の向こうで、すぐに返事はなかった。
当然だった。
こんな夜更けに、遠坂の連絡礼装が鳴る。聖杯戦争の最中に。それだけで、よい知らせであるはずがない。
やがて、かすかな声が返った。
「あなた……?」
眠りから起こされた声ではなかった。
葵もまた、眠っていなかったのだろう。
時臣は目を閉じた。
そして、逃げずに告げた。
「桜を、遠坂へ連れ帰りました」
光の向こうで、息を呑む音がした。
時臣は続けた。
「無事とは言えません。すぐに会わせることもできません。ですが、桜は今、遠坂の工房で保全しています」
「桜が……」
葵の声は、そこで崩れかけた。
それでも時臣は、言わなければならなかった。
「冬木へ戻ってください。凛も連れて」
自分でその言葉を口にした瞬間、時臣はそれがどれほど危うい命令か理解していた。
戦場へ呼ぶ。危険な場所へ戻す。
遠坂の当主としては、正しくない。
それでも、桜を遠坂の奥へ隠したまま、葵と凛だけを安全な場所に置いておくことは、もうできなかった。
「桜には触れられません。近づくことも、私が許すまでできません。それでも、あなたたちは知るべきです」
光の向こうで、葵は長く黙っていた。
やがて、小さく答えた。
「……分かりました」
その声は震えていた。
だが、拒まなかった。
「凛も」
「はい」
「すぐに発ちます」
連絡が切れた後、工房にはしばらく沈黙が残った。
時臣は銀の函から手を離した。
ギルガメッシュは、満足げに笑っていた。
「さて、時臣。次は妻と娘の前で何を語る?」
「事実を」
「足りぬな」
「責任を」
「まだ足りぬ」
時臣は、工房の中央に横たわる桜を見た。
「私が、間違えたことを」
その返答に、王は一瞬だけ黙った。
そして、ひどく愉快そうに笑った。
「よい。ならば朝まで眠るな。貴様の裁きは、夜が明けてからであろう」