優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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10.桜がされていたこと

 間桐邸を出たあと、ギルガメッシュはなおも上機嫌だった。

「真夜中に親子で散歩か。暢気なものよな、時臣」

 時臣は、桜の手を引いたまま答えた。

「散歩で済むなら、どれほどよかったことか」

 

 ギルガメッシュが笑った。

「言うではないか」

 桜は何も言わない。

 小さな手は冷えていた。握り返す力も弱い。だが、離そうとはしなかった。

 時臣はその感触を、意識の奥へ押し込めた。今は父親として立ち止まるべき時ではない。

 

「王よ」

「何だ」

「遠坂邸に戻る前に、外部干渉の遮断を行います。桜を屋敷の中枢へ入れるわけにはいきません」

「当然だ」

 ギルガメッシュは、まるで最初から分かっていたように言った。

「そのまま連れ帰れば、虫を巣ごと招き入れることになるぞ」

 

 時臣は足を止めた。

 ギルガメッシュの背後に、黄金の波紋が開く。現れたのは、剣でも槍でもなかった。小さな鏡、細い環、古びた香炉、指先ほどの楔、薄い布のような封具。用途は見ただけでは分からない。

 

 だが、時臣には分かった。

 これは戦うための宝具ではない。

 遮るためのものだ。内と外を分けるもの。命令と対象を切り離すもの。

 器に混じった異物を、暴れさせずに眠らせるもの。

 

「持て」

 ギルガメッシュは、細い環を一つ時臣へ投げた。

 時臣は受け取った。

「これは」

「虫の声を遮るものだ。完全に取り除くわけではない。暴れさせず、聞かせず、呼ばせぬ」

「……なぜ、それが必要だと」

 

 ギルガメッシュは、退屈そうに時臣を見た。

「まだ分からぬか」

 時臣は、答えられなかった。

 分かっていた。

 分かってしまった。

 

 臓硯は、桜を手放すつもりなど初めからなかった。

 たとえ正式な契約のもとで遠坂から間桐へ移したとしても、桜本人を一人の後継者として扱う気などなかった。

 いつでも命じられるように。

 いつでも戻せるように。

 いつでも壊せるように。

 そういう仕込みをしているから、英雄王がこの種の宝具を出した。

 

「……あの方は」

 時臣は、言葉を選ぼうとした。

 だが、その言葉は選びきれなかった。

「契約を守る気など、初めからなかったのですな」

「ようやくその顔になったか」

 

 ギルガメッシュは愉快そうに笑った。

「老蟲に契約を語った時の貴様も悪くはなかった。だが、今の顔の方がよい」

「王よ」

「何だ」

「今は、そのような」

「余計なことを言うな、か。聞き飽きたわ」

 

 ギルガメッシュは桜を見た。

 桜は、王を見返さない。

 目を伏せたままだった。

「その小娘は、まだ器として残っている。だから貴様は持ち帰れた。だが、あと十年もあの巣に置けば、虫の巣が人の形をしているだけになったであろうな」

 時臣の手に、力が入った。

 桜が小さく震える。

 時臣はすぐに力を緩めた。

 

「……失礼しました、桜」

 桜は答えなかった。

 ただ、ほんのわずかに首を振った。

 それが「痛くない」という意味なのか、「謝らないで」という意味なのか、時臣には分からなかった。

 

 遠坂邸の離れに着くと、時臣は桜を生活空間へは入れなかった。

 母屋ではなく、結界の張られた小工房へ向かう。

 葵や凛に会わせる前に、まず確認しなければならない。

 父としては残酷だった。

 だが、責任者としては必要だった。

 

「桜。ここで少し待ちなさい」

「……はい」

 従順な返事。

 時臣は、その従順さにまた胸の奥を刺された。

 工房の中央に桜を立たせ、時臣は宝石を三つ並べた。

 赤。青。透明。

 遠坂の簡易検査術式。

 魔術回路、外部干渉、霊的接続を見るためのもの。

 

 起動した瞬間、反応が出た。

 一つではない。

 桜の足元。

 髪の端。

 胸元。

 背中。

 影。

 魔力回路の周縁。

 呼吸に混じるような微細な呪詛。

 遠くへ伸びようとする細い糸。

 

 時臣は、声を失った。

「多すぎる」

 思わず漏れた言葉だった。

 ギルガメッシュが、工房の入口にもたれたまま笑った。

「驚くほどか?」

「これは、適応処置ではありません」

 時臣の声は低かった。

 

「一部は適応のための術式と解釈できる。間桐の魔術体系に合わせるための干渉。そこまでは、まだ理解できる」

「ほう」

「ですが、これは違う。監視、抑制、追跡、遠隔命令、再接続。いくつかは……桜の意思や生命維持より、術式の維持を優先している」

 言ってから、時臣は自分の声が冷えすぎていることに気づいた。

 怒鳴ることすらできなかった。

 あまりにも明白だった。

 

 これは契約違反などという言葉で収まるものではない。

 それでも、今の時臣には、そこから始めるしかない。

「王よ。先ほどの封具をお借りしても」

「使え」

 ギルガメッシュは即答した。

 

「ただし、取り除こうとはするな。今の貴様では無理だ」

「承知しています」

「分かっている顔ではないな」

 時臣は黙った。

 

 ギルガメッシュは続けた。

「怒りに任せて虫を焼けば、その小娘の回路ごと焼く。父親面をしたいなら勝手にしろ。だが、救いたいなら眠らせろ」

 時臣は深く息を吐いた。

「停止と封鎖を優先します」

「それでよい」

 

 ギルガメッシュが小さな香炉を指で弾いた。

 香炉は桜の足元へ滑るように進み、白い煙を吐いた。

 反応が、少しずつ鈍る。

 完全に消えはしない。

 しかし、外へ伸びていた糸のいくつかが途中で止まった。影に潜ろうとしていた黒い反応も、動きを弱める。

 

 時臣は、それを見て確信した。

 臓硯は、桜を一時的に遠坂へ預けるつもりなどなかった。

 屋敷を出た後も、取り戻すつもりだった。

 場合によっては、遠坂邸の中で反応させるつもりだった。

 

 時臣は目を伏せた。

「……契約を守る気がなかった相手に、私は契約を語っていたわけですか」

「違うな」

 ギルガメッシュが言った。

 

 時臣は顔を上げた。

「契約を守る気がない相手だからこそ、貴様は契約を語るしかなかったのだ。己が何を破ったかを、老蟲に突きつけるためにな」

 時臣は何も言えなかった。

 ギルガメッシュは、上機嫌に笑っている。

「よいぞ、時臣。父として怒鳴るより、魔術師として目を逸らすより、その方がよほど面白い」

「……面白い話ではありません」

「貴様にとってはな」

 

 時臣は、再び桜を見た。

 桜は立っている。

 何も分かっていないわけではない。

 だが、すべて分かっているわけでもない。

 ただ、父が何かをしていることだけは分かっているようだった。

 

「桜」

「……はい」

「少し苦しいかもしれません。ですが、今は動かないでください」

「はい」

 その返事もまた従順だった。

 

 時臣は、宝石に魔力を通した。

 治療ではない。救済でもない。

 まずは封鎖、停止、記録、証拠保全。

 

 父親としては、抱きしめるべきだったのかもしれない。

 だが今、桜を守るために必要なのは、父親の腕ではなく、契約違反を証明する記録と、臓硯の干渉を遮る結界だった。

 ギルガメッシュは、その背中を見て、満足そうに笑った。

 

「娘を連れ帰った夜に、まず証文と封印か」

「それがなければ、守れません」

「そうだな」

 珍しく、王は否定しなかった。

「だから、見ていて飽きぬのだ」

 時臣は答えなかった。

 工房の中で、桜の周囲に浮かぶ黒い反応が、ひとつずつ記録されていった。

 その数が増えるたびに、時臣の中で、間桐臓硯という名に残っていた最後の信頼が削れていった。

 

 記録が一段落した頃、時臣は机の端に置いていた小さな銀の函へ手を伸ばした。

 遠坂と禅城のあいだにだけ通じる、古い連絡用の礼装だった。

 本来なら、葵と凛は冬木から遠ざけておくべきだった。聖杯戦争に臨む遠坂の当主としては、それが正しい。実際、そうしていた。

 

 だが、桜を連れ帰った以上、もうそれだけでは済まない。

 母と姉に知らせぬまま、桜を工房の奥に隠すことはできた。安全だけを考えるなら、その方が正しいのかもしれない。

 しかし、それはもはや保護ではなく、逃避だった。

 

「ほう」

 ギルガメッシュが、愉快そうに目を細めた。

「家族を戦場へ招き入れるか、時臣」

 時臣の指が、銀の函の上でわずかに止まった。

「招き入れるのではありません」

「では何だ」

「彼女たちは、すでに巻き込まれていました。私が、それを遠ざけていたつもりでいただけです」

 

 ギルガメッシュは笑った。

「言うではないか。遠ざけていたのは家族か、それとも貴様自身の目か」

 時臣は答えなかった。

 答える必要がなかった。

 その問いの答えは、工房の中央に眠る桜の周囲に、黒い反応としてすでに並んでいた。

 

「王よ」

「何だ」

「私は、桜を連れ帰りました。ですが、それだけでは足りません」

「ふむ」

「葵にも、凛にも、見せなければなりません。私が何をしたのか。桜に何が起きたのか。そして、これから何を守らなければならないのか」

「それで妻と娘に裁かれるか」

「必要ならば」

 

 時臣は銀の函へ魔力を通した。

 ためらいはあった。

 だが、指は止めなかった。

「私も、覚悟する必要があります」

 その言葉に、ギルガメッシュは声を立てて笑った。

「よい。実によいぞ、時臣。老蟲相手に契約を語った時より、今の方がよほど見物に値する」

 

 銀の函の中で、淡い光が灯る。

 遠く離れた禅城の家へ、細い魔力の糸が伸びていく。

 夜半に妻へ送るには、あまりに遅すぎる連絡だった。

 父としては遅すぎる。

 夫としても遅すぎる。

 だが、それでも送らなければならなかった。

 時臣は短く息を吸い、言葉を整えた。

 

「葵。私だ」

 光の向こうで、すぐに返事はなかった。

 当然だった。

 こんな夜更けに、遠坂の連絡礼装が鳴る。聖杯戦争の最中に。それだけで、よい知らせであるはずがない。

 

 やがて、かすかな声が返った。

「あなた……?」

 眠りから起こされた声ではなかった。

 葵もまた、眠っていなかったのだろう。

 時臣は目を閉じた。

 そして、逃げずに告げた。

 

「桜を、遠坂へ連れ帰った」

 光の向こうで、息を呑む音がした。

 

 時臣は続けた。

「無事とは言えない。すぐに会わせることもできない。だが、桜は今、遠坂の工房で保全している」

「桜が……」

 葵の声は、そこで崩れかけた。

 

 それでも時臣は、言わなければならなかった。

「冬木へ戻りなさい。凛も連れて」

 自分でその言葉を口にした瞬間、時臣はそれがどれほど危うい命令か理解していた。

 戦場へ呼ぶ。危険な場所へ戻す。

 遠坂の当主としては、正しくない。

 

 それでも、桜を遠坂の奥へ隠したまま、葵と凛だけを安全な場所に置いておくことは、もうできなかった。

「桜には触れられない。近づくことも、私が許すまでできない。それでも、あなたたちは知るべきだ」

 光の向こうで、葵は長く黙っていた。

 

 やがて、小さく答えた。

「……分かりました」

 その声は震えていた。

 だが、拒まなかった。

 

「凛も」

「はい」

「すぐに発ちます」

 

 連絡が切れた後、工房にはしばらく沈黙が残った。

 時臣は銀の函から手を離した。

 ギルガメッシュは、満足げに笑っていた。

 

「さて、時臣。次は妻と娘の前で何を語る?」

「事実を」

「足りぬな」

「責任を」

「まだ足りぬ」

 

 時臣は、工房の中央に横たわる桜を見た。

「私が、間違えたことを」

 

 その返答に、王は一瞬だけ黙った。

 そして、ひどく愉快そうに笑った。

「よい。ならば朝まで眠るな。貴様の裁きは、夜が明けてからであろう」

 

 

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