門が閉じた。
遠坂時臣の背も、桜の小さな影も、もう見えない。
間桐臓硯は、しばらくその場に立っていた。
夜気は冷えていた。
だが、老いた身体に寒さはあまり意味を持たない。寒いと思う感覚は残っているが、それはもはや、生きている者の身体が訴える危険ではなかった。
ただ、古びた器に残った癖のようなものだった。
「……一時保全、か」
臓硯は、低く笑った。
遠坂時臣らしい言葉だった。
父として奪ったのではない。
魔術師として焼き払ったのでもない。
当主として、契約の名目で持ち帰った。
まこと、遠坂の当主らしい。
そして、若い。
契約で守れるものがあると思っている。
記録を残せば、言葉を整えれば、第三者を立てれば、破られたものを元に戻せると思っている。
臓硯は、喉の奥で笑った。
だが、その笑いは長く続かなかった。
屋敷の奥で、ひとつ、蟲の感覚が消えた。
臓硯は目を細めた。
遠坂邸へ向かわせていた観測用の蟲だった。
桜に触れさせたものではない。影に潜ませたものでもない。もっと外側、道の端に落とした薄い殻のような蟲だ。
視界を拾うだけのもの。音を拾うだけのもの。
桜がどの門を通り、どの部屋へ入れられるかを知るだけのもの。
それが、消えた。
「ほう」
臓硯は、指を動かした。
別の蟲に意識を移す。
まだある。
遠坂邸の外壁近く、庭木の根元、排水口の縁、通用口へ向かう石畳の隙間。
すべて、直接の害をなすものではない。
ただ見て、聞き、待つだけのものだった。
その一つが、白く霞んだ。
何かを見たわけではない。
焼かれたわけでもない。
ただ、視界の向こう側に、薄い膜が降りた。
次に、音が消えた。
臓硯は黙った。
さらに一つ。
さらに一つ。
蟲の感覚が、順番に途切れていく。
潰されているのではない。
探し出され、殺されているのでもない。
もっと厄介だった。
こちらから先が、なくなっている。
桜へ伸ばした道だけではない。遠坂邸の周囲へ残した細い線が、一本ずつ切られている。まるで、見えない誰かが地図の上に定規を置き、ここから先は王の領域だと線を引いているようだった。
「……なるほど」
臓硯は、ようやく苦笑した。
英雄王。
あれは、桜を連れて帰る場だけを整えたのではない。
時臣が桜を確認し、封じ、記録し、次の言葉を整えるまで。
そこまでを、場として定めた。
勝敗ではない、戦闘でもない。
裁定。
あの王は、そう言った。
臓硯はその言葉を思い出し、また苦笑した。
「王命、か」
馬鹿馬鹿しい。
そう思う。だが、馬鹿馬鹿しいと思い切れない。
実際、蟲は通らない。
呪詛も届かない。
桜の中に残したいくつかの仕掛けも、起こそうとすれば眠らされる。無理に動かせば、こちらとの接続ごと切り捨てられる。
殺されているのではない。
封じられている。
その差が、臓硯には分かった。
殺すだけなら、まだやりようはある。
焼かれた蟲の代わりを送ればいい。別の器を通せばいい。人を使えばいい。時間を置けばいい。
だが、封じられるのは違う。
こちらの手が、こちらの意図を保ったまま届かなくなる。
それは、間桐の術にとって最も忌々しい拒絶だった。
臓硯は、屋敷の奥へ戻った。
暗い廊下を進む。
壁の中で蟲が蠢く。床下で湿った音がする。
普段なら心地よい音だった。
己の身体の延長。
己の家。
己の巣。
だが今夜だけは、それが少しばかり耳障りだった。
『高潔な願いも、長く器に入れれば腐る』
英雄王の声が、耳の奥に残っていた。
魂の救済。
人の苦しみを終わらせること。
かつて、自分が手を伸ばしたもの。
そんなものは、遠い昔に擦り切れた。
擦り切れたはずだった。
だが、王はそれを見た。
腐った器の底に残った、古い名を掘り起こすように。
「身体とは、不便なものよな」
臓硯は、誰に言うでもなく呟いた。
不便。
まったく、その通りだった。理想は身体に縛られる。魂は器に縛られる。願いは時間に腐らされる。生き延びようとすれば、最初に何のために生きようとしたのかさえ、遠くなる。
そしてなお、終われない。
臓硯は奥の部屋へ入り、椅子に腰を下ろした。蟲の感覚は、まだ少しずつ途切れている。遠坂邸へ向けたものは、もうほとんど残っていない。最後の一匹が、かすかな光を見た。
黄金ではない。
白い煙でもない。
ただ、閉じられた門のようなものだった。
その向こうに桜がいる。
そう分かるのに、届かない。
次の瞬間、その感覚も消えた。
臓硯は、しばらく何も言わなかった。
やがて、細く笑う。
「……よい」
終わったわけではない。
遠坂時臣は、一時保全と言った。
契約履行の確認と言った。
後日、正式に協議すると言った。ならば、まだ言葉は残っている。
契約も残っている。御三家の名も、監督役の空白も、大聖杯も、戦争も残っている。
桜を奪われたのではない。
遠坂が預かっただけだ。
そういうことに、まだできる。
臓硯は顔を上げた。
遠坂時臣は、父親の顔で怒鳴らなかった。
契約の言葉を選んだ。ならば、その言葉で縛れる。その言葉を逆手に取れる。
あの男は、桜を抱えて逃げることができない。
記録を残す。手続きを踏む。正当性を求める。遠坂の当主である限り、そうせざるを得ない。
ならば、そこに隙がある。
臓硯は、ゆっくりと笑った。
「終わりはせんよ」
声は強くなかった。
叫びでもない。
勝利の宣言でもない。
ただ、長く生きすぎたものが、自分に言い聞かせるような声だった。
「まだ、終わりはせん」
遠坂邸へ向けた蟲は、もう沈黙している。
だが、冬木にはまだ大聖杯がある。
戦争は終わっていない。
願望器も、器も、魂も、まだ動いている。
桜を失ったなら、取り戻せばいい。取り戻せないなら、別の道を掘ればいい。
道が塞がれたなら、さらに深く潜ればいい。
それが、間桐臓硯というものだった。
かつての願いが腐り果てても、腐った根はまだ地中に残っている。
臓硯は暗い部屋の中で、ひとり笑った。
その笑みには、怒りと屈辱と、ほんのわずかな古い疲れが混ざっていた。