優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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11.臓硯の悪あがき

 門が閉じた。

 遠坂時臣の背も、桜の小さな影も、もう見えない。

 間桐臓硯は、しばらくその場に立っていた。

 

 夜気は冷えていた。

 だが、老いた身体に寒さはあまり意味を持たない。寒いと思う感覚は残っているが、それはもはや、生きている者の身体が訴える危険ではなかった。

 ただ、古びた器に残った癖のようなものだった。

 

「……一時保全、か」

 臓硯は、低く笑った。

 遠坂時臣らしい言葉だった。

 父として奪ったのではない。

 魔術師として焼き払ったのでもない。

 当主として、契約の名目で持ち帰った。

 まこと、遠坂の当主らしい。

 そして、若い。

 

 契約で守れるものがあると思っている。

 記録を残せば、言葉を整えれば、第三者を立てれば、破られたものを元に戻せると思っている。

 臓硯は、喉の奥で笑った。

 だが、その笑いは長く続かなかった。

 

 屋敷の奥で、ひとつ、蟲の感覚が消えた。

 臓硯は目を細めた。

 遠坂邸へ向かわせていた観測用の蟲だった。

 桜に触れさせたものではない。影に潜ませたものでもない。もっと外側、道の端に落とした薄い殻のような蟲だ。

 視界を拾うだけのもの。音を拾うだけのもの。

 桜がどの門を通り、どの部屋へ入れられるかを知るだけのもの。

 それが、消えた。

 

「ほう」

 臓硯は、指を動かした。

 別の蟲に意識を移す。

 まだある。

 遠坂邸の外壁近く、庭木の根元、排水口の縁、通用口へ向かう石畳の隙間。

 すべて、直接の害をなすものではない。

 ただ見て、聞き、待つだけのものだった。

 

 その一つが、白く霞んだ。

 何かを見たわけではない。

 焼かれたわけでもない。

 ただ、視界の向こう側に、薄い膜が降りた。

 

 次に、音が消えた。

 臓硯は黙った。

 さらに一つ。

 さらに一つ。

 蟲の感覚が、順番に途切れていく。

 

 潰されているのではない。

 探し出され、殺されているのでもない。

 もっと厄介だった。

 こちらから先が、なくなっている。

 

 桜へ伸ばした道だけではない。遠坂邸の周囲へ残した細い線が、一本ずつ切られている。まるで、見えない誰かが地図の上に定規を置き、ここから先は王の領域だと線を引いているようだった。

 

「……なるほど」

 臓硯は、ようやく苦笑した。

 

 英雄王。

 あれは、桜を連れて帰る場だけを整えたのではない。

 時臣が桜を確認し、封じ、記録し、次の言葉を整えるまで。

 そこまでを、場として定めた。

 勝敗ではない、戦闘でもない。

 裁定。

 あの王は、そう言った。

 

 臓硯はその言葉を思い出し、また苦笑した。

「王命、か」

 馬鹿馬鹿しい。

 そう思う。だが、馬鹿馬鹿しいと思い切れない。

 

 実際、蟲は通らない。

 呪詛も届かない。

 桜の中に残したいくつかの仕掛けも、起こそうとすれば眠らされる。無理に動かせば、こちらとの接続ごと切り捨てられる。

 殺されているのではない。

 封じられている。

 

 その差が、臓硯には分かった。

 殺すだけなら、まだやりようはある。

 焼かれた蟲の代わりを送ればいい。別の器を通せばいい。人を使えばいい。時間を置けばいい。

 

 だが、封じられるのは違う。

 こちらの手が、こちらの意図を保ったまま届かなくなる。

 それは、間桐の術にとって最も忌々しい拒絶だった。

 

 臓硯は、屋敷の奥へ戻った。

 暗い廊下を進む。

 壁の中で蟲が蠢く。床下で湿った音がする。

 普段なら心地よい音だった。

 己の身体の延長。

 己の家。

 己の巣。

 

 だが今夜だけは、それが少しばかり耳障りだった。

 

『高潔な願いも、長く器に入れれば腐る』

 英雄王の声が、耳の奥に残っていた。

 

 魂の救済。

 人の苦しみを終わらせること。

 かつて、自分が手を伸ばしたもの。

 

 そんなものは、遠い昔に擦り切れた。

 擦り切れたはずだった。

 だが、王はそれを見た。

 腐った器の底に残った、古い名を掘り起こすように。

 

「身体とは、不便なものよな」

 臓硯は、誰に言うでもなく呟いた。

 不便。

 まったく、その通りだった。理想は身体に縛られる。魂は器に縛られる。願いは時間に腐らされる。生き延びようとすれば、最初に何のために生きようとしたのかさえ、遠くなる。

 そしてなお、終われない。

 

 臓硯は奥の部屋へ入り、椅子に腰を下ろした。蟲の感覚は、まだ少しずつ途切れている。遠坂邸へ向けたものは、もうほとんど残っていない。最後の一匹が、かすかな光を見た。

 黄金ではない。

 白い煙でもない。

 ただ、閉じられた門のようなものだった。

 

 その向こうに桜がいる。

 そう分かるのに、届かない。

 次の瞬間、その感覚も消えた。

 臓硯は、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、細く笑う。

「……よい」

 終わったわけではない。

 

 遠坂時臣は、一時保全と言った。

 契約履行の確認と言った。

 後日、正式に協議すると言った。ならば、まだ言葉は残っている。

 契約も残っている。御三家の名も、監督役の空白も、大聖杯も、戦争も残っている。

 桜を奪われたのではない。

 遠坂が預かっただけだ。

 そういうことに、まだできる。

 

 臓硯は顔を上げた。

 遠坂時臣は、父親の顔で怒鳴らなかった。

 契約の言葉を選んだ。ならば、その言葉で縛れる。その言葉を逆手に取れる。

 あの男は、桜を抱えて逃げることができない。

 記録を残す。手続きを踏む。正当性を求める。遠坂の当主である限り、そうせざるを得ない。

 

 ならば、そこに隙がある。

 臓硯は、ゆっくりと笑った。

「終わりはせんよ」

 声は強くなかった。

 叫びでもない。

 勝利の宣言でもない。

 ただ、長く生きすぎたものが、自分に言い聞かせるような声だった。

 

「まだ、終わりはせん」

 遠坂邸へ向けた蟲は、もう沈黙している。

 だが、冬木にはまだ大聖杯がある。

 

 戦争は終わっていない。

 願望器も、器も、魂も、まだ動いている。

 桜を失ったなら、取り戻せばいい。取り戻せないなら、別の道を掘ればいい。

 道が塞がれたなら、さらに深く潜ればいい。

 

 それが、間桐臓硯というものだった。

 かつての願いが腐り果てても、腐った根はまだ地中に残っている。

 臓硯は暗い部屋の中で、ひとり笑った。

 その笑みには、怒りと屈辱と、ほんのわずかな古い疲れが混ざっていた。

 

 

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