橋の下の声は、川音に削られていった。
桜を返せ。
遠坂。
父親面をするな。
お前があの子を捨てた。
雁夜は、まだ叫んでいた。
叫んでいるつもりだった。
だが、もう声は喉から出ていなかった。血と唾液と、焼けかけた蟲の残滓が喉に絡み、音にならない息だけが漏れる。
ギルガメッシュの封具は、まだ橋の下に残っていた。
黄金の楔、宙に浮く輪、橋脚に貼りついた薄い板。
どれも鎖ではない。剣でもない。だが、バーサーカーは動けなかった。
黒い騎士は、ただそこにいた。
鎧が軋む。
呻きとも、咆哮ともつかない音が、低く橋の下にこもっている。
雁夜は泥の中で顔を動かそうとした。動かない。首も、腕も、指先さえも、自分のものではないようだった。
それは今さらだった。
この身体は、とっくに自分のものではなかった。
蟲に食わせた。
刻ませた。
焼かせた。
それでも、桜を取り戻すためなら構わないと思っていた。
取り戻す。
その言葉だけが、雁夜の中に残っていた。
「……さく、ら」
声にならない声が漏れた。
その時、雁夜の体内で何かが震えた。
蟲だった。
間桐の蟲。
臓硯の術式。
自分の身体を食いながら、無理やり魔術回路の代わりをしていたもの。
それが、急にざわめいた。
痛みではない。いや、痛みでもあった。
だが、それ以上に、遠くで何かが切れた感覚だった。
細い糸。どこかへ伸びていた黒い糸。
それが、一本、また一本と、途切れていく。
雁夜には魔術師としての見識などない。間桐の術式を理解しているわけでもない。自分の身体に埋め込まれたものが何をしているのか、正確に言えるはずもない。
それでも、分かった。
あの家の中で、何かが起きている。
桜へ伸びていたものが、切られている。
いや。
切られたのではない。
届かなくされている。
蟲が、桜へ戻れない。
臓硯の手が、届かない。
雁夜の胸の奥で、蟲が暴れた。壊れた身体が痙攣する。喉から黒いものが這い出ようとして、すぐに封具の残滓に焼かれた。
雁夜は、笑った。
笑えたかどうかは分からない。
顔が歪んだだけかもしれない。
「……出た、のか」
誰に聞いたわけでもない。
見たわけでもない。
だが、分かった。
桜は、間桐の中にいない。
あの蟲蔵の奥にいない。
臓硯の手が、今すぐには届かない場所にいる。
雁夜は目を閉じた。
その瞬間、遠坂時臣の顔が浮かんだ。
あの男。
あの澄ました顔。
契約。
確認。
資質。
履行。
娘を助けに行く時でさえ、そんな言葉を並べる男。
父親面をしない。
父親面をしろと言えば、きっとあの男はこう言うのだろう。
今の私がその言葉を用いれば、状況を誤らせます。
雁夜は、また笑いそうになった。
笑えなかった。
喉が鳴っただけだった。
「……むかつく、な」
本当に、むかつく。
桜をあんな家へ出したのは時臣だ。
桜が泣いたことも、助けを求めたことも、あの男は見なかった。
知らなかった。
知らなかったで済ませるには、あまりにも遅すぎる。
だから許さない。
許せるはずがない。
だが。
それでも。
あの男は、桜を間桐から出した。
自分ではできなかったことを、やった。
父親の言葉ではなく、契約の言葉で。
情ではなく、手続きで。
叫びではなく、確認で。
それがまた、腹立たしかった。
雁夜がどれだけ叫んでも届かなかった扉を、あの男は別の言葉で開けた。
雁夜は、泥の上で目を開けた。
黒い騎士が見えた。
バーサーカーは、まだそこにいた。
拘束されている。
だが、その目だけが、こちらを見ているように思えた。
いや、見ていたのかどうかも分からない。
狂化の奥に、何が残っているのか。
あの騎士が何を思い、何を見て、何を待っているのか。
雁夜には分からなかった。
最初から、分からなかった。
それでも。
バーサーカーは、何かを言いたげだった。
鎧の奥で、低く、低く、声にならない音が鳴っていた。
怒りか。
嘆きか。
誰かへの呼びかけか。
それとも、ただ狂った獣の唸りだったのか。
分からない。
ただ、待っているようにも見えた。
誰を。
何を。
雁夜には分からなかった。
セイバーをか。
自分の終わりをか。
それとも、もっと別の何かをか。
「……悪い、な」
その言葉が、誰に向けたものだったのか、雁夜自身にも分からなかった。
桜にか。
葵にか。
凛にか。
バーサーカーにか。
あるいは、自分自身にか。
雁夜は、もう一度だけ遠くを見ようとした。
遠坂邸の方角など、ここから見えるはずもない。
だが、そちらに桜がいる。
今は、そこにいる。
それだけでよかった。
よくはない、よいはずがない。
それでも、それだけは本当だった。
「あいつは……」
雁夜は、最後に時臣のことを考えた。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、見直した。
だが、それを口に出せば、あの男はきっと言うのだろう。
雁夜。あなたの評価には、感情が混じりすぎている。
あるいは。
今のあなたに、私を信用する理由はありません。
雁夜は、もう声にならない息で笑った。
「……最後まで、むかつく……」
川の音が近くなる。
橋の上を車が通った。
その振動が、泥と水と、壊れかけた身体へ伝わる。
バーサーカーの鎧が、かすかに軋んだ。
雁夜は、もうその音を聞いていなかった。
蟲のざわめきも、痛みも、怒りも、少しずつ遠くなっていく。
最後に残ったのは、桜が間桐の中にいないという感覚だけだった。
それは救いではなかった。
救済ではなかった。
雁夜の人生を肯定するものでもなかった。
ただ、ひとつだけ。
桜は、あの暗い家から出た。
雁夜は、それを抱えたまま息を吐いた。
次の息は、来なかった。
橋の下で、間桐雁夜はこと切れた。
黒い騎士は、しばらく動かなかった。
拘束具の光が、少しずつ薄れていく。
狂化の奥に何があったのかは、誰にも分からない。
ただ、その姿は、まだ何かを待っているようにも見えた。