優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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12.自分ではできなかったこと

 橋の下の声は、川音に削られていった。

 桜を返せ。

 遠坂。

 父親面をするな。

 お前があの子を捨てた。

 

 雁夜は、まだ叫んでいた。

 叫んでいるつもりだった。

 だが、もう声は喉から出ていなかった。血と唾液と、焼けかけた蟲の残滓が喉に絡み、音にならない息だけが漏れる。

 

 ギルガメッシュの封具は、まだ橋の下に残っていた。

 黄金の楔、宙に浮く輪、橋脚に貼りついた薄い板。

 どれも鎖ではない。剣でもない。だが、バーサーカーは動けなかった。

 

 黒い騎士は、ただそこにいた。

 鎧が軋む。

 呻きとも、咆哮ともつかない音が、低く橋の下にこもっている。

 

 雁夜は泥の中で顔を動かそうとした。動かない。首も、腕も、指先さえも、自分のものではないようだった。

 それは今さらだった。

 この身体は、とっくに自分のものではなかった。

 

 蟲に食わせた。

 刻ませた。

 焼かせた。

 それでも、桜を取り戻すためなら構わないと思っていた。

 取り戻す。

 その言葉だけが、雁夜の中に残っていた。

 

「……さく、ら」

 声にならない声が漏れた。

 その時、雁夜の体内で何かが震えた。

 

 蟲だった。

 間桐の蟲。

 臓硯の術式。

 自分の身体を食いながら、無理やり魔術回路の代わりをしていたもの。

 

 それが、急にざわめいた。

 痛みではない。いや、痛みでもあった。

 だが、それ以上に、遠くで何かが切れた感覚だった。

 

 細い糸。どこかへ伸びていた黒い糸。

 それが、一本、また一本と、途切れていく。

 

 雁夜には魔術師としての見識などない。間桐の術式を理解しているわけでもない。自分の身体に埋め込まれたものが何をしているのか、正確に言えるはずもない。

 それでも、分かった。

 

 あの家の中で、何かが起きている。

 桜へ伸びていたものが、切られている。

 

 いや。

 切られたのではない。

 届かなくされている。

 

 蟲が、桜へ戻れない。

 臓硯の手が、届かない。

 雁夜の胸の奥で、蟲が暴れた。壊れた身体が痙攣する。喉から黒いものが這い出ようとして、すぐに封具の残滓に焼かれた。

 

 雁夜は、笑った。

 笑えたかどうかは分からない。

 顔が歪んだだけかもしれない。

 

「……出た、のか」

 誰に聞いたわけでもない。

 見たわけでもない。

 だが、分かった。

 

 桜は、間桐の中にいない。

 あの蟲蔵の奥にいない。

 臓硯の手が、今すぐには届かない場所にいる。

 

 雁夜は目を閉じた。

 その瞬間、遠坂時臣の顔が浮かんだ。

 あの男。

 あの澄ました顔。

 契約。

 確認。

 資質。

 履行。

 

 娘を助けに行く時でさえ、そんな言葉を並べる男。

 父親面をしない。

 父親面をしろと言えば、きっとあの男はこう言うのだろう。

 

 今の私がその言葉を用いれば、状況を誤らせます。

 雁夜は、また笑いそうになった。

 笑えなかった。

 喉が鳴っただけだった。

 

「……むかつく、な」

 本当に、むかつく。

 

 桜をあんな家へ出したのは時臣だ。

 桜が泣いたことも、助けを求めたことも、あの男は見なかった。

 知らなかった。

 知らなかったで済ませるには、あまりにも遅すぎる。

 だから許さない。

 許せるはずがない。

 

 だが。

 それでも。

 

 あの男は、桜を間桐から出した。

 自分ではできなかったことを、やった。

 

 父親の言葉ではなく、契約の言葉で。

 情ではなく、手続きで。

 叫びではなく、確認で。

 それがまた、腹立たしかった。

 

 雁夜がどれだけ叫んでも届かなかった扉を、あの男は別の言葉で開けた。

 雁夜は、泥の上で目を開けた。

 

 黒い騎士が見えた。

 バーサーカーは、まだそこにいた。

 拘束されている。

 

 だが、その目だけが、こちらを見ているように思えた。

 いや、見ていたのかどうかも分からない。

 

 狂化の奥に、何が残っているのか。

 あの騎士が何を思い、何を見て、何を待っているのか。

 

 雁夜には分からなかった。

 最初から、分からなかった。

 それでも。

 バーサーカーは、何かを言いたげだった。

 鎧の奥で、低く、低く、声にならない音が鳴っていた。

 

 怒りか。

 嘆きか。

 誰かへの呼びかけか。

 それとも、ただ狂った獣の唸りだったのか。

 

 分からない。

 ただ、待っているようにも見えた。

 誰を。

 何を。

 

 雁夜には分からなかった。

 セイバーをか。

 自分の終わりをか。

 それとも、もっと別の何かをか。

 

「……悪い、な」

 その言葉が、誰に向けたものだったのか、雁夜自身にも分からなかった。

 桜にか。

 葵にか。

 凛にか。

 バーサーカーにか。

 あるいは、自分自身にか。

 

 雁夜は、もう一度だけ遠くを見ようとした。

 遠坂邸の方角など、ここから見えるはずもない。

 だが、そちらに桜がいる。

 今は、そこにいる。

 それだけでよかった。

 

 よくはない、よいはずがない。

 それでも、それだけは本当だった。

 

「あいつは……」

 雁夜は、最後に時臣のことを考えた。

 

 ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけ、見直した。

 

 だが、それを口に出せば、あの男はきっと言うのだろう。

 雁夜。あなたの評価には、感情が混じりすぎている。

 あるいは。

 今のあなたに、私を信用する理由はありません。

 

 雁夜は、もう声にならない息で笑った。

「……最後まで、むかつく……」

 川の音が近くなる。

 橋の上を車が通った。

 その振動が、泥と水と、壊れかけた身体へ伝わる。

 

 バーサーカーの鎧が、かすかに軋んだ。

 雁夜は、もうその音を聞いていなかった。

 

 蟲のざわめきも、痛みも、怒りも、少しずつ遠くなっていく。

 最後に残ったのは、桜が間桐の中にいないという感覚だけだった。

 

 それは救いではなかった。

 救済ではなかった。

 雁夜の人生を肯定するものでもなかった。

 

 ただ、ひとつだけ。

 桜は、あの暗い家から出た。

 雁夜は、それを抱えたまま息を吐いた。

 次の息は、来なかった。

 

 橋の下で、間桐雁夜はこと切れた。

 

 黒い騎士は、しばらく動かなかった。

 拘束具の光が、少しずつ薄れていく。

 狂化の奥に何があったのかは、誰にも分からない。

 

 ただ、その姿は、まだ何かを待っているようにも見えた。

 

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