優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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13.家族との対話

 時臣は、眠るつもりなどなかった。

 桜の周囲に封具を置き、宝石を並べ、遠坂の結界を幾重にも重ねた。

 そのうえで、ギルガメッシュが貸し与えた香炉と鏡、細い環と楔を配置した。

 

 治療ではない。

 停止、遮断、記録、保全。

 その四つを、時臣は何度も自分の中で確認した。

 除去してはならない。

 

 蟲を焼けば、桜の回路ごと損なう恐れがある。

 外部術式を強引に切れば、神経や魔力流路に反動が出る可能性がある。

 桜の身体は、すでに桜だけのものとして扱えないほど、間桐の術式を食い込まされていた。

 

 その事実を確認するたび、時臣は表情を消した。

 怒るには遅すぎる。

 悔いるには早すぎる。

 

 それでも、今できることをしなければならない。

 

 桜は工房の中央に横たえられていた。

 眠っているようにも見える。

 だが、時臣にはそれが眠りなのかどうか分からなかった。

 呼吸はある。脈もある。魔力の流れも、か細いながら安定している。

 

 しかし、その目蓋の下にあるものが、安らかな睡眠なのか、術式による抑制なのか、疲弊した肉体が意識を落としているだけなのか、判別できない。

 寝ているのか。寝ていないのか。

 それすら曖昧だった。

 

 ただ、ひとつだけ分かることがある。

 臓硯の干渉は、今は届いていない。

 

 工房の壁際に置いた透明の宝石は、夜のうちに何度も黒く濁った。

 そのたびに、ギルガメッシュの封具が先に反応した。香炉から薄い煙が流れ、鏡が光を返し、楔が微かに鳴った。

 

 黒い反応は、工房の外へ弾かれた。

 途中から、反応は来なくなった。

 

 臓硯が諦めたのではない。

 届かないことを理解しただけだ。

 

 時臣はそう判断した。

 そこで、少しだけ意識が落ちた。

 椅子に座ったまま、書きかけの記録に手を置き、ほんの数十分ほど眠ってしまったのだろう。

 

 目を開けた時、窓のない工房の空気がわずかに変わっていた。

 夜が終わっている。

 遠坂邸の朝が始まっていた。

 

「眠っておったか、時臣」

 声がした。

 ギルガメッシュは、工房の入口近くに立っていた。

 霊体ではない。だが、桜には見えないようにしているのか、気配だけが薄い。

 

「申し訳ありません」

「我に謝ることではない」

 王はつまらなそうに言った。

「父親というものは、娘を連れ帰った夜にも眠れるらしい」

「眠るつもりはありませんでした」

「であろうな。だから面白い」

 

 時臣は返事をしなかった。

 机の上には、夜のうちにまとめた記録が積まれている。

 桜の魔術回路反応。外部術式の位置。追跡反応。抑制術式。遠隔命令の痕跡。蟲の活動反応。

 遠坂の簡易診断では解析しきれないものも多い。だが、記録として残すことはできた。

 

 そして、もう一枚。

 間桐家に対する正式な契約履行確認要求書。

 桜を遠坂で一時保全する理由。

 確認不能状態で提示された事実。

 確認妨害と思われる蟲の干渉。

 遠隔干渉手段の存在が疑われること。

 第三者立ち会いによる再協議の必要性。

 

 時臣は、それらを封筒へ収めた。

「証文か」

「必要です」

「娘より先にか」

 時臣の指が止まる。

「娘を守るためにです」

 

 ギルガメッシュは、愉快そうに笑った。

「そう言えるうちは、まだよい」

 時臣は立ち上がった。

 

 桜のそばへ行く。

「桜」

 返事はない。

 

 時臣は膝をつき、額へ触れようとして、また手を止めた。

 触れていい状態ではない。

 父としてではなく、術者としてそう判断する。

 それが自分でも嫌になる。

 

 時臣は、桜の周囲の宝石を確認した。

 安定している。少なくとも、今すぐ臓硯に引き戻されることはない。

 外部からの命令も遮断されている。

 体内の蟲も、完全に止まっているとは言えないが、活動は鈍い。

 

「しばらく、このままです」

「家族に会わせぬか」

「まだ触れさせることはできません」

「ならば、どう言う」

 

 時臣は答えなかった。

 どう言えばいいのか、まだ分からなかった。

 

 桜を連れ帰った。

 だが、帰ってきたとは言えない。

 

 桜は間桐の子であり、遠坂が一時保全している。

 そう言うしかない。

 しかし葵に、それが通じるはずもない。

 

「行け、時臣」

 ギルガメッシュが言った。

「今度は戦場ではない。だが、貴様にとっては先ほどより難しかろう」

「……承知しております」

「見物してやる」

「姿は」

「見せぬ。安心せよ。家族の朝食に王が同席しては、話が散る」

 

 時臣は少しだけ、奇妙なものを見る目でギルガメッシュを見た。

「何だ」

「いえ。王がそこまでお気遣いなさるとは」

「勘違いするな。場を壊さぬだけだ」

 ギルガメッシュは笑った。

「貴様がどう裁かれるかを見るのに、我が前へ出ては邪魔であろう」

 時臣は一礼し、工房を出た。

 

 朝の遠坂邸は静かだった。

 だが、いつもの静けさではない。

 使用人たちは気配を殺している。葵も、おそらく眠っていない。

 本来なら、葵と凛は冬木から遠ざけておくべきだった。

 聖杯戦争に臨む遠坂当主としては、それが正しい。

 だが、桜を遠坂邸へ運び込んだ時点で、時臣はその正しさだけを選べなくなった。母と姉に知らせぬまま、桜を工房の奥へ隠すことは、もはや保護ではなく逃避だった。

 

 居間へ向かうと、葵はすでにそこにいた。

 白い顔をしていた。夜を越えた顔だった。

 時臣が何かを言う前に、葵が口を開いた。

 

「桜が、いるのですね」

 時臣は答えを遅らせなかった。

「はい」

 葵の指が震えた。

「会わせてください」

「今はできません」

 その言葉は、思った以上に冷たく響いた。

 

 葵の顔がこわばる。

「どうしてですか」

「桜の身体には、間桐の術式が残っています。蟲による干渉も確認しました。外部からの命令、追跡、再接続の痕跡もあります。今、不用意に触れれば、桜を傷つける可能性があります」

「傷つける……」

 葵の声が、かすれた。

「もう、傷ついているのではありませんか」

 

 時臣は、何も言えなかった。

 その沈黙が答えになった。

 葵は椅子の背に手を置いた。立っていられなくなりそうだったのだろう、だが、崩れなかった。

 

「あなたは」

 葵は、ゆっくりと言った。

「あの子を守るために、間桐へ出したのではなかったのですか」

「そのつもりでした」

 時臣は答えた。

 

 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

「そのつもりでした。ですが、確認を怠りました」

 

 葵は目を閉じた。

 怒りだけではない。悲しみでもない。

 その二つが混じり、さらに深いものになっている。

 

「怠った、で済むのですか」

「済みません」

「では、どうして」

 葵の声が震えた。

 

「どうして、あの子を」

 

 時臣は、答えられなかった。

 

 理屈はある。

 遠坂で二人を守ることは難しかった。

 桜の資質を活かすには、魔術の家へ出す必要があった。

 間桐は御三家であり、契約上は適切な先であった。

 どれも嘘ではない。

 だが今、そのどれもが葵に出すべき言葉ではなかった。

 

「お母様」

 声がした。

 時臣は振り返った。

 凛が立っていた。寝間着の上に羽織をかけただけの姿だった。

 髪も整っていない。おそらく、最初から聞いていたのだろう。

 

「凛。部屋に戻りなさい」

「戻りません」

 凛は、まっすぐ時臣を見た。

「桜が帰ってきたんでしょう」

「帰ってきたのではない。今は遠坂で一時的に預かっている」

「桜は私の妹です」

 凛は即座に言った。

 

 時臣の言葉を、切るように。

「一時的とか、預かっているとか、そういうのは分かりません。でも、桜は私の妹です」

 

 時臣は凛を見た。

 まだ幼い。だが、その目は逃げていなかった。

 

「会わせてください」

「まだ駄目だ」

「どうして」

「触れれば危険だからだ」

「私が桜を傷つけるのですか」

「違う」

 時臣の声が、わずかに強くなった。

 

「お前ではない。桜の中に残されたものが、反応する恐れがある。桜を助けたいなら、今は触れてはいけない。泣いて近づいてもいけない。命令を守りなさい」

 凛は唇を噛んだ。

 泣きそうだった。

 けれど、泣かなかった。

 

「分かりました」

 時臣は少しだけ目を伏せた。

 

 凛は続けた。

「でも、お父様」

「何だ」

「逃げないでください」

 

 葵が凛を見た。

 時臣も、言葉を失った。

 

「桜を間桐に出したのは、お父様です」

 凛の声は震えていた。

 それでも、止まらなかった。

「でも、桜を連れて帰ってきたのも、お父様です」

 

 葵の顔が歪んだ。

「凛」

「お母様もです」

 

 凛は葵へ向き直った。

「お父様を嫌いにならないでください」

 葵は息を呑んだ。

「怒るのは分かります。私も、分からないことばかりです。でも、今ここでお母様がお父様を見捨てたら、桜はどこに帰ればいいのですか」

 

 時臣は、娘を見ていた。

 優秀な後継者を見る目ではなかった。

 ただ、父として娘を見る目でもなかった。

 その両方を越えた何かが、そこにあった。

 

「桜は帰ってきたんです。まだ会えなくても、まだ触れなくても、帰ってきたんです。だったら、私たちがばらばらになったら駄目です」

 凛は両手を握りしめた。

「お父様が間違えたなら、お父様が直してください。お母様が悲しいなら、私も一緒にいます。桜に触っちゃいけないなら、触りません。でも、私は桜のお姉ちゃんです」

 凛は、時臣を見た。

「だから、私にもできることをください」

 

 部屋に沈黙が落ちた。

 葵は、口元を押さえていた。

 涙は落ちていない。だが、もう限界に近かった。

 

 時臣は、深く息を吐いた。

「凛」

「はい」

「見るだけなら、許します」

 

 凛の目が揺れた。

「ただし、触れてはいけない。結界の内側へ入ってもいけない。私が命じた位置から動くな」

「はい」

「桜を助けたいなら、まず命令を守ることから始めなさい」

「はい」

 凛は頷いた。

 その声は、まだ震えていたが、折れてはいなかった。

 

 葵が小さく言った。

「私も、見てもいいのですか」

 時臣は一瞬、迷った。

 

 葵に見せるべきではない。

 そう判断する自分がいる。

 だが、見せなければ、この家はもっと歪む。

 

「見るだけです」

 時臣は言った。

「近づくことはできません」

 葵は目を閉じ、頷いた。

 

 その時、時臣の耳にだけ声が届いた。

「よいぞ、時臣」

 ギルガメッシュだった。

 姿は見えない。

 

「貴様の娘は、貴様を裁きながら、貴様を見捨てぬらしい」

 時臣は返事をしなかった。

 返事をすれば、葵と凛に不審がられる。

 それ以上に、今の言葉に返せるものがなかった。

 

 

「見ているか、我よ」

 王は、どこか遠くへ向けるように笑った。

「こちらの時臣は、実に面白いものを見せておるぞ」

 

 時臣は、何も聞こえなかったふりをして歩き出した。

 葵と凛が後に続く。

 離れの工房へ向かう廊下に、朝の光が差していた。

 

 夜は明けた。

 だが、何かが終わったわけではない。

 むしろ、ここから始まるのだと、時臣は理解していた。

 

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