時臣は、眠るつもりなどなかった。
桜の周囲に封具を置き、宝石を並べ、遠坂の結界を幾重にも重ねた。
そのうえで、ギルガメッシュが貸し与えた香炉と鏡、細い環と楔を配置した。
治療ではない。
停止、遮断、記録、保全。
その四つを、時臣は何度も自分の中で確認した。
除去してはならない。
蟲を焼けば、桜の回路ごと損なう恐れがある。
外部術式を強引に切れば、神経や魔力流路に反動が出る可能性がある。
桜の身体は、すでに桜だけのものとして扱えないほど、間桐の術式を食い込まされていた。
その事実を確認するたび、時臣は表情を消した。
怒るには遅すぎる。
悔いるには早すぎる。
それでも、今できることをしなければならない。
桜は工房の中央に横たえられていた。
眠っているようにも見える。
だが、時臣にはそれが眠りなのかどうか分からなかった。
呼吸はある。脈もある。魔力の流れも、か細いながら安定している。
しかし、その目蓋の下にあるものが、安らかな睡眠なのか、術式による抑制なのか、疲弊した肉体が意識を落としているだけなのか、判別できない。
寝ているのか。寝ていないのか。
それすら曖昧だった。
ただ、ひとつだけ分かることがある。
臓硯の干渉は、今は届いていない。
工房の壁際に置いた透明の宝石は、夜のうちに何度も黒く濁った。
そのたびに、ギルガメッシュの封具が先に反応した。香炉から薄い煙が流れ、鏡が光を返し、楔が微かに鳴った。
黒い反応は、工房の外へ弾かれた。
途中から、反応は来なくなった。
臓硯が諦めたのではない。
届かないことを理解しただけだ。
時臣はそう判断した。
そこで、少しだけ意識が落ちた。
椅子に座ったまま、書きかけの記録に手を置き、ほんの数十分ほど眠ってしまったのだろう。
目を開けた時、窓のない工房の空気がわずかに変わっていた。
夜が終わっている。
遠坂邸の朝が始まっていた。
「眠っておったか、時臣」
声がした。
ギルガメッシュは、工房の入口近くに立っていた。
霊体ではない。だが、桜には見えないようにしているのか、気配だけが薄い。
「申し訳ありません」
「我に謝ることではない」
王はつまらなそうに言った。
「父親というものは、娘を連れ帰った夜にも眠れるらしい」
「眠るつもりはありませんでした」
「であろうな。だから面白い」
時臣は返事をしなかった。
机の上には、夜のうちにまとめた記録が積まれている。
桜の魔術回路反応。外部術式の位置。追跡反応。抑制術式。遠隔命令の痕跡。蟲の活動反応。
遠坂の簡易診断では解析しきれないものも多い。だが、記録として残すことはできた。
そして、もう一枚。
間桐家に対する正式な契約履行確認要求書。
桜を遠坂で一時保全する理由。
確認不能状態で提示された事実。
確認妨害と思われる蟲の干渉。
遠隔干渉手段の存在が疑われること。
第三者立ち会いによる再協議の必要性。
時臣は、それらを封筒へ収めた。
「証文か」
「必要です」
「娘より先にか」
時臣の指が止まる。
「娘を守るためにです」
ギルガメッシュは、愉快そうに笑った。
「そう言えるうちは、まだよい」
時臣は立ち上がった。
桜のそばへ行く。
「桜」
返事はない。
時臣は膝をつき、額へ触れようとして、また手を止めた。
触れていい状態ではない。
父としてではなく、術者としてそう判断する。
それが自分でも嫌になる。
時臣は、桜の周囲の宝石を確認した。
安定している。少なくとも、今すぐ臓硯に引き戻されることはない。
外部からの命令も遮断されている。
体内の蟲も、完全に止まっているとは言えないが、活動は鈍い。
「しばらく、このままです」
「家族に会わせぬか」
「まだ触れさせることはできません」
「ならば、どう言う」
時臣は答えなかった。
どう言えばいいのか、まだ分からなかった。
桜を連れ帰った。
だが、帰ってきたとは言えない。
桜は間桐の子であり、遠坂が一時保全している。
そう言うしかない。
しかし葵に、それが通じるはずもない。
「行け、時臣」
ギルガメッシュが言った。
「今度は戦場ではない。だが、貴様にとっては先ほどより難しかろう」
「……承知しております」
「見物してやる」
「姿は」
「見せぬ。安心せよ。家族の朝食に王が同席しては、話が散る」
時臣は少しだけ、奇妙なものを見る目でギルガメッシュを見た。
「何だ」
「いえ。王がそこまでお気遣いなさるとは」
「勘違いするな。場を壊さぬだけだ」
ギルガメッシュは笑った。
「貴様がどう裁かれるかを見るのに、我が前へ出ては邪魔であろう」
時臣は一礼し、工房を出た。
朝の遠坂邸は静かだった。
だが、いつもの静けさではない。
使用人たちは気配を殺している。葵も、おそらく眠っていない。
本来なら、葵と凛は冬木から遠ざけておくべきだった。
聖杯戦争に臨む遠坂当主としては、それが正しい。
だが、桜を遠坂邸へ運び込んだ時点で、時臣はその正しさだけを選べなくなった。母と姉に知らせぬまま、桜を工房の奥へ隠すことは、もはや保護ではなく逃避だった。
居間へ向かうと、葵はすでにそこにいた。
白い顔をしていた。夜を越えた顔だった。
時臣が何かを言う前に、葵が口を開いた。
「桜が、いるのですね」
時臣は答えを遅らせなかった。
「はい」
葵の指が震えた。
「会わせてください」
「今はできません」
その言葉は、思った以上に冷たく響いた。
葵の顔がこわばる。
「どうしてですか」
「桜の身体には、間桐の術式が残っています。蟲による干渉も確認しました。外部からの命令、追跡、再接続の痕跡もあります。今、不用意に触れれば、桜を傷つける可能性があります」
「傷つける……」
葵の声が、かすれた。
「もう、傷ついているのではありませんか」
時臣は、何も言えなかった。
その沈黙が答えになった。
葵は椅子の背に手を置いた。立っていられなくなりそうだったのだろう、だが、崩れなかった。
「あなたは」
葵は、ゆっくりと言った。
「あの子を守るために、間桐へ出したのではなかったのですか」
「そのつもりでした」
時臣は答えた。
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「そのつもりでした。ですが、確認を怠りました」
葵は目を閉じた。
怒りだけではない。悲しみでもない。
その二つが混じり、さらに深いものになっている。
「怠った、で済むのですか」
「済みません」
「では、どうして」
葵の声が震えた。
「どうして、あの子を」
時臣は、答えられなかった。
理屈はある。
遠坂で二人を守ることは難しかった。
桜の資質を活かすには、魔術の家へ出す必要があった。
間桐は御三家であり、契約上は適切な先であった。
どれも嘘ではない。
だが今、そのどれもが葵に出すべき言葉ではなかった。
「お母様」
声がした。
時臣は振り返った。
凛が立っていた。寝間着の上に羽織をかけただけの姿だった。
髪も整っていない。おそらく、最初から聞いていたのだろう。
「凛。部屋に戻りなさい」
「戻りません」
凛は、まっすぐ時臣を見た。
「桜が帰ってきたんでしょう」
「帰ってきたのではない。今は遠坂で一時的に預かっている」
「桜は私の妹です」
凛は即座に言った。
時臣の言葉を、切るように。
「一時的とか、預かっているとか、そういうのは分かりません。でも、桜は私の妹です」
時臣は凛を見た。
まだ幼い。だが、その目は逃げていなかった。
「会わせてください」
「まだ駄目だ」
「どうして」
「触れれば危険だからだ」
「私が桜を傷つけるのですか」
「違う」
時臣の声が、わずかに強くなった。
「お前ではない。桜の中に残されたものが、反応する恐れがある。桜を助けたいなら、今は触れてはいけない。泣いて近づいてもいけない。命令を守りなさい」
凛は唇を噛んだ。
泣きそうだった。
けれど、泣かなかった。
「分かりました」
時臣は少しだけ目を伏せた。
凛は続けた。
「でも、お父様」
「何だ」
「逃げないでください」
葵が凛を見た。
時臣も、言葉を失った。
「桜を間桐に出したのは、お父様です」
凛の声は震えていた。
それでも、止まらなかった。
「でも、桜を連れて帰ってきたのも、お父様です」
葵の顔が歪んだ。
「凛」
「お母様もです」
凛は葵へ向き直った。
「お父様を嫌いにならないでください」
葵は息を呑んだ。
「怒るのは分かります。私も、分からないことばかりです。でも、今ここでお母様がお父様を見捨てたら、桜はどこに帰ればいいのですか」
時臣は、娘を見ていた。
優秀な後継者を見る目ではなかった。
ただ、父として娘を見る目でもなかった。
その両方を越えた何かが、そこにあった。
「桜は帰ってきたんです。まだ会えなくても、まだ触れなくても、帰ってきたんです。だったら、私たちがばらばらになったら駄目です」
凛は両手を握りしめた。
「お父様が間違えたなら、お父様が直してください。お母様が悲しいなら、私も一緒にいます。桜に触っちゃいけないなら、触りません。でも、私は桜のお姉ちゃんです」
凛は、時臣を見た。
「だから、私にもできることをください」
部屋に沈黙が落ちた。
葵は、口元を押さえていた。
涙は落ちていない。だが、もう限界に近かった。
時臣は、深く息を吐いた。
「凛」
「はい」
「見るだけなら、許します」
凛の目が揺れた。
「ただし、触れてはいけない。結界の内側へ入ってもいけない。私が命じた位置から動くな」
「はい」
「桜を助けたいなら、まず命令を守ることから始めなさい」
「はい」
凛は頷いた。
その声は、まだ震えていたが、折れてはいなかった。
葵が小さく言った。
「私も、見てもいいのですか」
時臣は一瞬、迷った。
葵に見せるべきではない。
そう判断する自分がいる。
だが、見せなければ、この家はもっと歪む。
「見るだけです」
時臣は言った。
「近づくことはできません」
葵は目を閉じ、頷いた。
その時、時臣の耳にだけ声が届いた。
「よいぞ、時臣」
ギルガメッシュだった。
姿は見えない。
「貴様の娘は、貴様を裁きながら、貴様を見捨てぬらしい」
時臣は返事をしなかった。
返事をすれば、葵と凛に不審がられる。
それ以上に、今の言葉に返せるものがなかった。
「見ているか、我よ」
王は、どこか遠くへ向けるように笑った。
「こちらの時臣は、実に面白いものを見せておるぞ」
時臣は、何も聞こえなかったふりをして歩き出した。
葵と凛が後に続く。
離れの工房へ向かう廊下に、朝の光が差していた。
夜は明けた。
だが、何かが終わったわけではない。
むしろ、ここから始まるのだと、時臣は理解していた。