離れの工房の前で、時臣は足を止めた。
「ここから先は、私の指示に従いなさい」
葵は何も言わなかった。凛は小さく頷いた。
「結界の内側へ入ってはいけない。桜に触れてもいけない。名を呼ぶことは構わないが、大きな声を出さない」
「……はい」
凛は答えた。
葵は答えなかった。
時臣は扉に手をかける。一瞬だけ、指が止まった。
この扉を開けば、葵は見る。凛も見る。自分が見たものを、この家の者たちも見ることになる。だが、見せなければならない。
時臣は扉を開けた。
工房の中には、薄い香が漂っていた。
ギルガメッシュが貸した香炉から出ているものだった。白に近い煙が、床の低いところをゆっくり流れている。
中央には、桜がいた。寝台ではなく、低い台の上に横たえられている。
その周囲に宝石が置かれ、細い環と楔が四方を囲んでいた。透明な膜のような結界が、桜の身体を包んでいる。
桜は眠っているように見えるが、眠りと呼ぶにはあまりにも静かだった。
「桜……?」
凛の声が、細く震えた。
「髪……どうして……」
葵は桜の顔を見た。
痩せた頬を見た。
伏せられた目を見た。
そして、かつてとは違う色に変わった髪を見て、息を止めた。
「……桜」
それ以上の言葉は、出なかった。
それだけで、桜の目蓋がかすかに動いた。
時臣が表情を固くする。
「大きな声は」
言いかけて、止めた。
葵はもう聞いていなかった。
一歩、前へ出る。
「桜」
「お母様」
凛が葵の袖を掴んだ。
葵は止まらなかった。もう一歩、前へ出る。
結界の境目まで、あと少し。
「お母様、駄目!」
凛が、今度は両手で葵の腕を掴んだ。
葵は振り返った。
凛は泣いていた。声は強かった。
けれど、涙はもう頬を伝っていた。
「駄目です。お父様が駄目だって言いました」
「凛、でも」
「駄目です!」
凛は首を振った。
「桜を助けたいなら、触っちゃ駄目なんです。近づいちゃ駄目なんです。私だって、行きたいです。私だって、桜の手を握りたいです。でも、駄目なんです」
葵は、凛を見た。
その小さな手が、自分の腕を必死に掴んでいる。
強い子だと思った。
こんな朝に。
妹を目の前にして。
泣きながら、それでも命令を守ろうとしている。
葵は、ようやく凛が泣いていることに気づいたような顔をした。
「凛……」
「お母様が行ったら、私も行きたくなります」
凛は声を震わせた。
「だから、行かないでください。私も、我慢しますから」
葵の顔が崩れた。
彼女は桜へ向かっていた足を止めた。
そして、その場に膝をついた。
桜には触れられない。
だから、葵は凛を抱きしめた。
凛は一瞬だけ抵抗した。
まだ自分が母を止めなければならないと思っていたのだろう。
それでも、葵の腕が背中に回ると、凛の身体から力が抜けた。
「お母様……」
「ごめんなさい、凛」
葵は、凛の髪に顔を埋めた。
「ごめんなさい」
「私じゃ、ないです」
凛は泣きながら言った。
「桜に、言ってください」
「ええ」
葵は目を閉じた。
「ええ。言うわ。必ず」
工房の中央で、桜の目が少しだけ開いた。
焦点は合っていない。
眠っているのか、起きているのか、それすら曖昧だったが、唇が動いた。
「……お母、様」
葵の肩が跳ねた。
凛も顔を上げる。
時臣は一歩前に出かけたが、踏みとどまった。
桜は、薄く目を開けたまま、かすかな声で続けた。
「……姉、様」
凛は、口元を押さえた。
声を出さないためだった。
葵は凛を抱きしめたまま、桜へ向かって言った。
「桜。ここにいるわ」
凛も、涙を拭わずに言った。
「私もいる。桜、私もいるから」
桜の目が、ほんの少しだけ揺れた。
それが返事だったのか、ただの反応だったのかは分からない。
だが、凛はそれを返事として受け取った。
「桜」
時臣が静かに言った。
「今は眠りなさい。ここには、誰も入れません」
桜の目蓋がゆっくり落ちた。
香炉の煙が、静かに流れる。
反応はない。黒い濁りも、外からの干渉もない。
少なくとも今だけは、臓硯の手は届いていなかった。
時臣は、そのことに安堵しかけた。
だが、安堵してよい場面ではないとすぐに思い直した。
葵は凛を抱いたまま、時臣を見た。
責める目ではなかった。許す目でもなかった。
ただ、問う目だった。
これからどうするのか。
この子たちをどう守るのか。
あなたは、今度こそ逃げないのか。
時臣はその視線を受け止めた。
「桜の処置は、私一人では足りない」
葵の腕の中で、凛が顔を上げた。
「では、どうするのですか」
「調べる。間桐の術式を。桜に残された干渉を。外部からの接続を切る方法を」
「私にも、できますか」
時臣は凛を見た。
「今すぐには無理だ」
凛は唇を噛んだ。
「ですが、学べばできるようになりますか」
「……容易ではない」
「それでも、学びます」
凛は、葵の腕の中から時臣を見た。
「桜に触れるようになるために、学びます」
時臣は、すぐには答えられなかった。
その時、耳元にだけ声が届いた。
「よいな」
ギルガメッシュだった。
「泣きながら命令を守り、なお望みを捨てぬ。時臣、貴様の娘はやはり面白い」
時臣は返事をしなかった。
ただ、凛に向かって静かに頷いた。
「ならば、学びなさい。ただし、焦るな」
凛は涙をこぼしたまま、はっきりと頷いた。
「はい」
葵は、もう一度凛を抱きしめた。
桜にはまだ触れられない。
今ここで抱きしめられる子がいる。
葵はその小さな背中を抱きながら、工房の中央で眠る桜を見つめていた。
朝の光は、まだそこまでは届いていなかった。
だが、夜は確かに終わっていた。