優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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14.凛の強さ

 離れの工房の前で、時臣は足を止めた。

「ここから先は、私の指示に従いなさい」

 葵は何も言わなかった。凛は小さく頷いた。

「結界の内側へ入ってはいけない。桜に触れてもいけない。名を呼ぶことは構わないが、大きな声を出さない」

「……はい」

 凛は答えた。

 葵は答えなかった。

 

 時臣は扉に手をかける。一瞬だけ、指が止まった。

 この扉を開けば、葵は見る。凛も見る。自分が見たものを、この家の者たちも見ることになる。だが、見せなければならない。

 

 時臣は扉を開けた。

 工房の中には、薄い香が漂っていた。

 ギルガメッシュが貸した香炉から出ているものだった。白に近い煙が、床の低いところをゆっくり流れている。

 

 中央には、桜がいた。寝台ではなく、低い台の上に横たえられている。

 その周囲に宝石が置かれ、細い環と楔が四方を囲んでいた。透明な膜のような結界が、桜の身体を包んでいる。

 桜は眠っているように見えるが、眠りと呼ぶにはあまりにも静かだった。

「桜……?」

 凛の声が、細く震えた。

「髪……どうして……」

 

 葵は桜の顔を見た。

 痩せた頬を見た。

 伏せられた目を見た。

 そして、かつてとは違う色に変わった髪を見て、息を止めた。

 

「……桜」

 それ以上の言葉は、出なかった。

 それだけで、桜の目蓋がかすかに動いた。

 

 時臣が表情を固くする。

「大きな声は」

 言いかけて、止めた。

 

 葵はもう聞いていなかった。

 一歩、前へ出る。

「桜」

「お母様」

 凛が葵の袖を掴んだ。

 

 葵は止まらなかった。もう一歩、前へ出る。

 結界の境目まで、あと少し。

 

「お母様、駄目!」

 凛が、今度は両手で葵の腕を掴んだ。

 葵は振り返った。

 凛は泣いていた。声は強かった。

 けれど、涙はもう頬を伝っていた。

 

「駄目です。お父様が駄目だって言いました」

「凛、でも」

「駄目です!」

 凛は首を振った。

「桜を助けたいなら、触っちゃ駄目なんです。近づいちゃ駄目なんです。私だって、行きたいです。私だって、桜の手を握りたいです。でも、駄目なんです」

 

 葵は、凛を見た。

 その小さな手が、自分の腕を必死に掴んでいる。

 強い子だと思った。

 こんな朝に。

 妹を目の前にして。

 泣きながら、それでも命令を守ろうとしている。

 

 葵は、ようやく凛が泣いていることに気づいたような顔をした。

「凛……」

「お母様が行ったら、私も行きたくなります」

 凛は声を震わせた。

「だから、行かないでください。私も、我慢しますから」

 

 葵の顔が崩れた。

 彼女は桜へ向かっていた足を止めた。

 そして、その場に膝をついた。

 桜には触れられない。

 

 だから、葵は凛を抱きしめた。

 凛は一瞬だけ抵抗した。

 まだ自分が母を止めなければならないと思っていたのだろう。

 それでも、葵の腕が背中に回ると、凛の身体から力が抜けた。

 

「お母様……」

「ごめんなさい、凛」

 葵は、凛の髪に顔を埋めた。

「ごめんなさい」

「私じゃ、ないです」

 凛は泣きながら言った。

「桜に、言ってください」

「ええ」

 葵は目を閉じた。

「ええ。言うわ。必ず」

 

 工房の中央で、桜の目が少しだけ開いた。

 焦点は合っていない。

 眠っているのか、起きているのか、それすら曖昧だったが、唇が動いた。

「……お母、様」

 葵の肩が跳ねた。

 凛も顔を上げる。

 時臣は一歩前に出かけたが、踏みとどまった。

 

 桜は、薄く目を開けたまま、かすかな声で続けた。

「……姉、様」

 凛は、口元を押さえた。

 声を出さないためだった。

 

 葵は凛を抱きしめたまま、桜へ向かって言った。

「桜。ここにいるわ」

 凛も、涙を拭わずに言った。

「私もいる。桜、私もいるから」

 桜の目が、ほんの少しだけ揺れた。

 それが返事だったのか、ただの反応だったのかは分からない。

 だが、凛はそれを返事として受け取った。

 

「桜」

 時臣が静かに言った。

「今は眠りなさい。ここには、誰も入れません」

 

 桜の目蓋がゆっくり落ちた。

 香炉の煙が、静かに流れる。

 反応はない。黒い濁りも、外からの干渉もない。

 少なくとも今だけは、臓硯の手は届いていなかった。

 

 時臣は、そのことに安堵しかけた。

 だが、安堵してよい場面ではないとすぐに思い直した。

 葵は凛を抱いたまま、時臣を見た。

 

 責める目ではなかった。許す目でもなかった。

 ただ、問う目だった。

 これからどうするのか。

 この子たちをどう守るのか。

 あなたは、今度こそ逃げないのか。

 

 時臣はその視線を受け止めた。

「桜の処置は、私一人では足りない」

 葵の腕の中で、凛が顔を上げた。

「では、どうするのですか」

「調べる。間桐の術式を。桜に残された干渉を。外部からの接続を切る方法を」

「私にも、できますか」

 

 時臣は凛を見た。

「今すぐには無理だ」

 凛は唇を噛んだ。

「ですが、学べばできるようになりますか」

「……容易ではない」

「それでも、学びます」

 凛は、葵の腕の中から時臣を見た。

「桜に触れるようになるために、学びます」

 

 時臣は、すぐには答えられなかった。

 その時、耳元にだけ声が届いた。

「よいな」

 ギルガメッシュだった。

「泣きながら命令を守り、なお望みを捨てぬ。時臣、貴様の娘はやはり面白い」

 

 時臣は返事をしなかった。

 ただ、凛に向かって静かに頷いた。

「ならば、学びなさい。ただし、焦るな」

 凛は涙をこぼしたまま、はっきりと頷いた。

「はい」

 

 葵は、もう一度凛を抱きしめた。

 桜にはまだ触れられない。

 今ここで抱きしめられる子がいる。

 葵はその小さな背中を抱きながら、工房の中央で眠る桜を見つめていた。

 朝の光は、まだそこまでは届いていなかった。

 

 だが、夜は確かに終わっていた。

 

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