朝食は、いつも通りに整えられていた。
白いクロス、銀のカトラリー、薄く焼かれたトースト、半熟の卵、温められた皿、そして香りのよい紅茶。
遠坂家の朝は、そうあるべきだった。
夜通し何があったとしても、食卓は乱れない。
当主が疲れていようと、妻が泣き腫らした目をしていようと、娘が妹の名を胸の奥で握りしめていようと、遠坂の家は朝を迎える。
時臣は、いつもと同じ席に座っていた。
葵も座っている。
凛も座っている。
桜はいない。
離れの工房で眠っている。
いや、眠っていると言ってよいのか、時臣にはまだ分からない。少なくとも、呼吸は安定している。臓硯の遠隔干渉は届いていない。ギルガメッシュの封具と遠坂の結界は機能している。
それを確認してから、時臣は食卓に着いた。
凛は、ほとんど食べていなかった。
「凛」
時臣が声をかけると、凛は顔を上げた。
「食べなさい」
「……はい」
凛は小さく頷き、パンを一口かじった。
無理をしているのは明らかだった。
葵も、紅茶にほとんど手をつけていない。
それでも、カップを持つ手だけは乱れなかった。
時臣は、自分の皿を静かに片づけた。
味は分からなかった。
だが、食事を抜くわけにはいかない。
今日、自分はまだ動かなければならない。
桜を守る。凛を守る。葵に説明する。臓硯への正式文書を整える。監督役不在の扱いを確認する。大聖杯の異常について判断する。
そして、衛宮切嗣。
アインツベルンの魔術師殺し。
その名を思い浮かべた時、時臣はナイフを置いた。
小さな音がした。
葵が顔を上げる。
「あなた」
「少し、書斎に籠もる」
「桜は大丈夫ですか」
「安定している。異常があれば、すぐに分かる」
葵は何か言いかけ、言葉を飲み込んだ。
凛が言った。
「お父様」
「何だ」
「私も、あとで桜のところへ行ってもいいですか」
「私が許可した時だけだ」
「はい」
「触れてはいけない」
「分かっています」
凛は、すぐに答えた。
その強さに、時臣は一瞬だけ言葉を失った。
葵は、そんな凛を見ていた。
驚きと、痛ましさと、母としての誇りが混じった目だった。
時臣は席を立った。
「食事は、きちんと取りなさい。凛」
「お父様もです」
凛は、まっすぐに言った。
時臣は少しだけ目を細めた。
「……そうだな」
そう答えて、食堂を出た。
扉が閉まる。
その瞬間、食卓の優雅さは背後に置き去りになった。
書斎に入ると、時臣はすぐに鍵をかけた。
卓の上には、すでに昨夜の記録が置かれている。桜の術式反応。間桐側への履行確認要求書。大聖杯に関する覚書。
時臣は、それらを脇へ寄せた。
代わりに広げたのは、冬木市の地図だった。
道路図、橋の位置、高低差、廃工場、倉庫街、教会へ向かう道。
遠坂邸から外へ出る場合の経路。
アインツベルン側が使いそうな車両動線。
さらに、下水道の簡略図を重ねた。
時臣は赤い宝石を一つ置いた。
「狙撃に適した位置」
青い宝石を置く。
「退路」
黒い小石を置く。
「爆薬を仕掛けやすい場所」
言葉に出してから、時臣は少しだけ眉を動かした。
優雅ではない。
少なくとも、昨日までの自分なら、こういう整理の仕方はしなかった。
敵の工房を読む。魔術系統を読む。サーヴァントの能力を読む。
それならば、遠坂時臣の美学の範囲にある。
だが今、卓の上には銃火器の射線、爆薬の設置位置、車両による離脱経路、魔術反応を持たない罠の可能性まで並んでいる。
魔術師同士の戦いではない。
殺し屋との戦いだ。
「優雅ではないと思うが」
声がした。
ギルガメッシュは、いつの間にか窓際の椅子に座っていた。
腕を組んでいる。
だが、その指だけが肘の上でゆっくり動いていた。
時臣は地図から目を離さなかった。
「負ければ、それこそ優雅ではありません」
ギルガメッシュの指が止まった。
一拍。
そして、王は笑った。
「そうだ」
低く、満足げな声だった。
「その通りだ、時臣」
時臣は赤い宝石を動かした。
「衛宮切嗣は、魔術師として私に勝とうとする者ではありません」
「であろうな」
「魔術師である私を殺すために、魔術の外側から来る者です。銃、火薬、狙撃、誘導、退路封鎖。会談の形を取ったとしても、相手が会談として扱う保証はない」
「臆病になったか」
「必要な警戒です」
「よい答えだ」
ギルガメッシュは愉快そうだった。
「以前の貴様ならば、あの殺し屋を外道と呼び、そこで思考を止めたであろう」
「今も外道だとは思っています」
「ならば」
「外道であるなら、外道としてどう動くかを考える必要があります」
ギルガメッシュは声を上げて笑った。
「よいぞ。実によい。ようやく貴様は、名ではなく中身を見るようになった」
時臣の手が止まった。
名。
中身。
それは桜にも、臓硯にも、大聖杯にも刺さる言葉だった。
時臣は目を伏せた。
「見ていなかったものが多すぎました」
「そうだな」
ギルガメッシュは、珍しく否定しなかった。
「だが、見た後にどう立つかで、器の価値は決まる」
時臣は返事をしなかった。
代わりに、地図の端へ透明な宝石を置く。
「魔術反応を持たない罠への警戒が必要です。魔力探知だけでは不十分でしょう」
「ふむ」
「金属、火薬、導線、反射光、見通し、足跡、車両痕。使い魔ではなく、通常の偵察も必要です」
「遠坂時臣が、下水道と火薬を地図に並べるか」
「必要であれば」
「優雅ではないな」
「はい」
時臣は、静かに言った。
「ですが、桜を連れ帰った以上、私は負けるわけにはいきません」
ギルガメッシュの笑みが深くなった。
「ほう。根源ではなく、娘の名が先に出るか」
時臣は答えなかった。
以前なら、訂正したかもしれない。
遠坂の責務。聖杯戦争の勝利。根源への到達。そういう言葉を並べたかもしれない。
だが今、最初に出たのは桜だった。
それを否定しなかった。
「王よ」
「何だ」
「私は、この戦争を通常の聖杯戦争として扱うことをやめます」
「遅いくらいだ」
「監督役は機能していない。言峰綺礼は死亡。間桐は契約を履行する意思を失っている。大聖杯には異常がある。そしてアインツベルンは衛宮切嗣を使っている」
時臣は、地図の中央へ指を置いた。
「ならば、これはもはや儀式ではありません。壊れた儀式の中で、それぞれが自分の目的だけを通そうとしている状態です」
「貴様もな」
「はい」
時臣は認めた。
「私もです」
ギルガメッシュは楽しげに目を細めた。
「よい。自分を例外にせぬ者は、少しは見どころがある」
「衛宮切嗣とは接触します。ただし、信用はしません」
「殺されるぞ」
「殺されないように備えます」
「優雅ではない」
「承知しています」
時臣は、宝石を一つ手に取った。赤い石だった。
「ですが、負けて死に、妻と娘たちを残し、桜を再び間桐へ奪われ、大聖杯の異常を放置する方が、よほど優雅ではありません」
ギルガメッシュは、しばらく時臣を見ていた。
それから、満足そうに笑った。
「時臣」
「はい」
「その言葉を、昨日の貴様に聞かせてやりたいものだ」
「昨日の私なら、不快に思ったでしょうな」
「今は?」
「今も不快です」
時臣は、地図の上へ赤い石を置いた。
「ですが、必要です」
ギルガメッシュは、また笑った。
「それでよい」
書斎の外では、朝の遠坂邸が静かに動いている。
食堂には、葵と凛がいる。
離れの工房には、桜がいる。
遠くでは、臓硯が次の手を考えている。
アインツベルンの魔術師殺しは、おそらくこちらを殺す準備を進めている。
そして、大聖杯はまだ沈黙している。
時臣は地図を見下ろした。
そこにあるのは、優雅な戦場ではなかった。
狙撃線、退路、罠、火薬、外部礼装、囮、会談場所。
遠坂時臣がこれまで美しいと考えてきた戦いとは、まるで違う。
それでも、時臣はその地図から目を逸らさなかった。
ギルガメッシュは、腕を組んだまま、指だけをゆっくり動かしている。
その顔は、昨夜から変わらず上機嫌だった。
「さて、時臣」
王が言った。
「次は、正義の味方ごっこをしている殺し屋の中身を見に行くか」
時臣は静かに頷いた。
「はい。ですが、まずは殺されない準備からです」
ギルガメッシュは、心底愉快そうに笑った。