優雅ではない戦い、優雅な結末   作:折無堂

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15.戦略の練り直し

 朝食は、いつも通りに整えられていた。

 白いクロス、銀のカトラリー、薄く焼かれたトースト、半熟の卵、温められた皿、そして香りのよい紅茶。

 遠坂家の朝は、そうあるべきだった。

 夜通し何があったとしても、食卓は乱れない。

 

 当主が疲れていようと、妻が泣き腫らした目をしていようと、娘が妹の名を胸の奥で握りしめていようと、遠坂の家は朝を迎える。

 時臣は、いつもと同じ席に座っていた。

 葵も座っている。

 凛も座っている。

 桜はいない。

 

 離れの工房で眠っている。

 いや、眠っていると言ってよいのか、時臣にはまだ分からない。少なくとも、呼吸は安定している。臓硯の遠隔干渉は届いていない。ギルガメッシュの封具と遠坂の結界は機能している。

 

 それを確認してから、時臣は食卓に着いた。

 凛は、ほとんど食べていなかった。

「凛」

 時臣が声をかけると、凛は顔を上げた。

「食べなさい」

「……はい」

 凛は小さく頷き、パンを一口かじった。

 無理をしているのは明らかだった。

 

 葵も、紅茶にほとんど手をつけていない。

 それでも、カップを持つ手だけは乱れなかった。

 

 時臣は、自分の皿を静かに片づけた。

 味は分からなかった。

 だが、食事を抜くわけにはいかない。

 

 今日、自分はまだ動かなければならない。

 桜を守る。凛を守る。葵に説明する。臓硯への正式文書を整える。監督役不在の扱いを確認する。大聖杯の異常について判断する。

 そして、衛宮切嗣。

 アインツベルンの魔術師殺し。

 

 その名を思い浮かべた時、時臣はナイフを置いた。

 小さな音がした。

 

 葵が顔を上げる。

「あなた」

「少し、書斎に籠もる」

「桜は大丈夫ですか」

「安定している。異常があれば、すぐに分かる」

 葵は何か言いかけ、言葉を飲み込んだ。

 

 凛が言った。

「お父様」

「何だ」

「私も、あとで桜のところへ行ってもいいですか」

「私が許可した時だけだ」

「はい」

「触れてはいけない」

「分かっています」

 凛は、すぐに答えた。

 

 その強さに、時臣は一瞬だけ言葉を失った。

 葵は、そんな凛を見ていた。

 驚きと、痛ましさと、母としての誇りが混じった目だった。

 

 時臣は席を立った。

「食事は、きちんと取りなさい。凛」

「お父様もです」

 凛は、まっすぐに言った。

 

 時臣は少しだけ目を細めた。

「……そうだな」

 そう答えて、食堂を出た。

 

 扉が閉まる。

 その瞬間、食卓の優雅さは背後に置き去りになった。

 書斎に入ると、時臣はすぐに鍵をかけた。

 

 卓の上には、すでに昨夜の記録が置かれている。桜の術式反応。間桐側への履行確認要求書。大聖杯に関する覚書。

 時臣は、それらを脇へ寄せた。

 代わりに広げたのは、冬木市の地図だった。

 道路図、橋の位置、高低差、廃工場、倉庫街、教会へ向かう道。

 遠坂邸から外へ出る場合の経路。

 アインツベルン側が使いそうな車両動線。

 さらに、下水道の簡略図を重ねた。

 

 時臣は赤い宝石を一つ置いた。

「狙撃に適した位置」

 青い宝石を置く。

「退路」

 黒い小石を置く。

「爆薬を仕掛けやすい場所」

 言葉に出してから、時臣は少しだけ眉を動かした。

 

 優雅ではない。

 

 少なくとも、昨日までの自分なら、こういう整理の仕方はしなかった。

 敵の工房を読む。魔術系統を読む。サーヴァントの能力を読む。

 それならば、遠坂時臣の美学の範囲にある。

 

 だが今、卓の上には銃火器の射線、爆薬の設置位置、車両による離脱経路、魔術反応を持たない罠の可能性まで並んでいる。

 魔術師同士の戦いではない。

 殺し屋との戦いだ。

 

「優雅ではないと思うが」

 声がした。

 ギルガメッシュは、いつの間にか窓際の椅子に座っていた。

 腕を組んでいる。

 だが、その指だけが肘の上でゆっくり動いていた。

 時臣は地図から目を離さなかった。

 

「負ければ、それこそ優雅ではありません」

 

 ギルガメッシュの指が止まった。

 一拍。

 そして、王は笑った。

「そうだ」

 低く、満足げな声だった。

「その通りだ、時臣」

 

 時臣は赤い宝石を動かした。

「衛宮切嗣は、魔術師として私に勝とうとする者ではありません」

「であろうな」

「魔術師である私を殺すために、魔術の外側から来る者です。銃、火薬、狙撃、誘導、退路封鎖。会談の形を取ったとしても、相手が会談として扱う保証はない」

「臆病になったか」

「必要な警戒です」

「よい答えだ」

 ギルガメッシュは愉快そうだった。

 

「以前の貴様ならば、あの殺し屋を外道と呼び、そこで思考を止めたであろう」

「今も外道だとは思っています」

「ならば」

「外道であるなら、外道としてどう動くかを考える必要があります」

 

 ギルガメッシュは声を上げて笑った。

「よいぞ。実によい。ようやく貴様は、名ではなく中身を見るようになった」

 時臣の手が止まった。

 名。

 中身。

 それは桜にも、臓硯にも、大聖杯にも刺さる言葉だった。

 

 時臣は目を伏せた。

「見ていなかったものが多すぎました」

「そうだな」

 ギルガメッシュは、珍しく否定しなかった。

「だが、見た後にどう立つかで、器の価値は決まる」

 

 時臣は返事をしなかった。

 代わりに、地図の端へ透明な宝石を置く。

「魔術反応を持たない罠への警戒が必要です。魔力探知だけでは不十分でしょう」

「ふむ」

「金属、火薬、導線、反射光、見通し、足跡、車両痕。使い魔ではなく、通常の偵察も必要です」

「遠坂時臣が、下水道と火薬を地図に並べるか」

「必要であれば」

「優雅ではないな」

「はい」

 時臣は、静かに言った。

 

「ですが、桜を連れ帰った以上、私は負けるわけにはいきません」

 ギルガメッシュの笑みが深くなった。

「ほう。根源ではなく、娘の名が先に出るか」

 

 時臣は答えなかった。

 以前なら、訂正したかもしれない。

 遠坂の責務。聖杯戦争の勝利。根源への到達。そういう言葉を並べたかもしれない。

 

 だが今、最初に出たのは桜だった。

 それを否定しなかった。

「王よ」

「何だ」

「私は、この戦争を通常の聖杯戦争として扱うことをやめます」

「遅いくらいだ」

「監督役は機能していない。言峰綺礼は死亡。間桐は契約を履行する意思を失っている。大聖杯には異常がある。そしてアインツベルンは衛宮切嗣を使っている」

 

 時臣は、地図の中央へ指を置いた。

「ならば、これはもはや儀式ではありません。壊れた儀式の中で、それぞれが自分の目的だけを通そうとしている状態です」

「貴様もな」

「はい」

 時臣は認めた。

「私もです」

 ギルガメッシュは楽しげに目を細めた。

 

「よい。自分を例外にせぬ者は、少しは見どころがある」

「衛宮切嗣とは接触します。ただし、信用はしません」

「殺されるぞ」

「殺されないように備えます」

「優雅ではない」

「承知しています」

 

 時臣は、宝石を一つ手に取った。赤い石だった。

「ですが、負けて死に、妻と娘たちを残し、桜を再び間桐へ奪われ、大聖杯の異常を放置する方が、よほど優雅ではありません」

 ギルガメッシュは、しばらく時臣を見ていた。

 

 それから、満足そうに笑った。

「時臣」

「はい」

「その言葉を、昨日の貴様に聞かせてやりたいものだ」

「昨日の私なら、不快に思ったでしょうな」

「今は?」

「今も不快です」

 

 時臣は、地図の上へ赤い石を置いた。

「ですが、必要です」

 ギルガメッシュは、また笑った。

「それでよい」

 

 書斎の外では、朝の遠坂邸が静かに動いている。

 食堂には、葵と凛がいる。

 離れの工房には、桜がいる。

 遠くでは、臓硯が次の手を考えている。

 アインツベルンの魔術師殺しは、おそらくこちらを殺す準備を進めている。

 そして、大聖杯はまだ沈黙している。

 

 時臣は地図を見下ろした。

 そこにあるのは、優雅な戦場ではなかった。

 狙撃線、退路、罠、火薬、外部礼装、囮、会談場所。

 遠坂時臣がこれまで美しいと考えてきた戦いとは、まるで違う。

 それでも、時臣はその地図から目を逸らさなかった。

 

 ギルガメッシュは、腕を組んだまま、指だけをゆっくり動かしている。

 その顔は、昨夜から変わらず上機嫌だった。

「さて、時臣」

 王が言った。

「次は、正義の味方ごっこをしている殺し屋の中身を見に行くか」

 

 時臣は静かに頷いた。

「はい。ですが、まずは殺されない準備からです」

 ギルガメッシュは、心底愉快そうに笑った。

 

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