封筒は、舞弥が見つけた。
アインツベルン側の仮拠点から二つ離れた監視地点。切嗣が前日に確認したばかりの場所だった。狙撃には向かない。逃走経路にも使いにくい。だが、周辺の動きを拾うには都合がいい。
そこに、封筒が置かれていた。
白い封筒。
封蝋なし。魔術刻印なし。
宛名だけが、端正な筆跡で書かれている。
衛宮切嗣殿。
舞弥はそれを素手では触らなかった。
薄い手袋越しに封筒を持ち上げ、光に透かし、匂いを確かめ、重さを測る。爆薬の気配はない。毒物の粉末もない。魔術的な反応も、少なくとも表面にはない。
だからこそ、気味が悪かった。
切嗣は、ホテルの一室でそれを受け取った。
窓のカーテンは閉じられている。
テーブルの上には銃、分解された部品、予備弾倉、地図、そして吸いかけの煙草が置かれていた。
「罠でしょうか」
アイリスフィールではなく、舞弥が尋ねた。
切嗣は封筒を見たまま答えた。
「罠だよ」
迷いのない声だった。
それでも、彼は封を切った。
中には、紙が二枚が入っていた。
魔術師らしい飾りも、遠回しな礼辞もない。
遠坂時臣の名に似合わないほど、文面は短かった。
衛宮切嗣殿
言峰綺礼は死亡した。
監督役は機能していない。
間桐臓硯は、契約履行能力を失っている。
大聖杯は、願望器として異常を示している。
あなたが聖杯に求めるものは、あなたの想定する形では実行されない可能性が高い。
話をする必要がある。
指定時刻、指定地点にて待つ。
罠を疑うことは理解する。
私もあなたを信用しない。
それでも、確認の価値はあるはずだ。
遠坂時臣
切嗣は、最後まで読んだ。
もう一度、最初から読んだ。
言峰綺礼は死亡した。そこに目が止まる。
綺礼が死んだ。
安堵はなかった。
あの男が自分へ向けていたものの正体を、切嗣は最後まで掴めていない。目的も、願いも、行動原理も分からない。それでも、綺礼がこちらへ近づいていることだけは分かっていた。
その綺礼が死に、遠坂時臣が生きている。
切嗣の想定では、逆であっても不思議ではなかった。
「……誰が殺した」
舞弥が紙面を見る。
「遠坂時臣ではないのですか」
「分からない」
切嗣は即答した。
「でも、これが事実なら、僕は一つの読みを完全に外した」
「脅威が一つ消えた、と考えることは」
「できない」
切嗣は紙から目を離さなかった。
「観測できていた脅威が、原因も分からないまま消えたんだ。その原因が残っている」
「綺礼が死亡したのなら、あなたへの直接的な脅威は減ります」
「そのはずだ」
「そうは見えません」
「死んだ理由が分からないからね」
遠坂時臣が綺礼が死亡したと、そう書いている。
普通なら、信じない。
敵方の情報だ。しかも、綺礼は時臣の弟子であり、監督役の息子でもある。死亡したという情報を流すことで、こちらの動きを誘導することはいくらでもできる。
だが、文面が奇妙だった。
勝利宣言ではない。威嚇でもない。
取引の提案としても、あまりに乾いている。
「遠坂時臣が、これを?」
舞弥が紙面を見た。
「筆跡は本人のものと見ていいと思います。封筒にも追跡はありません。紙にも、インクにも、魔術的な細工は確認できませんでした」
「ないことが細工だ」
切嗣は紙をテーブルに置いた。
「遠坂時臣が、魔術的な封印もなしに、ただの紙で手紙を寄越す。僕がそれを罠と見ることを、向こうは分かっている」
「会いますか」
「会う」
舞弥は驚かなかった。
切嗣なら、そう答えると分かっていたからだ。
「理由は」
「無視できない言葉がある」
切嗣は紙の一文を指で押さえた。
あなたが聖杯に求めるものは、あなたの想定する形では実行されない可能性が高い。
舞弥はそこを見た。
「聖杯の機能について、遠坂が何かを掴んだと?」
「あるいは、そう思わせたい」
「罠ですね」
「罠だ」
切嗣は煙草を手に取った。火は点けなかった。
「でも、遠坂時臣が僕の願いの実行形式に触れてきた。これはただの挑発じゃない」
「遠坂は、あなたの願いを知っているのでしょうか」
「具体的には知らないはずだ」
切嗣は短く答えた。
「でも、聖杯を求める者が何かを願うことは分かっている。問題は、遠坂時臣が“願い”ではなく“実行される形”と言っていることだ」
舞弥は黙った。
切嗣は紙を見つめる。
遠坂時臣、名門の当主、正統な魔術師。
優雅という言葉を好む男。
聖杯戦争を儀式として扱い、自分のような外道の戦い方を軽蔑するはずの男。
その男が、信用しろとは書いていない。
私もあなたを信用しない。
切嗣は、その一文を見ていた。
「変わったな」
「遠坂が、ですか」
「ああ」
切嗣は、ようやく煙草に火を点けた。
「僕が遠坂時臣について持っていた情報と、この文面は少しずれている」
「桜の件でしょうか」
舞弥が言った。
切嗣は目を上げた。
「間桐臓硯は、契約履行能力を失っている」
舞弥は文面の一文を読む。
「これは何を意味しているのでしょう」
「遠坂と間桐の間で、何かが起きた」
「間桐桜」
「おそらく」
切嗣は煙を吐いた。
「遠坂時臣が間桐に対して“契約履行能力”なんて言葉を使うなら、魔術的な養子契約か、継承に関する問題だ。つまり、あの子だ」
「それが大聖杯の異常とつながると?」
「分からない」
切嗣は即答した。
「だが、遠坂時臣が言峰綺礼の死亡、監督役の機能不全、間桐臓硯、大聖杯の異常を一枚の紙に並べた。それは、全部が同じ戦場にあると判断したということだ」
「会談場所は」
舞弥が別紙を開く。
そこには、時刻と場所だけが書かれていた。
港湾部に近い廃倉庫。
周囲に高い建物はいくつかある。狙撃位置も取れる。爆薬も仕掛けられる。退路もある。
つまり、会談には向かない。
「向こうも分かっている」
切嗣は地図を広げた。
「ここは、僕が罠を張れる場所だ。同時に、遠坂も準備できる場所だ」
「誘い込まれていると?」
「違う」
切嗣は地図に指を置いた。
「遠坂は、こちらに罠を張らせるつもりだ」
舞弥の目がわずかに細くなった。
「なぜ」
「僕が罠を張ることまで読んで、その上で話をするつもりなんだ。あるいは、僕の戦い方を確認したいのかもしれない」
「危険です」
「もちろん危険だ」
切嗣は地図の端へ視線を動かした。
「だから行く」
舞弥は頷いた。
「配置は」
「君は先行。倉庫の北側二階、窓のない区画を確認してくれ。狙撃位置として使えるなら使う。使えないなら、退路確保に回る」
「セイバーは」
「動かさない」
舞弥は一瞬だけ、切嗣を見た。
「アーチャーが出た場合は」
「その時点で、僕の勝ち筋は消える」
切嗣は淡々と言った。
「だから、セイバーを出さない。こちらがサーヴァントを出せば、向こうもアーチャーを出す。そうなれば、これはマスター同士の接触ではなくなる」
「アイリスフィール様の護衛は」
「セイバーに任せる。アイリには、僕が遠坂と接触することだけ伝える。詳細は言わない」
「セイバーが反発する可能性があります」
「だから詳細は言わない」
その声に、迷いはなかった。
切嗣にとってセイバーは強力な駒だ。
だが、自分の手足ではない。
正面からの名乗り。騎士としての問い。相手に戦う理由を求める態度。
そのどれもが、切嗣の戦い方とは噛み合わない。
遠坂時臣と話すなら、切嗣は銃を持って行く。
爆薬を想定する。退路を作る。
そして、必要なら殺す。
セイバーは、その場にいない方がいい。
「初手はどうしますか」
舞弥が尋ねた。
「撃つ」
切嗣は即答した。
「会談では」
「遠坂は、僕が撃つことを想定している。なら、撃たない方が不自然だ」
「殺害を優先しますか」
「可能なら」
切嗣は少し間を置いた。
「ただし、遠坂が本当に大聖杯について情報を持っているなら、殺す前に引き出す必要がある」
「矛盾しています」
「だから難しい」
切嗣は煙草を灰皿に押しつけた。
「まず殺せる形で撃つ。殺せなかったら、遠坂が何を用意しているかを見る。情報が本物なら、話を聞く。嘘なら殺す」
「遠坂が本気で話をするつもりだった場合は」
「それでも撃つ」
舞弥は、当然のように頷いた。
切嗣は地図を見ていた。
遠坂時臣は、こちらが罠を疑うことを理解している。
自分も切嗣を信用しないと書いている。
それは、奇妙な誠実さだった。
信用を求めない。
だからこそ、信用をまったく排除した場所で接触できる。
切嗣は、その一点だけは評価した。
「舞弥」
「はい」
「これは、ただの交渉じゃない」
「分かっています」
「遠坂時臣は、僕を魔術師としてではなく、魔術師を殺す者として見始めている」
舞弥は黙って聞いていた。
「なら、こちらも見直す必要がある。遠坂は、もう典型的な魔術師としては動かないかもしれない」
「それでも、殺せます」
「そうだね」
切嗣は銃を組み立て始めた。
金属音が、静かな部屋に響く。
「でも、殺す前に確かめることができた」
「何をですか」
「聖杯が、本当に願いを叶えるものなのか」
その言葉だけ、少し低かった。
舞弥は何も言わなかった。
切嗣は銃に弾を込める。
遠坂時臣の手紙は、テーブルの上に置かれたままだった。
白い紙、端正な文字。
魔術的な細工のない、ただの手紙。
だからこそ、切嗣はそれを罠だと判断した。
そして、罠だと分かったうえで、そこへ向かうことにした。