アイリスフィールには、最低限だけを伝えた。
「本当なら、条件は満たされたことになるわ」
「そうだね」
「でも、あなたは少しも安心していない」
切嗣は答えなかった。
「綺礼が死んだことより、時臣が生きていることの方が気になるのね」
「正確には、その二つが同時に起きたことが気になる」
「私たちは、綺礼を排除することを条件にした」
「ああ」
「でも、その条件を遠坂自身が満たしたのだとしたら……私たちは、誰と何のために同盟するのかしら」
切嗣は結論だけを言う。
「遠坂時臣と接触する」
それだけで、アイリスフィールの表情は強張った。
「交渉?」
「確認だ」
切嗣はそう答えた。嘘ではない。交渉ではない。信用もない。
ただ、確認すべき情報がある。
「セイバーを連れていかないの?」
「彼女は君の護衛に残す」
「切嗣」
「アーチャーが出てくれば、セイバーを近くに置いても意味はない。むしろ、彼女が動けば向こうもアーチャーを出す。そうなれば、こちらの話ではなくなる」
アイリスフィールは、それ以上問い詰めなかった。
問い詰めても、切嗣が答えないことを知っていた。
セイバーは、部屋の入口でその会話を聞いていた。
「言峰綺礼が死亡したというのは、事実なのですか」
切嗣は手紙から目を上げなかった。
「まだ分からない」
「しかし、遠坂はそう記している」
「敵が送ってきた情報だ。それ以上の意味は、まだない」
セイバーは、しばらく切嗣を見ていた。
「貴方が、最も警戒していた相手だったはずです」
「そうだ」
「ならば、事実であれば脅威は一つ減ったことになる」
切嗣の手が止まった。
「僕が最も警戒していた男が、僕の知らない場所で死んだ」
低い声だった。
「それを安心できる材料だとは思わない」
「遠坂が討ったのではないのですか」
「その可能性はある」
切嗣は銃の弾倉を抜き、残弾を確かめた。
「だとすれば、僕は遠坂時臣を読み違えていた。そうでないなら、言峰綺礼を排除した何かが、まだ残っている」
どちらであっても、敵が一人減っただけでは済まない。
盤面そのものが、切嗣の知らないところで動いている。
「切嗣。遠坂と会うというのなら、私も同行すべきではありませんか」
切嗣はセイバーを見なかった。
「君はアイリを守れ」
「しかし」
「これはサーヴァント同士の戦いじゃない」
短い言葉だった。
セイバーの眉が動く。
「ならば、なおさら危険です。マスター同士が直接接触するなら」
「だから君を連れていかない」
切嗣は銃の弾倉を確認した。
「君が来れば、会談になる。僕が必要としているのは、会談じゃない」
「では、何なのです」
切嗣は答えなかった。
答えないまま、外套を取った。
セイバーはそれ以上言葉を重ねなかった。
その沈黙は納得ではなかった。切嗣は知っている。それでいい。納得される必要はない。
ただ、今だけは動かないでくれればいい。
廃倉庫には、潮の匂いが残っていた。
かつて荷が積まれていた床は黒く汚れ、鉄骨の一部は錆びている。天井は高く、窓は割れ、冬の朝の光が細く差し込んでいた。
会談には向かない場所だった。だが、だからこそ選んだ。
狙撃線がある。退路がある。遮蔽物がある。爆薬を仕掛ける余地がある。魔術師が結界を張る余地もある。つまり、双方が罠を張れる。
時臣は、倉庫の中央まで歩いた。足音が響く。外套の内側には、宝石を仕込んである。いつもの礼装ではない。魔術回路へ直接つなぐ防御ではなく、外部で受け、外部で壊れるためのものだった。
優雅ではない。だが、負けるよりはいい。
「衛宮切嗣」
時臣は、暗がりへ向けて言った。
「来ているのでしょう」
返答はなかった。
代わりに、銃声が響いた。
それは挨拶より早かった。
弾丸は、時臣の胸を正確に狙っていた。
時臣は動かなかった。
動けば、身体に魔力を通す。
身体に魔力を通せば、その瞬間を狙われる。
そう考えていた。
胸元の宝石が砕けた。
赤い光が一瞬だけ弾道を横へずらす。弾丸は時臣の身体に触れず、背後の鉄柱へ深く食い込んだ。
時臣は、割れた宝石の感触を外套越しに確認した。
防げた。その事実に、時臣自身がわずかに驚いていた。暗がりの向こうで、切嗣も同じだけ驚いていた。
「……外部礼装か」
声は低い。
姿は見えない。
「あなたが撃つことは、想定していた」
時臣は答えた。
「なら、なぜ来た」
「撃たせる必要があったからだ。あなたが本当に、会談を会談として扱う気がないことを確認するために」
次の銃声はなかった。
その沈黙が、切嗣の再評価だった。
時臣はそれを理解した。相手は外道だ。だが、愚かではない。
倉庫の右奥で、小さな爆発が起きた。鉄骨の根元に仕込まれていた火薬が、火花と煙を上げる。時臣の右側の退路が崩れ、錆びた鉄板が床に倒れ込んだ。
同時に、左上から銃声。舞弥だった。
時臣は顔を向けない。
事前に置いていた青い宝石が床の上で割れ、空気を斜めに歪ませた。舞弥の弾丸は、時臣の肩を狙っていたはずだったが、薄い膜を擦るようにして逸れ、倉庫の壁へ突き刺さる。
時臣は息を吐いた。魔力反応はない。だが、気配はある。
金属の擦れる音。火薬の匂い。風の流れの乱れ。割れた窓から入る光の反射。
今までの自分なら、見落としていたかもしれない。
魔術師ではない戦い方。
それを、見る。
再び爆発。
今度は時臣の背後。
退路を塞ぐのではない。前へ出させる爆発だった。
切嗣は時臣を追い込んでいる。
外部礼装を使わせる。宝石を割らせる。
自分の身体から切り離した防御を一つずつ削らせる。
最後に、大きな魔術を使わせるために。
時臣は理解した。
衛宮切嗣は、魔術を恐れていない。
魔術師が魔術を使う瞬間を待っている。
暗がりを走る影があった。
切嗣だ。
姿を見せたのは一瞬だけ。
だが、その一瞬で十分だった。
時臣は赤い宝石を床へ落とした。
炎が走る。人を焼くための炎ではない。退路を切る炎。切嗣の進路と、舞弥の射線を分断するための壁だった。
切嗣は止まらない。
炎が上がる直前、床に仕込まれていた小さな爆薬が連鎖し、炎の流れを乱した。切嗣はその歪みを抜ける。
時臣は眉を動かした。
この男は、時臣の魔術を受けてから対応しているのではない。
時臣がどういう位置に火を置くかを先に読んで、火薬を置いていた。
その瞬間、時臣の背後でまた銃声。
舞弥の牽制。狙いは急所ではない。時臣に防御を強いるための弾。
時臣は、外部礼装をもう一つ割った。
宝石の数が減っていく。切嗣は、それを数えているはずだった。時臣も、切嗣の弾を数えていた。
互いに、相手の本命を待っている。
「よいぞ、時臣」
耳元にだけ、ギルガメッシュの声が届いた。
「ようやく魔術師らしからぬ戦場を見ている」
時臣は返事をしなかった。
今、相手にするべきは王ではない。
暗がりから迫る、魔術師殺しだった。
時臣は左手の宝石を握る。
賭けだった。切嗣が何を持っているかは知らない。
だが、ここまでの動きで分かったことがある。
衛宮切嗣は、魔術師の魔術行使を誘っている。
ならば、誘わせる。
ただし、本体では受けない。
時臣は魔力を流した。
倉庫の床に置いた複数の宝石が同時に光る。炎の壁が立ち上がり、切嗣の左右を塞ぐ。正面には透明の防御膜。背後には退路を読むための探知術式。
切嗣から見れば、時臣が大きな魔術防御を展開したように見えるはずだった。
実際には違う。
魔力の流れは、時臣の身体を通っていない。
外套の内側に仕込んだ補助回路を経由し、宝石群を仮の回路として立てている。昨夜、桜を隔離した時に使った切り離しの応用だった。
切嗣が動いた。
それまでとは違う銃声。
時臣には、弾丸の名は分からない。
だが、来る、と分かった。
弾丸が防御膜に触れた。
次の瞬間、術式が裂けた。
防御膜が破られたのではない。
構造そのものを、内側から裁断されたように崩れた。
宝石が砕ける。
一つ。
二つ。
三つ。
外套の内側に仕込んだ補助回路が焦げ、左腕に痺れが走る。
魔術回路へ冷たい刃を当てられたような感覚。
だが、そこで止まった。
時臣は踏みとどまる。
左腕は重い。
補助礼装の一部は死んだ。
手元の宝石も失われたが、本体の魔術回路は生きている。
切り離しは、間に合った。
切嗣は銃口を向けたまま、表情を変えなかった。
だが、時臣には分かった。
驚いている。
この弾丸は、本来なら魔術師を壊すものだったのだろう。
魔術を通した防御に触れ、術者自身へ破壊を返すもの。
時臣は、その理屈を完全には理解していないが、それで十分だった。
「今のが、君の本命か」
時臣は言った。
切嗣は答えない。
「名称は知らない。理屈も、今は分かりようもない。だが、魔術師が魔術を使った瞬間を壊すための弾であることは分かった」
倉庫の奥で、舞弥が動いた。
切嗣を撤退させるための動きだった。
時臣は右手の宝石を弾く。
炎ではない。
赤い光が細い線になって走り、切嗣の退路を斜めに切った。殺すためではない。動きを止めるための一撃。だが、まともに受ければ腕か脚は使えなくなる。
切嗣は避けようとした。
間に合わない。
その直前、舞弥が飛び出した。
「舞弥!」
切嗣の声が、初めて荒れた。
舞弥は切嗣の前に身体を入れ、赤い光を肩から脇腹にかけて受けた。
肉を焼く匂いがした。
舞弥は倒れなかった。
倒れまいとした。
だが膝が落ちる。
切嗣が彼女を支えた。
時臣は追撃しなかった。
追撃できた。
今なら、切嗣は舞弥を抱え、動きが止まっている。
炎を置けば焼ける。宝石を放てば貫ける。
時臣は動かなかった。
切嗣が顔を上げる。
銃口はまだ時臣へ向いている。
しかし、その手はわずかに遅れていた。
「撃たないのか」
切嗣が言った。
「あなたが彼女を庇わせるつもりで動いたわけではない、と判断した」
「甘いな」
「かもしれない」
時臣は静かに答えた。
「ですが、今の一撃で十分でしょう」
「何が」
「あなたが、約束を守る人間かどうかだ」
切嗣の目が細くなる。
「僕はまだ何も約束していない」
「ええ。だから、ここからです」
時臣は左腕の痺れを押さえた。
「衛宮切嗣。あなたは私を殺そうとした。罠も張った。部下も使った。会談の形式を守る気もなかった」
「その通りだ」
「ですが、話を聞くと言った後に、その場で裏切る類の人間ではない」
切嗣は答えなかった。
「昨夜、契約を語りながら、その裏で蟲を這わせる者を見た」
時臣の声は、わずかに低くなった。
「あなたは違う。あなたは最初から撃った。罠を隠していたとしても、敵であることは隠していない」
ギルガメッシュの声が、時臣の耳にだけ届く。
「ほう。老蟲よりは信用できると見るか」
時臣は、虚空を見なかった。
「分かっています」
切嗣には、それが誰への返答か分からない。
時臣は続けた。
「あの方と、衛宮切嗣は違います」
舞弥の呼吸が荒い。
傷は深いが、すぐに死ぬほどではない。
切嗣はそのことも確認していた。
押し切るか。退くか。話を聞くか。
起源弾は本命だった。
それを完全には通せなかった。
舞弥は負傷した。
アーチャーはまだ姿を見せていない。
そして遠坂時臣は、大聖杯について何かを知っている。
切嗣は、銃口を下げなかった。
だが、撃たなかった。
「話せ」
短い言葉だった。
「聞くだけだ」
「十分です」
時臣は、姿勢を正した。
かつての自分なら、まず御三家の目的から語っただろう。
聖杯の由来を示し、その管理権が誰にあるのかを説き、外様の者が知らずに手を伸ばす危険を、礼節に包んで伝えたはずだ。
必要ならば、誰かの口を借りてさえ。
そのような言葉は、もう要らなかった。
言葉を尽くさなくても分かると思い、妻とは話さなかった。
契約という形を信じ、間桐の実態を見なかった。
師として、忠実に振る舞う弟子を信じ、その内側を問わなかった。
衛宮切嗣にまで、同じ過ちを繰り返す理由はない。
この男は、礼辞の奥に罠を探す。婉曲な警告には取引を疑い、前置きが長ければ、その間に隠された意図を読む。
ならば、結論だけを告げればよい。
優雅ではない。
それでも、誤解されるよりはいい。
「衛宮切嗣」
時臣は言った。
「聖杯は、あなたの願いを叶えない」
切嗣の表情が、わずかに変わった。
初めて、銃口ではなく、言葉の方へ意識が向いた。